2015/4/10

「島田澄也展 蒼き昭和時代」のお知らせ  企画展

世間ではにわかにパラオブームのようですが、丸木美術館の「赤松俊子と南洋群島展」の会期も、いよいよ残すところわずかになってきました。

4月18日からは、「島田澄也展 蒼き昭和時代」を開催いたします。

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島田澄也という画家の名は、あまり一般的ではないかもしれません。
1927年、東京府北豊島郡長崎町に生まれた島田さんは、東京美術学校(現東京藝術大学)を中退し、戦後、丸木夫妻のアトリエで絵を学び、前衛芸術会を中心に活動しました。
やがて造形会社を設立して絵画から距離を置きますが、引退後に再び絵筆をとると、幼少期から戦争を経て戦後にいたるまでの200点近くの自伝的な油彩画を描きました。

それらの絵画は自らの回想をもとにした「記憶画」というべきものですが、2.26事件の朝や、特高警察、戦時中の千人針、灯火管制、東京大空襲、敗戦後の焼跡風景や血のメーデー事件、自身が参加した小河内村山村工作隊の活動など、歴史的に重要な意味を持つ、しかし写真に残されていないような光景から、幼い頃のベイゴマ遊びや駄菓子屋、映画館の様子、土方与志の築地小劇場や、前衛美術会の画家仲間であった山下菊二や大塚睦、尾藤豊らの姿、そして丸木夫妻のアトリエで行われたデッサン会など文化史的にも貴重なイメージまで、幅広く描かれています。

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また、あわせて、1950年代に自身の体験をもとに制作した《勾留理由開示公判》や《官選(国選)弁護人》などの油彩画、文化工作隊で訪れた小河内村や「原爆の図展」で訪れた秋田の風景スケッチ、共同制作によるガリ版刷りニュース『週刊小河内』第1号などの資料も展示し、近年、再評価の動きが広がる1950年代の文化運動を再考する機会とします。

戦争への反省を踏まえ、自らの力で社会を変えていくのだという意志が一般市民に芽生え、「下からの民主化」がエネルギーを発散させた時代。
芸術家も「大衆」を意識し、時に政治との距離を接近させながら、多様な活動を展開しました。
丸木夫妻の《原爆の図》も、そんな時代のうねりの中にあった作品と言えるでしょう。

会期中の4月25日には、1950年代に、誰にでも作り、人を集めて上映できる映像メディアとして、社会運動の場においても自主製作・自主上映が盛んに行われた幻灯の貴重な上映会も予定しています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2015/2015magic_lantern.html

4月19日(日)には島田澄也さんご自身が来館され、次男で版画家の島田北斗さんとオープニングトークを行って下さいます。
貴重なお話もたくさん伺えることと思います。
ぜひ、皆さまご来館ください。
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2015/3/28

「赤松俊子の旅した『南洋群島』」ギャラリートーク  企画展

午後2時から、法政大学国際文化学部の今泉裕美子さんをお招きして、「赤松俊子の旅した南洋群島」と題するギャラリートークを行いました。
会場には、丸木俊(赤松俊子)や南洋群島に関心を寄せる方々が大勢集まり、熱心に耳を傾けていました。

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長年、南洋群島研究に携わってこられた今泉さんは、俊の存命中に南洋群島についての聞き取りを行い、2002年に『法政大学沖縄文化研究所所報』第51号(法政大学沖縄文化研究所発行)に掲載された「丸木俊がみた『南洋』」という論考も書かれています。

今回のトークでは、俊が旅立った1940年当時の日本と南洋群島との関係の分析からはじまり、俊の眼に映った南洋群島について丁寧に解説して下さいました。
以下はトークの抄録です。

   *   *   *

日本が南洋群島の統治をはじめたのは1914年。俊子が訪れた1940年は26年目になります。
パラオ支庁の人口30,385人のうち、日本人は23,767人(うち朝鮮人1,189人、台湾人2人)を占めるようになりました。現地住民は6,587人。彼らは公的には「島民」と呼ばれ、民族以前の未開の存在とされていました。一等国民は日本人、二等国民は沖縄人・朝鮮人、三等国民は「島民」という差別的な位置づけです。

国家が総力をあげて戦争に向かった時代。南洋群島は「海の生命線」として重要視され、資源の豊富な東南アジア進出の「ステッピングストーン(踏み石)」とも言われました。
南洋庁のあるパラオには南洋神社が建立され、「南洋の総鎮守」という精神的中核の役割を担います。
「日本人」がパラオを「文化南洋」と強調することには、俊子は嫌気がさしていたようです。

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南洋航路船で朝鮮人を描いたスケッチがあるのは初めて知りました。この時期は、政策として朝鮮人を労働動員していたので、急激に朝鮮人の人口が増えていたのです。

俊子の見た南洋群島について、七つの視点から考えていきます。

@植民地支配
俊子は、「日本人」が強調する善政の「あくどさ」を憤る文章を書いています。委任統治は、第一次世界大戦後、民族独立の要求を受け入れつつ植民地支配を継続する体制として考案されました。「文明の神聖なる使命」として自立できない人々を援助するというのです。日本は委任統治に評価を得ることで文明国たる評価を得ようとしました。

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Aアバイ(集会所)
俊子が最初に関心を寄せたのはアバイでした。文字を持たない彼らは、絵で神話などの物語を表現しています。内部の様子を描いたスケッチは珍しいものです。

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Bカトリック教会
政府にとって教会は好ましくない存在でしたが、委任統治では信教の自由を保障する義務がありました。俊子はスペイン人神父のいるミッションスクールや、手工芸の作業を丁寧に描いています。

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C女性
体や表情の描き方が男性画家の描く女性とは違うと思いました。俊子はパラオが女系社会である一方、ヤップ島は男系の身分制の厳しい社会であることに言及しています。

D戦争観
昔大きな戦争があったという話は伝わるものの、死んだ人は一人か二人であったというから、「文明の遅れているといわれる人々の方が、どんなに平和で人間を尊重しているかわからない」と記しています。

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E現地住民がつくりだすもの
俊子はヤップ島のカヌー作りや、女性がパン餅をこねる様子に注目しています。住民独自の表現と創造力への感嘆があふれています。

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Fアンガウル島への出稼ぎ
アンガウル島は、南洋群島で数少ない鉱物資源である燐鉱石の出る島で、ドイツ領時代からさまざまな人が出稼ぎに来ています。俊も出稼ぎ労働者の多様な風俗を描いています。

戦後、俊子は当時を振り返って「その時のその場所の一つ、一つの現象としてしか見る力がありませんでした」と反省しています。1978年にパラオ博物館で個展を開いた際には、島がゴミで汚れ、若者がジーパンをはき、コーラやビールを飲んでいる様子を嘆いています。
その変化もまた、戦後の歴史がもたらしたものです。日本に代わって統治したアメリカは信託統治制度の唯一の戦略地区として統治を許され、原水爆実験を行いました。補助金によって彼らが自立できないような政策も行ってきました。

近年、「パラオは親日」との認識から、パラオの国旗も日本に敬意を示すデザインにしたという話が広がっているようです。
しかし本当は、独自の文化の尊重と自立への気概を表しています。
彼らの長い歴史のなかで日本統治時代をどう位置付けるか。俊子が描いたスケッチは、これを考える大切な情報にあふれているように思います。

   *   *   *

トークの後には、会場からの質疑も活発に飛び交いました。
そのなかで、俊の描いたイメージから植民地批判をどう読み込んでいくことができるのか、という疑問も挙げられました。
個人的には、俊の植民地主義に対する視線は、絵画よりも随筆から鮮明に読み取れるのではないかと思っています。同時代に記された「南洋處々」や「二つの風景」という随筆は、当時の俊の視線を示す重要な資料です。

とはいえ、「内地(日本)人」と「島民」の対比を鮮明に見ようとする姿勢が、結果的に朝鮮・沖縄・台湾の人びとを視界から外していった点もあったかもしれません。
俊の視点の限界、描かれたものと描かれなかったものの意味を見極める必要性も、あらためて考えていかなければいけないと思いました。

まだまだ解明されていない部分の多い俊の南洋群島の絵画群。
これからも、多くの研究者によって、掘り下げられていくことでしょう。
丁寧に俊の作品世界を読み解いて下さった今泉さんに、心から御礼を申し上げます。
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2015/2/8

島田澄也展のための調査  企画展

4月18日から予定している島田澄也展のため、調査協力者のSさんとともにご自宅を訪問。
島田澄也さんは、1927年豊島区長崎町生まれ。戦後、前衛美術会に入り、丸木夫妻のデッサン会にも参加していた画家です。

彼の名前が美術史上に登場するのは、1952年に東京・小河内村で行った山村工作隊の活動。当時武装闘争活動を目ざした日本共産党の指導のもとに、建設中のダムが米軍基地を支える電力源になるとの考えから、建設労働者を組織して破壊活動を行う目的で展開した文化工作でしたが、政治的にはほぼ成果を得られませんでした。

前衛美術会では、島田澄也の主導のもとに、山下菊二、尾藤豊、入野達弥、勅使河原宏、桂川寛の6人が、建設現場付近の洞窟などで約2カ月間キャンプ生活を行いました。
その間、ガリ版刷りの『週刊小河内』(1号のみ発行)を制作し、桂川寛はその経験を生かして油彩画《小河内村》(1952)を、山下菊二は山梨県曙村の山中を訪れて貧農の労働争議で起きた怪死事件を取材し、代表作《あけぼの村物語》(1953)を制作するなど、それぞれの画家としての活動においては忘れがたい体験となりました。

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島田さんも、その後の裁判の様子や牢獄での生活を数点の油彩画に残しています。

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今回の調査では、その1950年代の島田さんの油彩画を実際に見せて頂きました。

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さらに、古いスケッチブックも大事に保存されていることがわかりました。

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山村工作隊で小河内村に滞在していたときのスケッチブックです。

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これらのスケッチはぜひ、丸木美術館でも紹介したいところ。

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さらに、1955年5月に山下菊二とともに原爆の図展のために秋田の大館を訪ねた際のスケッチなども残っていることがわかりました。

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山下菊二の横顔を描いたスケッチもありました。

島田さんは、その後、画家としての活動を止め、東宝撮影所アルバイトを経て、島田工房を設立します。やがて株式会社サンク・アールを創業。ウルトラマンに登場する怪獣、バルタン星人の制作も手がけています。
さらにコマーシャル美術や博物館の展示模型製作等を主体とする業務を30年間続け、引退後は再び絵筆をとり、全国各地を巡って風景画を描いたり、幼少期から山村工作隊までの記憶を克明に描いた200点近くの油彩画の小品を描いたりしてきました。

今回の展覧会では、1950年代の作品とともに、島田さんの記憶に残された戦前・戦後を主題にした小品を展示したいと思っています。
もちろん、丸木夫妻のアトリエで行われていたという早朝デッサン会を描いた絵画もあります。

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戦後70年という節目の年に、ひとりの画家が抱え続けた「記憶」や「体験」を、じっくりと見ていきたい、見て頂きたいと思う充実した調査でした。
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2015/1/10

「赤松俊子と南洋群島」展  企画展

すっかり紹介が遅くなってしまいましたが、12月20日(土)より企画展「赤松俊子と南洋群島」がはじまっています(4月11日まで)。

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1940年1月から半年間、当時日本統治下にあった「南洋群島」――現在のパラオ諸島やヤップ島を単身旅した28歳の赤松俊子(のちの丸木俊)。

ゴーギャンに憧れて南の島に向かった彼女は、当時、パラオに滞在していた彫刻家・民族学者の土方久功に出会い、大きな影響を受けながら、島の人びとの暮らしを見つめ、たくさんのスケッチや油絵を描き、ともに歌い、踊り、豊かな時間を過ごしました。

帰国後の彼女は個展を開催し、雑誌に挿絵や随筆を書き、絵本を刊行するなど、「南洋群島」のイメージを本土の人たちに親しみやすく伝え広げる役割を担います。
それは結果的に政府の「南進政策」を進めるプロパガンダの一翼を担い、1980年代に過去の戦争責任を追及される要因にもなりました。
その一方で、文章や絵画などの表現から感じられる俊の視線は、植民地主義における差別的な人間観から逸脱し、当時の社会矛盾や普遍的な人間の在り方を見つめているようにも思われます。

ともあれ、この南洋体験は、彼女の人生に大きな影響をもたらしました。
明るい陽ざしのもとで伸びやかな暮らしを営む島の人びとの姿に触れることで、豊かな色彩と裸体表現を獲得し、帰国後の作品では「日本画」と「洋画」という従来の枠組みを超えた実験を試み、後の夫婦共同制作《原爆の図》を予感させる表現を生み出します。

今回の展示では、丸木美術館・丸木家が所蔵する26点の絵画、185点に及ぶスケッチや絵本原画などを全点展示しています。

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最初の展示室には、《パラオ島》、《ヤップ島》といった、南洋情緒あふれる代表的な油彩画を中心に展示しています。

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次の展示室には、細密な線描に「垂らしこみ」や「渇筆」といった「日本画」の技法を試みた実験作《休み場》、《アンガウル島へ向かう》とともに、水墨の「にじみ」や「ぼかし」を生かして南洋の人物を描いた《双猫》も紹介しています。
この辺りは、帰国後に結婚した丸木位里の影響が色濃いと思われる作品です。

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そして、大きな企画展示室の壁には、三段掛けでスケッチをずらりと並べました。
ちょっと禁欲的な展示で、もう少し見せ方を工夫してもよかったかな……という思いもありますが、ともあれ、若き俊さんのスケッチをこれだけ公開するのは、おそらく初めてのことなので、ぜひじっくりとご覧頂きたいと思っています。

南洋航路船の中で出会った朝鮮人移民の家族を描いたスケッチも数点あります。

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〈1940.1.22 笠置丸より下船の半島移民〉
この時期に「南洋群島」に渡った画家たちは大勢いましたが、朝鮮人移民の姿を描いた画家は他にいるのでしょうか。
俊がなぜ彼らの姿を視界にとらえ、描いていったのかも気になるところです。

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また、《アンガウル島へ向かう》のもとになったと思われる構図のスケッチもあります。
植民地政策への複雑な心情が垣間見える倦怠感の漂う《アンガウル島へ向かう》に比べて、何となく明るい雰囲気が感じられる船内を描いたスケッチです。

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展示ケースの中には、俊が南洋庁昌南倶楽部で開催した個展のパンフレットや、寄せ書きや書き込みのあるノートも展示しています。

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「南洋群島」から帰国後に出版された絵本や装幀本も展示しています。
戦時下の物資不足にもかかわらず、「南洋」を描いた俊の出版物は豊富です。
俊の画家としての活躍のきっかけは、やはり国策に沿った「南洋群島」の仕事だったのだと、あらためて感じます。

俊は資金をためてパラオの小島を買い取り、アトリエを建てて絵を描いて過ごすことを夢見ていましたが、ほどなく太平洋戦争がはじまり、数年後には「南洋群島」は最前線の戦場と化します。その意味では、俊はもっともよい時期に南洋を体験したのでしょう。
複雑な時代背景もある展示ですが、ともあれ先入観抜きに、若き俊が明るい南洋の日差しの下で、何を見て、何を感じ、何を描いたのか、ぜひじっくり堪能して頂ければと思っています。

なお、会期中にはさまざまなイベントも準備しています。
寒い時期ではありますが、ぜひ、熱い「南洋」の展示をご覧ください。

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●特別トーク企画「『南洋群島』とその後のマーシャル諸島」

2015年2月22日(日)午後2時より/参加費500円(入館料別途)
ゲスト:テンポー・アルフレッド(アイルック自治体議員)、ロザニア・アルフレッド・ベネット(マーシャル諸島国会元職員)


当日は市内循環バス運休のため、午後1時に東武東上線森林公園駅南口に丸木美術館の送迎車が出ます。

1914年から1945年にわたって日本が「南洋群島」として支配下においていたミクロネシア。第五福竜丸の被ばくで知られる米国の核実験が実施されたマーシャル諸島もそのひとつです。
マーシャル諸島にとってのアジア太平洋戦争の終了は、日本統治からの「解放」ではありましたが、平和を約束するものではありませんでした。冷戦という新たな戦争の最前線に送り込まれ、67回に及ぶ米国の核実験の被害を受けました。
日本統治時代に生まれたテンポー・アルフレッドさんと、日本人の祖父をもつロザニア・ベネットさんをお迎えし、お二人の話を通して、朝鮮半島や中国などアジアだけではない、もうひとつの近隣地域であるミクロネシアに目を向け、日本との歴史的な深いかかわりを見つめなおします。(企画:竹峰誠一郎)

テンポー・アルフレッド(Tempo Alfred)
1954年水爆実験の時、マーシャル諸島アイルック環礁で被爆、当時13歳。地元小学校の元校長。退職後、現在までアイルック自治体議員を務める。

ロザニア・アルフレッド・ベネット
(Rosania A. Beneett)
40代女性、テンポーの姪、母方に日本人の祖父をもち、アイルックの地域社会の一員として育つ。南太平洋大学で法律学を専攻し卒業、マーシャル諸島国会元職員で、首都マジュロに暮らす。

●ギャラリートーク「赤松俊子の旅した『南洋群島』」
2015年3月28日(土)午後2時より/参加自由(当日の入館券が必要です)
出演:今泉裕美子(法政大学教員)


当日は東武東上線高坂駅西口12時7分または東松山駅東口13時12分発市内循環バス唐子コースをご利用ください。

赤松俊子の旅した「南洋群島」とはどのような場所だったのか?
ミクロネシア研究者の今泉裕美子氏をお迎えして、パラオやヤップなど俊の訪れた島を中心に、日本とミクロネシアの歴史的関係についてお話しいただきます。

※なお、丸木美術館へのご来館は、お車または森林公園駅南口からタクシー約10分、つきのわ駅南口から徒歩27分(駅窓口で地図がもらえます)という交通手段もあります。
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2014/12/4

中島晴矢パフォーマンス動画とトーク企画のお知らせ  企画展

先日の「今日の反核反戦展2014」オープニングイベントのラストを飾った中島晴矢さんのパフォーマンスが、動画で公開されています。



歌っているのは中島さんですが、他の作家さんたちが協力してステージを作り上げていて、非常に盛り上がりました。
今までの丸木美術館の「反核反戦展」では見られなかった新しい光景で、今後の可能性を感じました。

   *   *   *

12月13日(土)まで、丸木美術館2階アートスペースでは、中島さんの個展「上下・左右・いまここ」も開催しています。

急きょ、12日(金)午後1時から午後2時半まで、若い世代の企画による“「反戦」を乗り越える〜「反」という抵抗姿勢の次段階とは?〜”というトークも設定されました。

この企画は、2014年9月に東京・世田谷区のSNOW Contemporaryで開催された「反戦――来るべき戦争に抗うために」展のスピンオフ企画第2弾として開催されます。

中島さんに加え、「反戦展」に運営スタッフとして参加した居原田遥さんと木村奈緒さんという 同年代の3人が、それぞれの「反戦」体験を踏まえて互いに質問を投げかけます。
展覧会を超えて生まれた「反戦」のアクションに是非ご参加ください。
予約不要、観覧無料(展覧会観覧には別途入場券が必要です)。
Ustream中継の予定もあるそうです。

【出演者プロフィール】

居原田遥(いはらだ・はるか)
1991年 沖縄生まれ。東京芸術大学大学院在籍。現代美術・文化研究を専門にキュレーション、展覧会企画・運営などを行う。主な企画運営に、「柳井信乃個展 うつし身-ghost self」(2014・松戸) 「寄り道キャラバン」(2015)

中島晴矢(なかじま・はるや)
1989年生まれ。現代美術家、ラッパー。主な個展に「ガチンコーニュータウン・プロレス・ヒップホップー」(ナオ ナカムラ)、「REACH MODERN」(ギャラリー アジト)など。

木村奈緒(きむら・なお)
1988年生まれ。上智大学文学部新聞学科卒業。美学校手伝い兼フリーライター。「工藤哲巳ナイト」「ヨーゼフ・ボイスナイト」などイベント企画も。現在、美術家・会田誠さんのエッセイにて共同執筆中。

   *   *   *

また、個展最終日となる翌13日(土)午後3時からは、クロージング・イベントとして、個展の企画者でもある美術評論家の福住廉さんと中島さんのアーティストトークも行います。
予約不要、観覧無料(展覧会観覧には別途入場券が必要です)。
こちらもぜひ、お見逃しなく。
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2014/11/22

今日の反核反戦展2014オープニングイベント  企画展

実行委員会形式となって、初めて迎えた「今日の反核反戦展2014」
穏やかな気候に恵まれて、オープニングイベントが開催されました。

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この日を迎えるまで、さまざまな出来事がありましたが、呼びかけ人の池田龍雄さんが無事に開会の挨拶をして下さったことは、本当に喜ばしい限りです。

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出品作家のひとりで、丸木美術館の理事でもある万年山えつ子さんのご家族が、美味しい料理をたっぷりと用意して下さいました。
池田さんの音頭で乾杯し、料理を楽しみながら歓談します。

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午後1時からは出品作家によるパフォーマンスがはじまりました。
まずは奈良幸琥さんによる「ひふみ祝詞」です。

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続いては、SYプロジェクトによるパフォーマンス「ゼロベクレルプロジェクト」。
朗読は内田良子さん、ダンスは万城目純さん、清水友美さん、サウンド石川雷太さんというメンバーでした。

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さらにスタジオ・ヴォイドのお二人、岩田恵さん(筝)+阿部大輔さん(尺八)による演奏が続きます。

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大橋範子さんの「human possibility」は、衣服をすべて脱ぎ捨て、シンバルを叩きながら「殺すな!」「生きろ!」と絶叫し続ける迫力のパフォーマンス。

実はこのパフォーマンスの真っ最中に、地元郵便局の配達員が来てしまったので、慌てて受け取りに走ったところ、郵便物のなかにダダカン(大阪万博の際に会場を裸体で疾走した伝説的な裸体行動芸術家)から大橋さん宛ての激励の手紙があったという嘘のような凄い偶然もありました。

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「日本国憲法全文朗読会」のパフォーマンスもありました。村田訓吉さん(歌と舞)、坂本美蘭さん(音楽・歌)、岡野愛さん(踊り)、小森俊明さん(音楽)、坂田洋一さん(記録)というメンバーです。

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その後、場所を移動して、美術館の奥のロビーで行ったのは黒田オサムさんによる「ほいと芸」のパフォーマンス。すっかり丸木美術館「反核反戦展」恒例の公演となりました。

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休憩をはさんだ後、舞台を八怪堂に移して、ZEROVOIDのノイズサウンドインスタレーション「Requiem for a Bad Dream」。演奏は圓城寺俊之さんとナカガワユウジさん。
夕暮れの近づく都幾川に、大音量のノイズサウンドが響き渡ります。

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4時間に及ぶイベントの最後を飾ったのは、招待作家でもある中島晴矢さんのラップミュージック「イマココ」。
歌詞に丸木美術館も盛り込みながら会場のテンションを上げていく中島さんのパフォーマンスに、次第に客席から舞台に乱入する人びとがあらわれてきました。

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舞踏家も画家も彫刻家も評論家も観客も、若者もシニア世代の方がたも、みんな次々と踊り出す、混沌とした自由空間。
最後は何と、池田龍雄さんまで舞台に引っ張り込まれて、この日のイベントは最高潮の盛り上がりで幕を閉じました。

運営を実行委員会形式に変えて、展覧会にも新しい風が吹き、とても良い内容になったと実感した一日。来場された方々の喜びの声が聞こえてくるのは、美術館の職員としてとても嬉しいものでした。
実行委員はじめイベントをお手伝い下さった皆さま、本当にお疲れさまでした。

さらに実行委員会からの提案で、急きょ、12月6日(土)午後3時から出品作家によるアーティストトークが開催されることも決まりました。

この日は午後1時から、青柳秀侑さん(朗読)、高瀬伸也さん(企画・演奏=ピアノ)による朗読公演“Are You Ready for the Coutry? 〜永井荷風の日記にみる「戦争という日常」〜”も行われます。 永井荷風の日記『断腸亭日乗』の朗読です。

どちらも参加無料(当日の入館券は必要です)のイベントですので、ぜひ、皆さま、12月6日は丸木美術館にお運びください。

(写真撮影:山口和彦)
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2014/11/19

今日の反核反戦展2014/中島晴矢個展「上下・左右・いまここ」  企画展

「第五福竜丸/ゴジラ 1954→2014」展も無事終了し、日曜日は大勢のボランティアや反戦展実行委員会スタッフの方がたにお手伝いいただきながら展示替え作業。

1年間のお休みを経て、今年から実行委員会形式となった「今日の反核反戦展2014」は、16日、18日と2日間の作業でようやく展示がほぼ完了しました。

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今年の出品作家は60名+4グループ。
それぞれの思いを込めた、「反核反戦」をテーマにした展示が、会場いっぱいに並びました。

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芸術は断じて権力に利用されてはならない。
権威になびいてはならない。
何ものにも冒されてはならないのだ。
むしろ、でき得ればこちら側があちらを変えるくらいの力を見せたいものである。


出品作家であり、呼びかけ人でもある池田龍雄さんの言葉です。

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描かずにはいられない、表現せずにはいられない、時代への危機感を、展覧会を通じて感じて頂くことができるでしょうか。

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展覧会は20日からはじまりますが、オープニング・イベントは11月22日(土)12時30分から行われます(参加自由、当日の入館券が必要です)。
22日に行われる予定のパフォーマンスは以下の通り(順番は未定)。

■大橋範子『human possibility』
■『日本国憲法全文朗読会』 村田訓吉(歌と舞)、坂本美蘭(音楽・歌)、小森俊明(音楽)、坂田洋一(記録)
■SYプロジェクト『ゼロベクレルプロジェクト』 内田良子(朗読)、万城目純(ダンス)、清水友美(ダンス)、石川雷太(サウンド)
■ZEROVOID『Requiem for a Bad Dream』 圓城寺俊之+ナカガワユウジ(ノイズサウンドインスタレーション)
■奈良幸琥
■黒田オサム(ほいと芸)
■スタジオ・ヴォイド/岩田恵(筝)+阿部大輔(尺八)


   *   *   *

また、2階アートスペースでは、美術評論家・福住廉氏の企画による中島晴矢個展「上下・左右・いまここ」も特別開催。
ラッパーにして現代美術家という中島さんによる展示は、「反核反戦展」に今までにない刺激的で新しい風を吹き込んでいます。

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会場でまず目に入るのは、中島さん自身が歌うラップ・ミュージックの映像作品《イマココ》

無数の大惨事以後 詩を書くことは野蛮さ/弱肉強食のこの世はまるでサバンナ/マスじゃなくコアなメディアだってプロパガンダ/かもしれない 気づきゃまたコメカミにガンか?

過去の栄光に浴さんと大政翼賛/売り歩く原子炉は大抵国産/そろばん弾いて取らぬタヌキの目算/「この武器は今がお買い得ですよ奥さん!」/おカミさんの描く餅はおしなべてキナ臭い/息の詰まる社会によるカミカゼ式スーサイド/「強いられてんの未だに!?」/これっていわばジェノサイド?

上下! 首振って階級をシェイク/左右! 腰揺らし両翼をブレイク/この現代は嘘も偽りもねぇ/いまここ、いまここ


韻を踏みながら小気味よく今の日本社会の鬱屈した空気感に切りこんでいく歌詞に、おお、面白い作品だぞこれは!とすっかり感心してしまいました。
平成世代の若者もなかなかあなどれませんね。

丸木美術館にラップ・ミュージックが流れるのは、おそらく初めてのこと。
《原爆の図》の空間とうまく溶け合うのかどうか、少々心配もしていましたが、あまりに異なる方向性の表現が案外共鳴するということも過去に経験があるので、ともかく、来場者の反応を楽しみに見てみたいと思っています。

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また、その他の壁面には、ナチスへの募金広告や国民的アイドルを起用する自衛官募集CMなどのパロディ《Japan Collective-Self-Defense Forces》や、三島由紀夫とレディ・ガガを混合させ、戦後日本の「アメリカの影」を表現した《THE FAKE MONSTER》、あるいは《日の丸―陥没、漏洩―》《世界後核戦争宣言》といった挑発的なタイトルの作品もならんでいますが、これらの作品は言葉で説明するよりも、ぜひ会場で実際に目にして頂きたいところです。

ともあれ、展覧会の開催にこぎつけた実行委員の皆さまの努力、そして福住さん、中島さんのご協力に、心から感謝いたします。
新しく生まれ変わった「今日の反核反戦展2014」、どうぞ、お見逃しなく。
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2014/10/18

粟津潔 meets 秩父前衛派  企画展

企画展「第五福竜丸/ゴジラ 1954→2014」の関連企画として、午後2時よりスペシャルライブ「粟津潔 meets 秩父前衛派」を行いました。

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はじめに、粟津潔のポスターが貼りめぐらされた展示室で、ご長男の粟津ケンさん(KEN主宰)が、粟津潔の表現者としての精神についてのお話をして下さいました。

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今回の展示では、粟津潔のデビュー作である《海をかえせ》からはじまり、原水協時代のポスターを軸に、その後の幅広い活動の中から反戦や反核、人権問題など社会性の感じられる仕事を主に紹介しています。
「多岐にわたる活動を短い時間で話すのは難しい」と言いながらも、ケンさんは、「表現者がまっとうな仕事をしようとすれば権力に対峙するのは必然」と本質的な話をしていました。
とりわけ、「忘れ去られていくものを掘り起こす」という点で、粟津潔の仕事と笹久保伸の「秩父前衛派」は共通しているのではないか、というのがケンさんの視点です。

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秩父出身のギタリスト笹久保伸さんは、ペルーに渡り、アンデス音楽を学んできましたが、近年は「秩父前衛派」と名乗り、秩父が歴史的に背負ってきた土着の“前衛性”に関心を広げ、音楽はもちろん、映画、絵画などさまざまな領域を横断するように表現活動を展開しています。

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かつて秩父地方で織物づくりや農作業の合間に庶民に歌われ、高度経済成長の時代に消えていった“仕事歌”を掘り起こし、『秩父遥拝』と題するCDを出したばかりの笹久保さん。

この日のライブでは、はじめに秩父の機織り歌を2曲と「武甲山の雨乞い歌」を歌いました。

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続いて、ペルーの山岳地域アヤクーチョ出身のケチュア語の歌手イルマ・オスノさんが、笹久保さんのギターとともにアヤクーチョの仕事歌などを歌いました。

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10歳頃までは、実際に仕事歌を聞きながら育ったというイルマさん。
独特の音域、節回しで歌う彼女の歌声は、丸木美術館にアンデスの風をもたらします。

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続いては、民俗楽器サンポーニャを演奏する青木大輔さんが加わり、アンデスの風は一気に加速度が増しました。
群馬県高崎市出身の青木さんは、9歳で日本に出稼ぎに来ていたペルー人にサンポーニャを教わり、以後、サンポーニャひとすじ、独学で研鑽を積んできたという“鬼才”です。

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その圧倒的な存在感には、初めて「秩父前衛派」の演奏を聞いた丸木美術館事務局のYさんも度肝を抜かれたようです。

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最後は三人そろってオリジナルのアヤクーチョの「カント」を演奏。
イルマはアヤクーチョ伝統の巨大なハサミを手にして、鳴らしながら歌います。

ペルーの山岳地帯・アヤクーチョと日本の山岳地帯・秩父の融合。
決して大勢の観客が集まったわけではなかったのですが、その分、演奏者と客席との距離が近く、濃密な雰囲気のライブになりました。

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最後に、残ってくれた熱心な観客の方がたと出演者で記念撮影。
友の会会員のTさんは、この日の夜、購入したCD『アヤクーチョの雨』を聴いて、興奮のあまり眠れなくなってしまったそうです。

この土地から生まれる/この土地からしか生まれない“文化”を大切に育て、再発見していく。
その意味では、「秩父前衛派」の活動には大いに共感するところがあるので、今後も彼らの活動を見続け、また機会をみて演奏会を企画したいと思っています。
今度は、もっと大勢の方に見に来て頂ける企画として。

素晴らしい演奏をして下さった秩父前衛派の皆さん、そして観客の皆さんに、心から御礼を申し上げます。
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2014/10/13

「第五福竜丸/ゴジラ展」黒田征太郎トークペインティング  企画展

台風が近づくなか、午後2時から黒田征太郎さんのトークペインティングを開催しました。
昼頃から雨が降りはじめ、誰も来なかったらどうしようと心配していたのですが、参加して下さったお客さんは約20人ほど。とても嬉しく思いました。

トークは、まず、黒田さんのお名前「征太郎」の話からはじまりました。
昭和14年、1939年生まれの黒田さんは、征服の「征」が名前に入っていることについて、私たちの世代はずっと戦争を背負っている、と言います。

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黒田さんのお父さまは、もともと筑豊で炭鉱の仕事をしており、大阪に出てきて軍需産業の会社を興し、戦争とともに経営を拡大していったとのこと。
戦争と生活が深くつながっていた時代に、黒田さんは生まれてきたわけです。

5歳の頃に、西宮に転居。そこで空襲を体験します。
そのとき避難所になった母校の小学校を、再び訪れたのは1995年の阪神大震災の直後。
偶然通りかかった避難所が母校だったと気づいたとき、自分の人生は避難所から避難所を渡り歩いてきただけだったのではないか、と感じたそうです。

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戦後すぐに父親を病気で失い、「国の破たんと家庭の破たんが同時に来た」という黒田さん。
生活は困窮し、10代で輸送船の船員として働くようになりましたが、そのとき頻繁に渡っていたのが、沖縄でした。ベトナム戦争に向かう兵士たちとも、いっしょに船に乗っていたとのこと。
「沖縄に米軍基地を作るのにも加担していた」との思いもあるそうです。

作家の野坂昭如さんとの出会いや、米国へ移住し2001年の「9.11」を間近で体験したことも、黒田さんが戦争を考え、表現し続ける大きな道標となったようです。
奇跡のように生まれてきた命の可能性を使い切ることが一番大事、と考える黒田さんにとっては、本人の思いに反して命を断ち切られる戦争は、理不尽そのもの。

決して声をあげて「戦争反対!」「原発反対!」と叫ぶ生真面目な人間ではない、と言いつつも、誰もが自由に生きることのできる世界を作るために、自分に何ができるかを考え続けていらっしゃるようでした。

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そんな話を1時間ほどしてくださったあとで、黒田さんは一本のクレヨンを取り出しました。
「クレヨンはどうしてできたのか?」という突然の難しい質問に、会場の人びとは戸惑います。

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目の前にきれいな花があって、持って帰りたいと思ったとき、花を摘むと枯れてしまうかもしれない、だから、その代わりにクレヨンで花を描いたんだ、と言いながら、さらさらっと一輪の花の絵を描く黒田さん。

今、生きていることを、記憶するために描く。
それが黒田さんにとっての絵なのだということが、とてもよくわかりました。

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それから、みんなで自由に絵を描くことになりました。
今、生きていることを、記憶するために。

それぞれが描いた絵の上に、黒田さんも絵を描いて下さるそうです。
大人も子どもも、クレヨンを持って、一所懸命に手を動かしています。

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丸木俊さんの姪で、絵本作家のひさ子さんも参加して下さいました。
ひさ子さんが描いた野菜の上に、黒田さんが生きものたちの絵を描いて、とても素敵なコラボレーションになりました。

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楽しい時間を過ごすことができて、みんな大よろこび。
最後に黒田さんは、みんなで丸木美術館を大事にしよう、と呼びかけて下さいました。

《原爆の図》がアメリカに渡るときには、ニューヨークの街に車で《原爆の図》のスライドを投影しながら走り回ったら面白いんじゃないか、と大胆な提案もして下さいました。

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今回の展覧会で、黒田さんは《原爆の図》への応答のように、絵のなかに描かれた子どもたちの姿をたくさん描き出して下さいました。
それらを、黒田さんがこれまでに描きためた絵といっしょに、壁いっぱいに作品を展示して下さっています。

戦争をテーマにしているのに、見ているだけで楽しくなってくるような、不思議な空間です。
優しく、力強く、温かく、繊細な、黒田さんの人柄が、絵のなかから伝わってくるようです。
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2014/9/13

長沢秀之オープニングトーク「想像力としてのゴジラの復活」  企画展

いよいよ「ビキニ事件60年企画 第五福竜丸/ゴジラ 1954→2014」展がはじまりました。
午後2時からは、オープニングトークとして、ゴジラ展示のディレクションをされた長沢秀之さんにお越しいただき、「想像力としてのゴジラの復活」と題する対談を行いました。

この企画がはじまった経緯や、日米のゴジラの比較、現状を打開し伝えていく力としての想像力の意味など、対談の内容はさまざまに広がっていきました。
以下に、その抄録を掲載いたします。

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岡村 今日はオープニングトークとして、「大きいゴジラ・小さいゴジラ」の展示を企画された長沢秀之さんにお越しいただきました。

長沢 よろしくお願いいたします。

岡村 実は今朝ようやく展示が終わったんですが、今回の展示の印象はどうでしたか?

長沢 最初に会場に入った印象は、かなり難しいところだと思いました。天井が高くて、棚もあったのでどういうふうにできるか戸惑ったのですけど、途中から、「大きいゴジラ」から「小さいゴジラ」が無数に発生したという文脈が生かせるんじゃないかと考えました。
 棚の上に鏡を置いて覗き込む作品は《ゴジラの逆襲》という題名をつけたのですけど、今朝も3つくらい壁から逆さにゴジラが落ちてきたんですよ。まさか本当にゴジラの逆襲にあうとは思いませんでした……何とか事なきを得たのですけど(笑)。

岡村 《ゴジラの逆襲》は丸木美術館で初めて展示されたんですが、この「大きいゴジラ、小さいゴジラ」は、最初に小平の中学校、2回目に川越市立美術館でやって、私が知ったのも、川越の展示を見た際でした。川越第一小の生徒も参加していて、ゴジラを題材にしたワークショップ展かと思って観に行ったら、内容がおもしろくて驚いたんですね。
 何がおもしろかったかと言うと、いわゆる東宝映画のゴジラの展示はひとつもなくて、いろんな人たちのゴジラのイメージの展示であるということ。
 それから、3.11を経た現在にゴジラがどう関わってくるのか、そもそも最初の映画に登場するゴジラが、いかに戦争や核、自然環境など、われわれの生きる社会の問題を背景に生まれてきたかということを、浮がび上がらせている内容で、びっくりしてしまったんです。
 この企画を考えた長沢さんのことは、以前にも作品を拝見していたんですが、またちょっと違う展開をされているなと、興味深く思いました。

長沢 岡村さんが川越の展覧会を見て、すごくおもしろかったと言ってくれたのは嬉しかったですね。きっかけとなったのは、2009年に描いた《大小のゴジラ》という絵があるんですけど、画面に大きく描くとそれは近いのか、大きいのか、小さく描けば遠いのか、それとも本当に小さいのか、そういう問題を前から考えていたんです。
 ところが、3.11があった後に現実的な問題としてとらえて、「大きいゴジラ」が1954年の映画のゴジラだとすると、2011年3月11日に「小さいゴジラ」が無数に生まれたのではないかと。そういうイメージを考えたとき、これはおもしろい展開になるんじゃないかと思ったんですね。
 ちょうどその頃大学で、中学校を使って学生と地元市民、中学校の生徒をも巻き込んだ展示の企画があったので、教室のホワイトボードに3月11日に無数に発生したゴジラをみんなで描こうと提案したんです。そうしたら、学生の反応がすごくあって。
 それまでは美大ですから、学生が「3.11があって、こういうなかで絵を描いたりできるんでしょうか」という問題をずっと抱えていたんですね。ボランティアをしなければいけないんじゃないか、絵なんか描いていられないんじゃないか、と。もちろんボランティアをした学生もいましたけど、1年たつと、どうやら自分たちは違った形で何かできるんじゃないかと考えはじめたわけです。それで、ぼくが提案したことに、みんなが「やろう」と乗って来た。
 直接的に大きかったのは、石巻の高校生が10日ぶりに瓦礫の中からおばあちゃんといっしょに救出されたというニュース。高校生が病院に入って、「将来何になりたい」と聞かれて「芸術家になりたい」と言ったんです。本当は「美術関係の仕事をしたい」と言ったらしいんですけど、とにかく「芸術家になりたい」という言葉が新聞に出て、それがものをつくる人たちの琴線に触れることがあったと思います。こういう状況でも、人間は想像することが可能なんだと。
 1954年はまだ戦後間もない頃で、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験があって、そういう中でああいう想像力があり得た。それから3.11を経て、ぼくらが今置かれている、放射能だって消えていない状況の中で働く想像力もあり得るんじゃないかと、確信を持ったんですね。
 実際に展示が始まったら、学生も中学生たちも、食い入るように見ているんですね。ああ、こういうことを求めていたんだなと、実感しました。そういうことで、ぼくが知っているゴジラや戦後の歴史と、最近のメカゴジラくらいからしか知らない若い世代、彼らは昔のゴジラは知らないんですけど、そこを接続させていくことが可能になったのだと思います。

岡村 ゴジラっていうと、今の子どもたちは何となく知っているようで、最初の映画は見たことがない。この機会にあらためて映画を観た学生たちは、自分たちが思っているゴジラと映画の内容が全然違ったと思うんです。
 美大生に限らず、3.11後の世界を考える、核の問題にどうアプローチしていくかということは、ストレートに投げかけてもなかなか入っていけないところがあるかもしれないんですが、そこをゴジラっていう、一見、親しみやすいんだけども、核の本質に触れていく存在を入口にして広げていったという点が、この企画の興味深いところですね。

長沢 表現する側からすると、ゴジラは何より破壊する面白さがある。お笑いのキャラクターの頂点に立つような意味もある気がするんですね。
 それから現実的な意味として、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験があり、第二次世界大戦で死んだ兵士たちの象徴であるとか、その亡霊であるという加藤典洋さんの論もある。日本はたびたび災害に見舞われてきたので、それがゴジラとして表されたとか、そういう諸々の意味が含まれているから、格好の素材だと思ったわけです。
 今までの展覧会だと版権の問題が出てきて誰も手を出せないけれども、想像力の問題に持っていけば、つまり、一般の人、誰もが考えるゴジラまでは版権は及ばない。そこがおもしろくなるんじゃないかと思ったんですね。

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岡村 いわゆる「ゴジラ展」は、映画に使われた着ぐるみとか資料があって、どういうふうにゴジラが作られてきたという部分を見せるわけですが、今回はまったく違う次元からゴジラを扱う。本当におもしろいし、想像力を刺激する、ここからまた何か派生して、ゴジラについて考えていこうということになるかもしれませんね。
 3回続けてこられて、その都度、作品も変われば出品者も変わる、お客さんの反応も変わる、会場が変わればいろんなことが変わってくると思うんですが、回を重ねていく中で、長沢さんはどういう変化があったと思いますか?

長沢 最初に中学校でやったときはワークショップ的な意味合いが強かったように思います。ところが、だんだん本を読んだり、映画を観たりしているうちに、これは真剣にやればやるほど問題を掘り起こせるテーマだということがわかってくるんですね。
 川越でやったときも、川越の美術館の人はワークショップの延長上に展覧会を考えて軽い気持ちで声をかけたんだと思うんだけども、その時には、ぼくの気持ちが、これは単なるワークショップではないんだと。だから、最初に美術館に、ぼくは「ワークショップじゃやらないよ、そういう展覧会じゃないよ」と言って、意思統一してもらったんですよ。内容としてはワークショップも含まれているんですけどね。

岡村 ワークショップの作品も、川越の展覧会では凄く効いていたと思います。

長沢 川越の場合はこどもたちにゴジラをどんどん描いてもらって、1954年から2014年まで、大人たちがどんなふうにこの年代を過ごしてきたのかを年表にまとめたんですけど、なぜ2011年にああいう出来事が起きてしまったのか、大人には説明責任があると思ったんですね。ぼくも含めて。
 それを語るのにゴジラは媒介になると感じました。年配の人が持っている歴史と、それを知らない若い人たちやこどもたちがゴジラを媒介にしてつながる。こどもたちの楽しそうないい絵を見るにつけ、大人はその子たちの未来に責任があるのだとつくづく感じました。
 よく言われることですが、日本の文化や歴史は切れちゃうんです。つながることがなかなか難しい。そこをつなげられたかなと思っていた時に、丸木美術館の展示の話を頂いたんです。そして次に、第五福竜丸展示館からも話を頂いて、やっぱりつながってくるなと思いました。
 この美術館には何回も来ているんですけど、ここでこんな楽しそうな展覧会をしたらまずいんじゃないかなという気持ちもあったんですが(笑)。

岡村 楽しい展覧会はどんどんやっていきたいですけど(笑)。
 丸木美術館でなぜゴジラの展示をするのかというと、まず、ゴジラが核実験によって太平洋の眠りから覚まされたという点では、《原爆の図》と共鳴する部分がある。
 それから、丸木俊さんは「絵は誰でも描ける」という考えをもっていて、その象徴が位里さんのお母さんのスマさんだったわけですが、誰でも表現者になれるという可能性も、この「ゴジラ展」にはあるように思うんです。美大の先生もいれば学生もいる、あるいは中学生、小学生もいっしょに展覧会を作り上げていく、そういう意味で多くの人に開かれる可能性を持った展覧会としておもしろいと感じたんです。
 初代ゴジラの映画は、この間、何度か観直して、昨夜も観たんですが、核実験から生まれてきたということに加えて、ゴジラが東京を襲い、人びとが逃げ惑うイメージは完全に空襲ですよね。戦争が終わってからまだ9年しか経っていない、多くの人たちの中にまだ空襲の恐怖が染みついている時期に、ゴジラは東京を襲う。
 母と子が抱き合いながら、「もうすぐお父ちゃまのところに行けるのよ」という台詞が出てきたりとか、電車の中の会話で「いやね、原子マグロだ、放射線雨だ、その上今度はゴジラときたわ」と言った後に、「せっかく長崎の原爆から命拾いしてきた大切な体なんだもの」と原爆につながる台詞が出てきたりとか。映画の最後に「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。あのゴジラの同類がまた世界のどこかに現れてくるかもしれない」という、まさに無数の「小さいゴジラ」の出現というイメージともつながる終わり方をしている。いろんな部分で戦後の日本の歴史やわれわれの現在が重なるんです。
 最初にゴジラが出現する島でも、実はゴジラは初めて出てきたわけじゃない、ゴジラを鎮める神楽が伝わっているし、昔の島の伝説のなかにゴジラが語られている。それを多くの人は忘れているけれども、老人は知っていて、語り継いでいる。それは3.11の津波の言い伝え、土地の古い人たちは覚えているという話にもつながると思いました。

長沢 ぼくは大学時代に映画をやっていて映画がすごく好きで、「ゴジラ」も小さい頃に観て怖いなと思っていたんですけど、今見ても暗くて。あの暗さがすごくいいですね。学生に聞いても、あんな暗い映画に接したことがないので、新鮮に見えるみたいですね。
 いろんな不安の背景がある中で想像力を巡らせる、日本人の想像力は凄いなと思いますね。もっと自分たちの歴史として誇っていいと思います。今回、アメリカで公開された「ゴジラ」の監督は若い監督ですが、日本のゴジラをすごくリスペクトしている人ですよね。
 ただ、映画としてはヒットしているのですが、ぼくはあまりいいとは思いませんでした。

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岡村 アメリカの「ゴジラ」との比較を聞かせてください。

長沢 ゴジラをとらえるリアリズムの問題ですね。アメリカは、生物学的なリアリズムに基づいた怪獣としてゴジラを設定しないと、映画として動かせない。だから、足を見ても、恐竜やトカゲに近い設定になっているわけです。
 ところが日本は、着ぐるみ――ゴジラスーツを履いて、ドシン、ドシンと歩いて行って、ミニチュアのセットを相手にする。大きい、小さいという問題には昔から興味があるですが、それをうまくやっている。ゴジラに人が入っているんだということはみんな知っているわけです。人が入っているのに、巨大な怪獣に見なす力は、西洋のリアリズムとは違っているんですね。
 ぼくは、文楽にある日本のリアリティと共通するものを感じるんですが、一つの人形が出てきて、三人の男が操作するわけですよね。それを最初に観たときびっくりしてしまった。人形といっしょになぜ三人の男が出てくるんだと。ところが、ずっと見ていると、気にならなくなって、物語に引き込まれてしまう。そういう見方を日本は昔から持っているんですね。西洋のリアリズムとは違う。だけど、ぼくらは西洋のリアリズムを勉強しないと、もっと深みに行けないと思ってしまうところがあって……そうでない、リアリズムとも呼べないようなリアルを見つければ、発揮できるものがたくさんある。その象徴がゴジラである気がするんですよ。
 この展覧会では、映画そのものは出さないけど、映画へのオマージュとして《フィルムとしてのゴジラ》も展示しているんです。フィルム面に描いた作品に光が透過することによって、映画が成立する。それから、ものを描くのも光と影でドローイングが成立する。絵画と映画の原点です。

岡村 川越では、窓に展示していた作品ですよね。丸木美術館にはこれだけ大きな窓がなかったので、壁に展示していますけれども。
 2014年のアメリカの「ゴジラ」映画は、どうご覧になりましたか?

長沢 えーと……あまり顔が良くないですね(笑)。

岡村 下半身は、日本のゴジラみたいでしたよね。

長沢 下半身はどっしりした感じで雰囲気良くなっていると思うんですけど、顔がやっぱり……眼の開き方が恐竜みたいで。あそこに展示した《ゴジラの目》は3日くらいで、新聞紙で作ったんですけど、ああいう日本のゴジラのぱっちりした目のかたちに比べると、アメリカのゴジラはリアリズムに基づいているんでしょうが、違和感がある。
 それから全体的にはハリウッドの基本である家族の大切さ、親子の物語になっているけれども、なんでムートーという敵役の怪獣が出てくるか必然性がわからない。
 それに比べると日本のゴジラは、かなりひどい状況になっても、なればなるほど、人間は想像力を働かせるんじゃないかと勇気を与えてくれる映画ですよね。今回の2014年のアメリカのゴジラは、残念ながらそういう感じではなかった。

岡村 都合のいいゴジラだな、とは感じましたよね。50年代の核実験が、実は実験ではなくてゴジラを倒すためだったという正当化には、びっくりした。

長沢 都合がいいですよ。

岡村 人類にとって脅威になっていたムートーをゴジラが倒してくれて、倒したらすぐに太平洋に帰っていく。初代ゴジラのある種の不条理な人間に対する脅威とは違ったエンターテインメントかなと思いました。

長沢 それと、放射能をゴジラが食べちゃって、ない、という設定が。

岡村 反対ですよね。

長沢 そうそう。ぼくらがあれだけの福島原発事故を体験した後では、説得力弱いですよね。ネバダの核実験場で働いていた人だったら、突っ込みが浅いということになるのかもしれませんが、全体にアメリカのリアリティとしては、スリーマイルの事故が起きたけれども、そんなに切羽詰った放射能の問題はないのだなと。日本はリアルに放射能の脅威を感じちゃってるわけですよね。

岡村 初代の「ゴジラ」は、ゴジラの足跡でガイガーカウンターが大きく反応するシーンがありましたね。

長沢 ぼくが「小さいゴジラ」を設定したのも、放射能が広がったということが大きいわけです。見えないものとして無数に広がったということをどう捉えたら良いのか。それこそ、ガイガーカウンターなどの機器での数値じゃなくて、具体的なものとして。

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岡村 《日常のゴジラ》に描かれた、3.11以後の言葉であるとか、風景であるとか。

長沢 そうですね。これはもう学生たちが夢中になって描いた。日常のゴジラを描いてくれと言ったら、いっぱい描き込んだのですね。それぞれ楽しくやっていると思います。銭湯に行ったらゴジラがいて、富士山の絵の奥に消えていったりとか、なかなかおもしろい。

岡村 食卓の上のゴジラとか、舌打ちをしたり、「それ以上こっちに来ないでもらえますか」と言ったり、われわれがドキッとするような表現もある。大きな都市の風景も描かれていますね。何てことない光景のようでいて、奥の方が歪んで、破壊されているんでしょうか。

長沢 これは学生が二人で描いたんです。自分らが感じている日常のゴジラからどういうものがつくれるのかと問いかけたときに、これをつくったのですね。絵を描く人は、自分たちが思っていることを描きはじめると止まらなくなるんですが、まさにそのとき感じたことを絵にしたんです。他にも「第2、第3のゴジラが出てくるかもしれない」という言葉をいっぱい描いた作品もあるんですね。まあ、今回は展示できなかったんですけれども。

岡村 さっきの《ゴジラの目》は長沢さんが作られたんですけど、この《尻尾》もいいですね。

長沢 棚が開くようになっていたんで、向こうに大きなゴジラがいるという……

岡村 映画のゴジラって、全体を映さないで、一部を映して大きさを表現するというところから始まっていくんですよね。

長沢 先ほど岡村さんが言った島の山の向こうからニョキって出てくる感じ。あれもルドンの絵の一つ目の巨人を思わせたりして、面白い。

岡村 今回の企画は「ゴジラ展」だけではなくて、隣の部屋では黒田征太郎さんが《原爆の図》をテーマにした作品をたくさん描いてくれたり、《戦争童話集》の映像を流していたり、その向こうの部屋では、粟津潔さんが日本の土着性とも深く関わりながら核や戦争をテーマにしたポスターを展示しています。展示をしながら考えていたのは、想像力とは、語り継いでいく物語になりうるということですね。 
 1954年という時代を私は知りませんが、福竜丸の事件が起きて、久保山愛吉さんが亡くなって、放射能の雨が降って、そういう過酷な状況に対して、どこかで蓋をして手打ちをしてしまうという、福島の原発事故もそうですけれども、そういう力が働いていたんだと思います。
 それをかいくぐって現状を考える力とか、次の時代に語り継いでいく力が、こうした、なかばフィクションの現実の中に潜んでいるという気がする。
 もしかすると、丸木夫妻の《原爆の図》も、語り継いでいく表現のひとつだったのかも知れない。この美術館の空間でつなげて考えてみたときに、そんなことを思いました。

長沢 作品というのは、いつもある程度の読み直しが可能なんですね。美術館は作品を保管する重要な場所ですが、ある意味で「墓場」みたいな部分もある。作品は新たな現代の、ぼくらが生きている時代の解釈を待っていると思うんです。だから《原爆の図》があったとしたら、ぼくらが新たな意味を見出していかないといけない。
 ぼくらは今の時代、ここに生きているわけですから、今ならではの解釈がどうしても必要になる。そのときに想像力が重要になってくる。作品はその証しです。そういう場として美術館が機能すると楽しいですね。

岡村 命を吹き込んでいく場所でもあるということですね。

長沢 新たな解釈がないと、固定した意味になってしまう気がしますね。こういう企画展のような何らかの違った考えや風が入ってきて、新しい意味で読み直しができるということが必要なんだと思います。

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(質疑応答は省略、写真撮影は丸木美術館事務局・山口和彦)

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お世話になった長沢先生はじめ、ご来場頂きました皆様に、心から御礼を申し上げます。
展覧会は11月15日(土)までの開催。関連イベントは10月に入ってもまだまだ続きます。
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2014/9/7

企画展展示替え「第五福竜丸/ゴジラ展」  企画展

丸木美術館の展示替えにとって、最大の敵は雨。
収蔵庫と展示室のあいだは必ず屋外を通らなければならないので、雨はとても困るのです。
前日から降り続いた雨に、一体どうなることかと心配しましたが、運よく作品移動の頃には雨が上がり、今回も大勢のボランティアの協力のおかげで、予定通り、展示替え作業が終了しました。

好評だった「はだしのゲン絵本原画展」と「竹田信平 ベータ崩壊展」の作品を撤去し、《原爆の図》14点を従来の常設展示に戻し、展示室の一室のペンキを塗り直し……
次回企画展「ビキニ事件60年企画 第五福竜丸/ゴジラ 1954→2014」のための粟津潔のポスター展示も、粟津潔のご子息のケンさんとともに、作業を進めました。

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部屋じゅうの壁にポスターを貼りめぐらすという、丸木美術館にしては珍しい展示。
第五福竜丸の被ばく事件を機に、翌1955年から開催された原水爆禁止世界大会。そのポスターを手がけた粟津潔の、その後の幅広いデザインの仕事のなかから見出せる核や戦争に対峙する精神、地球環境への問題意識、無名の民衆へのまなざしを紹介する内容です。

今回の企画展では他に、ニューヨーク移住や野坂昭如『戦争童話集』との出会いを機に「ピカドン・プロジェクト」としてキノコ雲の絵を数多く描き続けてきた黒田征太郎さんの《原爆の図》から想を得た新作絵画群や、画家の長沢秀之さんのディレクションによる「大きいゴジラ 小さいゴジラ」の展示を行います。

9月13日(土)午後2時からは、オープニングトークとして「想像力としてのゴジラの復活」と題し、長沢秀之さんと岡村が対談を行います。
多くの方のご来場をお待ちしています。
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2014/9/5

Josemar Gonzalez映像作品“Beta Decay”  企画展

今年の夏、丸木美術館に出現した竹田信平さんの現代美術作品「ベータ崩壊」の展示も、残すところあとわずかになりました。

展示を手伝ってくれたメキシコ・ティファナの若いアーティストJosemar Gonzalezが、丸木美術館で熱心に記録を撮っていたことは知っていたのですが、6分25秒の映像にまとめたという報告を受けたので、ご紹介いたします。

http://vimeo.com/105298284

これまで日本で撮影されてきた映像とは少し雰囲気が異なり、エキゾチックな印象を受けますが、しかし、とても鋭敏な感覚のある興味深い作品だと思います。

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写真は、映像のなかでも少しだけ映っていた、「ベータ崩壊」の環を起こす作業のシーン。
手前で輪を引き上げているのがJosemarです。
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2014/8/24

川口隆行+小沢節子対談「『はだしのゲン』を読み解き、読み継ぐために」  企画展

午後2時より、「はだしのゲン絵本原画展」の関連企画として、川口隆行さん(広島大学大学院准教授・原爆文学研究)と小沢節子さん(歴史家)をお迎えして、「『はだしのゲン』を読み解き、読み継ぐために ―核の時代の表現として」と題する対談を行いました。

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会場に用意した40席の椅子は、ほぼ満席。
美術館学芸員や大学教員など、専門的な研究者の姿も見られました。
非常に興味深い充実した内容の対談でしたので、以下に、抄録をまとめておきます。

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岡村(司会) 今日は、「はだしのゲン絵本原画展」の対談企画として、川口さん、小沢さんに、作品としての『はだしのゲン』を語って頂こうと考えています。
 はじめに、この作品との出会いや、どんなところに魅力を感じているかをお話し下さい。

川口 70年代から80年代にかけて小学校時代を過ごしたんですけど、学校で読んだ覚えがないんです。小学校4年生くらいに、行きつけの散髪屋で当時出ていた4巻までを繰り返し読んだ記憶があります。
 全巻読んだのは大人になって。2005年頃に必要があって再読したのですが、ベッドの脇に置いていたら、当時4歳の娘が自分で読み始めたんです。取り上げるのもどうかなと思っているうちに、私より先に全巻読み終わりました。
 ちょっと後悔したのは、全然手がかからなかった子どもだったんですが、数日夜泣きをしたこと。それが止むと、『はだしのゲン』の感想を話し始めました。「人間はね、お腹がすいたら犬を食べたらいいんだよ」とか、「人間はいつか死ぬんだよ。でも、意外と死なないもんだよ」と哲学的なことも言いました。彼女なりに「人は死ぬ」ということを知り、同時に「意外としぶとく生きていくもんだ」という受け止め方もしたんですね。
 これは『はだしのゲン』を読む上で重要な点だと思いました。学校の平和教育では原爆の落ちた後がクローズアップされがちですが、戦後になっても、ゲンたちが必死で生きていくなかで、多くの人が死んでいく。実は生き延びようとしていく「戦後の物語」なんだと思います。
 『ゲン』は去年の閉架問題のような政治的主張の良し悪しが話題になりがちですが、メッセージ性はもちろん外して考えることはできない一方で、身体感覚で感情を揺さぶっていく作品でもある、二つの要素が絡み合った漫画として面白いと思います。
 原爆について研究していると、さまざまな原爆の表現に触れる機会があります。『はだしのゲン』を読むと、中沢啓治という一人の被爆体験だけが反映されているわけではなくて、中沢さんが見聞きした話、メディア体験なども含まれている。個人の体験であると同時に、集合的記憶が埋め込まれているんです。
 《原爆の図》にも、丸木夫妻の体験だけが描かれているわけではなく、いろいろな人たちの体験が入り込んでいますが、『はだしのゲン』も丁寧に読み込んでいくと、先行する原爆の表現、体験が織り込まれた作品であるということがわかります。

小沢 私は10年ほど前に、大学の学生が『はだしのゲン』で卒業論文を書きたいと言ってきて、指導のために全巻読みました。彼は小学校に『はだしのゲン』があった世代で、漫画を読んで怖くて辛い思いをしたが、原爆や戦後史を学んであらためて『はだしのゲン』を読み返したらどう思うのかということを書きたいと思ったんですね。結論としては、身体感覚や情動に訴える部分が子どもの頃に怖かったけれども、それが漫画の魅力であり強さだったということに気づいたという論文でした。
 私は《原爆の図》をはじめ原爆表現を研究しているのですが、そういうことをしていると、多かれ少なかれ中沢さんに会うんですね。長田新編の『原爆の子』に中沢さんの体験が出てきますし、スティーブン・オカザキの映画『ヒロシマ・ナガサキ』にも中沢さんが登場します。そういう関わりといっしょに漫画を読んだという経験があります。
 中沢さんがお元気だった頃に、授業に来て頂いてお話を聞く機会もありました。印象に残っているのは、学生が「漫画に描いてあるのは本当のことなんですか」と聞くと、「基本的に本当のことなんだ」と答える。私が「骸骨に“怨”という字を書いて米兵に売ったというのは本当のことなんですか」と聞いても、「あれは自分がやったわけではないけれども、ああいうことはあったんだ」と。学生が「何が一番辛かったか」と聞いたときには、「原爆は辛かったけれども、原爆が落ちた後の方がもっと辛かった。原爆が落ちた時はみんなが地獄だったけど、戦後は同じ被爆した者のあいだに亀裂や差が出てくる。取り残された者たちは本当の地獄だった」と戦後の体験の過酷さを強調されていて、『はだしのゲン』の物語は1953年まで話が続くわけですが、「占領期の物語」という側面を面白く思っています。

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岡村 今のお話をうかがって、二つのポイントを設定したいと思います。ひとつは、中沢さんの個人の体験だけでなく、集合的記憶としての『はだしのゲン』が、時代や原爆表現にどう向き合い、取り込んでいったのかという点。
 もうひとつは「戦後の物語」としての視点。これは3.11後を生きる私たちにも重要な問題を提示していると思うのですが、あるいは「復興」に抗う物語かもしれません。この二点を中心に話を進めて頂くということでよろしいでしょうか。まずは最初の設問からお願いします。

川口 『はだしのゲン』には、被爆のときに唱歌の「海」を歌いながら、男性教師と子どもたちが輪になって沈んでいくシーンがありますが、『原爆の子』をもとにして1953年に作られた映画『ひろしま』の中にも、女性教師と子どもたちの同じようなシーンが出てきます。
 それから、戦後に進駐軍が来たときに、ゲンの仲間たちが「父ちゃん、母ちゃん、ピカドンで、ハングリー、ハングリー」と歌う場面があるんですが、これも映画『ひろしま』の中に同じシーンがあって、進駐軍にガムやお菓子をもらう。
 あと、映画の最後の方に、宮島の土産物売り場で、原爆で死んだ人のドクロを売るという話が出てきます。『はだしのゲン』の中にも、ドクロを掘り出して、ドクロの額に「怨」の字を書いて米兵に売って、米兵は「怨」の意味がわからずに「ナイス・デザイン」とか言って、お土産としてアメリカへ持って帰らせようとする場面があります。
 映画『ひろしま』に影響されているというよりも、映画『ひろしま』自体が『原爆の子』という作文集をもとにした集合的記憶から成り立っているんですが、『はだしのゲン』にはそうした集合的記憶が織り込まれていると言えるんですね。
 もう一点、『はだしのゲン』には、夏江と勝子という顔にケロイドの火傷をもった女の子たちが登場します。本当は踊り子になりたかったんですけど、火傷のために人前に立てず、二人でミシンを買って洋裁店を開くというのが夢になるんですね。ミシンを買って洋裁店を開くというのは、当時若い女の子にとってたいへんな憧れであって、広島の場合では原爆乙女という絶望にひしがれている女性たちが、ミシンで服を作って売りながら、自分の傷を回復していくということもあったんですが、こうしたいろいろな広島の体験・物語を『はだしのゲン』は上手に取り込んでいるんです。

小沢 『はだしのゲン』の連載は1973年6月から始まるんですね。60年代末から70年代初めまでに積み重ねられてきた原爆表現の歴史や原爆をめぐる認識を中沢さんが取り込んでいったのだろうと、私も思います。
 原爆が落ちたその日にお母さんが赤ちゃんを産むという話も、栗原貞子さんの「生ましめんかな」という有名な詩を連想させますし、米兵の被爆した姿を市民が見つけて石を投げるシーンがあるんですが、お婆さんが「アメリカのばかたれ、わしは一人ぼっちになったじゃないか」と恨みを述べながら石を投げて、「家を返せ、爺さんを返せ、娘を返せ、孫を返せ」と言う。これが個人の恨みから突き抜けて「平和を返せ、人間を返せ」となれば峠三吉になるわけです。

川口 隆太の父親代わりになる小説家のお爺さんが亡くなる前に自伝小説の『夏の終わり』を出版したいというので、ゲンたちが紙を探したりして奔走するんですが、GHQの検閲がありますから、普通の印刷所は印刷してくれない。どこが印刷してくれたのかというと、刑務所なんですね。実際には、正田篠枝さんの『さんげ』という最初の歌集が刑務所で100部秘密出版されたということがありました。
 探せばきりがないくらいにエピソードが放り込まれていますが、いろいろな人たちの記憶が織り込まれていくことが大事なんだと思います。

小沢 ここの美術館でやることの意味として結びつければ、《原爆の図》という絵も、そういうものであったと。それから、描かれている被爆者は、映画『ひろしま』や《原爆の図》で作られたイメージも投影されているんだろうと思います。もちろん中沢さんは実体験があるわけですけれども。
 それが描きはじめる時代までの積み重ねだとすると、73年から85年まで続いた連載では、同時代の新たな動きも取り込まれていく。さっき、米兵捕虜に石をぶつけてうんぬんというのがありましたが、そういうことが、ジャーナリズムであらためて取り上げるようになる。それから朝鮮人被爆者が大きな社会問題になってくる。
 今まで必ずしも公には語られてこなかった、抑圧されてきた原爆被害の記憶が語られ、被爆した市民の絵画なども描かれるようになる。原水爆禁止運動の分裂とはちょっと離れたところで新たな証言運動が出てくる。そういう動きを取り入れるかのように、さまざまな物語が描かれていく。特に朝鮮人の問題はそうですよね。

川口 そのときに、『はだしのゲン』に対して、つまんない批判――事実と違う、違わないという問題が出てくるんですよね。朝鮮人みんなが連行されたわけでは決してないと、私もそう思うんですが、みんなが連行されたように描いていて、それは極端だとか、嘘だとか言われる。
 事実誤認という批判もまったくわからないではないけれども、作者である中沢さんが、どのようにそのものを捉えていったのかという意味では、それは強調されて語られることもあるだろうし、事実ではないという批判はあまり生産的でないと思っています。

小沢 私は、川口さんが『中国新聞』に中沢さんの追悼文を寄せているのを読み返して、「原爆投下はやむを得ないことと昭和天皇が発言したのは、『はだしのゲン』連載中の75年のことだ。この発言に対抗するかのように政治的言説のようなものを描き込んだ」というので、ああそうか、と思ったんですが、ちょうど連載途中でアメリカから帰国した昭和天皇が中国放送の記者の質問を受けて「原爆が投下されたのは気の毒だけど、戦争だからやむを得なかったんだ」と答える。『はだしのゲン』の後半に昭和天皇批判が目立ってくるのは、中沢さんが同時代の反応として、漫画の中に描き込んでいるんでしょう。
 それから82年の歴史教科書をめぐる「侵略」を「進出」と言い換える検定の問題が出てくる、いわゆる第1波の戦後の歴史修正主義の台頭。最後の方に出てくる、政治的言説として批判されることの多い表現は、連載途中の政治的なコンテクストの中から出てくるんじゃないかと思うんです。

川口 そのへんが『はだしのゲン』をどう読むのか、立場が分かれてくるところだと思います。ゲンの演説には固い言葉が並ぶんですが、ある思想だけにはまった理念的な人物かというと、そういう言葉が説得力をもって聞こえる人として造形されている点が面白い。
 中学生が先生から習ったばかりのような、ある意味で幼稚な政治的メッセージをしゃべっているんですが、同じことを言ってもそれがつまらなく聞こえる人物もいれば、単純だけど当たっているよね、そうかもしれないと思わせる人物がいる。ゲンは後者なのだと思います。

小沢 ゲンの過剰なまでの政治的言説は、戦前のお父さんからはじまるわけでなんですが、ゲンの言葉は政治的言説であると同時に、啖呵を切ってるんだと思います。啖呵売というか、啖呵師というか、啖呵は喧嘩だけじゃなくて、大声で物を売る時の口上だとか、そういうときも啖呵って言うんですね。
 ゲンはいろんな口上を並べ立てて物を売ったりするんですが、そういうゲンの言葉と政治的言説は、一見違うもののようでいて、一人の人間のなかで両立している。政治的言説であり啖呵である言葉を使う子どもとしてゲンが造形されていて、もうちょっと言うと、ゲンは時代に啖呵を切り続けて生きている。それは中沢さんの同時代に向けての啖呵でもあるんだと思います。

川口 その中で、日本国憲法が大事だとか、戦争反対とか、ある意味で決まったような言葉が出るんだけど、ゲンがしゃべると説得力も持ってしまうのは、ゲンの中に、そうした言葉を梃子にして、理不尽な力に対して生き延びていく力にしているところがあるんだと感じます。自分が置かれている虐げられた状況とつながっていて、他人事ではなく自分に必要な言葉として発せられているんです。

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岡村 「時代に啖呵を切る」という言葉が出てきましたが、「戦後の物語」という視点はどうでしょうか。

川口 今週、広島で大雨が降って、安佐北区、安佐南区がたいへんな状況になっているのはご存知と思いますが、ぼくは広島という街に居心地の悪さを感じる部分があるんです。
 戦後、「平和都市」として出来上がっていくんだけど、挑発的に言えば、薄っぺらい、一皮めくれば平和でないというか、そもそも平和とは何かを問うてない。戦前と変わっていないという状況があるのではないかと思うのです。
 『はだしのゲン』で言いますと、戦争中に狭い共同体のなかで威張っていた町内会長が、戦後の民主主義になってどうなったかというと、何も変わっていないわけです。むしろ差別や矛盾、対立点が増幅されて残っていく。戦前から現在まで続いている社会構造や人間の関係があって、原爆はそれをより鮮明に、見やすくさせているのではないかと思う。ですから、原爆が落ちたところで話が終わるのではなく、その後もずっと生き延びていくまでの歴史が描かれているのがたいへん面白いと思います。
 そこで出てくるのが、「復興」に対する違和感です。「復興」とは、壊れたものが元あるように戻ること。もちろん傷ついた人や町が傷を治したいと思うのは当たり前ですが、本当に元通りになるのか。元通りになるというその前は、みんなが幸せだったのか。「復興」というなかで、「復興」しきれないものはないだろうか。
 『はだしのゲン』には、平和都市建設に対する痛烈な批判が随所に出てきます。ゲンの家族たちが最終的に住んでいた家も、平和都市建設法の道路拡張のために「お前ら立ち退け」と壊されるわけです。「原爆の悲惨さ」という以上に、「復興の悲惨さ」にこだわった漫画なんだろうと思います。

小沢 象徴的なのは町内会長さんですよね。戦前は町内会長としてゲンの家族たちをいじめて、戦後は結局、市会議員から県会議員になるんですよね。そのときには「平和日本」といったメッセージを発しながら成り上がっていく。そういう人物に象徴されるような、戦前から戦後まで実は何も変わっていないかのような権力関係の構造がある。
 ゲンは戦争とか天皇制とか大きなものに向き合って啖呵を切っているんだけれど、実際には大衆の隅々に巣食っている戦前から変わらない権力構造に抑圧されて抗っている。
 だから核被害者の困難とかトラウマとか苦しみという物語であると同時に、「復興」神話へのアンチテーゼでもある。そう思って読むと、今の私たちにも身近なものと感じられないことはない。大きなカタストロフィの後の亀裂とか分断とか断絶を描いた漫画として、新たに読み直されるものかもしれない。

川口 『はだしのゲン』の中に、「本当の敵を忘れて、差別して、いがみ合ってばっかりいやがる」という戦後の広島の人たちに対して言う台詞がある。決してみんなが協力して、一致団結して戦ったとかでなくて、裏切り、いがみ合い、だまし合い、憎しみ合い、殺し合いが延々と繰り返されています。
 広島の街には、戦後巨額の資金が入ってくるわけです。ヤクザがいっぱい出てくるのはまさに『仁義なき戦い』の世界で、なぜ広島で抗争するかというと、都市の建設で巨額の資金が流れ込むからです。縄張りや人員を管理するためにヤクザが浸透していく。
 平和都市建設のプロセスの中に暴力が含まれ、埋め込まれる。それが戦後の広島、あるいは日本のひとつのあり方なんですね。

小沢 同時に、そういうものを含む中で、強い思いが託されているのが、最近何人かの人が指摘しているんですが、『はだしのゲン』は「画家の物語」だということ。
 後で岡村さんも言うと思いますが、ゲンのお父さんは戦前のプロレタリア芸術運動にかかわった日本画家……ほとんど丸木位里さんと同じような画家で、実際、丸木位里さんと中沢さんのお父さんは同じ展覧会に出品していた。
 もっとも印象深いエピソードで、政二さんという画家を看病する場面も出てきます。それから、ゲンが看板屋に勤めるきっかけになる絵を教えてくれる絵描きさんも出てくる。
 すごくベタですけれども、芸術で人々の心を動かすことができるとか、芸術は現実から切り離した異なる次元を持つものなんだとか、そういうことが非常に前向きに訴えられる。そういう中でゲンも表現者として自立していきたいと思うようになる。
 いま川口さんが仰ったような、戦前から続く過酷な現実を対象化するものとして表現への憧れが出てくると思います。

川口 ゲンが面白いのは、非常に乱暴なんですよね。よく相手をぶん殴る。決して暴力反対ではなく、理不尽な相手に対して殴ってでも立ち向かっていく。
 腕っぷしが強いと同時に、歌もうまいし、絵も描くし、詩を口ずさむし、広島は浄土真宗の安芸門徒なんですけど、彼は5日間で浄土真宗の正信念仏偈と蓮如の御文章を覚えて、まわりの葬式に行って小銭を稼ぎ、自分の妹を救おうとするけど、救えなくて、結局、自分で覚えたお経で妹を弔うんですね。
 芸術の基本は模倣だとするならば、ゲンはある人たちの技術を学んでいって、上手に身体化して表現していく。きれいな骨壺を作ったりとか、乱暴な人間であると同時に、表現に対して特異な才能を持った少年として描かれていて、暴力を昇華していくんですね。

小沢 苦しみと怒りに追われているだけの物語ではないので、若い読者が直感的に理解できるものがあるんだと思います。

川口 ゲンはよく怒るんですよね。先ほどの芸術との関わりもあるのですが、怒ることは悪いのか、と自分は悶々と悩んでいるんです。
 怒るという感情は自分を滅ぼすこともあるし、他人に対して攻撃的にもなる。でも怒ることがなかったら、自分たちの置かれている不当な立場に向かっていくことができないし、怒るという感情はとても大事だと思うんです。
 怒るというのはどこにいくかわからない、人を壊してしまうかもしれないし、状況を切り開いていく力になるかもしれない。ゲンは怒るんだけど、その感情に乗っ取られることがないんですよね。怒ることがどういう意味を持つのか、『はだしのゲン』を通じてずっと考えているんです。

小沢 つい先日、練馬区立美術館で『あしたのジョー』の展覧会を見てきて、丈が力石徹と戦うあたりは同時代で見ていたんですが、冒頭場面の原画を見ていたら、15歳くらいになって養護施設を出てきた孤児の少年が東京の辺境にたどり着くところから始まる物語だった。10年のタイムラグはあるものの、まるで広島から東京に出てきたゲンじゃないか、『あしたのジョー』は東京に出てきたゲンの物語だったのかと、そう結びつけて思いました。
 丈は東京に出てきて、はじめは孤児たちを集めてユートピアを構想するけれども、少年院に送られてボクシングに目覚めていく。ボクシングという括弧つきの暴力による自己実現を目指す孤児の物語です。結局、興行化された暴力・ボクシングで燃え尽きてしまう物語の連載が終わるのが1973年の4月20日で、そのひと月半後の6月4日から『はだしのゲン』がはじまるんですね。
 今までそんなふうにつなげて考えたことはなかったんですけど、やっぱり孤児の物語、戦争を引きずって一人で生きる少年の物語、そういう少年たちがどうやって大人になったのか、なれたのかということを、『はだしのゲン』の最後のシーンとともに考えたりもしています。

岡村 最後に少しだけ。『はだしのゲン』を読んでいくと、丸木位里と重なる点が多いんですね。戦前に中沢啓治のお父さんは演劇をやっていたんですが、プロレタリア演劇活動というのは、まさに画家になる前の位里がやっていたことであり、同じ広島の日本画家として同じ県美展に入選していて、位里の方が年齢が上で、立場も上なんですけど、その展覧会の会場が今の原爆ドームになっている、産業奨励館だった。
 あるいは、ゲンが看板屋で絵を学んでいくというのも、位里が最初に広島に出てきて勤めた仕事が看板屋だったことと重なる。もうひとつ、さっき「怒り」ということが出てきましたが、「怒り」に対してゲンが乗っ取られないで、広い意味での表現に転化させる、状況を変えていくという点は、丸木夫妻が《原爆の図》に怒りをぶつけていく過程とも重なって見えるんですね。
 『はだしのゲン』と《原爆の図》は、社会のなかでの叩かれ方も似ているんです。「ことさら声高に怒りを表現するのではなく」という社会的な主題の芸術を評価する際の常套句は、むしろその常套句を使うことで芸術の可能性を狭めていると思うんですけど、「ことさら声高な表現」の代表例として《原爆の図》や『はだしのゲン』が言外に否定されることが多い。
 けれども、そうした色眼鏡を外して、怒りを表現に転化させていった芸術だってあるんだというふうに見ていく必要があると、最近特に考えています。

川口 以前はよく、「怒りの広島、祈りの長崎」という、それこそ常套句が言われていたわけです。広島は政治的に反核運動やっていて、長崎へ行くとキリスト教の、永井隆以来のお祈りをするイメージがある。ぼくは怒ることと祈ることを対立的に別個の感情と離すことに違和感があって、ゲンの御文章ではないけれども、深いところで二つは結びついていると思ったりもします。
 あと、「祈りの長崎」と言われていたはずなんだけど、ここ数年の「平和宣言」は、長崎が一番怒ってますよね。市長と被爆者代表の挨拶が連携しながら、今の状況や社会のあり方に対して、人を抑圧する怒りではなくて、必要なものに対する真っ当な感情を公的にちゃんと表現している。
 それに対して広島は腰砕けというか、取り込まれているというか、怒りでもなければ、祈ってもいない。「祈りの長崎」が真っ当な怒りを、長崎もいろいろあるとは聞いていますけれども、それでも真っ当な怒りを表明できているのは面白いと思っています。

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(質疑応答は省略、撮影は丸木美術館事務局・山口和彦)

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たいへんお忙しい中、ご来場くださった川口さん、小沢さんに心から御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
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2014/8/15

映画『GODZILLA ゴジラ』と秋の企画展  企画展

映画『GODZILLA ゴジラ』を観ました。
前回のハリウッド版とは違い、造形的には1954年の初代ゴジラへの敬意が感じられる重量感のあるゴジラで(それでも、首から上の造形にはやはり多少の違和感があったのですが)、かなり見応えはありました。

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もっとも、1950年代に頻繁に行われていた水爆実験は、実はゴジラを撃退するための「攻撃」だったというあまりにひどい正当化には、いかに米国制作の映画とはいえ、がっかりしました。

また、初代のように人類の文明に対する脅威として立ちはだかるのではなく、むしろムートーという新怪獣を撃退する、都合の良い「救世主」の存在になってしまっている点も、残念でした(商業化された日本における後期ゴジラの流れですね)。

初代ゴジラから「芹沢博士」の名を引用している渡辺謙扮する日本人科学者も、とってつけたように父親が広島で被爆死したという設定で、8時15分で止まってしまった形見の時計を持っているものの、ストーリーにあまり生かされていませんでした。

ゴジラの見せ方や放射熱線の迫力などはさすがと思わせる表現だったので、初代『ゴジラ』が抱えていた歴史観や哲学の重み、核に対する想像力も、しっかり継承して欲しいと思ったりもしました。

   *   *   *

さて、丸木美術館では、9月13日より、「ビキニ事件60年展 第五福竜丸→ゴジラ 1954→2014」展を開催いたします。
現在、展覧会の開催に向けて、準備を進めているところです。

この展覧会は、第五福竜丸やゴジラを直接扱うものではありません。
ビキニ事件から60年という節目の年に、第五福竜丸やゴジラから派生して現在まで続いている、核の脅威に対する想像力を展示するものです。

世界的に広がる反核運動の契機となったビキニ事件ですが、60年という歳月が経過した現在、思うことは、核は廃絶に向かうどころか、抑止力、エネルギー利用という名目で、むしろ私たちの日常に浸透し、世界じゅうを覆いつくしてしまったという現実です。

そうした現実に対し、私たち人間の想像力は、どのように迫ることができるのか。
3つの章に分かれた芸術表現から、隠されてしまった核の脅威への想像力を取り戻す。
今回の展覧会は、そんな挑戦的な試みです。

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 2014年は、太平洋ビキニ環礁における米軍の水爆実験によって、日本のマグロ漁船・第五福竜丸が被ばくしてから60年という節目の年に当たります。
 1954年3月1日未明、マーシャル諸島近海で操業中だった第五福竜丸は、米軍の水爆実験キャッスル作戦(ブラボー実験)に遭遇しました。降り注いだ放射性降下物「死の灰」を浴びた23名の乗組員は全員被ばくし、半年後の9月23日には、当時40歳だった無線長の久保山愛吉が死去。核実験による放射能汚染は広域に及び、多くの住民が居住していたロンゲラップ環礁に深刻な被害をもたらし、第五福竜丸以外にも1000隻近い漁船が被ばくしました。
 この事件をきっかけに、東京・杉並の主婦からはじまったと言われる原水爆反対の署名運動は全国に広がり、翌1955年8月には、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれました。また、ビキニ事件を受けて制作された映画『ゴジラ』は“水爆大怪獣映画”と銘打たれ、社会に大きな反響をもたらしました。
 ゴジラは米軍の水爆実験によって突然変異して目覚め、日本を襲撃するという設定で、可視化された核の象徴と見ることもできます。

 今展は、2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故を経た私たちの現在と未来が、60年前の被ばく事件とどのように接続していくのか、3つの章に分けて展示された芸術作品によって、想像力を拡げる試みです。
 原水爆禁止世界大会のポスターをはじめ、核や戦争に対峙する問題意識をテーマにしたデザインを数多く手がけたグラフィック・デザイナー粟津潔の仕事。
 今も精力的に原爆や第五福竜丸、福島原発事故など核被害の歴史を主題にした作品を描き続ける画家・イラストレーターの黒田征太郎が《原爆の図》に触発されて描き下ろした新作絵画群。
 そして1954年の映画のゴジラを「大きいゴジラ」、2011年3月の東日本大震災・福島原発事故で生まれたゴジラを「小さいゴジラ」と設定することで、ゴジラを現実につながる想像力として捉えた画家・長沢秀之のディレクションによる展示「大きいゴジラ、小さいゴジラ」。
 それぞれの想像力の連鎖によって、目に見えない核の脅威に、2014年という地点からどのように迫ることができるのか。
 この物語は、今も私たちの日常につながり、続いているのです。

【会期中の主な企画】 
●9月13日(土)午後2時 オープニングトーク「想像力としてのゴジラの復活」
 出演:長沢秀之(画家)+岡村幸宣(原爆の図 丸木美術館学芸員)
 参加費 500円(入館料別途)
 交通は市内循環バスをご利用ください。

●10月13日(月/祝)午後2時 黒田征太郎(画家)トークペインティング
 参加費 500円(入館料別途)
 当日は午後1時に東武東上線森林公園駅南口に送迎者が出ます。

●10月18日(土)午後2時 粟津潔 MEETS 秩父前衛派
 演奏:秩父前衛派=笹久保伸(ギター)、青木大輔(サンポーニャ)、イルマ・オスノ(歌)、トーク:粟津ケン(KEN主宰)
 参加費 1500円(入館料別途)
 交通は市内循環バスをご利用ください。

●11月2日(日)午後2時 特別講演「やわらかい はだ ―― 原爆の図は本当に原爆を描いたのか」
 出演:アーサー・ビナード(詩人)
 参加費 500円(入館料別途)
 当日は午後1時に東武東上線森林公園駅南口に送迎車が出ます。
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2014/7/26

映画『ヒロシマ・ナガサキ ダウンロード』上映/竹田信平展作家トーク  企画展

いよいよ企画展「竹田信平 ベータ崩壊展」がはじまりました。

初日の午後2時からは、映画『ヒロシマ・ナガサキ ダウンロード』(2010年、竹田信平監督)の上映会と作家トークを開催。
会場には、約30人の方が来場して下さいました。

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『ヒロシマ・ナガサキ ダウンロード』は、米国に移住した被爆者たちをたどり、証言を集め続ける竹田さんと友人の旅を記録したドキュメンタリ映画です。



アメリカへわたり、長く封印していた被爆の記憶を、目の前の出来事のように語り、涙を流す〈被爆者〉たち。そして、偶然泊まった宿の主人であり、体験談を語るホロコーストの生き残りの女性。

映画は、それらの証言を記録するというだけでなく、過酷な過去を抱えながら生きてきた戦争の体験者たちと、浮遊するように〈何か〉を探し続ける現代の若者のあいだの実感の断絶を照らし出しているようにも見えました。

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竹田さんは南北アメリカ在住被爆者の証言を集め、国連軍縮部との共同プロジェクトで多言語ウェブサイト「HIROSHIMA NAGASAKI DOWNLOAD MEMORIES FROM THE AMERICAS」として公開しています。
http://www.hiroshima-nagasaki.com/

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その一方で、その編集過程で目にした被爆者の声紋図を写し取り、インスタレーション作品「アルファ崩壊」として、これまでメキシコのティファナやメキシコシティ、日本の東京や沖縄、中国の北京などで公開してきました。
「アルファ崩壊」とは、放射線としてアルファ線(α線)を放出する放射性崩壊の一種のこと。
被爆者の証言を単なる「情報」としてとらえるのでなく、言葉を超えた部分で共有・継承していきたいという竹田さんは、みずからの身体に刻みこむように声紋をなぞり、作品として〈記録〉していったのです。

声紋を写し取ること、その作品を展示して見せることが、被爆体験の継承に有効な手段であるかと問われれば、それは私にもわかりません。
むしろ継承の不可能性を示しているのかもしれません。
本当の意味での継承の不可能性を知りながら、それでも身体に刻むように(竹田さんの行為は写経を連想したりもします)記憶の痕跡をたどり続ける。そうせざるをえないという思いが、竹田さんのプロジェクトの根源にあるのかもしれません。

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竹田さんのトークを聴きながら、彼の作品そのものが被爆体験の継承をテーマにしているだけでなく、その作品が展示される場所の歴史も、声紋と〈共振〉しながら、記憶を掘り起こし継承していくことの意味を深めているのだろうと感じました。

竹田さんが活動拠点にしているメキシコとアメリカの国境の町ティファナ。
そして東アジアの複雑な政治・歴史を反映する沖縄や北京。
われわれが継承すべき不条理の歴史や悲しみの記憶は、広島・長崎だけでは、もちろんないわけです。

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その竹田さんが今回選んでくれたのが、丸木美術館という場所。
《原爆の図》のならぶ美術館で、「アルファ崩壊」に続く新たなシリーズ「ベータ崩壊」がスタートしたのです。
メキシコ・オアハカの先住民族サポテカ族の伝統的な織の技術で作られた糸の束に、「アルファ崩壊」の声紋を反転させた模様を染めたスケールの大きな作品。
手前の小展示室の壁面には、「アルファ崩壊」の声紋も書き刻まれました。

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展覧会は9月6日(土)まで開催されます。
今回の展示が、竹田さんの今後の活動に、新たな刺激を与える機会となれば幸いです。
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