こんにちは!

ミノダのミノはタケカンムリ、簑田 弘大です!

簑田 弘大BLOGへようこそ!!

普段考えてることや思いついたことなど、かきつらねています。

また、コンサートやレッスン、作品リスト、試聴音源などの最新情報も公開されています。

どうぞお楽しみください!!


簑田 弘大 Home Page

Twitter

Facebookページ



2010/1/29

全ては同じゴール  簑田弘大の音楽THEORY

最近、全てのことは同じゴールなんではないかと思っている。

世の中には、色々な仕事や学問があって、一見音楽とか芸術の分野というのは、ちょっと他分野とは違った世界のように思われますが、そうではない気がします。

全ての分野、例えば天文学や生物学、数学などは、内容こそ違うものの、最終的に到達する所は同じなんではないだろうか。

というのは、ボクの小学校の時の同級生と久しぶりに話した時のことがきっかけだったんだが、彼は東大の大学院に行って、様々なことを勉強し、研究していて、宇宙や人間の話しになった。

宇宙の真理というのは、まだ到底分からないことがあって、それをどう処理しているかというと、現実に確認しているかしていないかに関わらず、消去法、のような考え方らしい。

例えば、地球がどうやって生まれたとか、宇宙はどうやってできたか、というのは今この時を生きているボクたちには、目の前にして現実として確認することはできない。

つまり、考えられる説のなかで矛盾がないものが真理として、答えになる。
ただし、その答えは本当に真実なのかどうかは、今のところ確認することはできない。

これはとても面白い。
答えが真実かどうかわからないものを、学問としてるのだから。

それから、ボクたち自身のこと、人間についても、分かっていることはほんのわずかだそうだ。

よく、幽霊とか亡霊とかっていうのは、まだ人間のわからない現象として、時に面白がられているが、よく見られるのは、霊能力者VS科学者、みたいな感じで、たいてい科学で霊現象が解析できるかを戦わせている。

ただ、科学も、まだ未知の領域に関しては、真理といっても仮定でしかないとすると、霊がいないともいるとも、現実としては確認できない。
だから、結構科学者は逆にそういったものを恐がったりするそうだ。

結局の所、科学は着実に進歩はしているものの、まだ全然解明できないことがあるということだ。

では、なぜわざわざ、見えないものを真実にして、学問とまでしてしまうのだろうか。

ボクは、それは人間が「人間」自身を知るためだと考えている。

その辺りが、だんだん音楽や芸術と重なってくる気がしている。

科学を究極に突き詰めて、もし全てが分かる時が来たら、「人間」が解明されます。

では、音楽や芸術を(学問的にも)究極に突き詰めた時、なにが起きるんでしょう。
ボクは同じ結果だと思います。

音楽や芸術には人間性が出るのは言う間でもありません。
そういったものが究極に発展した時、その先にあるのは、「人間」が解明される、と考えるのは不思議ではありません。
ただ、それは言葉で現すものではないかもしれませんが。

全てはスタートも同じでゴールも同じ。
ただ、その間にある過程は異なる。

科学と芸術、どちらが先に「人間」にたどり着くと思いますか?

ボクはもちろん、芸術にかけたいですねえ。
3

2008/6/13

武藤舞さん  簑田弘大の音楽THEORY

 先日あった秋葉原での事件で被害にあわれ亡くなった武藤舞さん。東京芸術大学在学中だったとのことで、同じ学び舎で学んでいた同志があのような事件でなくなった事はとても残念です。

 音楽は一つの職業とはいえども一生をかけて自分の音楽を生みだし創りあげていく作業で,いわば音楽創りは自分創りであり、自分創りが音楽創りでもあると思います。誰でもいつ生涯がとじるかはわかりませんが、その時が集大成です。時間をかけなければなし得ない事は音楽の分野ではたくさんありますし、それに向かって行く事はもちろん大切だと思いますが、いつくるかわからない集大成を、自分で満足のいくものにしたいといつも思っています。武藤舞さんは、被害にあった他の人を助けていたところにさらに被害をうけた、という状況だったと聞きます。武藤舞さんはまだ学生でしたし、これから目指したい事はたくさんあったと思いますが、結果的に早く訪れた集大成を、きっと(ボクは詳しくは知らないので)武藤舞さんらしい形で迎える事ができたのではないかなあと思いました。もちろん志半ばというのは悔やまれるところですが。

 心よりご冥福をお祈りいたします。

0

2007/12/17

作曲は爆発だ!!そしてTシャツ。  簑田弘大の音楽THEORY

 作曲をする時は、だいたい一人でやることが多いので、他の人が作曲をしている場面を見たりする事は少ない。だから、自分が果たして普通な、ノーマルな作曲の仕方をしているかはわからない。めちゃめちゃアブノーマルだったりするかもしれない。

 だいたい、自分が作曲する時は、ためてためてためてきたものを爆発させる様にやる。実際に作業に入るまで、譜面を作成し始めるまでにアイディアをためこんでおくのだが、そのためこみ期間はなんともいえず、短かったり長かったりする。
 自分の場合、作曲法を習っていないので、上手くアイディアが出ない時に、テクニックでカヴァーするということができない。恐らく作曲法とか諸々を良く学んできた作曲家の方たちは、そんな時でもテクニックでなんとかできてしまうんだろうと思う。もちろん経験もあるが。
 だから、このためこみ期間は自分にとっては必要不可欠な期間だ。

 アイディアがでるときというのは不思議なもので、深く考えればでてくるというものでもなくて、なんでもないときにポイッとフワッとでてきたりする。まさに、電球がついたっ!!の絵文字のような感じで。
 電車の中と風呂中が多い気がする。

 そんな時は、きたっ!!と思うのだが、すぐに注意しなければならないのは、それを忘れてしまわない事。さっきはあんなに良いフレーズが思いついたと思ったのに、ちょっと気を抜いたら忘れてしまったとか、よくあるんだ。コレ。その後、それがどんなだったか、どんなに考えてもしっくりこなくて、あのときのフレーズはどんなだったのか気になって仕方が無い。
 電車の中だったら、とりあえず紙に書くとか、携帯で新規メールにうって自分に送るとかできるんですが、風呂中は方法がないのです。とりあえず風呂あがるまで覚えておくために、歌い続けます。歌っていればたいていは忘れません。体にはいってくるし。ただちょっと気を抜いて、また他のフレーズ考えようとしたりすると、やはり忘れちゃったりします。浮気心禁物。
 だから、風呂に入ってすぐにアイディアがでた時は大変です。とりあえず歌い続けながら即行で洗ってでる。忘却というものに追われているので急ぎます。なんだかいいのがうかばない時は長風呂。

 ま、そんなでためたものを、一気に爆発させて、実際譜面を書き始めるのですが、その時なぜか体が急激な変化を現します。体温が急激にあがるのか、暑くてヤバいです。
 これはなんなんですか?科学的にきっと証明できるんだろうな。

 暑くて、耳が妙に熱を持ったり、眼鏡が曇ったり。

 だから、ボクはTシャツを着ています。

 作曲をするときはほぼ必ずTシャツを着てやっています。冬でもあります。
 ちょうど良い。ちょっと身軽になるので動きやすいし。

 芸術は爆発だ!!ならぬ、作曲は爆発だ!!で、そしてその時にはTシャツを。
0

2007/12/12

善悪と音楽  簑田弘大の音楽THEORY

 音楽家という職業をやっていると、善悪の感覚が薄れていくような気がする。

 それは、なんとなく体で感じていることでもあり、ちょっとしたことを考えた時にもそう感じたりする。

 「善悪」というとなにか重々しいが、全ての事に対しての善悪なので、その対象はほんの小さな事も含まれる。
 例えば、同じドアーに2人で同時に入ろうとしてしまって、譲るか先に入るか、とかそういうちょっとした事でも、どちらかが少しでも善か悪によっていればそれは善悪をつけることができることになる。そういうのも含めて。
 この場合だったら「先に譲る」、が模範解答的に思われるが、それが絶対的な善であるかはわからないのは言うまでもない。もし先に譲ったところでその先になにか悪い出来事が待っていたら、極端な話し、そこに殺人鬼が潜んでいて殺されてしまったとしたら、その先に譲った行為は善であったのか疑問だ。

 結局のところ、絶対的な善悪を見極めるのはかなり難しい。というか不可能かもしれない。それが、上記のドアーがどうとかそういったことであればそんなにリスクもないと思うが、それによって大きく結果が左右される事となるとどちらを選ぶかリスクも高くなる。

 たいていの場合は、もし組織みたいなものがあればそこには規則が生まれる。それは、複数の人が善悪を判断する基準を共有するという意味もあると思う。絶対的な善悪ではなく、思想的な善悪をつくるのだと思う。

 例えば、最近は禁煙がスタンダードになってきて、道で歩きタバコが禁止されていたりするわけだが、これが絶対的に善悪とは言い切れない。
 悪としては、禁止になっている理由の様に、他の歩行者に危険だったり、副流煙の問題で有害だったりするが、善としては、ストレス解消だったりするわけだ。しかしそれではただやったもんがちになってしまうので、思想的な善悪としてそれを悪として禁止している。そのエリアでもし歩きタバコをすれば、本当に悪かどうかはわからないのに悪と化す、ということ。

 このように僕たちは生きていくにあたって、この規則、つまり思想的な善悪に基づいて善悪を判断している場面があるわけだが、音楽家にはその機会が少ない。もしくは、その基準で判断してはならない場合が多いとも言えるが。

 もちろん法律というものの下にはいるのだけれども、他にたいして規則とか大きな思想的な善悪を感じる場面はあまりない。
 善悪の感覚というのはあるのだけれども、それが一般的な善悪の感覚と違っていたり、焦点が異なっていたり、善悪の判断が偏ってくる。
 もしかしたらそれは自分が生み出しているのかもしれないが、なぜそんな環境にあるのかと考えると、音楽が善悪と密接に関係しているからではないかと思う。逆に。
 接する場面が少ないのに近い存在というのはちょっと不思議ではあるが。

 音楽はある意味善悪がない。音楽そのものには純粋にそこに音楽があるだけで、善悪ということではなんの意味ももたない。しかし、現実として音楽が音として存在したら(もしかしたら無音でも)、そこにはなんらかの意味がでてきて、そこに善悪は生まれてくる。0から0<xかx>0になる、みたいな感じで。
 それを操っているのが音楽家である。
 つまり、音楽自体はなにも善悪の意味を持ち合わせていないのだが、その音楽に善悪をつけてしまうのが音楽家ということ。いわば、善悪を生み出す、作り出すということです。恐ろしい事ですね。
 だから、音楽家には善悪を判断できる、少なくとも判断するという意志をもっている必要があるわけです。しかもそれは絶対的な善悪であることが望まれます。そのためには、思想的な善悪を超えて見極めていく力が必要とされます。それは本当に大変な事です。

 そのような位置に置かれていながらも、音楽家は必ずそれが絶対的な善悪であるかということは知り得ません。それは、人間は今のところ絶対的な善悪を知り得ませんが、音楽家も、絶対的な善悪など知り得ない、その人間だからです。

 これは矛盾しているようですが、真理だと思います。事実このような状況に置かれている音楽家は、善悪を判断する事などできないと身をもって知ることができるわけです。

 善悪を扱うながら、その善悪は知り得ない。

 つまり、善悪と密接に関係していながらも、その善悪の感覚が薄くなるのは、そういう理由からだと思います。

 最終的には、自分自身で善悪を判断するしかありません。それができないならば音楽家の意味はありません。知り得ない善悪を判断するためには、それを信じることのできる自分自身になるしかありません。自分は自分自身の善悪を良くも悪くも知ってしまいます。

 やるしかありませんね、笑。
0

2007/8/8

生の音楽についての考察(続き)  簑田弘大の音楽THEORY

 最初の1音目でなにか違うと感じて、1楽章が終わった時に明らかに違うと確信した。
 合奏の一体感が違った。練習のときより数段面白い。
 演奏が終わる時、それが最高潮に達した時だったと思う。

 自分たちの世界観というのがでてきて、それが3つ目の要素となった。

 指揮である自分の最後の役割であって、また唯一演奏家とともに表現できること。
 指揮は演奏者とは違って、実際に音としてアンサンブルをすることもできないし、強弱をつけることもできない。
 でも、気迫をだすことはできるし、テンションや空気感を共有することはできる。

 そして、それの先頭をきるのが3つ目の要素につながり、また指揮のありかただとも思った。

 結局のところ、練習ではどうしようもなかった問題がいとも簡単に本番解決されたということだ。

 それは、本番の時にどこからともなくでてきたその世界観に、メンバーそれぞれが反応できたからだと思う。それが相互増幅作用して、最終的に全体の世界観になった。もし反応できなかったらそのままどこへともなくなくなっていっただろう。

 本番にしかでてこなかったという不思議なもの。

 そう考えると、最初に述べた様に、練習でつくりあげた完璧なものをだすということはできない。というよりも、練習の段階では完璧なものをつくりあげられないという方が正しいかもしれない。

 もちろん、より本番で良いものをだすために、練習の段階で完成度の高いものにしておくのは必須だ。
 そして、本番ではその本番でしかでてこないものを充分に加味する必要がある。

 本番には練習では到達できないものがある。

 生の音楽の良さ、またそれが必要とされるのは、そのためかもしれない。
0

2007/8/8

生の音楽についての考察  簑田弘大の音楽THEORY

 1つの演奏に対してどんな過程で本番にもっていくかというのは、意外とその人の個性がでるところだと思う。

 極端に言えば2分化される。
 一方は、練習の段階で本番にだしたいものを完璧につくりあげて、同じものを本番にだすパターン。
 もう一方は、練習の段階でもつくりあげておくが、同じものをだすことを目的とせず、本番にはその状況や気分などを加味して違う演奏をするパターン。
 両方とも一長一短で良い場面と悪い場面とあると思うが、演奏者はこの2つの要素のバランスを上手く保ちながら演奏しなければならない。

 自分はどちらかというと後者の要素が強いと思うが、それは最後の最後まで悩んだり、模索したりと調整していることが多いのでどうしてもそうなりがちである。前者のように、練習の段階で完璧なものができたらそれは良いにこしたことはないと思っていた。

 しかし、それはこの間指揮をしたことで、考えが変わった。

 ついこの間、上野の野外ステージで22人の和楽器オケの指揮をする機会があった。
 今までも何回かは指揮をしたことがあったが、それはいずれも自分が作曲、もしくは編曲したもので、その場合はあくまで作曲家もしくは編曲家としての立場で指揮をしているという感じが強かった。その部分を自分がどういうイメージでどういう意味でかいたのかということをより鮮明に伝えるために、練習だけならず本番も指揮をして伝える、といった感じだ。

 しかし、その上野の野外ステージでは初めて他人が作曲したものの指揮だった。
 正直、今までの指揮はさっき述べたような理由からだったので、指揮の技術は乏しいにしろ、作曲家、編曲家の立場なのでそれが上手く作用すればいい位に思っていたが、今回はそうではないので、話しをもらった時に少し戸惑った。自分は指揮科をでたわけでもないし、今まで本格的に勉強してきたわけでもない。

 だいたいが、和楽器の近代以降の大規模な合奏というのは、歴史もまだ浅く、これといった決め手的なアンサンブル法のノウハウというのはないと思う。指揮が入った演奏というのも同じなので、参考になるものも少ない。
 逆にそれが決め手となって、この機会にいろいろ試してみたいと思った。
 演奏者も、合奏経験の豊富な人から初めての人まででお互い初対面の人が多い中での、経験のほぼない指揮者。一見無茶な様に思えたが、0から創りあげることができると思えばそれもまた良しだった。

 まずは一番ヤバいのは、自分。演奏者は、合奏こそ初めての人はいたけれども、楽器自体は専門なので初心者ということはない。だが、自分は初心者。慌てて勉強したところで、そんな簡単に習得できるものとは思わなかったが、勉強しました。

 やるべきことは二つと思った。一つは、技術的なことの習得。もう一つは、指揮のありかたの思考。
 技術的なことというのは、本を読んだり、いろんな演奏会でのいろんな指揮を見たり聞いたりして学べたが、指揮のあり方というのは指揮者によっても考え方が違うものなのでなかなか「学ぶ」ということはできなかった。

 そこで、今回指揮をやるにあたって、3つのポイントをおいた。
 1つ目は、きれいなアンサンブルをつくること。多種多様な楽器があり、特に三味線や琵琶、箏、打楽器など点がはっきりする楽器が多いなか、またピッチのシビアな管楽器群がダブルではいっているなか、音のタイミングやピッチのそろった合奏にしあげること。
 2つ目は、譜面にかいてある強弱などの意味を読み取り、自然かつ大胆なアーティキュレーションをつくること。また、譜面にはかかれていなくとも、フレーズ感やリズム感をだすために自然とでてくるアーティキュレーションを明確に共有し、全体で一つの響きとすること。
 3つ目は、譜面にかかれていないことを表現すること。

 前の2つは、練習を積み重ねていくうちに段々とまとまっていったと思う。指揮的にも技術的な問題で、工夫することで解決していけた。

 しかし、3つ目のことは、練習の段階では到達できなかった。
 これは、指揮のあり方という課題にもつながっていた。

 譜面にかかれていないことというのは、例えば気迫であったり、表情や動き、テンション、空気感、緊張感や緩和感などなど挙げればきりがない。これは特に決まりがあるわけではなく、例えば、ここでは少し笑って演奏するが、ここでは泣き顔で、なんてことは何か特別に意味がある時以外はかかれてはいない。また、ここではテンションあげて、ここではテンション落ち着けて、なんてこともかかれてはいない。そんなの個人によってバランスは違うのだから当たり前だ。己でコントロールしろ。

 この3つ目のことこそ、一番大切な要素だと思う。他の前2つも、結局はここにつながるためのことだと思う。

 合奏においてはそれが個々ではなく、全体で一つのものにならなくてはいけないのでより難しい。

 最終リハーサルでも大分音楽を動かしていたので、そこまでは至れなかったと思う。
 そして本番を迎えた。

続く→
0

2007/3/27

海外における日本音楽(続き)  簑田弘大の音楽THEORY

 話しを元に戻すが、もしこれが国際交流、異文化交流だとしたら、これから、これに何の大きな意味があるのだろうか。今の文化と違う、日本人でもなかなか知らなかったり、理解が難しいような(その文化を否定しているわけでなく、現実的なスタンダードではないという意味で。)文化を、外国人が理解し、スタンダードにすることはありえるだろうか。

 自分の考える、これからの国際交流とは、交わって流れていく、ようなものにしたい。紹介するだけでなく、スタンダードのレベルにまで至るまで。

 その音楽が、単発的な刺激的なものではなく、生活の一部に自然と溶け込んでいて、なければならない存在となった時、音楽としての存在価値は比べ物にならない位上がり、和楽器の地位は今とは変わってくる。

 そうなると、必然的に音楽性、パフォーマンスの仕方は変わっていくだろう。

 そのレベルにまで芸術性や普遍性を達する様にするには大変な努力が必要とされると思う。

 しかし、そのために自国の特性を必要以上に抽出し、懐古に要素を求め、いわばつくりだされたエスニックな日本を生み出すより、懐古の自国文化をふまえ、現代としての日本の文化を模索し、生み出し、それを世界に発信していく方が、はるかに建設的であるし、あるべき姿である。

 そして、その文化に自信をもって交流し、それが評価され、スタンダードとなったとき、初めて日本が理解されたと理解して良いだろう。

 そのためには、日本の音楽の底力を、今より数段あげる必要がある。もちろん今までの作品、演奏、いわゆる古典と呼ばれるものの中のそれは、素晴らしいし(もちろん全てではなく、正直、そうでもないと感じる物もある。)、それ自体スタンダードとなってもおかしくないものもあるが、現代の我々にはそれを越えていかなければならないという使命とその可能性がある。

 これからの海外における演奏、またそれに関連した活動全般というのは、その点をふまえ、探求し、創造していく必要がある。

 現代の私たちが、外国人に理解してもらいたいことを、芸術という視点から発信する。
 国際交流においての芸術とはそういうものだ。

 音楽を通して日本を理解するとはそういうことだと思う。
0

2007/3/26

海外における日本音楽  簑田弘大の音楽THEORY

 前から、自分の活動分野として、海外での演奏というのを視野に入れていた。今も勿論視野には入れているわけだが、以前の海外で演奏したい、という感情と最近とでは、少し変わってきたと思う。

 根本的な、国際交流として、異文化交流としてというのは変わってないのだが、どのようにパフォーマンスするかという点で。どのような目的で演奏したいのかということ。
 それは、自分が海外で演奏したり、最近は日本の演奏家もだいぶ海外に出て演奏する機会が増えて、そういった話しを聞いたりして感じたことが影響していると思う。

 国際交流とか、異文化交流とかいうと、日本の文化を海外の人、外国人に紹介して、理解してもらうとかそういった事になると思うのだが、それでいいのだろうか。
 前はそれで良いと思っていた。
 もちろんそれとしての意味や意義はあるし、今までに様々な演奏家が海外に行って、演奏をし、パーフォーマンスをし、交流をはかって来たことは、外国人にも、日本人にも大変影響されていると思う。今までの海外演奏としてはこれで十分意味のある事だったであろう。

 しかし、これからにおいての海外に向けての発信というのは、進化するべきだ。

 これからは、ただ日本音楽を紹介し、それを通して文化を紹介、理解するというレベルを越えて、それをスタンダードとする位までレベルをあげる必要があると思う。

 なにをもってスタンダードとするかは難しい問題だが、自分の考えとしては、その違いというのは、エスニックかどうか、ということだと考えている。

 例えば、もし海外で演奏したとして、それが評価されたとしても、それがエスニックとして評価されたのか、そうでないのかというのは、同じ評価されるでも大きな違いがあると思う。よく、日本の和楽器奏者やパフォーマーが海外に行って公演をし、大変な評価を得たとか、最近はよく聞く話しだが、それは本当の意味で理解され、評価されているのだろうか。もしそうであれば、その地でそれはスタンダードになっているはずである。

 日本においての西洋音楽を例として考えてみよう。
 戦後のいろいろないきさつはあったとしても、その入ってきた異文化音楽であった西洋音楽を日本人は受け入れることが出来た。もちろん個人単位での是非はあるとしても、日本人総合的には、その異文化音楽である西洋音楽を異文化音楽からスタンダードなものとできた。エスニックとしてではなく。そこには政治的な理由の他に西洋音楽自体の芸術的な力があったからにほかならない。
 事実、今の日本は、三味線は聞いたことがなくても、ピアノはほぼ全ての人がなんらかのかたちで耳にしたことがあるだろう。
 これは、まぎれもなくスタンダードである。

 さて、日本の音楽、和楽器はどうであろうか。
 今までも、世界各地で公演され、大きな評価は得た。しかし、自分の知る限りそれがスタンダードとなっているところはない。もしあったとしても、それは世界規模の話しではない。

 これは、本当の意味で理解されているのだろうか。ただ、文化を紹介するというところにとどまるのが、国際交流、異文化交流の目的なんだろうか。

 よく、海外公演などで、いわゆる"ウケる"のは、「日本」というイメージが全面に出るような古典、とか伝統芸能とかで、日本を紹介するというのが目的だとこういったパフォーマンスになるだろう。相手側の文化にないような、音楽的な面だけでなく、例えば、しきたりとか仕組みとかが相手側にとっては異文化で、斬新で、紹介という意味ではベターだ。現代の日本人は、普段はたいていの人が洋服を着ている、なんて紹介より、日本人は着物を着て、ちょんまげしたり、刀で切腹したりする、なんて事の方が数倍興味がわくだろう。
 しかし、これは確かに日本の文化に違いないが、確実にデフォルメしている。実際、外国人で、日本に行けば侍がいる、なんて勘違いして思ってる人も少なくないかもしれない。

続く→
0

2007/1/22

音楽と離れる  簑田弘大の音楽THEORY

音楽と離れることは大切だと思う。

今は、外に出てみると飲食店でも、コンビニでも音楽が流れていて音楽がない場所の方が稀な気がするし、IPODとか携帯でも音楽が持ち運べるから、どこでも音楽が聴けて嬉しい。

特に自分の場合、仕事としても音楽なので、普段の生活の中で音楽がない生活なんてあり得ない。

しかし、今年に入って、風邪と流行りのノロウィルスというやつにかかって2週間位休んでいた。それでも全然離れることはなくて、ちょっと調子の良いときは合わせに行ったりしていた。でも普段よりは明らかに音楽と離れていた。

その時思ったのだが、音楽と離れるのは必要かもしれない。普段なにか忙しくいていると、目先のことに視点がいきがちで、あまり深く考えたり、想像したりする時間がない。「音楽とは何か」とか「音楽家である自分はなにか」とか。もちろん、日々活動していく中で、その目先のことというか細かいことというのは大切なことだし、なすべきことだけれども、盲目的になってはいけない。でも、そうなってしまいがちなのは仕方がない。実際忙しいのだから。

これは自分の性格上の問題かもしれないが、なんとなく風潮として、忙しくしてないといけない、みたいなものがある気がする。自分も実際忙しくしていると、「ああやってるな!!」、と思うし、暇にしていると、罪悪感に似たものが生じる。忙しい方が偉い、みたいな。でもそれは正解だろうか。

昔の人、というか自分の知らない時に生きて、素晴らしい作品や業績を残した人はどうしていたのだろうか。極めて忙しくしていたからこそその偉業が果たせたのだろうか。実際自分は見たりしたことは無いので、どんな本や話しを聞いても、まあ実際どうだったかは知り得ない。でも、今ほど、今の日本のこの自分の環境ほど忙しい、というか時間を過ごす方法があるとは思えない。その偉業を果たす傍ら、いろんなことを考えて、想像したのではないかと思う。結構だらーっとしてたのでは、とも睨んでいる。その時間があったかなかったかは、それも結局わからないのだが、どちらにせよ、その時間は異常だったのではないか。逆にそれで忙しかったかもしれない。

本当の意味で忙しいのは素晴らしいと思う。無駄に忙しいのは良くないと思う。では、無駄とはなにか、ということになってきてしまうのだが、自分は全てにおいて無駄ということは無いと思っている。事象そのものがマイナスだとしても、それを受けるものにとってそれがマイナスとは限らない。それは受けるものによるので、プラスに変換することが必要だ。なかなか難しいことだけれども、これは全てにおいて当然のことなのは理解しておきたいが、こう考えると、どう忙しくても結局同じということになる。

話しが複雑になってきたが、結局、忙しくするのはいいが、忙しくない時間というのが必要ということ。一見無駄と思えるような無駄でないことや空想に耽ったりする時間、考える時間というのが重要だと思う。普段生活していて、「思う」ことはたくさんあってもそれについて「考える」ということは意外と少ない。それは「考える」ということは、時間と労力を必要とするからだ。

しかし、「考える」ことでいろいろ生み出すことができる。

自分の場合、「考える」時に音楽はいらない。というか、音楽があると「考える」ことができない。それに気付いた。

昔から感じていたのだが、中学や高校の試験のときや受験のとき、勉強をしていて、よく音楽を聴きながらするとはかどるといって、音楽を聴きながら勉強する人がいた。あれが自分にはできない。当時はそれがすごいかっこよく思えて、自分も真似して試してみたのだが、どうもうまくできない。つい音楽の方に集中してしまって、勉強に集中できないのだ。

同じような例で、音楽を聴きながら電車に乗ると、降りる駅を間違える。これはもちろん毎回ではないが、結構な確率で、乗り過ごしたり、乗る電車を間違えたりする。これもつい音楽を聴き入ってしまうんだろう。

この様に、音楽を聴きながら何か出来る人、むしろプラスに働く人と出来ない人といるようだ。そして自分は出来ない方。

だから、自分にとって、「考える」時間をとるためには、音楽と離れる時間を作らなければいけない。しかも、これだけ音楽と接する生活を送っているのだから、故意的にその時間を作る必要がある。忙しい、とその時間をとらながちになるが、忙しくない時間を大切にする。すると、新しい音楽の見方がでてくる。自分にとっての音楽がみえてくる気がする。

この音楽のあふれる世界で、音楽と離れることは、難しいが必要なのかもしれない。
0

2006/10/29

芸術とはなにか  簑田弘大の音楽THEORY

芸術とはなに?と聞かれて一言で答えられるだろうか。

自分のなかで芸術はどういうものなのか、感覚的にはこういうものだ、というのがあるのだが、今まではそれを一言で答えろと言われたら答えられなかった。その感覚的に存在するものを言語をつかって表現できなかった。というよりも、実際にその状況がなかったという方が正しい。

しかし、この間ある青年に「おまえにとって芸術ってなに?一言で答えて。」と言われて即座に言語で表現することができずに考えた。そしてそれを言語として表現するとともにもう一度そのことについて考えてみた。

その問いに対して、一つ一つの細かい事項というのはいくつも出てくる。例えば、その自分の音楽を通じて楽しくなったり、悲しくなったり、興奮したり感動してもらいたいとか、実際に楽器を習って弾いている人に対しては、それを趣味の一つとして生きていく一つの糧のようなものになればいい。言語が通じないもの同士でも音楽を通じて共感できることができたらそれは音楽として意義があるし、嬉しいことだ。

でもこれらは一つの要素であって芸術とは何か?と一言で言えるような答えにはならない。

芸術家は自分の表現するもの、自分の場合は三味線だが、それを通じてなにを伝えようと、届けたいと思っているのか。それは、演奏や作品をセンスでもって表現する。そのセンスというのはその人が普段養って培ってきたものである。いろいろな経験の中でセンスを育てまたどういう方向に向けて進めていくのか選んでいく。センスはそういう自分が生きている全ての生活の中で確立していく。つまりその人の生き方が反映するのである。それを表現している訳だから、要はその表現自体が生き方自体でもあり、どういう風に生きていくかというのはその人の思想による。

つまり、芸術とは、思想である。これが今自分の出した答えだ。意外と一言で言えるものだな。簡潔で気持ちいい。

以前から自分が音楽をやるにあたって、哲学をもっていたいと思った。感覚的にそういう音楽がいいと思っていた。でもそれも、この答えなら解決できる気がする。

この考えは、音楽の表現だけでなく、音楽活動さえ影響するということなので、なおさら納得できた。結果だけでなく過程が大きく影響するということ。

だから芸術家である自分は思想をもっていかなければならない。そしてそれを模索し、磨き、確立していく必要がある。でもそれは今も既にもっているものであって、もし未来にちがうものをもっていたとしてもそれはただ変わっていったというだけだ。でもきっと以前のそれをふまえているわけだからよりよくなっていることを願うが。

自分の表現したいことを、演奏や作品を通して伝えていくのではなく、その演奏や作品自体が自分。この考えはとても自分にとってしっくりきたし、恐怖さえ感じた。

思想を、作家や哲学者のように言語や字をつかって表現するのではなく、音や光で表現する。それが今自分の考える芸術家のありかただと思うし、そうありたいと思う。
1

2006/8/4

音楽と外国語  簑田弘大の音楽THEORY

音楽と外国語は似ていると思う。

今、ボクには留学生の友人がいる。まだ日本に来たばかりなので、日本語はあまり、というかまだほとんど話せない。英語はもちろん母国語なので話せる。故に、二人が話すのは、もちろんお互い母国語を話す友人と話すときよりも、意思疎通が困難だ。今はたいていボク自身の英語力にかかっている。

意思疎通ができないというのは想像以上に苦痛なもので、ボク自身以前にバングラデシュやタイにホームステイした時に身をもって体感している。

しかし不思議なものでそういう時こそ、意思疎通を図ろうとするせいか、話したくなる。それは、言語がままならないので意思疎通ができにくく苦痛だとわかっていながらわざわざその苦痛をうけようとする、ということだ。

今の状態が全くそうで、むこうはまだ来て間もないのでいろいろ聞きたいことがあるかもしれないが、ボク側としては、彼自身への興味、例えば国のこととか、家族のこととか、によって話しているだけで、追いつめられた必要性というのはない。しかし、普段の自分ではこんな話さないだろうという位話しているし、話したいと思う。自分が、あまり話すのが苦手で好きではないと自分自身のことを思っていたのを覆させられる程だ。

そこで普段の会話のことを考えてみると、今まで育ってきた日本では、日本語以外母国語や公用語がないし、教育レベルも高いので、言語で意思疎通がとれないということはほとんどない。しいていえば、つよい方言にたまにとまどうくらいだ。そんな状況の中なので、意思疎通という事に関してたいていの人は日本語によって事細かにすることができるし、そこから日本語の美的な部分も生まれてきたと思う。

しかしそれがだんだんと形式化したり、礼儀作法の一つになったりしてきて、本来の意志や感情を表さなくなり、共通の一つの言語しかもたない日本人は、それができなかった時、失礼になっていしまう場合も多い。

それが良いか悪いかを問いたいのではなく、前置きが長くなったが、音楽と外国語は似ていると思う。

音楽は言語の様に具体的でないので、音楽で意思疎通を計るというのは困難だ。しかし、具体的でなく意思疎通が難しいからこそ、よりどうすれば伝わるか、演奏者やパフォーマー側は意欲的になると思う。聞く側も同じように具体的でないからこそより理解しようと努める。

これは音楽にとても重要な要素だと思う。

音楽にも同じように、母国語の日本語がある。例えだが、初めて聞く曲に対して、何十回も聞いたことのある曲ややったことのある曲というのは内容をしっているだけに、理解するのが容易にできる。しかし、それが少しでも自分の感覚と違うと、日本語においての形式された言語や礼儀作法としての言語を怠って失礼と感じさせたように、変だと感じてしまう。

音楽に関してのこれは、個性や可能性を失ってしまうからあまり良くないと思う。

外国語を話しているときの、これはもしかして失礼な表現なのかな、とか、これは過剰な表現かな、とか相手の表情などをみて意思疎通するように、音楽も意思疎通あってこそ、そこに感動が生まれる。
逆に、演奏者側が過信して自分の感覚のみで演奏をしたら、それはなにも意味のない音楽だろう。

外国語と音楽、一見関係なさそうだが、意外なところで音楽の発見があったかもしれない。
0

2006/7/22


これからこのページで自分のセオリーを思いついたまま書いていこうと思う。

新しい自分がみつかるかもしれないという期待でいっぱいだ。

ぜひ見ている方々にもいろいろ反応してもらいたいと思う。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ