2016/11/12

富山妙子展作品集荷  調査・旅行・出張

午前中から富山妙子さんのお宅にお伺いして、特別展示「終わりの始まり、始まりの終わり」の作品集荷。
95歳の富山さんは、今展のために旧作だけでなく、新作の油彩画を2点出品されます。
まだ油絵具の乾ききっていない作品から、その驚くべきバイタリティが伝わってきます。

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12月3日に予定しているイベント「何も信じられない時代に何を語る?」について、富山さんは「なんだか本当にタイトル通りの時代になってきましたでしょう、嫌になってしまう」と、3度も繰り返しおっしゃっていました。

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ご自分で切り貼りして作られた展示プランは、そのものが何だかコラージュ作品のようで、お預かりするだけで身が引き締まります。
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2016/11/10

小川高校出張授業  調査・旅行・出張

午後、東武東上線に乗って、わずか2駅、埼玉の小京都・小川町へ。

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今年もまた、埼玉県立小川高校で沖縄戦についての出張授業です。
このタイミングで沖縄戦のことを話すのは複雑ですが、逆に伝えたいことがいろいろあるような気もします。

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例年の会場は町立の公民館でしたが、今年は高校の格技場。
修学旅行を間近に控えた学年全員が、畳の上に集まってくれました。

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小川高校は、丸木美術館の理事を務めて下さった故・栗原克丸先生が図書館運動に尽力された独立型の図書館があることで知られています。
みずから詩人として活動されていた栗原先生のご息女は、やはり詩人の木坂涼さん。
そして、そのお連れ合いもまた詩人のアーサー・ビナードさんで、丸木美術館とのつながりは深いのです。

静かに、じっくりと授業を聞いてくれた小川高校の生徒の皆さん。
沖縄の日々をたっぷり楽しみつつ、その奥に潜む戦争の記憶にも思いを寄せて、実り多い修学旅行になると良いですね。
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2016/10/16

ひとミュージアム上野誠版画館  調査・旅行・出張

今日は長野県長野市川中島町へ。
開館15周年を迎えたひとミュージアム上野誠版画館を訪れました。

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田島隆館長を中心に、熱心な支援者の方々が集まるお祝いの雰囲気は、少し丸木美術館にも似ています。
1階には上野誠の版画作品を展示。大作《ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え》は、貴重な版木とともに展示されていました。

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そのほかに長崎の朝鮮人被爆を描いた《原子野H》や《焼津港に繋留された第五福竜丸》、そして《原爆の長崎》シリーズ制作の前に手がけた「掌版」と作者が呼んだ小品連作など。
2階にはケーテ・コルヴィッツの《カール・リープクネヒト追悼》や自画像などのコレクションが並びます。

午後2時からは、開館15周年の記念集会がはじまりました。
田島館長らの挨拶、崔善愛さんのショパン演奏に続いて、崔さん、田島さん、そして上野誠のご子息で、やはり版画家の上野遒さんの鼎談。
遒さんいわく、1955年に《ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え》が制作されたときには、「生意気盛りの美大生だった自分は、こんなクソリアリズムで平和なんか来るもんかと思った」とのこと。しかし、時を経てみると、案外悪くない。リアリズムでも思想そのままではなくて、生身の人間の内面を通って描かれたものは、現実以上の現実を表現している・・・といった話に惹き込まれました。

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その後、遒さんは2階で上野誠作品の刷りの実演もして下さいました。
「原爆や戦争は、芸術で表現できるものではないんだという人もいる。自分もそうかもしれないと思う。けれども、そうであったとしても描かずにはいられない芸術家はいて、父はそうだった。また、それ以上に表現したいものもなかったのでしょう」
実演をしながら問わず語りに語る遒さんの上野誠論が面白く、もっとたくさんお話を聞きたいと思いつつ、新幹線の時間が迫ってきたのでパーティの途中に館を後にしました。

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開館15周年記念ということで、参加者には上野誠直刷り・掌版がプレゼントされました。
何が入っているかは開けてのお楽しみ。私が頂いたのは防空壕の中の母子像でした。

温かく迎えて下さった田島館長はじめスタッフの皆さまに、心から御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
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2016/10/5

【広島出張最終日】常盤橋/大田洋子被爆の地/四國五郎展  調査・旅行・出張

広島出張最終日は、台風を心配していましたが、朝から雨は降らず、時おり雲の合間から青い空も見えました。
そこで朝一番に、四國五郎が「弟の墓標」と呼んだ、弟の直登が被爆後の一夜を過ごした常盤橋を訪れました。

四國五郎著『広島百橋』にも常盤橋のスケッチは収められていますが、他にもいくつもスケッチを残していたようです。それだけ思い入れのある橋だったのでしょう。
直登が一夜を過ごした橋はすでに架け替えられ、四國が描いた風景も現在では大きく変わっていますが、スケッチをした場所を探すことで、今さらながら、二人の兄弟に少しだけ近づいた気がしました。

今回描かれた場所を探したのは、以下の4点です。
まずは、《饒津神社国鉄ガード》(1973年1月21日)。
四國がスケッチをした頃に比べると、大幅に道路が拡張されたようです。

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続いて《常盤橋》(1982年2月27日)。
このスケッチは橋の上で描かれています。

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さらに《山陽新幹線の走る常盤橋付近》(制作年不詳)。
画面右側の手前、旧常盤橋はすでにありません。本当はもっと後方の高い位置から描いているのですが、現在は樹が生い茂り、この位置からでないと川や橋は見えません。

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最後に《常盤橋工事中》(1973年4月1日)。
架橋工事を見上げるように、川岸から描いたのでしょう。現在、ほぼ同じ位置に立つと、新常盤橋に隠れて、後ろの風景はほとんど見えなくなります。

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ちょうど新幹線が開通し、橋が新しく架け替えられる時期に、四國は変わりゆく風景を描き残そうとしたのだということが、スケッチの場所を探しながらよくわかりました。

常盤橋の近くの公園に、国鉄原爆死没者慰霊碑があることも、初めて知りました。

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常盤橋を渡ると、白島通りにぶつかります。
広電白島線の被爆の様子は、大道あやが絵本に描き、後から「生きながら死んでいった人は描けん」と憤り、塗り潰してしまったのですが、そのことを思い出しつつ北へ向かうと、原民喜の墓のある円光寺。
さらに鉄道ガードをくぐって北に行くと、「大田洋子被爆の地」の碑がある宝勝院にたどり着きます。

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ここまで歩いたところで「四國五郎追悼・回顧展」が行われる県民文化センターへ駆けつけ、午前中いっぱい、展示作業の手伝いを行いました。

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今回は、「弟の被爆死」に焦点を当てた展示。手づくりの温かさが会場にあふれる様子は、昨年の旧日本銀行広島支店の展覧会を思い出します。

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会場の入口には、四國五郎がデザインした平和記念公園の「峠三吉詩碑」の実物大模型が展示されました。

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1950年10月の五流荘の「原爆の図展」も紹介されており、丸木美術館から《原爆の図》パネルを貸し出しています。
新たに掘り起こされた資料として、1951年の五流荘増築工事設計図も展示されました。

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すでに「原爆の図展」が開催された後のことですが、小さな建物が増築されていたのです。
ちなみに五流荘は1947年頃、茶華道の発展を意図した建築主・梶尾健一によって建てられた建物群の総称。今回掘り起こされた設計図にも梶尾の名が記されていました。
当初は茶室や住まいが建てられましたが、やがて大きな集会場や客間が増築されました。
本来はそれらの集合が五流荘なのですが、一般には棟高5.5m、広さ40坪の三角屋根の大きな集会場を五流荘と読んでいたとのこと。
のちに小島辰一が居住し「広島爆心地文化研究所」と名付けて、平和運動などに開放的に使われたようです。

今回の広島出張はここまで。
何とか無事に飛行機も飛んでいたので、東京に帰りました。
お世話になった皆さまに、心から感謝。
また広島で多くの方と知り合うことができて、本当に嬉しいです。
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2016/10/4

【広島出張2日目】四國五郎作品返却など  調査・旅行・出張

午前中から、広島平和記念資料館、広島市立中央図書館、四國家の順に作品返却。
ようやく、無事に「四國五郎展」が終了しました。
とはいえ、翌日から県民文化センターで、今度は四國五郎追悼の会主催による「四國五郎展」があるので、慌ただしく貸出作業も行われます。

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その後、追悼の会のIさん、Nさんに連れられて、もつ天婦羅の店「くりはら」で遅めの昼食。
各テーブルに包丁と俎板がどんと置かれ、揚げたての天婦羅を包丁で切り分けて、うどんとともに食べるという豪気なスタイル。

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午後は広島市現代美術館の「1945±5年」展を観ました。
原爆の図第1部《幽霊》再制作版の展示を確認し、担当のS学芸員やF館長にご挨拶。
《原爆の図》の展示は、兵庫県立美術館の展示とは異なり、オーソドクスなものでした。
F館長によれば、『股間若衆』の著作で知られる木下直之さんが、《原爆の図》と再制作版に関心を示されていたというので、今後何らかの展開があるのか、少し楽しみです。

夜は再びIさんに誘われて、相生橋の先の呑み屋「九太呂」へ。Iさん、Tさんに、C新聞社のDさん夫妻。小イワシ、サンマ、江波巻きなど。
「九太呂」に来たのは二度目です。
今回は、店の天井に四國五郎の描いた凧があることを教えてもらいました。

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凧に記された署名は「安芸國住人 四樓丸五郎」。

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そして、実は壁面にも基町(現在のリーガロイヤルホテルあたり)にあったバラックの呑み屋「ぐるっぺ」のペン画が飾られていました。

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「ぐるっぺ」は、昨年、旧日本銀行広島支店で開催された「四國五郎展」の入口に立体模型で再現されていたことを覚えています。
去年の「四國五郎展」についての記録はこちら。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2492.html

「九太呂」はIさんたちが展覧会やライブの後の打ち上げにたびたび使う店で、生前の四國五郎はもちろん、「坂田明やマルセ太郎もこの店に来た」という話を聞かせてもらいました。
それから話はあちこち飛んで、岡本唐貴や門田秀雄など。Dさんの話はいつも刺激的です。

そんなこんなですっかり夜が更けた後、朦朧としながらホテルに戻り、シャワーも浴びずにベッドの上で記憶を失いました。
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2016/10/3

【広島出張初日】広島市内遺構・文学碑めぐり  調査・旅行・出張

広島出張。諸般の事情により1日スケジュールが空いてしまったので、これまでなかなか行くことができなかった遺構や文学碑などを中心に、久しぶりに広島の街を歩こうと思い立ちました。

まずは中沢啓治『広島カープ誕生物語』モニュメント(2015年建立)からスタート。

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ちょうどマツダスタジアムではコンコースを特別開放し、カープの練習を見学できるようになっていたので、ポストシーズンに備えて体を動かす選手たちを見守りました。
お散歩に来た保育園児たちの一番人気は「新井さん」。大きな声の「がんばれー」という声援を受けて、手を振って応えていました。

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その後は南に向かい、鶴見橋(爆心地から1.7km)を通過。ここには被爆したシダレヤナギが今も残っています。

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そのまま京橋川に沿って、中区昭和町の平和アパートを訪ねました。

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1948〜49年度に建てられ、広島市で初めての鉄筋コンクリート造の市営住宅。
3号棟の4階には、詩人の峠三吉が住んでいました。敷地内には、峠の「河のある風景」を刻んだモニュメントも建っています。

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次に、京橋川を渡って、南区出汐の広島陸軍被服支廠(爆心地から2.7km)へ。
出征前、まだ10代のの四國五郎が勤務していた場所でもあります。

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1913年竣工、鉄筋コンクリート造り煉瓦張りの遺構で、原爆の爆風で歪んだ鉄製の窓は、今もそのまま残されています。
被爆時は救護所として使われ、峠の『原爆詩集』に収められた詩「倉庫の記録」の舞台になりました。

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ここからは西に向かって歩き、萬代(よろずよ)橋(爆心地から880m)を通りました。1974年に小林岩吉という一人の老人が、この橋の惨状を絵に描いてNHKに持参したことから、市民の手で原爆を描こうという呼びかけがはじまったのです。

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その橋を西に渡って、平和公園に向かって歩くと、左側にある小さな寺が西応寺。峠家の墓があるお寺です。お墓の写真は撮りませんでしたが、四國五郎展の盛況を報告。寺の前には、「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」による原爆の絵のモニュメントがありました。

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平和記念公園に入って、まずは芥川永「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」(1971年)を見ました。
正田篠枝の詩「太き骨は 先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」も刻まれています。

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広島市平和記念資料館の下をくぐって、北側の木立には峠三吉詩碑(1963年)があります。「ちちをかえせ ははをかえせ」で有名な『原爆詩集』の「序」の一節が刻まれています。詩碑のデザインは四國五郎。

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原爆ドームの東側には原民喜詩碑(1951年)。「遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻」 の詩が刻まれています。

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次に、平和記念公園を歩き抜けて、旧市民球場跡地の北側にある中央公園へ。とても広い公園ですが、一周して西側の端にある大田洋子文学碑(1978年)を見つけました。

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「少女たちは 天に焼かれる 天に焼かれる と歌のやうに 叫びながら 歩いていった」という『屍の街』の一節。「少女たち」のように石が並んだこの文学碑も、四國五郎のデザインです。

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夕暮れ迫る中、広島城を通過して、中区東白島町の広島逓信病院(爆心地から1.3km)にたどり着きました。原爆投下によって破壊されながらも当日の夕方から救護活動を行った、市内で数少ない医療機関の一つです。現在、建物の一部が保存され、被爆資料室になっています。

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その隣の郵便局の前庭には、郵政関係職員慰霊碑とともに、栗原貞子「生ましめんかな」詩碑(1989年)があります。

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広島貯金支局地下室に避難していた被爆者が産気づき、いあわせた瀕死の産婆が赤ん坊を取り上げ、自らは命を落とすという内容の詩。土台になっているのは、旧広島貯金局の被爆した屋上タイルです。
「生ましめんかな」の舞台になったのは、実際にはこの場所ではないそうですが、郵政関係のつながりということで建てられたとのこと。

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広島城築城400年を記念して広島市が依頼した入野忠芳の壁画がある広島拘置所を横目に見ながら通り過ぎ、南に向かいます。

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最後に訪れたのは、中区八丁堀の広島YMCAの2号館。ここの入口には、市民が描いた原爆の絵のモニュメントが建ち、四國五郎の《平和行進》も使われていました。

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この広島YMCAは、かつて済美国民学校があった場所で、児童の像の背後には、その済美国民学校の児童たちの被爆を詠った峠三吉「墓標」詩碑が飾られています。
1950年10月、丸木夫妻の「原爆の図展」が行われた際に、初めて朗読発表されたという長編詩です。

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この詩碑にたどり着いたときには、あたりはすっかり暗くなっていました。携帯電話で確認すると、今日の歩数は3万歩を超えていました。さすがに最後はちょっと疲れましたが、実際に自分の足で歩いて知ったことの中には、後々役に立つこともあるでしょう。
明日は四國五郎展の作品返却です。
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2016/9/27

【ミュンヘン出張C】NSドキュメンテーションセンター・ミュンヘン  調査・旅行・出張

ミュンヘン出張最終日は、昨年5月にオープンしたばかりのNSドキュメンテーションセンター・ミュンヘン(NS-Dokumentationszentrum München)へ。

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かつてナチスの党本部が置かれていたブラウン・ハウスがあった場所に建てられた資料館です。
(左隣の建物は元総統官邸=現ミュンヘン音楽大学)。

昨年の米国巡回の際には、ワシントンD.C.のホロコースト博物館やニューヨークのユダヤ博物館を訪れました。それらは迫害された側からの展示でしたが、ミュンヘンはナチスの結党の町。ナチスをいかに生み出したかという重い歴史を見つめるという立場からの展示になります。

5階建ての施設には、ナチス台頭前史から、人種差別と独裁政治の時代を経て、戦後ナチスとどう向き合ってきたのかをたどる内容が、映像を中心に展示されています。

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若い学生と思しきグループがいくつも訪れて、解説を聞いている様子が印象的でした。

個人的には、今回の出張に関連する「ドイツ芸術の首都―モダニズムの焼却」のコーナーを興味深く見ました。「大ドイツ美術展」(1937年7月18日〜10月31日)と「退廃美術展」(1937年7月19日から11月30日)に関する写真と映像の紹介です。

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「大ドイツ美術展」の会場は、昨日まで展示のために通っていたハウス・デア・クンスト(開館時の名称はハウス・デア・ドイチェン・クンスト)。
当時の会場写真を見ると、内装がほとんどそのまま残されていることがわかります。

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映像では、展覧会初日に行われたハウス・デア・クンスト落成記念パレードの様子も紹介されていました。

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会場写真には、先日、ピナコテーク・デア・モデルネ(現代絵画館)で見たばかりのアドルフ・ツィーグラーの《四大元素》も見えます。

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一方、「退廃美術展」の会場は、考古学研究所の2階という劣悪な環境。ルートヴィヒ・ギースの彫刻《磔刑図》や、キルヒナー、クレー、シュヴィッターズ、モンドリアン、ノルデら錚々たる画家たちの絵が展示されていて、来場者が押し寄せている光景が記録されています。

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本来、9月末に終了予定だった展覧会は、あまりに観客が多かったため11月末まで延長されたのでした。

ミュンヘン滞在の最後には、カンディンスキーはじめ「青騎士」などのコレクションで知られる市立レーンバッハギャラリーを駆け足で見ましたが、あまりに時間が足りませんでした。

限られた日程ではありましたが、「大ドイツ美術展」と「退廃美術展」が二つでセットになっていたことを、あらためて実感する今回の出張。
そうした歴史性を踏まえた土地で、「Post War」展がどのような反響を呼ぶか、楽しみに思いつつ、夕方の飛行機で帰国しました。
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2016/9/26

【ミュンヘン出張B】原爆の図展示完了  調査・旅行・出張

午前中からハウス・デア・クンストで展示作業の続きです。
昨日の2mを超える高さでの展示作業に比べれば、今日の展示はまったく問題なし。

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無事に展示が終わってから、作品の状態チェック票へのサインの記入や、絵に観客が近づかないための注意喚起の方法、帰りの梱包についての打ち合わせを行いました。

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天井の高い空間なので、《原爆の図》を二段掛けしてもそれほど窮屈ではありません。
ただ、上の作品は細部が見えないので、絵の力が強い第2部《火》を上にしたのは正解でした。
下の第6部《原子野》は、一見地味ですが細部を作り込んだ作品なので、そのあたりをじっくり見て欲しいところです。

隣の壁はイサム・ノグチの展示スペース。
これから核を題材にした彫刻などが配置されるようです。

ハウス・デア・クンストの展示作業はまだまだ続きますが、私の仕事はこれで終了。
迷路のように壁面を増設した会場を歩きましたが、まだ展示されていない作品がほとんどで、全体像はよくわかりませんでした。

できれば会期中にミュンヘンを再訪して、じっくりと展覧会を見ながら考えたいところです。

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今回の展示では、ミュンヘン在住18年の日本人女性画家に、たいへんお世話になりました。
展示スタッフみんなでコーヒーを飲んだり、昼食をとったりしているときは、なかなか2人で話す機会はなかったのですが、最後の昼食で初めて2人になって、日本語でゆっくり話すことができました。
以下は、そのときの会話の内容の書き起こしです。

   *   *   *   *   *

ミュンヘンから見る今の日本は、他国の人たちと協調していくためには絶対にあり得ない論理を、国内だけで語っているように感じる。近代の歴史認識にしても、原発事故にしても。

ドイツだっていろいろ問題はあるが、70年前の戦争の反省を、まわりの国や民族といっしょに考えてきたという点は、日本と大きく違う。

多チャンネルになったテレビは、毎日、どこかで必ず1本はナチスの番組をやっているくらい、ドキュメンタリが多い。近代史の反省を、メディアが牽引して進めている。

日本は隠蔽しかしないというイメージがある。原爆だって被害の強調ばかりで、そのことで戦争全体の責任を隠蔽している。

ハウス・デア・クンストのような、ナチスの遺産的建物を、今も美術館として活用することには批判がないわけではない。けれども、外壁にはクリスチャン・ボルタンスキの《レジスタンス》という作品が展示されている。
これはナチスに抵抗した地下組織のメンバーの顔写真をもとにしたプロジェクト。
日本でこうした作品が展示されるだろうか?

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芸術において政治性は重要な要素のひとつ。もちろん、ユーモアや皮肉を使って表現を直接的でないものにすることもある。
私は東京の美大に通って、こちらに来るまでは政治的な問題をまったく教わらなかったし関心もなかったけど、今は日本に戻るたびに違和感を覚える……

   *   *   *   *   *

個人的に共感する意見は多く、私も丸木美術館ではそうした現状を何とか変えていこうという想いを持って仕事をしているけれども、一般に広がっているとは言い難いので、これからも頑張ります、と答えました。
これからも、ずっとこの会話を抱えながら、仕事をしていくことになりそうです。

仕事を無事に終えたので、夕方は、オクトーバー・フェストの会場であるテレージエンヴィーゼに行ってみました。
ビアツェルト(ビールテント)の中は、数千人の酔っ払いがビールを飲む凄い光景。

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お酒をあまり飲まない私には、異教の集会に潜入したような、すごい迫力と緊張感でした。
せっかくなので、ビールも注文してみました。人生初のビアガーデンが、まさかミュンヘンになろうとは、まったく予想もしていませんでしたが。
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2016/9/25

【ミュンヘン出張A】原爆の図展示作業その1  調査・旅行・出張

ハウス・デア・クンストにて《原爆の図》展示作業。
屏風画の上下二段掛けは初体験で、しかも昨日会場に来るまでそんな展示プランは聞かされていなかったのですが、何とか1日がかりで上段の展示を終えました。

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多国籍の展示スタッフによる、ドイツ語、英語、のみならず、ときにスペイン語、もちろん日本語も入り混じる議論の時間が長く、たいへん疲れました。
(展示スタッフに日本人の女性画家が一人いて、細かい相談をドイツ語に通訳してくれたのはとても助かりました)

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それだけ慎重に、万一の事故のないように作品を扱ってくれたわけです。
明日の下段の展示はもっと簡単に、短時間で終わることでしょう。

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思い起こすのは2011年の目黒区美術館の幻の「原爆を視る」展。
もし、あのとき実現していたら、前代未聞の《原爆の図》4段掛け計画があったのですが、果たして本当に展示できていたかどうか・・・。
地上8mの高所で4曲の屏風をフラットの状態にして壁に固定するのは、至難の技だったかもしれません。

日本の美術館では多くの場合、展示作業まで一括で輸送業者が行いますが、昨年の米国展も今回のミュンヘンも、若いアーティストなどのパートタイムのスタッフが、美術館のコーディネートのもとに集まって展示を行っています。
美術館に愛着を持つスタッフが、力を結集して展示作業を行うあたりは、丸木美術館に似ていますね。日本では丸木美術館が展示替えの日に当たっていたので、少しだけ懐かしく思い出しました。

午前中、ちょうど、スタッフのみんながコーヒー休憩をしている間、ぼくは携帯電話で日本のNHKのラジオ番組「ちきゅうラジオ」にインタビュー出演していました。
おかげでコーヒーは飲み過ごしてしまいましたが、臨場感はお伝えできたのではないかと思います。

http://www.nhk.or.jp/gr/ondemand/index.html

こちらのサイトで1週間ほどラジオ放送の内容が聞けるようです。
(インタビューは25分頃から。携帯電話のせいか、ちょっと音質が悪いですが)

今日は、イサム・ノグチの彫刻や山端庸介の写真、カレル・アペルの絵《広島の子供》も展示されることが分かってきました。
誰に聞いても出品作品の全体像をなかなか教えてもらえず、全体を把握している人間は果たしているのかと不安もありますが、少しずつ展覧会は開催に向けて前に進んでいるようです。
(ちなみに図録は、開幕後にできる予定だそうです)

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2016/9/24

【ミュンヘン出張@】ハウス・デア・クンストへ  調査・旅行・出張

昨日から、ドイツのミュンヘンに来ています。
10月14日より開幕するハウス・デア・クンスト(芸術の家)の「Post War : Art Between the Pacific and the Atlantic, 1945-1965」に《原爆の図》が2点展示されるため、展示作業に立ち会うのです。

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ハウス・デア・クンストは、1930年代にアドルフ・ヒトラーの強力な後押しで建てられた、古代ギリシャのパルテノン神殿風の柱が正面に並ぶ立派な美術館。
1937年には、ナチス公認芸術を推奨する「大ドイツ芸術展」が、別会場の「退廃芸術展」とともに同時開催されています。

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そんな複雑な過去を持つ美術館で、「戦後美術展」が開催されます。
50ヵ国180人の芸術家による350点の作品を展示する大規模な展覧会。
全体は8つのセクションに分けられていて、最初のセクションが「核の時代」です。

今日、美術館に行って分かったのは、最初の展示室の正面に、《原爆の図》が二段掛けで展示されるということ。第2部《火》と第6部《原子野》の展示だから、朱色の炎と墨の暗闇の対比が鮮やかになるでしょう。
同じ部屋には、海外の芸術家が原爆に触発されて描いた作品がならびます。ヨーゼフ・ボイスが原爆を描いた作品も出品され、原爆のドキュメントフィルムも投影されるそうです。
《原爆の図》はすでに届いていましたが、開梱と展示作業は明日の朝から行う予定になっていました。
玄関ホールには、元永定正の具体美術協会時代のビニールに色水を入れて吊るす作品が、すでに設置されていました。

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キュレーターとスケジュールを確認して、作業員の皆さんと顔合わせの挨拶をしたところで、今日はやることがなくなってしまったので、午後はアルテ・ピナコテーク(旧絵画館)、ノイエ・ピナコテーク(新絵画館)、ピナコテーク・デア・モデルネ(現代絵画館)を見てまわりました。
そんな機会だったので、ピナコテーク・デア・モデルネの「国家社会主義下の芸術家」の展示室は、とりわけ興味深く見ました。
展示されていた画家はアドルフ・ツィーグラー、ゲオルグ・コルベなど。
ヒトラーに称賛された画家たちの作品です。

明日はいよいよ展示作業。日本時間25日午後6時半より、NHKラジオ第1/NHKワールド・ラジオ日本「ちきゅうラジオ」のコーナー「ちきゅうズームアップ」に現地から電話出演して、展覧会の様子をお伝えいたします。
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2016/7/26

「原爆の図展・文京」と戦没野球選手慰霊碑  調査・旅行・出張

午前中の飛行機で広島から戻り、午後2時から文京シビックセンターで開催中の「原爆の図展・文京」で昨年の米国巡回展の報告を行いました。

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文京展は、毎年この時期に、もう12年も続けている複製展示を中心とした小さな展覧会。
今年は7月28日まで。入場無料ですので、お近くにおいでの際は覗いてみて下さい。

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会場には、たくさんの方がおいで下さって、スライドを交えながら1時間ほど話しました。
シニア世代の方々が中心で、夏休みに入ったばかりの小学生の姿もありました。
地道な活動を続けてこられている文京の方々には、本当に頭が下がります。
毎年、この展覧会を見て丸木美術館に来た、という方もいらっしゃるのです。

   *   *   *

帰りに、東京ドームのわきにひっそりと立つ「鎮魂の碑」に、久しぶりに立ち寄りました。
1981年建立の戦没プロ野球選手の慰霊碑。
慰霊碑はふたつあり、ひとつには戦没した選手の名前が刻まれています。

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もうひとつは、建立の趣旨や、碑の建立に尽力した遺族代表の石丸藤吉の弟・進一を偲ぶ文章が刻まれています。

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名古屋軍の投手として1943年にはノーヒットノーランを達成するなど20勝をあげた石丸進一は、特攻隊の出撃命令を受けた後、白球とグラブを手に友人とキャッチボール。
ストライク10球を投げ込んだ後で飛び立ち、還りませんでした。

強肩を誇る投手は軍隊で手榴弾投げに駆り出され、肩を壊した者もいました。
「沢村賞」に名を残す沢村栄治もその一人。選手生活の晩年は得意の速球が投げられず散々な成績で、最後の公式戦は代打出場。
その後応召し、輸送船でフィリピンへ向かう途中に屋久島沖で米潜水艦に撃沈され、還りませんでした。
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2016/6/21

【広島出張】原爆の図など作品返却/峠三吉詩碑  調査・旅行・出張

今日もまた早朝の飛行機で広島出張。
「原爆の図はふたつあるのか」借用作品を、無事に広島市現代美術館、広島市立中央図書館、広島平和記念資料館に返却しました。
これでようやく、ひと安心。これからは「四國五郎展」準備に集中です。

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日帰りなので、あまり時間がなかったのですが、平和記念公園内の峠三吉詩碑を見てきました。
シンプルな碑石と設置台は、四國五郎のデザインによるものです。
この詩碑が建立されたのは1963年8月6日。除幕式には丸木夫妻も出席していたようです。

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2016/6/17

【広島出張2日目】 広島市現代美術館「東松照明展」  調査・旅行・出張

広島出張2日目は、広島平和記念資料館で用事を済ませ、広島市現代美術館で「東松照明ー長崎ー展」を観て、最後にギャラリーGにちょっとだけ顔を出してから、帰京。

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「東松照明展」は、長崎のみの写真展としては過去最大級の規模という約350点の展示。
生前のH元館長が、「丸木美術館で東松の長崎の写真展をやるべきだ」と提案したことがあるのを思い出しながら、ひとつひとつじっくり観ました。
そのせいもあってか、展示を見ながら、なぜ「今」、「広島」で、「東松の長崎の写真展」を企画するのか、その意味をもう少し掘り下げて考えたいという気もしました。

もちろん、広島で「東松の長崎の写真」を見るということは、興味深い試みです。
むしろ広島から長崎を見る、あるいは長崎から広島を見るという視線は、互いにもっとあってもいい。
そして、広島と長崎が共同で原爆を主題にした表現を検証していくという試みも、行っていかなければいけないと思います。
今回の「東松展」が、その端緒となると良いのですが。

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1961年に原水協の仕事で初めて長崎を訪れたことを機に、その後は個人的に何度も現地に足を運び、やがて移り住んだ東松は、1945年8月9日11時2分の長崎を起点にしながら、文化や自然、歴史性へと写真の視界を拡げ、撮り続けていきました。
決して癒されない「傷」を抱えながら、なお生き続ける人や土地が重ねてきた歳月の「深み」と美しさ」が、心に沁みる展覧会です。
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2016/6/16

【広島出張初日】四國五郎展作品集荷  調査・旅行・出張

朝一番の飛行機で広島に飛び、「四國五郎展」にむけての作品集荷。
四國五郎アトリエでは長女Mさんご夫婦と長男Hさんに加えて、広島大Kさんと2人の学生の強力な助っ人も加勢して下さって、作品の梱包作業を行いました。

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予定通り午後2時に業者の車に積み込み、その後、平和記念資料館と市立中央図書館もまわって、合計80点ほどの作品や資料を借用。
心配していた雨も、なんとか本降りにならずにすみ、ひと安心でした。
25日からはじまる展覧会に向けて、いよいよ準備が本格化してきました。

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企画展「四國五郎展 シベリア抑留から『おこりじぞう』まで」
2016年6月25日(土)〜9月24日(土)

峠三吉のガリ版『原爆詩集』(1951年)の表紙絵や絵本『おこりじぞう』(1979年)の挿絵を手がけるなど、広島で生涯をかけて「反戦平和」を見つめながら表現活動を続けた画家・四國五郎(1924〜2014)。
1944年に徴兵されてシベリア抑留を体験し、1948年の帰還後は峠三吉らとともにサークル誌『われらの詩』の刊行や、反戦詩と絵を一枚の紙に描いて街頭に貼ってまわる「辻詩」の活動を展開。1950年10月、丸木夫妻の《原爆の図》全国巡回の出発点となった広島での展覧会を支えたのも、峠や四國ら「われらの詩の会」の仲間でした。その後も「広島平和美術展」を組織・運営しながら、原爆や母子像をテーマにした絵画や絵本を描き続けるなど、生涯をかけて「平和」への思いを貫きました。
今展では、シベリア抑留時代のスケッチから、被爆死した弟の日記、峠三吉や丸木夫妻との交流を示す資料、辻詩、絵画、絵本原画などを紹介し、四國五郎の遺した幅広い表現とその意味を振り返ります。

●オープニング・トーク 「四國五郎という画家がいた」
6月25日(土)午後2時 出演:四國光(四國五郎長男)、永田浩三(武蔵大学教授)
ご長男である四國光さん、今夏に『ヒロシマを伝える 〜詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち〜』(WAVE出版)を刊行予定の永田浩三さんをお迎えして、生涯をかけて原爆・平和を描き続けた四國五郎の人となりや仕事についてお話し頂きます。

WEBページはこちら
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2016/2016shikoku.html
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2016/6/12

富山県水墨美術館/フォルツァ総曲輪  調査・旅行・出張

大阪の研究会の帰りに、北陸新幹線に乗って富山に立ち寄りました。

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午前中は神通川の橋を渡って富山県水墨美術館へ。
広々とした庭園がとても気持ちのよい美術館でした。

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開催中の企画展は「美人画の四季 松園、恒富、清方から麦僊まで」
この日が最終日ということもあってか、館内は賑わっていました。
水墨美術館とはいっても、必ずしも水墨画専門の美術館というわけではないようです。

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展覧会を見た後は、路面電車に乗って市の中心部へ。昼食に海鮮丼を食べました。

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午後は、9月で閉館になってしまうという映画館、フォルツァ総曲輪を訪ねました。

近くに新しいシネコンができたからという理由で、「役割を終えた」という行政判断なのだそうですが、たんなる映画館ではなく、市民の集う“場”としての存在感もあるスペースなので、閉館してしまうのはたいへん残念です。

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受付には、丸木美術館のイベントなどをサポートして下さっているY子さんがいらっしゃいました。
この日は、映画専門のシアターホールではなく、イベントホールで上映された『わたしの自由について SEALDs 2015』を観ました。
SEALDsの疾走感を鮮やかに捉えた記録映画で、3時間という上映時間もまったく長く感じません。
監督は地元の富山出身の西原孝至さん。ふだんは「情熱大陸」などのテレビ番組を撮っていると聞いて、納得でした。
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