2011/7/18

丸木アンブレラ・プロジェクト  その他

今年は陽射しの強い日が続きますが、丸木美術館の庭には新たな試みが導入されています。
現代美術家クリストの「アンブレラ・プロジェクト」(1991年に太平洋を挟んで日米両国に約1,300本の傘を設置した芸術プロジェクト)をちょっとだけ思い起こさせる3本の日傘です。

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この日傘は、事務局長のNさんの発案で設置しました。
傘の影に椅子を置いて川風にあたると、たいへん涼しく心地よいです。
電力をなるべく使用しないように、という理由で、もともと館内に冷房のない丸木美術館。
そのため、展示室はどうしても蒸し暑くなりがちですが、ぜひ庭の「丸木アンブレラ・プロジェクト」でゆっくり涼んでいただきたいと思います。
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2011/3/17

鉄道運行状況改善  その他

「計画停電」の影響で鉄道運行の状況も日ごとに変わっています。
今日は、東武東上線が通常の40%程度の本数ながら、日中に志木〜小川町間を運行してくれたので、片道20kmの自転車通勤をせずに済みました。
それでも午後6時から10時半までは不通になってしまうので、早めに帰らなければなりません。

通常通りの開館を続けている丸木美術館ですが、今週はまだ有料入館者がありません。
今日は友の会の方が1人、展示を観に来て下さって、少しだけ心を励まされました。
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2011/3/16

大木茂写真集『汽罐車』  その他

東武東上線が運行していないので、とりあえず今日は自宅待機。
自宅も朝から「計画停電」があり、窓から差し込む朝日で静かに写真集を観ることにしました。

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3月3日に刊行されたばかりの大木茂写真集『汽罐車 よみがえる鉄路の記憶 1963-72』(新宿書房)です。

大木茂さんは、映画のスチール写真や鉄道写真を撮影するカメラマンとして活躍されています。
近年では『北の零年』や『憑神』、『剱岳 点の記』などの映画の仕事を手がけているとのこと。
その大木さんが、若かりし頃、日本列島を縦横に旅しながら撮影した蒸気機関車の写真を集めた豪華写真集を刊行されたのです。

モノクロームの世界を駆け抜ける力強い蒸気機関車の姿。
そして今、沁みるように心に響くのは、鉄道を通して見えてくる、この列島の津々浦々に生きる人々の暮らしのぬくもりです。

実は、大木さんは、ボランティアで丸木美術館所蔵作品の撮影を請け負って下さっています。
経済的にゆとりのない丸木美術館にとっては、プロのカメラマンに作品写真を撮影していただけるのは、本当にありがたいことなのです。
その大木さんの原点が、こうした鉄道写真にひそんでいると思うと、なおのこと、頁をめくりながら胸が熱くなります。

 蒸気機関車とは考えてみるとなんとも不思議なものだ。本来効率を考えるなら垂直に設置するボイラーを横倒しにして車輪をつけて走らせてしまう。ずいぶんと無理をしてでき上がった機会なのだが、汗と涙と時には血を流して先人たちは苦労し工夫し使いこなしてきた。手間がかかるだけに注がれたものは大きく「人間に一番近い機械」とも言われ、鉄道の魅力の中心にいたのはたしかだ。
 しかし、非効率的な機械は淘汰されていった。無駄を省き安く大量に生産され、大量に消費される社会が生まれてきた。求められるのは目先が利き上手く立ち回れる人々だ。
 駆逐されたのはなにも蒸気機関車だけではなかった。愚直ではあるが真面目に生きてきた人々も、生活も、進歩効率化の名の下に箒で掃き捨てるように片隅に追いやられてしまった。僕にとっての蒸気機関車とは、使い捨て物質文明に潰されてしまった人々の優しい心根へのオマージュではないかと、今は考えている。

 (筆者「カメラと寝袋と機関車」より)

蒸気機関車のまわりで、走り、遊び、笑顔を見せる子どもたちの姿も、とてもまぶしく映ります。
原発事故の放射能汚染を危ぶみ「子どもを外で遊ばせてはいけない」と警告される現在。
そんな社会を生みだしてしまった大人の責任は重い、と思います。
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2011/3/15

丸木美術館の現況  その他

先週末の東日本大震災で、丸木美術館も多くの方にご心配を頂いていますが、館内に大きな異常はなく、本日も平常通り職員は出勤しています。
いまのところ、計画停電の影響もありません。
とはいえ、東武東上線は不通なので(今日は川越から自転車出勤でした)、遠方からのご来館はお勧めできません。

福島の原発事故も心配です。
「私たちは皆第五福竜丸に乗っている」という、先日のアーサー・ビナードさんと大石又七さんの対談が、このように現実の問題としてあらわれたことに、何とも言えない思いを抱いています。

16日(水)午後6時に予定していたNHK-FMラジオへの出演が、23日(水)に延期になりました。
19日(土)午後2時からの丸木美術館クラブ工作教室は中止が決定しました。

美術館ニュースの発送や、次回企画展の準備など、ともかく今できることを少しずつ進めていくしかないのですが、先の見えない社会状況、何より、次々と届く震災現場からの悲しい報告に、心の痛む日々が続いています。

お亡くなりになった方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
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2011/3/11

地震速報!  その他

午後3時前に、強い地震がありました。
丸木美術館もかなり揺れ、いくつかの素焼作品などが倒れましたが、建物、絵画作品とも基本的には無事です。
スタッフ及び入館者の方も速やかに屋外に避難し、全員怪我はありません。
電話回線は通じませんが、停電にはなっていません。
取り急ぎ、午後3時半現在の情報でした。
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2011/2/3

佐喜眞館長が琉球新報活動賞受賞!  その他

沖縄県宜野湾市の米軍普天間基地から返還させた土地に、丸木夫妻の描いた《沖縄戦の図》を常設展示する佐喜眞美術館を開館し、長年にわたり美術館活動を続けてこられた佐喜眞道夫館長が、このたび、第33回琉球新報活動賞(社会活動部門)を受賞されました。

http://sakima.sakura.ne.jp/sblo_files/sakima/image/20110128_ryukyushinpo_katudousyou1024.jpg

2月4日には、琉球新報ホールにて贈呈式・祝賀会が開催されるとのことです。
丸木美術館にとっても、非常に嬉しいニュースです。本当におめでとうございます。
昨年は、普天間基地の移設問題が非常に大きくクローズアップされた年でもありました。
なぜ沖縄に米軍基地があるのか。その根本的な問題をもっともよく見わたせる、そして想像力を喚起させる場所が、この佐喜眞美術館であると思います。
これからも佐喜眞館長のご活躍、そして佐喜眞美術館の発展を、心よりお祈り申し上げます。
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2010/12/16

新刊『1950年代―「記録」の時代』  その他

河出書房新社より鳥羽耕史さんの著作『1950年代―「記録」の時代』が刊行されました。

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河出ブックス023『1950年代―「記録」の時代』
2010年12月30日初版発行
著者=鳥羽耕史
発行=河出書房新社
定価=1300円+税


徳島大学准教授の鳥羽さんは、戦後の文化運動を丹念に調査されている気鋭の研究者。
原爆文学研究会や展覧会などでたびたびお会いし、とてもお世話になっています。
今回の著作は、これまであまり注目されてこなかった1950年代――「記録」と文学や芸術が接近し、多彩な展開を見せた時代――を、生活綴り方やサークル詩、ルポルタージュ絵画、記録映画、テレビ・ドキュメンタリーなどに具体的に迫りながら、「記録」は現実をどう変えたかを検証し、「記録」と現代を結ぶ線を再発見するという注目すべき一冊です。

近年、東京都現代美術館での「中村宏 図画事件」展や、目黒区美術館での「‘文化’資源としての〈炭鉱〉」展、そして現在も巡回中の「池田龍雄 アヴァンギャルドの軌跡」展など、この時代の表現を再評価しようという動きが高まりつつあるのを実感しています。
そしてそれは、来春に目黒区美術館で開催される「原爆を視る 1945-1970」展において、ますます確かな流れとなることでしょう。
丸木夫妻の《原爆の図》連作も、そうした流れのなかで、重要な位置を占めることは言うまでもありません。

いわゆる昭和三〇年代ブームの「古き良き時代」でもなく、大阪万博回顧の「懐かしい未来」でもない、生々しく野蛮な「新しい過去」への扉を開く
と記された鳥羽さんの言葉には、胸の高鳴る思いがします。

価格もお手頃ですので、ぜひ多くの方にお読み頂きたい、お勧めの新刊です。
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2010/8/15

「国民歌」を唱和した時代  その他

8月6日の「ひろしま忌」で合唱の企画を行った近現代音楽研究者の戸ノ下達也さんの新著『「国民歌」を唱和した時代 昭和の大衆歌謡』(吉川弘文館、2010年8月刊、1785円)の書評が、本日8月15日付の『東京新聞』と『読売新聞』に掲載されました。

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以下は、それぞれの記事からの抜粋です。

 日本が戦争への道を突き進んでいたころ、戦意高揚などを目的とした数多くの歌が生まれた。「海ゆかば」「父よあなたは強かった」「太平洋行進曲」「国民進軍歌」…。これら歌曲の一つ一つを時系列のなかに置き、内容を分析、再構成して歴史的な視点からとらえた好著である。
「こうした曲は、出来上がった背景がそれぞれ違う。この時期に制作されたから軍歌でしょと十把ひとからげにできないのではないか、というのが執筆の出発点です」
 軍歌に代わる視点として提示したのが、国民歌という考え方だ。本書では《国家目的に即応し国民教化動員や国策宣伝のために制定された国もしくは国に準じた機関による『上から』の公的流行歌》と書く。本来の目的とは別のところで音楽が利用されていくなか、山田耕筰をはじめとする作曲家たちの動向なども絡めながら、流行の実態を、冷静かつ簡潔な筆致で追っていく。

…(中略)…
 「元ドイツ大統領のワイツゼッカー氏が演説の中で述べた〈過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる〉のフレーズを、あらためてかみしめています。歴史をひもといて整理し、次の世代に残す。それを意識して、これからも音楽と向き合っていきたいと思っています」
 (2010年8月15日『東京新聞』11面、久間木聡・文)

   *   *   *

 「海ゆかば」は軍歌か。いや、日本放送協会の作った、昭和12年の国民精神総動員運動用の宣伝歌だ。
…(中略)…
 軍歌とは狭義では軍の作る軍のための歌。
 では何と呼ぶべきか。著者は国民歌という。国民の一体感や運命共同体的悲壮感を高めるために、放送局や新聞社やレコード会社が歌を量産する。政府や軍に特に指導されずとも自主的に作り、老若男女に唱和させようとする。
 そういう時代を、あたかも軍部が主導したかのような軍歌の時代と呼んでは歴史を見誤る。国民歌の時代として、一見軍事色の薄い歌までを、国民の気持ちを揃えるための歌と一括する。それでこそ本当の歴史が見えてくる。

 (2010年8月15日『読売新聞』23面、片山杜秀・評)

戦争と音楽の関わりを新鮮な切り口で分析する戸ノ下さんの著作からは、私も多くの示唆を受けました。
人びとの感情に訴える文化の力が戦時期にどう利用されたのかという問題は、音楽に限らず、絵画・彫刻や映画などさまざまな分野にも通じます。
ふたたび同じ過ちを繰り返さないためにも、過去に目を向け、問題を整理して伝えていくことの大切さをあらためて考えさせられます。

ぜひ多くの方にお読み頂きたいお勧めの好著です。
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2010/5/26

針生一郎館長逝去  その他

丸木美術館の針生一郎館長が、本日午後0時2分、急性心不全で逝去されました。
享年84歳でした。
通夜は5月31日午後6時、葬儀は6月1日午前10時30分から(当初11時との情報が流れましたが、多くの参列者が予想されるため、30分早まりました)川崎市多摩区南生田8-1-1 春秋苑で行われます。喪主は長男の徹さんです。

http://www.asahi.com/obituaries/update/0526/TKY201005260429.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100526-OYT1T01055.htm
http://mainichi.jp/select/person/news/20100527k0000m040074000c.html
http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010052601001051.html

丸木美術館では2005年より毎年、針生館長企画の「今日の反核反戦展」を開催してきました。
今年ももちろん、針生館長は多くの作家に出品を呼びかけるつもりで、最後まで「原稿を書く」とおっしゃっていましたが、結局、果たされないままになってしまいました。
本当に残念でなりません。

2週間前にご自宅でお会いしたときには、「反戦の展覧会は、特定の主義や思想を持つ団体が占有するようなものではいけない。だからこそ、誰でも参加できる丸木美術館の反戦展は続ける意味がある」と珍しく力をこめて語られていました。
今となっては、その言葉がとても重く響きます。

針生館長の存在の大きさ、そして不在の悲しさは、むしろこれからことあるごとに痛感していくのでしょう。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
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2010/5/1

屋根の補修  その他

ここ数日、M建設さんが丸木美術館の屋根の補修と塗装作業をして下さっていました。
梅雨の前に、雨漏りを防いでおきたかったのです。
本日、作業が終わったというので、足場を使って屋根の上にのぼりました。

「仕上がりの様子を写真に撮りなさい」と言われたのですが、足場の上で両手を離して撮影するのは勇気がいります。しかもカメラを落としたら大変なので、必死で撮影しました。

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美術館に勤務していても、なかなか見ることのできない光景です。
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2010/1/28

平野亮彩さんと小山田二郎の記憶  その他

午後、東松山市内にお住まいの画家、平野亮彩さんのアトリエを訪ねました。
平野さんは1922年静岡県生まれ。敗戦後に上京し、画家の小山田二郎に誘われて大日本印刷の画室に勤務しました。その後、平凡社の印刷部に勤務し、1960年頃より百科事典や児童書の挿画を手がけました。
やがて1970年半ばに体調を崩した頃、丸木夫妻と出会い、位里さんの勧めで東松山市に転居。丸木夫妻を中心にした「臥竜会」にも参加し、交流を深めました。

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丸木夫妻が自宅を建て替えた時に建物の一部を頂いたというアトリエ。
結局、敷地の都合で屋根だけを使ったそうですが、瓦には「丸木」の文字が見えます。

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入口には、俊さんが命名し、位里さんが書いたという「吾亦紅荘」の文字が。

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平野さんと丸木夫妻との交流の深さが感じられます。

   *   *   *

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自作の水墨画の前で、お話をされる平野さんの様子。
平野さんが画家になるきっかけとなった、小山田二郎との出会いについてお伺いしました。

小山田二郎(1914-1991)は、《ピエタ》や《鳥女》などの鮮烈な作品で知られる画家です。

平野さんは敗戦後に上京し、労働者を題材にしたルオー風のポスターを描いていたところを小山田さんに見出されて、大日本印刷に入社したそうです。
小山田さんと机をならべて仕事をしていた平野さんは、帰りが同じ中央線沿線だったこともあって、次第に親しくなりました。

小山田さんは持病で顔が「ざくろのよう」に変形していて、そのことを苦にしてか、口が重く、もたもたと小声でほとんど話をしない方だったそうです。
煙草をよく吸うので、平野さんが心配すると、「戦争中は松葉を拾って松葉をのんでいたよ」と言い、酔うときれいな低音で「バイカル湖のほとり」を歌ったとのこと。

また、二人で新宿駅前で「バクダン」と呼ばれた安酒を飲んでは、たびたび芸術論に花を咲かせました。
当時の平野さんは、画家と言えば安田靭彦、小林古径といった院展系の大家に憧れていて、「ぼくは売れるような絵が描きたい、小山田さんの絵は売れないからなぁ」と言い、彼のシュルレアリスム風の絵を見て、「この人はどうしてデッサンをしないのか」と思っていたといいます。
ときには小山田さんが「昨日、絵かきの集まりがあって、岡本太郎が『おれはピカソを超えた』と言っていたよ。でも、言っていることはかなり参ったよ。いいことを言っていたよ」とつぶやくこともあったとか。
二人だけの親密なひとときは、平野さんにとってかけがえのない時間だったようです。

しかし、共産党に入党していた小山田さんは、1950年のレッドパージの際に、大日本印刷を辞めさせられました。
しばらくして平野さんが別の友人といっしょに見舞いに行くと、四畳半の部屋から小山田さんが出て来て、「よく来てくれた」と涙を流したそうです。
飯盒と味噌だけの何もない部屋で、小山田さんはガラス板に絵具を溶いて絵を描いていました。
差し入れの焼酎を飲み交わし、帰ろうとする平野さんと友人に、小山田さんは「おれは死のうと思うんだ」と言いました。「小山田さん、どこで死ぬんだ」と聞く友人に、彼は「高尾山」と答えました。「平野くんは生を肯定しているけど、君ならわかるだろう」と、小山田さんは喘息で苦しんでいるその友人に言ったそうです。

しかし、小山田さんは死なず、その後、同じようにレッドパージで職場を追われた画家たちといっしょに神田の印刷所の屋根裏で挿絵の仕事をしていたようです。
あるとき、平野さんが懐かしくなって訪ねて行くと、留守の人が「小山田さんは瀧口修造の推薦でタケミヤ画廊で個展をやった」と言いました。
その個展で注目を集めた小山田さんは、一躍、時代を代表する画家として、世間に知られるようになっていきました。

「自分は器用に描けるから、仕事は私の方が早かった。でも、達者と創作は違う。小山田さんは本当の芸術家だった。清潔な人柄で、はったりのない謙虚な人だった」と回想する平野さん。

話し出すと時間を忘れ、話の内容も行きつ戻りつするので、全体を把握するのは難しかったのですが、平野さんにとって非常に大切な記憶になっているということは強く伝わってきました。

何より、戦後の美術史の一断面に触れたような生々しい貴重な回想に、あらためて「人にはそれぞれ歴史がある」と痛感しました。

平野さんご自身の絵の話や、丸木夫妻との親交については、また機会をあらためて、ゆっくりお伺いしたいと思っています。
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2010/1/5

明けましておめでとうございます  その他

皆さま、明けましておめでとうございます。
今日は丸木美術館にとって、2010年の仕事はじめとなりました。
寒い一日にもかかわらず、お客さんが来て下さって、職員も温かい気持ちで仕事をすることができました。
今年は丸木俊没後10年、丸木位里没後15年という節目の年を迎えます。
例年以上に充実した一年を過ごすことができるよう、日々の仕事に励んでいきたいと思います。
多くの方にご協力、ご指導を頂くことになると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

   *   *   *

2010年度に開催予定の企画展の内容をお知らせいたします。
現在開催中の「没後10年丸木俊展」は4月10日まで。
4月17日から7月10日までは、佐喜眞美術館の協力により、近代の沖縄に対する日本の侵略/加害性を主題にした展覧会を開催する予定です(タイトル未定)。
7月17日から9月4日までは、鉄を素材にしてアジア太平洋戦争で戦死した人びとからのメッセージを表現する武田美通さんの展覧会。
9月11日から10月15日までは「今日の反核反戦展2010」。
10月19日から2011年1月15日までは「没後15年丸木位里展」。
1月22日から2月19日までは「障がい者芸術展(仮称)」。
2月26日から4月16日までは都立第五福竜丸展示館の協力により、「第五福竜丸事件―ベン・シャーンと丸木夫妻展(仮称)」を開催いたします。

芸術を通して、美術館を訪れる方たちの心に何を届けることができるのか。
観る人の心を、世界を、どのように変えられるのか。
今年もまた、試行錯誤を繰り返しながら、少しでも多くの方の心に残る美術館として歩み続けて行きたいと思います。
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2009/4/15

事務室配置替え  その他

今日は非常勤を含めた事務局職員全員が出勤し、事務室を大幅に配置替えしました。
それに先立って先週からファイル類や棚の引き出しの中身などを整理していたので、今日の配置替えで室内は一気にすっきりしたように思います。
ぼくの机まわりも広くなり、これからはPCもずっと使いやすくなりそうです。
何より電灯が近く、手もとが明るくなったのがうれしいです。

もちろん従来通り、ボランティアや来館者の方がゆったり座ってお茶を飲んだり、おしゃべりしたりするスペースも確保しています。
写真は掲載しませんので、これから美術館を訪れる方は、事務局がどんなふうに変わったのか、楽しみにして来て下さい。
職員のお姉さま方の構想では、さらにもう少し室内がきれいに改良される予定です。
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2009/3/31

市内循環バスの時刻が変わります!  その他

3月最終日の今日は、新しく事務局に入るS木(E子)さん、K田さんと、Y子さん、岡村で打ち合わせを行いました。
明日からは新事務局員のN野さんも加わって、新体制がスタートします。

そしてもうひとつ重要なニュースが。明日から市内循環バスの時刻表が変わります。
これまでと大きく変わることはありませんが、どの時刻も少しずつ早まっているので、バスをご利用の方は充分にご注意、ご確認の上、ご来館下さい。

【市内循環バス唐子コース時刻表】
○丸木美術館行き
11:27 東松山駅東口→11:44 浄空院入口
12:00 高坂駅西口→12:18 丸木美術館北
14:25 東松山駅東口→14:42 浄空院入口
15:05 高坂駅西口→15:23 丸木美術館北
16:15 東松山駅東口→16:32 浄空院入口
○帰り
12:00 丸木美術館北→12:30 高坂駅西口
12:33 浄空院入口→12:46 東松山駅西口
14:58 丸木美術館北→15:28 高坂駅西口
15:38 浄空院入口→15:51 東松山駅西口
16:48 丸木美術館北→17:18 高坂駅西口
18:01 浄空院入口→18:14 東松山駅西口
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2008/12/13

理事会/理事評議員合同会議  その他

午後から理事会があり、来年度人事や企画展案などが討議されました。来年度企画展スケジュールは原案どおりに承認されて、早々と決定しました。これで来春の企画展も余裕を持って準備することができるでしょう。

その後は理事・評議員合同会議が行われ、夕方からは忘年会。
事務局のY子さんが昨日から仕込んでくれた美味しい汁を皆でつつきながら、和やかにこの一年を振り返りました。
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