2007/2/4

作品寄附  作品・資料

丸木位里の水墨画《山》を寄附して頂くとのご連絡を受けて、今日は東京の調布市まで作品を引き取りに伺いました。
作品は10号ほどの大きさで、制作年などは不明です。
今回ご寄附頂いた女性の義理のお母さまが、かつて赤坂で料亭を営んでいたおりに日動画廊の社長さんから頂いた作品とのことです。

ここ数日、たまたま作品の寄附が重なって、《山》のほかにも位里の掛け軸《牛》、短冊2点、俊の戦前の板絵《モスクワ アパートに向ふ並木道》、スマの色紙《えびすさん》が新たに丸木美術館の収蔵品となりました。
詳しくは次回発行の美術館ニュースでご報告いたします。
いずれ機会を見て丸木美術館に展示してご紹介したいと思っています。

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写真は位里の《牛》と俊の《モスクワ アパートに向ふ並木道》。
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2007/1/11

代用教員時代の俊  作品・資料

丸木夫妻の資料の確認作業の続報です。
昨日、千葉県の市川市立市川小学校の校長先生から、戦前に市川小学校で代用教員をしていた丸木俊(当時赤松俊子)に関する記録が見つかったとのお電話を頂きました。

記録によると、俊は1933年4月19日から1937年3月31日まで代用教員を務めていたとのこと。自伝では、はじめは2年生女子組の担任を受け持ち、やがて全校の図画教育の責任者になって県の図画大会で県知事賞を受賞しましたが、自分の絵を描く時間が削られたために退職を決意したと回想されています。
その後、俊は通訳官の子どもの家庭教師として1年間モスクワに渡るのですが、今回の調査で、モスクワから帰国後の1938年5月19日から同年8月31日までの短期間、再び市川小学校の代用教員として勤務していたということがわかりました(県の図画大会で県知事賞を受賞したという事実については確認できませんでした)。

俊はその後、椎名町のアトリエ村に住んで画家として本格的に活動をはじめます。アトリエが見つかるまでの間だけ、市川小学校で代用教員をしたということなのでしょうか。それとも、何か別の理由があったのでしょうか。
いずれにしても、まだ売れない画家であった彼女が腕一本で生きていくには、さまざまな苦労があったことでしょう。
もう少しいろいろ調べてみれば、また何か新しいことが分かるかも知れません。
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2007/1/8

資料調査  作品・資料

先週末ころから、丸木夫妻の従来資料の確認調査をはじめています。
電話やメール、FAXなどを使って、例えば丸木夫妻の出身校などに、従来の記録が正確であるかどうか裏付けをとっているのです。
あくまで確認のための調査だったのですが、早速、位里さんの小学校(広島市立飯室小学校=当時は飯室西尋常小学校)卒業年が間違っていた(画文集『流々遍歴』などで従来は1915年とされていたが、飯室小学校に残る記録によると1914年)ことが判明しました。
そんな細かいことを、と思われる方もいらっしゃるでしょうが、以前ある個人収集家のお宅を訪問したときに、「学芸員でも従来の資料の裏付けを取らずに引用してしまうから、ひとつの間違いが広く流布してしまう」と言われたことが頭に残っているのです。

時間をかけて丸木夫妻の足跡を調べることのできる研究者の数は限られているから、せめて丸木美術館ではできるだけ精確な資料を作成しておきたいものです。
いずれはその資料を、研究目的の方のために公開できるような形をとりたいとも考えています(すでに今年卒業研究で丸木俊をとりあげた都留文科大学のKさんには利用してもらっています)。
現時点では1901年(位里誕生年)から1945年前後まではほぼまとまっているので、何とかこの冬のあいだに1950年(《原爆の図》発表年)あたりまでの資料をまとめて一区切りつけることができれば・・・と思いながら、詰めの作業を続けています。
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2006/10/7

原爆の図デッサンの撮影・調査  作品・資料

今日は一日じゅう収蔵庫に入って、次回企画展「旅を描く―丸木位里・丸木俊作品展」のための作品調査と、原爆の図デッサンの写真撮影及び調査を行いました。原爆の図デッサンの調査は、10日(火)に実行委員が来館する藤沢市30日美術館「原爆の図展」の準備のための調査です。
1940年代後半から丸木夫妻が描きはじめた厖大な数の人体デッサンは、「原爆の図デッサン」と呼ばれ、丸木夫妻の共同制作《原爆の図》に大きな影響を与えたのですが、厳密な意味では必ずしも《原爆の図》のために描かれたのではないデッサンも含まれています。
今回の藤沢市の展覧会は、藤沢市片瀬のアトリエで描かれた《原爆の図》初期作品の制作過程を追う企画。「原爆の図デッサン」を、藤沢時代とそれ以前の椎名町時代に分類し、《原爆の図》との関連を一定整理しなければならないのですが、日付の入っていない作品も多く、関連資料もほとんどないため、難しい作業になります。
それでも、これまで後まわしにしてきた「原爆の図デッサン」を整理する良い機会なので、作品写真を撮影し、デジタルデータとしてリストにまとめることにしました。
二人のデッサンをひとつひとつ撮影していく作業は、なかなか楽しいものです。
今日は半分ほど撮影が終わったので、夜に自宅でデータをまとめ、明日は引き続き残りの撮影を続ける予定です。
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2006/6/16

被爆者の声CD  作品・資料

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▲被爆者の声CD『ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない』

昨日から降り続いた雨は昼過ぎには止んで、夕方には空が明るくなりました。
明日に予定されていた美術館クラブと東松山市との共催の「ホタルの里のキャンドルナイト」はどうやら無事にできそうです。
今日は午前中に、「被爆者の声を記録する会」代表の伊藤明彦さんが来館しました。伊藤さんは元NBC長崎放送の記者で、1971年から全国の被爆者を訪ね歩き、直接聞き取った証言などを『ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない』という9枚組みのCDにまとめ、生々しい被爆の惨状を伝えています。
CDは伊藤さんから丸木美術館にご寄贈下さいました。小高文庫に揃えていますので、ご来館の際にはぜひお聴き下さい。また、下記ホームページでも被爆者の声を聴くことができます。
http://www.geocities.jp/s20hibaku/
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2006/5/19

丸木スマのデッサンなど  作品・資料

今日は丸木スマ展出品作品のチェックのため母屋のH子さんといっしょに収蔵庫で作業をしました。
今回は、俊さんとスマさんの「女絵描き」二代の関係性に注目するため、俊さんが描いたスマさんの裸体デッサンを出品します。このデッサンには「一九五四年八月二十七日 院展出品の日 八十三才丸木スマ おばあちゃんの生き貫いたしわを描く 嫁俊子」という文章が書き込まれています。
今日、H子さんが「こんな作品もあるんだけど、展示する?」と言って持ってきたデッサンは、位里さんが描いたスマさんの裸体デッサンでした。日付を見ると「一九五四年八月二十七日」、俊さんのデッサンと同じです。
俊さんがスマさんの裸体を正面から描いているのに対し、位里さんはやや後方から描いています。「さすがに、自分のお母さんの裸は正面から描けなかったのかな」とH子さん。面白い作品なので、急遽、今回の企画展に展示することにしました。

  *  *  *

広島テレビのK記者から、5月11日に放送された「丸木美術館 存続の危機」のビデオが届きました。
美術館の開館以来の入館者の動向が折れ線グラフで表示されたり、映画『父と暮せば』で「原爆の図」が使用された場面を抜粋したり、来館者やボランティアの声を紹介したり、丸木夫妻の肉声や制作の様子を撮影した古い映像も取り入れたり、「ひろしまの図」を所蔵している広島市現代美術館の副館長さんにもインタビューをするなど、様々な角度から今の美術館と「原爆の図」の置かれている現状を分析しています。
「広島以外に原爆を知ることのできる場所があることに意味がある。広島に修学旅行生を誘致し、事前学習で訪れてもらうなど、広島から支援できる方法はあるのではないか」という番組の最後のアナウンサーの言葉が印象に残りました。
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2006/2/26

赤松俊子 南洋ノートよりC  作品・資料

21日午前6時 ツツタウの声もきかずに朝寝の旅人は、朝食を忘れて、山をかけ下りる。突堤の先で船の人たちのみそ汁が、青いはつぱを浮かせて煮立つてゐた。塩つぱい酢い匂ひが腹にしみて、ジユツとつばきが舌の奥ににじみ出た。
今日も船べりで歌を唄ふ。いつどこからのつたのか陽気な唇のうすいまつげの長いカナカの娘が、寄つてきて肩をたたく。
『あんたも友達だ、コンパニーになるよ』
『うん うん』
とびつくりしてゐる私をほつといて一人でしやべつて一人でうなづいてゐる。
眉を上げて目を一寸下見使ひにあごを前にほんの少ししやくつて『うん うん』とうなづいてみせる。
この茶褐色の陽気なブロンズは仲々ゆるやかなゼスチュアで、なめらかな魅力がある。
二人で肩をくんで唄ふ。
あの唄もこの唄も、キーンとのどをはつて、高く唄ふ彼女の声。なげやりな捨ててしまつた、どこにも勿体ぶつた所のない姿だけに、悲しいまでに人をひく力を持つた娘である。
『ほれ、たべなさい』
にゆつとつき出す、見るとビンロー樹の實に石灰をふりかけて、ギムァ(カブイ)の葉でまいた、例の、島民たちが赤いつばきをペツペツと地べたへはく、あの實なのである。
受け取つて、一寸ながめたが、そして彼女の顔をみると、目と口が、『どう?』と言つてゐるので、思いきつて、ガリッと喰ふ。ヒリヒリする石灰の味が舌をさす。多少がまんはしてゐたのだがよほど妙な顔をしたらしい、
『舌がやけるから石灰を少しにしなさい』
と笑いながら彼女は言ふ。だがもうかんでしまつた石灰は舌にべつとりついてはなれない。
『ベツ』と海にはき出すと、緑にわき立つ波に、もう眞赤な汁がはき出されて消えてゐた。
『ベツペツ』とつづけてはき出す。皆眞紅のつばきだ。はき出しながら海を見てゐると、咬んだ右の方の歯の上からぽーつと熱くなつて、それが頭の右側に廻り、それが徐々に左側の方へも廻つて、熱く、ゆらりゆらりとたゆとうて行った。
『頭が熱い』と頭を指してみせると、『うん、そうか、ねよう』といきなり肩をつかんで船室へ連れて行つた。
むんむんとむせる船室に、茶褐色の島民も、それに近い陽やけした邦人の男たちもほんの八畳足らずの船室につめ寄つて寝てゐた。私たち二人もそのほんのわづかのエンヂン室の側にある壁を取つて細長くねた。彼女は頭が痛いかとひたひをさすつてくれたが、その銀の指輪をはめた裏の桃色の手は、肢体からくるなよやかさに比して、ゴソリと硬い感触だったのでびつくりした。それから黒びかりする彼女の二の腕に受けるエンヂンの振動をながめてゐるうちにすっかり寝こんで仕舞つた。
カヤンガルに着いたといふ声を聞いて、いつものやうにパツとはね起きようとすると、ベタベタした汗でびつしよりになつてゐてしかも船室はむんむんと息苦しく暑い空気で一つぱいだつた。
(つづく)
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2006/2/25

「原爆の図」修復調査のこと  作品・資料

N事務局長から22日の総務委員会と23日の「原爆の図」の修復保存のための予備調査の報告があった。
「原爆の図」の調査は、絵画保存研究所のKさんたちが来館して、「原爆の図」の反り、剥れ、汚れ、墨皺や、丸木スマ作品の黴の状態などの簡単な点検が行われたとのこと。ただし、絵画の補修は、長期間にわたる材質等の本格的な研究調査が必要であり、数千万円単位の予算が必要になるという。Kさんの意見は助成金の申請を考えた方が良いとのことだが、そのためには都道府県レベルの文化財認定という基準があり、今後の方針についての見通しは簡単には立たない。
10時半頃、26人の団体が来館し、「原爆の図」の前で館内説明を行う。
午後2時からは毎月1回行われているワークショップ「丸木美術館クラブ」が野木庵で行われた。
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2006/2/22

赤松俊子 南洋ノートよりB  作品・資料

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▲南洋ノートの寄せ書き

暮れ落ちたたまなの葉越にギラギラと金属性の光を持つ月が高く上つてゐた。裸になつて、タンクの水を浴びに行く。
『水浴びてゐるよ、のぞいてはいけないよ』
月の林の中の弱いランプの光に向つてさけぶ。なま暖かい天水に石鹸がうまくとけて、体中泡ぶくになる。立ち上つて水を肩から浴びる。天水がやわらかい感触で体を流れ、陽やけした手足を除いて青白い程の胴体が月光に輝き、乳房の影が青黒く腹部にうつる。
林から用あり気に出て来た島民がヘタヘタと足音を地に吸はせて、側を通り過ぎるが、さつき叫んだのがきこえてゐるのかふり向いて見やうともしない。

月夜の熱帯の山に、青黒い風が海から吹いて来て、嶺のタコの木を吹きさらす。
ニヨキニヨキと方向をまちがえてのびた枝を急角度にもとへもどそうとして、その中途から風に吹きさらされ、もうどうにでもなれと風にまかせてのびほうけたのか、奇妙なタコの樹がはげ上つた枝の頂きにわずかの葉をのせて、月夜に何かを物語つてゐた。
青黒い風が海から吹いて来て、やせた山嶺の椰子の木を吹きさらす。だらりと両手を下げた椰子の葉、葉脈にギラギラと月光がきらめいて、冷たい静かな物語りを、青黒い風にのせてゐた。
青黒い風が海から吹いて来て、山嶺のわずかに立つ樹々に何かを問ひかける。ヒヨウヒヨウと熱帯の地に、何か解けない冷たいなぞが、青黒い風にのつてかけぬけてゐた。
(続く)
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2006/2/17

赤松俊子 南洋ノートよりA  作品・資料

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▲赤松俊子デッサン(南洋ノートより)

水を透してリーフに落す船の影、そして船べりに腰を下す自分の影が水底をかけて行く。
リーフを出た船は外海に出て軽いローリングが初ったが、自分が船を動かしてでもゐるやうにゆらりゆらりと体を動かすと、心よい大きなゆるやかさが湧き出して、大きな声をはり上げて唄ふ。島民の作った物語の唄である。唄ふと甲板にねそべってゐる島民の女たちも唄ふ。ぶっつけるやうになげ出すやふに唄ふ。大きなとてつもない声で唄ふのだが、この真夏の真昼の海の会場は次々海のうねりに吸はれて行ったのである。
 昨日迄、故障を起してゐたこの船は一気にカヤンガルへ走るのは危いといふので、そこで本島のはづれ、アルコロン村に一泊することになった。
赤い地膚をみせたダラダラの山道を行く。ムッと土の匂いがして内地のしめった山陰の道をふと思い出した。どうどうと水音がして右手に滝が見える。美しい水が赤紫の岩をつたって落ちてゐる。
この小さな島に滝を見出して、地図から受ける観念といふものは妙なものであると考へた。滝の側に水屋があり、二段にわかれてゐて、上段は飲水、下段は洗濯水場に使用するのだといふ。水屋にあふれた水は音を立て、滝と合流して河を作ってゐるのである。うぐいすが何所かで下手ではあるが澄んだ声でないてゐる。
赤い切り通しの道をぬけると、芝生の茂った道である。すれちがふ島民も私たちの足音も芝生に吸ひ取られて、遠い滝の音とうぐいすの音が聞えるばかりで、はげしい真夏の真昼の陽が照り輝く中で、濃緑の山に時々緑をはがして赤膚をみせてゐる山々がゴーガンの山のうねりを思はせ、ゴーガンのマンゴー樹が山の突端で黒い影をやどして、真昼の眠りをむさぼってゐるのである。
しんと眠りこけたこの山道では、何所からも風が通らずリックサックの下からじんじんと汗が湧き出して指筋を流れるのがみえるやうである。
こうなってくると、むき出しの腕や膝に陽が、ヒリヒリと当って徐々にやけどをしてゐるやうに思へるのであつた。
全身水を浴びたやうに汗になりながらやつと部落につく。
この部落は、徒一軒の沖縄の人と巡査を除いて他は皆島民だといふことである。宿は村林事務所と定め、ドサリとリックサックを下ろし、枝の間にうすべりを敷いた床に長々とねそべったのであった。部落に入ると急に涼しくなり、乾いた音だが冷たい風を持つ椰子の葉風があけ放した窓からなだれ入る。
深呼吸をして、深い眠りに落ちて行った。
(続く)
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2006/2/14

赤松俊子(丸木俊)の「南洋ノート」  作品・資料

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▲赤松俊子(丸木俊)の南洋ノート

日本建築学会会員のKさんが取材のため来館。雑誌「Argus-eye」(日本建築士事務所協会連合会発行)の「名士の居宅」のコーナーに丸木夫妻を取り上げて下さるとのこと。野木庵や流々庵を取材し、様々な書籍を購入して行かれる。今日は、入館者は少なかったものの、書籍・グッズ類を大量に購入された方が多かった。

朝、M子さんからチョコレートを頂いた。息子Rといっしょに、ということで「SUISUI SET」という、カメとクジラとイルカのセットになったかわいいチョコ。
午後には川越からMさんとSさんが来て、チョコレートやらラーメンやらカレーやら色々と頂いた。ありがたい。
ちょうどタイミングよくJさんが来たので、Jさんも色々を頂いて帰った。

先週、町田市立国際版画美術館のT学芸員が南洋時代の赤松俊子(丸木俊)作品調査に来館された際、母屋のひさ子さんから、1940年に記された俊の南洋時代のノートをお借りした。スケッチや地図とともに、当時の日記が細かい字で書き込まれている。以来、時間を見つけて、手書き文字を判読しながら文章に起こしている。
俊は1940年1月、「女ゴーギャンになる」と決意して、当時日本の統治下にあった南洋群島へ渡り、半年ほどの滞在期間中に数多くの作品を残している。彫刻家で民俗研究家の土方久功とも親しくし、彼の案内で現地の住民とも深く交流した。
なかなか興味深い内容の上、これまであまり知られていないノートなので、少しずつ整理して紹介していきたい。
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2006/2/11

都幾川の鮎の話  作品・資料

天気も良く、風もなく、ぽかぽかとした穏やかな午後。
昼食後に、ガスの補給に来たM燃料さんと、陽だまりの中で都幾川を眺めながら話をする。
こうした地元の人との世間話は、ふだんはN事務局長の役割(?)で、おもむろに煙草に火をつけてふかしながら話すのだが、今日は休みをとっているので、ぼくが代行(?)することにした。二人でポケットに手を突っ込んで、川を見下ろして立ちながら話す。
M燃料さんは釣り好きで、昔、位里さんといっしょに都幾川で鮎をとったことがあるという。当時の都幾川は今よりずっと水量が多く、水がきれいで、漁業組合も元気で、毎年鮎を放流していたそうだ。
ある年のこと、鮎がたくさんとれた年があって、位里さんは鮎釣りのあとで、興が向いて「この紙は中国製で高いんだぞう」なんて言いながら、鮎が泳いでいる絵を描いてくれたことがあった。俊さんも出てきて、とても丁寧に鮎の絵を描いてくれたが、位里さんは一目見て「その鮎は死んどる。まな板の鮎じゃ」と言った。すると俊さんは「あらそうね。私は鮎が川で泳いでいるところを見たことがないから、まな板の鮎を描いたのね」と言った。M燃料さんは(本当だ。これは死んだ鮎だ。絵描きというのはたいしたものだ)と思ったそうだ。それで位里さんの絵だけ頂いて、掛け軸にしたのだが、今思うとそのときの俊さんの絵ももらっておけばよかった。あれはそのまま、どこへ行ってしまったんだろう、と言った。
M燃料さんが言うには、鮎は、身体は他の魚とほとんど同じだが、顔に特徴があるのだという。だから位里さんは、鮎の顔はしっかりと描いて、後は流してすいすいと描く。すると、尾がぴちっとはねた、川で泳ぐ鮎になるのだそうだ。
「いやあ、何にしても、面白い人だったね」とM燃料さん。地元の人の思い出の中にしっかりと根付いている丸木夫妻の話を聞くのは面白い。
(M燃料さんの掛け軸は、2005年企画展「ホタルの里の展覧会」でお借りして展示した)
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2006/2/5

丸木夫妻と沖縄  作品・資料

朝日新聞のY記者が取材のために来館。
朝日新聞夕刊1面「人脈記」の「沖縄」のテーマの中で、丸木夫妻と「沖縄戦の図」について取り上げて下さるとのこと。
丸木夫妻は1983年に沖縄の図8部作「久米島の虐殺(1)」「久米島の虐殺(2)」「亀甲墓」「自然壕」「喜屋武岬」「集団自決」「暁の実弾射撃」「ひめゆりの塔」、1984年に「沖縄戦の図」と絵本「おきなわ島のこえ」、1986年に「沖縄戦―きゃん岬」「沖縄戦―ガマ」、1987年に沖縄戦読谷3部作「チビチリガマ」「シムクガマ」「残波大獅子」を相次いで発表している。
丸木夫妻がいつ頃、なぜ沖縄を描こうと考えたのか、というのがY記者の質問だった。

丸木夫妻は1978年9月に沖縄タイムス主催の原爆の図展で初めて沖縄を訪れている。同年12月号の『日中』には、「沖縄をはじめて訪れて―民衆と戦争の問題をどうとらえるか―」という丸木俊のインタビュー記事が紹介されている。
記事には、同年夏に原爆の図展でフランスを巡回した時のことが語られている。フランスでは、多くの人が「戦争になれば災害をこうむるのは民衆なんだ」という本質を怒りながら話す。それは、ノルマンディ作戦の時に、フランスを占領しているファシストを追い出すという名目のもとで、アメリカが無差別爆撃により多くの民衆の命を奪ったことに起因しているという。
丸木夫妻は沖縄を訪れて多くの人の話を聞いたとき、「沖縄の戦争は、民衆こそがその惨禍を身に受けることを典型的に示している」と考えた。アメリカは日本のファシズムを倒すと言って沖縄の民衆を攻撃し、日本軍は国を守るための戦いの邪魔だと殺す。民衆の立場からすると、正義の戦争はありえない。インタビューの終わりには、以下の言葉が紹介されている。
「沖縄では、さっそく沖縄の戦争を描いてくれと言われました。沖縄戦争を描けば、ほんとうの加害者が出てくるんじゃないか」
現在調べられる範囲の資料では、これが、丸木夫妻が「沖縄戦の図」の制作について最初に言及している資料である。
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2006/1/7

交響曲「ヒロシマ」  作品・資料

【今日の入館者数】個人42人

午後、株式会社Iの企画担当Eさんから「原爆の図」写真借用願が届き、3月1日発売の「日本作曲家選輯」シリーズ「大木正夫 作品集」のCDブックレットに掲載したいとのこと。早速ポジフィルムの送付手配をする。
大木正夫(1901−71)は1953年今井正監督の記録映画「原爆の図」の音楽を担当した作曲家で、後にこの映画音楽をもとに交響曲第5番「ヒロシマ」(序奏/幽霊/火/水/虹/少年少女/原子沙漠/悲歌)を発表した。この交響曲はアルヴィド・ヤンソンスやレオポルト・ストコフスキによって世界に広く紹介されている。

体調を崩していたY子さん、M子さんが出勤し、今年初めて4人全員が顔を揃える。
朝日新聞朝刊の埼玉マリオンには「没後10年丸木位里展」の案内が掲載された。
午前中、1月29日に行われる丸木美術館再生プロジェクト会議についてN事務局長と打ち合わせ、資料作りに着手する。議長のT理事にもメールを送信し、今後会議の中身をつめていくことになる。
午後にはボランティアのJさんが来館。新年の挨拶をする。今年もいろいろとお世話になることだろう。
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2005/12/2

荒崎の海  作品・資料

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午前中、原爆の図広島展のために空いたスペースの展示を行った。11月に寄託された勝養寺の「原爆の図」を展示しようかとも思ったが、N事務局長が今日から広島へ出張に行ってしまっていて作品を一人で運ぶには大きすぎるため、今回は見送ることにした。代わりに丸木俊の個人制作の油絵から「原爆の図 祖母子」「炎の母子像」「鳩笛」「荒崎の海」の4点を展示(いずれも丸木美術館所蔵作品)。特に「荒崎の海」は、昨年11月に故蜷川虎三氏(元京都府知事)の遺族からご寄贈いただいた作品で、初めての展示となる。この作品は、海が好きな蜷川氏に俊さんが贈ったもので、1960年頃に制作されたと見られる。蜷川氏の知事在任中はずっと知事室に飾られていたという。11日(日)まで展示。

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11月の入館者数が前年比225人減だったことを受けて、早速T理事から、入館者が昨年を下回ったことについて「これからどのように入館者の確保を目指すのか考えたい」とコメントが寄せられた。今年度は4月を除いて毎月前年比増が続いていたので、急に200人以上の減少と聞いては驚くのも無理はない。
もっとも、昨年の11月は何故か大規模の団体が集中して、1年でもっとも入館者が多かった月。決して今年の11月の入館者が少なかったわけではない。月間の入館者数1,856人は今年度では8月、5月に次いで3番目に多い。団体入館者数1,196人は5月に次いで2番目に多く、特に上旬は毎日のように館内説明を行っていた。
もちろん、多くのメディアに露出している割には今年度の入館者がそれほど増えていない(現在のペースではやっと一昨年の入館者数に届くかどうか)という見方はできるし、決して楽観できるわけではない。特に団体は、件数が多いわりに一件当たりの人数が目に見えて少なくなっている。少子化などで学校団体の生徒数が激減している事情もある。来年以降、入館者数を増加させていくことは、決して容易なことではない。
むしろ、今年が昨年と比べ劇的に変化したのは寄附金と友の会会員が大幅に増えたこと。友の会会員はほぼ倍増、寄附金にいたっては10月末時点で前年比約13.6倍になっている。メディアの効果は、明らかにこの二つに反映されている。こうした事実を踏まえながら、今後安定した経営を目指すためには、何に重きを置いて努力するべきかを考えたい。
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