音楽版ブログ「おとけーず」もあります。でも、最近はお休み中。

2020/6/3

「聖者たちの食卓」  映画

昨日はひさしぶりに対面での授業でしたが、やっぱり疲れますね。

今週はまだ毎日ではないのですが、来週からはほぼ毎日になってしまうので、
体力が持つかが心配です。大丈夫かなー。

まあ、夜の仕事はないのでね。そこは気持ちが楽です。

ということで、これから忙しくなってしまうので、
以前にご紹介した「アップリンク クラウド」の映画をそろそろ見ようかと。

別に、元を取る必要はないんですけど、見ないのももったいないしね。

今回は「聖者たちの食卓」という映画を見てみました。

2012年に東京国際映画祭に行ってるんですけど、
その時に見たいと思ったけど日程の関係で見れなかった映画ですね。

インドにあるハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院)では、
1日に10万人分の食事が提供されていて、その様子を収めたドキュメンタリー。

ただただ、その規模に圧倒されるというか、
とても多くの人々が、たくさんの参拝者を迎え入れるのに準備をしていて、
調理だけでなく、片付けもそうだし、靴を磨いてあげたりもするし。

中には、小さい子も出てきてお手伝いをしているのです。
老若男女、さまざまな人に支えられていました。

で、その映画を見終わってから、このお寺のことを調べて、
あとからいろいろなことを知って、改めてすごい人々だなーって。

共同食堂でふるまわれる参拝者への食事はすべて無料で、
500年も続いている習わしなんだそうです。

なので、働いている人たちもみんなボランティア。
だから、いろいろな人がいたのかーと。

人々の動きはちょっと粗っぽいけど、でもきっちりやってるんだよね。

お寺という場所柄なのかな、とか思いながら見ていたんだけど、
それもあるかもしれないけど、自ら進んでやっているわけで、
そこで、適当なことはしない、という態度につながるんだろうなと。

このマンディル・サーヒブ(黄金寺院)は、シク教という宗教のお寺で、
「人間は生まれながらに平等である」というのがその教えだとか。

その教えを最も表しているのがこの共同食堂だそうで、
宗教、カースト、人種、性別に関係なく、どんな人も同じ場所で食事をする、
とても素晴らしい考えですよね。

なので、日本人の自分たちが行っても食事はできるそうで、
さらに、お手伝いしようと思ったらそれもできるらしいのです。

そうやって、みんなで支えあって成立している社会。

何も知らないで見ても、なんかすごいなーって感じられるんだけど、
いろいろ知って、見てよかったなーって思いました。

いつか行ってみたいけど、インドかー。むずかしいなー。

2020/4/27

「おいしいコーヒーの真実」  映画

ということで、「アップリンク・クラウド」を使って、
今回は「おいしいコーヒーの真実」という映画を見ました。

この映画は2006年のもので、当時は見に行くことができなかったんですよね。

エチオピアのコーヒー農家を中心とした話で、貧困に苦しんでいると。
そこで、フェアトレードを行って搾取をやめるべきだという話なんですね。

ドキュメンタリー的には単純な話に見えるので、
この手の映画としては初級編のような感じを受けました。

あれを見れば、なんてひどいんだ!と思うのは当然で、
発展途上国について意識するようになるでしょう。

現地では10円程度で飲めるコーヒーも先進国に行けば25倍もの値段になって、
でも、農家たちが受け取る報酬というのは微々たるものであると。

中間業者が入ってしまうこともそうだけど、
大きな市場では先物取引が行われていて、その価格が影響をしてくると。

本来であれば、価格を安定させてリスクを回避するのがその目的なんでしょうが、
農家のコストに関係なく、先物取引の価格が先に決まってしまうので、
最悪、赤字になってしまう価格で買いたたかれることになるわけですね。

売り手の独占ではなく買い手の独占のような構造になっていて、
買ってもらえないことには困るので、安値でも売るしかないと。

その辺は、漁業なんかでもそうですよね。
値段がセリで決まるから、自分たちに価格の決定権がないわけで。

そこで、先進国の業者は農家のことも考えずに買いたたくので、
そこで、現地の農協のような団体が積極的にかかわって、
フェアトレードを推進していっているという話でした。

ただ、かつてはコーヒーの価格は安定していたそうで、
それは、国際的な協定によって需給が調整されていたからだと。

さらに、農家のある人が話していたのは、
自分が国からもらった土地はコーヒーしか育たないから…、という話。

ん? 国から割り当てられたってどういうことよ。

さらに、その土地ではコーヒーか現地では合法の薬物しか育たないから、
そんなのを育てるのは嫌だけど、それを作って売っているんだと。

んー、結局はみんなそういうことじゃないですかね。

誰だって、好き好んで格差を生み出しているわけではないですよね。
(中には、悪いことしか考えられない人もいるかもしれないけど)

でも、そうは言いながらも、道義的にどうなのかということをやっている。
そうだとすれば、じゃあ、その農家さんだって先進国の人間と同じじゃんって。

コーヒーの価格が適正ではないと言うんだけど、適正価格とは?とも思うわけで、
結局は、誰しもが自分勝手なことを言っているだけのように見えてしまうわけです。

もちろんそれは、お前が貧困なところにいないからだろって、
そう言われたらその通りかもしれないけど、
農家の子供たちのうちの1人が、もう自分は農家はやらないと、
自分は勉強して他の職業に就くって、そういう話が出てきて、
そうやって、いろいろ考えていくことも必要なわけですよね。

昔ながらの暮らしを基本としつつも、新しい生活にも憧れてしまえば、
そこにズレが出てきてしまうのはしょうがないことかと。

新しい生活にあこがれるなら、新しい生き方に変えていかなきゃいけなくて、
今までの古いやり方で新しい恩恵を受けようというのはちょっと都合よすぎかなと。

最後に、フェアトレードで得た利益で村に学校を作ろうって話が出てきて、
みんなで賛成するって話になっているんだけど、あれが唯一の救いだったかな。

学校を作るのにはその利益だけでは足りないというんだけど、
そうしたら、自分の服を売ってでもお金を都合するよっていう人がいて、
その思いが広がっていけば、村は幸せになっていくわけですよね。

そんな思いで政治家やっている人間は何人いるのかなーって。

例えば、エチオピアの政治家たちは何やってんだって話でしょ。

農協の代表者は、あの映画ではいい人だったけど、
農協だって、農家のためと言いながら、非効率な組織になる可能性もあって、
それは日本を見てもらえばわかると思うんですけど。

とても長くなってしまいましたが、話は単純ではないのですよね。
そこを単純化してしまうと、まさに「真実」は見えてこないのかなと。

そんな自分だって、何が真実かはこの映画を見てもわかりませんでした。

2020/1/9

「さよならテレビ」  映画

明日から通常の生活に戻ってしまうわけですが、
金曜から始まると、2日行けばおやすみということで、ありがたいかな。

ということで、昨日はポレポレ東中野で「さよならテレビ」を見てきました。

東海テレビが制作したドキュメンタリー映画で、
東海テレビの報道部にカメラを向けた話題作です。

メディア自身が取材対象となるというのは画期的で、
今のテレビ局の現状とは何かを映すために作られたとか。

この記事を読んでいる方は、この映画を見に行くことはないかもしれませんが、
もし、行こうとしているなら、若干のネタバレ的なことも書きますので、
これから先を読むかどうかはお考え下さい。


ということで、感想なんですが、
なんとも薄っぺらい映画だなーというのが、自分の抱いた感想でした。

ただ、最後の1分間で、印象がガラッと変わりました。
なんとも冷や汗というか、嫌な汗をかきました。

フジテレビの深夜にたまに放送していた番組に「放送禁止シリーズ」があって、
フィクションなんですが、ドキュメンタリー風の映像が流れていって、
最後に、「実はこうでした」的な種明かしのような映像がちらほらと流されて、
「あなたには真実が見えますか?」という文字が出て終わるのです。

このシリーズのテーマは、
「事実を積み重ねることが必ずしも真実に結びつくとは限らない」で、
この映像と同じようなものを見せられた気がしました。

自分はメディアについて語るとき、
メディアが流している情報はありのままではなく、作られたものであって、
ありのままのように見えてしまうことあるが、決してそんなことはない、
そういう話をするんですが、
その視点がすっかり抜けていた自分が恥ずかしくなりました。

ただ、あんな終わり方をされてしまうと、
どこまでが本当で、どこまでが創作なのか、よくわからなくなりますね。

そこまでの意図をもって作られたラストではないのかもしれません。
「結局はこの程度なんですよ」くらいの意味しかないのかもしれませんが。


ただ、薄っぺらいと思ったのはその通りで、
そこが「さよなら」と言いたくなるところなのかもしれません。

監督のインタビューなどを見てみると、
いろいろな人を取材した結果、メインとして取り上げられた3人が残ったと。

それが意図したものなのか、自然にそうなったのかはわかりませんが、
アナウンサー、契約写真、派遣社員という3人ということは、
結局は、局の中枢の人物が避けられている結果になっているわけで、
その意味からも「結局はその程度のものだ」ということなのかもしれません。

ジャーナリズムを標榜するテレビ局は、その辺の会社と同じで、
組織の論理で動かされ、視聴率のことが優先される商業主義で、
結局はその程度なんですよ、って話かもしれませんが、
そんな話でテレビ局が済んでしまってはいけないし、
済んでしまうなら、まさに「さよなら」ですね。


東海テレビといえば、「セシウムさん事件」があります。
その話も出てきて、毎年全社集会を行って放送倫理について考えていると。

それでも、同じような放送事故を起こした話も映画に出てきて、
また、新人記者が重大な放送事故を起こしそうになる話まで。

あのシーンはいったい何が言いたかったのかなーと。
この程度だから仕方ないんだよていう自虐的な話だったのか。

いやー、それが本当に反省なのかなーと思ってしまいます。
むしろ、開き直っているようにしか見えない。
悲劇のヒーロー気取りのように見えて仕方ありませんでした。


「この程度なんですよ、テレビ局は」ということなんでしょうかね。
いろいろな意味で、「残念だ」と感じる映画でした。

ただ、リテラシーを鍛えるという点ではよかったかもしれません。

2019/12/28

「検事のふろしき」  映画

昨日は、ポレポレ東中野で2本の短編映画を見てきたわけですが、
「裁判長のお弁当」の感想に引き続き、「検事のふろしき」の方を。

裁判官の仕事もわからないことが多いですが、
それよりも、検事の方がベールに包まれている印象が自分的には強くて、
この「検事のふろしき」の方がとても興味深かったです。

法曹三者なら、自分はどれに向いていると思うか、他の人に聞いたことがあって、
誰に答えてもらったかは忘れましたが、検事じゃないかって言われたんだよね。

正義感を振りかざしているように見えるんですよね、たぶん。

実際の検事さんはどんな理由で検事になったのかは気になるところで、
1人の方は、司法修習の時に取り調べで真実を引き出すことに魅力を感じたと、
もう1人は、家族が犯罪被害者で、犯罪の起こるメカニズムを知りたいと、
いずれもちょっと変わっているというかね。

ただ、いずれにせよ、犯罪者を処罰したい、被害者に寄り添いたい、
そういった感情を共通して持っているのかなと思いました。

裁判官と違って、どちらかといえば被害者寄りの立場に立っていて、
いかにして有罪を獲得するのか、それについて日々考えているわけですね。

それは誰のためなのか。

被害者のためなのか。社会全体のためなのか。自分のためなのか。

そのあたりがなんともはっきりしないというか、
まあ、はっきりしているんでしょうけど、
そこがぶれると誤った方向の向かってしまいそうで、なんとも危ういなと。

「おごらず、気負わず、そしてひるまず」という言葉が紹介されていましたが、
本当におごっていないのか、そこが問題なんじゃないかなと。

犯罪を犯した人に罪を償わせるのは必要なことだし、
被害者の思いが少しでも救われる結果となることも望ましいかもしれないけど、
だからといって、罪を犯していない人に罪をかぶせるなんてことは許されない。

気になったのは、模擬裁判に参加していた検事さんの言葉で、
模擬裁判の結果、証拠が不十分ということで判決は無罪になるのですが、
それに対して、こんなことを言っていたわけです。

 証拠が足りないとか、本人がやっていないと言い張った結果、
 罪を犯した人が、結果的に罰を受けずに社会に出て行ってしまう、
 そんなことが起こってしまうということを、
 はたして、裁判員のみなさんは理解して評議してくれたのか。
 
もちろん、罪を犯した人が何の罰も受けないのはおかしなことですよ。
でも、だからといって、「やっただろう」で罰していいのでしょうか。

「疑わしきは罰せず」は、犯罪者を利するためのものではなくて、
冤罪を防ぐためのものですよね。

先ほどの検事さんの考えは明らかに間違っていると自分は思うし、
そんな検事がいる限りは、冤罪はなくなることはないだろうなと思うのです。

ただ、一方で、映画の中でも、
被告人に実刑が下されて、それに対して被害者側が安堵する、
そんな事件も紹介されるわけで、
そういうことが、検事に勘違いを生み出して、「おごり」につながるのかなと。

また、映画では、起訴されれば99%有罪判決が出る話も紹介されて、
ただ、事件のうちおよそ半数は不起訴となっているということで、
確実に有罪となるものしか起訴していないという運用だということですよね。

これは、無駄な裁判を行わないことで、容疑者の人権を守ることにつながるわけで、
ただ、本当にそういう観点でそう言った運用をしているのかな?って。

もし、検察官の評価が「有罪を獲得する」ということで決まるのであるなら、
無駄な裁判を起こさないのは、単なる自分のためなんじゃないかと。

大きな検察庁では、捜査・取り調べをして起訴するかどうかを決める検察官と、
実際の裁判に出廷して有罪を主張する裁判官に分かれているんですね。

となると、後半を担当する側からすれば、
有罪を取れるか微妙なものを無理やり起訴されても困るわけで、
そういった、あうんの呼吸があるのかなとも思ってしまいます。

さらに、国策捜査についても紹介があって、
東京地検特捜部にいた検事さんは、国策捜査はないと思う、と言っていましたが、
まあ、それはそう言うしかないですものね。

法務大臣の指揮権、造船疑獄、ロッキード事件などが紹介され、
政治と検察の動きは、何も関係がないとはとても思えない。

話を戻して、この映画は2009年に制作されたもので、
裁判員制度の導入を目前にしたものでした。

検察側は、いかに有罪を獲得するのか、打ち合わせや模擬裁判を繰り返し、
とてもしっかり対策をしているな、という印象を持ちました。

それが、裁判員制度での、判決の重罰化につながっているのかなと。

本来的には、証拠に基づいてのみ判決が導かれるべきですが、
被害者参加制度もあって、情に訴える手法も取られるわけですね。

それが冤罪にもつながる恐れはあるわけで、
裁判官、検察官、弁護士のバランスがしっかり保たれないと、
冤罪をなくすことはできないのだなと。

やっぱりそうなると重要なのは弁護士なんだけど、んーって感じ。
「死刑弁護人」でも、結局はバランサーでしかないのかなという印象が。

結局は、国家権力、政治権力の意のままなのでしょうか。
どこかの国と変わらないじゃないですか。

2019/12/28

「裁判長のお弁当」  映画

昨日は仕事納めという方も多かったのではないでしょうか。
今年も残り4日ですね。

そんな昨日ですが、仕事が終わってから映画館に直行。
ポレポレ東中野で2つの短編映画を見てきました。

1月に「さよならテレビ」という映画が公開されるのですが、
それを前に、東海テレビがかつて制作したドキュメンタリー映画を、
一気に上映するという「東海テレビドキュメンタリーのお歳暮」という企画です。

その中の1つ「死刑弁護人」は2012年に見に行っていて、
今回は、「裁判長のお弁当」と「検事のふろしき」という2本を見てきました。

まずは、「裁判長のお弁当」から。2007年の作品です。

裁判官に密着したもので、裁判官の大変さがよくわかるものでした。

裁判官はある程度自分で仕事の予定を立てることができると聞いていたので、
そこまで大変ではないのではないかと思っていたんだけど、
大きな裁判所では3人が1組となって合議体を形成していることが多くて、
そうなってくると、自分のペースも何もないですものね。

裁判長として、最終的に判決文を書かなければならないこともあってか、
毎日22時ころまで仕事をしていると。

他に紹介された人では、家に帰ってから1時や2時までやっていたと。大変だ。

そんな裁判官ですが、最も公平にものが見られるので良い、と言っていて、
たしかに、何かに寄ることがなく判断できる仕事というのはいいですね。

裁判官には、裁判官の独立というのがあって、
判決を出す際の判断はすべて裁判官自身に任されているわけです。

ただ、合議体は、ベテランの裁判長、中堅裁判官、若手裁判官の構成のようで、
例えば、若手裁判官が判決文の下地を作るのが慣例になっているとの紹介が。

そういった、ある程度上下の関係がある中で、
それでも、判決について話し合うときは、上下関係なく独立していると。

んー、それは本当にそうなのかな、と思ってしまいますね。
若手がビシッと意見をいえるような空気が作られているのでしょうか?

さらに、映画では、判例に背くような意見を出す判事が冷遇されていたという話に。

裁判所自体が最高裁を頂点とする組織である、という話なんですが、
そうなってくると、ますます「裁判官の独立」とは何なのかと。

裁判官に身分保障がありますが、一方で、再任拒否だってあるわけで、
そのあたりは、ほんとうに「独立」しているのからーって。

それから、冤罪についても言及がありましたが、
裁判官は「無罪かもしれない」という目で被告人を見ているわけではなく、
「検察が有罪を立証できているか」という目で裁判をしているとの話があって、
んー、それだとやっぱり、冤罪が生み出されてしまうだろうなと。

映画では、検察が証拠を隠すことで冤罪が生まれた事例が出てくるのですが、
そうやられてしまうと、有罪という判決出すのも仕方ないだろう、と裁判官が。

たしかに、裁判というのは、何が真実なのかを解明しているのではなくて、
有罪なのかどうかを決定しているに過ぎないんですよね。

裁判官自体が現場を見に行くことがかつてはあったそうですが、
今はほとんどそれもなく、裁判で出された証拠に従ってのみ判断されるわけで、
その証拠自体が誤っていれば、判決が誤ることもあるでしょう。

そうなると、問題は検察にかかってくるし、
一方の弁護士側にもしっかりしてもらわないといけないよね、って話。

もちろん、検察や弁護士側に責任転嫁していいわけではないと思います。

多くの事件を抱えている裁判官は、その迅速な処理を求められていて、
その中でも、丁寧な、慎重な審理も当然求められるわけです。

事件数が増えていく中で、裁判官の数はあまり増えていないと。
質を保ちながら量を増やすのも難しいですしね。どうしたものでしょうか。

2019/9/23

「記憶にございません!」  映画

すっかりラグビー漬けの日々となっている今日この頃です。

そんな今日は映画を見に行ってきました。
三谷幸喜監督の「記憶にございません!」です。

三谷作品はいつも見たいなーって思うんだけど、
結局、見ないまま終わってしまうことばかりで、
でも、今回はテーマ的にもぜひと思ったので見に行ってきました。

憲政史上最悪の総理大臣の話ですからね。

話の流れはそこまで複雑ではなくて、
政治をあまり知らなくても十分に楽しめる内容だったと思います。

もちろん、そうはうまくいかないだろー、って展開もあるわけですけど、
終盤は、こうなるのかな?という予測を見事に透かしていって、
でも、しっかり、ああ、やっぱりそうだったんだーって。

三谷監督は、何か政治的なメッセージを出したいわけではない、
というコメントを出していたと思ったんですけど、
その通り、具体的な何かを訴えるようなものではありませんでした。

ただ、ああいうストーリーが成り立ってしまうということは、
どこか、あの史上最悪の政治に近いものが行われているからなわけで、
やっぱり政治なんてそんなもんだよね、って思われてしまっている、
そんな政治家さんたちには心を入れ替えてもらいたいところです。

劇中に出てきたセリフの中で、
 国の政治は機能している。国民たちは安定を求めているんだ。
というのが出てきて、ホントそうだよねーって。

いくら悪いところがあっても、激変するよりはマシって、
本当にどこかの国のことを言っているようでした。
 
あと、出演者もいろいろといいところから持ってきてるなーって。
ずんの飯尾さんとか、元NHKの有働さんとか、いい味出してました。

最後まで分からなかったのは、ROLLYさんと濱田龍臣君。

何でこんな知らない人を使ってんだろうって思ってたんですよね。
そしたら、その2人でした…。いやー、特にROLLYさんはわからんよ。

まあ、劇場で見る必要はありますか?と聞かれたなんとも言えませんが、
イオンシネマは月曜日が安いってことで、今日は1100円で見れたので、
まあそれだったら劇場で見てもいいのかもね。

テレビでの放映を待つのもありかもしれませんが、
今日は連休中ということもあって、まあまあ人は入ってましたね。

外に出るときれいな夕焼けが広がっていました。

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2018/11/25

「華氏119」  映画

「華氏911」を見に行ったのは、もう14年も前のことなんですね。

「華氏911」は自由が燃える温度だということでしたが、今回は「華氏119」です。
11月9日にトランプ大統領の当選が決まったということで。

ということで、そろそろ公開が終わってしまうというので、
急いで見に行ってきたわけですが、うん、見に行ってよかったです。

トランプ政権がなぜ誕生してしまったのか、という話なわけですけど、
ミシガン州で民間出身の知事が誕生したことを引き合いに出して、
これから何が起こっていくか、危惧するような内容になっていました。

その話を中心としていろいろな論点が出てきます。
映画のWEBサイトの「STORY」を読めばだいたい中身はわかります。

まずは、メディアの問題。結局はメディアはトランプの広報役になっていること。
メディアは視聴率が取れればそれでいいんですよね。

だから、過激なことを言うトランプは格好のネタになるわけで、
しかも、選挙がらみのニュースであればタダで放送できるわけ。

それが結局は、トランプにタダで宣伝をさせる結果になったわけです。

それに関連して、企業優先の政治というのにも注目が。

全米ライフル協会の話は今さらな話題なわけですけど、
献金をもらえることが指示を受けることよりも政治家にとっては重要で、
だからこそ、庶民の意思はことごとく無視されていると。

それは共和党だけの話ではなくて民主党もそうだという視点がなかなかで、
なぜ、民主党の候補者争いにサンダースではなくヒラリーが勝ったのか。

まさにそれこそが、結局はアッパーによる政治であり、
そうやって庶民の意向を無視することで政治への期待をそぎ、
政治の世界から離れさせることで、自分たちだけの政治を実現していく。

共和党の問題より民主党の問題だというのは、
日本にいる限りではなかなか気づきにくいポイントなのではないかと。

終盤に出てきたのが言葉に興味深いものがありましてね。

独裁者のような人が出てきても、911のような事態が起きたとしても、
200年続いてきたアメリカの民主主義は崩れるはずがないと人々は言うけれど、

「アメリカの民主主義はせいぜい1970年からで、かつては奴隷制もあったし、
 黒人や女性への差別がなくなったのはここ数十年にすぎない」

「彼らが考えるアメリカの民主主義とはあくまでも目標なんだ」

なるほどなーって。言われてみれば確かにそうですよね。

アメリカの語る民主主義は夢であり、これから歩んでいくべき道であって、
実際のそのような社会を実現しているわけではないんですよね。

だからこそ、簡単にひっくり返る危険はあるわけで、
そこが日本とはちょっと違うのかなとも思いました。

なかなか今回も勉強になりました。
より詳しくは、noteの方にでも書こうと思います。



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