2016/7/22

テレビ埼玉にて「四國五郎展」紹介  TV・ラジオ放送

2016年7月22日のテレビ埼玉NEWS930にて、「四國五郎展」が紹介されました。
以下、番組WEBサイトより。

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生涯平和テーマに創作 丸木美術館で「四國五郎展」

シベリア抑留の体験者で、生涯をかけて平和をテーマにした絵を描き続けた画家、四國五郎の制作活動を紹介する企画展が東松山市の原爆の図丸木美術館で開かれています。1924年、現在の広島県三原市に生まれた四國五郎。21歳の時にソ連軍の捕虜としてシベリアに抑留された四國は、隠し持った日記に日々の出来事を記録し、極寒の過酷な状況下で強制労働を課せられた体験を帰国後に自伝や絵に残しました。その後、被爆した弟の死を受けて、生涯をかけて平和のために絵画や詩を描くことを決意し、表紙や挿絵を担当した原爆をテーマした絵本『おこりじぞう』は自身の代表作となりました。会場では丸木俊がスケッチした四國の肖像など『原爆の図』で知られる丸木夫妻との交流を示す貴重な資料も紹介されています。四國五郎展は、9月24日まで東松山市の原爆の図丸木美術館で開かれています。

https://www.teletama.jp/news/index.html
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2016/7/21

NHKラジオ深夜便「明日へのことば」出演のお知らせ  TV・ラジオ放送

先日、渋谷のNHK放送センターまで出かけて行って、「ラジオ深夜便」のための収録を行いました。
聞き手は、10年ほど前、さいたま局時代に知り合った友人のリポーターKさん。
子育ても一段落しつつあり、本格復帰の第一弾として企画を出したら通ってしまったというロングインタビューでした。

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テーマは「小さな美術館発 平和への願い」
約40分の放送ということで、《原爆の図》との出会いから昨年のアメリカ展まで、話題は多岐にわたりました。
8月の「ラジオ深夜便」は、被爆者の坪井直さんや森重明さんら錚々たる方々が出演されます。間違ってまぎれこんでしまったかのようなわれわれは、非体験の世代が原爆の記憶を未来につなぐための、いわば「21世紀枠」としての出演だそうです。
幼い子どもにどう伝えればいいのか、など、身近な視点から原爆について語りあいます。

10年前は新卒で初々しかった彼女と、こうして再び一緒に、しかも原爆についての仕事ができるとは、まったく想像してなかったので、個人的にはとても嬉しく、感慨深い企画になりました。

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写真は収録直後。彼女にとっては久しぶりの収録で、終始気を張っていたために、終わって安堵の表情の一コマです。
放送予定は8月6日深夜、日付をまたいで翌7日(日)午前4時台の「明日へのことば」。
通常はラジオ第1放送ですが、オリンピック期間中のため、NHK-FMでの放送になる可能性がかなり高いようです。
早朝ではありますが、どうぞ皆さま、お聴きください。
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2016/5/29

NHK日曜美術館アートシーンにて「原爆の図はふたつあるのか」紹介  TV・ラジオ放送

NHK Eテレの日曜美術館アートシーンで、現在開催中の企画展「原爆の図はふたつあるのか」が紹介されました。
とてもよくまとまった内容で、大きな反響が続いています。取材して下さったSさんに感謝。
以下、番組の内容を書き出します。

   *   *   *

―原爆の図第3部《水》のアップから全体像へ

ナレーション 1945年、広島に落とされた原子爆弾。その被害を今に伝える絵があります。原爆の図。

―映画『原爆の図』(1953年)より、丸木夫妻の制作の様子。

ナレーション 描いたのは、丸木位里と俊夫妻。原爆投下直後の惨状を目にしたふたりは、その状況を伝えようと描きはじめました。

―古い原爆の図展の会場写真(1952年1月三菱美唄展会場)。

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ナレーション 作品を撮影した写真。不思議なものが写っていました。黒く塗られた空です。

―古い写真から現在の原爆の図第3部《水》へ画面転換、本作と再制作版の《水》を比較。

ナレーション しかし、作品を見ると、空は黒くありません。実は、同じタイトルの作品が、もうひとつ存在するのです。

―会場風景。キャプション「原爆の図はふたつあるのか 原爆の図丸木美術館(埼玉・東松山)」

ナレーション ふたつの原爆の図をならべて展示する、初めての展覧会です。

―原爆の図第1部《幽霊》の本作から再制作版へ画面転換。

ナレーション 焼け出され、さまよう人びと。もうひとつの原爆の図は、まったく同じサイズ。同じ構図。なぜ描かれたのでしょうか。

―ふたつの《水》の絵を背景に、岡村インタビュー。

岡村 1950年の暮れに、アメリカ人が丸木夫妻のところに来て、原爆の図をもっていきたいというので、当時占領下の時代で、原爆の図がどういうふうにアメリカに行くのか、そして、無事帰ってくるのかどうかというのが一番心配だったんだと思うんですね。それで、模写をするんですね。

―画面転換による原爆の図第2部《火》の本作と再制作版の比較。

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ナレーション 二つの原爆の図は、実はまったく同じではありません。再制作した方の絵では、人びとを包む火の輪郭が、よりくっきりと描かれています。夫妻は1970年代、再制作版の原爆の図に、さらに筆を加えていました。

―画面転換による原爆の図第3部《水》の本作と再制作版の比較。

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ナレーション 水を求めて川に向かった人びと。夫妻は、再制作版の背景を黒く塗り、さらに、人びとの肌に生々しい色を加えました。年月とともに遠ざかる戦争の記憶。加筆することで、よりリアルにその悲劇を伝えようとしたのでしょうか。

―再制作版《水》の母子像部分のアップ。ふたたびキャプション「原爆の図はふたつあるのか 原爆の図丸木美術館(埼玉・東松山)」

ナレーション 埼玉県東松山市の丸木美術館で、6月18日まで。

   *   *   *
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2016/5/27

NHKニュース「大統領訪問 原爆の図美術館は」  TV・ラジオ放送

オバマ米大統領が広島を訪問するという一日。
事前にさまざまなお問い合わせを頂きましたが、現場のスタッフのあいだでは、できるだけ静かに、普段と同じ仕事をしようと話をしていました。

そのため、昨日は朝からいつも通りの丸木美術館。団体のお客さんに《原爆の図》の前で解説をしたり、年度決算の事務作業をしたり、淡々と過ごしました。
K理事長からは、朝から広島に入っているとの連絡を受けました。
きっと広島方面の方々は、たいへんな一日を過ごしていたのだろうと思います。
夕方、閉館時間後にNHKさいたま局、テレビ埼玉の中継撮影が入り、《原爆の図》の前でオバマ大統領の広島入りをモニターで観ました。

オバマ大統領は壮大な理想を語っていたし、彼でなければ現職大統領が広島に来ることはなかったとは思います。
ただ、少々壮大すぎるようにも感じられました。頭のどこかでは、『ヒロシマ・モナムール』の有名な台詞、「君は何も見ていない」という言葉を思い出したりもしていました。
オバマ大統領のスピーチが終わった途端に、テレビや新聞の取材が立て続けにはじまったので、その後のことは見ていません。こちらが落ち着いたときには、もうオバマ大統領は広島から去っていたようです。

消化不良のまま臨んだインタビューではうまく話せず、いくつか取材を受けながら少しずつ頭の中が落ち着いていったのですが、どちらにしても、テレビに流れる段階では、なかなか肝心な部分は使われないこともわかっているので、同じだったかもしれません。

ともあれ、これで何かが終わるわけでもなく、終わらせてもいけないので、今まで通り、《原爆の図》という「過去に開かれた窓」に前に向き合い、思い悩み続けるより仕方ないのですが。
NHKの「首都圏ネットワーク」では、短い時間でしたが、中継放送されました。
以下のWEBサイトで、期間限定ですが動画を見ることができます。

http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20160527/5631061.html
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2016/5/11

NHK、テレビ埼玉の緊急取材  TV・ラジオ放送

昨夜遅くに突然取材の電話が鳴って、朝から丸木美術館は撮影でバタバタでした。
インタビューを受けるかどうかも含めて、かなり迷いがあったのですが、今朝の朝日新聞に載っていたK論説委員の社説に背中を押されました。
発言の機会があるなら、やっぱり発言しておこうと。

取材に来た地元記者も、「(厳しい意見も含めて)自由に話して下さい」と言ってくれたので、できるだけ率直にインタビューに応えました。
もちろん、話した言葉のすべてが放映されるわけではありませんが……。

正午のNHKのニュースでは、全国中継と首都圏と、2回ほど放映されたようです。
WEBの記事が(おそらくは期間限定で)出ているので、以下に紹介しておきます。

まずは全国中継版(動画つき)。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160511/k10010516201000.html

続いて首都圏版(動画つき)。
http://www3.nhk.or.jp/lnews/saitama/1106956301.html

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 アメリカのオバマ大統領が被爆地、広島を訪問することが決まったことについて、原爆投下後の広島や長崎の悲惨な様子を描いた絵画を展示している埼玉県東松山市の「原爆の図丸木美術館」では、「原爆で苦しんだ人たちが、その恐ろしさを訴え続けた成果だ」と話しています。

 東松山市の「原爆の図丸木美術館」は、画家の丸木位里、俊夫妻が、原爆投下後の広島や長崎の凄惨な姿を30年にわたって描き続けた連作の絵画、「原爆の図」を展示していることで知られ、この絵は、被爆70年の去年、アメリカの首都ワシントンで初めて展示されました。

 オバマ大統領が、今月27日、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地広島を訪問することを決めたことについて美術館の学芸員岡村幸宣さんは、「原爆で苦しんでいる人たちが、その恐ろしさを訴え続けた成果だと思います。今でも原爆で苦しむ人たちがいて、こうした現状にどのように向き合うのか、そして、核廃絶に向けた具体的な道筋をどこまで示せるかが問われていると思います。安倍総理大臣も同行するということですので、日米が本気で恒久平和に取り組んで欲しいです」と話していました。


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動画の内容とテキスト記事は微妙に異なっていますが、地元記者Tさんが受け止めて下さった思いは、テキスト記事の方により強く反映されているように思います。

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また、午後からはテレビ埼玉のインタビュー取材も受けました。
こちらは夕方と夜のニュースで放映されたようです。
おそらく期間限定で、動画がWEBで見られます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160511-00010000-teletamav-l11

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 アメリカのオバマ大統領が5月27日に被爆地・広島を訪問することになりました。アメリカの現職大統領が被爆地を訪れるのは初めてです。今回の訪問決定を受け、「原爆の図」で知られる画家故・丸木位里・俊夫妻ゆかりの埼玉県東松山市の原爆の図・丸木美術館でも歓迎の声が上がっています。

 原爆の惨禍を描いた15部の連作「原爆の図」。東松山市下唐子にある原爆の図・丸木美術館に展示されています。画家の故・丸木位里・俊夫妻が被爆地・広島で目のあたりにした地獄絵図ーその絶望と破壊の有り様を後世に伝えていこうと夫妻が心血を注いで完成させた作品です。長年、丸木美術館で学芸員を務める岡村幸宣さんは、オバマ大統領の広島訪問の決定について「今回は歴史的なこと。これは長い歳月の間、原爆の痛みや苦しみを世界に訴え続けてきた被爆者の方々の成果があらわれた出来事だと思います。」と話しました。

 今回の大統領訪問決定について去年6月には「原爆の図」のうち代表的な作品「火」や「幽霊」など6つの作品が海を渡り、アメリカの首都ワシントンやボストンなどで展示されましたアメリカでは、「戦争の終結を早めた」として原爆投下を肯定する考え方が依然、根強いともいわれています。今回、オバマ大統領が広島を訪問する際、核兵器廃絶に向けて短時間の演説や声明発表を行う方向で調整が進められているということです。


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2016/3/18

NHKさいたま局FMラジオ「日刊さいたま〜ず」出演のお知らせ  TV・ラジオ放送

かれこれ6年ほど、3ヵ月に1回くらいのペースでゲスト出演しているNHKさいたま局のFMラジオ放送「日刊さいたま〜ず」

3月23日(水)午後6時からの放送で、内藤裕子アナウンサーとご一緒させて頂きます。
実は内藤アナウンサーとは2013年10月にお話しする予定があったのですが、わざわざ事前取材に来館して下さったにもかかわらず、放送前日の台風で彼女が徹夜勤務になり、急きょ担当キャスターが変更になってしまったのです。
それ以来、2年半ぶりの機会なので、今回は内藤アナウンサーにも《原爆の図》の印象をお聞きしようと思っています。
もちろん、メインの話題は企画展の「POST3.11」とアートスペース企画の「山内若菜展」の紹介。昨日、打ち合わせも終えました。

埼玉県内のみのFM放送なのでリスナーは限られているのですが、定期的に美術館の近況を話すことができる番組を、もう6年も続けて下さっていることは、本当にありがたいです。
番組立ち上げのときのキャスターは、もちろん、すでに全員が代替わりしています。それでも引き継いで声をかけて下さるというのは、このご時世に、なかなかないことだと思います。

あらためて、歴代のNHKさいたま局の皆さんに、心から感謝。
今回もまた、お世話になります。
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2015/12/1

TBSニュース番組で「原爆の図ニューヨーク展」紹介  TV・ラジオ放送

ニューヨークのブルックリンにあるパイオニア・ワークスで開催中の「原爆の図展」。
オープニング直前にTBSの取材を受けたものの、パリ連続襲撃事件のため放送は流れたと思っていましたが、12月1日夕方のニュースで放送されたようです。

TBSの動画サイトで、その内容を見ることができます(おそらく期間限定)。
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2648628.html

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 画家の夫婦が30年以上にわたり被爆直後の様子を描き続けた絵画が、ニューヨークで展示されています。

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 「原爆の図」は、画家の故・丸木位里・俊夫妻が原爆投下直後の広島の様子を30年以上にわたって描き続けたものです。その作品の一部が今、ニューヨーク・ブルックリンで展示されています。

 「美しい絵ですが、主題は悲しく、直視するのがつらいです」(展示に訪れた人)

 会場では、画家夫妻と面識のあるカナダ在住の被爆者が、現地の高校生を前に核兵器の問題と向き合うよう訴えました。

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 「人々が核について学ぶことを怠り、無責任だったことをとても悲しく思います」(カナダ在住の被爆者・サーロー節子さん)

 「爆撃機の上からの視点で、アメリカの人はどうしても見てしまう」(「原爆の図」丸木美術館・岡村幸宣学芸員)

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 「アメリカが最初の原爆投下国となったことは、悲劇的な過ちだったと思います。自ら学ぶためここにきました」(展示に訪れた人)

 今回の展示はワシントン、ボストンでの公開に続くもので、今月20日までの予定です。


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1分13秒の短いニュースでしたが、放送されて良かったです。
取材して下さった現地スタッフの皆さんに感謝。
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2015/11/26

報道ステーション 吉永小百合さん×古舘伊知郎さん対談@丸木美術館  TV・ラジオ放送

11月26日(木)放送のテレビ朝日『報道ステーション』で、吉永小百合さんと古舘伊知郎さんの《原爆の図》の前で行われた対談の様子が放送されました。

吉永小百合さんのご希望ということで、丸木美術館で収録を行ったのは11月21日(土)。
その日は朝から、テレビ朝日の中継車やスタッフを乗せた小型バス、メイク用の大型車両などが駐車場にならび、大勢のスタッフが5台のカメラや多数の照明を設置するなど、大騒ぎの一日となりました。出演予定のない小川彩佳アナウンサーも、対談をご覧になるために、わざわざ丸木美術館まで来てくださいました。

1時間ほど行った収録が、番組では15分ほどにまとめられて放送されました。

   *   *   *

―報道ステーション・スタジオ

古舘 女優・吉永小百合さんにインタビューをしました。もちろん、映画公開のタイミングでもあったんですが、私は10年ぶりにお会いできるということで本当に嬉しくて、すると、吉永さん側から、できればここでお話しできませんかという場所の勧めがあったんですね。どういうところだったか。ちょっとご覧ください。

古舘 そこはすべて原爆投下で苦しんでいる人びとを描いた絵が掲げられているんです。こうしてインタビューの収録後、見続けている吉永さん。何かこのたたずまいに、落ち着いた使命感というものを、私、感じてしまいました。この日、吉永さんは、ちょっと遅刻しました。

―原爆の図第3部《水》の前で対談する吉永さんと古舘さん

古舘 どうしてそんなに謙虚でいらっしゃるんですか。だって今日もね、大渋滞で、三連休のとば口だから、大渋滞で、ちょっと遅れたっていうだけなのに、申し訳ございません、皆さんっていうふうに。ぼくは、ぼおっとしちゃいました。お迎えしたときに。

吉永 いやいや、本当に申し訳なくて、1時間も前に着くつもりだったんですけど、反省して、もっと早く出るべきだったと思って……

古舘 いや、そんなことないですよ。遅れるからいいんですよ。だって……

吉永 いやいやいや、本当に、忙しい古舘さんをはじめね、皆さんお待たせして、いや何とも、穴があったら入りたいっていう気持ち。すみません、本当に。

古舘 とんでもない。とんでもない。みんなも、そりゃぼくも忙しいですよ。

吉永 わかってます、本当に。

吉永 丸木先生のご夫妻がずっと長いことかけて、《原爆の図》っていうのを書いていらして。私は朗読をしているんですけれども(1986年から「原爆詩」の朗読を各地で開催)、でもやっぱり、この絵から受けた衝撃はもっともっと強いし、たくさんの方に見て頂きたいと思いますね。

古舘 はああ……、そうですねえ。

古舘 吉永さんはもちろん、戦争はダメだ。もちろん、原爆はダメだ。そして原発、これも同じ核だからダメだと、そういうこともはっきりと、そしてたんたんと訴え続けてらっしゃるというわけですけど、朗読のことも全部含めてですけど、ぼくは吉永さんの根源ですね。ずっと闘う人として訴えを続けていく活動の源って何でしょうか。

吉永 うーん。あの、年のことは言いたくないんですけどね。やっぱり、70年前に生まれたっていうことは大きいと思うんです。戦争が終わる年に生まれて、今はまだ戦後と言われているわけですよね。だからそういう時代がずっと続いてほしいと思うし、また、核の平和利用という言葉で原発があんなに作られたっていうことも、私はちょっと迂闊にもよく知らなかった。それが今度3.11の後に、こんな状況になっちゃったんだということで、すごく自分を恥じていますし、やっぱりもっともっと声を出して、非核っていうことを、あの、言っていかなければいけないと思っているんですね。

古舘 そうですねぇ。

吉永 古館さんがいつもね、番組でいろんな角度で取り上げて下さっているから、とても嬉しいです。

古舘 はあ、そうですか。

―8月9日長崎平和記念式典の映像・谷口稜曄さん(86)の挨拶

吉永 今年初めて、8月9日に長崎の平和記念式典にね、参列させて頂いたんですよ。でそのときに、谷口さんという被爆者の方がメッセージを語られて、その方は、1年半、背中に大やけどをしたためにうつぶせのままで病院にいらしたって方で、今も体調悪いんだけれども、出てこられてお話して下さって、とにかく胸を打つ演説をなさったんですけど、ああいう方が今も頑張っていらっしゃるし、原爆から原発っていう流れを、何かせっかく私たち日本に生まれたんだから、みんなで考えて、世界の人にこれは違うんだって、やめましょうって言いたいですね。

古舘 そうですねぇ。あの、核と人類っていうものは共生できないんじゃないでしょうか。

吉永 はい。そう思いますね。

古舘 『母と暮せば』を拝見しましてですね。凄惨な原爆が落ちたさまざまなシーンとかはほとんどなくて、母と息子の対話を中心に、たんたんといくあの映画の中に、原爆はダメ、戦争はダメ、というのがものすごくにじんでいますね。

吉永 それは山田監督の思いと熱情なんですよね。

―映画『母と暮せば』の映像より、母と息子の会話シーン

古舘 あの、息子さんとお母さんの会話が素晴らしくて。私はもう母は他界しておりますんでね、あの映画を見てちょっと母を思い出し、寂しい思いはしましたけど、あの……すごい変な言い方ですけど、一方が死んでから初めてああいう会話ができるのかなと。お互い生きている時だとね、憎まれ口言い合ったりしちゃいますけど、どっちがあの世に行ってると、こんないい会話ができるかなってちょっと涙ぐんじゃって。

吉永 そうですね。私も母が亡くなっていろんなことをもっと聞いておくべきだったっていうのを、今になって、今度の映画に出て思いましたし、もっと会話ができたんじゃないかって。あの頃の大変さとか、いろんなことをね。

古舘 本当に戦争体験で苦しい思いをされた世代は、あんまり下の世代に言わないというかですね、お母様も確か、どうしてあんなふうに戦争に突入していったんだっていう問いかけに対して、お母様は、あの当時は言えなかったんだっておっしゃった。

吉永 その一言でした。言えなかった。戦争反対、戦争になっちゃ嫌だっていうことを言えなかったって。だから、それはとても重い言葉ですけどね。でも、私たちはずっと戦後であって欲しいと思うし……言わなきゃいけないと思ってます。

古舘 今思ったんですけど、さっき源はなんでしょうっていう、戦争はダメだって訴える源はってお聞きしましたけど、もしかしたらその一か所に、お母様の世代が言えなかった、じゃあ、私の代ではっきりと言おうっていう思いもおありなんですか?

吉永 それもあると思いますし、私はずっと、何となく俳優になって、ずるずるとやってきましたので、「はい」と「いいえ」があまり言えなかったんですよね。それで、30過ぎてから、映画で、高倉健さんとご一緒した『動乱』(1980年)という映画に出て、1年間素晴らしい映画作りに参加して、私もう一回この世界でやってみようと思って、そのためには、きちんと自分でこれはやります、これはできませんということが言えるようにならないと、独立できないなと、精神的に。それから少しずつそういうことも言えるようになったし、また、いろんな社会の事なんかにも、目を向けられるように、少しずつなったというふうに思っているんですね。

古舘 ああ、そうですか。私たちはもう10代の段階で、『キューポラのある町』(1962年)ずっとはじめから今にいたるまで、吉永小百合さんは何も変わっていないように固定して見ちゃうところがあると思うんですけれども、いろんな変化がくりかえされているんですね。

吉永 そうなんですね、あの、家がとても貧しかったために、ラジオドラマ(1957年「赤胴鈴之助」)に子役でデビューして、一所懸命、家計の少し助けになるかしらと思ってやっていたんですね、中学ぐらいはね。で、高校になって勉強しっかりやろうと思っていたんですけど、映画会社に入ることになって、だから、自分で決断してこの道を選んだわけではなかったんですね。それが、だんだん年を重ねていくうちに、映画の仕事の楽しさとか、映画の持つ意味みたいなものを感じるようになって。いい映画は100年残ると思うんですよ。『キューポラ』はもう50年残ったので、100年残るような映画を作りたいなと思うんですね。子どもがいませんので、映画がやっぱり子どもみたいな思いでやってるんですけれども。

古舘 1962年の大晦日、紅白歌合戦、『寒い朝』。それを歌われているときの紅白歌合戦の視聴率が80.4%。だからまあ、ほとんど100%、日本じゅうが『寒い朝』を見ていたわけです、聞いていたわけですね。あれは今思うと、あんな時代は二度と来ないですね。

吉永 そうですね。あのとき緊張して、ヤカンのお水一杯ぐらい飲みました。出演の前に。

古舘 えっ。あ、そうですか。

吉永 はい。それぐらい緊張していましたね。

古舘 やっぱり、そうですよねぇ。

吉永 あの、マヒナ・スターズの方たちがね、いらしたから、できたんだけども、もうガタガタ震えていました。

古舘 たしか『寒い朝』は、北風吹き抜く寒い朝も、心ひとつで暖かくなる……いい言葉ですよね。

吉永 そうですよね。

―吉永小百合さん、『寒い朝』の歌声

古舘 心持ちひとつで、不幸だなんて思ってないで、心持ちひとつで幸せになれる、足るを知るんだよって、なんか、そのときはわかんなかったけれども、今60越えてぼくも思うのは、心持ち次第で人間って変われるじゃないですか。凄いことをあの時分から訴えてらっしゃいましたね、歌で。

吉永 いえいえ、私じゃないんですけど(笑)。佐伯孝夫さんの作詞ですけれども、あの頃の歌って本当にしみじみと心に響く歌詞がありますね。

古舘 こういう《原爆の図》を背景にしたときに、人びとが折り重なっているこういう図を見せてもらったときには余計に、絶対伝え続けなきゃいけないっていうことを感じますね。

吉永 本当にそうですね。私たちね、日本で生まれて日本で育ってるんだから、一番世界に向かってね、言わなけきゃいけないですよね。

古舘 日本が平和を続けてきたことも、素晴らしいって言ってくれているところがあるんだから、余計にそれを積極的に平和をアピールするっていうのが、積極的平和主義じゃないかと。

吉永 そうですね。私もそう思いますよ。武器を持たないことが積極的平和主義だというふうに思います。

古舘 元々そうなんですよね。

吉永 そう言うと甘いと言われたりすることもあるんですけど、よそから攻めてきたときにね。でもこれは、本当にたいへんな素晴らしい世界の財産だと思いますしね。

古舘 そうですね。

古舘 10年くらい前にちらっとお聞きしたことを思い出したんですけど、1日1キロとにかく泳いでらっしゃるというのは、今も……

吉永 いえいえ。今はとんでもなく。

古舘 やってない。

吉永 いや、やってはいるんですけど。そう、1週間に3キロですかね。

古舘 また几帳面に。1週間に3キロってのは、どういうふうに割り出された……

吉永 だいたい、週3回泳ぎたいんですよ。それで、1回に、まあ1キロ。前は1日に2キロくらい泳ぐときもあったんです。

古舘 1日に2キロまで行ってましたか。

吉永 はい、はい。

古舘 それをちょっとセーブされて、1週間に3キロ。

吉永 そう、今はだいたいそんな感じです。

古舘 で、1回につき1キロ。

吉永 はい。だから、だいたい、そうですね、150キロくらいですね、年間で。前は最高に泳いだときは400キロくらい泳ぎましたけど。

古舘 はあ、そうですか。平泳ぎ中心ですか。

吉永 いえいえ。全種目、4種目。

古舘 えっ! クロール、平泳ぎ……

吉永 バタフライ、背泳ぎ。

古舘 一人メドレーリレーですか?

吉永 そうです、そうです。

古舘 ちょっと待って下さい、バタフライおやりになるんですか。

吉永 やります、やります。バタフライが一番好きなんですけど、下手は下手なんですけど。

古舘 いや、下手であろうが、あれは背筋から何から、異常に使うじゃないですか。

吉永 うーん、やっぱり、それじゃなく、リズムで泳ぐ方がうまく前に進めるんですけど、私の場合はちょっと力づくでいくタイプですね。

古舘 力づくでいくんですか。

吉永 はい、はい。

古舘 一人世界水泳ですよね……

吉永 (笑)

古舘 はあ、やっぱりね。水を得たって感じになりますよね。

吉永 ええ、そうですね。あの、うお座なんで。たぶん、水の中にいるのが一番楽しいって感じですね、今はね。

吉永 足のサイズがどんどん大きくなるんですよ。

古舘 えっ。

吉永 だからもしかしたらね、足の方が発達しているのかもしれないですね。

古舘 あ、そうですか。ふつう、お年を召すとともに、足ちいちゃくなりますよね。

吉永 22.5だったんですけど、今はスニーカーなんか24なんですよ。

古舘 あ、そうですか。

吉永 だから、足が大きくなってるみたいですね。

古舘 やっぱり、バタ足はじめ、平泳ぎにしても、足ものすごく使うから、それで筋肉がついてるってことですね。

吉永 そうだと思うんですね。

古舘 うわー、じゃ、これから……

吉永 足ヒレ。笑

古舘 足ヒレができるって、天然の。どんどん大きくなるかもしれませんね。

吉永 そうですね。笑

古舘 や、でも、吉永小百合さんがなんで変わらないんだ……

吉永 100歳になったら、マスターズに出て泳ごうかしら。笑

古舘 ほんとですよ。

吉永 そういう方ね、いらっしゃいますもんね。

古舘 います、います。吉永小百合さんは、年とともに成長されるんですね。

吉永 やあ……退化してるんですけど、でも、アスリートだと思ってるんですよね、自分のことをね。だから、俳優というよりはアスリートとして、これからも、生きていきたいなと思っています。

古舘 うわあ、ほんのちょっとだけ……

吉永 ちょっとわかりましたか。笑

古舘 その活動の源が、わかったような気になりました。

吉永 はい。

古舘 いやあ、これからも、ずっと、そういうことを思い出しながら、私、くじけそうになった時に、吉永小百合さんがんばってるのに……

吉永 はい。あの、いつもテレビの前に座って、応援してますから、古館さんのこと。

古舘 ありがとうございます。

吉永 がんばってください。

古舘 いや、もう、がんばらせていただきます。どうか、あの、吉永小百合さんもアスリートとして、ずっと鍛え続けて下さいませ。

吉永 ありがとうございます。

古舘 ありがとうございました。

   *   *   *

スタジオで、古舘さんが「意志が強い方というのは、とても表面は優しくてね。優しいということと強いということは、全然矛盾しないわけです」とまとめていたことが印象的でした。

対談収録後、着替えを終えた吉永さんのご希望で、館内を案内させて頂きました。
ひとつひとつの展示室をじっくりご覧になりながら、こちらの説明にお応え下さる吉永さんは、イメージ通り、とても美しく聡明な方でした。

そして古舘さんも、私たちの挨拶に丁寧に対応して下さる方でした。「いろいろプレッシャーはあるんです」とおっしゃっていましたが、これからも頑張って、素晴らしい番組を作って頂きたいと思います。

丸木美術館での対談を希望して下さった吉永さんはじめ、スタッフの皆様に心から御礼を申し上げます。本当に、どうもありがとうございました。
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2015/9/24

広島テレビ放映ドキュメンタリ「原爆の図とアメリカ」  TV・ラジオ放送

2015年8月30日深夜放映の広島テレビのドキュメンタリ番組“WATCH 真相に迫る”は、「原爆の図とアメリカ〜絵は何を伝えたか〜」という内容でした。
広島地域限定の番組でしたが、半年がかりで《原爆の図》を追い続けていた渡辺由恵ディレクターの渾身のドキュメント。
国内のみならず、米国でも、渡辺さんには本当にお世話になりました。心から感謝です。
ようやくDVDが手もとに届いたので、資料として30分間の放映の内容を以下に書き出します。

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―オープニング映像・広島市街
ナレーション 2015年8月、117万人が暮らす広島です。70年前の8月、35万人の暮らしがありました。

―原爆の図第1部《幽霊》(部分)
ナレーション 何が起きたのか、本当のことは誰にも分かりませんでした。

―川面に重なる第3部《水》(部分)
ナレーション 水の都の豊かさ。水を求めて川に逃れ、ついに力尽きました。

ヨシダ・ヨシエ(美術評論家) ほかの土地に行くと、「こんな大げさな」、「こんなバカなこと」、「この絵はウソだ」……ところが広島に行くと逆なんです。「こんなもんじゃない」と。

―原爆の図第7部《竹やぶ》(部分)
ナレーション 絵の名前は、《原爆の図》。15の連作が作られました。

―原爆の図第5部《少年少女》
ナレーション 70年前、広島で見たもの、触れたもの、聞いたこと。

―丸木夫妻の写真
ナレーション 描き残さなければならない。絵筆をとったのは、夫婦です。

―丸木夫妻の制作風景写真
ナレーション 夫婦が決めたのは、人間を描くこと。
岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員) 体験をそのまま描く絵とは、ちょっと違う。今ここにいる私たちと絵がつながることが、《原爆の図》の凄く大きな力だと思うんです。

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―ワシントンD.C.アメリカン大学展の会場風景
ナレーション 絵は今年、アメリカへ渡りました。そこは、原爆を落とした国。

―会場で《原爆の図》を見る人びとの表情
女性の観客 痛みや恐怖や苦しみを作品から感じます。とにかく見るべき作品です。
アフリカ系の男性観客 作品の中の苦しむ日本人の姿を見て、人種差別で苦しむアフリカ系アメリカ人を思い起こしました。

―紙芝居の文章を推敲するアーサー・ビナードさん
ナレーション 絵に魅せられたアメリカ人がいます。《原爆の図》で紙芝居を作ります。

―広島市内の教会で《原爆の図》の紙芝居について説明するアーサー・ビナードさん
ビナード 《原爆の図》の前に立って観賞しようとすると、引きずり込まれる。鑑賞するんじゃなくて、巻き込まれる絵なんだ。

ナレーション 《原爆の図》は何を伝えてきたのか。《原爆の図》は何を伝えていくのか。

―アメリカン大学「原爆の図展」会場風景。
題字「原爆の図とアメリカ〜絵は何を伝えたか〜」

ナレーション アメリカと日本、二つの国で、もう一度《原爆の図》を見つめます。

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―原爆の図丸木美術館の遠景、続いて室内の風景
テロップ「報告 渡辺由恵」

ナレーション 埼玉県東松山市の丸木美術館。冬場は訪れる人も少なく、館内はひっそりとしています。

―事務室内にて
岡村 8月の6日から15日にかけては100人以上は来ますね。多いときだと200人を超えて。まあ、冬は2人とか3人だったりするので、そうですね、すごい違いますよね。

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―晩年の丸木夫妻の写真
ナレーション 美術館を建てたのは、夫婦です。水墨画家・丸木位里と、妻で油彩画家の丸木俊。

―丸木美術館開館当時の二人の写真
ナレーション 原爆の図を描いた夫婦が、作品を展示するため、私財を投じました。

―原爆投下直後、焼け跡の広島の風景
ナレーション 70年前、一発の原子爆弾が、二人の運命を変えました。広島出身の位里は、「新型爆弾投下」の一報に、東京から救助に駆けつけました。妻の俊も後を追い、およそ一ヵ月、広島の惨状を目の当たりにしたのです。

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―原爆の図第1部《幽霊》1950年
ナレーション 被爆の後遺症に苦しみながら完成させた《原爆の図》。第1部は《幽霊》と名づけました。服は焼け、体はただれ、その裸体が折り重なります。呆然と見つめあうのは、姉妹。もだえ苦しむ人々の姿が、8枚一組の絵を埋め尽くします。
岡村 見る人とほぼ等身大の人間が、繰り返し描かれるということは、観る人が画面の中に入り込んでいく、自分も1945年8月の広島に、今、いるんだという錯覚を起こすような、そういう画面を意識して作っていたと思うんですね。

―事務室で、1950年代巡回展の資料ファイルを取り出す岡村
ナレーション 《原爆の図》が、人びとの目に留まるきっかけは巡回展でした。その記録が、7年前に見つかりました。

―ガリ版刷り「原爆の図三部作展覧会記録」
ナレーション 初公開は、1950年の東京です。第1部《幽霊》は、「八月六日」と名前を変えていました。

―占領軍の映像
ナレーション 占領軍の統制化、《原爆の図》は厳しい検閲の対象でした。

―文化ニュース『芸術は愉し』(協力:東京国立近代美術館フィルムセンター)
ナレーション 二人の活動を伝える当時のニュース映画にも、「原爆」という言葉は出てきません。あの日、広島で見た人間を描く。二人は筆を止めませんでした。

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―原爆の図第2部《火》1950年
ナレーション こうして描き上げたのが、原爆の図三部作です。第2部《火》。人々を紅蓮の炎が包みます。広島を焼き尽くした炎。これが丸木位里と俊の広島です。

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―原爆の図第3部《水》1950年
ナレーション 第3部は、《水》。炎に焼かれ、炎を逃れて、人びとは水を求めました。こと切れた我が子を抱く母親。

―映画『原爆の図』(監督 今井正・青山通春)
ナレーション 二人が描く惨状は、人間の痛みそのものでした。作品は当時、検閲から逃れようと、巻物にして運びました。記録映画に残るひとコマです。会場で絵を広げ、展示しました。大きな作品が、人びとに迫ります。

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―車椅子で丸木美術館を訪れるヨシダ・ヨシエさん
ナレーション 美術評論家のヨシダ・ヨシエさん。反応は様々だったと言います。

ヨシダ 一般の人は、「これは大げさだ」。広島・長崎の人は、「こんなもんじゃない」。そのギャップが大きかった。泣き出した人もいました。《原爆の図》で初めて日本人が原爆の被害を知ったんじゃないですか。

―1951年京都綜合原爆展の資料
ナレーション 占領下ではじまった新しい動き。主役は、京都大学の学生たちです。原爆とは何か、手書きパネルと《原爆の図》で、綜合原爆展を開きました。それは、世界で初めて明らかにされた被爆の実相でした。

―京都市北区にて川合良一さん(85歳)、小畑哲雄さん(88歳)
ナレーション デパートで開いた原爆展は、10日間で3万人を集めました。川合さんと小畑さんは当時、京大生として原爆展に関わりました。
小畑 夏休みに入ると子どもたちがダーッと来てくれたんです。やっぱりね、先生たちが協力をしてくれたんですね。
小畑 これは何とかしないといかんという思いに動かされた。

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―当時の会場写真
渡辺 会場、人でいっぱいですね。
小畑 そうですね。確か、冷房なかったな。
川合 あったけど効かなかったよ。
小畑 物凄い暑かった。
川合 全然効かなかった。

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―東京都内など各地で行われた原爆展の写真
ナレーション 運動は、各地の大学に受け継がれました。

―井の頭公園・平山博物館での展覧会写真(撮影・西岡洋氏)
ナレーション 3年で全国125か所。GHQによる統制の中、被爆の実態は市民の力で伝わっていきました。

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―映画『原爆の図』(1953年)より、丸木夫妻の共同制作の映像
ナレーション 丸木夫妻も次々と連作を発表していきます。

―原爆の図第6部《原子野》1952年

―原爆の図第8部《救出》1954年

―広島市中心部を歩くアーサー・ビナードさん
ナレーション
 原爆の図にもっと触れてほしいと模索する人がいます。アメリカ人の詩人アーサー・ビナードさんです。

―桑の実を食べる幼児たちと引率の女性のもとに歩み寄るアーサー・ビナードさん
ビナード 美味しいね、桑の実。
引率の女性 桑の実!
ビナード ぼくのアメリカのミシガン州のおばあちゃんの家にこの気があって、いつもこの時期になるとぼくも顔が紫で。
引率の女性 アメリカにもあるんだって。
ビナード そうそう。mulberryと言って。
ナレーション 1990年に来日したビナードさんは、4年前広島に移り住みました。

―絵本『さがしています』アーサー・ビナード作 2011年
ナレーション そして、発表した作品が『さがしています』。時計や靴、被爆遺品が語り部となって、広島の失われた暮らしを描きます。
ビナード どうやって、次に自分たちが原爆を使われない世界を作るか、そこに大きな意味があるんです。どう伝えたらみんなに響くか、ということを考える。

―東京都文京区・童心社、階段を上るアーサー・ビナードさん、編集部の一室で推敲を重ねる
ナレーション 来日して出会った《原爆の図》の迫力に圧倒され、紙芝居を作ることにしました。絵の一部を使って、物語を作ります。
ビナード 《原爆の図》は原爆を描いているんじゃなくて人間を描いている。でもそこに、ピカとは何かという本質も、見事に表現されている。ぼくが表現者としてやらなければいけない仕事も、成し遂げたいことも一緒だなっていう。

―紙芝居を舞台にセットする永牟田律子さん(童心社編集部)
ナレーション
 《原爆の図》に受けた衝撃。しかし、紙芝居にするには、次々と壁が立ちふさがります。
永牟田 紙芝居の絵って、瞬時に何を言おうとしているかが、文字とかが書いてなくて、絵でパッと思って、そこで言葉と重なって、より広がるってことなんだと思うんですけど、元々ある絵はそのためにやってないから、いろんな情報が入っているんですよね。
ビナード 文章も分かりにくいよね。初めてその話を聞く子どもにとってはね。

―ひとり、紙芝居に向き合うアーサー・ビナードさん
ビナード
 登れば登るほど頂上が遠ざかっていく。

―岡山県玉野市
ナレーション この日は、初めて親子の前で演じます。
ビナード やわらかい肌。絵、丸木俊、丸木位里。脚本、アーサー・ビナード……
ナレーション 絵と物語がつながるか、反応を見る絶好のチャンスです。

―紙芝居を見せるアーサー・ビナードさん
ビナード ピカーっと、一瞬の熱が、私たちに刺さってきた。肌がふくれる。肌がめくれる。肌がはがれる……
ナレーション やわらかな細胞が、原爆によって壊されていく物語。戦争がもたらすものを問いかけます。
ビナード 戦争って何って、大人もよくわかってないんだよね。でもみんなでそのことについて考えて……

―会場拍手
参加した男性 考えきれていないのかなっていうのがあったんで。ちゃんと考えなきゃなって。
参加した女性 ちょっと難しかったかなという。(娘が)なかなか見てくれなかったから、残念。
ナレーション 紙芝居を手がけて三年目の夏。兵器としての核。平和利用としての原子力エネルギー。そして、広島の願い。問いかけたい思いです。

(CM)

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―アメリカ・ワシントンD.C.、アメリカン大学美術館外観
ナレーション アメリカの首都ワシントン。原爆の図は、郊外にあるアメリカン大学美術館にありました。

―会場にて展示作業、照明の設定
ナレーション 原爆の図と、原爆資料館の資料や写真を展示する「ヒロシマナガサキ原爆展」の開催が実現したのです。
岡村 この《原爆の図》っていうもの自体が、原爆を賛美する、正当化するアメリカへのカウンターだと思うんですよ。人間の同じ立場として原爆について想像力を深めていくということができると思いますし、逆に広島長崎の原爆展の方は、想像力の先の原爆の知識を補完していくという。

―会場を訪れたピーター・カズニックさん(アメリカン大学歴史学教授)、握手をして挨拶
カズニック (原爆の図は)人間の真実を描いていると思いました。広島と長崎では、人びとが地獄の中を歩いたという感覚を呼び起こします。裸の人びとがゆっくりと地獄の中を歩く、まさしく地獄でした。

―《原爆の図》展示会場内を歩く山本定男さん(84歳)
ナレーション 展示会には、広島の被爆者も招かれました。14歳だったあの日、爆心地から2.5kmで被爆した山本定男さん。初めて見る《原爆の図》です。
山本 まさに、原爆による惨状をそのまま描いとるわけね。強いメッセージだと思うよ。……よく描いたねえ、これ。

―ワシントンD.C.中心部の雑踏
ナレーション 原爆の投下から70年。アメリカを今も支配する考えがあります。核による抑止力です。
街の人の声 (核兵器は)世界平和に貢献している。悪いことではないと思う。
質問 核兵器は基本的に反対ですか?
街の男性 もちろんです。でも止めることはできないと思う。ある国が持てば、別の国も持ちたがるでしょう。

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―1970〜71年原爆の図展の写真
ナレーション 《原爆の図》が初めてアメリカで展示されたのは1970年です。原爆を落とした国で開く展示に、反応は冷ややかでした。

―ニューヨークタイムズ紙1970年10月22日展評
ナレーション ニューヨークタイムズは、「これは程度の悪い美術品よりも、もっと悪い」と酷評します。

―ワシントンD.C.郊外のスミソニアン国立航空宇宙博物館別館
ナレーション アメリカの世論。20年前には、エノラ・ゲイの展示に合わせた原爆展が、退役軍人などの猛烈な反対で中止に追い込まれました。

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―銀色に輝くB-29エノラ・ゲイ
ナレーション エノラ・ゲイは、論争の舞台となった国の博物館に、今も展示されています。

―エノラ・ゲイに近づいて写真を撮る山本さん
ナレーション 山本さんは、自分の目で確かめたいと思ってきました。
山本 私はこれを9600mの下から見てたんです。
坂本美穂子(広島平和記念資料館) 見えたんです?
山本 見た見た見た。

―エノラ・ゲイについての説明案内板
ナレーション 原爆を投下した事実が説明版に記されていました。ここには、キノコ雲の下にいた人びとの姿はありません。
山本 これがどういう結果をもたらしたか、アメリカにももっと知ってもらいたいという気がしますね。ここに展示してある以上はね。

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―6月13日アメリカン大学美術館「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」
ナレーション
 迎えた原爆展の初日。来館者は1000人を数えました。原爆の図に描かれた、人間の姿に見入ります。原爆の実相を間近に見ます。
初老の男性 アメリカでこのような作品が見られることを誇りに思います。アメリカ人にとってはつらい絵でもありますが人間性を感じます。
中年の女性 今また世界中が戦争の脅威にさらされているだけに、作品はとても重要なメッセージになるわね。

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―原爆の図 第13部《米兵捕虜の死》1971年
ナレーション 原爆の図第13部《米兵捕虜の死》。捕虜として広島城近くに収容されていた12人のアメリカ人捕虜が被爆死しました。それは、アメリカ政府が38年間認めなかった事実。

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―絵の前に立ち、説明文を読む男性の老人
ナレーション 会場で説明書きを食い入るように見つめる老人がいました。
老人 これは私だったかもしれん。
ナレーション 老人は、94歳の退役軍人。1945年には、日本攻撃の拠点テニアン島にいました。原爆に命を奪われた仲間。自分だったかもしれないという思い。

―絵の前に座り込み、頭を抱える老人
ナレーション 70年前の出来事が心を揺さぶりました。

―原爆展2日目、再び会場を訪れる老人
ナレーション オープニングの翌日、人もまばらになった会場に、あの老人が姿を見せました。

―ピーター・カズニックさんと語り合う老人
カズニック
 また見に来て下さって嬉しいです。
老人 記録をするためにカメラを持って来たんだ。これを忘れないためにね。
ナレーション 70年を経て、写真に収める同僚の死。
質問 あなかにとって戦争とは何でしたか?
老人 戦争が何だったかって? そりゃあ悲惨な出来事さ。必要ないものさ。

(CM)

―広島市中区の教会、再び紙芝居を演じるアーサー・ビナードさん
ナレーション 8月、ビナードさんの紙芝居作りは、丸3年を迎えました。
ビナード やわらかいはだ……ニンゲンっていうのは、ずいぶん、やわらかいいきものですね。
ナレーション 物語の主人公は、小さな女の子から猫に変わりました。絵も、背景や色を変えました。どうすれば原爆の図は伝わるのか、試行錯誤を重ねました。
ビナード ……1945年8月6日の朝も、市場をぐるりとまわってから、私は庭の涼しい木陰で休んでいました。ピカァァァッという光。ピカァァァァァッという熱。ピカァァァァァァァッという放射線。みんなの体の中にまで入り込んで、その瞬間から、ちっちゃいサイボウを壊しはじめたのです。

ナレーション 《原爆の図》は、決して、あの日だけの記録ではない。あの日から今に続く絵。小さな紙芝居が語りかけていました。
ビナード 紙芝居として、本当にみんなに響く作品になったら、今度は紙芝居の奥にある大きな本物にみんながつながっていけるかなという気がします。だから、《原爆の図》が続くために、僕はどんなことでもしようと思っています。

―夕暮れのアメリカン大学展覧会場、涙を流して絵を見る女性
ナレーション 《原爆の図》、それは伝言のように、人から人へと伝えられ、人から人へと広がりました。それは、伝えなければならない人間の姿。

―広島市現代美術館にて、《原爆―ひろしまの図》(1973年)修復の光景
ナレーション 広島でも、後世に伝える取り組みがはじまりました。原爆の図の集大成と言われる《ひろしまの図》の修復です。

―再び、《原爆の図》展示風景
ナレーション 広島を見てしまった者は、それを描き残す以外になかった。そう語った丸木夫妻。《原爆の図》が呼びかけてきたもの。《原爆の図》が、これからも呼びかけ続けるもの。それが、原爆に焼かれた人間です。

《了》
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2015/8/19

BS朝日『黒柳徹子のコドモノクニ』丸木俊放送  TV・ラジオ放送

BS朝日の番組『黒柳徹子のコドモノクニ』で、丸木俊が特集されました。
この番組は、大正デモクラシーの時代に誕生した画期的な絵雑誌『コドモノクニ』にかかわった数多くの芸術家をとりあげながら、その世界を振り返り、「21世紀の子どもたちのために新たな『コドモノクニ』を創る」というコンセプトだそうです。
ナビゲーターは詩人のアーサー・ビナードさんでした。

この夏、何度も丸木美術館に通い、広島や北海道にもロケに訪れたBS朝日のスタッフの皆さん、お疲れさまでした。1時間のなかに、濃密な内容を凝縮した番組になりました。
以下、メモ程度に、番組の内容を紹介します。

   *   *   *

―冒頭、広島の原爆ドーム。
ナレーション あれから、70年目の夏がめぐってきました。広島の街に原爆が落とされたあの夏から……。

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―今夏アメリカン大学で開催されている「原爆の図展」の会場風景。続いて、昨年夏に行ったピーター・カズニックさんの記者会見。

ピーター 《原爆の図》は美しさと恐ろしさをあわせ持った作品として、ピカソの《ゲルニカ》と並ぶものです。しかし、《ゲルニカ》がファシストの大量虐殺を描いているのに対し、《原爆の図》はもっと大きな規模と広がりを持っています。《原爆の図》が描いているのはアメリカ政府が行った大量虐殺だからです。あれから70年たった今でも、核の危険を考える上で《原爆の図》は大きな力となるはずです。

―丸木俊と《原爆の図》についての紹介。原爆投下の目標地点になったT字型の相生橋の上で語るアーサー・ビナードさん。

アーサー 僕らがピカとかピカドンっていう昔からあるような言葉として聞くんですけど、ここで8月6日に造語された言葉。エノラゲイから広島上空を写した写真はピカじゃない。キノコ雲や原爆。でも、ここは原爆じゃない。

―原爆投下後に広島に駆けつけた丸木夫妻。4年半後の1950年2月に最初の《原爆の図》を描き、絵本『ピカドン』も刊行する。

アーサー 幽霊っていう最初の作品を描いたときは、日本では発表できない題材だった。プレスコードが敷かれていて、そういう絵は許されない状況だった。それは日本だけじゃなくて、世界で一番経済力と軍事力を持った組織が、そういうふうに決めていた。つまり、米政府がそういう表現は困ると決めつけて、表現の自由を踏みにじるものに対して、2人の芸術家が挑戦した。世界で一番大きな組織に挑んでいる作品ですね。

―スタジオにて、黒柳徹子さんの挨拶。絵本『ひろしまのピカ』やアメリカ展の紹介。

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―若き日の俊さんの個展の様子や、『コドモノクニ』の挿絵、絵本『ヤシノミノタビ』の紹介。アーサーさん、丸木夫妻の元アトリエ兼書斎・小高文庫にて『ヤシノミノタビ』を手に取る。

アーサー 北斎も入ってるし……かわいくて、豪快ですよね。

―俊の生まれ故郷・北海道雨竜郡秩父別町。俊の甥の善性寺住職・赤松良海さん。

赤松 とにかく、絵が上手だったと父は言っていた。学校の旅行から帰って来て、その旅行の様子をパパパと描いて、みんなびっくりしたという……。

―丸木美術館にて、岡村解説。

岡村 女学校最後の年に赴任してきた若いハンサムな先生(戸坂太郎先生)が、自由に子どもたちに絵を描くことを勧めてくれる人で、それが俊さんの生涯を決定づける、女子美術に行きたいという気持ちが生まれてくるきっかけだったと思います。

―女子美術専門学校時代に上野で似顔絵かきのアルバイト。善性寺美術室に展示されている父親《二世淳良法師の肖像》(1930年)の紹介。卒業後、モスクワに赴任する通訳官の子どもの家庭教師として1年間モスクワへ行く俊。

岡村 モスクワ滞在は、初めての異国に触れる体験であると同時に、本物の油絵を実際に見ることができる貴重な機会だった。一番影響を受けたのはゴーギャン。自分もゴーギャンのようになりたいという、それが後に南洋群島・パラオに行くきっかけになるんです。

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―「南洋群島」パラオへの一人旅。

岡村 南洋に行ったことで俊さんは大きく変わった。色使いが強く鮮やかになり、裸体表現に目覚めていく。人間本来の生まれたままの姿がなんて美しく素晴らしいんだということに気づき、それが戦後の《原爆の図》に地下水脈のようにつながっていくんですね。

アーサー 俊さんの絵は、そこに生きものが生息しているような感じ。言葉が通じなかったり、距離があっても、どういう生物なのかをつかむ。絵の力で、人がもっている生物としてのたたずまいを捉まえる。そういう意味では、俊さんの絵は、最初から子どもにも通じる絵。

―帰国した俊は、位里と運命の出会いを体験する。位里のふるさとは広島・飯室。太田川沿いの生家跡を案内するのは位里の甥・小田芳生さん。旧丸木家の隣に住む天廣敏江さんが、位里が描いた鶴の掛軸を見せてくれる。

天廣 位里さんが描かれたものを、いくらか絵具を買ったりするのにお母さんがよくご存じの人に買ってもらったりしたんじゃろ思うんですよ。

―浄国寺に残る屏風画には「大正15年初春」。養専寺には穂高を描いた襖絵も残る。養専寺住職の森重一成さんが絵の前で語る。

森重 何を描いているのか全然わからんのですよ。というのは、描いたんじゃないんです。残ったところが山になっとるんです。

―前衛的な水墨画で注目されるようになった位里。銀座の個展で、俊は位里に出会う。

 銀座に個展がいくつかありますね。いつもね。それを見に行っていたら、丸木とお友だちの二人の展覧会がありまして、日本画の展覧会でした。丸木は白黒なんです。ものすごくよかった。素晴らしい絵ですって言って、署名するときに、私が感想を描いたんです。(1981年12月8日放送「徹子の部屋」出演時の回想)

―位里はシュルレアリスムの影響を受けた画家として活躍していた。

岡村 位里さんの言葉で面白いと思うのは、「絵は描くものではない。墨を流せばそれでいい」という言葉。上手く見せようと技を尽くして描く絵よりも、何もかも開けっぴろげにして、自然のままに広がっていく墨の形がそのまま絵なんだ、と。ある意味、俊さんの非常に優れた技術とは、正反対なんです。

―前衛的な水墨画家と人間を描く画家。異なる才能の2人は惹かれあい、結婚。1945年8月、広島に原爆が落とされたという知らせを聞いて、二人は広島に駆けつける。竹やぶに逃れて、泣き叫び、死んでいく人びと。1か月間滞在中、俊はわずか2枚のスケッチしか残していない。

 どんどん死にはじめたんです。後から救援に入った人が、8月の終わり頃に血を吐いたり毛が抜けたりして、どんどん死んだ。私もその頃、ずっと血が出てたんです。でも、血が出てますなんて言えない。みんなの方がもっとひどいから。がまんして手伝ったりしていたんですけど、それが東京へ帰ってからもずっと続きました。(「徹子の部屋」出演時の回想)

―二人は3年後の夏、《原爆の図》を描くと決めた。

位里 2年も3年も原爆の絵を描くなんて考えたこともなかった。それがいつのまにやら……原爆を誰も知らないでしょ。言葉も言っちゃいけなかった。写真も全然出てこない。(「徹子の部屋」出演時の回想)

二人は被爆者の話を聞き、デッサンをはじめた。
当時、俊に弟子入りしていた絵本画家のいわさきちひろもモデルをつとめた。

アーサー 俊さんは20世紀の日本の美術において、もっとも生きものを鮮やかに描いた人。俊さんのデッサンを見ると、解剖学的な描き方じゃなく、人体を見事に生きたまま描いている。

―俊とは異なる才能を持つ位里が作品をまとめていく。

アーサー 位里さんは質感や表面、手触り、細やかなところの才能が凄くて、墨の質感と自分が描こうとしている対象物の質感を巧みにつなげて一つの絵をつくる。位里さんは人間でありながらもイカなんじゃないかと思う。墨を吐いてつくるんですよね。モンゴウイカじゃなくて、スルメイカじゃなくて、位里イカという不思議な生きものがいて、墨を吐くことで、何かを生み出しちゃうんですね。

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―1950年2月、原爆の図第1部《幽霊》完成。

(丸木美術館の原爆の図第1部《幽霊》の前にて。
アーサー この作品、何度見ても必ず新しい1人に出会うという。
岡村 アーサーさん、見つけるのが得意ですよね。
アーサー この作品に最初に出会うときは、みんな手を前に出して火傷で……
岡村 皮膚がずるずる剥けてしまった……
アーサー この人の顔とか。
岡村 おなかに、これから命を生み出そうという人の姿に目が行きますよね。そして、眠るような赤ちゃんとか。
アーサー この赤ん坊は、すやすや眠っているような感じにも見えるんですね。
岡村 本当ですね。気持ちよさそうに眠っている。
アーサー そういうふうにも捉えることはできる。
岡村 傷だらけでボロボロの体も描けたと思いますね。これだけの技をもった絵描きさんですから。そこは考えたんだと思いますし、これだけきれいな体を描いて、傷つけるのも画家の筆なので、2人は傷つける必要はないんじゃないかと思ったんだろうと、死んでいく人たちもせめて美しく描いてあげたい。でも本当のことは伝えなきゃいけないし、そのギリギリのせめぎあいが、絵の中にあったんじゃないかと思いますね。
岡村 大人でも子どもでも見られる。そこから先、本当にどんなことがあったのか想像するためのすごく大きな手がかりになっていった。今でもそうなり続けている。凄いことだと思うんですよね。

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―半年後の8月には、第2部《火》が完成。炎に焼かれて傷つき息絶えていく裸の人間の姿が描かれていた。第3部《水》も同時に完成。当時はGHQによって厳しい規制があった。原爆を伝えるには、覚悟が必要だった。

アーサー プレスコードが敷かれていますよね。検閲というか。
岡村 原爆についての被害の報道とか、被爆者の写真を新聞や雑誌では紹介できなかった時代ですね。結構危ないと思いながら描いていたと思います。
アーサー 屏風っていうかたちで展示されていますけど、最初は屏風じゃなかったんですよね。
岡村 元々は掛け軸だったんですね。8本の掛け軸で、今も横のしわの跡が見えますよね。巻いていた跡が残っている。巻くとすぐに移動ができるので、もしアメリカ軍に何かされそうになったら、撤収。巻いて逃げる、そういうことも考えていたみたいですね。

―《原爆の図》は描くことが目的ではなく、人びとに見てもらうことが目的でした。全国巡回展では、会場責任者が逮捕されることもあったが、2人はくじけなかった。

アーサー 権力にもろにぶつかろうとしているんです。描いてはならない、表現してはだめというものを、鮮やかに表現している。でもそうしないと、芸術は成り立たない。装飾品で終わっちゃう。でも自分たちは本質を捉えて芸術をやろうとしている。

―2人の絵は見る者の心を動かしていく。大阪では、1人のおばさんが絵の中の赤ちゃんを撫でて、「このややこが死んだんやで」と自分の子どもに説明していた。

ナレーション 今までたくさんの絵を描いてきました。でも自分の絵を撫でてもらったのは初めてです。これが絵かきとして光栄でなくてなんでありましょう。あなたの心に支えられて、わたしは歩きましょう。(丸木俊著『女絵かきの誕生』より)

― 一方で、実際に被爆した老人からは、次のように言われた。

ナレーション この絵の中から私の孫が出てきそうな気がします。だが、このくらいのことで、原爆を描いたと思っては困ります。もっともっと描いて下さい。これは私たちの絵です」。

―丸木夫妻はさらに描き続けていく。それは2人だからこそできたのではないか。

岡村 おそらく1人であれば、背負いきれなかったんじゃないかという気もするんですね。2人の夫婦の画家だからこそ、お互いに引き合って続けることができたんだろうと。いろいろ批判も受けますし、それでも2人の画家は描き続けなければいけない。描かずにはいられない。そういう気持ちが原爆に対してあったんだと思いますね。

―2人を支えたのが位里の母・スマ。スマには、原爆の本質が見えていた。「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」スマは70歳を過ぎてから、俊の勧めで絵筆をとりはじめる。広島の山奥で自然と寄り添いながら生きてきた人ならではの描写で。スマの孫の小田さんは、よくいっしょに山へスケッチに行ったという。

小田 春か夏は毎年来ていましたから。しょっちゅう、あちこちに描きに行きました。

アーサー スマさんは、いろんな動物を育てて、生きもの育てて、野菜も育てて、それがスマさんの絵の底力。長年命を育ててきたっていうのが湧き出るように……

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―スマの絵には命あるものの輝きがあった。

アーサー ぼくはスマさんの絵は、世界的に語り継がれる絵だと思うんですね。アメリカのグランマ・モーゼスという素敵な画家がいるんですが、グランマ・モーゼスをはるかに越えてる絵描きだと思うんですね。

―《原爆の図》は世界を巡回していく。しかし、留守中にスマが殺害されるという事件が起きた。スマの死は俊の心に重くしかかる。原爆の図を描かない方がよかったのではないか。しかし、その心を励ましてくれたのはスマの残した絵だった。

ナレーション 字は読まず。字は書かなかったけれど、創造し、創作し、無から有を作り出すたくましい精神のおばあちゃんだったのです。もし、このおばあちゃんの絵がなかったなら、わたしはもっと辛かったでしょう。わたしはおばあちゃんの絵で救われているのです。(俊の言葉)

―核のもたらす災厄は決して過去のものではない。2人は《原爆の図》を描き続けた。1970年、ニューヨーク。《原爆の図》は初めてアメリカで展示され、厳しい批判にさらされる。

岡村 原爆を落としたことは正しかったという意見が主流になる国ですから、南京があった、パールハーバーがあった、だから原爆を落として当たり前と丸木夫妻は言われる訳ですね。南京の絵を中国の画家が描いて日本に持ってきて展示したら、あなたたちはどう思いますか。アメリカに原爆の図を持ってくるというのは、そういうことなんですよ、と。

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―帰国した俊は広島へ米兵捕虜の死の調査に行き、被爆した米兵が広島の人々に報復として殺されたという証言を聞く。そして第13部《米兵捕虜の死》が描かれた。

岡村 アメリカ人の捕虜が広島にいた、だから国は自分たちの兵隊も巻き込みながら兵器を使うんだという問題と、その後で日本の人たちがアメリカ兵を報復で殺してしまった、原爆は必ずしも日本人の被害だけの問題じゃないよっていう。私たちはつい日本人の被害のことばかり考えるけど、戦争ってそういうものじゃない。日米両方に対する問題提起が潜んでいる絵なんですね。

アーサー 被爆者は日本人という枠とは違う意味の言葉なんだと、それをすごく鮮やかに示している。
岡村 丸木夫妻にとっても、最初にそれを考えるきっかけになった重要な絵だと思いますね。

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―絵本『ひろしまのピカ』は、被爆した女性の実話をもとに描いた絵本、7歳の女の子が主人公。絵本の最後は「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」というスマの言葉で締めくくられている。
丸木俊はあとがきに記している。「わたしには子どもがいないから孫もいません。でもこれは孫たちへの遺言なのです」

―1967年、埼玉県東松山に建てられた丸木美術館。位里の故郷の太田川に似ているから、この地が選ばれた。

―晩年の共同制作の貴重な映像(映画『劫火』より)。人間を描く俊、その上に墨を流していく位里。2人の芸術家としてのせめぎあいは、位里が亡くなるまで、実に40年以上も続いた。

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―今年8月6日、丸木美術館にて、とうろう流しの光景。そこには、丸木俊の思いを受け止めた孫たちの姿があった。

―アーサー・ビナードさんは3年前から、《原爆の図》から紙芝居を作る準備を進めてきた。

アーサー 《原爆の図》を目の前にして、その絵と見つめ合うと巻き込まれて、自分も当事者の仲間入りをする。そういう装置として働くんですね。ぼくは《原爆の図》がみんなを引き込んで一つの体験を共有するものとして作用していることに紙芝居との共通点を感じて、ある時から《原爆の図》は巨大な紙芝居なんだなと考えるようになったんですね。

―8月2日、広島市内の世界平和記念講堂マリアホールにて、アーサー・ビナードさん完成間近の『やわらかい はだ』紙芝居実演。

会場からの質問 子どもには残酷な感じがする。
アーサー 原爆の図は子どもが見てもいいと思っている。全然恐ろしすぎるという書き方じゃない。でもおっしゃるように、こっちが物語を作ると、子どもが見たらどうなのか考えなければいけないですね。

―皆の意見に耳を傾けるアーサーさん、完成までにはもう少し時間がかかりそう。

(最後に、スタジオにて)
黒柳徹子 皆さん、いかがだったでしょうか。私はアーサーさんが原爆の図を紙芝居にしたというのは、とても素晴らしいアイディアだと思います。私も子どもの時紙芝居を見ましたけど、ほんとに紙芝居は次にどんな絵が出てくるのだろうとワクワクしました。この広島の悲劇を、子どもたちが紙芝居で知るというのは、素晴らしい、大切なことだと思います。

《了》
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2015/8/14

テレビ埼玉「NEWS 930」出演  TV・ラジオ放送

明日からの渡米前に、テレビ埼玉のニュース番組「NEWS 930」にスタジオ生出演して、《原爆の図》について話をさせて頂きました。

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お声掛け下さったのは、同い年の余野誠記者。
これまでにも何度も丸木美術館に取材に来て下さっています。
スタジオでは、波多江良一アナウンサー、早川茉希アナウンサーにお相手頂きました。
お世話になった皆さまに、御礼申し上げます。

備忘を兼ねて、以下に番組内容を書き起こします。

*   *   *

忘れてはならない記憶――戦後70年

【テロップ】戦後70年C海を渡った原爆の図

―スタジオ―
波多江良一アナウンサー 特集です。明日、15日で日本は戦後70年を迎えます。戦争体験者の高齢化が進み、戦争の記憶は年々、確実に失われています。こうした記憶を、どのようにして継承していくのか。テレ玉では、4回にわたってシリーズで考えてきました。最終回の今夜は、広島、長崎に投下された原爆についてです。

早川茉希アナウンサー スタジオには、《原爆の図》で知られる画家、故・丸木位里・俊夫妻にゆかりが深い東松山市にある原爆の図丸木美術館の学芸員・岡村幸宣さんにお来しいただきました。よろしくお願いいたします。

岡村 はい、よろしくお願いいたします。

波多江アナウンサー 《原爆の図》というのは、原爆の惨禍を描いた15部の連作なんですけれども、丸木夫妻が目の当たりにした絶望と破壊の有り様を伝えるため、完成させたとのことですが、この絵の持つ意味について岡村さんはどうお考えでしょうか?

―生前の丸木位里・丸木俊の映像―

岡村 原爆を目の当たりにした丸木夫妻が、二度と同じ体験をしてほしくないという思いを込めて、私たちに託したメッセージのような絵画です。
丸木夫妻の体験だけではなくて、当時生きて、死んでいった無数の人たちの悲しみや苦しみ、それから願いや希望といった思いを器のように受け止めた絵画だと考えています。

―丸木美術館にて、原爆の図《火》、《とうろう流し》、《米兵捕虜の死》の展示風景―

早川アナウンサー この《原爆の図》のうち、代表的な作品《幽霊》、《火》など6つの作品が今年6月、海を渡り、明後日までワシントンのアメリカン大学美術館で公開されています。なぜアメリカでの公開となったのでしょうか?

岡村 それには、数年越しの一人の女性の、アメリカでぜひ《原爆の図》を公開したいという熱意があったんですね。なかなか受け入れてくれる場所がなくて難航していたんですが、アメリカン大学の歴史学者ピーター・カズニックさんが手を挙げて下さいました。アメリカの公的な歴史観というのは、原爆投下は正しかったというものですから、それをもう一度見つめ直そうという勇気のある挑戦だと思います。

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―丸木美術館にて、《原爆の図》の梱包作業風景―
【テロップ】アメリカ・ワシントンへ旅立つ「原爆の図」

波多江アナウンサー ちょうど2か月前になりますけれども、6月13日から明後日まで、およそ2か月間にわたってワシントンでの公開となりました。

―アメリカン大学美術館での作品開梱風景―
【テロップ】ワシントンのアメリカン大学美術館に「原爆の図」が到着

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―作業員によって展示されていく《原爆の図》―
【テロップ】展示されるのは「幽霊」「火」「署名」「とうろう流し」「米兵捕虜の死」「からす」の6作品

―照明が当てられ、会場に美しくならぶ《原爆の図》―
【テロップ】明るい部屋でスポットライトもあたり丸木美術館で見る「原爆の図」より鮮やかな色合い

―展覧会がはじまり、会場を訪れる来館者。それを撮影するテレビカメラと取材スタッフ―
【テロップ】海外のメディアも取材

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―インタビューに答える初老の男性―
【テロップ】
―このような素晴らしい作品は本でしか見たことがなく、今回初めて実際に見ました。
Q 今なお日本とアメリカの間に原爆についての議論があり、この展示はそのための良い機会だと思いますか?
―私は原爆投下の是非について議論することは必要だと信じています。
Q この展示はアメリカの市民が日本で何が起こったかを知るために役立つと思いますか?
―はい、そうであると信じています。

―スタジオ―
波多江アナウンサー 岡村さん自身も現地に行かれて、今のインタビューのカメラを回しているのは岡村さんご自身なんですけれども。

岡村 はい、そうなんです(笑)

波多江アナウンサー 実際、丸木夫妻の絵をご覧になった来場者は、どんな表情をしていたのか、作品を見てどんなことを感じたのか、教えて下さい。

岡村 まず、アメリカにとっての原爆のイメージは、キノコ雲の上からのもので、原爆を落とした飛行機が英雄になるんですね。ですけれども、丸木夫妻の《原爆の図》はまったく逆で、キノコ雲の下にいる人間の姿が等身大で描かれている。その大画面に向き合って、国境を越えて一人の人間として絵の中の人びとに共感している、そういう思いが非常に強く伝わってきました。

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―アメリカン大学《原爆の図》展示風景、続いて会場で絵を見る人びとの姿―

―スタジオ―
早川アナウンサー アメリカでは、「戦争の終結を早めた原爆投下は正しかった」と原爆投下を肯定する考え方が根強いと言われています。
しかし、先日アメリカの調査会社が行った原爆投下に関する意識調査で、ご覧のように65歳以上の世代の70%近くが「正しかった」と回答したのに対し、18歳から29歳の若い世代では45%が「間違っていた」と答えたということなんですね。アメリカの人たち、特に若者の意識の変化について岡村さんは感じ取ることはありましたか?

【テロップ】
Q広島と長崎に原爆を投下した判断(アメリカの調査会社調べ)
▷65歳以上 正しかった65% 間違っていた15%
▷18〜29歳 正しかった41% 間違っていた45%

岡村 この調査だと、若い世代は逆転しているんですね。もちろんアメリカは多様な国なので、地域とか教育の差もありますから、まだまだ認識を変えていく必要もあるでしょうけれども、若い世代は比較的いろんな情報にアクセスできて、アメリカの歴史を相対的に見ることができるのかなと思います。
それから、カズニックさんのような、原爆投下は本当に正しかったのかという問題提起をしながら、普遍的な人間の感覚から原爆について見直していくという働きかけが、少しずつではあるけれども世論を変えていると実感しますね。

波多江アナウンサー お知らせの後も岡村さんにお話を伺います。

〈CM〉

―スタジオ―
波多江アナウンサー 戦後70年特集、引き続き原爆の図丸木美術館学芸員の岡村さんにお話を聴いていきます。さて、《原爆の図》のアメリカでの公開ですが、ワシントンでの公開が明後日までなんですね。その後、来月8日からはボストンで、11月からはニューヨークと続いていくんですよね。

岡村 そうですね。私も明日飛行機でアメリカに行って、ワシントンの最終日の様子を見てこようと思っています。その後、展覧会を終えて、《原爆の図》をまた梱包して、ボストンに送り出して帰ってくるんですけれども、9月の頭にはまたボストンに行って、展覧会の準備をするという、この後はなかなか慌ただしいスケジュールが待っていますね。

早川アナウンサー お忙しそうですね。また、アメリカのオバマ大統領も、この展示に招待しているそうですね。

岡村 実は、ワシントンの展示のときに、アメリカン大学でオバマ大統領が講演をする機会があって、ぜひ会場にも足を運んでほしいという打診もあったんですけれども、残念ながら実現することはありませんでした。おそらく政治的な影響力を考慮したんだろうと思うのですが、まだこの後も東海岸でボストン、ニューヨークと続きますので、ぜひオバマ大統領には、一人の人間として、《原爆の図》の前に立つ機会を設けて欲しいと願っています。

波多江アナウンサー 日本に話を移しますと、今年いっぱい《原爆の図》の代表的な作品は海外に渡っていますので、東松山市の丸木美術館では見ることができないんですけれども、その一方でこの間は、丸木夫妻の別の《原爆の図》も展示されているんですよね。

岡村 そうなんです。《原爆の図》というと、どうしても15部連作が一般的なんですけれども、実はそれ以外にも全国各地に番外編ともいうべき《原爆の図》がたくさんあるんですね。絵がいくつもアメリカに行っているという機会を逆に生かして、今回はふだん見られない作品をじっくり見てみようと。《原爆の図》の歴史をトータルで見つめ直す戦後70年にしようという試みを、いま丸木美術館でやっています。

―「知られざる原爆の図展」会場風景の紹介―
【テロップ】「原爆長崎之図」二部作/「浦上天主堂」/「三菱兵器工場」

―スタジオ―
早川アナウンサー また、丸木夫妻が《原爆の図》の制作に取り組む短い映像が新たに見つかって、美術館で公開されているということですね。

岡村 はい。これも貴重な映像なんです。《原爆の図》が描かれた当初、1950年の制作風景が写っているという、非常に珍しいもので、面白いのは、この映像のなかで「原爆」という言葉が一度も使われていないんですね。当時、アメリカ軍を中心とする占領軍が日本を統治していて、原爆についての報道が厳しく禁じられていたんです。それで、このフィルムも、検閲に引っかかってしまうだろうというので、「原爆」という言葉を使わずに紹介する工夫が見て取れるんですね。

―映像「芸術は愉し」上映展示風景―
【テロップ】新たに見つかった「原爆の図」製作風景を撮影した映像

―スタジオ―
波多江アナウンサー この初期の時代と言いますと1950年代ですから、終戦から5年なわけですよね。そうした中で《原爆の図》を描く夫妻、しかし、「原爆」という言葉を禁じられているという、いろんな苦悩とか、政治的な背景ももちろんあると思うんですが。

岡村 今想像するよりも、ずっと危険が大きかったと思います。

波多江アナウンサー そうした危険と隣り合わせの中でもしっかりと描き続けて、ですから後世と言いますか、この時代も作品として残っているということなんですね。
おしまいになりますけれども、冒頭から申し上げています通り戦争体験者の高齢化が進んで、その記憶は失われつつあります。丸木夫妻の戦争、そして核への怒り、さらには平和への思いを、岡村さん自身は今後どのようにして継承していくべきだとお考えでしょうか。

岡村 70年前の、しかも他人の記憶を継承するということは、非常に難しいことだと思うんですね。ですけれども、その困難に向かって試み続けるということが大事なのではないかと思います。悲しみの記憶を学ぶということは、過去の歴史を知るだけではないんですね。今を生きる私たちが、命をどうとらえて、これからどんな世界を作っていくか、考えるための道しるべになると思っています。
本当の「平和」というのは、自分ではない他人の痛みをどう想像して、立場を超えて共感していくかということだと思うんですね。そのための力を、《原爆の図》は私たちに与えてくれると考えています。

―生前の丸木位里・丸木俊の映像など―

―スタジオ―
波多江アナウンサー そういった作品からもそうですけれども、われわれ世代、さらにはもっと若いお子さん世代たちがしっかりと風化させないようにしていかなくてはいけないと、そんなふうにも感じました。今日は原爆の図丸木美術館学芸員の岡村さんにお話を伺いました。
岡村さん、どうもありがとうございました。

早川アナウンサー ありがとうございました。

岡村 ありがとうございました。

【了】
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2015/8/4

8月のラジオ・テレビ出演予定  TV・ラジオ放送

被爆70年の8月、アメリカ展を含めた《原爆の図》についての話をする機会が増えています。

まず、明日8月4日の朝7時15分頃から10分ほど、KBC九州朝日放送のラジオ番組『Morning Wave』に電話で生出演します。

また、8月14日の夜9時半からは、テレビ埼玉のニュース番組『NEWS930』に、スタジオ生出演する予定です。こちらも10分程度と聞いています。

どちらも地域限定の放送になりますが、該当地域にいらっしゃる方はご記憶くださいませ。
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2015/6/24

NHK FMラジオ「日刊さいたま〜ず」出演  TV・ラジオ放送

午後6時からのNHK FMラジオ「日刊さいたま〜ず」にスタジオ生出演し、「発掘! 知られざる原爆の図展」について6時半頃までお話ししました。
担当して下さったのは、4月に山形局から来たという地元埼玉出身の岸田麻由美キャスター。
明るく元気の良い方で、こちらもつられてテンションの高いトークになりました。

事前に丸木美術館にも足を運んで下さった岸田(麻)さんは、「発掘! 知られざる原爆の図展」と「島田澄也展」についても的確に話題を振って下さり、番組の後半では最新のニュースであるアメリカ展の報告もさせていただきました。
リクエスト曲は、作曲家の大木正夫が《原爆の図》から着想した交響曲第5番「ヒロシマ」から第4楽章の「火」をお願いしました。

埼玉県域のみの放送でしたが、お聞き下さった皆さまに心から御礼を申し上げます。
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2015/6/3

NHK WORLD“Hiroshima Panels Go to US”  TV・ラジオ放送

NHK WORLD(国際放送局)から“Hiroshima Panels Go to US”のニュースが配信されました。
期間限定ですが、以下のWEBサイトで動画ニュースを見ることができます。
http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/news/features/201506021821.html

取材をして下さったのは、鎌田智子記者。
《原爆の図》の搬出作業とともに、過去の海外展の写真や俊さんのインタビュー映像など、幅広い素材を用いた、とてもわかりやすい内容でした。
多くの方に見て頂いて、アメリカ展が盛況になることを願っています。
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2015/2/25

テレ玉NEWS 930特集「原爆の図アメリカへ」  TV・ラジオ放送

午後9時30分からのテレビ埼玉のニュース番組「NEWS 930」で、アメリカへわたる《原爆の図》についての特集が放映されました。
報告は余野誠記者。丁寧に取材して下さったので、以下に、その内容を書き出します。

―スタジオ―
【テロップ】原爆の図 アメリカへ
波多江良一キャスター:続いては特集です。70年前の原爆の悲劇を後世に伝えようと強い怒り、悲しみとともに筆を走らせた夫妻がいます。
村山千代キャスター:その二人の作品は、海を渡り、アメリカ・ワシントンで展示されます。

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―丸木美術館の外観―
【テロップ】原爆の図 丸木美術館
余野誠記者:東松山市下唐子にある原爆の図丸木美術館。
―丸木位里写真、続いて丸木俊写真―
【テロップ】丸木位里(一九〇一〜一九九五)、丸木俊(一九一二〜二〇〇〇)
余野記者:70年前の八月、原爆が投下された3日後に広島に入った画家、故・丸木位里・俊夫妻。
―丸木夫妻の共同制作の写真―
【テロップ】報告 余野誠
余野記者:そこで目の当たりにした地獄絵図。

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―原爆の図 第8部《救出》―
【テロップ】丸木位里・俊夫妻が完成させた 原爆の図
余野記者:その絶望と破壊のありさまを伝えていこうと、二人が心血を注いで完成させたのが、原爆の図15部です。丸木美術館には、長崎原爆資料館所蔵の《長崎》を除く14部が展示されています。

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―原爆の図 第12部《とうろう流し》―
【テロップ】ことし6月〜8月「原爆の図」がアメリカ・ワシントンのアメリカン大学美術館で展示される
余野記者:被爆から70年の今年6月から8月にかけて、この《原爆の図》が海を渡り、アメリカの首都ワシントンのアメリカン大学美術館で展示されることになりました。

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―原爆の図 第2部《火》―
【テロップ】原爆の図 第二部「火」
余野記者:今回展示されるのは、第1部《幽霊》、第2部《火》など6つの作品です。第2部《火》は、原爆の図の代表的な作品として知られています。紅蓮の炎が人々を焼き尽くすさまが、被爆直後の広島の惨状を物語っています。

―第2部《火》の前のインタビュー―
【テロップ】原爆の図 丸木美術館学芸員 岡村幸宣さん
岡村:去年の5月にですね、アメリカン大学の歴史学者のピーター・カズニックさんが丸木美術館に来られて、いったん全部ご覧になった後帰られてから、ぜひ、やりたいと。展覧会を2015年の夏に開きたいとオファーを下さって、作品を運ぶためのお金を集めるという、募金を呼び掛けて、それでとんとん拍子にここまで話が進んできたという感じですね。

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―原爆の図 第13部《米兵捕虜の死》―
【テロップ】原爆の図 第十三部「米兵捕虜の死」
余野記者:原爆で死亡したとされるアメリカ兵を描いた第13部「米兵捕虜の死」。作品に添えられた、「あなたの国の若者も23人死んだのです」との言葉、アメリカの人びとにどう届くのでしょうか。

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―原爆の図 第14部《からす》―
【テロップ】原爆の図 第十四部「からす」
余野記者:多くのカラスが死体をついばむ恐ろしい光景。最後まで弔われず、死後も差別されたという韓国・朝鮮人被爆者を描いた第14部「からす」も海を渡ります。

―第2部《火》の前のインタビュー―
【テロップ】Qなぜ「火」「米兵捕虜の死」など6作品が――
岡村:コンセプトとしては、まず大きいのが原爆の被害、それも人間の被害ですね。それから原爆以外の核、それは《署名》なんかに出てくるんですけれども、それから国境を越えた人間共通の問題としての核、それから鎮魂、その4つのテーマから、今回の6点の作品を選んでいます。

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―原爆の図 第1部《幽霊》(貸出中のため複製)―
【テロップ】アメリカでは「戦争終結を早めた原爆投下は正しかった」という考え方が現在も支配的といわれる
余野記者:被爆した人たちの記憶とともに、原爆投下の惨状が語り継がれる日本。一方、アメリカでは「戦争終結を早めた原爆投下は正しかった」とする考え方が現在も支配的と言われています。
―再び、丸木夫妻の共同制作の写真―
余野記者:日本とアメリカ、両国の歴史認識は異なりますが、丸木夫妻が描いた絵を通じてともにあの悲劇を共有し、平和への思いをつなげられないか、美術館では期待を寄せます。

―第2部《火》の前のインタビュー―
【テロップ】アメリカの人々に何を感じてほしいか
岡村:アメリカでは、やはりエノラ・ゲイ、原爆を落とした飛行機が英雄のように扱われて、空から爆弾を落とした視点なんですね。で、勝利の象徴となるわけですけれども、
―第2部《火》、第8部《救出》などクローズアップ―
岡村:原爆の図というのは、空から落とした爆弾が、きのこ雲、爆発してきのこ雲が湧きあがるんですけれども、その下にいる人間の目から原爆を見ているんです。空の上からと空の下から、まったく違うんですね、視点が。
―第2部《火》の前のインタビューに戻る―
【テロップ】空の「下」にいた人たち その人たちがどう原爆を見たかというのを/“言葉”ではなく 実際 自分たちが8月6日のヒロシマの焼け野原にいるように/体で感じてもらう それが絵の「力」だと思うので
岡村:で、その空の下にいた人たち、その人たちがどう原爆を見たかというのを、アメリカの人たちに、言葉ではなく、実際に自分たちが8月6日の広島の焼け野原にいるように、体で感じてもらう。それが絵の力だと思うので、そうすることで想像力を広げる。国とか人種とか、そういうものを超えて、同じ人間として核の被害について向き合っていく、そういう機会にしていだたきたいというふうに思っています。

―館内の《原爆の図》展示風景―
【テロップ】募金について 原爆の図 丸木美術館 TEL0493-22-3266 メールmarukimsn@aya.or.jp
余野記者:《原爆の図》の輸送費や保険料など、必要な経費はおよそ1000万円。現在、丸木美術館では寄付を募っています。展示の日程は今年6月13日から8月16日。8月6日の広島原爆忌には、6つの作品が美術館に存在しませんが、この間も夫妻の別の作品を展示する予定です。

―第2部《火》の前でのインタビュー―
【テロップ】「原爆の図」の15部連作以外にも全国に散らばっている
岡村:そのあいだ丸木美術館空っぽになっちゃうと寂しいな、と思う方もいらっしゃると思うんですが、実は《原爆の図》というのは、15部の連作以外にも、たくさん全国に散らばっているんですね。ほとんどの方がそれを見たことがない。で、今年の夏はそれを全国から集めて来て、今まで知らない、誰も見たことがない《原爆の図》をそろえて、多くの方にまた見て頂くと、そういう機会を設けたいと思っています。

―スタジオ―
波多江キャスター:以上、特集でした。
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