2017/12/4

小沢節子「『原爆の図』に寄せて−丸木美術館50年目の年に」  作品・資料

丸木美術館50周年の記念誌に、近現代史研究者・小沢節子さんにご執筆頂いた文章「『原爆の図』に寄せて―丸木美術館50年目の年に」が、「公共空間 X」というWEBサイトに紹介されました(一部加筆)。
「原爆の図」をめぐる現状、そして未来を示唆する重要な論考です。
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/4575
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2017/5/26

丸木俊油彩画《レニングラードホテル》寄贈  作品・資料

本日、丸木美術館に寄贈された丸木俊の油彩画小品。

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タイトル、制作年とも未詳でしたが、俊の水彩スケッチの中に、まったく同じ構図の作品がありました。

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日付は1959年7月3日、「私たちの泊まったレニングラードスカヤホテル」と記されています。

今回寄贈された油彩画は、戦中に治安維持法容疑で捕まり獄死した野呂栄太郎の未婚の妻で、戦後は医者となった塩澤富美子の旧蔵品。
その知人の知人からの寄贈なので、詳しい経緯はわかりませんが、色彩のきれいな、とても良い作品です。

この頃、俊は油彩画の厚塗りを試みはじめていました。
油彩画の正確な制作年は不明ですが、おそらく帰国後、1959年からそれほど時間が経っていない頃だと推測されます。
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2017/5/25

位里作品《ゴッホの描いた赤いやねの小屋もある》寄贈  作品・資料

湯河原在住のOさんより、1976年に丸木位里が描いた水墨彩色《ゴッホの描いた赤いやねの小屋もある》をご寄贈頂きました。

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丸木夫妻がフランスをスケッチ旅行したときの作品です。
画面上部、やや左の地平線にうっすらと赤い屋根の小屋が見えます。

かなりシミが出てしまっているので、いずれきれいに修復してから展示したいと思います。
まずはご寄贈、どうもありがとうございました。
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2017/1/16

熊谷守一宛赤松俊子書簡資料  作品・資料

愛知県美術館のI学芸員から、岐阜県歴史資料館が所蔵している熊谷守一書簡資料の中に、赤松俊子(丸木俊)から熊谷宛の1940年代の書簡があるという貴重な情報を頂きました。
以下、その4通の葉書・書簡を書き起こします。

最初の書簡は、1940年に俊が単身旅行した「南洋群島」からの葉書。

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熊谷守一先生宛葉書
昭和15年2月2日消印
南洋ヤップ島コロニー南拓吉田方
赤松俊子

先生。奥様は如何ですか。
こゝは汗を流し。眞黒になつて
描いてゐます。人間はみんな南に
発生して、動いてゐるうちにもゝ色の
や、黄色のや黒いのが、その土地、土地
で出来上ったのだらうと考へてよろ
こんでゐます。不便ですから遠い遠い
所だと思つてゐます。虫がないてゐます。


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住所が「ヤップ島」とありますが、2月にはまだパラオ諸島にいたのではないかという疑問はあります。
「南拓」とは南洋拓殖株式会社の略で、大日本帝国の南洋進出のための国策会社。本社はパラオ諸島コロール島にあり、燐鉱探掘や海運、拓殖・移民事業への支援を行っていました。

2通目は3月3日の消印で、こちらは「パラオ島」から。
「かやちゃん」とあるのは、現在、豊島区立熊谷守一美術館を守っている娘さんの熊谷榧さんですね。

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熊谷守一先生・奥様、かやちゃん・まんちゃん・ぼーっちゃん宛葉書
昭和15年3月3日消印
パラオ島 赤松俊子

よく先生のおうちのことを思い出します。
この間は七十とん位の船で小さな島に行きまし
た。荒海をサンブサンブと走りました。デツキで勇
ましい人のやうに唄ってゐましたが、大波にザブリと
顔を洗はれてしまひ、すっかりしよげて船室に入り
ました。そしたらすつかり船よひをして赤公は蒼白
になりました。まはりを一丈近い白波にかこまれた小さな
島に、島民(土人のことを言います)も日本人も一しよになつ
一つぱい住んでゐました。地球といふところは誠に、人の住
むべく出来た所よと感たんいたしました。描くより遊ぶ
方が多い毎日で、孤独といふことや放浪といふことなど考へてゐます。


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3通目は、翌1941年、丸木位里と結婚して広島・三滝町の位里の実家に挨拶に行ったときの書簡。

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熊谷守一先生宛書簡
昭和16年8月21日消印
広島市三瀧町
丸木位里内
赤松俊子

(前欠)
何かをと考へてゐましたが、これがこちらの
名物ださうです。
大根おろしに醤油かけて召上つて下さい。(ほかに
どんな調理法があるか私はよくしりませんが。)

暑いけれどもカラリとした夏です。こゝは乾燥
してゐるからかと思います。

今年は日本画の材料で描きました。おかしいで
せうか。御批評下さいませ。持って東京へ
行くの止めました。あんまり家中が大さわぎて手
傳つて横着よめさんごはんたきもしなかつたので気
がひけるので。

田舎にでもこんなやさしい人はないだらうと思ふ程両親
はやさしい人です。びっくりしてゐます。
けんくわ腰で生きてゐた私は、こんどは腰ぬけ武士
みたいになるかと思っておかしがつてゐます。ヒョウシヌケ
のやうですから。
これでもまだ強情っぱりでそんなゑを描いて行ったら、よ
つぽどのガンコ者だと思ってゐます。
 赤松俊子
熊谷先生
奥様
オムコサンの位里は、先生の所へ伺ったことよろこんで時々先生がして下さった話しを
言ひ合つてゐます。


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前半部分が欠落しているので、話が途中からになっているのですが、「大根おろしに醤油をかけて」食べる「名物」というのが気になります。
「今年は日本画の材料で描きました」とあるのは、《アンガウル島へ向かう》《休み場》《踊り場》というこの時期に手がけた実験的な南洋の三部作を指すのでしょう。
位里の影響を受けたと思われる墨の滲みやかすれを生かした、後の《原爆の図》の前触れとも思える作品ですが、先日来館された画家・研究者のGさんによれば、「この時期の熊谷も日本画作品を手がけていて、油絵具が入手しにくくなっていた時期に洋画家が日本画素材を使うようになっていたかもしれない」とのこと。
こうした時代背景の検証も必要なようです。

最後は、やはり広島からの葉書。
書きかけて中途でそのままになっていたものを、あらためて加筆して出したもののようです。

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熊谷守一先生宛葉書
昭和16年8月28日消印
廣島市三瀧町
丸木位里方
赤松俊子

暑うございます。
御げんきでゐらつしやいますか。
私は
こちらへ参りました、こちらでゑを
作らうと考へてゐります。
今日は山へ行つて瀧を浴びてきました。

コレハヅツトマヘニカイテソレナリニナツテヰタハガキデシタ、先生から
のおたよりをとてもよろこびました。


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俊が熊谷守一を師として慕っていたことが伝わってくる、貴重な書簡資料。
2012年に一宮市三岸節子記念美術館で開催された「生誕100年 丸木俊展」では、南洋の三部作がそろって公開されていたので、こうした書簡も紹介できれば良かったのですが、資料の存在を知らなかったことが返す返すも残念です。
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2016/5/22

長崎県教育文化会館所蔵の原爆の図《母子像》  作品・資料

すっかり遅くなってしまいましたが、4月に俳優の岡崎弥保さんから御教示頂いた、長崎にあるもうひとつの《原爆の図》についての報告です。

昨夏の「知られざる原爆の図展」で紹介できなかったのが本当に残念なのですが、長崎県教育文化会館の2階ロビーに、原爆の図《母子像》が常設展示されているそうです。
丸木美術館関連の画集や資料には一切掲載されていなかったため、これまでまったく気づきませんでした。

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制作は1985年夏。大きさは縦横2メートルほど。
丸木夫妻の画業の中でこの絵がどのような意味を持つのかと言われると、すぐには位置づけられないのですが、実はジャン・ユンカーマン監督の映画『劫火―ヒロシマからの旅』の中に、この絵の制作風景が何度も登場しているのです。

画面右にうずくまっている男性は丸木位里さん。パンツ一枚でモデルになる姿が、映画に収められています。
画面左端の中央で地面に丸くなって寝ころびながらこちらを見ている少年は、俊さんが囲炉裏で服を焼いて、手でもみほぐし、黒焦げになった服を着せるという印象的なシーンで登場します。
画面上部でお尻を出してうつぶせに寝そべる若者は、90年代なかばから丸木美術館の事務局長を務めたSさんの息子のJさん。今も丸木美術館にかかわってくれています。
この作品が描かれた経緯を、2000年3月20日付『ながさき教育新聞』に、平山惠昭さんが詳しく記しています。
平山さんは当時公立中学校教諭で、長崎市同和教育研究会の事務局長を兼務。春陽会に所属していた画家でもあるようです。

記事によれば、まず、1984年8月8日から12日まで「原爆の図」長崎展が市民会館で開かれ、このときに第15部《長崎》を長崎市国際文化会館(現・長崎原爆資料館)に寄贈するという話が持ち上がったそうです。
実際、《長崎》は半年後の1985年2月1日に正式に寄贈されるのですが、長崎でもう一枚絵を描きたいという丸木夫妻の意向と、ぜひ描いてほしいという「長崎展」実行委員の思いが重なり、同年12月に丸木夫妻は長崎を再訪。40日余りを稲佐町の平山さんの家で過ごし、大作を描くことになりました。それが、現在はブルガリア国立美術館に所蔵されている《地獄の図》です。
映画『劫火』のオープニングには、平山家で制作をする丸木夫妻の姿が映し出されています。
完成した《地獄の図》は、1985年1月29日に長崎の悟真寺で披露。記者会見の様子も映画に収められました。
この《地獄の図》制作中に、当時の県教組委員長の近藤禮司氏が丸木夫妻のもとを訪ね、県教組のために一枚《原爆の図》を描いてほしいと依頼したそうで、埼玉の東松山に帰宅してから描いたのが、今回の《母子像》というわけです。

丸木夫妻が晩年に手がけた外伝的な《原爆の図》のいくつかは、公式の画集や刊行物に掲載されていないので、これからもどこかに収められている絵が掘り起こされることがあるかもしれません。
次回長崎に足を運んだときには、この《母子像》を訪ねてみたいと思っています。
ご教示くださった岡崎さんをはじめ、資料を提供してくださった長崎の関係者の皆さまに、心から御礼を申し上げます。
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2016/3/17

1956年12月原爆の図会津若松展資料  作品・資料

本日、ある方から、1956年12月8日−10日に行われた原爆の図会津若松展の資料が届きました。

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当時小学生だったという女性のスクラップで、展覧会の入場券とともに原爆の図の絵葉書も数点保存されています。
入場券には、「ヒロシマ・ナガサキの被爆者救援」の文字が。
そして第5部《少年少女》の姉妹像の木版画がデザインされています。版画の作者は不明です。
会場は若松女子高講堂。主催が記されていないのが不思議ですが、共催は会津若松市・同教育委員会事務局・同公民館・同小中高校長会・同PTA連合会・同婦人団体連絡協議会・教組北会支部・会津地区労・市青年団連絡協議会。

この時期、すでに《原爆の図》10部作は世界巡回に出発しており、国内展の資料はほとんど見つかっていないので、非常に貴重です。
実際には再制作版の三部作のみの展示だったと推測されますが、それも記録が残っているわけではありません。

大切な資料を保存し、そして提供して下さったことに、心から御礼を申し上げます。
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2016/1/13

飯坂温泉伊勢屋旅館より作品寄贈  作品・資料

福島の奥座敷・飯坂温泉の伊勢屋旅館が昨年末に閉館し、所蔵されていた丸木位里の絵画を寄贈して下さるというので、若手ボランティアM山くんの運転で、引き取りに行きました。

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前日から現地入りして、農学部出身のM山くんのリクエストで、江戸時代から続く豪農であった旧堀切邸を見学。

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それから、松尾芭蕉も訪れたという飯坂温泉発祥の地である共同浴場・鯖湖湯、飯坂温泉のシンボルで、1915年建設の歴史的なアーチ橋である十綱橋など、のんびりと観光しました。
今年一番の寒さの中、昼間から温泉に入り浸っているのはいい気分ですね。

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伊勢屋旅館は1947年創業。少なくとも1960年代から、丸木夫妻はたびたび滞在し、位里さんは87年、95年(死の半年前)の二度にわたって竹や梅の襖絵を描いています。

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伊勢屋さんの名前の入った色紙は、こちらで持って頂くことに意味があるので、寄贈を受けずに置いていくことにしました。

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寄贈作品のなかには、火焔山や鵜を主題にしたなかなか良い作品もありましたが、残念なことに題名や制作年は不明。

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飯坂温泉は、70〜80年代の最盛期には車が通れないくらい道路に観光客があふれたそうですが、近年は全体的に営業が厳しくなり、そこへ3.11の打撃が大きく重なったとのこと。
やるせない思いで作品を梱包し、お預かりしました。

   *   *   *

実は、伊勢屋旅館の作品は、すべて丸木美術館に寄贈されたわけではなくて、菩提寺の円蔵院八幡寺にも寄贈されています。

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ご住職にお話を聞いたところ、円蔵院八幡寺は、源義経の家臣として知られている佐藤継信・忠信兄弟とも縁があり、源氏の八幡信仰と神仏習合の産物とのこと。

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位里さんの梅の絵は、あまり見たことのない縦長の画面で、とても良い作品でした。

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もうひとつの水墨画は三陸の海でしょうか、やはり、どちらもタイトル制作年ともに不明です。

帰りは東北自動車道を途中で降りて、白河のアウシュビッツ平和博物館・原発災害情報センターに立ち寄りました。

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T理事長やO館長には、平和のための博物館ネットワークでお世話になっていますが、私はこの博物館を訪れるのは初めて。

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茨城県旧玉里村より移築した江戸中期の古民家の本館をはじめ、アンネの展示があるレンガ棟、「子どもたちの目に映った戦争」展示がある貨車など、手作りの良さをうまく生かした施設に、心温まりました。

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写真は、M山くんの撮影で、薪ストーブを囲みながら、T理事長、O館長と談笑しているところ。
冬に寒いところを訪れるのも、いいものですね。

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O館長は、「3.11」以後、原発問題にも深く関わりながら、原発災害情報センターを立ち上げています。

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あまり見学の時間がなくて残念でしたが、いずれ再び訪れて、じっくりと展示を見てまわりたいと思います。
M山くんの安全運転のおかげで、予定通り閉館前に、無事に丸木美術館に帰着しました。
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2015/4/3

初めてアメリカに渡った原爆の絵  作品・資料

“海渡る悲願の原爆図”……と言っても、丸木夫妻の《原爆の図》の話ではありません。
初めて米国に渡った原爆の絵を調べていて、1950年8月6日付『中国新聞』の興味深い記事に出会いました。
絵の作者は新延(にいのべ)輝雄。第4回日展出品作《たそがれ》が、1950年の時点で渡米していたというのです。

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記事には作品写真も掲載。焼け跡で被爆した家族の姿を中心に、その右後方に被爆者の群像、左奥には産業奨励館(原爆ドーム)も描かれています。

広島平和記念資料館啓発課のDさんに調べて頂いたところ、新延の生家は広島の繁華街にあり、本人は郊外に疎開していたものの、両親を原爆でなくしているとのこと。《たそがれ》は1948年の日展初入選作で、このほかに2点ほど原爆の絵を描いていたものの、どちらも画家本人によって廃棄されたそうです。

その後新延は広島画壇の指導的立場で活躍し、1994年に描いた《原爆忌はるかに》と題する鎮魂の祈りを込めた油彩画は、広島平和記念資料館の地下に常設展示されています。
ただし、原爆を描いた絵画としては1948年の《たそがれ》の切実な表現が圧倒的に優っているように思います。

以下は記事の書き起こし。

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海渡る悲願の原爆図 米国で特別陳列 シュ博士が持帰る

 毎年家を建てにきて下さる‟アメリカの博士さん”として広島市民の敬愛を集めたフロイド・シュモー博士は、今年度計画の家八戸も立派に完成したので六日午後零時三十五分広島駅発「ひばり」で帰米の途につくが、その旅装のなかには知己からの贈物と一緒に広島の一青年画家から借りうけた原爆の絵が大切に包まれてあった

 ふとしたことから知りあったシュモー博士と広島市庚午北町二丁目に住む洋画家新延輝雄氏(二八)東京美術学校出身=は博士の広島滞在中その宿舎、同じく庚午北町のABCC勤務リアン・ウォーターズ氏宅で数度会っていたが、一夜博士が新延氏の画室を訪れるにおよんで、言葉は通じにくくても芸術を通じての二人の心は堅く結ばれ、とくに新延氏の第四回日展出品作で、八月六日の惨劇を描いた「たそがれ」は博士の心へ深い感銘を与え、博士はその絵を一年間借りうけてアメリカに持帰り、展覧会に特別陳列してひろくアメリカ市民にみせたいと申入れ、新延氏もこれを快諾、ここに広島の画家の描いた原爆の絵ははじめて海を渡ってアメリカで公開されることになった。

 シュモー博士談 私はあの絵の芸術的価値については専門家ではないのでなんともいえない、しかし新延さんの絵は平和を愛し、広島へのつぐないをしたいと願っているアメリカ市民の心を一層強く動かすことだろう、アメリカの美術館の規則はくわしいことは知らないが、平和関係の展覧会を皮切りに各種の展覧会、美術館に特陳して一人でも多くの市民にみてもらうよう努力する、また私は帰米したらすぐ日本の婦人の印象記「ジャパニーズ・ウーメン」の著作にとりかかるが、そのなかに十枚くらい新延さんのスケッチを入れさせてもらうよう約束した

 新延氏談 あの絵は原爆ですべてを失った広島人、いや私自身の生き残ることの苦悩の姿を現そうとしたものです、あの絵が平和運動の一助ともなれば幸せです

 なおシュモー博士は明年は来られないが明後年の夏三たび家を建てに広島に来ることになっている=写真は新延氏作品「たそがれ」


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丸木夫妻の《原爆の図》も、1951年はじめにアメリカへ持っていって展示をしないかという誘いがあったそうですが、結局、渡航直前に断り、1970年に全米8会場の巡回展が行われるまで機会を待つことになりました。

それより前に新延の作品が、しかも、「広島の家」で知られるシュモー博士の手によって渡米していたというのは驚きです。
また、米軍占領下の時代に日展で原爆の絵が展示されていたことも、初めて知りました。
《原爆の図》より前に、被爆者の姿を生々しく描いた絵画が発表されていたのですね。
当時の日展の資料にも新延の《たそがれ》の図版は収録されていないので、今のところ、この新聞記事が唯一の図版資料になるわけですが、非常に興味深い作品です。

もっとも、アメリカに渡った《たそがれ》がどのように展示されたのかも、その後の作品の行方も、まったくわかりません。
《原爆の図》も、1951年の時点でアメリカに渡っていれば、そのまま行方不明になっていたのかもしれません。
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2015/3/10

松谷みよ子さんの訃報  作品・資料

児童文学作家の松谷みよ子さんが2月28日にお亡くなりになったという知らせを聞きました。89歳でした。

個人的には、2009年に自由学園明日館で開かれた赤い鳥文学賞・新見南吉児童文学賞・赤い鳥さし絵賞の贈呈式・祝賀会の席でお会いしたのが最後でした。

『いないいないばあ』、『おふろでちゃぷちゃぷ』、『いいおかお』などの赤ちゃん絵本は親子二代で親しんでいるし、『モモちゃん』シリーズで初めて「離婚」というものを知り、『ふたりのイーダ』で“原爆文学”の深さに触れるなど、人生のさまざまな場面で、松谷さんの本は身近なところにありました。

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そして、何といっても、丸木夫妻と松谷さんの残された豊かな仕事が、今、目の前にあります。
1971年の第3回ブラチスラヴァ原画展(BIB'71)でゴールデンアップル賞を受賞した絵本『日本の伝説』シリーズ(写真)をはじめ、松谷さんと俊さんが手がけた『つつじのむすめ』(1974年、あかね書房)、『あそびましょ』(1977年、偕成社)、『とうろうながし』(1985年、偕成社)。そして位里さんがさし絵を描いた『赤神と黒神』(1969年、ポプラ社)。

俊さんにとって松谷さんとの出会いは、後半生のなかで非常に重要な位置を占めていたように思います。
2012年に一宮市三岸節子記念美術館で開催された『生誕百年丸木俊展』図録に、小沢節子さんは絵本『つつじのむすめ』同時期に描かれた《南京大虐殺の図》(1974年)を光と影のように対比しながら、次のように記しています。

 とりわけ前者は「位里の影響を受けた水墨の技法と俊の色彩感覚が溶けあい、新たな境地を開拓した作品と評価される。だが、若い女の底知れぬ愛と官能を恐怖した男が、彼女の殺害に及ぶという松谷の物語を受けて、俊は闇のような墨と血のような赤の「闘争」を紙上に表現した。二つの作品からは、60代になった俊にとって、女性の性・セクシュアリティをめぐる葛藤と暴力が重要なテーマであったこと、そして、彼女がそれを表現する力を手にしたことが読みとれる。

先日の青鳥小学校での出張授業で紹介した「平和のやまんば」のイメージも、俊さんと松谷さんが半ば戯れに「やまんばの会」を提唱し、草深き地で自然に溶け込むように暮らし、たくさんの子どもを生み育て、生命の調和のなかで生き続ける「平和の母子像」の象徴として「やまんば」をとらえていたところから生み出されています。
あるいは「やまんば」もまた、虐げられる者の悲しみを背負っていたのかもしれません。
現代社会の抱える矛盾や不条理のなかで、悲しみ、傷つき、苦しむ人々の痛みを、「現代の民話」として時代を越えて語り継いでいく。互いにそうした仕事を積み重ねてきた二人が、民話のなかで語り継がれてきた「やまんば」に惹かれ、共感するというのは、不思議にユーモラスで、心温まるものがあります。

『日本の童画』第8巻(1981年、精興社)に松谷さんが寄せた、「孫達に伝える“闇”と“光”の結び目」と題する文章は、まさにその頃の二人の出会いと心の交流、そして歴史を見つめるまなざしの深さが伝わってくる、印象深い内容です。

追悼の思いを込めて、以下に紹介させていただきます。

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 俊先生とわたしは猫のお産の話など始めたらとめどがないのです。猫が赤ちゃん猫をくわえてどんな風に引越ししてあるくか、なんてことになると、おいしいものでも食べている顔になります。しかし話が原爆になり、アウシュビッツになり、水俣に及ぶとき、怒りと悲しみが俊先生の全身に滲んでくるのです。でも俊先生がその思いを声高に語ることは決してというほど無いのではないでしょうか。あの独特の、静かで、口籠るような語り口で恐ろしい世界を語られるとき、聞く人は一生忘れることができなくなるのです。

 あの日がそうでした。一九六八年十一月、私は始めて東松山にある丸木美術館を訪れました。「原爆の図」の第十二部に当る灯籠流しの絵が完成したばかりでロビィ一杯に飾られていました。真夜中、この灯籠は火も消え波に砕かれた無残な姿で汐に乗り、広島の海辺に打寄せられるというのです。
「絵にも描けません。文にも書けません」ぽつりと俊先生はいわれました。
「でも……書かなくてはいけませんね」
「そうです。二十世紀の人間が二十一世紀の人間になんらかの形で伝えなくてはならなくことです」

 私はその時、原爆にかかわる「ふたりのイーダ」という作品を書いていました。それだけにこの日の対話は生涯忘れ得ぬものとなりました。二十世紀の人間が二十一世紀の人間に伝えねばならないこと、以来この言葉は私のなかで、いつも海鳴りのようにひびいているのです。
 このとき、私はお返しのように「つつじの娘」を語りました。男の許へ夜ごと、山を越え山を越えて走った娘。掌に握りしめた米は餅になり、その激しさ故に男に谷に突き落とされるのです。

 この日二人の女が出会った。松谷さんも私も餅を握りしめて走る女である。

 俊先生がこういう意味のことを新聞に書かれ、恥かしくて困りました。でも必死で走り続け、ふと掌を開いてみたら餅があったという実感は、しんじつ私にもあるのです。俊先生の近作の絵本「ひろしまのピカ」はもしかしたら一つの餅ではないでしょうか。二十世紀の人間が二十一世紀の人間へ伝えねばならないこととして、丸木位里先生、俊先生は世界にもたぐいまれな合作の絵を描き続けてこられました。原爆の図、南京大虐殺、アウシュビッツ、水俣と走り続けてこられた俊先生がふっと掌を開いたとき、子供たちへ語り伝える絵本があったのではないでしょうか。俊先生は「これは子供たちへの遺言」といわれます。「このときまで、子供たちへ原爆の絵本を作ろうなどと、考えてもみなかったの」

 ほっと私は息をつきました。今まで先生にとっての童画のお仕事は咲く花でした。俊先生の油絵は深く重く、大地の闇をまさぐりつづける根のようです。位里先生と続けてこられたお仕事も、すべて死が画面を覆っていました。闇と光、死と生、一方が暗く重いだけに咲きでた花は日の光のようでした。この童画の世界に、俊先生は掌から移し植えるように「ひろしまのピカ」を描かれました。この絵本は俊先生の死と生、闇と光の結び目なのです。大切に子供たちに伝えねばと思うのです。


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2015/2/11

「赤松俊子と南洋群島」土方久功日記より  作品・資料

2月11日は丸木俊の誕生日。
パラオ生物学研究で知られ、アンガウル戦の生還者でもあった倉田洋二さんの知人のMさんが「赤松俊子と南洋群島」展を見に来て下さいました。
「すごい展覧会ですよね!」と興奮気味のMさん、この展覧会のために2度目の来館とのこと。
現在、パラオのコロール島にいる倉田さんに俊のスケッチを見て頂いて、そこから何が読みとれるのか、報告して下さるそうです。

   *   *   *

先日、世田谷美術館のN学芸員から、『土方久功日記X』(国立民族学博物館調査報告124、土方久功著、須藤健一・清水久夫編、国立民族学博物館発行、2014年)をご恵贈頂きました。

俊もパラオで世話になった彫刻家・民族学者の土方久功の膨大な日記を、全5巻に書き起こしたという労作。1941年の日記には、しばしば俊の記述が登場します。
とりわけ、3月に開催した昌南倶楽部での俊の個展の前後から、カヤンガル島をいっしょに訪れるあたりは、頻繁に俊の名前が記されています。

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写真は、俊がパラオで描いた土方の肖像スケッチ。今展出品作でもあります。
こうして展覧会を通じて新しい情報が集まってくるのも、大切な成果と言えるでしょう。
以下に、土方日記から、俊の関連個所を註とともに抜書します。

【1月】
27日(土) 
昨日ノ笠置丸デ来タ、赤松俊子ト云フ女流画家ガ役所ニ訪ネテ来ル。


28日(日) 
バイニ昨日ノ赤松氏ト守屋氏トガ居ル。大キナ守屋氏ガ小サナ絵具箱トスケッチ板トヲ持ッテ――赤松氏ハ半ズボン ニ ネクタイ ナシノ セビロ形ノ上着ヲ着テ――守屋君ガ ア・バイノ説明ヲシテ クレト云フノデ、マリヤ達ヲ待タセテオイテ、一通リ説明スル。


29日(月) 
夜、興発倶楽部ニ泉井氏ヲタヅネル。一時間程モシテ赤松氏モ帰ッテ来タノデ、十一時頃頃モ話シテ居ル。其ノ頃ニナッテ雨ヤム。


※泉井氏=言語学者の泉井久之助。当時、京都大学助教授で南洋群島の言語を調査していた。

【2月】
6日(火) 
朝役所カラ、泉井氏ノ所ヲ尋ネタガ、留守デ、赤松氏ガ居タノデ、二時間程話シテ来ル。

14日(水)
夜、赤松君ノ所ニ油ヲ分ケテ貰フツモリダッタノデ、興発倶楽部ニ行キ、泉井君、赤松君ノ所ニヒッカカッテシマッテ、十時半頃マデ遊ンデ来ル。

17日(土) 
夕食後、堂本部長ヲ訪問、二時間程モシテ帰ラウトシテ居タラ、赤松君ガ、コレモヒョッコリ訪ネテ来タノデ、又一時間程話シコンデシマヒ、八時半頃一緒ニ辞ス。赤松君ハ検事ノ所ヲ訪ネルトテ行ク。

【3月】
5日(火) 
役所ニ帰ッテ来ルト、赤松サンガ部長ニ面会ニ来テ居タ。部長ガ会議ガアッタノデ、話ヲキイテクレト云フ。ソレデ南貿ニ行ッテオ茶ヲノミ乍ラ、話シ、十一時過ギ図書室ニ野口君ニ話シニ行ク。是レハ赤松君ノ展覧会ノコトト、ソレカラ丁度丸山晩霞老ガ来テ居ルノデ、一日文化協会ニ美術講演会ヲヤラセヨウト云フノデアル。
(中略)
一時、赤松君ト部長ヲ訪ネテ話スト、直チニ林サンヲ呼ンデ話シテクレル。ソレカラ赤松君、私ノ処デ永イコト話シテ居タガ、真珠養殖場ノ佐伯氏ノ処ニ遊ビニ行カウト云ヒ出ス。ソレハ シャリヤッピン ノ レコード ヲキカウト云フノデアル。三時前、一寸興発倶楽部ニ寄リ、自動車ヲタノンデ「アラカベサン」ニ行ク。佐伯サンノ処デ蓄音機ヲキキ、コーヒーヲ飲ミ、ソシテ永イコト永イコト、古イ パラオ ノコトナドヲ話シ、ソレカラ晩餐マデ馳走ニナッテ、七時半、自動車デ送ラレテ帰ッテ来ル。

※南貿=南洋貿易株式会社
※野口君=野口正章。南洋群島文化協会嘱託で、『南洋群島』の発行人兼編集人。
※丸山晩霞=水彩画家。1867年生。太平洋画会創立に参加、南洋興発株式会社の依頼を受け、南洋の風物を主題とする献上画の下絵写生のため、来島していた。
※佐伯氏=アラカベサンに鰹鮪漁業および鰹節の製造販売を行う、本社・工場をもつ紀美水産合資会社を兄と経営し、真珠貝の採取や養殖、船舶所有・貸借その他水産業を行うパラオ水産株式会社の取締役だった。芸術を愛好し、彼の家はサロンのようになっていた。

10日(日) 
帰リ赤松氏ノ所ニ一寸。赤松君ハUheliyangヲ画キニ行クト云フデ昼頃行ク約束シテ別レ、ゴロゴロシテ居ルト、HobhouトSailongトガHohopヲツレテ来ル。

12日(火) 
赤松君ノ展覧会ヲ開イテヤルコトニ就キ、十時、文化協会ノ野口君、新聞社ノ森田君、養殖場ノ佐伯君ト、当ノ赤松君ト倶楽部ニ集ッテ相談、南貿ニモッテ行カウト思ッテ皆デ南貿ニ行ッタガ、面白クナイノデ、結局倶楽部ノ二室ヲ使ッテヤロウト云フコトニナル。

(中略)
ソレカラ興発倶楽部ニ赤松君ヲ訪ネ、案内状に入レル作者ノ言葉ヲカカセ、デッサンヲ一枚トッテ来ル。ソレカラ、役所ニカヘッテ、推薦ノ言葉、紹介ノ言葉ヲマトメ、アレヤコレヤシテ、新聞社ニ、ソレラヲ届ケテ来ル。
赤松君ハ全部絵ヲモッテ額縁屋ニ行ッテ居タノデ、夕方行ッテミル。ココデモ一時間バカリ、帰リニ一所ニ食事シテ別レル。


※文化協会=南洋群島文化協会。南洋庁長官を会長とし、月刊『南洋群島』の発行、書籍出版、展覧会や講演会開催など文化活動をする南洋庁の外郭団体。

14日(木)
午後二時頃カラ、赤松君ノ展覧会ノ飾リツケ。額縁ガ乾カナイヤラ何ヤデ遅クナッテ、夜九時ニヤット終ル。終ッテカラ、野口君、松沢君、赤松君ト額縁屋ノ川村君ト皆デ宝来軒ニ食事ニ行ク。

17日(日)
昼、倶楽部ヘ、二時頃帰ッテ寝、五時再ビ倶楽部ヘ、六時、紀美水産ノ中村陸男サンカラ迎ヘノ車ガ来タノデ、赤松サント二人デ行ク。佐伯サンノ晴サンモ先キニ来テ居ル、話、蓄音器、トマトチーズ ノ スープ ト ngduul ノ コキール ト ダック ノ丸アブリト、ポテト ト ニンジン、ソレカラ キウリ ト アスパラガス ト卵ノ皿、ビール ノ夕食、パインアップル ト パイ ト コーヒー ノ デザート、ソレカラ又、話ト歌ト蓄音器ト、笑ヒト親シサト。ソレカラスバラシイ貝ノ コレクション ト バリー ノ珍ラシイ彫刻物ト。デ十二時前ニナッテシマフ。
迎ヘノ車デ三人、ミユンスデ清サンガオリ、興発クラブデ赤松サンガオリ、ソシテ十二時少シマハッテ、オ手製ノオミヤゲノ パン ヲ持ッテ帰ッテクル。パラオ デハナカッタ様ナ一夜。

18日(月)
赤松サンノ展覧会カタヅケ。

19日(火)
十時出航ノちちぶ丸デ和田[清治]君、赤松君トNgheangngalニ行クコトナッテ居タノデ、八時半ニ倶楽部ニ赤松君ヲ訪ネ、九時自動車ヲ頼ンデ一緒ニ熱帯生物研究所ニ和田君ヲ誘フ。九時半、コロール波止場ニ行ッタガ、ちちぶガ来テ居ナイ。又機械ガ悪イソウデ、マラカル デナホシテ居ル由、十時ニナッテモ来ナイ、十一時ニナッテモ来ナイ、三人デ波止場ノ先キニ行ッテ居タガ、十一時半ニハオ腹ガスイテシマッテ、オ弁当ヲ、乾パン ト チーズ トヲ出シテ食ベテシマッテ、十二時過ギテモ来ナイノデ、アキラメテ帰ル相談ヲシテ居ルト、船ノ人ガ来テ、何デモ会社デハ出シ度イノデ、二時半迄ニ来ルヨウニ云ッテヤッタカラ待ッテクレト云フ。ソウシテ随分タッタト思フタ頃、二時ニNgurukノ島カゲニちちぶガ姿ヲ現ハシタ。二時半ニ波止場ニツイタノデ早速乗リコンダガ、船長ト機関長トノ間ニ又々話ガヒッカカッテシマッテ、結局二人ハ荷物オートバイデ会社ニ行ッテシマフ。ソシテ三時半ニナッテ、今日ハ出ナイデ明日ノ十時ニ出ルト云フコトニ決ル。Kisaulモ来テ居タノデ、皆デオートバイデTehekiニ行キ、少シ早カッタケレド食事ヲスマセ、別屋ヲアケテ貰ッテ三人トモ寝テシマフ。目ヲサマスト日ガ暮レテ居タ。赤松君ハ島民ヲツカマヘテ踊ヲヤリ出シタノデ、和田君ト二人デ アラバケツ ノ和田君ノ家ニ帰ル。八時半。コーヒー ヲ入レテ十時頃マデ喋ッテ寝ル。


※Ngheangngal=カヤンガル。パラオ本島の北32kmの海上にある島。1935年時の人口93人。
※熱帯植物研究所=パラオ熱帯植物研究所。1934年、東北大学の生物学教授・畑井新喜司の奔走で生まれた文部省管轄の研究機関。

20日(水)
九時半ニ波止場ニ来ルト、十分程シテ赤松君モ来ル。十時半出航。風ナクベタナギニ近イ静カナ海、三時半オコトル着、四時村役場ニ行ク。パン ト キュカンバー・サンドヰッチ ト クカウ ト オムスビデ、早ク夕食。


※オコトル=パラオ本島北端のアルコロン村の西海岸にある波止場。

23日(土)
朝三人デ海岸ヲ一週スル。

24日(日)
午前、MakarトNgardohoニ行ッテ、南ノDelonghoklヲ全部キイテ来ル。午後、昼寝シテ後、Brottohニ行ク。夜九時頃カラ南ノ浜ヘ。沢山ノ女達。赤松君ハ汀デ終始踊ヲ習ッテ居ル。十二時前ニ帰ッテ来ルト、三四人ノ女達ガ又家マデツイテ来ル。又休ミ場ニ腰ヲオロシテ一時過ギマデ話シテ居ル。ソンナニ惜シイ月。

31日(日)
朝六時、Ngkeangngal発、十時okotol、午後四時頃、コロール着。
夜、赤松君、和田君ト南洋ホテル ヘ晩餐。

【4月】
2日(火)
夜、赤松氏ト一緒ニ内務部長ヲ訪ネル。暫クシテ一緒ニ活動写真ヲ見ニ行カウト云ハレ、夫人ト皆デ若葉館ニ行ク。

8日(月)
カヤンガル カラ レモン ガ、私ト赤松サント和田サント三人ニ届ク。手紙ガアッタソウダノニ、ワカラナイノデ誰ガヨコシタノカワカラナイ。ドウモ連中ニハチガヒナイノダガ。晩、和田サンガ来ル。赤松サンモ呼バウトシタガ、ドウシテモ電話ガカカラナイノデ二人デ散歩ニ出ル。

12日(金)
夜十時頃ニナッテ赤松君ガKisaul、Bauldong、Maria三人ヲ引張ッテ来テ、熱帯生物ニ和田サンガ待ッテ居ルカラ行カウト誘ヒニ来ル。行ッテ、十一時半迄遊ンデ来ル。

14日(日)
朝七時半、興発倶楽部ニ赤松サンヲ誘ヒニユク。
倶楽部ノ手前デ松沢君ニ逢ヒ一緒ニ。八時、赤松サント二人デ アラカベサン ニ向ッテポツポツ歩イテ行クト、連絡道路ニカカル所デ、後カラバスガ来タノデ乗ル。
パラオ水産ノ所デ降リ、佐伯君ノ所ヲ訪ネル。佐伯サンハ待ッテ居タガ、遅イノデ来ナイト思ッテ食事ヲシテシマッタカラ、少シ待ッテクレトテ、三十分程シテ、又皆デ朝食ヲヤリナホス。
ホットケーキ ノオ招キナノダ。タラフク食ベル。

16日(火)
夜、六時パレスデ赤松サンノ送別会、文ノ家、沖縄踊、佐伯、野口、森田、松沢。


この後、俊はヤップ島を経由して日本に帰ります。

   *   *   *

また、「解説」によれば、土方は1967年5月6日の丸木美術館開館記念式に出席し、当時の日記に次のように記しているそうです。

マルキ俊子君(赤松俊子君)トノ出合イワ、モオ古イコトニナル。昭和14年、私ガ サトワル島カラ パラオニ出テ来タ年ダッタト思ウ。サッソウト、ハツラツト、ショート・パンツニ リュックヲショッテ、若キ俊子君ガコロールニ乗リコンデ来タノワ。
ソシテ、ドコデモイイ、日本人ノ居ナイ島マデ連レテ行ッテクレト言ウノデ、熱帯生物研究所ノ研究員ダッタ若キ和田清司君ヲ誘ッテ皆デ、カヤンガル島ニ行ッタノダッタ。俊子君ノ喜びビヨオッタラナク、早速島民ノ娘タチト仲ヨクナッテ、歌ト踊(マトマトン)ヲナラッテ、オボエテ帰ッタノダッタ。


「赤松俊子と南洋群島」展は4月11日まで。
これだけ多くの南洋のスケッチを展示する機会は、もう二度とないのではないかと思いますので、ぜひ、この機会に俊が見つめた「南洋群島」を、ご覧になってください。
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2014/7/23

久しぶりの丸木スマ展示室  作品・資料

ひろしま忌も近づき、午前中は事務局員のYさん、午後は岡村が順番に草刈りを行いました。
とうろう流しを行う都幾川へ続く河川敷の道の整備です。
炎天下で道なき道の草を刈る作業は毎年たいへんで、自然と人間の共生の困難さを実感します。

さて、この夏は、久しぶりにひと部屋を使って「丸木スマ展示室」を設けました。
展示作品は全部で8点と決して多くはありませんが、今回の見どころは、スマさんと直接的、間接的に縁のあった各界の人たちがスマさんの絵について語っている文章などを、絵とともに抜粋して展示している点です。

今までやったことのない試みで、意外な人物との接点が興味深く感じられる方もいらっしゃるかもしれません。

以下は、スマさんの絵と文章によるバーチャル展示。
ぜひこの機会に、実物をご覧になることをお勧めします。展示は9月6日まで。

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簪(かんざし) 1955年

 俊先生が、「簪」と題せられた作品について、スマさんの「生涯の曼荼羅図(まんだらず)となりました」と書かれているけれども、すべてからうつつに匂い立ってくるのは、現代のわたしどもが、観念としてしかとらえられなくなっている曼荼羅の世界である。
 ひとりの田舎の、名もない(位里先生の母堂とはいえ)百姓老婆の上に蘇ったこの世界は、たぶん現代という荒野に起きたひとつの秘蹟ではあるまいか。神さまがひそかに約束なされていた地に、ほかならぬ丸木スマというしるしの血に、それがあらわれたのだとわたしには思える。
 日本という、かつては香しかった地が、人類史の悪しき必然の中で、本来の姿を喪ってしまった時に、丸木スマという耤(せき)やしていた老いた女に悲しみの地の霊が宿り、神は約束の土地の、血を受け継ぐものに、香しいしるしの世界を、ひらかせ給うたのではあるまいか。丸木スマの手を借りて、それを描かせ給うたのではあるまいか。


 ――石牟礼道子「黙示的な野の光」(1985年)より

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ひまわり 制作年不詳

 ゴッホの「ひまわり」の絵は一度見たら忘れられない。が、あえていうとすれば、ぼくは丸木スマの「ひまわり」の印象のほうが強烈だ。たったの一輪が、花びらと葉を大きく広げてすっくと立ち、茎の下までは描かれていなくても、切り花じゃなしに逞しく根を張った向日葵だと分かる。日光を集め、地中から水分を吸い上げている力が、絵から確実に伝わってくる。そしてその構図よりも、大胆なのは色だ。向日葵の茎も葉もコバルトブルーに描かれている。

 ――アーサー・ビナード「村の夕暮れ」(2004年)より

   *   *   *

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村の夕暮れ 1954年

以前、原爆の図丸木美術館で開催された「丸木スマ」へ出かけ、「ひまわり」をはじめ八十点の輝かしい絵に会ってきた。「村の夕暮れ」と題した風景画の前で、ロングフェローの「いまわの挨拶」という詩が、久しぶりに頭に浮かんできた。

  For age is opportunity no less
  Than youth itself, though in another dress,
  And as the evening twilight fades away
  The sky is filled with stars, invisible day.

  見栄えは違うが、本当は老いが、若さに
  負けないくらいの可能性を孕んでいる。
  日が沈み、夕闇が迫ると、昼間はまったく
  見えなかった星が、天いっぱいに現れる。


 ――アーサー・ビナード「村の夕暮れ」(2004年)より

   *   *   *

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河童 制作年不詳

 この本のために、私は諸先輩に奇妙奇天烈なお願いをした。四十三篇をそれぞれ異なった人たちのカッパ・カットで飾りたかったからである。これまで一度もカッパをかいたことのない人たちが多かったにちがいないし、多分、私の依頼は突飛で変てこな無理難題であったであろう。それにもかかわらず、承諾して下さった方々が次々にカッパのカットを寄せられ、私を狂喜させた。特に、つけ加えておきたいのは、お婆さん画家丸木スマさんのカッパが入ったことである。八十数歳で絵をかきはじめた丸木さんは私をおどろかせたが、画集が出版されるとき、私はすすんで推薦文を書いた。すると、よろこんだスマさんが、火野さんはカッパ好きだからといつて、生まれてはじめてというカッパの絵を彩色入りでかいて下さった。ところが、そのスマさんは、気の毒なことに、まもなく不慮の死を遂げたので、カッパの絵が形見みたいになってしまった。

 ――火野葦平『河童曼荼羅』(1957年)より

   *   *   *

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内海の魚 1954年

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暮れる畑 1952年

 何という自然讃歌だろう。スマさんの絵心に畏れを感じた。誇張でなく哲学的で、一見童画風ながら、まったくちがう。人生の苦惨を経た人の、無心な絵に心をうばわれたのである。「動物」も「仙人」も「内海の魚」も「暮れる畑」も、みな丸木スマの稀有な七十こえてから拡得した、云いかえれば、七十すぎて噴きだした芸魂の所産である。誰からも教わらずに、自分ひとりが、永年自分の眼で見てきたものを、紙に描いた。背景の色彩の使い方の妙は吐息を呑ませる。これはもうスマさんの心田に培われた感性で、唯我独尊である。

――水上勉「丸木スマの芸術」(1984年)より

   *   *   *

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凡夫人とスケッチ 1955年

 「目が見えんようになったら、手さぐりで描きます。
絵を描きはなえてから、面白うての。
こりゃ、まだまだ死なりゃせん思うて。
わしゃ、今が花よ」
と、言いながら、末川凡夫人(ぼんぷじん)たちと、
元気に、スケッチに出かけていきました。


 ――丸木スマ画集『花と人と生きものたち』(1984年)より
 ※ 末川凡夫人は、丸木位里と親しく交流した広島の油彩画家

   *   *   *

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めし 1950年

『めし』は、前の画集では、
右側を上にした、たて長の絵として収められています。
私も、その方が気に入っていたのですが、
いつの頃からか、横にして飾られるようになりました。
どうしてそうなったのか、調べてみました。
落款が、横に飾るように押してありました。
描かれて、しばらくの間は、落款が押されてなかったのです。
“砂麻”と彫られたこの印は、おばあちゃんとなかよしだった、
浜崎左髪子(さはつし)という絵描きさんが、作ってくれたもので、
おばあちゃんは、たいへん気に入っていました。
『めし』は、たてに見ても横に見てもよい絵なのです。
めしを喰う猫の背中を、真上から見ているのです。


 ――丸木スマ画集『花と人と生きものたち』(1984年)より
 ※ 浜崎左髪子は広島の画家で、老舗の和菓子屋・平安堂梅坪の包装デザインを手がけています。
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2014/5/9

「最初に原爆を描いた画家」福井芳郎のインタビュー記事  作品・資料

少し前のことになりますが、NHKプラネット中国支社のSディレクターが、丸木美術館に取材に来館して下さいました。
NHK総合テレビの番組「プライムS」の被爆70年シリーズの一環として、「ヒロシマを描き続けて〜被爆画家・福井芳郎〜(仮)」という番組を制作されているのです。
(放送は6月27日午後8時より、中国地方5県向けの予定)

広島の原爆投下から1時間以内に燃え上がる街をスケッチし、「最初に原爆を描いた画家」とされる福井。しかし米軍占領下の時代には、焼け跡の風景画の発表のみにとどまり、その間に発表された丸木夫妻の《原爆の図》の後を追うように、1952年4月の占領終結後に《炸裂後15分》などの油彩画を発表しています。

福井が丸木夫妻について言及している資料はあまりないのですが、太平洋地域のアメリカ軍総司令部が発行していた英字新聞『Pacific Star & Stripes』1952年7月7日号に、Fred Saito記者によるインタビュー記事が掲載されています。

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丸木夫妻の名前は出ていませんが、記事の中で言及される「a Communist artist」(単数形ですが)が、当時日本共産党員だった(1964年に除名)丸木夫妻を指しているのは間違いないでしょう。

以下に、英文記事と、その拙訳を掲載いたします。

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Japanese Says Sight Beautiful, Dreadful
Artist Portrays Hiroshima Blast

By Fred Saito

HIROSHIMA (AP)―A Japanese painter is now trying to capture on canvas the most unforgettable sight of his life―a sight both beautiful and dreadful.
Yoshiro Fukui, 40-year old Hiroshima artist, was among the handful of survivors within the one-mile radius of the atomic explosion seven years ago.
The First of his series is an oil painting six feet high and 30 feet long. In the center of the scene, a young women looks up with forlorn eyes. Her baby is dead at her feet. To the right, a man carries his mother on his back. Others lie dead or dying.
Flames and smoke shoot up in the background. A patch of pure blue sky is seen above the inferno.

ALL THE PEOPLE in the scene are naked.
“The blast tore clothes from everyone, and these three I have painted dropped dead a few minutes after I saw them standing like this,” Fukui explained.
On the morning of Aug. 7, the artist was standing on the second floor of a military barracks near his present studio. He was a medical sergeant in the Army. From the window, he saw Hiroshima suddenly lit by a flash so bright it surpassed the strong summer sun.
“It was unearthly beautiful,” he said.

A MOMENT LATER he was pinned under the beams of the collapsing barracks. A few minutes after that, he was pulled out of the debris by another solder, who dropped dead shortly after.
In his dazed stupor, Fukui stepped out into the ruined street. Then he became wide awake as the unforgettable sights unfolded before his eyes.
Everything around him was in ruins. All the men and women were naked. They were falling dead by the roadside like burned flies. Flames were rising everywhere. The sky was still unbelievably blue.

FUKUI REMEMBERED his medical duties and ran to the dying. Men, women and children saw his uniform and muttered with their dying breath, “Soldier, revenge for me!”
But Fukui, a big, well built man with scars on his back from the falling beams, said the theme of his work would not be “revenge.”
“The voices of the dying rang in my ears until last year,” he said. “Those voices wracked my nerves and numbed my hands when they held the brushes.
“But now I feel my work can transcend it all, and I think it is my duty to reproduce my most unforgettable sight, which was both beautiful and dreadful.”

HE SAID HE ALSO felt the call when he saw many imaginary pictures of the Hiroshima bombing painted by a Communist artist. These lurid scenes were widely circulated by the Japan Communist party in its anti-American propaganda campaign.
But Fukui, who was there, has nothing but scorn and contempt for the Communist paintings.
“To call such dreadful sights beautiful may sound blasphemous, but nevertheless they appeared to me to have some element of surpassing, unearthly beauty, “Fukui said. “The Communist painting are only hideous and ugly.”
When Fukui finishes about a dozen of his Hiroshima series he will exhibit them in Tokyo, probably this fall.

IN HIS STUDIO were many other of his paintings―still lifes or landscapes. They showed touches of the refined French school.
But his A-bomb painting is altogether different―stark realism itself.
“I have always worshipped Cezanne, both his style and his way of living,” Fukui said. “But this is not for Cezanne. May be Van Gogh. Maybe something different, something entirely new, something all my own.” We must wait and see.
(Pacific Stars & Stripes Monday, July 7, 1952)

   *   *   *

日本人は「美しく、恐ろしい光景」と言った
ヒロシマを描く画家

フレッド・サイトウ

広島(AP)―ひとりの日本人画家が、彼の人生において忘れることのできない、美しく、恐ろしい光景を、描き出そうと試みている。
40歳の広島の画家・福井芳郎は、7 年前の原爆投下の際、半径1マイル以内における、数少ない生存者のひとりだった。
彼の連作の最初の作品は、縦6フィート、横30フィートの油絵である。画面の中心では、若い女性が絶望的な視線を漂わせ、彼女の赤ん坊は足もとで息絶えている。傍らでは、男が母親を背負って運んでいる。累々と横たわる瀕死の人々や死者たちの群れ。背後には炎と煙が立ち上る。そんな地獄の光景の頭上には、真っ青な空が広がっている。

描かれた人びとはみな、裸だった。
「爆風がすべての人の衣服を剥ぎ取った。ここに描いた三人は、私が立っている姿を見た後で、倒れて死んでいった」と福井は説明する。
8月7日(註:原文ママ)の朝、画家は現在のアトリエ近くの兵舎の2階に立っていた。彼は陸軍救護班に勤務していた。窓の向こうに、突然、夏の強い日差しを上回るほどの閃光に照らされた広島を見た。
「この世のものとは思えないほど美しかった」と彼は言った。

一瞬の後、彼は崩壊した兵舎の梁の下敷きになった。数分後、他の兵士によって瓦礫の中から救出されたが、その兵士はすぐ後に亡くなった。
彼は呆然としながら、焼け野原となった街路に歩き出した。そして、決して忘れることのできない光景に目を見張った。
すべてが廃墟となっていた。男も女も裸だった。道端で、虫けらのように焼け死んでいた。そこかしこで炎が燃え上がっていた。空だけが、信じられないほど青かった。

福井は救護班としての任務を思い出し、死に行く人たちのもとへ駆けつけた。男も女も子どもたちも、彼の軍服を見て「兵隊さん、復讐して下さい!」と最後の声を振り絞ってつぶやいた。
しかし、原爆で背中に傷を負ったものの、大柄で体格の良い福井は、作品のテーマは「復讐」ではないと言う。
「昨年まで、私の耳もとに死者たちの声が響いていた」と彼は言った。「彼らの声は、私の神経を不安に苛み、絵筆を持つ手の感覚を無くした」。
「しかし今は、描くことですべてを乗り越えることできると信じている。美しくも恐ろしい、最も忘れられない光景を再現することが、自分の義務だ」。

彼はまた、共産主義の画家によって描かれた広島の原爆の空想の絵を見て、使命を感じたと述べている。これらの不気味な作品は日本共産党によって反米プロパガンダのキャンペーンとして広く巡回された。
しかし、この目で現場をみた福井は、共産主義者の絵画に軽蔑の念を覚えた。
「凄惨な光景を美しく表現したいと言うと、冒涜に聞こえるかもしれない。にもかかわらず、そこには至高の美が潜んでいるように、私には思える」と福井は言う。「共産主義者の絵には恐ろしさと醜さしか感じられない」。
広島の連作を描き終えたとき、福井は東京で展覧会を開催する。それはおそらく、今年の秋になるだろう。

アトリエには、他にも数多くの彼の描いた静物画や風景画があった。それらの絵画は、洗練されたフランス教育を受けた筆致を示していた。
しかし、原爆の絵はそれらとまったく異なるリアリズムの表現だった。
「私は常にセザンヌの画風と生き方を崇拝している」と福井は言った。「しかし、これはセザンヌではない。むしろヴァン・ゴッホだ。おそらく今までとは違う、まったく新しいものが、私の中から生まれてくる」。私たちは、その作品を直視しなければならない。
(1952年7月7日付『パシフィックスターズ&ストライプス』)

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(翻訳協力:吉岡志朗)

実際に原爆を見た(8月6日に広島にいた)画家という立場から、丸木夫妻の《原爆の図》を醜い空想の絵と断定し、自分は「美」を見出したいと語る福井の対抗心と意気込みが伝わってくるインタビューです。

実際、彼は1952年8月に広島の福屋百貨店で原爆記録画の中間報告展を開催し、翌年8月に東京の日本橋白木屋で「ノーモア・ヒロシマズ広島原爆絵画展」を開催しています。

しかし、そこで発表された絵画が、丸木夫妻の《原爆の図》とは異なり、「美」を表現できたかというと、疑問の残るところです(むしろ個人的には、やはり丸木夫妻の作品こそが原爆を広義の「美」に昇華させていると感じます)。

また、占領時代の終結とともに『アサヒグラフ』の1952年8月の原爆特集に代表される「被爆写真」が大量に公開され、絵画で原爆を表現することの意味が、丸木夫妻の最初の《原爆の図》発表時とは変質していた点も、福井にとっては機を逸する大きな理由になったのではないかと思います。

ともあれ、丸木夫妻の作品ほどには社会に衝撃を与えることがなかった福井の作品は、その後、多くの人に知られることなく、現在は広島平和記念資料館に所蔵されています。
とはいえ、もちろん、その仕事に意味がなかったというわけでは、決してありません。
広島平和記念資料館の初代の被爆人形のジオラマの背景画を手がけたのが、「ヒロシマを描いた画家」である福井だったことも記憶に留めておきたいと思います。

知られざる福井の画業が、番組のなかでどのように取り上げられ、被爆70年という節目の年に向けて、新たな意味を見出されていくのか。
熱心に取材を進めているSディレクターの試みに、期待したいと思っています。
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2014/3/26

国際雑誌『おりぞん』第5号「平和問答 火野葦平と赤松俊子」  作品・資料

火野葦平資料館のS館長より、国際雑誌『おりぞん』日本版第5号(Horizons/株式会社おりぞん日本支社/編集発行人=淡徳三郎/1955年8月1日発行)に掲載されている「平和問答 火野葦平と赤松俊子」の複写を頂きました。

丸木スマと火野葦平の交流は、これまでにも何度か学芸員日誌で紹介しています。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1445.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2140.html

今回の「平和問答」は、赤松俊子(のちの丸木俊)が火野葦平を取材して絵と文を記した記事で、丸木夫妻と火野葦平の交友をあらためて裏付ける興味深い資料です。

葦平は1955年4月にニューデリーで開かれたアジア諸国会議に日本代表の一人として参加し、その後、中国、朝鮮を訪問して5月末に帰国。俊はその旅程を取材するために、葦平宅を訪れたようです。

冒頭部分を抜粋して紹介いたします。

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 こまかい刺しゅうのあるわらじのような、どこかの国のくつが柱にぶらさげてある。のれんがあつて、色の白い、美しい少し太つた小さなおばあさんがお茶を出して下さる。
「あつ、おかあさんですか」
と、あわてておじぎをしたら、
「いいえ、おばさんです」
といわれる。お手つだいの人らしい。秘書の人もきれいなひとだし、そういう清潔な感じのする家。

「お宅のおばあちやんのネコの絵をいただきましたよ。お正月には、また何か下さるといわれたので待つていました。こんどはカッパがほしいです」
 と、先生はいわれる。よく太つて、まだ若々しい体つきです。正直な目をしている。くせものといつた感じはない。
「なるほど、それはいいですね。『カッパちゆうものは見たことがないけえ、ネコけん』、というかもしれません。おばあちやんはリアリストです」
「写実派ですか……」
 サカナかと思つてよく見れば犬です。というおばあちやんの絵を、いあわせたみんなは、思い出して笑い出す。

「火野葦平さんは絵かきだぞ、そのつもりで話して来い、と、うちの亭主が申しました。」
「いや、ほんとうは絵かきになりたかつたのです。今でも百号のカンバスを用意してあります。向井さんのアトリエに置いてあるのです。カッパを描こうと思うのです」
「赤松さんは、一昨年コペンハーゲンの世界婦人大会へ行かれましたね。ちようどあなたがペンクラブの会合に出席されたころです」
と、淡徳三郎さんは、話を本筋へ向けるようにと、私を紹介して帰られた。

「いや、私は美術館ばかりを見て歩きました」
と、また絵の話へもどってしまう。
「ルソーがいいです。ゴーガンがすきですね。ゴヤはますます好きになる。」
「ゴヤの絵と原爆之図を対照して批評されますが、私はまだゴヤの油絵の本もの見ていないのです。どんな感じでしょう」
「すさまじいな。スペインへいらつしやい。ぜひごらんなさい」
「見たいです。ほんとうに怒つてる、怒つてる絵を見たいです」


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ふたりの対話はこの後、インドの画壇と文学、中国の民衆の暮らし、朝鮮半島の38度線の非武装地帯の話へ続きます。そして、おそらくこの「平和問答」の核心と思える、文学・芸術の戦争責任について話が及んでいきます。
俊はあえてこの話題に触れようと覚悟を決めて葦平との対話に臨んだようです。
俊が藤田嗣治の戦争画について触れていることもあり、少々長くなりますが、以下に書きとめておきます。

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「先生の“麦と兵隊、土と兵隊、花と兵隊”の三部作を拝見いたしましたが――。この事は、美術の方でもいろいろ考えねばならぬことがございます。藤田嗣治は戦争画を描いて、戦後、日本にもいられなくなり、アメリカに行き、アメリカにもいずらくて、パリへ行つた。私も批判をした一人ですが、しかし、“アッツの玉砕”“サイパン島の玉砕”の図など、日本人の死んで行く、自分で銃口を口にあてて足で引きがねを引いて、女は胸に短刀をあてて、あの惨状は、戦争を謳歌するより、戦争を嫌悪する感情の方がずつと強くわいてきます。もう一度かんがえなおさなければならないと思うのです。私たちは、また戦争反対のために勇かんには闘えずに沈黙していたのですし、個人的にも、藤田先生にお手紙でもあげたいと思います。そうして、あのすばらしい腕前で、世界平和のために働いていただきたい」

「麦と兵隊、土と兵隊など、戦争中に書いたが、いま、弁解する気はない。ただ、兵隊の不幸、戦場の悲惨、人間愛、敵味方の別なく、戦場の兵隊の生活を卒直に書いたつもりです。兵隊には戦争を謳歌する気持など一つもない。ただ愛国心、批判もあろうけれど、国が負けては大変だ、という気持しかなかつたのです。そのことは軍歌にも現われているし、日本人は、すぐレッテルをはつて片づけてしまうけれど、もつと、人間の問題について考えていきたい。いたわりながら成長していくものだ。」

 先生は、少し、つらそうな表情で語られる。わたしは、この問題にふれるべきかどうか、昨夜は眠れずに考えた。わたしは決心したのです。大ぜいの文化人が、このことについて、いまこそしんけんに考えてほしい。そうして、私もその一人として、ともどもに手をとりあつて歩んでいただくために。老婆心かしら、うるさいかしら、よけいなことかしら、せんえつだろうかなどと考えた。

「ほんとうに、心からほんとうのことを打ちあけ合い、助け合い、はげまし合つて行きたいものだと思います。いま大変な時でございます。一人でも、たつた一人の人がどんなに大切な時でありますか。」
「人間は過失の中から成長していく。戦争も過失だ。アジア会議で、“みんな仲よくしましよう
”と決議しましたが、こういう気持も戦争という過失から出た成長だと思う。」

 わたしは、質問するのがつらかつた。火野先生も答えて下さるのにつらかつたと思う。でもよかつた。とてもよかつたと思う。わたしは、過失の中から成長する人間、わたしも一歩一歩と成長したい。成長する人間を信じることが出来る。火野先生ありがとうございました。こんな言葉を使つておゆるし下さい。私は黙つて心の中で手をあわせました。
 みんな、しーんとなりました。


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最後は北朝鮮での崔承喜との対面、そしてスマのカッパの絵の話で締めくくられています。

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「崔承喜さんにおあいになりましたか」
「あつたあつた。若いね。美しいね。まつたくほれぼれするね。わずかの時間だつた。日本の代表が来たというので、わざわざ忙しいなかをかけつけて来てくれたんだ。」
 うらやましいようなたのもしいような気がする。五十近いか、あるいはすぎてるかもしれない崔承喜さんの話をきいて、みんなほつとため息。
「石井漠の門下だつたころは、裸に近い洋舞だつたが、今は、民族衣裳をつけて、民族の踊りです」
 話はつきない。芝居や踊りや絵のことになると、目をかがやかせて語られる。火野先生は、芝居や踊りや絵がほんとうにすきなのです。暗がりで、舞台ばつかり見つめて描いた崔承喜さんのスケッチ。老漁夫の踊りのスケッチなど、脈々と、生き生きとおどつていました。

 おばあちやんは今日は火野先生に贈るカッパの絵を描いています。


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スマが描いた魅力的なカッパの絵は、火野葦平のリクエストに応えたのがきっかけだったのでしょうか。
北九州市の火野葦平資料館には、スマが葦平に贈った黒猫の絵《クーちゃん》が、復元された葦平の部屋に展示されています。

貴重な資料をご教示くださったSさんに、心より御礼を申し上げます。
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2014/1/18

「大木正夫と映画「原爆の図」―《交響曲第5番「ヒロシマ」》への軌跡―」論考  作品・資料

年末のことになりますが、広島大学大学院教育学研究科の能登原由美さんから、同音楽文化教育学研究紀要]]X(2013.3.22)に発表された「大木正夫と映画「原爆の図」―《交響曲第5番「ヒロシマ」》への軌跡―」と題する論文の抜き刷りをお送りいただきました。

原爆投下から8年後の1953年に、大木正夫(1901-71)が丸木夫妻の共同制作《原爆の図》に寄せて作曲した《交響曲第5番「ヒロシマ」》(同年の第8回芸術祭奨励賞受賞)を取り上げ、「ヒロシマ」の音楽表現法の一事例を考察するという内容です。

これまでほとんど論じられることのなかった大木正夫という作曲家の生涯と思想の創作活動への影響関係からはじまり、興味深いのは、大木が手掛けた映画『原爆の図』(1952年、今井正・青山通春監督、新星映画社)の音楽と、それをもとに創作した交響曲「ヒロシマ」の連続性と非連続性を比較している点です。
音楽的な視点から《原爆の図》をめぐる表現が分析がされたものは、今までほとんど見たことがなかったので、非常に興味深く読ませていただきました。

能登原さんは、映画『原爆の図』の音楽について、全体的に「不協和音を多用した無調風の響きが主体となって」おり、「戦後盛んになり始めた実験的な音楽様式を試み」、「描かれた内容をより効果的に音楽で描写するかのようにも用いられている」と指摘します。
以下は、そのひとつの具体例の抜粋。

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 第2部「火」ではピアノ高音部での連打や速いパッセージが画面上の炎の勢いや切迫感を想起させる一方、それとは対照的に第3部「水」では、低弦による緩やかな半音階進行や不協和音を重ねた音の伸ばしによって川面の不気味な静けさを暗示させている。

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《原爆の図》の絵画的描写が、どのように音楽に変換されているのかを分析している視点が新鮮です。
また、映画に《中国地方の子守唄》や《浜辺の歌》といった著名な歌曲が、画面にあらわれた原爆の図(第4部《虹》や第5部《少年少女》にあわせて「観る者に同情や共感の念を引き起こそうとの意図」で用いられている点も指摘しています。

こうした判断は、もちろん大木一人のものではなく、今井・青山監督の意図を組んだ可能性も考えられます。
実際、大木は『まだ逢う日まで』(1950年)、『どっこい生きている』(1951年)、『山びこ学校』(1952年)、『愛すればこそ』(1955年)、『純愛物語』(1957年)、『キクとイサム』(1959年)と、数多くの今井映画の音楽を手掛け、『今井正 映画読本』(論創社、1953年、2012年再刊)に記したエッセイのなかで、「演出家はじめ諸君のそれぞれの意図をみきわめるようにつとめる」「作曲家は、つねに演出家の忠実な女房であるべき」と述べているのです。

では、交響曲「ヒロシマ」はどんな内容なのか。
交響曲「ヒロシマ」には、映画『原爆の図』制作時には完成していなかった第6部《原子野》が新たに挿入されていますが、基本的な構成は変わっていません。楽曲全体の様式については共通部分が多く、各楽章に使用されている曲想についても共通するものが見られるそうです。
つまり、映画音楽は今井・青山監督の意図だけではなく、大木自らの作曲意図も強く反映されていたと考えることができるのでしょう。
とりわけ、第1楽章「幽霊」、第2楽章「火」、第3楽章「水」には、共通の特徴が顕著にあらわれているようです。

一方、第4楽章「虹」と第5楽章「少年少女」は、映画『原爆の図』で既存の歌曲が使用され、抒情性を強調していたのに対し、交響曲「ヒロシマ」では既存の曲の使用は一切見られず、「何らかの情緒を生み出すはずの旋律性の欠如ゆえ、空疎や無感情、あるいは生命体の根絶といった印象を逆に連想させる曲想となっている」とのこと。
そうした非連続性について、能登原さんは「他者であるゆえの表現の難しさ、不安定さ」の露呈であると仮説を立てています。

さらなる楽曲分析や創作背景の調査については、今後の研究を待ちたいところですが、1950年代の《原爆の図》をめぐるムーヴメントが、映画や幻灯だけではなく、交響曲にも展開されていたことの幅広さをあらためて考えさせられる貴重な機会となりました。

ちなみに、《交響曲第5番「ヒロシマ」》のCDは、現在、丸木美術館でも取り扱っています。

映画『原爆の図』の方は市販されていませんが、丸木美術館では16oフィルムと、それをデジタル化したDVDを保管しているので、今後、公開の機会を増やしていきたいと思っています。
映画と交響曲の音楽の聴き比べという企画も、面白いかもしれません。
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2013/5/9

大塔書店版『丸木スマ画集』内容見本  作品・資料

先月、福島で開催された原爆文学研究会の折に、福岡県のSさんから「火野葦平の旧蔵書のなかに、大塔書店版『丸木スマ画集』の内容見本があった」とご教示を頂きました。

火野葦平が1954年11月に大塔書店から発行されたスマ画集の推薦文を書いていたということは、2010年7月30日の福岡出張でわかっていたのですが、肝心の推薦文が掲載されているという「内容見本」が、丸木美術館には残されていなかったのです。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1445.html

本日、そのSさんから、貴重な「内容見本」の現物が送られてきました。
B5版中綴じ8頁の冊子を、早速、スキャナでPCに取り込みました。

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表紙には次の文章が掲載されています。

畑仕事や養蚕や手内職に、八十年の歳月を送ったお婆さんが、ふとした機縁から絵筆をとり、その生活の経験と実感を、絢爛たる絵心に託し、驚嘆すべき美の世界を創造した……純朴な詩情、誇らかな色彩、土の香りに満ちた画面からは、動物達の話声さえ聞えてくる。これは正に、完全に解放された人間の仕事であり、現代文化の中に、奇蹟のように咲いた原始の花である。

頁をめくると、《きのこ》、《餌》、《庭先》の3点のモノクロ画像が掲載され、安田靭彦(芸術院会員)、太田聴雨(日本美術院同人)、森田元子(女流画家協会)、中谷ミユキ(女流画家協会)、火野葦平(作家)、野田宇太郎(詩人)、末川博(立命館大学総長)という7人の方々の推薦文がならんでいます(安田靭彦の文章は画集序文からの抜粋)。

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かつて位里と研究会を行っていたこともある太田聴雨が、《柿もぎ》に描かれた「大きな柿の実の間からのぞいている小さな子供らの顔がちょうど中宮寺曼荼羅の刺繍下絵にみるそれと共通したものを思わせ、古代人のナイーブな感覚にふれたようでたのしかった」と記していたり、丸木家と同郷の中谷ミユキが「丸木のおばあちゃんは、その頃はまだ若くて頭のいいおばさんだと思っていました。きりきりと働き、はきはきと物を言う、まめまめしいお百姓さんでした。八十才を越えて絵でも描こうというのだから、字は読めなくても、絵は描かなくても、人並みとは一寸違ったものが、その頃からあったのかも知れません」と回想していたり、いろいろと興味深い部分があります。
なかでも、火野葦平がスマについて記した文章は、これまでほとんど知られていないと思いますので、以下に抜き出して紹介します。

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 丸木スマさんの絵をはじめて見たときのおどろきをどう表現したらいいのだろうか。私も絵は好きだし、ずいぶん多くの画家の多くの絵を見て来たが、この八十三才の老画家の絵の感銘は、これまで嘗て感じたことのない異種のものであった。一見して、私は、アンリ・ルソオと、マルク・シャガールと、特異児童清さんの貼り絵とを思いだした。また、その或るものはシュールやアブストラクトのにおいさえする。けれども、眼に一丁字がなく、広島の田舎で百姓仕事をしていたスマさんが、突如、八十才から描きはじめたという絵は、いかなる伝統のうえにも立っていない。唐突に眼ざめた絵画への情熱がこれまでまったく隠れていた天賦の才質を呼びさましたのだ。理論も持たず、主張も傾向も一切そういう種類の雑念に煩わされることなしに描くスマさんの絵は、絵をかくことが楽しくて仕方がない、というあの野放図な情熱によって、完璧な天衣無縫さをさらわしている。
 けれども、その絵は破格の自由さのなかに、多くの天才たちが天から与えられたすぐれた稟質、色彩とコンポジションとの無類の調和を示していて、私の眼をみはらせるのである。長い修練の時を経てさえ容易にたどりつけぬ境地を、一挙に表現するこのお婆さん絵かき、稚拙を近代芸術の高さにおいたルソオの美しさとともに、私はなお今後のスマさんの画業を楽しみにしている。


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「内容見本」は、続いて原色版見本として、《きのこ》、《巣》の図版を掲載しています。

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さらに頁をめくると、《にわとり》、《柿もぎ》、《撃たれた鵜》、《母猫》の四点の画像とともに、金島桂華(日展参事)、北川桃雄(美術評論家)、中谷泰(春陽会会員)、仲田好江(女流画家協会)、水沢澄夫(美術評論家)の5人の方々の推薦文が掲載されています。

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その年の正月にスマのもとを訪れ、対談を行った(『中国新聞』1954年1月13日掲載)金島桂華の文章が、その様子を詳しく伝えていて興味を惹きます。

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白いエプロンをして居られて、普通の田舎のおばあちゃんだった。この人のどこからあのようなものが産れるのかと、つくづく顔を見た。小さな机の上に、五六本の筆と四五枚の絵具皿とポスターカラーと小さな筆洗があって、筆洗の水は絵具で濁っていた。襖に三四枚のかきかけのような絵がピンで張ってあった。「これはかきかけですか」と聞いたら、「出来上ってるんです」と云って平気な顔をしていられた。どれも面白いものだった。「私の絵はいいのではない、面白いと云う事は永く続くまい。面白いと云う事は倦きて来るから、その内落されるでしょう」といってすましていられた。私は只のお婆さんではないと思った。

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最後の頁は、《蝶》の画像と丸木位里・赤松俊子連名の文章です。

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二人の連名になっていますが、俊が記した文章でしょう。

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『デッサンというものは何か』
 と、だしぬけに母が聞きます。どうしたのかと思ったら、小学校の絵の先生がおばあちゃんにデッサンを教えて下さい、といって来た、というのです。
『デッサンというのは、絵を描く前、初歩の勉強、又は下描きのようなことを言うのです』
 と、いいますと、
『そうかい』
 と、母はわかったようなわからないような返事をしました。
 五十年も六十年も、三代のしゅうと、姑につかえ、畑を耕し、稲を植え、山へ行って木を切り、父を助け、子供を育てて来た母には、これ以上のデッサンがありましょうか。
 この苦難な母の一生。女の一生。
 筆で線を引き、色をつける。こんな楽なことがどこにあろうか。
 絵を描き初めた母は、まずこう考えたにちがいありません。何の苦もなく、どんどん絵は生れ、はじめの一年間のすばらしい速度は驚くばかりでありました。


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文面からは、俊の女性としての視線や、当時彼女が提唱していた「絵はだれでもかける」という“国民芸術論”が垣間見られます(俊の“国民芸術論”については、『原爆文学研究』第8号の小沢節子さんの論考「丸木スマと大道あやの『絵画世界』」参照)。
http://www.genbunken.net/kenkyu/08pdf/kozawa.pdf

この画集の発行と同時期(1954年11月)に、俊は新書版『絵はだれでもかける』を室町書房より刊行しています。そうした点からも、スマの絵画が俊の“国民芸術論”のひとつの体現として位置づけられていたということが感じられます。
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