2018/5/3

「原爆の図保存基金」中間報告  その他

「原爆の図保存基金」の立ち上げから1年が経過しました。4月17日現在で2,776件、6,738万7,342円の寄付が集まっています。
丸木美術館50年の歴史で、2017年度の寄付金額は史上最高額を記録しました。ご協力下さった皆様、本当にありがとうございます。

基金は、地元ボランティアのHさん、Nさんらが集計・分析を進めて下さっています。
それによると、この1年の間に、100万円の寄付を下さった方が11名、70万円が1名、50万円が10名いらっしゃいました。
もっとも多いのが1万円台の寄付で、1210件(全体の約44%を占めています)でした。

都道府県別では、東京都、埼玉県、神奈川県と首都圏が件数・金額ともに上位3位までを占めますが、北海道(件数4位)、広島県(金額4位)の関心の高さが目立ちます。
さすがに丸木夫妻の出身地ですね。

【都道府県別・件数】
@ 東京都 722件
A 埼玉県 419件
B 神奈川県 306件
C 北海道 149件
D 大阪府 118件
E 千葉県 144件
F 広島県 77件
G 兵庫県 76件
H 愛知県 60件
I 福岡県 42件

【都道府県別・金額】
@ 東京都 1,498万9,997円
A 埼玉県 1,056万5,501円
B 神奈川県 845万8,079円
C 広島県 228万9,069円
D 千葉県 209万5,000円
E 北海道 198万1,262円
F 大阪府 132万5,000円
G 福島県 111万7,000円
H 鹿児島県 102万4,000円
I 群馬県 97万4,516円
(2018年4月17日現在、いずれも無記名・公表不可を除く)

今年の秋には、広島市内でも出張イベントを予定しているので、さらに多くの方に関心を持っていただきたいところです。
目標金額5億円はまだ遠いですが、今後も引き続き呼びかけていきますので、どうぞ皆さま、ご協力をよろしくお願い申し上げます。
(5月5日開館記念日でも、保存基金の中間報告を行います)
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2017/10/12

丸木美術館、第29回谷本清平和賞受賞!  その他

本日午後、ヒロシマ・ピース・センターが、平和活動に貢献した個人や団体に贈る「第29回谷本清平和賞」に、丸木美術館を選出したと発表されました。

記者発表の様子は、NHK広島局のニュースで放送されたようです。
http://www3.nhk.or.jp/hiroshima-news/20171012/4702321.html

受賞理由は、次のような内容です。

 これまで絵画や展示施設の保守保全に大変ご苦労されながら、企画展・館外巡回展や平和教育などの事業活動を行いつつ、若き芸術家の育成にも注力され、半世紀にわたりヒロシマを原点とする世界に類を見ない美術館活動を続けています。また、毎年8月6日には、当地でひろしま忌として、広島の惨禍へ思いをはせ平和を欣求する集いを開催しています。近年では被爆70年となる2015年夏に、20年ぶりに米国ワシントン・ボストン・ニューヨークにおいて原爆の図の展覧会を開催し、「原爆とは何か」を米国民の視覚と心に訴えました。

10年前に「存続の危機」を迎えていたことを思いかえすと、開館50周年という節目の年に、このように活動を評価していただけたことは、本当に嬉しい気持ちでいっぱいです。

11月には広島で受賞式があるので、お世話になった方々と再会しながら、喜びを分かち合いたいと思っています。
丸木美術館を支えて下さった皆さま、本当にありがとうございます。
時代はますます不透明な、厳しい状況が続いていきますが、50年後、100年後に「原爆の図」を手渡していけるように、これからも丸木美術館の活動に取り組んでいきたいと思っています。
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2017/7/19

室野井洋子さんの逝去  その他

拙著『《原爆の図》全国巡回』の校閲でお世話になった室野井洋子さんが、急に亡くなられたという知らせを、新宿書房の村山さんから頂きました。

http://www.shinjuku-shobo.co.jp/column/data/manaita/004.html

矢川澄子さんと親しくされて、彼女の仕事をずっと手がけている方だと聞いていて、丁寧に粘り強く何度も原稿を見て下さるのを本当にありがたく思っていたのですが、札幌在住ということもあり、とうとう一度もお会いする機会はありませんでした。

お会いしたことはなかったけれど、原稿のやりとりを通じて、すぐそばで同じものを見ているような気がしていたので、とても辛い気持ちです。
遠くにいても、近しく感じられる人はいます。
こういう場合、物理的な距離はあまり関係がないのだと実感しています。
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2017/3/29

安藤栄作さんが第28回平櫛田中賞受賞  その他

彫刻家の安藤栄作さんが、第28回平櫛田中賞を受賞されたという嬉しいニュースが発表されました。

http://www.sanyonews.jp/article/508867

安藤さんは、東日本大震災で福島県いわき市の自宅・アトリエを失った後、関西に移住して彫刻活動を続けており、丸木美術館でも2013年に個展、2016年に「Post3.11」というグループ展を行っています。

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写真は、丸木美術館での個展の際の会場風景。

少し前のことになりますが、平櫛田中美術館から連絡があり、安藤さんに素晴らしい知らせをおつなぎするという役回りになったので、そのことも含めて、嬉しい体験でした。

以下は、審査委員の水沢勉さんが記された、安藤さんの受賞についての文章です。
水沢さんが後押しされた、ということも、私にとっては大きなよろこびの理由でした。

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木を叩くひと ― 安藤榮作について
                                 
 安藤榮作は愚直なまでに木彫にこだわりつづけている。
2011年3月11日の東日本大震災で被災し、さらに福島第一原発事故もあり、発生後まもなく福島県いわき市を家族とともに離れ、現在は奈良県に住んで制作に打ち込んでいる。大きな人生の転機であったと思う。長く暮らした場所を離れることは、自分自身にとっても、家族にとっても、そして、さまざまな人間関係に支えられてはじめて成立する仕事(制作)にとっても、まさしく生木を剥がすような痛恨の出来事であったにちがいない。
 しかし、それにもかかわらず、いや、むしろそれだからこそ、この木彫家は、ますます木彫に徹するようになったとみえる。元来、刀の彫りの鋭さや冴えを強調するよりも、そこに費やされたエネルギーのほうを印象づけるように、あえて荒れた木肌のままの仕上げを好んできた。ささくれたり、割れたりすることも、この作家には希貨であり、木であればこその表現の恵みとして受けとめてきたのではなかろうか。
斧の打痕というべき無数の凸凹は、つい触りたくなるようななつかしさの感情を呼び起こす。それも、そうした行為の結果として生まれた作品が、それぞれに独立した完成作というよりも、連続する創作の発露であり、証しであるからではなかろうか。それらは、過去と現在と未来とをつなぐ、連続する制作のまさにそのただなかで生まれているのだ。それらは、終わらない、終えてはならない、祈りに似た、ひたむきな行為の持続の意志の産物であり、中心部にその意志が真っ赤に過熱した鉄棒のように貫いている。
 無数の鑿痕が集合して面となり、作品の表面を覆い尽くしている。打たれたエネルギーを木の表面は受けとめ、それを木の内部へと伝え、木全体の密度が高まったように感じられる。それゆえにそれは熱を帯び、懐かしく、だれもがつい触りたくなるのだ。
 生まれたかたちにはそれぞれにかけがえのない意味が宿り、冷たい記号としての抽象的な概念を指示したりすることもない。それはあくまで個物でありつづけようとする。それぞれに名前があるべきだとそれらは静かに主張している。シリアの爆撃で落命したこどもたちに捧げられた小さなひとがたは個性を大声で主張しないが、個性をおのずと宿して、わたしたちに名づけをうながさずにおかない。そして、いかにもこの彫刻家らしいことに、そのひとつひとつが集合して、さらに大きな人型になって壮大な作品に変貌することもある。
 近作の《鳳凰》(2016年)。その壮麗さにわたしは圧倒された。金色に輝いているわけではない。名人技を揮う細部を見せつけて圧倒するわけでもない。しかし、なにかここにも無数の小さな鳥が集合しているように感じられるのだ。木を叩く無数の音。それがまるで鳥の鳴き声のように幻想されるのだ。木と叩くと悪魔は退散するという古い言い伝えがある。安藤の《鳳凰》ほど、その言い伝えに相応しい作品はないのではなかろうか。

 水沢 勉


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安藤さん、本当におめでとうございます。
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2017/2/15

田口弘さんの葬儀  その他

今日もまた、美術館でお世話になった方を見送りました。
元東松山市教育長の田口弘さん。70年代から90年代にかけて、市と丸木美術館の橋渡しのような役割を果たして下さった方です。

田口さんの残した仕事は、2009年度朝日スポーツ賞受賞の理由となった日本スリーデーマーチの創設がもっとも知られているでしょう。
近年では、東武東上線高坂駅前の高田博厚の彫刻通りも地元で再評価されつつあります。
けれども丸木美術館にとっては、やはり東松山市中央公民館(現松山市民活動センター)大ホールの「平和のやまんば」の緞帳や、東松山市立青鳥小学校校舎の「平和の青い鳥」の壁画制作を実現させたことが忘れがたいものです。
丸木夫妻の絵を地元に残したのは、田口さんにしか成し得ない大仕事でした。

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松山市民活動センターの「平和のやまんば」緞帳

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東松山市立青鳥小学校の壁画

水上勉を丸木美術館に連れてきて丸木スマの絵を見せ、のちに文章を書いてもらうきっかけを作ったのも田口さんだったと聞いていますし、市の主催のバスツアーを組んで松本の神宮寺で丸木夫妻の襖絵を見る企画の案内人を務めたこともありました。

1944年に海軍所属の日本語教員として向かったフィリピン沖で米軍に船を撃沈され漂流、インドネシアで捕虜生活を送っていたことや、1936年夏の甲子園予選で旧制松山中学の控え捕手として0-72で大敗、60年以上続いた最多得点差の全国記録の経験者であったことは、ずいぶん後になってから知りました。

高村光太郎をこよなく愛し(実際に交流があり)、「ピカソ以後は芸術ではない」と頑固に言い張っていたので、企画委員会では意見を違えることも多かったのですが、それでも私は、田口さんの話を聞くのが嫌いではありませんでした。

94歳の大往生。冬とは思えぬ暖かな陽射しは、いかにも田口さんらしいと思います。
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2016/12/19

研究・資料室  その他

子どもたちが大きくなってきたので、ここ10日ほど小さな借家の中を抜本的に片づけて、当面必要なさそうな本や雑誌も大量に処分しました。
これまで本の置き場になっていた3階の屋根裏は息子の個室に、2階の洋室の机は娘が使うことになって、私は「難民」状態に(とはいえ、一番家にいない人が一番場所をとるわけにはいきません)。

それでも、いろいろな方から貴重な原爆・戦争関連書籍のコレクションを頂いたり、美術関係の図録や書籍を頂くなど、資料は増え続ける一方なので、思い切って美術館の2階の一室を整理して、研究・資料室として使わせてもらうことにしました。

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この日は休館日でしたが、たまたま仕事が休みだった妻に手伝ってもらって、一日がかりで床材の張り替えと新しい机・椅子の組み立て、棚の掃除と整理。部屋は別空間のようになりました。

もちろん、これまで通り1階の事務室には机を残しているので、通常業務は事務室で行いますが、集中したい原稿書きや調べもののときは2階で仕事をすることになります。応接室も兼ねているので、取材や来訪された方とお話しするのも、これからは2階が多くなるでしょう。
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2016/9/14

道場親信さんの訃報  その他

道場親信さんの訃報が届きました。とても辛いニュースです。

http://www.asahi.com/articles/ASJ9G519ZJ9GUCVL00X.html

広島の研究会で、原爆の図全国巡回展について最初に発表をしたとき、親身になって励まして下さったことを忘れません。
昨年4月の丸木美術館の幻灯上映会でも脚本を読み、シンポジウムに参加して下さって、ユーモアたっぷりに1950年代の文化運動について語られていました。
7月の早稲田大学の研究会でお会いしたときにも笑顔を絶やさず、「かならず復活する」とおっしゃっていたので、本当に残念でなりません。
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2013/11/7

銀林美恵子さんの訃報  その他

長年、丸木美術館を支えて下さった、銀林美恵子さんがお亡くなりになったという知らせを聞いたのは、今月4日のことでした。
銀林さんは長年江戸川区で被爆者運動に関わり、滝野公園にある原爆犠牲者追悼碑の建立に尽力されました。以前、銀林さんから掲載のご許可をいただいた文章を、再掲します。

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平和の願いが鳩になって世界に飛び立った日
―原爆犠牲者の追悼碑・鳩と母子像ができるまで―
銀林美恵子(江戸川区原爆被害者の会副会長/丸木美術館理事)

東京の下町江戸川区には区立公園の一角に、ユニークな原爆犠牲者追悼碑が建っています。「原爆の図」で世界的に著名な故丸木位里・俊夫妻が描く「鳩と母子像」の図柄が浮き立つような緑色の石碑です。

この碑建立までの経緯ですが、26年前区内の三人の住職から、江戸川の被爆者の会に「37回忌に何かを・・・・・・」との申し出があったのがきっかけです。三ヶ寺回り持ちでお寺さんと親江会の役員が毎月集まり相談を重ねました。その頃、私は知人から丸木夫妻を紹介され、広島でともに被爆した友達2人を誘って、初めて丸木美術館にでかけました。東京から1時間余りのところにこんな美しい自然があるのかと驚くような環境です。鶏や山羊も庭を歩いていました。すぐ下に川が流れ、林の中に美術館があり15点の大作「原爆の図」の殆どが展示されています。ご夫妻のアトリエは囲炉裏のある古い日本家屋、そこで、山羊の乳からつくったチーズと焼きたてのパンに山羊のミルクをご馳走になったその日のことは忘れられません。原爆のすごい絵を描かれた偉い先生にお会いする前の緊張でこちこちになっていた私たちでしたが、初めてお会いした時からすぐ打ち解け、すっかり丸木ファンになってしまいました。直接丸木夫妻に絵を描いていただき、被爆者や多くの市民たちで彫る手作りの碑を作りたいという想いで一杯になり江戸川にその話を持ち帰りました。

江戸川の「碑を建立する会」がその方向で活発に動きはじめ、石屋さんに適当な自然石を探すことを依頼し、碑の設置場所としては区長の協力も得て葛西駅近くの区立滝野公園に決めました。1981年4月12日、待望の「ノミ入れ式」。四国から運ばれてきた縦横2メートルの自然石を前に、丸木夫妻を囲んでの集まり。はじめ俊先生が、筆に墨汁を含ませて、母子像を子どもの目から、丁寧に描いていかれました。集まった人々が、固唾をのんでみまもっています。お母さんの髪が長く優しく象徴的に描かれた後、筆が位里先生の方へバトンタッチされました。しばらく、石をにらんでおられましたが、描きはじめるといかにも男性的な勢いで、大胆に母子像を囲む大きな鳩を一気にかき終えられました。皆の目が石に吸い付けられるようなひと時、とても80歳のご老体とは信じられません。参加者一同、平和への願いを込めて石の絵にノミを入れました。「この絵は原爆で亡くなった子どもたちが、鳩に生まれ変わって、世界に平和を訴えている図です。」と話される俊さんのお顔はさわやかでした。

その後約1ヶ月、石を彫る作業が続き色塗りも自分たちでして完成、公園に運ばれて7月26日、除幕式を兼ねた第1回江戸川原爆犠牲者追悼式が開かれました。それから25年、毎年7月末に追悼式が碑前で開かれる他、デモ行進の出発点や終結点になり、韓国の被爆者やチェルノブイリ支援で招いたキエフの子どもたちを案内したりなど、戦争・平和を考える反戦・反核の拠点として滝野公園は定着しています。

この碑に寄せる人々の願いが鳩になって世界に飛び立つことを願っての活動です。

(『ぴーす・ぴあ』2005年初夏号 No.104より)

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私がこの追悼碑を訪れたのは、2009年11月21日のこと。
銀林さんに「どうしても追悼碑を案内しておきたい」とお声掛け頂き、江戸川区に伺ったのでした。そのときの記録は、「丸木美術館学芸員日誌」に記しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1275.html

リューマチを患っていた銀林さんは、ご自分で自由に動くことのできる最後の時期だということを、覚悟されていらっしゃったのでしょう。銀林さんが施設に入所されたという知らせを聞いたのは、その翌年のことでした。

   *   *   *

穏やかな人柄で、誰にでも優しい姿勢で接して下さる銀林さんは、決して多くはない丸木美術館の給料で生活をしている私たち家族のことも、ずっと気にかけて下さっていました。

今日は午後から全国の平和博物館の関係者が丸木美術館を訪れ、館内説明を行いましたが、その後、急いで小岩で行われたお通夜に駆けつけました。
安らかにお眠りになる銀林さんのお顔を見ることができて、胸のつまる思いがしました。
銀林さん、本当にありがとうございました。
これからも、丸木美術館を見守っていてください。
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2012/12/27

中沢啓治さんへの弔辞  その他

12月25日に、中沢啓治さんが亡くなったという知らせを聞いて、たいへん驚きました。
ちょうど休館日だったので、携帯電話にNHKの方から取材の連絡が来たのですが、私には『はだしのゲン』の読者であるという以上に、語れる言葉はなく。
同じ埼玉県在住者として、一度お目にかかってお話を聞く機会があればと後悔しています。

本日、12月27日付『中国新聞』に、原爆文学研究会の川口隆行さんが“中沢啓治さん「はだしのゲン」に寄せて”と題する寄稿をされています。

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20121227102416241_ja

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……「はだしのゲン」とは、美辞麗句に塗り固められた支配的物語にあらがうことで、歴史の闇に消え去る無数の経験と存在の記憶を取り戻そうとした試みにほかならない。中沢は、空洞化した「ヒロシマ」の「平和」に対する根本的批判者でもあった。「はだしのゲン」の続編はついに書かれることはなかった。その未完の劇の続きは、残された私たちがそれぞれの仕方で書き、語り継いでいくしかない。

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川口さんの中沢さんに対する精一杯の弔辞とのこと。原稿を依頼されたのはD記者だそうです。昨年夏、川口さん、D記者と三人で広島の愛友市場のお好み焼き屋で夜更けまで飲んだことを思い出します。

丸木美術館の図書室兼休憩室・小高文庫にも、『はだしのゲン』を書棚に並べています。
中沢さんを偲びながら、あたらめて読みかえしたいと思います。
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2012/11/19

振り込め詐欺と思われるメールについて  その他

本日、岡村とメール送受信の履歴のある方に、以下のメールが送られたようですが、まったく事実無根の内容です。どうぞ速やかに削除して下さい。

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Good Morning,
I'm writing this with tears in my eyes,I came down here to Philippines on a short vacation with my family unfortunately i was mugged at the park of the hotel where i stayed.All cash,credit cards and cell phone were stolen off me but luckily for me i still have my passport with me.

I've been to the embassy and the Police here not helping issues at all,my return flight leaves in few hours from now but am having problems settling the hotel bills and the hotel manager won't let me leave until i settle the bills. Am so worried at the moment.

Kind regards
Yukinori Okamura

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どうやらアカウントに入りこまれたようで、迷惑メールの配信後まもなく知人から知らせを受けてすぐにパスワードを変更したのですが、返信された方のなかには、その後私とよく似た別のアドレス「Okamuira」から振込口座の指定もあったようです。
今後も同様の被害が続くようであれば、アカウントの変更など対応を考えます。ご心配、ご迷惑をおかけして本当にすみません。心よりお詫びを申し上げます。
なお、複数の方から、以前にもまったく同じ内容のメールを別の方から受けとったことがあるとの報告を頂きました。
在フィリピン日本大使館のHPにも注意勧告が出ていました。
http://www.ph.emb-japan.go.jp/pressandspeech/osirase/2012/110812.htm
皆さまもくれぐれもお気をつけ下さい。
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2012/8/3

反核平和の火リレー/太陽光発電稼働など  その他

ひろしま忌に向けて、慌ただしく準備を続ける毎日です。

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午前中には反核平和の火リレーが丸木美術館の前で中継されました。
事務局のNさんがトーチの中継に立ち会い、力強い挨拶をしました。

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また、この日はついに太陽光発電を外部の電線につなげる工事が行われました。
NHKのT記者も取材に訪れ、その作業の様子を撮影して下さいました。

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午後3時過ぎ、ついに太陽光発電が稼働。
3つのメーターの数値を足すと、10kw前後で安定しています。
電気については現実的に目に見える変化があるわけではないのですが、われわれスタッフも感慨深く数値を見上げました。

   *   *   *

夕方には、2階アートスペースに特別展示「2012 Aaron & Ash Speaking Tour プレパネル展」が完成(8月25日まで)。
イラク戦争の初期に米軍兵士として従軍したアーロン・ヒューズとアッシュ・キリエ・ウールソンの作品展示です。
彼らは今冬に来日し、12月7日から9日にかけて、丸木美術館アートスペースにて本格的な展示を行うのですが、今回はその前宣伝のプレパネル展となります。
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2012/5/25

facebookについてのお詫び  その他

本日早朝、岡村とメールのやりとりをした履歴のある方へ、自動的にfacebookのご案内メールが送られてしまったようです。
私の不注意による誤操作が原因と思われますが、メールがどの範囲まで送られているのか、まったく把握できません。そのため、ブログ上でのお詫びをお許しください。
皆さまにご迷惑をおかけしてまい、本当に申し訳ありませんでした。
メールはそのまま削除して下さって結構です。
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2012/4/18

吉武輝子さんの訃報  その他

評論家として女性の地位向上や平和運動などに尽力され、丸木美術館の理事も務めて下さっていた吉武輝子さんが、2012年4月17日、肺炎のため80歳で逝去されました。
葬儀は21日正午から東京都新宿区神楽坂5の36の善国寺で行われます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120418-00000001-jij-soci

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吉武さんは、丸木俊が亡くなった際、2000年1月18日付『東京新聞』(夕刊)に“ほら貝に泣いた日のこと”と題する追悼記事を書いて下さいました。
吉武さんが世話人をされていた「戦争への道を許さない女たちの連絡会」主催による“女たちの憲法の集い”が、1993年5月3日に東京・有楽町マリオンで開かれたときの回想です。
このとき、吉武さんは当時80歳だった俊に綿々と思いを書き綴った手紙を書き、俊に登壇を快諾させたと記しています。
集会に登場した俊は2分ほど近況を語った後、布袋から木製のほら貝を取り出し、「昔、昔、百姓一揆のときに吹いたものです。今日は憲法改悪阻止の女の一揆。だから私はほら貝を吹きに来ました」と言って、長々とほら貝の音を鳴り響かせました。
吉武さんはその音に鳥肌が立つような感動を覚え、「丸木さんの怒りと祈りのすべてがこめられて」いると感じたそうです。

もっとも、吉武さんならではの視点が発揮されるのは、この後に続く後半の文章。

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 「みなさん、位里と私のことをおしどり夫婦だとおっしゃる。でも本当は仇敵同士。原爆の図を二人で三十年近く描いてきたけれど、彼は日本画、私は洋画。手法の違う二人が共同制作をするのだから当然ぶつかり合うものがある。絵のほうは歳月を重ねるうちに、日本画、洋画を融合させた新分野を作り出していくことができた。
 でも、位里の女性観は終始一貫変わらなかった。位里は絵かきであり続けたが、私は家事や生活費稼ぎに時間を取られすぎた。私が絵に打ち込みすぎると、位里はぐんと遠ざかる。そして必ず女の影がちらつく。若くして夫に死別した三岸節子さんを、うらやましいと思ったことが何回かあった」
 七歳先輩の洋画家の先駆者三岸節子の伝記を書きたいと私が言ったとき、ふと真情を吐露した丸木さんの言葉が鮮明に蘇ってきた。

 旧姓赤松俊子が十二歳年上の丸木位里と結婚したのは四一年のこと。位里は三度目の結婚だった。俊は北海道生まれ、位里は広島生まれ。原爆投下直後に位里の両親の安否を求めて広島を訪れ、悲惨な光景を目の当たりにしたのが、夫婦で十五部の大作「原爆の図」を描き続けるきっかけだった。
 人の命を無惨に奪う戦争への怒りと、二度と同じ過ちをくり返すことがないようにとの祈りとを、俊は塗り込めていったのだろう。そして同時に、戦前と変わらぬ夫位里の女性観に対する怒りとよきかかわりへの祈りをも。祈りはかなわなかった。それを怒り、また祈る。その切々たる思いがほら貝の音となって響き渡ったのだろう。今も耳を澄ますとあの日のほら貝の音が聞こえてくる。
 だがこの水と油のような男女が夫婦にならなかったら、「原爆の図」は誕生することはなかったのである。


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男に抑圧される女の哀しみ、そして男女の愛憎の果てに見えてくるものを、吉武さんは鮮やかに表現される方でした。
“水と油のような”丸木夫妻の関係は、吉武さんにとって非常に心を惹かれるものだったのではないでしょうか。
2002年8月20日付『デーリー東北』には、小沢節子著『「原爆の図」―描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(岩波書店、2002年)の書評も記されています。

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 「私と俊が夫婦にならなかったら、『原爆の図』はなかったろう」と言ったのは丸木位里だが、確かに丸木位里と赤松俊子という二人の画家の出会いと人生の軌跡を抜きにしては、三十年にわたる夫妻の連作「原爆の図」について語ることはできない。そして同時に、水と油のような男女が夫婦になったことによって、被爆体験の思想化という苦行にも等しい重荷を背負い続けていくことにもなったのである。
 全世界の人々の心を揺さぶり、二十世紀の黙示録的な役割を果たしたにもかかわらず、戦後美術史の中に位置づけられることもなく、社会的な意味さえをも検討されることのなかったのはなぜか。
 著者は「原爆の図」がたどった運命を、この連作の生成の経過を克明に見詰めながら、そこに描かれたイメージを分析し、かつ社会的な働きをち密に解明しつつ謎解きに迫っていく。


(中略)

 未曾有の体験をしたとき、多くの人たちは、既成の言葉や表現に依存して、悲惨な事実を記憶という形で忘却のかなたに葬ろうとする。常に同時代の問題として迫ってくる「原爆の図」には、あいくちを突きつけてくるようで、時にはいら立ちを、あるいは忌避感を抱かせもするのだろう。

(後略)

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《原爆の図》に犬や猫や鶏などが描かれていることを、小沢さんの著書を読んで初めて気づかされたという吉武さんは、小さきもの、そして他者への心配りを忘れず、優しい心づかいをされる方でもありました。
体調がすぐれないにも関わらず、いつも満面の笑顔で丸木美術館に来られていた吉武さんの姿を思い出します。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
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2012/1/8

林光さんの訃報  その他

1月5日に作曲家の林光さんが亡くなられたそうです。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0107/TKY201201060748.html

林さんといえば、私は『第五福竜丸』や『裸の島』など新藤兼人監督の映画音楽を思い浮かべます。『原爆小景』などの林さんが作曲・編曲された数々の合唱曲も、林さんご自身が指揮するコンサートなどでたびたびお聴きしていました。
昨年、80歳のバースデーコンサートの直前に倒れられたという話を人づてに聞いて心配していたのですが、本当に残念に思います。

林さんの著作『私の戦後音楽史 楽士の席から』(平凡社、2004年)には、東京藝術大学在学時の《原爆の図》との興味深い接点が回想されています。
1952年秋の芸術祭(大学祭)に美術学部平和委員会が《原爆の図》展示を企画したことを聞きつけた林さんは、友人の間宮芳生氏、外山雄三氏、寺島尚彦氏の3人を誘って、絵の前で「原爆カンタータ」の作曲演奏を行ったそうです。
テクストは原民喜の『原爆小景』と峠三吉の『原爆詩集』から4篇の詩が選ばれ、峠の「序詩」を間宮氏が、原の「水ヲ下サイ」を寺島氏が、「碑銘」を外山氏が、「永遠のみどり」を林さんが担当して作曲したとのこと。
男声2パート、女声2パートに各2人ずつ、8人の歌い手を集めて絵の前で行われた演奏を、林さんは次のようにユーモラスに記されています。

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 はじめて接する『原爆の図』の凄惨な部分が思わず目にはいってドギマギして、その気持ちがおちつく間もなく、演奏をはじめなくてはならなかった。だれが指揮をしたのか、各自が自作を振ったわけではなかったと思う。外山と私が分担して指揮したのかもしれない。振りながらも、歌い手たちの立っているすきまの向うに、燃える腕だの絶叫する顔だのがチラチラ見えかくれする。歌い手たちは、反対側の、つまり指揮している私たちの背中の側の絵が、これまたいやでも目にはいっているらしい。
 たぶん、ひどいことになっているんだろうなあと思いながら、私たちは夢中で演奏し終った。
 さて反響がどうだったか、いっこうに思い出せない。思い出せるのは、『原爆の図』にかこまれての『原爆』カンタータの演奏、などというロマンチックな空想はみじんに打ちくだかれた、苦しい数分間であったということだけだ。
 名画にかこまれた貴族の館でひらかれるバロック室内楽の午後、なんていう、優雅な七〇年代の音楽雑誌のカラー口絵写真を見ると、この「原爆」カンタータ始末を思い出す。
 そして思う。その絵が、ほんとうに生きていて、私たちに語りかけてくるとき、そんなものたちにかこまれて音楽をのんきにやっているわけにはとてもいかないだろうと。


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もっとも、会場を訪れた声楽家の関鑑子氏は、演奏が終わると大粒の涙を流したそうです。
林さんはこの後も原爆を主題に取り組み続け、1959年には映画『第五福竜丸』(大映、新藤兼人監督)の音楽を担当、さらに1958年より合唱曲『原爆小景』を発表し、2001年に最終4楽章を完成させています。

林さんによれば、生前の丸木俊さんに当時の思い出を話したところ、「いつか東松山の丸木美術館で、『原爆の図』にかこまれて『原爆小景』を演奏してみたいですね」という声をかけられたそうです。
《原爆の図》の前で“再演”して頂く機会をとうとう逸してしまったことが、悔やまれてなりません。
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2011/7/18

丸木アンブレラ・プロジェクト  その他

今年は陽射しの強い日が続きますが、丸木美術館の庭には新たな試みが導入されています。
現代美術家クリストの「アンブレラ・プロジェクト」(1991年に太平洋を挟んで日米両国に約1,300本の傘を設置した芸術プロジェクト)をちょっとだけ思い起こさせる3本の日傘です。

クリックすると元のサイズで表示します

この日傘は、事務局長のNさんの発案で設置しました。
傘の影に椅子を置いて川風にあたると、たいへん涼しく心地よいです。
電力をなるべく使用しないように、という理由で、もともと館内に冷房のない丸木美術館。
そのため、展示室はどうしても蒸し暑くなりがちですが、ぜひ庭の「丸木アンブレラ・プロジェクト」でゆっくり涼んでいただきたいと思います。
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