2018/11/12

前進座「ちひろ」公演  館外展・関連企画

練馬文化センターにて前進座の舞台「ちひろ―私、絵と結婚するの―」初日を鑑賞。
いわさきちひろ生誕100年企画で、ちひろが舞台化されるのは初めてとのこと。演出が鵜山仁さんということからも、その力の入れようが伝わってきます。

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敗戦翌年に松本から単身上京して新聞社を訪ね、画家夫妻(劇中では丸山夫妻)のもとに世話になり、やがて弁護士志望の青年(劇中では橋本善明)と出会って恋に落ち、紙芝居「お母さんの話」で文部大臣賞を受賞するまでの物語。
丸木俊が準主役級、というか、脚本を手がけた朱海青さんによれば「ちひろより台詞が多いくらいです」とのことで、事前に役者の方たちが丸木美術館に来てくださり、脚本も読ませていただきました。

丸木俊をモデルにした登場人物を舞台で観たことは、これまでにも何度かあるのですが、皆それぞれ違う役者さんなのに、俊の言葉を語ると、どこかリアリティが生まれて「丸木俊」に見えてくるのが面白いところ。
今回、浜名実貴さん演じる丸山俊子は、威勢が良くてアトリエ村の女親分のような存在。有田佳代さん演じる可憐なちひろに「一本の線に責任を持ちなさい」と時に厳しく叱咤しつつ、温かく見守る姿が格好良かったです。

前進座からお誘いを受けて、会場で販売しているパンフレットにも寄稿させていただきました。
「ちひろと俊と「前衛」の夢」と題して、二人の前衛美術会時代に焦点を当てた内容です。
初期の前衛美術会は、年1回の東京都美術館を会場に行う展覧会とは別に、銀座・天元画廊で「街頭展」を隔月開催していました。それを逐一報じていたのが『東京民報』で、おそらくは俊の主導でしょうが、素描や油彩、生活美術などの小品展が企画されていたことがわかります。そして、1947年11月の第3回街頭展では、後にちひろの出世作となる紙芝居「お母さんの話」が出品されているのです。

この紙芝居は、1950年に日本紙芝居幻灯株式会社(現在の童心社)から発行されたのですが、正確な制作年は特定されていなかったとのこと。
最近は忙しさにかまけて、なかなか新しいことが書けずにいたのですが、ささやかながら従来の資料を補完する仕事ができて、少し肩の荷が下りた思いです。

前衛美術展に紙芝居とは意外な気がするものの、社会変革の前衛を目指した会の目的・事業には、「児童美術研究」も含まれていました。試みは必ずしも成功したとは言えず、程なく俊もちひろも会を離れていくのですが、二人の中でその志は生き続けて、それぞれの豊かな仕事へと結実していったのでしょう。今回の舞台では、そんな未来の予兆も感じさせる、二人の画家の心の交流が印象的でした。

舞台はこれから、12月25日まで東日本各地を巡回するそうです。
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2018/10/6

広島市現代美術館・足立元講演「「原爆の図」の片隅に」  館外展・関連企画

広島市現代美術館の地下ホールで、足立元さんの講演「「原爆の図」の片隅に」を聴講。
モノ(絵画)としての《原爆の図》と、メディア(運動)としての「原爆の図」という表記の区分けを提唱した上で、メディアとしての「原爆の図」を、@プロレタリア芸術運動史の視点から、A同時代のアヴァンギャルド(主に日本美術会、前衛美術会)との対比によって、再考するものでした。

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「モニュメント」「複製芸術」「共同制作」「移動展」「メディアミックス」といったプロレタリア芸術運動の(多くの場合、果たせずに挫折していく)「夢」を、「たった二人の画家」がことごとく成功させてしまった理由を、足立さんは《原爆の図》という絵の強度を前提にしつつ、「革命へのファンタジー」か「無数の死者への想像力」か――つまり「イデオロギーよりアイデンティティ」――という言葉を使って、現在と結びつけながら考えます。

そして、もっぱら俊の平易な文章と多弁の力が大きかったのですが、「原爆の図」は言葉を重視する展示・鑑賞・教育の新しい社会運動のシステムを構築し、「同時代の他のアヴァンギャルド芸術を吹っ飛ばした」というのです。

いち早く「美術」の枠を脱していく活動は、前衛美術会の仲間から(やっかみとも思えるような)批判を受けたこともあり、丸木夫妻は《原爆の図》発表後、早々に前衛美術会を退会します。しかし、結果的には批判した画家たちも「原爆の図」を追いかけるような形で、「美術」という枠を超えていくことになるのです。

もちろん、「原爆の図」の勢いも決して長続きするものではありませんでした(占領下〜占領集結・原爆表現解禁の1950年代前半がひとつのピークと言えます)が、その後も「美術」を逸脱するがゆえに何度も否定され、そのたびに「呼び戻されてきた」状況について、足立さんは「モノ」としての強さ以上に、周囲のすべてを社会化する特別な価値が「原爆の図」にある、と結論づけていました。

絵画として《原爆の図》を読みなおす今回の広島市現代美術館の企画展も、「原爆の図」の運動の一部であることを逃れられないのではないか。私たちは《原爆の図》を見ているようで、すでに「原爆の図」の歴史の一部になっているーーつまり、私たちひとりひとりが「原爆の図」の片隅にいる、というのが、某漫画を引用した講演タイトルの種明かしでした。

それは、「原爆の図」の片隅で日々を過ごしている学芸員にとっては、納得のできる話でした。
《原爆の図》という絵画の「受容史」を調査していたはずの仕事が、いつのまにか「社会運動史」として評価される(足立さんにもそう紹介されました)宿命を、実感してきたからです。

ほかにも私の未見だった資料(1952年12月『海員』の「誌上封切映画物語」ー映画『原爆の図』記事、1950年6月『三田文学』八代修次「原爆の図を見て」、1951年9月『交替詩派』原啓「原爆の図展覧会を見て」など)の紹介や、岡本太郎・敏子との対比など、興味深い部分はいくつもありました。

今回の講演の内容は、次回1月発行の『丸木美術館ニュース』で、あらためて足立さんに報告していただきたいと考えています。
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2018/9/16

「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展と峠宛て書簡について  館外展・関連企画

広島市現代美術館で開催中の「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展は、丸木美術館が所蔵する《原爆の図》初期三部作と、広島市現代美術館が所蔵する再制作版の《原爆の図》を比較展示することを目的としてはじまりました。

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また、《原爆の図》に注ぎこまれた丸木夫妻の戦前から続く絵画の実験や、峠三吉との交流をはじめとする広島とのかかわりも紹介され、見ごたえのある内容になっています。

丸木美術館の企画としては、これまでにも「原爆の図をめぐる絵画表現」(2004)や「原爆の図はふたつあるのか」(2016)などを開催していますが、今回のように他館――それも広島で、《原爆の図》の成立過程と展開の一端を紹介していただけるのは本当にありがたいことです。

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もっとも、今回新たに公開された赤松俊子(丸木俊)から峠三吉宛ての書簡のひとつ(展示番号4-13)の翻刻には、明らかな誤りが見つかりました。
展示パネル・図録に掲載された書簡の翻刻の内容は次の通りです。

京都同学会主催の原爆展であなたの影の詩は日に三十回も朗読されたでしょう。丁度わたしたちの第五部作少年少女の向いにあったのです。‟影がある”‟影がある”と、くりかえしくりかえし京大の文学部の人人が朗読しては感想をのべていたのです。そうして十日間は無事に終わりました。四国五郎さんの弟より又申出ありました。わたしはこれでわたしの責任を果たしたような気持ちです。

四國五郎の弟・直登は1945年8月に被爆死していますから、「申出」があるはずがないと、展覧会初日からお気づきになった方もいることでしょう。

確かに難読箇所ではあるのですが、正確には「四国五郎さんの弟よも見事でありました」と読みます(私もすぐに誤りに気づいて担当学芸員に指摘したものの、結局読み解けず、歌人の相原由美さん、俊の弟の赤松淳さんにご教示いただきました)。

実際、1951年7月、京大同学会主催により京都の丸物百貨店で開催された綜合原爆展には、峠の詩「影」とともに、四國の詩「心に喰い込め」が掲示されていました。その詩の中で、「弟よ」という言葉が印象的に使われているのです。俊が「見事」と褒めているのは、「心に喰い込め」で間違いないでしょう。

この件は広島市現代美術館にもお伝えしたので、近日中に修正が入る予定です。すでに展示をご覧になり、図録を手もとにお持ちの方は、修正をお願いいたします。
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2018/9/8

【広島出張B】広島市現代美術館「《原爆の図》をよむ」開幕  館外展・関連企画

広島市現代美術館「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展が開幕しました。

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レセプションには、位里の母校である広島市立飯室小学校の全校児童が貸切バス2台で駆けつけて参加。福永館長と丸木ひさ子さんの挨拶に続いて、この日のための学習の成果を、代表の児童が立派に発表していました。

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そしてギャラリートークには、あいにくの雨にもかかわらず、本当に大勢の方にご来場いただき、感謝しています。会場をいっぱいに埋めた来場者の中には、被爆者の証言をもとに「原爆の絵」に取り組む基町高校の生徒たちの姿もありました。

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当初はひとつひとつの絵を見て歩き、関係者の方々(親族、研究者などなど)をご紹介しながらまわれればと考えていたのですが、この人数ではとても無理だと判断し、展示室ごとに移動しながら概説をするという方法に切り替えました。

1時間にわたるトーク、《原爆の図》三部作(本作/再制作版)の前では特に時間を割いて話したものの、それでも語りきれないのが《原爆の図》。トークの後もたくさんのご質問をいただきました。

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これから2か月半にわたって広島の方々に観ていただきながら、新しい出会い、新しい発見があることを願っています。
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2018/8/7

広島市現代美術館「丸木位里・俊―《原爆の図》をよむ」展のお知らせ  館外展・関連企画

2018年9月8日(土)から11月25日(日)まで広島市現代美術館で「丸木位里・俊―《原爆の図》をよむ」展が開催されます。
特設ウェブサイトが開設されました。

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https://www.hiroshima-moca.jp/maruki/

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水墨による独自の表現を探究していた広島出身の丸木位里(1901-95)と、女子美術専門学校で油彩画を学んだ北海道出身の俊(赤松俊子・1912-2000)は、1941年に結婚します。ふたりは1945年8月に原爆投下後の広島を訪れたのち、自らの体験と家族などから聞いた話をもとに《原爆の図》初期三部作である《第1部 幽霊》、《第2部 火》、《第3部 水》を制作しました。これらは報道規制が敷かれた1950年代初頭に日本全国を巡回し、いち早く人々に被爆の惨状を伝えたことで反核反戦の象徴となっていきます。《原爆の図》は、作品が担った社会的役割の大きさだけでなく、洋画家の俊による繊細な人体描写と、日本画家の位里による大胆な水墨技法が融合した表現である点においても希有な作品といえるでしょう。
本展では《原爆の図》より、初期三部作に加え、《第4部 虹》、《第5部 少年少女》とともに、《原爆の図》の需要が高まる全国巡回展中につくられた初期三部作の「再制作版」を同時にご覧いただきます。丸木位里と俊、それぞれがこれらの作品の前後に単独で制作した作品もあわせて紹介し、ふたりの画業の連続性のなかで、《原爆の図》にみられる絵画的表現の試みを読み解きます。


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9月8日の開幕日は、午前10時30分から、岡村がギャラリートークを行います。
広島での本格的な《原爆の図》の展覧会、楽しみにしています。
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2018/7/13

東京ステーションギャラリー「いわさきちひろ展」内覧会  館外展・関連企画

東京ステーションギャラリー「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」内覧会へ。

ちひろという、先入観を解きほぐして自由に語ることの難しい画家を、あえて読みなおし、「イメージの刷新」を試みるという展覧会です。
岡田三郎助、中谷泰、丸木夫妻ら師事した画家たちとの影響関係や、表現の技術的な画期性に焦点を当て、新たに掘り起こされた幻灯などの資料も充実していました。

展示構成は比較的オーソドクスでしたが、「絵画」として正攻法で見ることがかえって新鮮に感じられるのは、「原爆の図」も他人事ではありません。

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「イメージの刷新」という意味では、図録に収められた足立元さんの論考「前衛のちひろ 1947-1952」が良かったです。
前衛美術会への関わりという、これまで重視されていなかった視点から、温和なイメージの彼女が、過激な「前衛」の芸術活動にどれほど意識的だったのかを検証する内容。
革新のために自己さえも破壊するのが「前衛」の宿命ならば、「前衛」を通過して「童画家」の道を選びとった彼女の存在を、足立さんは「前衛芸術の側から、むしろ積極的に評価すべき」ではないかと挑発的に問いかけます。さらに、いわゆる「前衛の女性」からちひろを排除してきたことこそ前衛芸術史観の問題ではないか、と。
ごく少数の例外を除いて、生涯「前衛」であり続けた者はほとんどなく、「挫折」や「転向」にも意味を見出そうとする彼ならではの、興味深い問題提起でした。

今回の展覧会も含めて、近年のちひろ研究は、変革をおそれず、自立した「童画」の新しい表現手法の実験を試み続けた(最後の作品となった『戦火のなかの子どもたち』は、何度見ても凄みがあります)画家としての評価が基軸になっているので、その出発点として前衛美術会時代のちひろの思索に迫ることは、彼女の画業の根幹を考える上で重要な意味を持つでしょう。

「破壊の果てに自壊してしまう前衛芸術のひとつとして、童画家「いわさきちひろ」の誕生があった」とする足立さんの指摘からは、たしかに「新しいちひろ像」が浮かび上がります。
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2018/5/2

毎日新聞WEB版に「丸木俊 本のたのしみ」展紹介  館外展・関連企画

人間と自然、豊かに深く 丸木俊「本のたのしみ」125冊展示
 ―2018年5月2日『毎日新聞』WEB版

https://mainichi.jp/articles/20180502/mog/00m/040/008000c

東京・東中野のポレポレ坐で開催中の「丸木俊 本のたのしみ」展が、『毎日新聞』WEB版で紹介されました。
取材は岡本同世記者。「懐かしくてモダン、美しくて深い――」という書き出しが良いですね。
以下、記事からの一部抜粋です。

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企画を担当したポレポレタイムス社の小原佐和子さんは「子供だけでなく、あらゆる世代に向けた作品が多い。絵本を通して、丸木夫妻を知らない若い人が興味を持つきっかけになれば」と期待する。「原爆の図 丸木美術館」(埼玉県東松山市)の岡村幸宣学芸員は「日本の絵本界をけん引してきた丸木俊の仕事を一堂に展示する、これまでありそうでなかった企画。今の絵本はキャラクターが強く前面に出るが、俊さんの表現は、もっと奥深い世界を見せてくれる」と話す。

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写真は、ポレポレ坐で撮影した会場風景。

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絵本原画は現存している作品が限られているので、「原画展」ではなく「絵本展」の方が全仕事を紹介できるのですね。

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1956年以後に発行された書籍は手に取って読めるようになっているので、ぜひ、内容もお楽しみください。

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展覧会は、5月7日まで。
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2018/4/7

ポレポレ坐「丸木俊 本のたのしみ」展などのお知らせ  館外展・関連企画

4月24日から5月7日までは、東中野のSpace&Cafeポレポレ坐で「丸木俊 本のたのしみ」展。

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絵本原画ではなく、丸木俊が手がけた100冊を超える刊行物を一挙展示するという内容。ポレポレの若者たちが楽しそうに企画しています。

4月26日(木)にはトーク「丸木俊の絵本を語る」も開催します。
出演は丸木ひさ子さん(絵本作家)と本橋成一さん(写真家・映画監督)と岡村です。
午後7時より開始、1500円ワンドリンク付き。

また、ポレポレ東中野では、4月21日から27日まで特集上映「32年目のチェルノブイリ」として、本橋監督のチェルノブイリ作品のほか、丸木夫妻関連映画を上映します。
4月21日(土)午後5時からは『ビデオ絵本 ひろしまのピカ』(25分)と『HELLFIRE:劫火―ヒロシマからの旅―』(58分)の上映後に、本橋さんと岡村がトークイベントを行います。

というわけで、1週間に2回もポレポレでトークすることになってしまいましたが、どうぞお近くの方はお運びください。よろしくお願いいたします。
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2018/3/18

ビュフェ美術館「絵画と想像力」展オープニング  館外展・関連企画

ベルナール・ビュフェ美術館で「絵画と想像力 ベルナール・ビュフェと丸木位里・俊」展オープニングイベント。水沢勉さんとの対談は、100名を超える方が来場して下さったそうで、たいへんありがたく思っています。

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岡村が丸木夫妻、司会の松岡学芸員がビュフェの近年の再評価の動きをそれぞれ紹介し、「リアリズム」の問題が時代によって揺れ動き、読み直されていくということを、同時代の他の画家たちの仕事をもとに水沢さんが深めて話して下さいました。
無理に結論は出さないようにしましょう、と事前の打ち合わせで確認していましたが、それでも難しいテーマが何とかまとまっていったのは、司会の松岡学芸員のおかげでしょう。参加者のアンケートも概ね好評で、安心しました。

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その後のレセプションも盛況でした。写真家の本橋成一さん(今展には本橋さんの写真も展示されています)、佐喜眞美術館の館長ご夫妻、地元の方々、そして北海道、東京、広島や京都からもさまざまな方が駆けつけて下さいました。
お世話になった岡野副館長はじめ学芸員、スタッフの皆さまに御礼を申し上げます。
展覧会は6月12日まで。ぜひ皆さま、ご覧ください。
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2018/3/14

ベルナール・ビュフェ美術館展示立ち会い  館外展・関連企画

ベルナール・ビュフェ美術館で「絵画と想像力 ベルナール・ビュフェと丸木位里・俊」展の展示作業立ち会い。

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ビュフェの「キリストの受難」シリーズのために作られた天井の高い三角形の空間に、原爆の図第3部《水》が並びました。ヨーロッパの同時代の画家の作品と相対する機会は滅多にありませんが、画面構成、色調、主題が意外なほど共鳴しています。

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3月18日はオープニングイベントとして神奈川県立近代美術館の水沢勉さんと、「絵画 ―現実と想像 丸木位里・俊とその時代」と題する対談を行います。
https://www.clematis-no-oka.co.jp/buffet-museum/event/742/
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2017/11/28

太田市民会館「足尾鉱毒の図」特別公開  館外展・関連企画

太田市民会館で開催中の「足尾鉱毒の図」特別公開を見てきました。
全6点がそろって公開されるのは、すべて屏風になってからは初めてです。

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初めて「足尾鉱毒の図」を太田市から借りて、丸木美術館で展示をしたのは2008年なので、もう10年近く前のことになります。その頃に比べれば、作品を取り巻く人間関係も、作品の保存・公開の状態も、少しずつではあるけれど、問題を乗り越えながら前進してきました。

今も作品は環境政策課の管轄なので、つまり「美術品」としての扱いはされてないのですが(今回の展示も決して良好な環境とは言えないのですが)、今年から太田市美術館も開館して、学芸員も気にかけて下さっているので、きっとこれからも、少しずつ整備されていくことでしょう。

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「美術」や「環境」といった枠組みを超えて、地域に根付いて親しまれる作品に育って欲しいと願いつつ、久しぶりにじっくりと全作品を見せてもらいました。

ご案内くださった太田市美術館のK学芸員、同行のGさん、栃木県立美術館のS学芸員、どうもありがとうございました。
特別公開は11月30日まで。

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2017/11/8

ちひろ美術館・東京「日本の絵本100年の歩み」レセプション  館外展・関連企画

夕方、ちひろ美術館・東京「ちひろ美術館開館40周年 日本の絵本100年の歩み」展オープニングレセプションへ。

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ちひろの生まれた1918年は『赤い鳥』創刊の年でもあり、1910年代の黎明期からはじまって、戦争を経て戦後の隆盛期、さらに多様化の進む2010年代まで、日本の絵本の歩みを俯瞰する企画です。1980年代には、丸木俊の代表作『ひろしまのピカ』の絵本原画も展示されています。

ちひろ美術館の学芸員の皆さんが選び抜いた、オールスター級の作家たちの原画がならぶ展示は圧巻。それぞれの絵の説明には、素材や表現・技法的な特徴も丁寧に記されています。

たとえば、日本でもっとも売れている(約650万部)という瀬川康男の『いない いない ばあ』(松谷みよ子・文、童心社、1967年)は、「動物たちはアクリル絵の具で地塗りをしてから、薄い典具帖という和紙をのせて、上からガッシュで色を付けてはがすという複雑な手法を用いて描かれ、独特なマチエールをみせている」といった具合。
こうした詳細な説明とともに、肉眼でなければわからない画面上の絵の具の微妙な隆起などを実際に確認することができるというわけです。

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そして、松本猛さんにご挨拶をした際、新著『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』(講談社)をいただきました。
息子として、また評論家としての立場から「できるだけ、客観的にちひろ像を描きたい」との思いで記したという著作は、私も丸木夫妻関係の基本的な事実確認について少しだけご協力していたのですが、ちひろだけでなく、彼女に影響を与えた周辺の人物や時代背景も丹念に紹介され、今後のちひろ研究の基礎資料になるであろう、充実した評伝になっていました。

晩年の丸木俊を訪ねた猛さんに、俊がちひろとの関係を「二人は師と弟子ではなく、姉妹のようで、互いに影響しあったのだ」と語ったというエピソードも印象的でした。
猛さんには、今後の企画について重要なご提案をいただきましたが、ちひろ美術館と丸木美術館もまた、「互いに影響」しあいながら、ともに歩んでいければ良いと思っています。
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2017/7/15

一宮市三岸節子記念美術館「丸木スマ展」ギャラリートーク  館外展・関連企画

『朝日新聞』名古屋版朝刊に、一宮市三岸節子記念美術館「丸木スマ展」の全面広告特集が掲載されました。

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午前中には、本橋成一さん、助手のOさん、IZU PHOTO MUSEUMのO副館長をその「丸木スマ展」へご案内。
展覧会をじっくりご覧頂いた後、奈良市写真美術館で開催中の「本橋成一展」に向かう皆さんをお見送りして、午後2時からはギャラリートークに出演。お集まり頂いた方々といっしょに会場をまわりながら、丸木スマの絵についてのお話をしました。

本当は、スマさんの絵を「解説」するのは難しいので、皆さんといっしょに驚いたり笑ったりしながら、「いいですねえ」なんて言ってまわりたいのだけど、まあ、なかなかそういうわけにもいきません。
とはいえ、講演ではなくギャラリートークなので、絵の前で気軽に質問などもして頂き、そして結局、やっぱり「いいですねえ」と笑いあったりしながら、たっぷり1時間半。皆さん最後までお付き合い下さり、お楽しみ頂けたようで、良かったです。

お客さんからの質問は、もっぱらスマさんの絵の素材・技法など表現に関するものが多かったのですが、最後の質問は「一番好きな絵は何ですか?」というものでした。
質問された方は、展覧会のメインイメージになっている《田楽》がお気に入りとのこと。
「それでは私は、せっかくなので丸木美術館の所蔵作品から選びましょうか・・・」と悩みつつ、《村の夕暮れ》を選びました。山の向こうに夕日が沈む、小さな村の風景を描いた作品です。
スマさんにしては比較的普通の「風景画」ですが、この絵の風景の中で、たしかにスマさんが暮らしていた、という実感が伝わってきます。

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数年前、丸木家の人たちが暮らした場所を知りたいと、故郷の飯室(現在の広島市安佐北区)に通ったことがありました。
3度目にようやく、かつて丸木家のあった跡にたどり着くことができたのですが、しかし現在の風景は、100年前とは違っていました。もはや絵の中にしか、スマさんの生きた世界は残っていないのだ、と思いました。

それは残念なことですが、一方で、社会の必然でもあるのでしょう。現代社会を生きる私たちが、仮にスマさんの絵のような暮らしに回帰したとしても、満たされるとは限りません。
それでも、「進化」や「発展」だけが唯一の選択肢ではない、私たちには別の生き方を追求できる可能性もある、と気づくことは、世界を見るまなざしをより複雑に、豊かに広げてくれるようにも思います。
最後にそんなようなことを話して、ギャラリートークは和やかに終わりました。
楽しい時間でした。

お世話になった三岸節子記念美術館のスタッフの皆さん、数年前から「丸木スマ展」の準備を一緒に進めながら直前の異動となってしまった一宮市立博物館のS学芸員、そしてご来場下さった大勢の方々に、心から御礼を申し上げます。
展覧会は8月13日まで続きます。近隣の皆さんは、どうぞお見逃しなく。
7月29日には、奥田元宋・小由女美術館学芸員の永井明生さんによる講演会「生命讃歌ー丸木スマの宇宙」も行われます。
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2017/7/8

みさと屋「《牛乳を飲む女》をめぐる対話」  館外展・関連企画

東京・調布市の野菜食堂みさと屋にて、「《牛乳を飲む女》をめぐる対話」と題する夕食会に参加。
お母さまが丸木俊の旭川高女時代の同級生だったというWさんが、札幌のご実家に飾られていたという丸木俊の油彩画を持参して下さいました。

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若い女性が右手でコップを持って牛乳を飲み、左手で足首をつかむちょっと不思議なポーズをとっている姿を描いた小品です。
絵には1947.11.13という日付が入っています。まだ《原爆の図》を描く前、池袋アトリエ村時代の人物画。この時期、俊は若者たちと早朝デッサン会を行い、裸体や着衣の人物画をずいぶん描いています。第1回前衛美術展出品作の《裸婦(解放されゆく人間性)》が同じ年に描かれていますが、《牛乳を飲む女》は、私が知る限りでは展覧会出品歴はありません。

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なぜこの油彩画がWさんの家にあるのか、いつ頃から持っていたのかは不明だそうですが、1951年11月、当時函館に住んでいたWさんの家に、棒二森屋デパートで「原爆の図展」を開催した丸木夫妻が滞在していたとのこと。俊が戦後初めて北海道に帰ったのがこの「原爆の図展」だったので、油彩画はその滞在の御礼に差し上げたのかもしれません。
当時中学生だったWさんは、「大人のすることをハスに見ていた」そうですが、それでも《原爆の図》の恐ろしさと、井上頼豊さんのチェロコンサートを聴いたことは記憶に残っているそうです。

今夏、調布市役所では《原爆の図》の原寸大複製画の展示を企画予定なので、そのときにWさん所蔵の油彩画も特別展示できないかと、みさと屋店主で丸木美術館の評議員も務めるFさんは張り切って計画を練っていました。

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夕食会の話題は、核兵器禁止条約から調布市の文化行政事情まで多岐にわたりましたが、FC東京のホームゲーム開催日だったので、電車が混み出す前に、早々に帰宅しました。
みさと屋のスタッフの皆さん、美味しい野菜料理をありがとうございました。
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2016/12/10

平和・協同ジャーナリスト基金賞贈呈式/「幻の響写真館」展  館外展・関連企画

午後、日本プレスセンターで平和・協同ジャーナリスト基金の贈呈式がありました。
代表運営委員の岩垂弘さんが1995年に創設され、今年で22回を数えるという、市民の寄金で運営されている賞です。

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「日本版ピュリッツァー賞、市民版ノーベル平和賞の気構えでやっている」という岩垂さんの挨拶は、熱く、ときおりユーモアのにじむ、心を動かされるものでした。
賞贈呈の後のスピーチは少々緊張したものの、記念撮影やパーティでは、多くの方とお話しすることができ、楽しい時間となりました。

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丸木夫妻は《原爆の図》を「大衆が描かせた絵画」と語っていましたが、《原爆の図》にかかわった人びとに焦点を当てた拙著『《原爆の図》全国巡回』が、高木仁三郎市民科学基金の助成を頂いて出版され、「市民版ノーベル平和賞」に導かれていったのも、何か運命的なものがあったのかもしれません。

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写真は左から『新聞と憲法9条』で奨励賞を受賞された朝日新聞編集委員の上丸洋一さん、原発問題に関する情報発信で奨励賞を受賞されたよしもと所属の漫才師おしどりケンさんと、岡村を挟んでマコさん、お祝いに駆けつけて下さった作家の関千枝子さん、小寺美和さん、『米騒動とジャーナリズム』で奨励賞を受賞された細川嘉六ふるさと研究会代表の金澤敏子さん、そして丸木美術館の小寺隆幸理事長。

はじめはおしどりのお二人と撮影をしていたのですが、途中からどんどん人が入って来て、このように賑やかな嬉しい記念写真になりました。

二次会では、推薦者の山村茂雄さんや岩垂さんから、いかに選考委員が作品を読み込んで、真剣に議論して受賞者を選んでいるかをじっくりお聞きしました。

「本当に良い賞なのだから、受賞された方は、かならず略歴に書いてください」と何度も言われたので、これからはこの小さいけれども清々しい賞のことを、少しでも世の中に広めていきたいと思います。

   *   *   *

平和・協同ジャーナリスト基金賞の贈呈式と二次会の後は、馬喰町のKanzan Galleryで開催中(12月27日まで)の「幻の響写真館 井手傳次郎」展のレセプションに駆けつけました。

亡き針生一郎館長のパートナー夏木さんのお父様・井手傳次郎が長崎市片淵で開いていた響写真館のガラス乾板から焼き付けた写真、実物のガラス乾板、当時の写真集の展示です。

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響写真館は1943年に閉館するまで17年間営業を続けましたが、傳次郎が戦地に向かう若者の写真を撮ることを拒み、店を畳みました。
彼は若い頃に上京して太平洋画会研究所に通い、平福百穂に師事していたので、後に写真に生かされる美的感覚も、体制に迎合しない反骨の気質も、影響を受けていたのでしょう。

残された写真の多くは、モダンで文化的な家庭で育った子どもたちの生き生きとした様子を撮影しています。
1928年頃の浦上教会の礼拝を写したものもあって、その写真が本当に良かったです。

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手もとにある画像は傳次郎自身が焼き付けたバージョンですが、今回新たに銀遊堂が焼き付けた写真は、黒と白の対をなす信徒の一群の上にふわりと光が降り注いでいて、信仰の根源を見るような、厳かな気持ちにさせられました。

今夏に『長崎・幻の響写真館―井手傳次郎と八人兄妹物語―』を刊行された根本千絵さん(傳次郎のお孫さん、つまり針生館長・夏木さん夫妻の娘さん)ご家族をはじめ、キュレーターの菊田樹子さん、そしてデザイナーの山崎加代子さんら長崎から来られた方々とご挨拶できたのも、とても嬉しく思いました。
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