2013/5/2

『hiroshima-nagasaki Document 1961』と福竜丸だよりNo.375  作品・資料

5月5日の開館記念日に向けて、今日も草刈りやテントの借用などの外回り作業が続きます。

そんななか、2013年5月1日付都立第五福竜丸展示館ニュース『福竜丸だより』No.375が手もとに届きました。
このところ、いただいた書籍の紹介が続いていますが、今回の『福竜丸だより』には、山村茂雄さんの連載第20回「晴れた日に雨の日に―第五福竜丸とともに―」に、丸木夫妻とも関わりのある1961年に刊行された海外向け写真集『hiroshima-nagasaki Document 1961』(原水爆禁止日本協議会)についての回想が記されていたので紹介いたします。

クリックすると元のサイズで表示します

写真集の制作は、山村さんの所属されていた日本原水協の宣伝技術グループが担当し、編集には美術評論家の瀬木慎一、グラフィックデザインの粟津潔、杉浦康平、詩人の長谷川龍生、写真評論家の伊藤知巳、重森弘淹が加わって進められたそうです。

28cm×28cmの正方形の判型に放射状の円形を用いた杉浦康平の表紙デザインが印象的なこの写真集は、東松照明の長崎の写真69点を中心に、土門拳の写真21点、丸木夫妻の「原爆の図」3点が収められ、いまもたいへん高い評価を受けています。

以下は、山村さんの連載より抜粋。

==========

 被爆一六年後の被爆と被爆者のドキュメントとしての写真集をつくる――この編集方針を実らせるのは、東松さんが撮り下ろすナガサキの写真でした。一九六一年三月早々に東松さんから写真が届けられました。提出された写真は、前号でもふれたように8月9日のその時と、その時を起点とする被爆一六年後のいま、その「二つの時」を鮮烈に結ぶものでした。時計、瓶、天主堂の天使たち、静謐に時を刻印する物証の数々に併せて、私が感動したのは被爆者の生きる姿でした。被写体となった被爆者のそれぞれに想定されるきびしい生活、そのなかでしかもなお醸されている人間の温もりが写しとられていることでした。ともすれば「被爆」と「被爆者」を括弧で括ったような一面的理解、その認識の範疇を越えて、被爆を見る視点を新たに拓いていると思われました。被爆に隣り合い被爆者とともに在る、という問いかけがありました。後だしの評価になりますが国際的にも大きな説得力をもつと思いました。

==========

クリックすると元のサイズで表示します

この写真により、東松は第5回日本写真批評家協会作家賞を受賞。
大胆な写真のトリミング作業などブックデザインを担当した杉浦と粟津は、日宣美会員賞を受賞しました。

クリックすると元のサイズで表示します

丸木夫妻の「原爆の図」も大胆にトリミングされています。
写真は、第4部《虹》の一部分。

クリックすると元のサイズで表示します

そして、土門拳の「ヒロシマ」の写真。
なんと土門は「ヒロシマ」のネガブックをそっくり貸してくれて、トリミングもデザイナーまかせだったそうです。そのため、山村さんは後々まで「土門からネガを取り上げた男」と冷やかされたとか。

写真集は英文と露文が記され、序文は湯川秀樹。
別冊のテキストは佐久間澄(広島大)、草野信男(東京大)、畑敏雄(東工大)が執筆。
山村さんは「写真集の刊行は、積み重ねてきた原水爆禁止運動の一つの結実」と述べていますが、たしかに非常に良質で実験精神にあふれた、この時代を代表する作品だと思います。
1

2013/2/19

《女は水を汲みました》  作品・資料

少し前になるのですが、大阪大学のUさんから、1957年6月8日付『朝鮮民報』(朝鮮総連の機関誌で、『朝鮮新報』の前身)に、丸木俊の絵が紹介されているとご教示頂きました。

クリックすると元のサイズで表示します

丸木夫妻は、その前年に原爆の図世界巡回展のために中国を訪れ、北京で展覧会を開催。その後、北朝鮮に入って平壌で展覧会を行い、モンゴルを経由してヨーロッパに向かいます。そこで丸木スマの死の知らせを聞き、位里は56年の暮れに、俊は57年になってから相次いで帰国しました。

ですから、帰国後に北朝鮮を題材にした作品を制作して、それが朝鮮総連の機関誌に取り上げられることは不思議ではありません。
記事の存在は初めて知りましたが、画像を見ると、たしかに見覚えのある作品でした。
57年5月23日から東京都美術館ではじまり、全国9会場を巡回した毎日新聞社主催の第4回日本国際美術展に出品された《女は水を汲みました》と題する作品です。
モノクロではありますが、当時の日本国際美術展の図録に、画像も掲載されていました。

クリックすると元のサイズで表示します

丸木俊が描いた朝鮮人女性のイメージに関心を寄せている近現代史研究者Kさんの指摘で気づいたのですが、四曲一隻の屏風であったことが画像から見てとれます。
おそらくは、《原爆の図》と同じ紙本彩色で描かれたのでしょう。

Uさんからは、記事の仮訳も送って頂きました。

=====

婦人たちは水を汲んだ 丸木俊子画
◎…現在東京上野の都立美術館で開催中の「第四回日本国際美術展」の世界一九ヶ国の第一線の画家たちの作品中において、盛んに異彩を放っているのは、丸木俊子の『婦人たちは水を汲んだ』という一幅の絵である。
◎…丸木女史は、有名な「原爆の図」を携えて昨年九月共和国を訪問したとき、米帝と李承晩一味の野蛮な爆撃のもとでも水甕を頭に載せて水を運んで人民軍に差し上げ、はなはだしい場合には髪がみな抜け落ちてしまった婦人たちもいた、という事実を聞いて、その感動を再現したのである。
◎…同女史は言う『平和を勝ち取った今日、共和国の領土に***と建設事業場で翻る婦人たちの古典的で美しい衣装を回想しながら画き終えました。この絵を朝鮮に送りたい』…。


=====

また、その後のUさんの調査で、平壌で発行されていた朝鮮作家同盟中央委員会機関紙『文学新聞』第95号(1958年9月25日)に掲載記事があり、《女は水を汲みました》は朝鮮美術家同盟に寄贈されたと書かれていることもわかりました。

クリックすると元のサイズで表示します

北朝鮮には、今でもどこかに俊の描いた絵が残されているのでしょうか。
この頃の俊は、当時所属していた日本共産党の影響も大きかったのでしょうが、北朝鮮についての作品や文章をいくつか残しています。それらを、今日的な視点でどのように見ていけばいいのかは、今後の調査研究の課題となるでしょう。
あるいは、イデオロギー的な批判の対象になることがあるかもしれません。

時代の変化によって、人間の視線は揺れ動きます。
戦時下の時代を含め、俊の視線も、その揺らぎを免れているわけではありません。
それでも、この優美な絵は、俊の視線が、市井に生きるひとりひとりの人間/女性の存在を肯定的に捉え、可能性を信じるところから出発している、その部分は揺らいでいないことを示しているような気がするのです。
この時代の、彼女なりの目から、核(を保有する強国)に対峙する人間/女性を描いた作品と言えるのではないでしょうか。

1週間ほど前、北朝鮮が核実験を行ったというニュースに、沈鬱な気持ちになりました。
核を保有したところで、いいことなんて何もないのに。
北朝鮮だけではなくて、アメリカも、ロシアも、イギリスも、フランスも、中国も。
インド、パキスタン、それからイスラエルも。
すべての核が世界からなくなる日が、一日でも早く来ることを願っています。
3

2013/1/19

映画『肉体の門』と《原爆の図》  作品・資料

元学芸員Mさんからご教示頂いて初めて知ったのですが、1964年公開の映画『肉体の門』(鈴木清順監督、日活)のタイトルバックに、丸木夫妻の《原爆の図》をもとにしたイラストレーションが使われています。

クリックすると元のサイズで表示します

『肉体の門』は、田村泰次郎の戦後日本最初のベストセラー小説を原作とする映画で、1948年をはじめに、これまでに計4回映画化されています。
1964年はそのうち2回目の映画化で、美術監督は日本を代表する美術監督・木村威夫がつとめました。

映画の冒頭で使われる8点のイラストレーションは、丸木夫妻の筆によるものではありませんが、明らかに《原爆の図》を意識して描かれています。

たとえば、下のイラストレーションは、第3部《水》の画面左端に描かれた積み上げられた死体の山をモチーフにしていると思われます。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

また、下のイラストレーションは、第4部《虹》に描かれた爆風で木の枝に引っかかって宙吊りになった人間のイメージが使われています。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

そして決定的なのは、第5部《少年少女》の抱き合う少女像。
これは《原爆の図》を代表するイメージのひとつと言えるでしょう。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

著作権の概念が現在ほど確立されていなかった当時のことですから、丸木夫妻の許可を得て使用されている可能性は低いだろうと推測するのですが、今となっては、どういう経緯で『肉体の門』に原爆の図のイメージが引用されたのか、調べることは難しそうです。

敗戦後の焼跡を舞台に繰り広げられる米兵相手の娼婦たちの物語。
原爆の話が直接出てくるわけではないですし、戦争の傷の象徴、そして「エロティックな肉体描写」という点で、タイトルバックのイラストレーションに採用されたというところでしょうか。

《原爆の図》が映画に使われること自体は決して珍しいわけではないのですが、こうした文脈で引用された例はほかに見たことがなく、もし当時の事情をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ丸木美術館までご一報ください。
2

2012/12/11

ジャン・ユンカーマン監督と対面  作品・資料

午後から、東京・中野区の喫茶店で、映画監督のジャン・ユンカーマンさんにお会いしました。
実は、ユンカーマンさんには、これまで電話やメールで何度もご連絡をしていたにも関わらず(ユンカーマンさんが丸木美術館に来て下さったときに私が不在だったこともありました)、直接お会いするのは初めてだったのです。

今回は、元TV局プロデューサーH川さんや被爆者団体H田さんとともに、ある企画についてのご相談にうかがったのですが、とても優しく対応して下さったので、心強く思いました。

ユンカーマンさんの言葉で記憶に残っているのは、2003年8月6日に放送されたNHK国際短波放送の“「原爆の図」は今”という番組のなかのインタビューです。
『丸木美術館ニュース』第78号(2003年12月25日発行)に抄録をまとめる仕事をしたこともあって、そのインタビューはひときわ印象深いです。
以下は、その抄録からの抜粋です。
(N=ナレーション、加賀美幸子/JJ=ジャン・ユンカーマン)

==========

N 1975年、一人のアメリカ人が丸木美術館を訪れました。
名前はジャン・ユンカーマンさん。そのとき23歳でした。

JJ 日本に初めて来たのは高校生のとき。広島と長崎をまわって資料館などを見たけれど、そこに抜けているのは人間の像、人間の顔なんですね。
丸木美術館の「原爆の図」を見たときに、初めて被爆者の顔を見たという感じがしたので、大変ショックを受けて感動しました。


N ジャン・ユンカーマンさんは1952年に生まれました。父は朝鮮戦争に従軍した軍医で日本にも駐留していました。本棚には原爆の資料や写真集が並び、幼いユンカーマンさんはそれを見ておびえました。

JJ やっぱり怖かったですね。まだ子どもだから理解はできてなかったかも知れないけど、あの当時は意識的には誰でも、大人の中では原爆が大きな存在ではなかったかと思います。

N 世界は冷戦の時代でした。

JJ ぼくが一番よく覚えているのはキューバ危機です。62年、ぼくは10歳でした。当時、ぼくは死ぬんだなと思っていたんです。核戦争が起こるという恐れが強かったんで、泣き出して、お母さんのところへ走っていったことを覚えています。

N 1964年、アメリカは北ベトナムに爆撃を開始し、ベトナム戦争への介入がエスカレートしていきました。12歳のユンカーマンさんは小さな平和団体に入って平和を訴えるボタンをつけたり、ステッカーやポスターを貼ったりしました。高校生のとき、ユンカーマンさんは日本に留学して広島を訪れました。

JJ 平和公園に行って原爆ドームを見て、犠牲者のことを考えると深い責任感を感じたし、アメリカが原爆を落としたことには特別な責任があるとぼくは思うんですけどね。

N スタンフォード大学日本語科を卒業し「原爆の図」に出会ったユンカーマンさんは、「原爆の図」をアメリカの人々に紹介したいと映画の勉強を一から始めました。
10年がたちました。望みがかなって1985年、丸木夫妻のドキュメンタリー映画「劫火」を監督したとき、ユンカーマンさんは「劫火」、地獄の炎を描いている位里さんのひとことに強く打たれたのです。

JJ 天国なんてないと言うんですね。誰だって地獄に落ちると。善と悪というように分けられないんですね、世の中は。戦争が起こったら、戦争をやった人だけが責任を持つんじゃなくて、ぼくたちにも戦争を反対しきれなかったところに責任があるんじゃないかという発想で、とても大事だと思うんです。

N 映画「劫火」はアカデミー賞候補にノミネートされ、今もアメリカで上映されています。2002年、ユンカーマンさんは世界的な言語学者ノーム・チョムスキー博士が平和を訴えて講演するドキュメンタリー映画『チョムスキー9.11』を監督しました。
現在、ユンカーマンさんは、なぜアメリカが世界中の反対を押し切ってイラクを攻撃したかについて考え続けています。
ジャン・ユンカーマンさんにとって「原爆の図」は今、どんな存在なのでしょうか。

JJ 人間とか人生の存在を否定するのが原爆です。原爆は人間の存在を否定するものなんです。それに対して「原爆の図」は、とても強い武器、ウェポンになるんです。人間の大切さを訴える武器になると思うんですね。
そういう力になり得るということは、ぼくにとって大きな勉強になったし、今でもそういう仕事ができるといいなと思うモデルでもあるんですけど。


==========

ユンカーマン監督が丸木夫妻を記録した映画『HELLFIRE:劫火―ヒロシマからの旅』は、1988年の第60回アカデミー賞記録映画部門にノミネートされるなど、国内外で高い評価を受けました。
米国のアカデミー賞は惜しくも逃しましたが、「東中野アカデミー賞」を受賞してポレポレ坐で授賞式が行われたと当時の新聞記事(1988年4月15日付『朝日新聞』)に報じられています。

現在、ユンカーマン監督は新たな映画の撮影にとりかかっていらっしゃるとのこと。
その構想についても少しばかり話をお聞きしたのですが、忙しい時期にわざわざ時間を割いて下さったことに、心から御礼を申し上げます。
0

2012/11/28

ラマチャンドラン氏からの寄贈作品  作品・資料

午後、T評議員のご夫妻が、丸木夫妻と親交のあったインドの画家A.ラマチャンドランさんから丸木美術館に寄贈された作品12点を持って来館されました。

クリックすると元のサイズで表示します

今回、寄贈して下さった作品は以下の通り。

丸木位里 水墨軸装《紅梅の図》1982年
丸木位里 水墨未表装《富士山1》
丸木位里 水墨未表装《富士山2》
丸木位里 水墨未表装《富士山3》
丸木位里 水墨色紙《平和の鳩》
丸木俊 水彩デッサン未表装《ババン》1976年
丸木俊 水彩デッサン未表装《ババン》1976年
丸木俊 水彩未表装《母と子》
丸木俊 水彩色紙《五羽の鳩》
丸木俊 水彩未表装《提灯もち》
丸木俊 布に水墨彩色《平和の鳩》
大道あや テラコッタ《位里の像》

ほとんどが未表装なので、すぐに展示で紹介するというわけにはいきませんが、丸木夫妻とラマチャンドランさんの国際的な交流の証でもある貴重な作品群なので、美術館では大切に保管したいと思っています。

ラマチャンドランさんは、2007年10月30日に来館され、そのとき私も初めてお会いしました。
とても背の大きな方で、優しそうな表情が印象的な方でした。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/835.html

日本では、放射能による海洋汚染をテーマにした絵本『大亀ガウディの海』(田島伸二作、Dindigul Bell)の挿絵でも知られています。
http://tajimashinji.at.webry.info/201112/article_2.html

T評議員ご夫妻からは、いつか丸木美術館で『大亀ガウディの海』の絵本原画展を開いてほしいとの希望も頂きました。神話風の表現がとても印象的な絵本作品なので、機会を見て、展示の可能性を探っていきたいと思います。
2

2012/10/30

大阪精華美術学院と松村景春  作品・資料

「平和のための博物館ネットワーク全国交流会」に参加した関西出張の帰りに、大阪精華美術学院の校長・松村景春のお孫さんご夫婦のお宅にお伺いして、さまざまな資料を見せて頂くことができました。

クリックすると元のサイズで表示します

写真は松村家のアルバムから、松村景春の肖像写真(1952年5月撮影)。
トレードマークの立派な髭をたくわえています。

丸木位里は広島・飯室村の小学校を卒業後、しばらく各地を放浪するような生活をしており、1919年頃に大阪の知人宅に居候して天王寺の上本町(うえほんまち)にあった大阪精華美術学院に通いました。
また、位里が通ってから20年ほど後に精華美術学院の門をくぐったのが、鳥取県出身の武良茂という青年。のちの漫画家“水木しげる”でした。
無試験で美術を学ぶことができるというこのユニークな学校について、二人がどのように回想しているかは、以前にも学芸員日誌で紹介したことがあります。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1545.html

今回、見せて頂いた資料のなかで、もっとも興味深かったのは『精華美術50年の歩み』という1963年に同窓会が編纂した刊行物でした。
そこには、松村景春の「経歴書」などの詳しい資料が掲載されていたので、それをもとにしつつ、お孫さんのお話をまじえて紹介いたします。

   *   *   *

松村景春は1882年1月7日に大阪府中河内郡南高安村(現在の八尾市)の豪農の長男に生まれました。先祖は神社の神官だったそうです。
八尾中学を経て、1900年3月に京都市美術工芸学校(現京都市立芸術大学)を卒業。

驚いたのは、その後、1902年に「意匠図案研究」のためアメリカへ渡航していたこと。
前回の企画展で紹介した画家・吉田博が「決死の思いで」渡米したのが1899年ですから、美術家の海外進出の最初期にいち早く海を渡った一人だと言えるでしょう。
同年10月にはニューヨークのコロンビア大学美術部へ入学しています。
翌1903年6月にクーパーユニオン大学へ転学。お孫さんの話では、すでに実家が傾き、後援者あっての留学だったので、奨学金獲得のための転学だろうということです。
1905年に同大学を卒業すると、まもなく5番街プレスピテリアンビルディング内に日本図案製作所を開設。さまざまな美術工芸品の実用図案を研究開発し、成功をおさめました。

クリックすると元のサイズで表示します

写真は、景春がニューヨークに向かう道中の貴重な写真(提供:松村眞吾さん)。

やがて1911年に帰国すると、翌年4月には大阪市天王寺区上本町9丁目に精華美術学院を設立。9月に学院長に就任しています。
第1期生・家川弥吉の回想によれば、「上本町九丁目電車道を南入小路角の二階家の借家で、付近には大阪の名所紅葉寺、毘沙門池の墓地、五条神社、四天王寺墓地、愛染堂、清水寺等運動場にもなり、写生材料にもなった、思出の多い処である」という恵まれた立地だったようです。
開校の主旨は次の通り。「本院ハ絵画及工芸図案ヲ教授シ専ラ海外貿易ニ関スル応用美術ノ奨励ト美術思想ノ普及発展ヲ計ルヲ以テ本旨トス
つまり、国外輸出を目的とする絵画・工芸の図案教育のための学校だったわけです。

「図案」という言葉が新しく生まれ、杉浦非水による『非水図案集』などが刊行されて注目を集めた時代。流行の先端を行く、デザイン系の専門学校といった感じだったのでしょうか。
1912年11月24日付『大阪朝日新聞』や『大阪新報』には、校内に生徒が製作した新図案を陳列する展覧会を開催し、犬塚大阪府知事らが参観したと紹介されています。
また、神戸大学附属図書館のデジタルアーカイブでは、1926年12月23日付『大阪毎日新聞』に、大阪府工芸協会理事という肩書きの松村景春が記した「対米工芸品輸出に就て」という記事を読むこともできます。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00842025&TYPE=HTML_FILE&POS=1

もっとも、そうした先進的な理念とは異なり、指導方法は、「畳敷きにレザーをしき、用具一式を列べて、机にして、粉末絵具を、ニカワでとくという製作態度であった。先生は下のアトリエにおられたが、その部屋へは、自由に出入ができ、先生をお呼びしては指導を受ける。時には画具の合せ方、筆を加える等、現代的ではないが、細にわたりお指図を受けた」(家川弥吉の回想)という古典的な内容だったので、丸木位里や水木しげるにとって、あまり肌が合わなかったのもわかるような気がします。

とはいえ、「先生が大風呂敷と学院のPL(岡村註:PRのことか)が中々上手で新聞社もよく抱き込まれ当時は精華美術といえば大阪では大体知れ亘り「美」の字の校章の帽子にはかまをはいて歩いた学生姿は誇らしく嬉しいものだった」(卒業生・大沢龍太郎の回想)とのことで、位里も画文集『流々遍歴』では、美術の学校に入ったことが嬉しくて、早速学帽に「美」の徽章をつけ、スケッチブックを持って天王寺界隈を得意になって歩き回ったと回想しています。

クリックすると元のサイズで表示します

『精華美術50年の歩み』には、(なかなか前衛的な色使いの印刷なので見にくいのですが)「美」の一字の校章や、当時の学校風景の写真も紹介されています。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

天王寺美術館前で撮影したと思われる写真や、校旗(?)や松村校長の銅像などが写った集合写真も残っています(提供:松村眞吾さん)。

入学試験もなく、学びたい者は誰でも来て学べばいい、という開放的な校風の精華美術学院。
松村校長が単身31年間続けてきたこの個性的な学校が幕を閉じたのは、1943年12月のこと。
戦局悪化により在校生が次々と応召され、「国家非常時に鑑み」廃校となりました。
さらに1945年3月の空襲で学院も焼失。景春も故郷の高安へ隠居したそうです。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

晩年の景春が手がけた日本画を数点、見せて頂きました。
お孫さんの話によれば、景春は京都の四条派に傾倒していたとのこと。
「景春」という画号(のちに本名に改名)も、四条派の始祖・呉春(松村月渓)と松村景文から一字ずつとったようで、本当は日本画家になりたかったのではないか、ともおっしゃっていました。

敗戦後の1947年には、戦後貿易輸出品向上研究会を主体として学院再興計画も持ち上がったようですが、結局実現しないまま、1963年に景春は死去しました。
自由で開放的な家風は景春亡き後も家族に引き継がれ、子どもや孫たちの多くは、日米両国を渡りながら、多方面で活躍されているようです。

快く調査にご協力下さった、松村眞吾さん・敦子さんに、心から御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
4

2012/10/24

「戦時下に描かれた絵画」展作品返却/袖井林二郎氏より位里作品寄贈  作品・資料

朝から事務局のYさんとともに、車で都内をまわりながら「戦時下に描かれた絵画」展の作品を返却。ようやく企画展の作業もこれで一段落です。
快くご協力下さった皆さまにあらためて感謝。本当にありがとうございました。

   *   *   *

すべての作品を無事に返却した後、法政大学名誉教授・袖井林二郎さんのお宅を訪ねました。
実は一週間ほど前、袖井さんからお電話があり、私蔵されていた丸木位里の水墨作品をすべて丸木美術館に寄贈して下さるというありがたい申し出を頂いていたのです。

袖井さんは日米戦後政治史を専門とされる研究者で、『マッカーサーの二千日』(1974年、中央公論社刊)で大宅壮一ノンフィクション賞や毎日出版文化賞を受賞された方。丸木美術館の開館以来、長い歳月にわたって事務局長や理事として運営に携わり、1970年には原爆の図アメリカ巡回展を実現させるなど、夫妻とも深く交流をされていたのです。

今回ご寄贈下さったのは、1970年代の作品を中心に全部で6点。

クリックすると元のサイズで表示します

《マッターホルン》 1978年制作 紙本墨画

クリックすると元のサイズで表示します

《蔵王》 1977年頃制作 紙本墨画

クリックすると元のサイズで表示します

《風景》 制作年不詳(1970年代?) 紙本墨画

クリックすると元のサイズで表示します

《焼岳 4》 1988年 紙本墨画

クリックすると元のサイズで表示します

《ラバンの裸婦》 1976年 紙本墨画淡彩

クリックすると元のサイズで表示します

《長浜》 制作年不詳 墨・色紙

大道あやさんのかわいらしい色紙作品《水仙と猫》も寄贈して下さいました。

クリックすると元のサイズで表示します

夕方には無事に丸木美術館に帰着して、寄贈作品の状態チェックと写真撮影を行いました。
今後、貴重な美術館のコレクションとして、今後、大切に保存・展示させて頂きます。
袖井さんには心から御礼を申し上げます。
1

2012/10/23

赤松俊子と『コドモノクニ』  作品・資料

先日、『日本経済新聞』に紹介された赤松俊子(丸木俊)の『コドモノクニ』の仕事について。
遺族のH子さんが詳しい資料を見せて下さったので(深謝!)、以下に覚書を記しておきます。

   *   *   *

俊が最初に『コドモノクニ』に掲載した童画は、1944年1月号に掲載された「オフネノ トモダチ」でした。文を書いているのは、後に『二十四の瞳』を記した作家の壷井栄です。

クリックすると元のサイズで表示します

船乗りの息子が丘の上に立って、日の丸を振りながら父親の乗る船を見送る場面が描かれています。父親の船が「ゴヨウセンニ メサレテカラハ」一度も村の沖を通らないけれども、息子は父親の友達の船だと思って旗を振り続けているという内容です。

『コドモノクニ』は1944年3月号(先日の日経新聞にも紹介された俊の「海洋少年団」が掲載)を最後に、出版統制により22年間の歴史に幕を閉じます。
大正期のモダンな雰囲気と児童教育への意識の高まりの中から誕生し、美術、文学、音楽などの表現分野の第一線で活躍する作家たちの仕事を子どもたちに提供し続けてきた絵雑誌の最末期、不本意ながらも次第に戦時体制追従を余儀なくされていくなかで、俊は『コドモノクニ』にデビューしていたのですね。

「海洋少年団」は、絵だけではなく短い説明文も俊が記したのでしょう。

クリックすると元のサイズで表示します

俊はこの前年、1943年1月に誠美書閣から『海の子魂 海洋少年団南洋遠航実記』(原道太作、初版6,000部、1円50銭)という書籍の装幀・挿絵を担当しています。
著者の海洋大佐・原道太が団長となって、13歳以上23歳までの18人が参加し、1934年7月15日から11月1日まで、「義勇和邇丸」でマニラ、サイゴン、バンコク、昭南島(シンガポール)、パラオ、ヤップ、サイパンなどを経由した112日間の海洋少年団の航海の記録です。
丸木美術館の蔵書ではないので、内容をすぐに確認することはできませんが、この遠航記の一場面を幼児向けに描いて『コドモノクニ』に発表したのではないかと思われます。

   *   *   *

当時の子どもたちに夢を与え、戦後に活躍する手塚治虫やいわさきちひろらにも多大な影響を及ぼしたと評される『コドモノクニ』は、2010年から11年にかけて、全5巻の名作選がまとめられています。
俊の「オフネノ トモダチ」はvol.5(ハースト婦人画報社)に、「海洋少年団」はvol.1の下巻(アシェット婦人画報社)に収められています。

巻末の資料を見ると、武井武雄や初山滋といった当時の代表的な童画家だけでなく、竹久夢二、岡本一平、伊東深水、東山新吉(魁夷)、古賀春江、村山知義、三岸節子、柳瀬正夢、藤田嗣治、脇田和、野田英夫といった画家たちに加え、写真家の土門拳やグラフィックデザイナーの亀倉雄策らも絵や写真を手がけ、文学者では野口雨情、北原白秋、西條八十、室生犀星、サトウハチロー、濱田廣介、新美南吉、小川未明、島崎藤村、中野重治、まど・みちお、坪田譲治、金子みすゞ、横光利一など錚々たる顔ぶれが原稿を寄せています。

幼児向け、という枠を越えた内容の充実ぶりには、あらためて圧倒される思いがしました。
福音館書店の「こどものとも」シリーズに代表されるような、戦後の日本の児童向け文化の豊穣さの原点も、『コドモノクニ』にあったのだと感じます。
1

2012/7/4

『藝備日日新聞』に投稿された丸木位里の文芸作品  作品・資料

2012年7月10日発行の『丸木美術館ニュース』第110号に、『藝備日日新聞』に投稿された若き日の丸木位里の文芸作品を紹介しました。
20代後半の位里は、絵画よりも、詩や短篇小説を精力的に制作していました。
位里の投稿は1926年1月から30年8月までの5年間で50点ほどに及びます。
そのうち、約半数が恋愛を題材にしたものです。
それらの作品には、位里自身の体験が大きく反映されていて、この時期の彼の足どりをたどる上で貴重な資料でもあります。
ニュースでは紙面の都合で十分に紹介できなかった作品もあるので、少々長くなりますが、以下にまとめておきます。(右下「続きを読む」をクリックして下さい)

クリックすると元のサイズで表示します
続きを読む
3

2012/6/28

東京学芸大学児童文学研究部機関誌「あかべこ」の表紙  作品・資料

午後、東京学芸大学卒業生のNさん、Mさん、Tさんが来館されました。
皆さんは、同大学の児童文学研究部のご出身で、丸木俊のデッサンが表紙に使われた機関誌『あかべこ』を持ってきて下さったのです。

クリックすると元のサイズで表示します

左から、第22号(1962年5月30日発行)、第23号(1963年6月30日発行)、第24号(1963年9月1日発行)です。
当時はガリ版刷りなので、俊さんのデッサンがもとになっているのですが、よく見るとそれぞれ微妙に線が違っています。学生さんたちが一所懸命に版を切っていたのでしょうね。

クリックすると元のサイズで表示します クリックすると元のサイズで表示します クリックすると元のサイズで表示します

『あかべこ』60号発行記念特別号(1991年7月23日発行)によれば、『あかべこ』の創刊は1952年4月。そして第3号発行の際に、表紙絵を俊さんに依頼しにいったのだそうです。

==========

 第三号から少しずつ雑誌の体裁が整ってまいりました。平野秀哉小島四子男が編集に意欲を出しはじめたことが大きかったようです。
 表紙も画は赤松俊子さん、題字が丸木位里さんと、当時の「あかべこ」にとっては飛び上るほどうれしいことでした。
 記憶がおぼろになってしまいましたが、いきさつを思い出してみます。
 時期はおそらく昭和二十八年の一月ころでしょう。第三号発行を目の前にして、表紙絵を原爆の図の作者として、また絵本作家として有名な赤松俊子さんにお願いしてはどうかという案が出たのです。
 誰の発案か忘れましたが、多分石島篤でなかったかと思います。石島篤はそのころ日本子どもを守る会で積極的に活動していたので丸木夫妻とつながりがあったのでしょう。
 石島篤は、淀橋区立(現新宿区)戸塚第二小学校の五年生の時の同級生で、東京空襲、疎開で別れ別れになり、八年ぶりで再会を喜びあった仲です。
 彼は第四号から編集に加わるとともに、後に、児童文学サークル協議会、全国教育系大学ゼミナール等、「あかべこ」の対外的な活動に重要な役割を持つことになります。
 誰と行ったかは覚えていませんが、赤松俊子さんのお宅(場所は失念)アトリエに使っていた座敷に通され、表紙に赤松さんの絵を使わせていただきたいとお願いしました。赤松さんは快く承諾してくださり二十数枚のデッサンを出してくれたのです。その中から芝崎泰弘ちゃんの絵と、赤松さんの自画像の二点を選びました。赤松さんの話では、戦災のため不幸な境遇となり、ある施設に入っていた恭弘ちゃんに心をひかれて描いたということで、これが表紙画として適当だろうとご助言をいただきました。
(自画像の方は、今も私の手許にあります。恭弘ちゃんの絵の原画は、創刊号、坪田譲治先生、壷井栄先生の「あかべこ」への激励の手紙とともに大切に保管していたはずなのに、しまい忘れてしまいました。探すつもりでいます。)
 選んでいるさなか、ふすまをあけて丸木位里さんが出てこられ、そういうわけだったら題字を書いてやろうということで、その場で書いていただきました。丸木位里さんが、著名な書家
(原文ママ)であることを、うかつにもその時まで知らなかったのは恥ずかしい話でした。
 当時の印刷技術、特にガリ版ではこの絵の感じは出ないということで、別の印刷所に発注しました。
 ところが今の技術とちがい鉛筆で描かれた原画をそのままというわけにはいかず、だいぶ感じがかわってしまって落胆したのを覚えています。
 この表紙が第三号、第四号でのみ使われたのは、資金がなく、これらの号の分しか印刷できなかったからです。


(森田時夫「『あかべこ』のはじまり」 東京学芸大学児童文学研究部機関誌『あかべこ』第60号pp.97-98より)
==========

上の回想にあるように、第3〜4号で俊さんのデッサンが表紙に使われたあと、約10年の歳月が過ぎて、今度はガリ版刷りで第22〜24号に再び俊さんのデッサンが使われたということです。

クリックすると元のサイズで表示します

そして、第60号発行記念特別号の表紙も、またもや俊さんのデッサン。
見たところ、このデッサンがもっとも原画に近いのではないかと思います。
この「第60号」の題字は、第2〜3号に使われた位里さんの筆によるものだそうです。

残念ながら、東京学芸大学の児童文学研究部はついにその長い歴史に幕を閉じ、『あかべこ』のバックナンバーは現在は同大学の図書館が管理されているのですが、卒業生たちの同人誌『牛』は今でも活発に活動を続けているそうです。
児童文学の歴史のつらなりをあらためて感じさせる、たいへん貴重な資料を見せてくださったNさん、Mさん、Tさんに心から感謝です。
2

2012/3/9

位里作品寄贈/下関市立美術館「丸木俊絵本展」  作品・資料

午前中、あいにくの雨でしたが、松戸時代の丸木夫妻と深く交流し、松戸の丸木家を買い取って居住されている元新聞記者のFさんのお宅を訪ねました。
Fさんご夫婦には、松戸市のT学芸員のご尽力により、今年1月に聞き取り調査をさせていただいています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1798.html

その後、Fさんご夫婦が丸木位里から譲り受けたという水墨画を「丸木美術館に寄贈したい」との申し入れがあり、作品の受け取りに伺ったのです。
Fさんによれば、作者の位里も「何だかわからん」と言っていたという作品。

クリックすると元のサイズで表示します

落款や紙の状態を見ると、おそらく1940年前後、歴程美術協会を脱退した位里が、水墨の実験的な表現を模索していた頃の作品ではないかと思われます。
貴重な作品を寄贈して頂いたFさんご夫妻には、心から御礼を申し上げます。

   *   *   *

午後には丸木美術館へ戻って、今年の夏に「生誕100年 丸木俊・絵本原画展」を予定されているA社のSさん、Tさん、下関市立美術館のN学芸員にお会いしました。
A社のSさんとは、ここ数年、佐藤忠良関係の展覧会などでたびたびお会いしており、今回は企画協力というかたちで下関での展覧会を実現させて下さったのです。
100点前後の俊の絵本原画に加え、油絵や《原爆の図》、スマの作品などが展示される予定。
ぜひこの機会に、丸木俊の絵画の魅力を多くの方に知って頂きたいと思っています。
0

2012/2/3

60年安保を描いた俊の油彩画《犠牲者》  作品・資料

昨日は2012年度に行う企画展の準備のために都内各所で関係者と打ち合わせを行い、夜から池袋で丸木美術館の企画委員会に参加。

そして今日は、2月11日からはじまる「生誕100年 丸木俊展」出品作品の借用のために、朝から椎名町の「アトリエ村の小さな画廊 ギャラリーいがらし」や練馬区の「ちひろ美術館・東京」などを美術品運搬トラックといっしょにまわってきました。

今回出品される俊さんの油彩画のひとつに、《犠牲者》と題された作品があります。

クリックすると元のサイズで表示します

1960年の安保闘争における機動隊とデモ隊の衝突によって亡くなった樺美智子さん(当時東大生)を主題にした作品で、1961年6月1日から13日まで東京都美術館で開催された第15回女流画家協会展に《六月十五日》の題で初めて出品されました。
当時の作品絵葉書も現存しています。

クリックすると元のサイズで表示します

この油彩画は、1962年5月の全ソ美術画家同盟の招請による「ソ連邦における日本現代美術展」に《犠牲者(安保斗争)》の題で展示され、その後、樺さんのご実家に贈られたようです。
今回の展覧会開催にあたって、樺家のご家族からは快く展示のご許可をいただき、作品をお借りしてくることができました。
樺家では、ずっと家の一室に油彩画を大切に展示し続けて下さっていたようです。

クリックすると元のサイズで表示します

女流画家協会展に展示された際、樺さんのお母さんと俊さんが二人で作品をご覧になっている貴重な写真も拝見させていただきました。

クリックすると元のサイズで表示します

展示風景の写真を見ると、作品名は《1960年の夏》となっていて、同じ主題の作品が2点展示されていたようです。
2月11日からはじまる企画展では、こうした写真資料なども紹介しながら、俊さんが見つめた“社会”というテーマで、ひとつの部屋を特集したいと思っています。
0

2012/1/19

今井正・青山通春監督と宮島義勇監督の映画『原爆の図』  作品・資料

昨年暮れに、銀座シネパトスのS支配人から、「生誕百年 今井正監督特集」記念イベントのために、今井正・青山通春監督の映画『原爆の図』(1953年/白黒/17分)の上映をしたいというお話があり、美術館内の整理をしたところ、その作品の16mmフィルムとともに、宮島義勇監督の映画『原爆の図』(1967年/白黒/27分)の16mmフィルムも見つかりました。

今井・青山版はVHSやDVDにしているので何度も観ているのですが、宮島版は未見だったこともあり(どちらもフィルム上映は未見)、午後4時から三軒茶屋のスペースKENにお願いして、16mmフィルム映写機で試写をして頂きました。

銀座シネパトスのS支配人、番組編成担当のSさん、目黒区美術館のM学芸員、I学芸員、東松山CATVのIさんら数人が集まっての、ささやかな観賞会です。
また、目黒区美術館で開催予定だった「原爆を視る」展に資料協力をされていた目黒区在住の小林誼行さんも来場され、宮島監督が撮影した頃に発行された『映画原爆の図 製作ニュース』という貴重な資料を見せて頂きました。

クリックすると元のサイズで表示します

資料には、映画に関する重要な基本情報が掲載されていたので、以下に書き起こします。

==========

映画「原爆の図」製作ニュース 1967.8.1 No.2

映画原爆の図制作集団製作委員会事務局

注目の反戦美術映画 映画原爆の図ついに完成!

 「今からでもおそくはない・・・・」という峠三吉の詩にはじまる反戦美術映画「原爆の図」は七月二十八日の改装なつた広島市の原爆ドームの撮影でクランクアップし、全国の平和を愛する多くの人々の力と、宮島義勇氏を先頭とする製作集団の全力をあげての努力でついに完成した。
 今の時点でこの映画は世界の核兵器保有の禁止・核実験禁止の呼びかけを強化する目的であることは当然だが、さらにますますエスカレートされようとしているベトナムにつながるものである。脚本・監督・撮影を一人で担当した宮島氏は「アラン・レネ監督がピカソの絵を撮影して作つた有名な反戦美術映画「ゲルニカ」への挑戦です。ベトナム問題にまでつながる原爆映画にしたい」と語つている(サンデー毎日八月十三日号)がまさしく「原爆の図」製作の意図はそこにあつたのである。レネの作品「ゲルニカ」は一九三六年のスペイン内戦当時のナチス・ドイツの惨虐行為を描いたピカソの画を題材として第二次世界大戦におけるナチスの非人道的な行為に抗議をぶつつけたものだが宮島作品の「原爆の図」もまたヒロシマを題材としながらベトナムにつながる
 一九四五年八月六日――この瞬間から戦争も平和も歴史も人間もかわつた!
世界の三大反戦絵画といわれる、丸木位里・丸木俊夫妻の不朽の名作「原爆の図」(全十一部)をこの映画はこくめいに、そして怒りをこめてうつしだす。峠三吉の詩(詩朗読山本圭)、岡田和夫の音楽が一体となつて観るものの胸に 平和を!原水爆禁止を! と呼びかけきざみつける。
 「原爆の図」は八月六日東京の朝日講堂で朝日新聞社主催による最初の公開が決定し、当日は他に山本圭による原爆詩の朗読と丸木俊、武谷三男両氏の講演があるが、八月六日には埼玉県東松山市の原爆の図美術館での試写会も予定されている。さらに埼玉県では、原水禁が中心になつて八月中に各地で原水禁大会の報告集会をかねた全県上映が組まれている。

映画「原爆の図」製作委員会
 埼玉県東松山市下唐子「原爆の図」丸木美術館内
 (順不同)
 安井郁/末川博/高津正道/稲村隆一/千葉千代世/浜井信三/三宅正太郎/田近憲三/水野仁三郎/岩崎昶

映画「原爆の図」製作集団
 代表 宮島義勇

製作委員会事務局
 瀬戸要/宮坂博邦/岩淵正嘉/広島博

製作スタッフ
構成 宮島義勇
撮影 宮島義勇/加藤和郎/今井英雄/安藤峰章
照明 鈴賀隆夫
編集 中尾寿美子/小幡正直
音楽 岡田和夫
音響 奥山重之助
製作進行 岩部成仁
提供 丸木位里/丸木俊(財団法人原爆の図丸木美術館)
詩 峠三吉(原爆詩集―青木書店)
詩朗読 山本圭
製作協力 国際記録映画研究所/全国映研/ブープロ/インターナショナルフィルム・コレス・ポンデンス

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

黒白スタンダード 全三巻 三十分
三十五ミリ版 十六ミリ版
十六ミリ販売 四万五千円
三十五ミリ貸出し 七千円
十六ミリ貸出し  五千円

上映その他の詳細は、製作委員会又は製作委員会事務局にご連絡下さい。


==========

M学芸員の教示によれば、『「天皇」と呼ばれた男 撮影監督宮島義勇の昭和回想録』(2002年、宮島義勇著、山口猛編、愛育社)には、「手帳によると六月二六日にスタッフ打ち合わせがあり、六月三〇日から七月七日まで撮影、一一日から一四日まで編集作業をして、一五日にはスタッフ試写を行っている」という記述があり、かなり短期間に制作した作品であることは確かなようです。

実際、宮島版『原爆の図』を観た第一印象は、素材が非常にシンプルだというものでした。
映像は原爆ドームの映像と《原爆の図》第1部から第8部までの絵画で構成され(クローズアップやカメラの移動が多用されていて、映像が第何部のどの部分かということは一切説明されません)、被爆の状況説明はほとんどなく、その代わりに峠三吉の『原爆詩集』の「ちちをかえせ ははをかえせ」ではじまる「序」と「希い――「原爆の図」によせて――」の朗読、そして「ちちをかえせ」の合唱が最後に印象的に挿入される、という内容。

『映画「原爆の図」製作ニュース』に、「アラン・レネ監督がピカソの絵を撮影して作つた有名な反戦美術映画「ゲルニカ」への挑戦です」と表明されている通り、説明的描写を極力排し、《原爆の図》を解体して宮島監督の視点から再構成したような、実験的/前衛的な作品でした。

その後に上映した今井・青山版『原爆の図』が、米軍占領期の終了(つまり原爆表現の規制からの解放)直後に撮影されたという時代背景の違いもあって、《原爆の図》周辺の情報(たとえば山端庸介、松重美人らの被爆写真や、《原爆の図》の制作風景、巡回展の観客の様子など)を丹念に取材し、一般の人にわかりやすく見せる記録映画になっているのと比較すると、非常に対照的で興味深く思いました。

   *   *   *

宮島版『原爆の図』の今後の上映予定はありませんが、今井・青山版『原爆の図』は、2月12日(日)に銀座シネパトスの「生誕百年今井正監督特集記念イベント」で今井監督の代表作『純愛物語』とともに特別上映されます。

クリックすると元のサイズで表示します

■『生誕百年 今井正監督特集』 記念イベント

日時:2月12日(日) 14:15〜予定
《特別上映&トークショー》

《特別上映》
「純愛物語」(1957年/東映) 
「原爆の図」(1953年/丸木美術館所蔵)
《スペシャルゲスト》
俳優・江原真二郎
女優・中原ひとみ
*聞き手:樋口尚文(映画批評家)

《2月12日上映スケジュール》
14:15〜15:00トークショー
15:10〜15:30「原爆の図」
15:40〜17:55「純愛物語」
★注意事項★
※「純愛物語」「原爆の図」は16mm上映です。
※ゲスト・上映スケジュールはやむなく変更する場合がございます。
※映画「純愛物語」「原爆の図」は無料上映。トークショーご来場のお客様のみ鑑賞できる資料上映です。
※当日上映の「喜劇にっぽんのお婆ぁちゃん」「米」もご覧いただけます。

■1月14日より劇場窓口にて自由席前売券販売開始予定
【料金】一般¥1300(トークイベント当日¥1500のところ)
■上映劇場予定:銀座シネパトス1(177席)


   *   *   *

また、1月21日(土)には、午後1時から早稲田大学早稲田キャンパス11号館603教室にて、「《幻灯》に見る戦後社会運動――基地と原爆――」が開催され、幻灯版『原爆の図』(1953年/本郷新構成/内田巌解説/キヌタ・ヨコシネ提供/東京スタジオ配給)などの上映の後、岡村の研究報告のなかで、ほぼ同時期に撮影された今井・青山版の映画『原爆の図』と幻灯版『原爆の図』の比較を行います。
興味のある方はぜひ、会場にお運びください。

http://kyodo.enpaku.waseda.ac.jp/activity/20120121.html

上映と研究報告会「《幻灯》に見る戦後社会運動――基地と原爆――」

◆日時 
2012年1月21日(土) 13:00〜18:00  
   
◆会場
早稲田キャンパス11号館603教室 
※入場無料・予約不要
※定員80名・先着順

◆概要
幻灯――光源とレンズを使った静止画像の拡大映写装置――は、映画に先行する近代的な映像メディアとして、明治期日本に広く普及しましたが、映画時代の本格的な到来と共に、長い衰退期を迎えます。しかし、幻灯は戦時期から占領期にかけて、教育・宣伝メディアとして復興をとげ、占領後期から1950年代後半までの約10年間に、明治期に次ぐ第二の全盛期を迎えます。
この時期、幻灯は学校や官庁等で教材として利用されたほか、労働争議、反基地闘争、原水禁運動、あるいはうたごえ運動、生活記録運動といった、戦後の主要な社会運動にとっても重要なメディアとなり、運動の当事者による自主製作・自主上映が盛んに行われました。今回は、神戸映画資料館所蔵の幻灯資料のうち、「基地」と「原爆」をテーマとする4本のフィルムを上映し、併せてさまざまな視点とアプローチによる研究発表を行うことで、戦後社会運動のメディアとしての幻灯の知られざる―面を明らかにすることを試みます。

◆タイムテーブル
13:00 研究発表「《映画以後》のメディアとしての幻灯」
    鷲谷花(早稲田大学演劇博物館招聘研究員)
13:30 幻灯上映『基地立川』
14:00 幻灯上映『基地横須賀』
14:40 休憩
14:55 研究発表「基地をめぐるジェンダー表象:幻灯と映画を中心に」
    紙屋牧子(早稲田大学演劇博物館招聘研究員)
15:25 幻灯上映『原爆の図』
15:55 幻灯上映『ピカドン 広島原爆物語』
16:15 休憩
16:30 研究発表「幻灯版『原爆の図』『ピカドン』と50年代《原爆の図》のメディア表現」
    岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員)
17:00 研究発表「ルポルタージュの器としての紙/布/フィルム」
    鳥羽耕史(早稲田大学文学学術院准教授)
17:30 全体討議・質疑応答
18:00 終了予定

◆主催
早稲田大学演劇博物館・演劇映像学連携研究拠点 平成23年度公募研究「戦後映像文化史におけるオルタナティヴ的実践についての実証的研究――幻灯/スライドメディアの再評価及び映画・演劇界との連携の実態の検証を中心に――」(代表・鷲谷花)

◆協力
神戸映画資料館
6

2011/11/15

位里水墨作品の寄贈報告  作品・資料

このところ、丸木位里作品の寄贈が続いているので報告いたします。

まずは11月10日に埼玉県寄居町のSさんからご寄贈いただいた水墨画《ぼたん》。
位里さんの82歳のときの作品で、立派に軸装されています。
Sさんの亡き御夫君が購入されたそうで、墨のにじみを生かしたぼたんの奥深い“色彩”は、位里さんの力量がとてもよく発揮されているものです。

クリックすると元のサイズで表示します

11月13日には、東京都板橋区のTさんから淡い黄色で着彩された水墨画(題名未詳ですが、山を描いた作品)をご寄贈いただきました。
Tさんによれば、この作品は元埼玉銀行頭取の千田儀一郎氏より譲り受けたものだそうです。

クリックすると元のサイズで表示します

こちらも、位里さんらしい自由奔放な墨の表現が魅力的です。
未額装の作品ですので、いずれ額装して展示紹介していきたいと思います。

貴重な作品をご寄贈くださったお二方に、心から御礼を申し上げます。
0

2011/9/29

「原発やめよ」の旗/山本寛斎さん「天灯」  作品・資料

3月11日の福島第一原発事故以後、都内の反原発デモなどでたびたび丸木美術館の旗が掲げられています。

クリックすると元のサイズで表示します

この写真は、9月19日に明治公園で開催された「さようなら原発5万人集会」の様子(写真提供:小寺理事長)。
長年使いこまれた旗なので、色合いもかなり古びているのですが、それがかえってよく目立つ(?)と評判のようです。
実はこの旗、1989年頃に位里さんが字、俊さんが絵を描いた直筆の“作品”なのです。

クリックすると元のサイズで表示します

「原発やめよ 命が大事」
赤ん坊からお年寄りまで、さまざまな年齢層の人びとを中心に、鳥、魚、猫などの生きものたち、そして星と太陽が力強い筆で描かれています。

原爆の惨状を描き、生涯かけて反戦平和の姿勢を貫いたことで知られる丸木夫妻ですが、1980年代はじめ頃から、いち早く原発の危険性を訴え、反対運動にも積極的に参加していました。
旗とともに原発に反対する丸木夫妻の思いも美術館に関わる人びとに受け継がれ、今も重要な機会には直筆の“作品”が登場する、というわけです。

現在、丸木美術館の新館ロビーでは、その「原発やめよ」の旗を中心に、1980年代の『丸木美術館ニュース』に掲載された俊さんの文章や、当時北海道知事だった横路孝弘さんとの往復書簡、そして3月11日以後、丸木夫妻の思いにあらためて注目した新聞記事などを展示した小特集コーナーを設けています。

クリックすると元のサイズで表示します

原爆の放射能と原発の放射能は同じものなのであります。チェルノブイリ、スリーマイル島の事故のひどさについては、伝えられておりますようによくわかっております通りでございます。この次の事故は日本であると語られております。三十三基のうちどれかであるということになります。チェルノブイリクラスの事故の時は日本列島、太平洋の島島、隣接する国々へと放射能はひろがって行きます。
 (1987年10月1日『丸木美術館ニュース』第25号、横路知事への書簡)

止まれ、止まれ、原発止まれ。止まれと叫んでも止まらない。追跡しても止まらない。
「必ず大事故が起きるよ。その時に止まるよ」
位里は平気でそんな事を言う。事故が起きたら大変なのよ。といいながら、心細くなってくる。
日本列島三十八基の原発。いつ事故が起きても不思議はない状態だと言う。
止められなかったとしても、「止めよ」といって行動を起こさねばならない。放射能に包まれて死ぬかもしれないから、行動を起こしても起こさなくても死ぬのなら、結構でございます、と肯定した姿では死ねないのです。

 (1989年6月20日『丸木美術館ニュース』特別号)

原発を建てるものたちは強大な権力と金にもの言わせているに違いない。
反対するものは、生活に追われながらの闘いであるに違いないのです。
どこか遠くに住んでる者が投資して、それが利益を手にするのでしょう。原発で働く労働者や近くに住んでいる人たちの災害は目に見えているのです。

 (1989年7月28日『丸木美術館ニュース』第33号)

当時の俊さんの言葉を読み返すと、今回の福島の原発事故をまるで予見していたかのような表現が何度も目にとまります。
展示を見て驚いた方が、たびたび「コピーを下さい!」と声をかけて下さいます。
資料のコピーは、希望者の方に美術館受付で頒布しています。

   *   *   *

2011年9月24日付『東京新聞』に、ファッションデザイナーの山本寛斎さんが震災の犠牲者を追悼する紙風船の灯ろうを夜空に飛ばす「天灯」のイベントを福島県相馬市で行ったという記事が掲載されていました。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/CK2011092402000066.html

以下は、記事からの一部抜粋。

==========

「千個の灯籠が浮かび上がった天灯終了後、遺族や被災者の方々が次々に私に駆け寄り『寛斎さん、よくやってくれた』と握手を求めてきた」と山本さん。「これまでの『私の世界をお見せする』というイベントとは違う、初の鎮魂イベントだったが、私も感情が高ぶって涙がポロポロこぼれた。やってよかった」
 震災当日、山本さんは都内の事務所にいた。「被災地の映像にぼうぜん自失。数日後、弟で俳優の伊勢谷友介がおにぎりを持って東北に行ったと聞き、『私には何ができるか。私にしかできないことは何か』と考えた」
 地震と津波は想像できるが、放射能の被害はどんなものか分からない。「それなら、過去の事故現場を見てみよう」と、チェルノブイリ原発に向かった。
 「周辺住民には甲状腺がんの手術跡なのか、首に傷痕がある人が多かった。旧ソ連時代だったので、軽装備で事故対応して犠牲となった多くの人たちのことも知った。福島の人たちがどうなるのか、心配になった」
 四月には被災地の相馬市へ。山本さんは同市と縁が深い。一九九三年にモスクワの「赤の広場」で行われた山本さん企画の文化交流イベント「ハロー! ロシア」に、同市の神事「相馬野馬追い」の騎馬武者が参加。観衆十二万人の大成功を収めた。それ以来の交流が続いている。
 「横転した車がそのまま残り、がれきだらけの海岸を歩いた。避難所も十カ所ほど回ったが、会えた友人はたった二人。行方が分からず、会えない友人ばかりだった」
 同市の死者数は四百五十人以上。原発事故の余波もあって、復興もままならない。そんな現実に、山本さんは「せめてもの鎮魂に灯籠流しをやろう。でも、川ではなく、夜空に灯籠を飛ばそう。被災者が上を向いて、前に進めるように」と心に誓った。


==========

このイベントは、スマトラ沖地震津波の被害を受けたインドネシアと、チェルノブイリ原発事故のあったウクライナでも開催され、「痛みを共有できる」3つの国の人びとがつながり、新たな交流も生まれているそうです。

山本寛斎さんは、震災直後の3月20日に丸木美術館においで下さっています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1574.html
そのときに、「これから何ができるか、自分のできることを考えていきたい」とおっしゃっていましたが、そのひとつがこのようなかたちで実現したのかと、嬉しい思いをかみしめました。

   *   *   *

今回発行する『丸木美術館ニュース』第107号には、武蔵野美術大学の石黒敦彦さんが「3.11以降のアートとアトム」シンポジウム報告記事のなかで、「原子力を基幹とする文明は、そのエネルギーの性質から、中央集権、巨大科学による管理、秘密軍事体制、言論操作など、民主主義とは相対する世界を招来する」と印象的なことを書かれていました。
丸木夫妻や山本寛斎さんの活動を思いながら、「原子力を基幹とする文明は、芸術文化とも、人間が人間らしく生きることのできる世界とも相対する」と感じるこの頃です。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ