2012/4/1

「美術館としての原爆堂に関する覚え書」  原爆堂計画

先日、武蔵野美術大学非常勤講師の石崎尚さんから、武蔵野美術大学研究紀要No.42抜刷「美術館としての原爆堂に関する覚え書―丸木位里・俊夫妻と白井晟一の交流について―」(2012年3月1日、武蔵野美術大学発行)を頂きました。

丸木夫妻の《原爆の図》を収蔵する美術館として構想され、1955年に発表された白井晟一の建築計画「原爆堂」。結局、実現にはいたらなかったものの、白井建築を象徴する作品として評価の高いこの計画がどのような経緯をたどったのかを、石崎さんは丹念に調査し、なぜ実現しなかったのかを読み解いています。
今回あらためて発掘された資料も多く、すでに知られている伝説的な言説を建築家と美術家の両方から複眼的にとらえなおす、非常に興味深い内容です。
以下に論文の見出しを紹介いたします。

1. はじめに
2. 原爆堂計画の経緯
 2-1. 1955年4月、原爆堂計画の発表
 2-2. 1954年8月、原爆美術館の公表
3. 原爆堂の設計と双方のすれ違い
 3-1. 原爆堂の名称
 3-2. 原爆堂の理念
 3-3. 原爆堂の収蔵品
4. 実現されなかった原爆堂
 4-1. 1956年3月、計画の難航
 4-2. モダニズムと民族主義
 4-3. 原爆体験との距離
5. 1967年5月、丸木美術館の開館
6. おわりに


石崎さんは、原爆堂が実現しなかった理由として、敷地や予算などの現実的な条件だけではなく、白井側と丸木側の意見の相違が大きかったことをあげ、その相違について「民族主義」と「原爆に対する立場」という2つの違いが考えられると論じています。

丸木夫妻は、広島の悲劇を表現するには日本の画材を用いて日本人の理解者とともに運動を推進しなければならないと(少なくともこの時点では)考えており、白井は原爆を人類共通の悲劇であり文明の生み出した課題であると考えていたため、「徹底的に非日本的な要素で」原爆堂を組み立てていた。
また、自分たちが直接体験しなかった原爆の中心部分へ肉薄するために努力を尽くして絵を描いた丸木夫妻に対し、白井は体験としての原爆から遠ざかり、記号化され抽象化された原子エネルギーに近づくことで思想を深めていった。

こうした方向性の違いを提示した上で、石崎さんは、「両者の作品がそれぞれの思想の結晶化だとするならば、これほどまでに異なった二つの思想が一つの美術館として結実するには、神学論争にも似た隔たりを乗り越えねばならなかっただろう。そして原爆という出発点から発した二つの作品の隔絶を等閑視できるほどには、両者は不真面目ではなかった。仮にそれが実現していれば、という空想は自由であるが、結果が必ずしも幸福な作用を生んでいたわけではないだろう。ともすると実現させなかったという判断こそ、極めて妥当なものであったかもしれない。」と結論づけています。

このあたりの論考はとても読み応えがあり、丸木夫妻の《原爆の図》に(意図的に)一度も原爆の象徴的なイメージである“キノコ雲”が登場していないこと、白井晟一の「原爆堂」がまさにその“キノコ雲”のイメージを抽象化して設計されていることの“隔たり”に、今さらながら思いいたりました。
個人的には、原爆堂を「実現させなかったという判断こそ、極めて妥当なもの」という石崎さんの結論に同意します。

「原爆堂」計画の経緯については、まだ謎の部分も多いのですが、石崎さんの論考によって研究が大きく前進したことは間違いありません。
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2011/10/10

原爆堂についての新聞資料  原爆堂計画

今日は、午後に目黒区美術館のI学芸員が御夫婦で来館して下さいました。
I学芸員はこのところ、丸木夫妻と白井晟一の原爆堂計画について次々と重要な資料を発見して下さっているのですが、先日も、中国新聞D記者の調査によって新たに見つかった中国新聞の過去の記事を送って下さいました。

1954年8月7日付夕刊「原爆美術館を計画 丸木位里夫妻が」
1956年3月8日付夕刊「一刻も早く“原爆堂”を 故服部氏の遺志くんで」
1957年6月5日付朝刊「望まれる美術館 異色ある原爆堂設計 世界各国から援助の声 残したい原爆もの 反省の要あり画家の態度」
1966年8月9日付朝刊「「原爆の図」一堂に 埼玉県へ専用美術館 丸木夫妻が独力で建設」
1967年4月14日付朝刊「「原爆の図」を常陳 埼玉の丘陵に美術館 独力で建てた丸木夫妻」
1987年8月12日付朝刊「ヒロシマ表現の軌跡 第2部 丸木夫妻と告発 <6> 原爆の図(下) アメリカでも展覧会 新事実学んではかきつぐ」


このうち、最初の1954年8月7日付『中国新聞』に掲載された「原爆美術館を計画」の記事は、おそらく同年8月5日付『朝日新聞』夕刊に掲載された内容をもとにしているのでしょう。
現在わかっている限りでは、『朝日新聞』の記事が最初に丸木夫妻の美術館計画を報じたもので、白井晟一はこの記事を読んで原爆堂の設計に着手したと言われています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1653.html

その後、丸木夫妻は白井晟一の原爆堂計画を知るのですが、両者の思いは次第にすれ違いはじめ、原爆美術館/原爆堂の計画は、遅々として進まぬまま時間だけが経過していきます。
そんな状況を見かねたようにして報じられたものが、今回初見となった1956年3月8日付『中国新聞』夕刊の記事です。

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 “明治の政治家たち”“明治維新史”などの著者として有名な法政大学教授服部之総氏はさる4日糖尿病で54歳の一生を閉じたが、同氏が原爆犠牲者の霊を慰め、永遠の平和を祈る原爆堂建立のもっとも熱心な支援者だったことから、服部氏の遺志をくんで出来るだけ早く“原爆堂”を完成させたいという声が関係者の間で起っている。

 “原爆堂”を建てようという話は“原爆の図”の作者丸木位里、赤松俊子夫妻=東京都練馬区谷原2の1488=を中心に以前から計画されていたが、その第1回準備会が昨年6月東京新橋で開かれた。そのおり集まったのは服部氏をはじめ赤松夫妻、社会党代議士高津正道氏などで“原爆堂”についていろいろなプランが練られた。中でも服部氏はこの実現のためにもっとも熱心な支援者で“原爆堂”の名を無碍光寺(ムゲコウジ=無碍は障害がないの意)と命名 「さわりなき弥陀(ミダ)の光は無碍光寺ひろしまの土に平和あらしめ」と自作の和歌をその席で書き残すほど献身的だった。

 同氏のプランによると“原爆堂”は寺院ふうのものとし、本堂には原爆犠牲者の霊をまつるほか、付属建物として“原爆絵画館”をつくり、寺院の境内には池も掘って、厳粛で美しい霊場としたいという。その後同氏は準備会にはかかさず出席、この実現のために努力してきたが昨年末から病に倒れ「ぼくが死んだら原爆堂へ埋めてくれ」といい残したまま他界した。

 一方建立の話はその後いろいろなプランが出てなかなかまとまらず赤松夫妻が“原爆の図”の展覧会のためペキンへ出立する4月までになんとかまとめたいと努力しているが、服部氏の死に対して同氏の遺志を尊重して一刻も早く“原爆堂”を完成しようという声が起っている。

 赤松俊子さんの話 服部さんは実に熱心にこの運動を支援して下さいました。いま私の知人の建築家白井晟一氏=東京都中野区江古田2の941=が“原爆堂”の設計図を作ってくれていますが、服部さんの意見を十分くみいれて、一刻も早く設計図だけでも完成したいと思っています。これが原爆犠牲者だけでなく、亡くなった服部さんにもこたえる唯一の道だと思っています。


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歴史学者である服部之総の名前は、原爆堂計画の発起人として俊の著作『生々流転』(1958年、実業之日本社発行)にも登場します。
しかし報じられている“無碍光寺”という構想を抱いていたことは、初めて知りました。
原爆堂計画、とひとことで言っても、さまざまな人のさまざまな思いが渦巻いていたことを、あらためて考えさせられます。
丸木夫妻は、多くの人の思いを調整しながら大きなプロジェクトをまとめていく、という性質ではなかったでしょうから、計画が難航したことも、記事を読みながら何となく頷けるのでした。

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1957年6月5日付『中国新聞』朝刊の記事「望まれる美術館」は座談形式のもので、これもたいへん興味深い、初見の記事でした。
少々長くなりますが、引用して紹介いたします。
(注:「本社」は学芸部長もしくは事業部長。ほか、日本画家の浜崎左髪子、広島県教委社会教育課の新川貞之、茶道家の永田宗伴、広島県議会議員の松島綏と荒木武、洋画家の福井芳郎、広島青年会議所の水馬義輝の各氏による座談)

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本社 これまでの広島画壇の仕事は展覧会中心だったが、いまは常設的に良い美術品を見せる場所として美術館がほしいという声が大きくなってきてる。荒木県議さん、最近の情報を……。

荒木 丸木位里さんと赤松俊子さんが原爆10周年までにかきあげた原爆の図10部作が中共、朝鮮、蒙古、オランダ、ベルギ−、西ドイツ、フランス、イタリーの各地で展覧され、今後はアメリカ、アフリカ、豪州へも持ってゆきたいとのことですが、こんどわたしが上京したときこれを納める美術館の話が東京方面で持ちあがってることをききました。建築家の白井晟一という人が丸木夫妻に面識のないうちから、この話に共鳴して構想を練り、昨年4月の“新建築”という雑誌に設計図を発表してる。それによると広い緑地のふちに池をつくり美術館をその池のはたに設け、池のまん中の水中から大きい円筒型の壁を立ててその上に四角型の原爆記念堂を支える。原爆記念堂へは池の底の地下トンネルで対岸の美術館と連結する−−という設計です。敷地や建物の規模は現地の状況で適宜変更できる建前として、その1階、地階の平面、配置、側面の設計図や見取図が出ている。このアイデアを提案した白井さんは若いとき京都大学へ通ってカントやヘーゲルの哲学を勉強するかたわら京都高等工芸学校を卒業し、ドイツのハイデルベルヒ大学に入学して美学を専攻し、有名な哲学者のヤスパースに師事し、イリヤ・エレンブルグやアンドレ・マルロウなどとも交わったが、やはり精神主義の作家だといわれております。エジプトやギリシャの古代建築などもいろいろ研究したすえにこんどの“原爆堂”のアイデアに到達したよしです。白井氏と丸木夫妻にも会って話をききました。各方面の賛同をえており、朝倉文夫、久原房之助、片山哲、滋賀県の真宗木辺派本山の木辺孝慈、湯川秀樹、浅野長武、三笠宮−といった方々が支持しておられまして、場所は第1候補地を東京、第2候補地を広島ということですが、浅野さんは“広島におかなきゃ意味がないよ”といっておられました。丸木夫妻はお母さんのスマさんが亡くなったので途中から帰国しましたが、まわってきた世界各地で“原爆の図を納める美術館をつくるならば援助を惜しまない”という話が出たそうです。地元でも支持者ができつつあるようすですが、東京には発起人が十数人いるから、広島にそういうものを建設するとなればとても地元全体の賛同と支持がなくしては実現できないことではあるし、東京と広島と双方の了解と支持を得たい、といっている。

水馬 資金は?

荒木 それはこれからの話で丸木氏は欧州から帰るとき1年間有効の航空往復切符を手にしているので、いよいよやるとなれば具体的プランを持って再渡航して訴える機会がある。自分の考えでは海外や東京方面にばかりはたよれないから地元でも資金をつくってもらってもらいたい。

水馬 丸木夫妻の作品だけ陳列するのですか。

荒木 原爆堂へ作品を納めるほかギャラリーもあるわけだからりっぱな作品でさえあれば何びとの物でも原爆関係のものは原爆堂へ、一般のものは美術館へ納められる。先立つものは資金だが、けっきょく大口で資金を集めようというとき大会社などがどう考えるかが問題だ。

永田 広島に美術館はぜひ欲しいが、どういう運動かが問題だ。左翼運動はともすると平和問題を利用してかかる傾向があるから。

荒木 丸木夫妻の趣意書は“願主・丸木赤松”といった形のもので純粋な気持での悲願が表われている。

永田 イデオロギーを抜きにしたものならよい。東京の連中に広島で20万死んだといってもピンとこない。20万死んだ現場と20万という数をきくのとは別らしい。

松島 美術館が広島に欲しいことは世論になってきてるが、主体性の問題がある。絵がさきか美術館がさきか。

荒木 白井氏にきいたら、理想通りにやれば1億5千万円ぐらいかかる。ただし土地や地元の希望や資金の都合で修正の必要があろうといって……。

水馬 丸木夫妻の作品は広島に残したい。丸木さんのも福井さんのも。

浜崎 どこがその美術館を所有し、運営の責任をもつか、その維持費も人事も問題だ。

荒木 神奈川県立美術館も年に七、八百万円の維持費がいる。

水馬 美術館に何を陳列するかという点で、博物館と大家の絵と現代のものと三つの使い方がある。いまは世界的に日本趣味ばやりで、それがまた日本に逆輸入されてる。

浜崎 パリの話でなしに東洋美術や日本美術の話をすればいなかに行くほどバカにされる。広島県にもりっぱな民芸品が人に知られずに埋もれてる。

新川 大竹の小学校も美術館建設のための寄付をしてるし、各地の公民館活動や農村のもりあがりも無視できない。古墳などの埋蔵文化財を保存する場所もない。

永田 先日はドイツのケルン美術館員の女性が、蘆雪の研究で留学して京都から広島へまわってきた。広島は蘆雪の名品が多いからと保田家の所蔵を見て帰ったが、この人の鑑賞力は、ホンモノだった。広島で蘆雪に関心をもつ洋画家などほとんどいないが。

荒木 広島市の三滝が自然植物園に指定され、国有林の15万坪に天文台も動物園も計画されてる。ここならば白井氏の構想の原爆堂と美術館ができるだけの土地がある。

浜崎 浅野図書館の田淵氏と一しょにいろいろ物色し、土地の測量までしてみたが、だいたい広島画壇にまだ信用がないから、そのほうが先決問題だ。

松島 美術館にはこれからいいだして3年ないし5年はかかるだろう。

本社 広島の美術館は近代美術を中心に、博物館、工芸館、民芸館の性格をも総合したものにして社会教育とか公民館活動のための地方貸出しもやる文化センターにするというのが皆さんの大体一致される意見のようです。これから先は皆さんと読者との宿題にしてもらってこのへんで。


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荒木武県会議員(のち、1975年から1991年まで広島市長)が言及している「趣意書」は、おそらく先日発見した草稿をもとにした文書だと思われます。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1714.html

この記事で興味深いのは、「世界各地で“原爆の図を納める美術館をつくるならば援助を惜しまない”という話が出た」「東京には発起人が十数人いる」というように、発起人や資金調達は丸木夫妻の《原爆の図》に頼っているのに対し、実際の展示や運営活動に関しては、「広島の美術館は近代美術を中心に、博物館、工芸館、民芸館の性格をも総合したものにして社会教育とか公民館活動のための地方貸出しもやる文化センターにするというのが皆さんの大体一致される意見」と結論づけられている点です。

広島に原爆美術館/原爆堂を建設するという計画が実現しなかったのは、もちろん資金の目処が立たなかったというのが一番の理由でしょうが、《原爆の図》のための美術館建設を願っていた丸木夫妻と、総合的な公立美術館を構想した広島市側の違いも大きかったように思えます。

現在とは違い、公立美術館も個人美術館も日本に数えるほどしか存在しなかった時代です。
今では想像することも難しいですが、“美術館建設”という計画そのものが、あるいは途方もない夢物語のように語られていたのかも知れません。
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2011/9/11

「原爆堂設立の趣意書」草稿発見  原爆堂計画

朝、小高文庫の丸木夫妻関係の資料を少し整理していたところ、「原爆堂設立の趣意書」と記された封筒に入った、俊の字による原稿用紙5枚の草稿を発見しました。

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「原爆堂」とは、建築家の白井晟一が丸木夫妻の《原爆の図》に触発されて独自に設計した施設で、結局は実現せずに終わった計画なのですが、白井晟一の代表作とも言われるほど高い評価を受けています。

現在、目黒区美術館のI学芸員が「原爆堂計画」をめぐる白井晟一と丸木夫妻の当時の関わりを丹念に調査されています。

今回発見された草稿は、どのような目的で作られたのかがはっきりわかるわけではありませんが、文面から、おそらく広島市に向けて原爆堂建設を呼びかけるために記されたものと推測されます。
興味深い内容が含まれている文章なので、以下に全文を(原文のままに)紹介いたします。

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 一九四五年八月六日、續いて九日、原子爆弾が投ぜられました。
 人間の歴史初まって以来の最大の悲慘事がひき起されました。
 親は子を失い、子は親を失い、友人、知人、兄弟を失い。手をなくした者、足のない人、ケロイド。そして放射能の恐怖は、遺傳の恐れにまで発展して參りました。
 この恐ろしい人類殺戮の武器を轉じて人類繁榮のために利用することが出来ることを私共は知って居ります。
 人工衛星の打ち上げによって、人類は宇宙時代に入り、人類の将来に明るい繁榮のきざしを告げてくれたのです。
 それなのにまだ一方で原水爆の実験は續けられて居るのでございます。
 “このようなことを止めて下さい”
 と、人人は願い、語り合って參りました。芸術の分野では、絵画に映画に演劇に、その作品を通じて訴え續けて參りました。
 この人類の願望であります原水爆禁止の運動に、大きなこうけんをした原爆之図を私共は忘れることが出来ません。
 原爆之図は、丸木位里・丸木俊子、夫妻共同の作品でございます。
 伯父を失い、姪を失い、父を失い、多くの友人を失った夫妻はめいふくを祈るつもりで描き初めたのでございますが、一九五〇年一度発表するや、人人の心をゆさぶり、醒まし、その展覧会は日本全国を行脚し、困難であった原水爆禁止運動の道を切りひらいて行ったのであります。
 行脚と共に図は三部から、五部、七部と描き續けられ、一九五六年、第十部が完成されたのでございます。
 原爆之図は海外に渡り、今世界に廣島の、日本人の願いを訴え續けて居ります。
 一九五三年に幽霊、火、水、の三部がデンマークに渡り、ハンガリ、ルーマニア、イギリス、イタリアで展覧され、一九五六年に殘る七部と合流し、中国、朝鮮、蒙古、ソヴエット、オランダ、西独、ベルギギー、スイス、セイロン、南アフリカと世界行脚を續けて居ります。
 “原爆之図は、ミケランジェロやジェリコーのみが力強く描きうる広島の悲劇を余すところなくとらえている”
 と、芸術的にも高く評價されつゝ、原水爆禁止の活動を續けて居ります。
 カナダ、オーストラリア、スエーデン、ノールウェー等からの招請に答え。全世界の平和を願う人人の手にささえられてくまなく行脚を續けることゝ存じます。
 廣島が生んだこの悲劇の作品を、この廣島の地に迎え、この地に永久展覧の場を作りたいものと存じます。
 この願いは地元広島市民の心からの賛成と協力をいたゞき、復興途上の広島市を一望に眺められる三滝山の景勝の地に設置する運びとなりました。
 設計は斯界の権威・白井晟一氏の心血を注いだ製作でございます。
 私共、特に広島市民は、憎しみ、悲しみを越え、思想を越え、宗教を越え、人権を超越し、人類最大の不幸を轉じ、全人類の繁栄と幸福の一基点となすべき、この計畫が、皆様のお力添えによって一日も早く完成いたしますことを心からお願い申しあげます。


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この草稿が作られた時期は明記されていませんが、世界巡回展の動向報告が南アフリカで終わっていること(『美術運動』第55号によれば、南アフリカ展は1957年9月に開催されている)人工衛星の打ち上げに言及していること(世界初の人工衛星は旧ソ連によって1957年10月4日に打ち上げられた)などから、1957年末から1958年頃であると推測されます。

1956年3月5日付『朝日新聞』には、原爆堂計画が思うように進まず、敷地も決まらず、白井晟一と丸木夫妻の間に溝ができつつあると報道されていたのですが、草稿には「広島市を一望に眺められる三滝山の景勝の地に設置する運び」と具体的に敷地が記されているのも興味深いところです。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1653.html

1958年11月1日刊行の俊の自伝『生々流転』にも、「広島の三滝の山の上、広島市が一目に見える高台に建てては如何か、と、三滝寺のお坊さんや皆さんが今、考えていて下さいます」というくだりが出てきます。
しかし、『生々流転』をベースにしつつ1977年8月20日に刊行された自伝『女絵かきの誕生』には、「ひろしまの三滝の山の上、広島市がひと目に見える高台に建ててはどうかと、三滝寺のお坊さんやみなさんが考えてくださいました」と過去形で記され、次のような顛末が付記されています。

 広島市へ寄付すべきではなかろうかとも思い、相談に行きました。それはよかろう、ということで、市役所の方と、あちこち土地をさがしに歩きました。いよいよ建設、となると、だれがどこからおカネを持ってくるか、ということになり、広島市議会にはかってくださったのです。ところが、一票の差で否決されたのです。土地は提供いたしますが、建物はあなた方でお建てください、というようなことになりました。

本当に広島市議会で1票差で否決されたかどうかは、まだ記録の裏付けがとれていないのですが、いずれにしても、この1957年から58年にかけての時期に、原爆堂建設が実現するかどうかの大きな分岐点を迎えていたのではないかと思われます。
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2011/7/7

白井晟一の原爆堂計画  原爆堂計画

7月5日の目黒区美術館のI学芸員の論考の話で、白井晟一について少し触れました。
白井晟一の《原爆堂》計画については、これまで何度か学芸員日誌でも紹介しています。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/578.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1444.html

I学芸員は、《原爆堂》計画がどのように進められたか、そして頓挫していったのか、という経緯について、詳しく調査されているところです。
そのI学芸員のご教示によれば、丸木夫妻が“原爆美術館”を構想していると最初に報じられたのは、1954年8月5日付『朝日新聞』夕刊でした。

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東京に“原爆美術館” 丸木、赤松両画伯が計画

“原爆画家”丸木位里(五二)(無所属)、赤松俊子(四二)(女流展)夫妻=東京都練馬区石神井谷原町二ノ一四八八=は共同制作の「原爆の図」を中心とした常設原爆美術館の建設を計画、近く全国の有志に協力を呼びかけるという。現在完成している「原爆の図」は十部作のうち七部。三部作から四年越しに全国で五百回以上の移動展を行い、最近終った。これらを歴史的記録作品として一般に公開したいというのが夫妻の念願だ。

 プランによると予算二千万円、場所は東京。資金は丸木氏が半切か一尺五寸の横物の日本画一枚、赤松さんが三、四号の油絵一枚、合せて二枚を一口として一万円で売って集めようという。陳列画は「原爆の図」のほか、広島の被災者が描いたものもふくめたいといっている。

丸木位里氏の話 地方では最近ようやく広島や長崎の原爆がどんなに悲惨なものだったかわかってきたようだ。この水爆時代に一人でも多くの人にみてもらいたいと思う。建設の設計は依頼中だが、有名人や団体の名をならべるのは避けて出来るだけ独力でやりたい。


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おそらく白井晟一は、この頃に丸木夫妻の計画を知り、独自に《原爆堂》の設計をはじめたものと思われます。
ところが、1956年3月5日付『朝日新聞』には、次のような記事が出ています。
長い記事ですが、興味深く、重要な証言も含まれているので、全文掲載することにします。

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平和を祈る「原爆堂」 丸木・赤松夫妻中心に建立計画
設計図だけは完成 場所も決まらず行悩む

原水爆禁止の運動が世界中でくり展げられているなかに、原爆犠牲者の霊を慰め、永遠の平和を祈念する「原爆堂」建立の計画が進められている。設計は建築家白井晟一氏の手によってすでに完成し、その清新壮大な構想は、いま建築界の話題となっている大作。だがこの「原爆堂」果していつ、どこに陽の目を見る――「原爆堂」をめぐる人々の動きも複雑で、実現への道はなかなかに遠いようだ。

原爆堂を建てようという話は「原爆の図」の作者として知られる画家丸木位里・赤松俊子夫妻=東京都練馬区石神井谷原町二ノ一四八八=を中心に持ち上った。一昨年四月、人を介してこれを知った白井晟一氏=東京都中野区江古田二ノ九四一=は、平和に対する人類の強烈な願いを表現しようとこの設計にとりかかり、昨年ようやく設計図を完成して、丸木・赤松夫妻に手渡した。エジプトの太古のたくましい遺跡から想を練り起したという設計は、美しい水をたたえた池の中に黒いミカゲ石でたたんだ本館(美術館)と、図書室、展覧室、ロビーなどをおさめた「への字形」の別館とが池の底の地下道によって結ばれ、円筒のラセン階段を上って四角い陳列場に出るという構造。石積みの四角い陳列場を黒い円筒の柱で持ち上げた形は、原子エネルギーを表現したものという。

丸木・赤松夫妻らはこの原爆堂に「原爆の図」をはじめ、広島、長崎の土、原水爆禁止の署名帳(現在三千四百万人を突破)原水爆を題材として作られた文学、彫刻、絵画、音楽などの芸術作品などをおさめ、平和の記念碑にするという計画だ。
ところが、丸木・赤松夫妻を取巻く人たちの間には「この建物はモダンすぎる」「民族的な感情が出てないので親しみにくい」などの意見があり白井氏の案を強く押せないなどの事情もあってか、設計図を手渡してからあと、夫妻と白井氏との間には連絡がとだえがち、当面の推進体となる原爆堂建立会もいまだに発足していない状況だ。敷地ももちろん決まっていない。こうしたなかに当の丸木・赤松夫妻は来月、中国平和委員会の招きで「原爆の図」を携えて中共に旅行することになっており、この分では建設のメドがつくのはいつのことかわからぬ、という。
夫妻は建設費として五千万円の募金を計画、建立会の発起人として朝倉文夫、湯川秀樹、河井弥八、片山哲、木辺宣慈、久保房之助、高津正道、平塚らいてう、藤田藤太郎、吉川英治各氏らの承諾を得ているというが、実現はそう急ぐ必要はないという考え方――最悪の場合は敷地だけでも見つけ、掘立小屋を建てて住み、一生かかっても大事業を完成させるといっている。

一方白井氏は「建立会」がいつまでたっても発足しないなら、知り合いのアンドレ・マルロー、イ・エレンブルグ、カール・ヤスパース各氏をはじめ、外国の思想家、建築家、教育団体、社会団体などに訴えて、資金を内外に求めてでも完成したい、といっている。

設計者白井晟一氏の話 丸木・赤松夫妻は設計に共鳴はしても、設計の意図が高度なものだったため理解できないのじゃないかと心配している。僕の一生の念願として世界に呼びかけてもぜひ完成させたい。

丸木・赤松夫妻の話 私たちは白井氏の設計に賛成している。結局あの設計に落着くと思う。全国民の思いをこめたものにしたいために、発起人会を作るといっても、普通のやり方じゃどうかとの意見もあるし、急いでみてもやれぬ。いい仕事なら無理をしなくとも熱心な協力者が出てきて必ず機運が向いてくる。そういう時機を待てばいい。募金も少しずつ始めている。


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白井晟一は《原爆堂》の設計図を制作したものの、実現に向けての動きがなかなか進まない様子が、記事から伝わってきます。
白井晟一と丸木夫妻の間に、微妙な思いの食い違いがあったことも読みとれます。
結果的に、この《原爆堂》計画は実現せずに終わりましたが、なぜ頓挫したのか、正確な事情は今のところわかっていません。
記事にもある通り、1956年には《原爆の図》(10部作)が中国へ渡り、その後、約10年にわたって世界20カ国以上を巡回する大規模展覧会へと発展していくので、《原爆堂》計画は機を逸して自然消滅したとも考えられます。
最後の「急いでみてもやれぬ。いい仕事なら無理をしなくとも熱心な協力者が出てきて必ず機運が向いてくる。そういう時機を待てばいい」という「丸木・赤松夫妻の話」は、おそらく位里の言葉でしょう。非常に位里らしい思考だと思います。
そして、その「時機」が来たときに、夫妻が私財を投じて実現させたのが、現在の丸木美術館であった、ということなのでしょう。

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現在、京都工芸繊維大学工芸資料館にて「白井晟一 精神と空間」展(8月11日まで)が開催されています。
京都工芸繊維大学(当時は京都高等工芸学校)は、白井晟一の母校でもあります。

そして、白井晟一さんの御子息が、原爆堂と現在の福島原発事故を結びつけた興味深い論考(京都展のシンポジウムの草稿)をブログに掲載されていますので、こちらの方も紹介しておきたいと思います。
http://shiraiseiichi.jugem.jp/?eid=116
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2010/7/28

「白井晟一の造形」展  原爆堂計画

午前中は地元新聞社の取材を受けて、午後、近現代史研究者のKさんと、東京造形大学附属横山記念マンズー美術館の「SIRAI,いま白井晟一の造形」展(7月30日まで)を観てきました。

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白井晟一の設計した「原爆堂」の配置図や平面図、透視図などに加え、東京造形大学大学院生の制作による石模型や断面模型などが展示されている非常に興味深い展覧会。
断面模型の内部を除くと、なんと展示室の壁面には、1/100サイズの《原爆の図》が1部から4部まで展示されていて、嬉しくなりました。
断面模型なので、「原爆堂」が実現していれば8部作まで展示できる空間ができていたことになります。

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丸木俊さんは、著書のなかで、次のように「原爆堂計画」について記しています。

(友人の斎藤聖香さんが)
「あんたたちの知らん間に、大変な原爆美術館の設計ができているんだよ」
 と言って、白井晟一先生を案内してきました。わたしたちも訪問して仕事場を見せていただきました。白井晟一先生は、長い間、この設計に没頭され、ようやく完成したのだ、と幾枚もの青写真や写真を見せてくださいました。
 円筒をかこんで正方形の画廊がついている、そうして水に浮んでいる。それがそのまま原子雲の姿にも見え、だが、それは、悲劇を転じて幸いとなす、花のように水に映じている、そんな幻想に似た設計です。
「美術館にとどめてはいけない、堂となすべきだ」
 という意見も出ました。
 そうして、湯川秀樹先生、吉川英治先生、木辺宣慈先生、朝倉文夫先生、高津正道先生、滝波善雅先生、河井弥八先生、服部之総先生等が発起人になってくださって、この仕事を、世界行脚とともに進めることになったのです。
 阪本和子さんはたくさんの名簿の整理をしてくださいました。川田泰代さんはお姉さんのように、いろいろ考えてくださいました。井口大助さんは外国の手紙のほんやくを引きうけてくださいました。
 ソ連にも原爆反対のテーマの美しい彫刻がありました。
 メキシコのシケイロスさんはわたしたちに画集をくださり、それを見せながら、
「原爆投下のその十年前に、わたしはすでに原爆の絵を描いていました」
 と言いました。
 東独でも原爆をテーマにした絵を誰かが描いたと聞きました。
 わたしたちのばかりでなく、もうすでに日本にも先輩や友人の作品がたくさんできています。もし、日本に原爆の図の美術館ができたら各国の美術家にお願いして、今までに作られた作品を寄贈していただいたらいかがでしょう。また、ピカソさんやフージロンさんにお願いしたら。もし、これが実現したならば、二〇世紀の芸術家たちが、平和のためにどのようにして、この原爆の破壊と闘ったかという、一大モニュマンができ上がる、庭には木をたくさん植え、彫刻を配置して、美術館には絵を、図書館には長田新先生の原爆の子、大田洋子さんの屍の街、峠三吉さんの原爆詩集、死んだ原民喜さんの詩など、映画や芝居の小講堂もあったり。これは夢でしょうか。そのころ、そんなことを考えていました。

(1972年 朝日新聞社『幽霊 原爆の図世界巡礼』pp.159-160)

池の中央に浮かぶ正方形の建物が原爆の図の展示スペースとなり、手前の池のほとりに張り出す扇形の建物は図書室や講堂、事務室……企画展示などもできるスペースがありそうです。
夢のような「原爆堂計画」ですが、結局は実現せずに終わりました。
今、東松山市にある丸木美術館を、建て直して白井晟一の「原爆堂」に……という構想を、亡き針生一郎館長が会議の席で提唱したこともあります。
もちろん、決して簡単に実現できる構想ではありません。

でも、復元模型とはいえ、幻の「原爆堂」のなかにたしかに《原爆の図》が展示されているのを見たときに、何だかとても幸せな気持ちになりました。
会場となっている横山記念マンズー美術館も、実は白井晟一の設計がもとになっています。
こちらは「マンズー美術館」の外観写真。正方形と円の組み合わせ、窓の狭さなど、やはり「原爆堂」に似ています。

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白井晟一と丸木夫妻の関係については、白井晟一の義兄が位里と親しかった水墨画家の近藤浩一路だったことを知っていたので、そうした人間的なつながりがあったのだろうと思っていたのですが、今回の展覧会の年表を見て、戸坂潤との交流があったり(1926年に京都高等工芸学校講師となった戸坂潤に兄事する、とある)、1932年に1年間モスクワに滞在していたり、思想的にも近いようなつながりがあったのかも知れない、とあらためて感じました。

白井晟一が中公新書のマークのデザインや書籍の装幀を手がけていたことも初めて知ったりして、研究者のKさんも「来てよかった」と言って下さったので、わざわざ八王子まで行って良かったです。
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2007/1/15

丸木俊と吉川英治  原爆堂計画

一昨日(1月13日)は丸木俊の命日でした。
7年前の2000年、ぼくはまだ丸木美術館の学芸員ではなくて、ボランティアとして雪の降る葬儀の日に駅前の路上に立って案内係をしたことを覚えています。

その一昨日に、吉川英治記念館のK学芸員から、吉川英治の秘書が残した業務日誌に「赤松俊子氏来訪 原爆紀念堂建立の発起人依頼の件に付き御来宅あり 其の折丸木スマ女史筆のカニの図贈らる」(1955年11月4日)という記述があるとご教示頂きました。
「原爆紀念堂」とは建築家白井晟一(1905-83)による「原爆堂」(TEMPLE ATOMIC CATASTROPHES)構想のことで、最終的に実現しなかったにもかかわらず、しばしば彼の代表作として語られるものです。
原爆堂は、弓形のパヴィリオン棟と、池に浮ぶように見える展示棟の二つのパートから成り立っており、二つの棟は地下(水底)で通じているという設計でした。エントランスから暗く長い地底の廊下を抜けて展示棟にいたると、円筒型の空間には光が降り注ぎ、螺旋階段を上って画廊にたどり着くとはじめて《原爆の図》が姿を現すという、死と再生をイメージしたものだったようです。

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丸木俊子『生々流転』(実業之日本社1958年11月1日発行)には、「原爆堂計画」についての詳しい記述があります。
それによると、丸木夫妻は原爆堂ができたら全作品を寄附するつもりで、そればかりではなく、ピカソら各国の美術家に作品を寄贈してもらい、庭には木をたくさん植えて彫刻を配置し、図書館には長田新、太田洋子、峠三吉、原民喜らの原爆文学を置き、映画や芝居の小講堂など、総合的な文化施設を作ろうと思い描いていたようです。
計画の発起人には湯川秀樹、吉川英治、木辺宣慈、朝倉文夫、藤田藤太郎、高津正道、滝波善雄、河井弥八、服部之総らの名前が挙げられています。
今回ご教示頂いた記録は、その構想を裏づける資料と言えるでしょう。

注目すべきは、俊がスマの《カニの図》を持参し、吉川英治に贈ったと記されている点です。
実はスマの生前に発行された『丸木スマ画集』に掲載されているカラー図版の中で、現在所在不明となっている作品が数点あります。その中に《カニ》(1950年制作、1951年女流画家協会展出品)と題する作品があるのです。

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おそらくスマの作品のなかでも代表的な絵を贈ったと思われるため、俊が持参したのは、この《カニ》であった可能性もあるでしょう。

そう思ってK学芸員に画像をお送りしたのですが、吉川英治記念館の吉川英明館長(吉川英治の長男)は見覚えがないとのこと。吉川家に遺された美術品の整理の際にもそれらしいものは無かったとのことです。
「誰かに譲ったか、出入りの美術商が持ち出したか、いずれにせよ、他家に渡ってしまったもののようです。」とのお返事で、今回は残念だったのですが、スマ作品の行方をたどる上ではたいへん貴重な情報でした。
いずれ、今回の情報をきっかけに、《カニ》の所在が明らかになるかも知れません。
K学芸員、ご教示ありがとうございました。
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