立命館大学は現在、京都の衣笠のほか、草津や茨木にキャンパスがありますが、以前は河原町広小路の京都府立医科大学の西に「広小路キャンパス」というのがありました。私が高校の時に広小路キャンパスは閉鎖になり、現在は京都府立医科大学の看護学科などになっています。その場所には「立命館学園発祥の地」の石碑があります。
石碑の説明には
1900年、中川小十郎により創立され東三本木丸太町上る旧清輝楼の仮校舎で授業を開始した京都法政学校は、翌年12月30日、この地の新校舎に移転し、1905年には維新当時の西園寺公望の家塾であった立命館の名称を受け継いだ。同年には付属清和普通学校も開設され、翌年に立命館中学校と改称し、1922年に北大路新町に移転するまでこの地にあった。
立命館は爾来この場所で校地を約七千坪に拡張し、校舎は延一万二千坪余におよんだ。1981年3月に80年にわたる広小路学舎の歴史を閉じるまで、十万余の有志の若人がここに学び、真理と理想を追求した。
この地にあって、激動する世界と日本の20世紀とともに、立命館はその栄光と苦難の道を歩んだ。特に第二次大戦に際し、かつてこの学舎に学んだ多くの同窓が戦場におもむき、再び帰らなかったことは、痛恨にたえないところである。
戦後、立命館は平和と民主主義の教学理念をかがげて大いなる飛躍をとげ、広く世界の学術研究機関と結んで、地球と日本の現代的課題にこたえる教育と研究を推進しつつある。
今日の立命館の営為は、20世紀初頭以来この地で展開された幾多先人の業績の上に成りたっている。
わが学園発祥の地を記念する所以である。
説明の中に、東三本木丸太町上るの京都法政学校というのがありますが、この場所に「立命館草創の地」という石碑があります。場所は、河原町丸太町から2筋東の道を北へ行くと左右に道が分かれるのですが、右側の道路を北へ行くとあります。
石碑の説明には
立命館大学の前身京都法政学校は、1900年(明治33年)5月19日中川小十郎によってこの地に創立された。
ここにあった当時の有名な旗亭清輝楼を仮校舎として、6月5日から夜間授業を開始し、翌年の移
転以後は約80年間にわたっていわゆる広小路学舎(現府立医大の西構内)が中心になったが、鴨川畔東三本木のこの場所はまさに立命館草創の地といってよい。
中川小十郎は、「世界の中の一員」としての日本を常に意識していた近代日本の代表的政治家西園寺公望の最初の文部大臣在任中、特命による唯一の大学書記官として京都帝国大学(現京都大学)創立に尽瘁の傍ら、京都の地でのもうひとつの「自由と清新」の学府づくりをめざしたのであった。
京都法政学校はその後、西園寺がすでに1869年に御所の邸内に開いた家塾“立命館”の名称を
継承して、立命館大学(旧制)へと発展した。「平和と民主主義」の教学理念を加えた戦後の立命館のさらに大きな展開については多言を要しない。
なお清輝楼は、明治維新の中心的な担い手のひとり桂小五郎(木戸孝允)と幾松(のちの木戸夫人)の逸話でよく知られる吉田屋のあとをうけ継いだものといわれ、その後の変遷を経て一九九七年まで大和屋旅館として存続した。
同じ場所には説明で取り上げられていた「吉田屋跡」の木製の立て看板がありました。
このあたりは幕末維新の史跡ともいえる料亭吉田屋があった所である。
江戸時代から明治時代初期にかけて、花街として知られた「三本木」の中にあって、幕末には桂小五郎(後の木戸孝允)をはじめとする討幕派の志士たちが密会した場所として知られている。
元治元年(1864)、禁門の変(蛤御門の変)で敗れた長州藩が、その後勢力を挽回しようとして様々な秘策をめぐらし、京都に潜伏した。
こうした中で身を潜めて世の動静を探っていた桂小五郎をはじめ長州藩の志士達が,吉田屋など三本木の料亭で密会を重ねたといわれる。新撰組など幕府方に襲撃された時には、長州藩邸(二条河原町付近)に近い方が、援軍を求めたり、逃げ込んだりするのに便利であったのであろう。また幾松(後の松子夫人)が芸妓時代を過ごしていたのもこの三本木であるという。
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