2012/9/26

一宮市三岸節子記念美術館「丸木俊展」作品搬出  館外展・関連企画

昨日から、一宮市三岸節子記念美術館のS学芸員が来館され、収蔵庫で「生誕100年記念 丸木俊展」の準備をしていましたが、本日、無事にすべての出品作品が搬出されました。
丸木美術館の常設展示からは、原爆の図第2部《火》が貸出されます。

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10月6日(土)からはじまる展覧会では、約70年ぶりの公開となる南の島の女性たちをペン画で屏風に描いた《踊り場》や、南洋とモスクワ時代の雑記帳など新たな作品や資料も加えつつ、丸木俊の生涯の画業をあらわす代表作や絵本原画約110点を展示します。

丸木俊の大規模な個人の回顧展は、意外ですが初めての開催となります。
女流画家の紹介に取り組み続けてきた一宮市三岸節子記念美術館ならではの充実した内容ですので、どうぞご期待ください。
展覧会の詳細は以下の通り。

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生誕100年記念 丸木俊展
2012年10月6日(土)〜11月25日(日)
9:00-17:00(入場は16:30まで)
休館日:月曜日(ただし10月8日は開館)、10月9日(火)

一宮市三岸節子記念美術館
〒494-0007 愛知県一宮市小信中島字郷南3147-1
TEL 0586-63-2892
http://s-migishi.com

【講演会】
11月3日(土・祝) 午後2時〜(午後1時30分開場)
「丸木俊・旅する「物語の画家」−絵本から原爆まで」
小沢節子(近現代史研究家)
※申込不要・聴講無料

【スペシャルギャラリートーク】
11月11日(日) 午後2時〜
岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員)
※観覧券をお持ちの上、2階ロビーにお集まりください。

【こどもアートツアー&絵本の朗読会】
10月28日(日)午後2時〜
展覧会を見学後、丸木俊が手がけた絵本を<朗読ぐるーぷ言の葉>による朗読で楽しみます。
※申込不要・参加無料。1階受付前にお集まりください。保護者の方もご参加いただけます(要観覧券)。

【学芸員による展示説明】
10月20日(土)・11月17日(土)  ともに午後2時〜
※観覧券をお持ちの上、2階ロビーにお集まりください。

【ミュージアムコンサート】
11月17日(土) 午後5時30分〜(午後5時開場)
「富田牧子 無伴奏チェロの夕べ〜大地のことば〜」
※要チケット(一般1,000円、高大生500円、小中生250円)。
10月6日(土)より販売開始。 友の会会員 20%割引。
※当日、午後3時より整理券配布。定員100名。
※当日に限りコンサートチケットで特別展・常設展の観覧可。
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2012/9/12

一宮市立三岸節子記念美術館「丸木俊展」図録校正中  館外展・関連企画

今日は、9月9日に閉幕した下関市立美術館「丸木俊展」の出品作品が無事返却され、久しぶりに原爆の図14部作がそろって展示されました。
これで、夏の館外展も一段落……ですが、今度は10月6日から11月25日まで一宮市三岸節子記念美術館で開催される「生誕100年記念 丸木俊展」に向けて準備が佳境に入っています。
先週末から、図録の校正作業に没頭中。
今日は色校正が届いて、いよいよ展覧会が近づいてきたな、と実感しています。

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ポスターやチラシもすでにできあがっているのですが、今回は1947年に描かれた《自画像》がメイン・イメージとして使われています。
写真左の頁にあるのは、約70年ぶりの公開となる南洋を主題にした屏風画《踊り場》。
この作品は、おそらくほとんどの方がご覧になったことがないはず。今展の注目作です。

図録には、近現代史研究者の小沢節子さんが「丸木俊―旅する女性画家」と題する論考を執筆されています。
右手に筆を持ち、左手を口に当てた1947年の《自画像》を出発点にしながら、モスクワ・南洋群島の旅、さらに《原爆の図》へ、そして《原爆の図》からの旅へと掘り下げられていく内容です。

小沢さんは2002年に岩波書店から『「原爆の図」描かれた〈絵画〉、語られた〈記憶〉』という、《原爆の図》を読み解く上で画期的な評論を刊行されていますが、俊さんについて書かれたのは、久しぶりのこと。
「自分が今までに書いていないこと、他の人も書いていないこと」を論じるという、言葉では簡単ですが実践するのは非常に難しい姿勢を、いつもながら貫かれていることに、あらためて心を打たれながら、論考を読み終えました。

今の時代、そしてこれからの時代に、丸木夫妻の残した仕事をどのように見つめていくべきか、さまざまな示唆を与えていただいた気がします。
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2012/9/5

被爆者の声を受け継ぐ映画祭  館外展・関連企画

好評のうちに「新井卓銀板写真展」と「さがしています展」も終了し、今週は「発掘:戦時下に描かれた絵画」展の準備に奔走しているところです。
さっそく、いくつかの新聞社や雑誌からも反響も来ています。
『月刊ギャラリー』9月号には、5組10名様の招待券プレゼントも出していますので、ぜひ応募して下さい。

   *   *   *

9月14日(金)から16日(日)まで、明治大学リバティタワー1階リバティホールで「被爆者の声を受け継ぐ映画祭」が開催されます。

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新藤兼人監督『原爆の子』(1952年)はじめ、プログラムには興味深い映画が9本ならんでいますが、最終日、16日(日)の午後7時からは、ジャン・ユンカーマン監督による丸木夫妻の記録映画『HELLFIRE:劫火―ヒロシマからの旅―』が上映されます。上映後には、岡村がトークを行います。1988年のアカデミー賞記録映画部門にもノミネートされた名作映画。私もスクリーンで観るのは久しぶりのことです。

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たいへん貴重な機会ですので、ぜひ、多くの方にご来場いただきたいと思います。
詳しい情報は、被爆者の声を受け継ぐ映画祭HPまで。
http://hikakueiga.exblog.jp/
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2012/8/22

原爆の図原寸大複製がインドで展示!  館外展・関連企画

8月の丸木美術館は、来客も多く、取材なども多く、毎日が慌ただしく過ぎていきます。
そのため、日々の記録も滞りがちになってしまいますが、どうぞご容赦ください。
今回は、そのなかでも忘れてはならない今夏の重要な展覧会の紹介です。

   *   *   *

8月6日から20日まで、インドで原爆の図三部作(原寸大複製)の展覧会が開催されました。
会場は、ニューデリーの日本文化センター。展覧会の開催に尽力されたKさんが、貴重な写真を送って下さったので、掲載いたします。

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ご覧の通り、たくさんのインドの小中学生が会場を訪れて下さっています。
この光景は、なかなか凄いですね。

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展覧会は、そもそも、Kさんが絵本『ひろしまのピカ』をヒンディー語版で翻訳出版されたことからはじまりました。
Kさんによれば、初版5000部はすでにほぼ完売とのこと。
描かれてから30年の歳月を経た今でも、新しい国に翻訳されて売れていくという、この絵本の底力をあらためて感じました。
会場では、ヒンディー語による『ひろしまのピカ』の朗読会も行われたそうです。

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「原爆の図展」を見た学生たちから受けた質問は、次のようなものが多かったそうです。

誰が原爆を落としたのか?
原爆は普通の爆弾とどう違うのか?
今の広島の状況は?
どうしたら原爆は無くなるのか?
灯ろうとは何か?
原爆の図第一部《幽霊》に描かれているのは幽霊なのか人間なのか?

複製とはいえ、原寸大の絵画の迫力は凄いもの。
インドの子どもたちも、絵を見ながら、時間も距離も遠く離れた広島へと想像力を広げてくれたのではないかと思います。
展覧会を実現してくれた、Kさんはじめたくさんの関係者の皆さまに心から感謝いたします。
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2012/7/24

ピースあいち原爆の図展のお知らせ  館外展・関連企画

午前中は草刈り、午後は原爆の図貸出の準備と、いよいよ夏本番の丸木美術館。
アメリカの大学から夏休み帰国中のAさんがインターンとして手伝ってくれているので、たいへん助かっています。

   *   *   *

この日は、名古屋のピースあいちで7月28日から開催される「丸木位里・丸木俊 原爆の図展」の準備をしました。

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原爆の図第5部《少年少女》と第11部《とうろう流し》が貸し出されます。
初日の28日(土)には、午後1時半から岡村がギャラリートークを行います。
また、8月11日(土)午後1時半からは、「丸木俊 女絵かきの誕生」と題して、山田昌さんと天野鎮雄さんの朗読会も行われます(参加費1500円、定員70名申し込み順)。
ぜひ、多くの方にご来場いただきたいと思います。
 
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2012/7/20

下関市立美術館「丸木俊絵本原画展」作品搬出  館外展・関連企画

午前中から、下関市立美術館「生誕100年 丸木俊絵本原画展〜いのちへのまなざし〜」の作品搬出作業。
企画協力アートシードのSさんとDさん、そして美術運送スタッフの方々が来館され、原爆の図第11部《母子像》をはじめに、丸木俊の絵本原画99点、油彩画5点、水彩画1点、スマ作品3点、そして資料となる絵本などを搬出しました。
このところ猛暑の続く日々でしたが、運の良いことに暑さがやわらぎ、梱包・搬出作業もはかどりました。
事務局では、N事務局長を筆頭に、販売物の準備作業が大忙し。
たくさん物品が売れると良いな、と願いつつ、図録や絵葉書などを送り出しました。

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展覧会の会期は、7月26日(木)から9月9日(日)まで。
九州・中国地方にお住まいの方、あるいは近くに旅行される方は、ぜひご来場ください。

7月29日(日)午後2時からは、「大地に根ざした物語を描く―丸木俊と絵本」と題して、岡村が講演会を行います。
戦時中から最晩年まで、半世紀以上にわたって続けられた絵本の仕事を基軸に、丸木俊の作品世界を考える内容です。
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2012/7/14

練馬区美術館「船田玉樹展」レセプション  館外展・関連企画

今朝は『朝日新聞』埼玉版に“被爆ピアノの祈り”と題して、いよいよ明日に迫った崔善愛さんの被爆ピアノコンサートの記事が掲載されました。
おかげで午前中から電話の問い合わせもずいぶんありました。
取材をして下さったK記者に感謝です。
以下、記事の全文を読むことができます。
http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000001207140003

   *   *   *

そして今日は、「新井卓銀板写真展」の初日。
来館者の方に、どんなふうに写真を見て頂けるか、ちょっとドキドキです。
企画展示室が暗いので、中に入っていいのかどうか、戸惑う方もいらっしゃったようでした。もう少し、誘導の方法を工夫してみた方がいいのかも知れません。

同じく今日からはじまった特別企画「さがしています展」は、広島の被爆者の遺品を写真家の岡倉禎志さんが撮影し、詩人のアーサー・ビナードさんが詩を書いた絵本をもとにした展示。
とはいえ、絵本の刊行が大幅に遅れており、昨日ようやく“見本”の絵本が届きました。
本格入荷は来週とのことなので、丸木美術館でも販売いたします。

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午後には練馬区美術館を訪れ、「生誕100年 船田玉樹展」のレセプションに参加しました。

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2年前に京都・東京・広島で開催された「『日本画』の前衛」展で彼の作品を観て、古典的教養と前衛思想のあいだを往還しながら凄みのある世界を拓いた画家としての力量には感嘆していたのですが、今回は約200点の作品で生涯を回顧するという見逃せない企画。
しかも、玉樹の師である速水御舟や小林古径の作品とともに、同郷の友人として交流のあった靉光や丸木位里の絵も紹介されているのです。
丸木位里の作品は、丸木美術館から貸出した《馬(部分)》と、広島県立美術館所蔵の《不動》や《雨乞》などが展示され、位里のファンにとっても見応えのある内容です。

すっかり“日本画の前衛”の代表作となった第1回歴程美術展出品作《花の夕》(1938年)など戦前の作品の存在感は何度見てもやはり凄いのですが、今回初めて見た戦後の作品群―九品仏や滝などの、モチーフや表現の実験を繰り返しながら果てしなく絵画の可能性を探求する情熱と手わざの確かさにはあらためて圧倒されました。
広島県立美術館のN学芸員によれば「むしろ積極的に中央画壇や画廊と距離をとっていた」という孤高の存在であったために、これまではきちんと評価されていなかったのですが、玉樹自身は常に“世界史的視野”で制作に励んでいたそうで、その突き抜けたような誇りと矜持は作品から十分に伝わってきます。
むしろ、よくぞこれだけの作家がこれまで知られていなかった、と思うほどです。

玉樹については、私も丸木位里の友人として名前を知ってはいたものの、戦後の活動については詳しく知らず、今回も、N学芸員からの依頼によって資料を調べなおし、「大河展」などで戦後も丸木夫妻とともに展覧会活動をしていたことに気づいた次第でした。
会期中にあらためて訪れ、もう一度じっくり作品を見ておきたいと思っています。
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2012/7/5

練馬区美術館「船田玉樹展」出品作品搬出  館外展・関連企画

午前中、練馬区立美術館のN学芸員が美術品運送スタッフの方々と来館されました。
7月15日からはじまる練馬区立美術館の企画展「生誕100年 船田玉樹展」のため、丸木位里の歴程美術時代の代表作《馬(部分)》を出品するのです。

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船田玉樹(1912-1991)は、広島県呉市出身の日本画家。
位里とは同じ広島出身ということで、上京してから親しく交流し、1936年創立の藝州美術協会や1938年創立の歴程美術協会などでともに活動しました。
1939年には、ともに歴程美術協会から脱退し、同年10月16日から20日まで銀座紀伊國屋画廊で「船田玉樹・丸木位里個展」を開催しています。
おそらくこの頃が、二人がもっとも親しくしていた時期だったと思われ、1940年には岩橋英遠も加わって三人で研究会展を開催したりもしています。
位里に劣らず実験精神の旺盛な興味深い画家で、当時は玉樹の評価の方が高いほどでした。
戦後は広島へ帰郷して中央画壇とほとんど接することなく過ごしていたようですが、それでも意欲はまったく衰えることなく、凄まじい制作を続けていたのです。

今回の展覧会は、2010年の「日本画の前衛」展で脚光を浴びるまで、ほとんど知られることのなかった“孤高の画家”船田玉樹の作品を200点ほど紹介するとともに、位里や靉光などの友人、そして彼の師であった速水御舟や小林古径らの作品も展示するという見応えのある内容です。

いったいどんな発見があるのか、今からとても楽しみにしています。
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2012/4/26

映画『いわさきちひろ〜27歳の旅立ち〜』試写会/ポロック展など  館外展・関連企画

六本木シネマートで行われた映画『いわさきちひろ〜27歳の旅立ち〜』(海南友子監督)の試写会に行ってきました。
絵本画家として知られるいわさきちひろの初のドキュメンタリ映画です。

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現在、丸木美術館で開催中の「生誕100年 丸木俊展」でも紹介していますが、戦後すぐに上京したちひろは、丸木夫妻のアトリエに通いながら絵画を学んでいました。
映画には、ちひろがモデルを務めて描かれた位里や俊のデッサンも登場します。

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こちらは位里によるデッサン。

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そして俊によるデッサン(ともに1947年10月2日の日付あり)。

取材に3年をかけたという映画は、戦争に大きく翻弄されたちひろの波乱の生涯を丹念にたどりつつ、黒柳徹子さんや高畑勲さん、中原ひとみさんなど関係者や家族たちの証言を集めた内容で、とりわけ晩年の絵本の代表作『戦火のなかの子どもたち』の制作過程を追った部分は非常に興味深く感じられました。

個人的には、戦争の痛みや悲しみを、子どもたちや母親の視点から、誰にでもわかるようなイメージで伝えたという点において、ちひろと俊は戦後の日本を代表する二人だと思っています。
その一方で、二人はしばしば“力強くたくましい”俊と“やさしく繊細”なちひろという、わかりやすい対比で語られることが多くあります。
しかし、この師弟の残した仕事は、本当にその対比だけで見てしまって良いのか。
両者の仕事を固定観念を抜きに見かえして、きちんと影響関係を考えていくことが必要なのではないかと、映画を観ながらあらためて考えさせられました。
『戦火のなかの子どもたち』について語るちひろの言葉は、根底の部分で『ひろしまのピカ』について語る俊と重なっているように思えてなりません。

映画は7月から、ヒューマントラストシネマ有楽町などで公開される予定です。

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せっかく都心に出たので、今日は朝早くに家を出て、東京国立博物館で開催中の「ボストン美術館 日本美術の至宝」展、国立新美術館の「セザンヌ−パリとプロヴァンス」展「大エルミタージュ美術館展」、東京国立近代美術館の「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」を観てまわりました。

「ポロック展」では、会場で池田龍雄さんと画廊主のKさんに偶然お会いしました。
以前、池田さんの講演をお聞きした際、1950年代にポロックを代表するアンフォルメル旋風が吹き荒れ、それまでの日本のルポルタージュ絵画の流れが吹き飛んでしまったときに、「わが国の現実に根ざした必然性に基づくものではなく、いわばファッションの流行に近い変化だから、一過性のもの」と冷ややかに見つめていたと話されていましたが、ポロックの作品自体は、池田さんにどのような印象を残したのか。
同時代の証言をぜひ伺ってみたいと思いつき、後から追いかけたのですが、どこへ行かれてしまったのか、あるいはもう帰られてしまったのか、残念ながら池田さんの姿を見つけることはできませんでした。
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2012/4/25

佐喜眞美術館にて「生誕100年記念 丸木俊展」開催  館外展・関連企画

今日から、沖縄県普天間市の佐喜眞美術館で「生誕100年記念 丸木俊展 沖縄を描いた作品と絵本原画」がはじまりました(〜6月4日まで、火曜休館)。

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丸木俊の生誕100年を記念して、俊が愛し描いた沖縄の風景の油彩5点、水彩70点、絵本原画38点を中心に展示されています。
丸木美術館からも、絵本『つつじのむすめ』や『12のつきのおくりもの』、『きつねのおきてがみ』などの原画を出品しています。

沖縄でこうした俊の絵本原画を見る機会はなかなかありません。
ぜひ、多くの方にご覧頂きたいと思います。
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2012/4/12

ワタリウム美術館/田中三蔵さんお別れの会  館外展・関連企画

午後からワタリウム美術館で開催中の「ひっくりかえる展 ―Turing around―」を観に行きました。

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この展覧会は、アーティスト集団のChim↑Pomが企画したもので、社会のタブーや問題に対して真っ向から立ち向かい、社会の変革を目ざして行動する国内外の表現者を紹介するという挑戦的な内容です。

エレベータを上って展覧会の入口の2階へ行くと、まず最初に展示されているのが、丸木夫妻のコーナー。

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原爆の図が最初に発表された1950年、日本はGHQによる報道規制「プレスコード」の真っ只中で、原爆投下に対する表現もその対象であった。丸木位里・俊夫妻が全国各地100か所以上で行った原爆の図巡回展は、プレスコードの対象外であった「アート」による、原爆の惨事を伝える唯一のメディアでもあった。とはいえGHQにとって「面白くない」行為であることに変わりはなく、展示は関係者の逮捕など様々な障害のもとで行われたにも関わらず、巡回展の評判は口コミで広まっていき、ついに1か所で1万人もの観客を集めるまでになる。当時、原爆の図は「巻物」として並べて展示されていた。これは移動しやすさの追求であるとともに、「何か」が起きた場合素早く撤去出来る仕組みでもあった。

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こうした説明とともに、60年前に《原爆の図》を入れて全国を巡回した木箱が展示され、当時の記録映像が流れています。
社会に飛び出し、「アート」によって世界の変革を目ざした活動の先駆者として、丸木夫妻の仕事が“再発見”された格好でしょうか。
従来の丸木夫妻の展示とは趣きがずいぶん異なりますが、こうした形で新たな文脈で注目されることは、作品にとっても決して悪いことではないような気がします。

1952年8月の立川展会場の貴重な記録映像のなかで、《原爆の図》の説明を大きな身振りを交えて行っているのは、若き日のヨシダ・ヨシエさんです。
まだ美術評論をはじめる前、丸木夫妻のアトリエに寝起きしていたヨシダさんは、《原爆の図》を背負って各地を巡回したことでも知られています。
先日、近現代史研究者のKさんといっしょに、埼玉県内の病院に入院されているヨシダさんのお見舞いに行ってきました。
そのとき、先にワタリウム美術館の展示をご覧になっていたKさんから、「Chim↑Pomの展示では省略されていたけれど、《原爆の図》からChim↑Pomの間には脈々と続いてきた前衛美術の歴史があって、そこにずっと立ち会い続けてきたのがヨシダさんだったのね……」というお話を聞いて、ああ、まったくその通りだ、と思いました。
病院のベッドで横になっているヨシダさんは、顔色も良く、身体の具合も悪くないご様子でしたが、やはり少々元気をなくしているように見えました。
ヨシダさんの残してきた仕事を若い世代のアーティストたちにもつないでいかなければいけないと、あらためて感じています。

「ひっくりかえる展」では、この展覧会で初めて作品を知ったフランスのJRの洗練された表現が非常に印象に残りました。
ワタリウム美術館のWさんのお話では、JRは表現者として経済的にも自立し、作品の舞台になる貧しい国や地域への支援も積極的に行っているとのこと。これからもその活動には注目していきたいところです。

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午後7時からは、銀座東武ホテルで行われた「田中三蔵さん お別れの会」に参加。
朝日新聞の編集委員として、長年美術記事を担当されてきた田中三蔵さんが、2月27日に膵臓癌のために63歳で逝去されたのです。
田中さんが2004年に書いて下さった記事のことは、以前にもブログ「丸木美術館学芸員日誌」でご紹介させて頂きました。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1817.html

もうひとつ、田中さんがお書きになった記事で印象に残るのは、田中さんの仕事の集大成でもある「ニッポン人脈記 前衛バカ伝説」の連載で、2009年3月27日に取り上げて下さった丸木夫妻の記事です。

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平和への軍旗「原爆の図」”という見出しの記事に、田中さんは次のように記されています。

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 埼玉県東松山市。武蔵野のおもかげを残す林のなかに「原爆の図 丸木美術館」がたたずんでいる。
 焼けただれた肌がぼろ布のように垂れ下がる裸の女たち。幽霊のような人の群れ。朱色の業火、折り重なる屍……。見ているのがつらくなるほど、鬼気迫る絵が展示されている。
 「原爆の図」は、丸木位里と俊夫妻が半生をかけた15部の連作である。
 位里は広島で生まれた。上京して日本画を学び、戦前、シュールレアリスムの美術団体にも加わる。俊は北海道で育ち、東京で洋画家になった。
 1945年8月、丸木夫妻は被爆直後の広島に入る。位里の家族の安否をたずね、惨禍を目の当たりにした。
 原爆の絵を描かねば、そう思いたつのは3年後の夏の夜だった。「屍のにおいが風に流れていたひろしまの夜」がよみがえってきた、と俊は著書「女絵かきの誕生」に書いている。

 そのころ丸木夫妻のアトリエは神奈川県藤沢市にあった。美術評論家ヨシダ・ヨシエ(79)は近くに住んでいた。20歳すぎの文学青年だった彼は「掘っ立て小屋のようなアトリエ」で夫妻の仕事を見た。
 俊が人物を描くと、「リアルすぎる」と位里がいって、その上に墨を流して情感を与え、さらに俊が手を加える。2人が闘うような日々。
 ヨシダ自身も、俊の素描のモデルになる。裸になり、地面をひっかくポーズをとった。できあがった絵を見て「言いしれぬ寒気を感じた」という。
 50年、「原爆の図」初期3部作が完成した。ヨシダらは藤沢の旅館の広間を借りて展示した。もっと多くのひとに見てほしい。そう思っていたある日、丸木宅に居候していた画家志望の青年、野々下徹から声をかけられた。
「『原爆の図』を持って旅にでないか」
 ヨシダは野々下と絵を木の箱にしまい、ズックの袋に入れて背負った。2人は列車に乗り、各地で巡回展をひらく。寺、学校の教室や体育館、図書館。集まった人々に絵の説明をした。「新潟から鹿児島まで1年に100か所近く回ったかな」
 まだ連合国軍総司令部(GHQ)の占領時代。原爆の報道は統制されていた。「原爆の図」で初めて被害のすさまじさを知った、と驚く人が大勢いた。
 旅で絵が汚れ、傷んでも、俊は「平和への闘いの軍旗だからかまわない」といった。ヨシダは美術評論を書きはじめ、前衛の伴走者となる。


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記事はこの後、当時館長であった針生一郎の話に移り、「原爆の図と前衛の時代の風化」を打開する試みが紹介されます。
ヨシダさんへの取材の場には私も立ち会い、お二人の熱い対話の様子を間近に見ていました。

思えば田中さんは、Kさんのおっしゃるような《原爆の図》と前衛をつなぐヨシダさんの存在を、このときにしっかり記事に書かれていたのですね。
その慧眼に経緯を表しつつ、慎んでご冥福をお祈りいたします。

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写真は、「お別れの会」で頂いた、田中三蔵さんの似顔絵の入ったどら焼き。
このユーモラスな似顔絵は、秋山友徳太子さんが手がけたそうです。
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2012/3/31

ひっくりかえる展 ―Turning around―のお知らせ  館外展・関連企画

4月1日からワタリウム美術館で「ひっくりかえる展―Turning around―」が開催されます。
昨年、丸木美術館で個展を開催したChim↑Pomのキュレーションによる現代美術展です。

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社会のタブーや問題に対して真っ向から立ち向かい、社会の変革を目ざして行動する表現者を紹介するという挑戦的な企画展。
壁を挟んで対立するパレスチナ人とイスラエル人のポートレイトをその壁に貼ってしまうフランス出身のJRや、街頭でパトカーを燃やしてしまうロシアのアート集団ヴォイナ、反資本主義のカナダの雑誌「アドバスターズ」など……ときに「お騒がせ」との批判を受けたり、騒動にまきこまれることも恐れないセンセーショナルな作家たちとともに、なんと、1950年代はじめの米軍占領下に行われた丸木夫妻の原爆の図巡回展の映像や資料が展示されることになりました。

原爆がタブーだった時代に、芸術によって圧力に立ち向かった丸木夫妻の仕事を、Chim↑Pomは自分たちの「先駆者」として位置づけ、展覧会の導入に紹介するようです。
60年という歳月を越えて、丸木夫妻の仕事がこうしたかたちで若者たちに“再発見”されること自体、何だか“ひっくりかえる”ような思いもあります。
ともあれ、従来の丸木夫妻の展示とはかなり趣きが異なるものになりそうです。
(最初に展示品借用の話があったとき、Chim↑Pomの卯城くんには「それで……イケてるように展示したいんすよ」と言われました。丸木美術館はイケてなくてごめんなさいね)

《原爆の図》そのものは展示されませんが、巡回展当時の様子を記録した貴重な映像や、実際に輸送に使われた原爆の図を収めるための木箱(おそらく初公開。この木箱を見たことがある人はほとんどいないのでは?)が会場で公開される予定です。
イケてる丸木夫妻の展示を、ぜひお見逃しなく。
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2012/3/11

3.11から1年、目黒区美術館「原爆展」完全中止  館外展・関連企画

2011年3月11日、ちょうど1年前のこの日。

私は目黒区美術館で4月9日から開催される予定の「原爆を視る 1945-1970」展の図録のための初稿を書き終え、午後2時過ぎに企画展担当者やご協力いただいた関係者の方々にメールでお送りしたところでした。
数年がかりで調べていた1950年代の原爆の図全国巡回展の動向も、とりあえずこの原稿で一段落すると安堵して、お茶でも飲もうかと思った矢先、美術館が音をあげてきしみ、大きく揺れはじめました。

東日本大震災の発生。そして福島第一原発の事故。
大勢の方の命が失われ、放射能被害によって土地を追われる人びとも数多く現れました。
丸木美術館では大きな被害はありませんでしたが、以後、事業計画などの予定が激しく変化し、慌ただしい歳月が過ぎて行きました。

あれから1年。
今日は各地でさまざまな追悼イベントや脱原発デモが行われているのでしょう。
丸木美術館の館内はとても静かです。

震災・原発事故後に急きょ中止となり、その後、2012年夏に開催を目ざすとされた「原爆を視る」展が、完全に中止となったという通達が、目黒区美術館から届きました。
中止の原因となった“3.11”からちょうど1年という節目の日に正式な書類を目にするのも、不思議な因縁のような気がします。

目黒区がかつてないほどの財政危機に直面しており、向こう3年間、目黒区美術館の展覧会は「所蔵品を基本に実施」することになったという報告。
そして、展覧会開催が不可能になったとしても、集成された資料と情報をまとめた「資料集」を刊行する責務を感じているという意思表明。

T館長とM学芸員が記されたそれぞれの文書を読みながら、失われた展覧会の意味の大きさをあらためてかみしめ、全身の力が抜けていくような感覚に襲われています。
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2012/3/1

健康診断/藤枝市郷土博物館・文学館「平野亮彩展」の打ち合わせ  館外展・関連企画

午前中は川越市内の病院で、インフルエンザで延期になっていた健康診断を行いました。
詳しい健診結果は後日送付されてくるようですが、とりあえず「メタボではないですね〜」と言われて、何だか安堵?しました。

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そのまま美術館に出勤して、藤枝市郷土博物館・文学館で6月に開催予定の「平野亮彩展」の打ち合わせに来館された藤枝市市民文化部文化財課の二人の学芸員にお会いしました。

平野亮彩さんは、丸木夫妻と深い交流のあった静岡市岡部町(現藤枝市)出身の画家で、2011年6月1日に88歳で亡くなられました。
2009年3月7日から22日まで丸木美術館で特別展示を行ったこともあります。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1129.html

平野さんのアトリエを訪ねて、小山田二郎との交流についてお話をうかがったこともありました。平野さんは戦後すぐに、小山田二郎に誘われて大日本印刷に勤務していたのです。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1313.html

昨年3月11日の東日本大震災の後には、「津波の絵ができた」という連絡があり、アトリエで非常に迫力のある作品を見せて頂きました。それが、私が平野さんにお会いした最後となりました。亡くなる直前まで、制作意欲に衰えのない方でした。

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《劫火3.11》と題するこの作品は、昨年の「今日の反核反戦展2011」にも特別出品させて頂きました。

藤枝市文学館で開催される企画展は、平野さんの代表作をはじめ、郷里の藤枝(岡部)にゆかりの作品や、愛用品、丸木夫妻との交流を示す資料などが展示されるとのこと。これまで平野さんの画業はほとんど整理されていないので、楽しみな企画展になりそうです。
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2012/2/12

銀座シネパトスにて今井正監督映画『原爆の図』『純愛物語』特別上映  館外展・関連企画

銀座シネパトスで、1月23日から「生誕百年 今井正監督特集」が行われています。
『また逢う日まで』や『青い山脈』、『山びこ学校』、『ひめゆりの塔』など数々の名作で知られる今井正監督の生誕100年を記念し、全監督作品48本の中から選りすぐりの名作を第1部(1/23-3/2)、第2部(3/31-5/3)に分けて上映する企画です。

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この日は、『米』や『純愛物語』など今井正作品で共演したことがきっかけで結婚された江原真二郎さんと中原ひとみさんをゲストに迎えたトークショーや、映画『原爆の図』(1953年、丸木美術館提供)と『純愛物語』(1957年、東映)の特別上映が開催されました。

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ロビーの壁には映画『原爆の図』と『純愛物語』の詳しい資料も展示され、「生誕100年丸木俊展」のチラシも置いて下さっています。

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トークショーでは、日本映画全盛期を知る江原さん、中原さんが、デビューのきっかけ(江原さんは京都の撮影所の大部屋出身、中原さんは東映ニューフェースの1期生と対照的なデビューだったそうです)や、当時の映画界の様子、今井正監督との思い出などを語って下さいました。

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トークの後は、映画『原爆の図』と『純愛物語』の16mmフィルム上映。
映画『原爆の図』は、これまでに何度も見ている作品ですが、映画館の大きなスクリーンで観るのは初めてです。
今井正・青山通春監督となっていますが、青山監督の回想によれば、実際には青山監督が撮影されたとのこと。

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(前略)長年助監督の仕事をしていた私は、プロデューサーの岩崎昶さんから今井さんと一緒に「原爆の図」の記録映画を撮ってみないかと言われた。
 一緒にと言っても当時今井さんは東映で「ひめゆりの塔」の撮影に入る所だったので、結局今井さんの監修というか指導で私が撮る事だったのである。
 私にとって生れて始めて撮る映画がこんな光栄のある立派な仕事だとあって、私は大喜びでやらせて頂くことを承諾した。

(中略)
 撮影は藤沢の丸木さんのアトリエから始まった。
 監督というものは何時もカメラの後にデンと構えて、撮影全体の流れを見ていなければならないのだが、駆出しの私は持前の長い助監督生活の習性が身にしみついていて、絶えずカメラ前のゴミを掃除したり小道具の位置を直したりして落着かなかった。見兼ねた今井さんはこっそり私を呼んで、「青ちゃん、出来るだけ腰をかけて居なさいよ、疲れますからね」と注意された。
 今井さんにはその後も何度もラッシュ・プリント(調子を見るために撮影したフィルムをすぐ現像し、何の手も加えないでそのままプリントしたフィルム)等も見て貰ったが、何時もニコニコしながら「良いじゃないですか、まあ思った通りやりなさい」と言われるだけで、私に注意された事は後にも先にもたったそれ一度だけであった。
 さて、いよいよ完成試写の日初号プリントを見終った今井さんは開口一番「これなら僕の名前なんか要らないんじゃないの」と言われた。
 私は内心「やっぱり…」と思った。自分の作品をこの上なく大切にする今井さんは僕が作った物等に自分の名を出すのは嫌なのに違いない。
 しかし、やがてそれは私のヒガミで、本当は不出来な場合、一切の責任を自分が取る心算だったとわかり、私は慙愧に耐えなかったが、それ以来私は今井さんを私の先生と公言して憚らなくなった。二流三流の監督と違って決して取巻きや派閥を作らない今井さんは、私が先生呼ばわりする事を迷惑だったり苦々しく思われるに違いないのだが、私はそれ以来今井さんを映画の先生だけでなく人生の師として仰ぐようになり今に到っている。

 (「映画原爆の図」との再会/青山通春/『丸木美術館ニュース』第17号/1985年7月発行)

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こうした事情のため、映画『原爆の図』が今井監督の生誕百年企画の上映にふさわしいかどうか、個人的には少々悩むところもあったのですが、銀座シネパトスのS支配人がぜひ、とおっしゃって下さったので、フィルムをお貸ししていたのです。

ところが『原爆の図』が終わり、『純愛物語』の上映がはじまってすぐに、とても驚いたことがありました。
冒頭のクレジットの背景に、原爆の図のデッサンと思われる被爆者の群像の絵画が使われていたのです。そして「監督 今井正」という文字の背景に映ったのは、原爆の図第5部《少年少女》を象徴する裸の姉妹のデッサンでした。
映画『原爆の図』が撮影されたのは1952年夏のこと。『純愛物語』は1957年の公開ですから、今井監督は原爆の放射能被害が物語に重要な意味を持つ『純愛物語』の制作に際して、ぜひ丸木夫妻の《原爆の図》を取り入れたいと思って下さったのかも知れません。
この発見については映画を観たあとでS支配人にも少しお話をしたのですが、映画『原爆の図』から『純愛物語』へと続く流れは、《原爆の図》の引用のつながりを示す意味でも、とても良かったのではないかと思いました。

1957年といえば、亀井文夫監督の映画『世界は恐怖する 死の灰の正体』が公開されたのも同じ年です。
劇映画と記録映画という違いはありますが、どちらの作品も原爆/核兵器の放射能被害に注目しているという点は共通しています。1954年3月に起きた第五福竜丸の被ばく事件の影響も大きいのでしょう。
そして、両方の作品に丸木夫妻の作品が引用されていることは、当時の社会における《原爆の図》の受容の一端が示されているようにも思われます。

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『純愛物語』は、ときに犯罪に手を染めながらも戦後社会を必死に生き抜こうとする孤児の少年少女のひたむきな姿を優しい視線で描いた感動作品。
心を入れ替えて真面目に生きようと誓いながら、“原爆病”で命を奪われていく中原さん演じる少女の運命に心を動かされる、原爆映画の名作です。
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