2010/12/3

リングリング美術館についての覚書  1970-71年原爆の図米国巡回

《原爆の図》が初めて米国で展示されたのは1970年から71年にかけてのことです。
その様子は、丸木俊の『幽霊 原爆の図世界巡礼』(1972年 朝日新聞社)に詳しく回想されていますが、原爆を投下した側の国での巡回展は、たいへんな困難をともなったようです。

参考までに巡回展の日程を以下に書き出します。

ニューヨーク、ニュースクール・アートセンター 1970年10月14日-12月15日
オハイオ州ウィルミントン、ウィルミントン大学 1971年2月14日-3月6日
ミネソタ州ミネアポリス、ユニテリアン教会 1971年3月21日-4月10日
カリフォルニア州パサデナ、加州工科大学 1971年5月5日-5月26日
アーカンソー州リトルロック、アーカンソー・アートセンター 1971年6月9日-6月30日
カリフォルニア州オークランド美術館 1971年7月21日-8月11日

 (実際は「場内改装のため」8月6日前後の3日間だけ展覧)
フロリダ州サラソタ、リングリング美術館 1971年10月6日-10月27日
カンザス州ウィチタ、ウィチタ美術館 1971年11月10日-12月1日

 (「場内改装のため」急きょ中止)

この米国巡回展については、当時実現のために尽力した法政大学名誉教授の袖井林二郎氏が2006年11月12日に丸木美術館で行われた公開トークで回想して下さいました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/525.html
また、聞き手を務めて下さった近現代史研究者の小沢節子氏が『丸木美術館ニュース』第88号、第89号にその内容をまとめてくださっています。

トークの際、1971年10月に開催されたリングリング美術館の展覧会について、袖井さんはちらりと「サーカスが関わっていたようだ」とおっしゃっていました。

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これは当時の『サラソタ・ヘラルド・トリビューン』に掲載された「原爆の図展」の記事。

昨日、ふとしたきっかけからリングリング・サーカスとリングリング美術館について知る機会があったので、あらためて以下に覚え書きを記しておきます。

   *   *   *

実はリングリング・サーカスは米国ではたいへん有名なサーカス団で、サラソタのリングリング美術館は、その創設者の邸宅とコレクションを公開している美術館なのです。

リングリング・サーカスの正式名称はリングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカス(Ringling Bros. and Barnum & Bailey Circus )といいます。
人名がたくさん入った長い名称ですが、この名称にはアメリカのサーカスの歴史が詰まっているのです。

アメリカでサーカスがはじまったのは18世紀末のこと。
初期には曲馬団と見世物小屋的な形態に二分されていたようですが、1870年代にはフィニアス・T・バーナムという興行師が両者を結合させ、前代未聞の大サーカス「バーナムの大博物館・動物園・キャラバン・曲馬場・サーカス(P.T.Barnum's Grand Traveling Museum, Menagerie, Caravan & Hippodrome)」が誕生します。ショービジネス界の象徴となったバーナムは、やがて自分のサーカスを“地上最大のショウ”と呼ぶようになりました。
1874年にはニューヨークに1万人を収容する「バーナムス・モンスター・クラシック・アンド・ジオロジカル・ヒッポロドーム(Barnum's Monster Classical and Geological Hippodrome)」を建設。これが現在のマディソン・スクエア・ガーデンの前身なのだそうです。

バーナムは1880年にジェームズ・ベイリーと組んで「パーナム・アンド・ベイリー・サーカス」を作りましたが、1891年にバーナム、1906年にベイリーが死ぬと、1907年に彼らのサーカスは新興のリングリング兄弟(リングリング・ブラザーズ・サーカス)に買収されました。
こうして誕生したのが「リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカス」。
TVや映画のない時代に、サーカスは娯楽の殿堂であり、興行師は巨万の富を築いたようです。
ちなみに1952年に公開された米国映画『地上最大のショウ(The Greatest Show on Earth)』は、このリングリング・サーカスが舞台になっています。

フロリダ西海岸に面したサラソタは、冬も温暖な気候のため、リングリング家の冬の別邸がありました。というより、町そのものがリングリング家の投資によって発展したようです。

リングリング兄弟の弟ジョンと妻のマベルはニューヨークやロンドンのオークションの常連であり、とりわけ17世紀ヨーロッパのバロック美術の収集に熱心だったとのこと。やがて夫妻は美術館建設に着手するものの、金融恐慌で計画は厳しい状況となり、1929年には妻のマベルが亡くなりました。そうした困難を乗り越えて美術館が開館したのは1931年10月のこと。夫のジョンも1936年に亡くなり、美術館はフロリダ州に寄付されました。
美術館の正式名称はジョン・アンド・マベル・リングリング・ミュージアム・オブ・アート(The John and Mable Ringling Museum of Art)。
HPを見るだけで、その豪華さに圧倒されます。
また、敷地内には、さまざまな実物資料や模型などでサーカスの歴史を知ることができるサーカス博物館(The Circus Museum)もあるそうです。

   *   *   *

「原爆の図展」にサーカスが関わっていると聞いたときには、あるいは“見世物小屋”的な性格の展覧会だったのかもしれないと思いました。
実際、日本国内の初期の巡回展では、原爆被害の実情を人びとに伝えるという目的だけでなく、多数の観客を動員できるという興行的な目的で百貨店が開催したこともあったのです。
しかし、リングリング美術館の歴史と展示コレクションを調べるうちに、どうやらサーカスが関わっていたわけではなく、“見世物”としての開催の可能性は極めて低いことがわかってきました。

当時、米国内で「原爆の図展」を受け入れるということは、美術館側としてもそれなりの覚悟と決断が必要だったことでしょう。
大学や教会では予定通りに展覧会が開催された一方、オークランド美術館やウィチタ美術館では「場内改装」を理由に大幅に日程が短縮されたり、展覧会が中止になったりしている状況を見ても、その困難さが伺われます。

リングリング美術館がどういう経緯で「原爆の図展」を受け入れ、責任を持って開催したのか。
会場を訪れた人びとの反応はどのようなものだったのか。
会期中に展示を巡るトラブルなどはなかったのか。
残念ながら手もとにはほとんど資料がありません(展覧会開催時、丸木夫妻はすでに帰国していました)が、いずれきちんと調べておきたいという気持ちにさせられました。
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