痛ましい岡山空襲(1945年6月29日)から67年目の暑い夏を迎える。これに先駆けて、岡山市デジタルミュージアムにおいて恒例の「岡山戦災の記録と写真展」開催中の記事を、昨日25日付の山陽新聞夕刊でみた。
例によって会場中央部に上下2段にわたって掲げられた横長の大きな写真が一際目を引く。上段には空襲直後の、そして下段には3年後の市街地をそれぞれ対比して写したパノラマ写真である。
撮影の主はわが社のOBとあるので、手元の130年社史を紐解いてみると、私が33年間奉職したと同じ職場の大先輩にあたり、平成10年8月7日85歳で死去されていた。
今朝一番に家内が同展へ行こうと誘うので、一も二もなく快諾し、同デジタルミュージアムが10時に開くのを待ちかねてのぞいてきた。
展示されている戦災資料やVTRを観て心が痛んだ。当空襲による犠牲者は1,700人以上(2,000人に上るという説もある)で、焦土と化した岡山市街地を空撮した大きな写真が掲示され、リーフレットにもなっている。写真の右端上(北東部)には、既の所で難を逃れた我が集落(当時43世帯)が写っており複雑な思いで見入った。
S大先輩の写真からは、苦難を乗り越えて僅か3年で大きく復興を遂げた跡が見て取れる。
あの空襲から今年で67年になる。勿論私が生まれる前のことだから、その惨事を知る由もない。
B29による岡山大空襲を受けた29日、それは父が警察練習所卒業の前夜で、一週間整理にあたったと聞かされた。阿鼻叫喚の巷と化した惨状は口にするのも憚れるほどである。
また、私が小学生の夏、雷が大の苦手の祖母と蚊帳の中で息を凝らして見守っていたら、あろうことか前の家に落雷した。耳を擘く雷鳴と同時に閃光が走り、屋根を大きな火の玉が転がった。まさに瞬時の出来事だったが、祖母は「こんな情景に遭遇するのは岡山空襲以来!」と身体を震わせていたことを思い出す。
戦争とはいえ、1時間24分かけて爆撃機138機で、軍需施設もない一般市民の住居を無差別爆撃したアメリカの非人道的な蛮行は幾ら憎んでも憎みきれない。岡山城の天守閣もこのとき落とされた。
世界はひとつ、この地球国から戦争や紛争が消え、平和が訪れることを願って止まない。

岡山空襲直後(上)と3年後(下)の市街地を対比した写真

岡山空襲直後(上)と3年後(下)の市街地を対比した写真

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