今日は西院春日神社で「淳和天皇祭」が行われていました。第53代の天皇である淳和(じゅんな)天皇が崩御されたのが旧暦の承和7年(840年)5月8日で今年は6月12日になります。
西院春日神社ですが、天長10年(833年)2月28日、淳和天皇が仁明天皇に譲位され、淳和院離宮に移られた際に、勅諚により奈良の春日四座大神である建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわいぬしのみこと) 、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、 比売神(ひめがみ) を勧請し、淳和院の守護神とされたのに始まります。淳和院は京都の西にあったので、別名「西院」と呼ばれています。
本殿の左側に淳和天皇が祀られている「西院宮」があります。
淳和院は現存しませんが、西院春日神社の境内に礎石が存在しています。また、西大路四条の北東角にある高山寺に「淳和院跡」という石碑がありますし、そこから西の上新電機の建物の壁に淳和院跡を説明したはめ込みパネルがあります。
ところで、先日日記に書きましたが、報恩寺に行った際に第111代後西天皇の第七皇女の賀陽宮の墓を見ましたが、「後西天皇」というのは知らなかったのですが、「後」ではない「西天皇」というのは存在しないではないかと思って調べたのですが、淳和天皇に関係があります。
淳和天皇は退位後、淳和院に移ったこともあって「西院帝」とも呼ばれていました。後西天皇は崩御後、自分の系統の天皇を後の世に残す事が出来なかったので、その境遇に近かった淳和天皇の西院帝から当初は「後西院」という追号でした。
当時は譲位、崩御された際には、基本的に「○○院」を追号され、そのように呼ばれていました。
実は「後○○天皇」の後の無い天皇が存在しない天皇は後西天皇以外にも存在します。例えば第89代天皇の後深草天皇は「深草天皇」という名の天皇は存在しません。第54代任明天皇は「深草帝」と呼ばれていましたが、陵が任明天皇の深草に近かったので「後深草院」と追号されました。
しかし、明治になって「○○天皇」と呼ぶことになり、例えば「後西院天皇」、「後深草院天皇」などと呼ばれるようになりました。
ところが、大正13年(1924年)に宮内省に設置された御歴代史実考査委員会によって「院」を外すこととなり、現在では「後西天皇」と呼ばれるようになりました。
しかし、例えば深草院の院の取って「深草」であれば意味がありますが、「西院」は京都の西にある淳和院の別名ですから院を取って「西」では意味が無くなるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
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