2017/12/21

四國五郎『わが青春の記録』  書籍

丸木美術館ニュース新年号が、ようやく校了しました。
今号は高畑勲さん×アーサー・ビナードさん対談、川崎哲さん講演の抄録に、柿木伸之さんによる『〈原爆〉を読む文化事典』書評、谷本清平和賞受賞報告など盛りだくさんの内容となりました。

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そして、昨夏の企画展でも展示した、四國五郎の1000頁に及ぶ画文集『わが青春の記録』上下巻セットをご恵贈いただきました。どうもありがとうございます。
記念碑のような存在感から、刊行にかかわった方々の思いが伝わってきます。
シベリア抑留と戦後文化運動の貴重な記憶が、世に残されることを嬉しく思います。
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2017/4/28

本橋成一写真集『位里と俊』  書籍

本橋成一新刊写真集『位里と俊』(2200円+税)、が入荷しました!
展覧会とともに、ぜひご覧ください。

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椹木野衣(美術評論家)
ふたりの絵が、まるで結晶のように生まれてきたことが、手に取るようにわかるのだ。

奈良美智(美術家)
本橋さんの写すふたりの生活は、まるで家族が撮ったように自然な広がりを感じさせる。
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2017/4/27

木下直之『せいきの大問題 新股間若衆』  書籍

本日、手もとに届いた木下直之さんの新著『せいきの大問題 新股間若衆』(新潮社)に、ついに《原爆の図》が登場しました。

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まず「戦後復興を見据える未来像」の一例として、赤松俊子の《裸婦(解放されゆく人間性)》を取り上げ、しかし、それは黒田清輝以来のルール、つまり「両股を閉じ、陰毛を描きさえしなければ普通の油絵と変わらない」とする裸体像の原則に従った絵であるとした上で、《原爆の図》の特異性に注目していきます。

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画面両端の女の姿を間近に見て、ふたりの股間には陰毛が描かれていることに気がついた。右の女はさらに性器らしきものも表現されている。考えてみれば当たり前の話だ。被爆者を黒田清輝以来の約束事に従って描くことなどできるはずがない。被爆者は原爆の閃光と熱線と旋風とによって、衣服を引き裂かれ、焼かれて裸にされたのだから、その裸が美しいヌードであるはずがない。被爆の現実を描こうとするのであれば、股間だけを奇麗事で済ますわけにはいかなかった。
《幽霊》には男の姿もある。少なくとも三人の男の股間には正しく性器が描かれている。そして、このことは印刷物の図版ではなかなか判読できない。実物と向き合わなければわからない。じっと見ているうちに、人間を描こうとした位里と俊の強い意思が伝わってくる。


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拙著『《原爆の図》全国巡回』からも、「《原爆の図》が、まず、裸体表現を『エロチック』、原爆の惨状の描写は『グロテスク』と批判され、『一つの見世物』と評されたことは記憶しておきたい」という一文を引用して下さっていますが、この箇所はまさに、木下さんの前著『股間若衆』や『美術という見世物』を思い浮かべながら記したものでした。

さらに、再制作版《原爆の図》は股間表現に後退が見られることや、すべての股間を赤裸々に描いたわけではなく、随所に洋画家としての配慮が働いていること、その配慮は、裸体画のルールにしたがったというだけでなく、死者に対するものでもあったこと、それでも《原爆の図》がこれまでの裸体画の約束事を突き破ったことは間違いないと、木下さんならではの視点から《原爆の図》に迫っていきます。

その他の章はまだじっくり読んではいませんが、藤田嗣治と水木しげるの戦争表現について、「ふんどし」を手がかりに分け入っていき、「人間と向き合うことにおいて、藤田嗣治の《アッツ島玉砕》は水木しげるの『総員玉砕せよ!』(上)の足元にも及ばない」と断じるなど、興味深い箇所が満載の一冊です。
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2017/1/4

『「サークルの時代」を読む――戦後文化運動研究への招待』  書籍

2017年、丸木美術館開館50周年の節目の年の仕事始め。
年末年始の休館中に、戦後文化運動合同研究会の10年間の貴重な活動の成果をまとめた『「サークルの時代」を読む――戦後文化運動研究への招待』(影書房)をご恵送頂きました。

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東京南部の下丸子文化集団、大阪の『ヂンタレ』、広島の『われらの詩』、九州の『サークル村』など、1950年代には各地でサークル運動が同時多発的に広がっていきました。
そうしたサークル運動の多くが、2000年代に入ってから、これまた同時多発的な「発見」があって若手研究者たちを中心に読みなおされていくのですが、その中心的役割を果たしたのが戦後文化運動合同研究会でした。

丸木夫妻が《原爆の図》を背負って全国を巡回したのも、1950年代はじめの占領下/朝鮮戦争下。
まさに「サークルの時代」であり、各地で展覧会に尽力した人びとの中には、サークル運動関係者が少なくありませんでした。
私が広島大学の川口さんから声をかけて頂いて、1950年代の原爆の図全国巡回についての報告をしたのは、2009年8月の原爆文学研究会・戦後文化運動合同研究会でした。

そのときは、自分がなぜこの場で発表しているのか、原爆文学研究会や戦後文化運動合同研究会が何者であるのか、まったく理解していなかったのですが、この本によって、戦後文化運動研究会の歴史を初めて知り、自分の研究が偶然にもその大きな流れのひとつであったことに気づきました。

昨年9月に亡くなられた道場親信さんの遺著『下丸子文化集団とその時代――一九五〇年代サークル文化運動の光芒』(みすず書房)とあわせて、この機会にあらためて、「サークルの時代」の意味を読みなおしたいと思っています。
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2016/12/1

第22回平和・協同ジャーナリスト基金 奨励賞受賞  書籍

このたび、第22回平和・協同ジャーナリスト基金賞が発表され、『《原爆の図》全国巡回』が奨励賞を頂くことになりました。

60年以上前の巡回展の掘り起こしという地味なテーマであり、一冊の本にまとめることができただけでもありがたく思っていたので、予期せぬ知らせに驚いています。
《原爆の図》という絵画にかかわった無数の「人びと」を軸にした本だけに、市民の基金で運営される賞に選んで頂けたことは、たいへん嬉しいです。

山村茂雄さんをはじめ推薦に尽力して下さった方々、そして「全会一致」で選んで下さったという審査員の皆様に、心から御礼を申し上げます。

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◆基金賞(大賞)
 毎日新聞夕刊編集部 夕刊『特集ワイド』における平和に関する一連の記事
◆奨励賞
 大塚茂樹 『原爆にも部落差別にも負けなかった人びと』(かもがわ出版)
 岡村幸宣 『《原爆の図》全国巡回―占領下、100万人が見た!』(新宿書房)
 おしどりマコ・ケン 原発問題での情報発信
 金澤敏子、向井嘉之、阿部不二子、瀬谷實 『米騒動とジャーナリズム』(梧桐書院)
 上丸洋一 『新聞と憲法9条』(朝日新聞出版)
 瀬戸内海放送制作 「クワイ河に虹をかけた男」
 森永玲 「反戦主義者なる事通告申上げます―消えた結核医 末永敏事―」(長崎新聞社連載)


12月10日(土)午後1時から、日本記者クラブ大会議室(東京・日比谷の日本プレスセンタービル9階)に受賞者・団体をお招きして賞贈呈式を行います。
贈呈式の前半は賞状等の授与、後半は祝賀パーティーで、前半のみ参加の方は無料、祝賀パーティーまで参加の方は参加費3000円です。

【選考経過より】
岡村幸宣さんの『≪原爆の図≫全国巡回――占領下、100万人が観た!』も原爆にからむノンフィクションです。丸木位里・俊夫妻が「原爆の図」を発表したのは米軍占領下の1950年。米軍が原爆に関する報道を禁止していたから、日本国民が原爆被害の実態を知るのは困難な時代でした。が、本書によれば、なんと「原爆の図」巡回展が全国各地で催され、大勢の入場者があったというのです。「国民の間で今なお反核意識が強いのは、こうしたことがあったからかも。これまで知られていなかった事実を丹念に掘り起こした努力は称賛に値する」と、全会一致で授賞が決まりました。

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2016/10/2

『原爆文学研究』第15号  書籍

『原爆文学研究』15号(花書院)が手もとに届きました。
いつもながら充実のラインナップ、明日からの広島出張のお供にして、じっくり読みたいと思います。

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昨年末の国際会議の報告、そして戦後70年の書評特集はたいへん読み応えあり。
そして個人的には、戦前に広島の芸術家のサロンになっていて、丸木位里の作品も所蔵していたであろう黒川医院(ほぼ爆心地にあったため、病院は壊滅、院長は死去)の息子が、戦後に動燃に勤務し、核の「平和利用」に関わっていくことになるという事実に驚かされました(東村岳史 「被爆体験と「平和利用」」)。
美術史の中で馴染みの名前が、ふいに核の歴史に接続してきたことへの戸惑い。でも広島という街では、そういうことが起こりうるというのも、今まで何度も経験していることではありますが。

以下は今号の目次。
丸木美術館でも販売いたします。

◆ 批評 articles
東村 岳史  被爆体験と「平和利用」 ―「だからこそ≠フ論理」と個人の生き方
波潟 剛  アフリカ・広島・阿部知二―ヒューマニズムと原爆文学

◆ 特集 国際会議:核・原爆と表象/文学─原爆文学の彼方へ─
川口 隆行  特集にあたって
【セッション1 移動する原爆―文学】
島村 輝  「投下する」側の「記憶」―二〇一五年・日本からの再検証
齋藤 一  核時代の英米文学者― Hermann Hagedorn, The Bomb that Fell on America (一九四六年)の日本語訳(一九五〇年)について
松永 京子  ジェラルド・ヴィゼナーの『ヒロシマ・ブギ』における 原爆ナラティヴの軌跡―大田洋子と「ネイティヴ・サヴァイヴァンス」をめぐって―
【特別講演】
シャマン・ラポガン   大海に浮かぶ夢と放射能の島々―文学者と民族運動家のはざまにいる者の幻想― (李 文茹訳)
【セッション2 原爆を視る】
野坂 昭雄  原爆写真というメディアと〈詩〉
紅野 謙介  「キノコ雲」と隔たりのある眼差し―戦後日本映画史における〈原爆〉の利用法
マイケル・ゴーマン  核の不安から核の無関心―アメリカの大衆文化における核イメージの変容― (永川 とも子訳)
【セッション3 冷戦文化と核】
アン・シェリフ  核と自由 ― 1960 ― 1970 年代の日米における公民権/反戦/反核運動―
山本 昭宏  「カサ」の下の「理想」と「現実」― 一九六三〜六七年の論壇での議論を中心に―
林 泰勲  1960 年代韓国の原子力プロパガンダにおける『学生科学』の位置(林 慶花訳)

◆ 書評 book reviews
◆ 特集 ブックレビュー「戦後70年」
特集 ブックレビュー「戦後 70 年」について
永川 とも子  ジム・バゴット著『原子爆弾 1938 〜 1950 年
― いかに物理学者たちは、世界を残虐と恐怖へ導いていったか?』
小沢 節子  堀川惠子著『原爆供養塔 忘れられた遺骨の 70 年』
高橋 由貴  柿木伸之著『パット剥ギトッテシマッタ後の世界へ
―ヒロシマを想起する思考』
茶園 梨加  村上陽子著『出来事の残響―原爆文学と沖縄文学』
畑中 佳恵  中尾麻伊香著『核の誘惑―戦前日本の科学文化と「原子力ユートピア」の出現』
水溜 真由美  直野章子著『原爆体験と戦後日本―記憶の形成と継承』
伊藤 詔子  柴田優呼著『ヒロシマ・ナガサキ#爆神話を解体する―隠蔽されてきた日米共犯関係の原点』
高山 智樹  山本昭宏著『核と日本人― ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』
黒川 伊織  四條知恵著『浦上の原爆の語り― 永井隆からローマ教皇へ』
四條 知恵  福間良明著『「戦跡」の戦後史― せめぎあう遺構とモニュメント』
東村 岳史  岡村幸宣著『《原爆の図》全国巡回― 占領下、100万人が観た!』
柿木 伸之  能登原由美著『「ヒロシマ」が鳴り響くとき』
◆ エッセイ essays
中野 和典  イメージのネットワークを問いなおす―「元寇」と『黒い雨』
◎ 彙報
表紙/石原一慶
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2016/9/8

永田浩三著『ヒロシマを伝える』の事実誤認について  書籍

今夏、刊行された永田浩三さんのご著書『ヒロシマを伝える−詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち』は、原爆投下後、占領下の時代に原爆被害を伝えた表現者たちの物語です。
永田さんの多方面にわたるご活躍には以前から敬意を頂いていますし、その問題意識にも共感しているのですが、一方、この書籍に事実誤認が少なくないことは、刊行当初から関係する研究者たちの間で話題になっていました。

私から指摘できることは丸木夫妻関係の記述に限られていますが、中には重要な誤認も含まれていたので、著者の永田さん、WAVE出版担当のSさんと相談の結果、明らかに事実と異なる個所に限って、WAVE出版のサイトに正誤表を公開して頂くことになりました。
念のため、学芸員日誌ブログにも、永田さんのお書きになった正誤表を公開しておきます。

もっぱら丸木夫妻に関する箇所は私が指摘しましたが、広島の地名や人名、施設名などの表記については(お名前は出せませんが)日常的に被爆者の証言に深くかかわっていらっしゃる方からの指摘が多くありました。その他、四國五郎のご遺族や他館施設の方からの指摘も含まれています。

丸木美術館での販売分につきましては、この正誤表を折りこむことにしますが、すでにお求めの方も、正誤表を照らし合わせながらお読みになることをお勧めします。
永田さんの精力的な活動には敬意を表しますが、重要な問題に多く触れているご著書だけに、誤った情報が流布することを危惧します。

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『ヒロシマを伝える』本文中の表現および誤植に関して

この度は弊社出版物をご購入頂きありがとうございます。本文中に適切でないと思われる 表現及び誤植がありましたので、ここにお詫びし訂正させていただきます。

 2016年8月25日
 著者・永田浩三
 株式会社WAVE出版

3頁15行目 (誤)猿猴川 →(正)京橋川
31頁13行目 (誤)掘立小屋だった →(正)削除
39頁5行目 (誤)白島町の逓信病院 →(正)東白島町の広島逓信病院
45頁13行目 (誤)猿猴川 →(正)京橋川
51頁15行目 (誤)平野川 →(正)京橋川
58頁15行目 (誤)紙屋町 →(正)中区大手町
58頁12行目 (誤)2016年 →(正)2015年
61頁11行目 (誤)広島中学 →(正)中学校(四國によれば、広島中学とある)
64頁3行目、8行目 (誤)広島産業奨励館 →(正)広島県産業奨励館
72頁7行目 (誤)二歳 →(正)11歳
78頁1行目 (誤)中島公園 →(正)中島町
79頁8行目 (誤)広島市 →(正)広島市立
81頁6行目 (誤)広島 → (正)広島県福山
83頁 図版のキャプション(誤)日鋼争議(赤松俊子・画 丸木美術館蔵)→(正)日鋼ストの門(赤松俊子・画 個人蔵)
88頁1行目  (誤)白いチマチョゴリの女性を中心に描いている。→(正)裸の女性の脇にチマチョゴリの女性を描いている。
94頁12行目 (誤)9月23日 →(正)8月29日
125頁13行目 (誤)広島県安佐郡飯室村 →(正)広島市三滝町
134頁4行目 (誤)松重重人 →(正)松重美人
136頁15行目 (誤)山田五十鈴 →(正)削除
136頁 図版のキャプション (誤)『みんなの詩』→(正)『われらの詩』
137頁2行目 (誤)およそ170万人 →(正)現在判明しているだけでおよそ170万人
161頁4行目  (誤)新たに赤松俊子が担当  →(正)赤松俊子が原画を描いた。(ただし、実際に使用されることはなかった。)
240頁5行目 (誤)森重明 →(正)森重昭
240頁10行目  (誤)真実が浮かび上がる  →(正)「市民が描く原爆の絵」とは、違った見解にたどり着いた。
15行目  (誤)それが暴行によって殺されたという物語の真相のようだ。→(正)これが森がたどりついた結論だ。米兵捕虜は民衆によって殺されたのか、すでに息絶えていたのか、それを判断する手立てをわたしは今持っていない。
17行目 (誤)米兵捕虜の死の話 →(正)米兵捕虜の虐待の話
17行目 (誤)日記をもとに →(正)削除
241頁2行目 (誤)まだ噂話が生き残っていた時代 →(正)削除
242頁 図版のキャプション (誤)米軍捕虜の死 →(正)米兵捕虜の死


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単純な表記の誤りはともかくとして、訂正箇所には解説が必要なところもあるので、以下、主に丸木夫妻の箇所にしぼって、解説を付記します。

88頁1行目  (誤)白いチマチョゴリの女性を中心に描いている。→(正)裸の女性の脇にチマチョゴリの女性を描いている。

永田さんが言及されているのは、俊が日鋼争議を描いた唯一の油彩画《広島日本製鋼事件によせて》(1949年)を指すと思いますが、以下の図版の通り、裸婦像を中心にした作品で、その左奥に桃色のチマチョゴリを着た女性像が描かれているものの、「白いチマチョゴリの女性を中心に」とは言い難い作品です。

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125頁13行目 (誤)広島県安佐郡飯室村 →(正)広島市三滝町

飯室村のルビ「いいむろ」は誤り、「いむろ」と読みます。
しかし、そもそも丸木家は1931年に広島市内三滝町に転居しています。1950年当時中学生だったという佐藤光雄氏の年齢から考えて、丸木スマの隣家に住み、防空壕を共有していたという回想は、広島市三滝町でのことと思われます。

136頁15行目 (誤)山田五十鈴 →(正)削除

「原爆の図三部作完成記念会」の告知ビラには、確かに山田五十鈴の名があります。
その告知ビラを紹介している刊行物は拙著『《原爆の図》全国巡回』(64頁)のみなので、永田さんはおそらく拙著を参考にして「山田五十鈴がかけつけた」と書かれたのでしょう。
しかし、後日報道された1950年8月26日付『婦人民主新聞』の記事には山田五十鈴のことは一切触れられていません。ビラに名前があっても、当日は来なかった可能性が高いです。少なくとも、私の知る限り、「かけつけた」と言いきる根拠を示す資料は存在しません。

137頁2行目 (誤)およそ170万人 →(正)現在判明しているだけでおよそ170万人

全国巡回展については不明な点が多く、拙著『《原爆の図》全国巡回』に記している通り、「現在判明しているだけで、少なくとも」という前置きが必要です。それは、永田さんが訂正されている「170万人」だけではなく、その直前の「全国170か所」という数字についても同様です。

161頁4行目  (誤)新たに赤松俊子が担当  →(正)赤松俊子が原画を描いた。(ただし、実際に使用されることはなかった。)

→青木文庫の『原爆詩集』は、昔の文庫本によくある画一的な表紙で、表紙原画を俊が担当したという事実はありません。広島市立中央図書館には、俊の描いた表紙原画が存在しますが、文庫用ではなく、単行本を想定したものでしょう。しかし、『原爆詩集』が文庫として刊行されることになった時点で、表紙画は没になったと思われます。今春、丸木美術館でも「未使用原画」として展示しました。

240頁10行目  (誤)真実が浮かび上がる  →(正)「市民が描く原爆の絵」とは、違った見解にたどり着いた。
15行目  (誤)それが暴行によって殺されたという物語の真相のようだ。→(正)これが森がたどりついた結論だ。米兵捕虜は民衆によって殺されたのか、すでに息絶えていたのか、それを判断する手立てをわたしは今持っていない。
17行目 (誤)米兵捕虜の死の話 →(正)米兵捕虜の虐待の話
17行目 (誤)日記をもとに →(正)削除
241頁2行目 (誤)まだ噂話が生き残っていた時代 →(正)削除


もっとも事実誤認を危惧するのは、この「米兵捕虜」の箇所です。
永田さんは、四國五郎の弟・直登の日記についても言及していますが、彼の8月7日の日記の中には、「元の野砲の所で一名の米兵を眞ぱだかにして手足をくくり棒切で通行人にうたしていた」という記述が存在します。
米兵捕虜の虐待についてはさまざまな議論があり、永田さんが言及されている森重昭氏のご著書でも、相生橋の米兵の虐待はなかったのではないかと推論が記されていますが、直登の日記に登場する西練兵場付近での虐待の記録は、おそらくもっともリアルタイムに近い状況で記された、極めて信憑性の高いものです。

そして、1950年10月の五流荘展の際、四國五郎は「4部、5部の資料のために」直登の日記を丸木夫妻に手渡したと自らの日記に回想しています。日記をもとに《原爆の図》を描いたと記すならば、1951年に発表した第4部《虹》でしょう。
1971年の《米兵捕虜の死》を描く際には、原爆資料館主査小堺吉光が同行し、当時陸軍中国憲兵隊司令部特別協力班長だった柳田博、陸軍歩兵第1補充隊第2部隊に勤務し米兵捕虜の世話に当たっていた増本春男から話を聞いたという記事が、1971年2月12日付『中国新聞』に紹介されています。
そうした資料からも、「(直登の)日記をもとに、1971年、丸木夫妻は、『原爆の図』第13部「米兵捕虜の死」を描いた。」というくだりは、明らかな誤りです。

参考までに、《米兵捕虜の死》制作の経緯については、丸木俊の著作『幽霊―原爆の図世界巡礼』(1972年、朝日新聞社)に詳しく記されています。
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2016/4/9

東京新聞「戦後の地層」取材班編 『戦後の地層 もう戦争はないと思っていました』  書籍

東京新聞社会部デスクの早川由紀美さんよりご恵贈頂きました。

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新刊の『戦後の地層 もう戦争はないと思っていました』(東京新聞「戦後の地層」取材班編、現代思潮新社)。東京新聞の大型連載をまとめた書籍です。
どうもありがとうございます。

実は早川さんは、2012年に核をテーマにした芸術の新聞連載を提案して下さった、つまり『非核芸術案内』の生みの親でもあります。
「丸木だらけの本です」とのメモがついていましたが、確かに、ここ数年取材していただいた記事が収録されていて、懐かしい気持ちになりました。

書籍版は東京新聞の連載から大幅に加筆。漫才、国民服、生活図画、八紘一宇の搭、はだしのゲン、ハウステンボス、ちゃんぽん、タピオカ、キノコ、相馬野馬追など、ユニークな視点から「知られざる歴史の地下水脈」を掘り起こし、危うい時代への警鐘を鳴らす一冊です。
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2016/4/8

山代巴著『蕗のとう』寄贈  書籍

「大切にしてきた本ですが、そろそろ終活を考えるべき時になり、さまざま考えまして、お送りすることにいたしました」と、さる方からご寄贈頂いた一冊。

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山代巴著・赤松俊子装幀挿画『蕗のとう』(暁明社、1949年7月20日発行)。
実は丸木美術館にも蔵書がなかったので、たいへんありがたいものでした。

山代巴は俊さんの女子美術時代の同級生。
1987年8月6日『中国新聞』の富沢佐一記者の記事「ヒロシマ表現の軌跡」によれば、1947年頃に彼女が丸木夫妻のアトリエを訪れ、居合わせた雑誌編集者に紙切れに書いた小説を見てもらったことから作家としてデビューしたそうです。
「私は、刑務所での体験が絵で表現しにくかったことなどから、絵では挫折したけど、丸木さんはデッサンに熱心な努力家で、真っすぐな道を進んだんです」と当時のインタビューに答えています。
そのデビュー作が『蕗のとう』で、初出は1948年3月『大衆クラブ』第6号。
とはいえ、雑誌と単行本では文体もボリュームもずい分異なっているようです。

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俊さんの手がけた表紙、内扉の挿画もなかなか良いですね。

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2015/11/4

『《原爆の図》全国巡回―占領下、100万人が観た!』刊行のお知らせ  書籍

8月末刊行予定が大幅に遅れていた拙著『《原爆の図》全国巡回―占領下、100万人が観た!』(新宿書房)が、ようやく丸木美術館に入荷しました。

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表紙は第2部《火》。帯に俊さんの1950年代の原爆の図展スケッチが配されて、ちょうど、人びとが絵を見上げているようなデザインになっています。

図版掲載多数、年表、地図、そして記録映画『原爆の図』(1953年、今井正・青山通春監督)のシナリオも収録しています。資料の文言の統一や校正作業などで予想以上に時間がかかってしまいましたが、粘り強く編集してくださった新宿書房の村山恒夫さん、そしてブックデザインの鈴木一誌さん、山川昌悟さんら関係者の皆さまに、まずは心から御礼を申し上げたいと思います。

1950年代はじめの原爆の図巡回展の足どりを、現時点でできる限り掘り起こしたつもりですが、こうした本は刊行したことで新たな事実がわかることも多々あります。
本書に記されていない情報をお持ちの方は、ぜひ丸木美術館までご一報頂ければと思います。

丸木美術館での販売分には、先着150冊まで、貴重な記録映画『原爆の図』(1953年)のDVDが付録でつきますので、ぜひお求めください。

新宿書房から直接お求めの方は、こちらから。
http://www.shinjuku-shobo.co.jp/2003Top2.html

どうぞ皆さま、広くご紹介ください。よろしくお願いいたします。
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2015/10/15

新井卓写真集『MONUMENTS』  書籍

写真家・新井卓さんから初の写真集『MONUMENTS』をご恵贈頂きました。
初版1,000部限定、160頁(写真130点、日英テキスト)、箱入り、ハードカバー、随所にこだわりの感じられる豪華写真集です。価格は9,000円+税。
お求めはPGIオンラインショップ(https://www.pgi.ac/cart/product/p-1788.html)より。

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「3.11」を出発点に(私が新井さんと出会ったのも「3.11」がきっかけでした)、福島、第五福竜丸、広島、長崎、トリニティ・サイトなど核の歴史を追い続ける新井さんの、この5年間の集大成とも言うべき内容です。
新井さん自身のテキストも読みごたえがあり、写真家の川田喜久治さんと批評家の竹内万里子さんが文章を寄せています。

以下は、竹内さんの文章より、備忘録として一部を抜粋。

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 新井はこのようにして撮ってきた自らの写真を、忘却や消滅に抗って個別の記憶や感情を伝えるための〈モニュメント〉と呼ぶ。共同体やグループで共有されるべき集団的記憶ではなく、見る人それぞれがそこから個別の記憶を引き出すようなものとして。しかし記憶や感情といったものがきわめて個別な性質をもつ以上、そのようなモニュメントは果たして可能なものなのだろうか。

 確かに他者の記憶は、どれだけ想像しようともあくまでも自分が想像した範囲を出ることはない。だからこそ重要なのは、想像を諦めることではなく、ぎりぎりまで想像を尽くしてもなおその限界を知り、自分の想像を手放せることだ。したがってモニュメントは決して声高であってはいけない。それは誰かを救うかもしれないが、同時に誰かを図らずも傷つけてしまうかもしれないのだ。実際、記憶が人を救うこともあれば、忘却が人を救うこともある。他者の記憶や感情と向き合おうとすることは、このような一筋縄ではない場所に立つということ、矛盾を引き受けるということである。

 新井の歩みは、つねにこの困難さと共にある。ダゲレオタイプはとりわけオブジェとしての強い存在感ゆえに、ともすると他者の記憶を利用した美しいモニュメントとみなされかねない。そこでは傷や染みといったエラーすらも美的要素として機能するだろう。だからこそ、技術的鍛錬を追求するその手を緩めることなく、それでもなお予期せぬエラーの発生を受け入れるという矛盾を彼は生きざるを得ない。もっとも、現実を生きるとはこのようにどうしようもなく手に負えない事態を引き受けることであって、現実を完全にコントロールできるなどというのは思い上がった人間の愚言に過ぎない。ダゲレオタイプはそのような思い上がりを一蹴する。


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これからも、彼の仕事を見つめ続けていきたいと思える一冊でした。
ご恵贈に心から感謝。どうもありがとうございました。
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2015/9/16

近刊のご案内『原爆の図 全国巡回――占領下、100万人が観た!』  書籍

8月末刊行を目ざしていながら、今夏の忙しさに大幅に遅れていた新著が、ようやく刊行の目途が立ちましたのでご紹介いたします。

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『原爆の図 全国巡回――占領下、100万人が観た!』
岡村幸宣著(原爆の図丸木美術館学芸員)
装幀=鈴木一誌+山川昌悟 四六判上製 312頁 本体価格2400円(予価)
2015年10月25日刊行予定

◎事前注文を承ります。 特典DVD映画『原爆の図』(1953年、17分、今井正・青山通春監督)
本書が出来次第、本+DVDをお送りします。代金は同封の振込用紙でお支払いください。
ご注文は新宿書房へ FAX03−3262-3393 メールinfo@shinjuku-shobo.co.jp


占領軍が日本の政治、経済、生活、教育文化のすべてを支配していた時代。
1950年2月、丸木位里・赤松俊子(丸木俊)夫妻の手から最初の《原爆の図》が産まれた。
「原爆」という言葉を使うことすら許されないこの時期に、夫妻によってはじまった巡回展は、北海道、新潟から東京周辺へとつづく。そして《原爆の図》を背負った二人の青年によってさらに西日本各地へと、燎原の火のように広がっていく。
本書によって、1950年から53年まで展開された《原爆の図》全国巡回展の知られざる実態が、関係者への取材と丹念な資料集めから、ここに明かされる。
全国巡回の迫真のドキュメント。


申込書はこちらからダウンロードできます。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/NgenbakuOL.pdf

今年の夏、《原爆の図》の展示のために日本とアメリカを何度も往復する日々のなかで、身を削る思いでまとめました。
これまで伝説的に語られていた1950年代はじめの「原爆の図全国巡回展」の実態を、個別具体的な資料調査によって、明らかにする内容です。

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1950年代は、「大衆に学べ」という合言葉が生まれ、芸術家(芸術文化の創造者)と大衆(その受け手)という関係が見直されて、どちらも同じ位置に立って向かいあう対等な関係が芽生えはじめた時代です。
そうしたダイナミックな変化は、現在のインターネットの発達がもたらした情報やネットワーク構築の変化と重なる部分があるかもしれません。

当時の文化運動は政治との距離の「近さ」が特徴でしたが、ときに逸脱し、あるいは一線を画して展開されることもありました。
要するに、担い手それぞれの思いはさまざまで、「政治」も「大衆」もひとくくりにできるものではなかったのです。
そして「原爆の図展」は、それら同時代の文化運動と深く結びつきながら、野火のように広がっていきました。

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もっとも、運動はやがて衰退を迎えます。
1950年代の文化運動が長く忘却の淵にあったように、占領下の「原爆の図展」も、現在、一般に知られているとは言い難いところです。

先入観による党派的な偏見も、再評価を妨げる要因になったことでしょう。
当時の巡回展を担った関係者に聞き取りをした際、重い口を開いて、今まで話せずにいたことをようやく話せる、とつぶやく人もいました。
その言葉の裏に込められた沈黙の歳月の長さは、想像の及ぶものではありません。
巡回展を観客として見たという証言を電話で聞いた際にも、受話器の向こうで、今まさに《原爆の図》を目の前で見ているように語る方がいました。
涙ぐみながら絵から受けた感動を語る方もいました。
そうした人びとの「熱さ」に圧倒されながら、60年という歳月を越えて、なお人の心に残り続ける《原爆の図》の意味を考えずにはいられませんでした。

丸木夫妻は《原爆の図》を「大衆が描かせた絵画」と語りました。
その言葉には、多分に1950年代の政治的な感傷が込められているとは思います。
しかし、調査を進めるうちに、期せずして、その言葉を何度も思い起こすことになったのも確かだったのです。

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米軍占領下の困難な時代に、《原爆の図》の巡回展がどのように行われたのか。
どのような人たちに、どのような思いを残したのか。
「大衆」をひとくくりにできないように、「原爆の図展」にかかわった人たちの思いもまた、ひとつに束ねることはできません。
これらの思いを記録し、伝え残したい。本書を書いたのは、その一念でした。

そして、1950年代の原爆の図巡回展の歴史的な実態に迫ることは、原爆の図研究の先駆者であるヨシダ・ヨシエさんや小沢節子さんの積み重ねてきた仕事に、ささやかながら新たな1頁を付け加えることでもあり、《原爆の図》という絵画のはたらきを通して、1950年代の文化運動研究への水路を開くことにもなると信じています。

ぜひ、多くの方にお読みいただき、《原爆の図》への新たな視点を発見していただければと思っています。
当時の貴重な記録映画のDVDという特典があるので、事前予約がお勧めです。
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2015/4/16

小沢節子著『原爆の図』(岩波書店)入荷  書籍

《原爆の図》を精緻な分析と深い考察で読み解いた小沢節子さんの著作『「原爆の図」―描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(岩波書店、2002年)が久しぶりに入荷しました。

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2刷が在庫切れとなり、しばらく増刷の見込みのない状態が続いていたのですが、被爆70年という節目の年に、度重なる熱い要望に応えるかたちで、3刷が実現することになりました。

広島の某研究者は、「《原爆の図》はこの本によって、新たな命を吹き込まれたと言っても過言ではない」と語っていますが、私も本当にそう思います。
10年以上前の著書であるにもかかわらず、いま読んでもまったく古さを感じさせないのは、この著書がいかに時代を先取りし、それまでになかった画期的な視点を提示したか、ということの表れなのでしょう。
刊行当時、丸木美術館の学芸員になりたてだった私も、この本を道標のようにして、多くのことを学びました。

新しい価格は3000円+税と、これまでより少しだけ上がっていますが、高騰していた古書価格よりははるかにお得な金額です。
もちろん、丸木美術館でも販売しています。
まだお読みでない方は、ぜひ、この機会にお求めになって下さい。
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2015/1/7

『photographers' gallery press no.12 爆心地の写真 1945-1952』  書籍

photographers' gallery press no.12 爆心地の写真 1945-1952』(photographers' gallery、2014年11月発行)を読んでいます。

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タイトルが示す通り、米軍占領下の原爆の写真を特集したもので、広島原爆投下当日に撮影された松重美人の5枚の写真や、占領下で発行された写真集『LIVING HIROSHIMA』、吉田初三郎の鳥瞰図を収録した英文グラフ誌『HIROSHIMA』を軸に、広島での調査取材をもとにした座談会や論考が掲載された、資料としても手もとに置きたい貴重な一冊です。

執筆者は倉石信乃さん、西本雅実さん、加治屋健司さん、東琢磨さん、椹木野衣さん、橋本一径さんなど、錚々たる方がた。
いずれも読みごたえがありますが、2015年の年初にあたって、中国新聞編集委員で長年にわたって地道に原爆写真を調査されている西本雅実さんのインタヴュー「広島原爆写真を追って」(聞き手・笹岡啓子)から、一部を抜粋します。

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 「広島は生まれ育った土地ですし、親は被爆者です。大学は東京へ出たけれど戻ってきた。ただ僕は世界平和とか、核兵器廃絶だとかを訴えて記事を書いたことはありません。被爆者の悲しみや怒りに仮託して、平和を訴えるというのは自己満足にすぎないし、申し訳ないと思います。来年は被爆70年だから全国メディアも大型の特集や連載を組むでしょうが、71年もやって来るわけです。一発の原爆で人間はどうなったのか、再び使われたらどうなるのか。多角的に掘り下げ、継続する報道が必要だと思っています。

 社の創刊100年史編さん(1992年)で、戦前の記事をマイクロフィルムから起こしていた先輩にも教えられました。被爆前は広島・宇品港からの出兵をことあるたびに大きく扱う。出て行く兵士は「勇ましく」、帰れば「郷土の英雄」という美談記事です。旧制広島二中時代に学徒動員先で被爆した先輩は、この「勇猛果敢、我が郷土の兵士」も、お前らが書く「反核」も、時代におもねっている記事じゃないかと言う。戦前の記事は戦争へと読者・国民をあおったが、「反核」もいわば翼賛報道だと。ひとつの事柄を絶対視し、持ち上げる報道は、思考停止だと反省させられました。たとえば「ヒロシマの心」という言葉を僕は書きません。岡山にだって山口にだって風土と歴史に根差した心情や思考がある。「ヒロシマの心」だけが特異なのか、国内外で通用しているといえるのか。被爆をめぐる記憶が風化すればするだけ、紋切り型のフレーズで伝えた気になっている。記者が深く掘り下げた言葉を引き出せないのは、原爆の悲惨さを表面的に受け止め、分かった気になっている。反省と自戒を込めて言いますが、それがメディア全般で進んでいると思います」


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丸木美術館に学芸員として勤務して、今年で15年目を迎えます。
もっとも気をつけてきたのは、絵の解説などを行う際に、「反戦」や「平和」という言葉を極力使わないことでした。《原爆の図》は歴史的にそうした言葉を背負い、ともすれば今もなお「反戦平和の象徴」と見られることも多くあります。

その事実を否定するつもりはありませんが、しかし、だからこそ、そうした言葉に寄りかからず、《原爆の図》について語ることができないか。
作品や自分自身の立ち位置を「反戦」や「平和」の言葉で権威化・絶対化せずに、思考を深め続けることが大切なのではないかと、試み続けてきました。

今年は「被爆70年」という節目の年です。
個人的には69年であっても71年であっても同じ姿勢を保ち続けたいと思っていますが、周囲の環境は、なかなかそうはならないでしょう。

実際、《原爆の図》をアメリカで展示するという大きなプロジェクトも進行中です。
「被爆70年」に「核兵器廃絶」を「訴える」と言ってしまえば簡単なのですが、こうした言葉に回収されない意味を、アメリカでの展示にどのように見出していくことができるのか、葛藤を続ける一年になりそうです。

西本さんのインタヴューは、そんな今の私の思いに深く響くものでした。
「原爆の悲惨さを表面的に受け止め、分かった気に」ならないために。
この思いを忘れずに、「被爆70年」を乗り越えていきたいと思っています。
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2014/12/28

『終わりなき近代 アジア美術を歩く 2009-2014  書籍

2014年最後の日誌は、福岡アジア美術館で購入した黒田雷児さんの著作『終わりなき近代 アジア美術を歩く 2009-2014』(grambooks)の紹介です。

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福岡アジア美術館の学芸員・黒田さんがアジア各国の美術状況を伝える、臨場感あふれるエッセイ集で、とても読みごたえがあります。

とりわけ、その根底に流れている、欧米を中心とする「近代」美術の概念を捉えなおすという姿勢には、大きな感銘を受けました。
「本文より長いあとがき」にある、次の一節には、打ちのめされる思いさえしました。

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日本での近代美術は、他のアジアと同様、十九世紀末から二十世紀初頭のヨーロッパのモダニズムから輸入された技術的・様式的な革新として理解されてきた。しかし、本来「近代」の精神とは、封建主義・独裁制・植民地主義・家父長制などからの解放、平等への希求を含むものであり、それは個人的な努力だけでなく集団的な運動であった。その点においてはヨーロッパも非ヨーロッパも変わりはないが、しかしアジアでは、西洋美術を学ぶことのできる社会的・文化的・経済的な特権者の内部において、「様式としての近代」に限定された作品群が「美術史」の「主流」とされていった。しかし、それはアジア美術の「近代」への動きのごく小さな部分を占めるにすぎない。「様式としての近代」は、第一に「技術としての近代」(油彩画、遠近法・陰影法などの技術、印刷技術・通信技術と制度、写真術、デジタル・テクノロジーなど)という、階層差を超えて社会全体を巻き込む革新のなかで理解されなければいけない。第二に、「技術」と「様式」で装備を固めることによって、上述のような、人間の解放を求める「抵抗としての近代」が噴出していく。このように考えて初めて、アジア近代・現代美術史を、単なる「西洋かぶれ」エリート層の文化としてでなく、政治・社会・文化の巨大な社会変化のひとつとしてとらえることができる。

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たんに様式だけの「近代」ではなく、社会の構造における人間の解放を求める「抵抗としての近代」。この「近代」の捉え方は、本当は非常に重要な問題でありながら、従来の美術界では、周縁に遠ざけられてきたものです。

丸木夫妻の《原爆の図》など、実にまっとうな「抵抗としての近代」の美術でありながら、その真価は一般的に周知されていません。

アジアにおけるそうした「抵抗としての近代」の美術のひとつの例として、黒田さんは魯迅とその仲間の版画家たちが提唱し広めた木刻(木版画)運動をあげています。
この木刻運動は、日中戦争下で抵抗のための文化運動として中国国内に広がり、戦後には日本のプロレタリア美術の流れを汲む美術家たちとさかんに相互交流が行われました。

しかし、こうした実践活動は、現在の美術史の視点ではほとんど評価・検証されていません。
栃木県立美術館で2000年に開かれた「野に叫ぶ人々 北関東の戦後版画運動」展や、2012年の飯野農夫也版画館「北関東の熱い大地 中国木刻画からの衝撃、戦後版画運動の一断面」はその数少ない例になります。
(今年春に丸木美術館で個展を開催された宮良瑛子さんも、北関東の版画運動にかかわっていらっしゃったとのことでした)

そして、丸木夫妻の《原爆の図》や絵本『ピカドン』などの仕事も、木刻運動から国境を超えて展開された大きなうねりのひとつに位置づけられます。
「小さな絵本」の作成や、《原爆の図》の軸装には、戦後日本に帰国した鹿地亘の妻・池田幸子からの助言が大きな影響を与えていたようなのです。

抗日運動の一環として広がった木刻運動が、米軍占領下の日本で反米運動として連続する。
それを歴史の皮肉と見ることもできますが、むしろ、本来アジアには、国境を超えて深くつながる広域な文化交流が続いてきたのだと捉えることで、アジアの美術史に対する新たな視点が見えてくるのではないかとも思います。

年が明けて2015年は、戦後70年、被爆70年という節目の年。
《原爆の図》の周辺をあらためて見つめ直すために、黒田さんの一冊は重要な示唆を与えてくれるような気がします。

仕事納めの12月28日は、美術館の大掃除でした。たくさんのボランティアの方がお手伝いに来て下さり、そのまま、近くの小料理屋で忘年会を行いました。
その忘年会の最後に、地元ボランティアで現代美術の造詣が深いHさんから頂いた言葉が、とても嬉しく、心に沁みるものでした。

「丸木美術館の学芸員は、研究だけに専念できる環境ではないから、岡村さんは不満なのではないかと思っていた。でも、近くで見ているうちに、この美術館での学芸の仕事が、美術の概念を広げたり、ずらしたり、つくりあげたりするという意味を持っているのだとわかってきた。ここで起きていることは、他の場所にはない、新しい歴史そのもの。それは、60年代の“反芸術”に近いものかもしれない。こういう刺激的な現場があると知ったこと、仕事をリタイヤした後で、そんな場所に関われるということが、今はとても楽しい」

本年もまた、多くの方にたいへんお世話になりながら、たくさんの刺激的な体験をすることができました。
来年も、素晴らしい一年が待っていることと思います。
どうぞ皆さま、よろしくお願いいたします。
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