2005/6/25

本州完全制覇  hiro

この度、山陰を訪れたことをもちまして、
我が国日本の、「本州」島の都府県を
すべて制覇させていただきました。

小学生のとき、ドラクエをやりながら、
「何で、町がひとつの四角い枠なんだ?」
と思ったことがありました。

しかし、最近は、

草原があって、森があって、
向こうのほうに、町が見える。
そんなドラクエの世界が普通なのかもしれないと感じてしまっております。

東京のように街が連続しているほうが、むしろ特殊のような気が。

そういえば、学生のときに、東北を10日間かけて回りました。
目的は恐山。
S君と10日間の2人旅でした。
恐山は強烈な思い出です。
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2005/6/10

東京タワー  hiro

東京タワーを見上げると、いろいろなことを思い出す。
そんな私の身勝手な話に、みんなが協力してくれた。

http://www.ikyu.com/spcl5/ttower/start.htm

この場を借りて、御礼申し上げます。

文字通り「手作り」であると言っても、間違いではない東京タワー。
4年前、偶然に見たTVで、作り上げた男たちのことを知った。
カッコイイと心底思った。

以下、NHKより引用。
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地上333M。
わずか15ヶ月という驚異的な突貫工事の末に完成した世界でもっとも高い自立鉄塔、東京タワー。
地震、台風の脅威にさらされる東京に造られた世界一の鉄塔は、当時、アメリカのテレビが特集で取り上げるなど、世界各国に衝撃を与えた。

東京タワー完成の陰には、愛する恋人のために命を賭けた一途な若者たちの物語があった。

現場監督として危険な現場を取り仕切った竹山正明、31歳。
遠距離恋愛の京都の女性に日々の仕事を克明につづった恋文を送った。

鳶の若頭として、強風のなか地上300Mで作業を続けた桐生五郎、27歳。
一目惚れした見合い相手に、「鉄塔完成の翌日、結婚しよう」と求婚した。

昭和33年秋、日本中が注目する中、地上330Mへの巨大アンテナの吊り上げが敢行される。1センチの誤差も許されない最後の仕上げ。

難工事には、若頭、桐生五郎の「結婚」がかかっていた。
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男として、憧れます。
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2005/6/8

551の豚まんがある時!  hiro

サイコロの目に従い、大阪へ。
お昼ごはんを食べながら、PCでメールチェック中。

阪神電車に乗っていると、前からやけに気になる広告。

「551の豚まんがある時!」

ある時?

今日見た新作は

「551のアイスキャンディーがある時!」

ある時がどうかしたのか?
それにしてもなぜ、551?
551という蓬莱の豚まんが美味しい事は有名。
関西土産の定番。

気になって、尼崎の同期に電話してみた。

俺「もしもし、フジケン?今どこ?」

「沖縄でございます。添乗中でございます。バスで移動中でございます。」

俺「・・・・。あのさあ、なんで蓬莱の豚まんって、551って言うの?」

「は?考えたこともないねえ。昔から、そう言ってるし。バスガイドさんに聞いてみるわ」

約1分。

「知らないって」

俺「あたりまえだろ。沖縄のバスなんだから」

「あ、そっか」

俺「・・・。じゃあ、551って言えば?」

「豚まん」

俺「豚まんといえば?」

「551」

俺「すげえなあ。まさか、ここが1番だから551っていうんじゃないだろうね」

「まさかねえ。カレー屋じゃないしねえ」

調べてみた。
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自分の店を、もっとお客様に親しみやすく、覚えて頂きやすくするために、何か良いアイデアがないかを考えていました。しかし、なかなか良い案は浮かびませんでした・・・。

ある日、一息入れようとタバコに手を伸ばしたときにひらめいたのです!!その頃、羅邦強は外国産の555(スリーファイブ)というタバコを吸っていました。その数字が目に飛び込んできたのです。漢字やカナ文字は中国や日本でしか通用しません。また、横文字は、その当時の日本人にはまだまだ馴染みがないものでした。しかし、数字なら覚えやすいし、万国共通です。

また、その当時の本店の電話番号が64-551番であったこともあり、「味もサービスも ここ が いちばん を目指そう!」という意味を込めて、551蓬莱 の名前が生まれたのです
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以上、蓬莱のHPより引用。
あながち、外れていなかった・・。

西日本完全制覇まであと4県。
信長の野望であれば、そろそろ天下統一だ。
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2005/6/7

はじめての旅  hiro

広島駅の在来線の改札にて。
「どこかで見た景色だ・・・」

そうだ。18切符で旅行したときのことだ。

大学2年の時、パスポートを作ったはいいが、
海外に行く予定も無く、金も無く。
そのときは、渋谷のスペイン坂の真ん中にある「人間関係」という
喫茶店でバイトをしていたっけ。
そこの先輩がアメリカにいった写真を見せてもらい、
ふつふつと海外に行きたくなった。

そこで考えたのが、「片道1万円以内でパスポートにハンコを押してもらう」
だった。
一番近い国。韓国ならば思ったが、
飛行機代でNG。

そこで見つけたのが、福岡からのフェリー。
釜山まで往復で1万円というチケットを見つけた。
ということは、片道5000円。クリア。

福岡までは、青春18切符。
友達と2名で、時刻表で計画を立てた。

貧乏旅行の定番「ムーンライトながら」
横浜を夜中の0時過ぎに通過するので、品川からは普通の切符を買っておいて、
横浜から18切符を使うことにする。そうすれば、1日まるまる利用できる。

計画は楽しかった。
いざ、旅が始まると・・・。

名古屋で夜が明けた。
大垣で乗り換え、大阪あたりが通勤ラッシュ。
乗り換え時間も少なく、猛ダッシュ。
広島で乗り換えのときに、駅弁(あなご飯)を買おうとしたのだが、
売り切れだった。すると、売店のおばちゃんが、
「まっとって〜」といって走り出し、
わざわざ改札を出て、別のところから持ってきてくれた。
そのシーンを、今日思い出した。

その後、下関を経て、博多着が21時過ぎだったと思う。
21時間。2000円ちょっと。
「もう二度とやりたくない・・・」
そう思った。
翌日17時間かけて、釜山までフェリーでいくことになる。
時系列で、写真を撮り合っていたのだが、
やつれていくのが分かった。

その船の中で初めて飲んだウイスキー。

パスポートに押された、「出国:博多」「入国:釜山」

来年パスポートの更新がある。
添乗で海外にたくさん行ったが、
最初のページのこの2つが、
今の原点のような気がします。
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2005/6/6

東京コロッケ  hiro

サイコロの出た目に従い、広島へ。(気分は大泉洋)
なぜか、待ち行く人が浴衣を着ています。
聞いてみると、「とうかさん」というお祭りだそうです。
以下、調べてみました。
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とうかさんは、6月の第一金曜〜日曜に行われる神社のお祭りです。
別名浴衣祭りとも言われ、
広島ではこのお祭りが夏の訪れを告げ、浴衣を着始める。
日本で一番最初に浴衣を着始めるのは広島。
このお祭りが日本で一番早い夏まつり。
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すると、「東京コロッケ」という出店を見つけました。
東京の名物って、コロッケだったのか・・・?
ということは、谷中のコロッケ戦争は、聖地かもしれない。
広島→お好み焼き。
大阪→たこ焼き。
東京→コロッケ?

いやいや。
ここは「もんじゃ」の出店で戦いたいものである。クリックすると元のサイズで表示します
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2005/6/3

悲しいほど海は青く  News

1945年1月31日。
沖縄に、県知事として赴任してきたひとりの男。

その男の名前は島田叡(しまだあきら)。
当時の県知事は国が任命して派遣していた。
兵庫出身の島田叡は、沖縄知事への就任を要請され、その任を受けた。
当時の状況を考えれば「県知事として沖縄に行ってくれ」という命令は
「沖縄で死んでくれ」と言われているのと同じだった。

家族の反対を彼はこう言って説得した。

「おれは死にとうないから、だれか行って死ね、とは、よう言わん」

沖縄に降り立った彼のカバンの中には、拳銃と、青酸カリが入っていた。
いざというとき、自決するためのものだった。

彼は、市民の生活に飛び込み、酒を酌み交わし、励まし続けた。
しかし、時間が無さ過ぎた。

1945年4月。
アメリカ軍の上陸が始まり、地獄の戦場と化していく沖縄。
降り注ぐ砲弾を避けて暮らす壕の中で、島田知事は少しでも多くの県民の命を救うため、
最後まで行政機能を維持しようと奔走した。

1945年06月下旬、現在の糸満市伊敷にある轟の壕で、県組織の解体を命じたあと、
警察部長ら数人とともに軍司令部のある摩文仁方面に向かったまま消息を断ち、
今日まで遺体は発見されていないという。

島田知事、そしてともに働き殉職した県庁職員たちの魂は、摩文仁(まぶに)の「島守の塔」に眠っている。わずか5ヶ月足らずの沖縄での行動がいまなお、多くの人に慕われ続けている。

1972年11月3日には、坂井、屋良両知事が出席して、兵庫・沖縄友愛提携調印式が行われ、両県の永遠の友情が確認された。

1995年。神戸の震災の時に、沖縄の人たちも多数神戸にてボランティア活動をされ、
兵庫県と沖縄県では、今でも平和というキーワードでの民間交流がある。

写真は、「摩文仁の丘」からの海。

今年で戦後60年。
私が生まれたのは、戦後30年のとき。
たった2倍の年月。

この国には、忘れてはいけないことがたくさんある。
たまたま宮古島で、今年の冬に見たTV番組で彼の名前を知った。
いつか教壇に立つ日が来るのであれば、
教えたいお話です。

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2005/6/2

コロッケ戦争  hiro

「夕焼けだんだん」の坂を下り
谷中銀座へ。
私は高校生のとき、初めて訪れて
なぜか感激し、
そして今、住んでます。

谷中銀座は、コロッケの販売で、
4つものお店が、戦っています。
私が小学生のとき、父親が読んでいたビックコミックオリジナルの
「3丁目の夕日」に「コロッケ戦争」というのがあって、
お互いが価格で低価格化に走って
悲しい最後になるというストーリーがありました。
そういえば、あぶさんの第1回目とか、
ヒゲとボイン
人間交差点
はぐれ雲
などを小学生に読ませるというオヤジの教育方針。
かあちゃんが、オヤジのマンガすべてを捨てた日、
子供心に、離婚するのでは?という夫婦喧嘩があった。
オヤジ、カッコイイぜ。

コロッケのお店が4つもあって、大丈夫かぁ?と思っていたのですが、
さすが、週末には多くの人が訪れる谷中銀座。
コロッケを食べ歩いている人多数。
とりあえず、共存しているようです。
宇都宮の餃子、富士宮の焼きそばのようになるといいのお。
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