今日は午前中に名古屋で所用を終えて、午後は一宮に行っていました。尾張一宮からは在来線を使って京都まで帰って来ました。
昨日はハンナリーズの試合を見に名張まで行ったのですが、試合開始まで名張市内をぶらつくことにしました。ただし、昨年もハンナリーズの試合を見に名張まで行って、その時は西口の近辺を歩いたので、今回は東口の近辺を歩くことにしました。
東口には、江戸川乱歩の銅像がありました。
名張は江戸川乱歩の生誕の地で、生家だったところには「江戸川乱歩生誕記念碑」があるのですが、昨年行きましたので今回は行きませんでした。
http://fine.ap.teacup.com/takezumi/3828.html
東口に何か名所が無いかと調べてみると「夏見廃寺」というのがありました。歩いて30分ぐらいかかりそうですが、HOS名張アリーナから近そうなので行ってみることにしました。
途中でトイレに行きたくなったのですが、名張市立図書館があったので入ることにしました。図書館には「江戸川乱歩コーナー」というのがあって、江戸川乱歩の作品の他に、乱歩の帽子やステッキなども展示されていました。
さらに20分ほど歩いて、夏見廃寺に着きました。どこかなと思っていると建物があって、「夏見廃寺展示館」でした。入口前でオッサンが掃除をしていたのですが、中に入るとそのオッサンが受付をして、バタンという音と共に照明がつきました。私1人だったようです。入場料は200円でした。
中は出土品の展示の他にアニメーションビデオが放映されました。結果的にこのアニメーションビデオは非常にわかりやすく、夏見廃寺に行く前の事前知識を得る上で有意義でした。これがなかったならば単なる遺跡見物で終わっていたと思います。
夏見廃寺は名張市夏見にある寺の跡地です。11世紀の「薬師寺縁起」という書物には、「神亀2年(725年)、名張郡夏身に大来皇女(おおくのひめみこ、天武天皇の皇女)によって昌福寺が建てられた」とあり、夏見廃寺は昌福寺だったのではないかと言われています。
アニメーションビデオは昌福寺が建てられるまでのいきさつが説明されていました。
645年の乙巳の変により蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子がその後天智天皇として即位したのですが、死の直前、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)に託そうとしたのですが、大海人皇子は辞退し、出家して吉野に下りました。
天智天皇の崩御後、後を継いだのは子の大友皇子(おおとものおうじ、弘文天皇)だったのですが、天武元年(672年)に大海人皇子が吉野から出兵します。これが壬申の乱です。大海人皇子が近江朝廷を破り、大友皇子は自害するのですが、大海人皇子が出兵した際、名張で伊賀へ行くべきか占ったところ、勝算ありということで伊賀へ行ったとのことでした。また、凱旋時にも名張を通ったとのことでした。
大海人皇子は翌年、天武天皇として即位します。大来皇女は天武天皇の即位後、初代斎宮に選ばれますが、天武天皇の崩御後、弟の大津皇子(おおつのおうじ)は謀反の疑いで自害させられ、大来皇女も斎宮を解任されることになります。
大来皇女が名張の地に昌福寺を建てたのは名張が大和と伊勢の中間だったからではないかと言われています。また、昌福寺は天武天皇の供養のためと言われていますが、大津皇子への思いもあったのではないかということでした。万葉集には大津皇子を想う歌を6首残しています。
そして、廃寺跡に行ったのですが、雑草が生い茂っていて、たどり着くまでは草をかき分けながら歩いて行きました。私は高校時代の日本史の授業中は数学の問題を解く内職の時間で(笑)、壬申の乱も名前しか知りませんでしたが、アニメーションビデオは歴史の勉強にもなりました。
夏見廃寺から名張アリーナまでは5分ほどで、試合開始までもう少し時間があったので、寄り道することにしました。
(続く)
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