一昨日の日記の続き
先週の金曜日、福山から広島に移動しました。広島へ行くのは10年ぶりです。10年前は、大阪の社会保険労務士の勉強会のサポーターをしていた関係で、広島の勉強会にゲスト参加しました。その際2泊して、今は無き広島市民球場での黒田の完投勝利や勉強会の次の日は厳島神社にいったりしました。
広島と言うと原爆ドームや広島城だと思うのですが、まだ行ったことはありません。これらも一度行ってみたいのですが、それよりも行ってみたかったのは広島駅前にある縮景園でした。
小学校の時、夏休みの読書感想文で入選したことがあったのですが、その時の課題図書が「はしれ!おく目号」でした。そこで「縮景園」が出て来ました。
内容を記憶の範囲で書くと、子供たちが縮景園の周りで電車ごっこをして遊んでいると、猿猴川(えんこうがわ)にいる河童に縄の電車を盗まれてしまいます。河童を捕まえて事情を聴くと、猿猴川が汚れてきたので、1年に数日しか行くことの出来ない水平線の向こうの国に葦の枝にまたがって行くことになったのですが、その河童は遊んでいて行くことが出来ず、来年まで待たなければなりませんでした。ところが、次の年は葦が生えなくなっていて行けなくなってしまったので電車を盗んでしまったとのことでした。それで、子供たちは河童を連れて水平線の向こうの国へ行くのですが、そこでは海賊プラゴが河童を苦しめていました。そこで子供たちはプラゴをやっつけて河童のお母さんに会わせるという童話でした。
読んだ時は小学校4年生でしたので、単なる冒険童話としか読めなかったのですが、その後考えてみると完全な環境に関する童話で、海賊の「プラゴ」もプラゴミの意味です。小学校6年生の時も入選したのですが、その時の本が「白い川の白い町」という愛知県の瀬戸にある瀬戸川が白い川になっているという話で、瀬戸は陶器の町だから陶器工場が白い川の原因ではないかと調べてみるとそうではなくて、セメントなどに使う珪砂が原因であったという話で、これも環境関連であり、私がその後環境関連の仕事に関与することを暗示していたように感じます。
縮景園ですが、
縮景園は元和六年(1620年)広島藩主浅野長晟(ながあきら)が別邸として築いた廻遊式庭園である。
作庭者は茶人としても知られていた家老上田宗箇であるが後の天明の頃(1783〜88年)藩主重晟が時代の趣好に合うよう京都から名工を招いて修造させ、ほぼ今日の規模となった。
園の広さは約四万平方米、景観はどこから眺めてもよく中国坑州の西湖に似ているという。
幾多の景勝を縮めて表現している点に本園最大の特色がある。
そのため縮景園の称が生じたと云われ、古くは御泉水又は泉邸とも呼ばれていた。
中央の大きな池は濯纓池(たくえいち)、中心をつらぬく石橋は跨虹橋(ここうきょう)といい自然と人工の美の対照を示している。
その左右には十余の島々が浮かび周囲にはかずかずの山渓、橋、樹林、田圃がたくみに配置され、それぞれ雅名が付けられている。
日清戦争のとき大本営副営となったことがある。
昭和15年、浅野家から広島県に寄附され同年、国の名勝に指定された。
昭和20年8月6日、原子爆弾の投下により壊滅状態となったが、広島県では鋭意復旧整備につとめ多くの方々から名勝庭園として親しまれ、今日に至っている。
とありました。
入園料は260円です。中は八重桜やシャクナゲが咲いていて非常にきれいでした。園内は広く、起伏もあって、一回りするのには結構疲れました。「ワタシ中国は広島の生まれアルヨ」というようにアルヨが多いかと思っていたら、多かったのは西洋人でした。
その後縮景園の畔を流れている猿猴川に行ってきました。猿猴橋というのがあって、川の畔を下っていき、路面電車が走っている荒神橋を通って、大正橋に行くと、「河童猿猴伝説の地」という看板があって、河童猿猴は縄文時代から伝わるこの地の水神だそうです。
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