2017/12/25

【広島出張A】横川シネマにて「河」上演  調査・旅行・出張

広島の横川シネマにて、「河」(作・土屋清、1963年)の30年ぶりという上演を観ました。
生誕100年を迎えた詩人・峠三吉を主人公にした戯曲です。2日間計4回上演で、本来70席の会場に毎回130人が入る超満員とのこと。

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舞台は、峠が友人画家と「芸術と政治」をめぐる論争を行う第1幕、1949年6月の日鋼闘争の第2幕、1950年8月6日に福屋から反戦ビラを撒く第3幕、肺炎のために入院・手術に向かう第4幕という構成。

占領下・朝鮮戦争の勃発期に原爆詩に取り組んでいく峠三吉の動きは、ほぼ同時期に「原爆の図」を描いていた丸木夫妻に重なります。
劇には登場しませんが、第3幕の2ヵ月後、峠は「原爆の図」展広島開催に協力し、互いの人生は交錯します。
だから1950年前後という時代を実感するためにも、ぜひ見ておきたい舞台でした。

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また、戯曲が書かれた1963年は、原水禁運動分裂の時期であり、原爆文学研究会の川口さんの教示によれば、峠が主宰したサークル誌『われらの詩』を受け継いだ『われらのうた』が終刊に向かう時期にも重なります。
時代の変化の中で、峠の仕事を検証する必然もあったでしょう。そうした時代背景にも興味を惹かれます。

印象的だったのは、友人画家(モデルは浜本武一)が、峠は「反戦」というテーマを扱わなくてもすぐれた詩人であることを強調し、政治運動に疲弊するのでなく、自身の才能を伸ばすようにと繰り返し忠告していたこと。峠は苦悩の末に、「反戦詩を書かせたのは他の誰でもない、自分自身だ」と自らの道を選びとり、『原爆詩集』に到達します。
芸術のための芸術でなく、政治のための芸術でもなく、芸術と政治が接触する一瞬の火花の中から力のある表現が生まれることは、確かにあるのだと思います。

林幸子の孫にあたる某新聞社の若い記者が、彼女をモデルにした女性役を演じていたことも感慨深く拝見しました。
彼女が暗誦した渾身の「ヒロシマの空」は、再演の意味を感じさせるという点で、今回の上演の中で、もっとも胸を打つ見せ場のひとつだったように思います。
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2017/12/23

【広島出張@】第54回原爆文学研究会  調査・旅行・出張

広島大学東千田キャンパスにて、第54回原爆文学研究会
単独の研究会としては過去最多の約60名が参加するという大盛況でした。

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齋藤一さんの発表は、1958年5月に広島大学で行われたスティーヴン・スペンダーの講演「現代詩の諸問題」について。『死の灰詩集』論争からはじまって、質疑応答では、ほぼ同時期の復興大博覧会や『ヒロシマ・モナムール』まで話が広がる非常に興味深い刺激的な内容でした。

『〈原爆〉を読む文化事典』の書評ワークショップの発表者は東琢磨さん、権赫泰さん、伊藤詔子さん。
「事典」の書評ということで、どうしても項目立てについての(例えば「映像」や「同和問題」などの項目を立てられなかったか、というような)問題が中心になったのですが、質疑応答の途中で、(批判の前提として)事典をまとめあげた編者の力量を讃える発言が次々に挙がり、川口さんは頭を下げて目頭をおさえていました。

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ともあれ、さまざまな示唆に富んだ書評会。今後の原爆と文化を思考していく上での「武器庫としての事典」(東さんの発言)にしていきたいと、あらためて思いました。
『原爆文学研究』最新第16号も入手。こちらも丸木美術館で取り扱っていきます。
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2017/12/5

五ノ神まいまいず井戸と玉川上水取水堰  調査・旅行・出張

先日、足利市立美術館で「涯テノ詩聲(ハテノウタゴエ )詩人 吉増剛造展」を観ました。
吉増剛造さんは啓明学園、立川高校の先輩に当たり、だからといって特に接点があるわけではないのですが、彼の作品に登場する場所には、自分の幼い頃の記憶も共振します。

今日は、青梅の吉川英治記念館で丸木スマの《カニの図》を返却した帰りに、羽村駅で途中下車して、久しぶりに五ノ神まいまいず井戸へ行きました。

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「まいまいず」とはかたつむりのことで、武蔵野台地特有の砂礫層に掘った井戸へ向かう通路が鮮やかな螺旋を描いていることから、その名で呼ばれます。

地表面の直径約16m、深さ約4.3mの擂鉢状の窪地を降りていくと、直径約5mの底面に、屋根のついた小さな井戸があります。
鎌倉時代に掘られたと推定されるそうですが、保存・管理状態は極めて良好です。

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駅前の片隅に、ぽっかりと現れる異空間。
子どもの頃、週末によく家族でサイクリングをして、この井戸は定番のコースになっていました。小走りに渦巻きながら地の底へ降りていく感覚が、懐かしく思い出されます。

吉増さんの映像作品「gozoCiné」の冒頭に、この五ノ神まいまいず井戸が登場します。
多摩の土地性をよく表し、どこか魔術的な匂いのする古井戸を、吉増さんはお気に入りのようです。

昔のように駆け下りたい衝動に突かれましたが、母の手を引きながら降りていく少年がいたので、遠慮して道を譲りました。

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ちょうど紅葉が見頃で、地の底から空を見上げると、異界的な強度が増していました。

   *   *   *

せっかく羽村駅で途中下車したので、その後は、やはり子どもの頃のサイクリングコースの定番だった玉川上水取水堰にも行ってみました。

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江戸の爆発的な人口増加を支えた上水開削計画。
武蔵野台地は掘削に不向きな砂礫層なので、工事は困難を極めたそうです。

幕府から支給された資金が途中で底をつき、最後は家屋敷を売り払って工事を完成させたという玉川庄右衛門・清右衛門兄弟は“郷土の偉人”として小学校で教わります。
図書室で伝記も読みましたし、取水堰の近くには銅像も立っています。

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二人はその功績で玉川姓を名乗ることを許されたそうですが、経費はちゃんと幕府に請求できたのでしょうか、気になるところです。

工事の総奉行が“知恵伊豆”と呼ばれた川越藩主の松平信綱だったということも、川越に住むようになってから、あらためて知りました。

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ともあれ、玉川上水はここからはじまります。
四谷大木戸まで約43km、すべて露天掘りの上水道です。
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2017/11/22

【広島出張2日目】広島市現代美術館「藤森照信展」など  調査・旅行・出張

午前中は広島県立美術館と丸木家親族のお宅に丸木スマ作品を返却。
あいにくの雨でしたが、無事に返却作業を終えて、ひと安心です。

親族のOさんのお宅では、ちょうど昨夜浜田に海釣りに行ってきたとのことで、運送業者さんといっしょにイカの刺身やカツオのたたきをご馳走になることに。まったく予想していない事態でしたが、図々しくも美味しくいただきました。

その後はOさんといっしょに広島市現代美術館「藤森照信展」へ。一級建築士のOさんは、藤森建築もいくつか見て歩いているそうで、ユニークな建築素材について解説して頂きながら、楽しくまわりました。

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そして、夜遅くに帰宅したところ、上野朱さんから福岡市文学館「上野英信展」図録が届いていました。行きたいと思いながらも日程的に難しかったので、ありがたくいただきました。

しかも、某放送局のディレクターとして展覧会の取材に来られたのが、丸木家の親族Oさんの息子さんだったとのこと。そのOさんのお宅でご馳走になったばかりだったので、偶然のつながりに驚きました。

図録(といってもテキスト中心)は読み応えのある力作なので、保存版として大切にします。
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2017/11/21

【広島出張初日】岡部昌生展  調査・旅行・出張

丸木スマ展作品返却のため、トラックで2日がかりで広島へ来ました。
夕方、吉島の日通倉庫に丸木スマ作品を預けてから、ギャラリー交差611とGALLERY NODEをまわって岡部昌生・港千尋「わたしたちの過去に、未来はあるのか」展を観ました。
本当はもう会期が終わっていたのに、展示を残して下さっていたのです。ご案内いただいたギャラリーGの木村さんに感謝。

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GALLERY NODEは初めて訪れたのですが、とても良い空間で、岡部さんがパリの版画工房idemの床を擦りとったフロッタージュ作品が、夜の街にぽっかり浮かび上がっていました。

その後、岡部さんやギャラリーの方々と、広島駅近くの店で遅くまで牡蠣鍋。
10年ほど前にひょんなことから岡部さんの宇品のプラットフォームのフロッタージュ作品を入手したものの、ご本人にお会いするのは初めてだったので、貴重なお話を聞かせて頂けたのは嬉しかったです。
岡部さんの大学時代の恩師が、旭川高女で赤松俊子を教えていた戸坂太郎だったと、初めて知りました。人はいろいろな縁でつながっているようです。
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2017/11/12

【広島出張2日目】谷本清平和賞授賞式  調査・旅行・出張

広島工業大学広島校舎にて、第29回谷本清平和賞贈呈式が行われました。

贈呈式に先立ち、海外から広島にやってきた高校・大学・専門学校の留学生による第28回世界平和弁論大会が行われました。15人の留学生が参加して、「平和」をテーマにひとり5分以内のスピーチを行いました。

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そして、いよいよ谷本清平和賞の贈呈式。丸木美術館の職員3名が、少々緊張の面持ちで壇上へ上がります。

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まずは岡村が鶴衛理事長より表彰状をいただき、続いて職員のYさんが賞品目録と楯、M子さんが花束を受け取りました。
贈呈式の後は、受賞スピーチです。以下、少し長くなりますが、読み上げたスピーチの内容を掲載いたします。

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このたびは、谷本清平和賞という、素晴らしい賞をいただきまして、本当にありがとうございました。
鶴理事長はじめヒロシマ・ピース・センターの皆さまに心より御礼を申し上げます。

原爆の図丸木美術館は、埼玉県東松山市にあります。
丸木位里・丸木俊というふたりの画家が、共同制作で描いた「原爆の図」を常設展示するために、みずから建てた美術館です。
位里は1995年、俊は2000年に亡くなりましたが、その後も美術館は続いて、今年、開館50周年という節目の年を迎えました。
企業や行政の大きな支援もなく、ただ、この美術館を支えたいという多くの人たちが集まって、その思いを守り、伝え、つなぎ続けてきたことは、奇跡のようなことだと思っています。
私はそのうちの5分の2 ――20年ほどのかかわりでしかありませんが、本当に多くの人たちが、この美術館を支えて、バトンをつなぎ続けてきたのです。

もっとも、この立派な賞をいただくことが本当にふさわしいのかどうか、少し途惑いもありました。
私たちが日常的にしている仕事は、人の命を直接的に救うことではありません。
ふだんは、朝早くに美術館を開け、訪れる方々に「原爆の図」を見ていただくため、受付をしたり、伝票を処理したり、学校団体に絵の説明をしたり、掃除をしたり、草刈をしたり、きわめて地道な仕事をしています。
一日に一人でも、あるいは、ごくたまに訪れる人がゼロであっても、台風の日も、大雪の日も、美術館を開ける、というのが、私たちにとって一番大切な仕事です。

私は学芸員という役割なので、しょっちゅう美術館の外を飛び歩いて、展覧会の準備をしたり、講演活動をしたり、いろいろと出張の機会もあるのですが、ほかの職員は、なかなかそうはいきません。
受賞が決まったとき、はじめに考えたのは、現場を守る職員全員で、広島に賞をいただきに来たいということでした。
今日は、美術館の職員3名全員が広島に来ています。初めて広島に来た職員もいます。少なくとも私の知る限りの20年で、職員が全員美術館を留守にするのは初めてのことです。
ボランティアの方々が、昨日、今日と美術館を守ってくださっているおかげで、みんなで来ることができました。
昨日は平和記念資料館や国立原爆死没者追悼平和祈念館をまわりました。美味しいお好み焼きや牡蠣も食べました。このような機会を頂けたことを本当に嬉しく思っています。

あらためてご紹介します。
主に経理と、美術館内のこまごまとした仕事を担当している山口和彦さんです。そして受付と、やはり経理を担当している田中実花子さんです。二人が支えているおかげで、丸木美術館があるのです。
私はお酒が飲めないので、昨日の夜は部屋に戻ってこのスピーチの原稿を書いていたのですが、二人は夜遅くまでホテルのバーで飲んでいたようです。そんな話もまた、嬉しく聞きました。

本日、会場においでくださっている方にも、日頃から支えられています。
広島の丸木家のご親族、丸木常緑子さん、丸木直也さん、小田芳生さん、小田妙子さん。
丸木美術館の評議員をつとめてくださっている原爆文学研究会代表の川口隆行さん、おなじく原爆文学研究会で、すぐれた研究をされている柿木伸之さん。
一昨年のアメリカ巡回展でたいへんお世話になったフリープロデューサーの早川与志子さん。
これまで何度も共同で作品調査を行い、丸木位里や丸木スマに関する論考を書かれている奥田元宋・小由女美術館の永井明生さん。広島の美術関係では、ギャラリーGの木村成代さん、広島市現代美術館副館長の寺口淳司さん、学芸員の笹野摩耶さんにもお世話になっています。
それから、広島平和文化センターの小溝泰義理事長、平和記念資料館の小山亮学芸員も来てくださいました。
原爆の図保存基金について、素晴らしいコラムを書いて下さった中国新聞の森田裕美さん、何度も丸木夫妻についての取材して下さっている文化部の西村文さん、2015年のアメリカ展の番組を作って下さった広島テレビの渡辺由恵さん。

丸木美術館の運営は、これまで決して順風満帆ではありませんでした。10年ほど前には、存続の危機を迎えたこともありました。そのとき民放のニュース番組のリポーターとして取材して下さったのが、現在、NHK広島局の気象予報士をされている勝丸恭子さんです。
今日は、勝丸さんにおいでいただけたのも、とても嬉しいです。
本当に、大勢の方がたが支えて下さったおかげで、丸木美術館があるのです。

私は主に丸木位里・丸木俊夫妻の共同制作「原爆の図」を専門に研究していますが、研究をすればするほど、「原爆の図」という絵の複雑さ、ある意味での難解さを感じ、簡単にものが言えなくなってしまいます。
決して、わかりやすい反核平和のメッセージを発するだけの絵ではありません。
そして、絵を見る人の数だけ、それぞれ異なる「原爆の図」があるのです。

たとえば、広島で原爆を体験された方が丸木美術館に来られることもあるのですが、そうした方が見る「原爆の図」と、私が見るのとでは、同じ絵であっても、まったく違うように見えるのだと思います。
一昨年のアメリカ巡回展のワシントンの会場では、原爆投下当時テニアン島に勤務していた94歳の元米兵も会場を訪れました。彼が見た「原爆の図」も、まったく違うものであったことでしょう。
昨年から今年の春にかけては、ドイツのミュンヘンで、かつてアドルフ・ヒトラーが建設したハウス・デア・クンスト(芸術の家)という展示施設の展覧会にも出品されました。そこでもまた、異なる印象を人びとに与えたはずです。
芸術家が観れば、その細部の美しさや表現の実験性に目が行くでしょうし、これから世の中に出ていく若者、命を宿した母親、東日本大震災を経験した人、みんなそれぞれ異なる「原爆の図」を観ています。内戦を経験した国から来た若者は、絵から音が聞こえる、と言いました。残念ながら私には、彼が聞いた音は聞こえません。

おそらく、芸術とはそういうものなのだと思います。みんなそれぞれ、自分の背負っている背景と照らし合わせながら、絵と自分をつないでいく。
結局、私はそうしたときに、ただそばにいて、いっしょに絵を見ることしかできません。

平和賞のスピーチなのに、このようなことを申し上げるのは、少し勇気がいるのですが、私が「原爆の図」について、とりわけ若い世代の人たちに話すとき、ずっと心がけてきたのは、「平和」という言葉を、できるだけ使わずに、いかに話を組み立てるか、ということでした。
ある意味で、「平和」はとても便利な言葉です。「平和」という言葉に寄りかかれば、絵の説明も楽になるかもしれない。聞く側もわかったような気になるかもしれない。けれども、「平和」は抽象的で、多様に解釈できる言葉です。

近年、「平和」という言葉が、他者と自分とのあいだに線を引いて、「自分たちの命を守る」という意味を強めて使われがちであることを心配しています。
私が、丸木夫妻の作品を手がかりにしながら学び、考えてきたのは、命と命のあいだに線を引かない、ということです。
もちろん、自分の命は何より大切な宝です。しかし同時に、異なる背景を持ち、究極的には決して解りあえないかもしれない他人の命も、大切な宝だということを忘れてはいけない。国や民族、宗教、哲学、文化、言葉などの違いによって、命の重さが変わるわけでは、決してありません。

そして戦争だけでなく、いつの時代においても、私たちの社会には、理不尽な暴力、不均衡が生まれてきます。目に見える、わかりやすい暴力だけでなく、目に見えない社会的な不均衡、差別や偏見もあります。
そうした暴力にまっさきに気づくのは、直接的に痛みを受ける人たちです。逆に最後まで気がつかないのは、不均衡の恩恵を受け、あるいは無意識に加担する側にいる人たちでしょう。それは、もしかしたら「平和」を語っている私たち自身であるかもしれないと、自戒を込めて考えます。

「原爆の図」が72年前の原爆の惨禍を描いた作品であることは確かですが、極めて現代的な問題を描いた普遍的な絵画でもあると感じています。
今年は、核兵器禁止条約が締結され、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞した、画期的な意味を持つ年になりました。
そうした人類史的なスケールの問題を見つめると同時に、現代を生きる若者たちにとって、もしかすると「戦時中」であるかもしれない生きにくい時代に、「原爆の図」がくじけそうな心を支えて、明日も希望をもって生きてみようと思ってもらえるような、すぐ目の前にあるかけがえのない命を救うことのできるような、そんな絵画であって欲しいと心から願っています。

丸木美術館にはさまざまな人が来ます。
平和に関心のある人もいれば、絵が好きな人もいる。美味しいお酒が飲みたくて来る人もいる。
私はそれでいいのだと思います。それがいいのだと。
毎年8月6日は、美術館の隣を流れる川でとうろう流しの行事を行います。広島とは比ぶべくもないささやかな行事です。広島で被爆された方が手を合わせて祈る横で、子どもたちがバシャバシャ水遊びをしたりしている。下流ではとうろうを回収するボランティアの若者たちが、勢いあまって泳いでいたりします。
それでも、そのとき、みんなが広島とつながっています。
今はとうろうを流す意味がわからない子どもたちも、いつかそのことを思い出し、世界を見る目を深めることでしょう。

本日頂いた谷本清賞を励みにしながら、けれども今までと変わらずに、ひとつひとつの仕事、一日一日の時間を、これからも積み重ねていきたいと思っています。
決して交通の便が良いとは言えない場所ですが、いつか皆さんも、丸木美術館を訪れて下さい。
私たちはいつでも、お待ちしています。


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贈呈式のあとは、懇親会場に移って、参加して下さった大勢の方々と乾杯をしました。
乾杯の音頭は、丸木美術館を谷本賞に推薦してくださった詩人の井野口慧子さん。丸木夫妻とも深く交流されていた方です。

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弁論大会に出場した留学生たちとも記念写真を撮りました。
広島には、本当に世界中のいろいろな国から留学生が来ているのだと知りました。

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お世話になった皆さまに、心より御礼を申し上げます。
いただいた花束は、丸木家の皆さまにお渡しして、三滝にある丸木夫妻の眠るお墓にお備えしてもらいました。
亡きお二人に良い報告ができたことを、何より嬉しく思います。

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2017/11/11

【広島出張初日】初の職員旅行  調査・旅行・出張

谷本清平和賞の授賞式のため、午前中の飛行機で広島に来ました。
今回は丸木美術館の職員3人で、慰安旅行(?)を兼ねての出張。
私は年中あちこち飛び回っていますが、ほかの2人はなかなかそうした機会がないので、今回はぜひとも職員全員で広島を訪れたいと考えていました。
その間の留守を、Hさんはじめボランティアの皆さんが守ってくれているおかげで、計画が実現できました。本当に感謝です。

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私が知る限りのここ20年で、職員全員が美術館を空けたのは初めてのことです。
昨日は開館から閉館まで何事もなく無事に終わったということで、まずはひと安心。

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初めて広島を訪れる職員もいるので、とりあえず市街を案内しながら、みっちゃん総本店でお好み焼きを食べ、平和公園周辺を見学した後で、授賞式会場にて下見と打ち合わせ。夜はかなわで牡蠣料理を堪能しました。

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資金を援助して下さった美術館関係者の方々にも感謝。
好天にも恵まれて、明日はいよいよ授賞式を迎えます。
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2017/11/3

【大分出張2日目】別府アートめぐり/堀浩哉さんとのトーク  調査・旅行・出張

朝から別府の温泉街を町歩き。
1938年建設の唐破風造りの竹瓦温泉や、その界隈の猥雑さが昼間からとにかく凄くて、路地裏の風情にも惹かれます。

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竹瓦温泉にも入りたかったのですが、今回の旅の目的はアートなので、少し歩いて、若いアーティストたちの拠点となっている清島アパートを見学しました。

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さらに、清島アパートの近くの、大平由香理さんの壁画のある末広温泉へ。
箱に料金を入れる形式で、男湯は無人でした。おかげで写真が撮影できて良かったです。
男湯には鶴見岳、女湯には由布岳が描かれています。

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ちょうど市民文化祭「ベップ・アート・マンス 2017」の会期中だったので、その後、街なかを変容させる企画「西野達 in 別府」を観て歩きました。

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別府駅前の象徴・ユーモラスな油屋熊八像は、西野さんのプロジェクトによって仮設の壁に囲まれ、なんと期間限定のホテル(1日1組限定抽選で宿泊可とのこと)になっていました。
ちょうど見学に行ったときには、西野さん本人がいらっしゃったので、ご挨拶。

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さらに、街のどこにいても微笑みかけてくる「別府タワー地蔵」、更地となった土地に再建された発泡スチロール製の家、土地に突き刺さるトラックなども見て歩きました。

主だった展示を見終わったところで、「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」の皆さんに車で拾われ、午後のトークの会場となる喫茶ムムムへ。
小さな会場でしたが、BEPPU PROJECT代表の山出さんなど、会場いっぱいになるほど皆さん来てくださり、学芸員の資格を取得される前からお付き合いがあった大分県立美術館のK学芸員とも、久しぶりに再会できました。

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(写真提供は川延安直さん)

こうしたアートプロジェクトに呼ばれること自体、私にとっては新鮮な体験ですし、なにしろ相手は百戦錬磨の堀浩哉さんなので、「アートで福島を伝える」という重い内容のトークの責任をどれだけ果たせたのかどうかはよくわかりませんが、ともあれ楽しい、そして出会いの多い2日間となりました。
お世話になった福島県立博物館の川延さん、小林さん、塚本さんはじめ、皆さま本当にありがとうございました。
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2017/11/2

【大分出張初日】大分県立美術館/別府地獄めぐり  調査・旅行・出張

朝一番の飛行機で、羽田空港から大分空港へ。
大分県は初めてなので、空港から大分市内へバス移動して、府内城の前にある佐藤忠良作のフランシスコ・ザビエル像を観ました。

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周辺には、北村西望作の伊東マンショ像や、彼の弟子の富永直樹作の西洋音楽発祥記念碑、舟越保武作の西洋劇発祥記念碑、円鍔勝三作の育児院と牛乳の記念碑なども立っていました。
だいたい西洋的なものはイエズス会の宣教師が持ち込んできたので、ザビエルを庇護した大友宗麟の居城のあった大分が発祥の地になるということなのでしょう。

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朝倉文夫作の滝廉太郎像も、滝廉太郎の終焉の地に立っていました。朝倉文夫は竹田高等小学校で滝廉太郎の後輩にあたるようです。

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その後は坂茂設計の大分県立美術館(OPAM)へ。残念ながら特別展は展示替え期間中でしたが、コレクション展「自然への憧憬」(高山辰雄、福田平八郎ら大分ゆかりの画家を紹介)と特集展示「咸宜園ゆかりの人々」(咸宜園は儒学者・廣瀬淡窓が日田に開いた私塾)、「九州地区多摩美術大学校友会展」などを観ました。

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中でも、1階の展示室で開催されていた「Action!」展(企画BEPPU PROJECT)は、小さな企画でしたが、面白かったです。
いわゆる「障がい者アート」の作品展ではなく、その普及や課題の解決に取り組む人や団体の言葉を中心にした展示で、副題は「1人ひとりのもつ可能性を活かす仕組みを考えるアート展」。
クシノテラスの櫛野展正さんや、美術評論家の福住廉さん、クリエイティブサポートレッツ(浜松市)、みずのき美術館(亀岡市)、こえとことばとこころの部屋(大阪市釜ヶ崎)の関係者のインタビューが、雑誌のようなレイアウトで会場に展示されていました。

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午後は日豊本線で別府へ。わずか3駅、大分と別府がこんなに近いとは知りませんでした。
別府市内を歩く前に、とりあえず急ぎ足で、観光地として名高い「地獄めぐり」へ。さすがに国外からの観光客がたくさんいました。

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鉄輪(かんなわ)は、1000年以上も前から噴気、熱泥、熱湯が吹き出し、「豊後風土記」にも記されているという忌み嫌われた土地。そこで1910年から観光地として整備されはじめた「地獄見物」を、“別府観光の祖”として知られる油屋熊八が、1928年に日本初の女性バスガイドつき観光バスを発案して大当たりさせたそうです。

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まずは「地獄めぐり」のコースにしたがって、国指定名勝の「海地獄」へ。コバルトブルーの水面が美しいです。

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さらに灰色の熱泥が沸騰する「鬼石坊主地獄」。

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「6丁目」までの小さな地獄が点在する、ちょっとポップな「かまど地獄」。

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温泉熱を利用してワニを飼育している「鬼山地獄」。

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和風庭園のような国指定名勝の「白池地獄」は、一遍上人が開いたそうです。

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鉄輪地区から亀山地区にバスで移動して、赤い熱泥の「血の池地獄」(国指定名勝)。

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最後は間欠泉の吹き出す「竜巻地獄」(国指定名勝)。

夕方ようやく到着した別府市内は、なんとも魅力のある歴史性と猥雑さの漂う街並みで、ついふらふらと路地裏に入って行きたくなります。
本格的な散策は明日にすることにして、まずは末広温泉2階の公民館に駆けつけて、写真を展示している本郷毅史さんのギャラリートーク、続いて画家の大平由香理さんと本郷さんの対談「旅と別府とアーティスト」を聞きました。

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本郷さんは長野県大町市在住の写真家で、福島の阿武隈川の源流を撮影しています。大平さんは「東北画」の画家として活躍していますが、末広温泉に壁画を描いているというので、滞在中に末広温泉にも入ってみようと思います。
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2017/9/17

広島市現代美術館「モナ・ハトゥム展」  調査・旅行・出張

台風の迫る中、朝イチで広島市現代美術館へ。
モナ・ハトゥムの「ヒロシマ賞」受賞記念展を観ました。

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モナ・ハトゥムは1952年にパレスチナ人の両親のもとレバノンのベイルートに生まれ、イギリス旅行中の1975年にレバノン内戦により帰国できなくなってロンドンに留まりました。以後、現代美術を学び、ジェンダーやマイノリティの問題を発表し続けています。

「自国第一主義やポピュリズムの進行が不安視される今の時代だからこそ、今回の受賞記念展を多くの方々に御覧いただきたい」と松井広島市長が挨拶文を寄せていますが、そうした問題は広島そのもの、あるいは私たち自身にも内包されているわけで、そこに「ヒロシマ賞」がどうつながっていくのか、朝鮮学校の無償化をめぐる裁判などを想起しながら、考えざるをえませんでした。

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布で覆われた電気ケーブルと電球、皮膚や爪や毛髪、鉄条網、おろし金、針、溶かしたガラス瓶などを用いた立体作品の数々は、人間の普遍的な痛みを喚起させる見応えのあるものでした。

とりわけ記憶に残ったのは、《距離の尺度》という1988年の映像作品。作者の母親がシャワーを浴びている(一見、それとわからない)粗い画像に、アラビア語の手紙の文字が二重写しとなり、音声もまた、母と娘のアラビア語の楽しげな会話と、母からの手紙を英訳して読む作者の声が重なるように流れます。
戦争によって引き離された母娘の悲しみ、それでも続く親愛の情に加えて、娘が妻の裸体を撮影することをよく思わない父親の様子が手紙の中で語られていて、多義的に受け止められる作品になっていました。

《その日の名残》と名づけられた、「ヒロシマ」をテーマにした新作は、椅子やテーブル、ベッドなどの家具を金網で覆い、燃やして炭化させた「幽霊のような残骸」。白い壁や床には見事に映える詩的な作品で、日本風ではない家具が、「その日」を「ヒロシマ」だけではない方向に開いています。

広島市現代美術館には、来秋、大きな企画でお世話になるので、展覧会を観た後で担当学芸員にご挨拶。
本当はその後、旧日銀ではじまった「広島・キューバ展」を観るつもりでいたのですが、台風で夕方の飛行機の欠航が決定したため、急きょ新幹線で帰ることにしました。「広島・キューバ展」が観られなかったのは残念ですが、本格的な暴風雨が到来する前に無事帰宅。
お世話になった皆さま、どうもありがとうございました。
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2017/9/16

原爆文学研究会in広島大学  調査・旅行・出張

午後から広島大学東千田未来創生センターにて原爆文学研究会に参加。
念願の『〈原爆〉を読む文化事典』(青弓社)が刊行され、世話人代表の川口隆行さんも、本当に嬉しそうでした。

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この事典は、私も「「原爆の図」と全国巡回展」と「東日本大震災後のパフォーマンス・アート」の2項を担当しましたが、研究会結成以来17年目の大事業ですから、創立会員の方々の感慨は一入でしょう。
この事典は、丸木美術館でも取り扱いますので、ご興味のある方は「丸木スマ展」とあわせてぜひご覧になって下さい。

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今回の研究発表は、市田真理さんによる「第五福竜丸・久保山愛吉さんに寄せられた3000通の手紙」、宮川健郎さんによる「那須正幹と原爆―『〈原爆〉を読む文化事典』・「教育と原爆児童文学」補遺―」の2本。
そして「原爆文学」再読のテキストは林京子さんの『再びルイへ。』、発題者は島村輝さんと村上陽子さんでした。

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この研究会の重要な特徴は、「文学」を限定的にとらえるのではなく、多様な分野の幅広い表現を取り上げていくこと。
そのため、ビキニ事件で被爆し、半年後に亡くなった久保山愛吉さんとその家族、他の乗組員たちに国内外から寄せられた手紙の数々も、立派な研究対象となります。

むしろ、今回の市田さんの発表は、手紙という表現が、いかに書き手の意図を超えて、社会的な問題を露わにしていくのかを考えさせる、とても興味深いものでした。
ビキニ事件は、戦後の日米関係や核の矛盾の象徴のような極めて政治的な事件ですが、発表後の討論では、激励であれ、補償金をめぐる中傷であれ、問題が久保山さん「個人」に矮小化されてしまう点においては、実はそれほど違わないのではないかという指摘もありました。
こうした構造は、たとえば福島原発事故や沖縄基地問題など、現在の状況にも共通しているのかもしれません。
3000通という膨大な量の手紙を、市田さんが今後、どのように読み解き、まとめていくのか、楽しみに待ちたいと思います。

宮川さんの発表は、児童文学における「理想主義」というパターン化された枠組みを、いかに「多声化」していくかという内容で、個人には《原爆の図》の読み解きにもつながる問題として聞きました。
那須正幹さんは、子どもの頃に『ズッコケ三人組』シリーズでたいへんお世話になり、『絵で読む広島の原爆』も読んでいたのですが、宮川さんが「子どもをめぐる問題は、子どもの力によって必ず乗り越えられるかどうかわからないという考え直し」をした画期的な作品と評価する『ぼくらは海へ』は未読だったので、さっそく読んでみようと思います。

そして、林京子さんの『再びルイへ。』は、個人的にはちょっと難しいところもありましたが、村上さんの緻密な分析、そして晩年の林さんと近しい距離にあった島村さんの読解などを聞いて、あらためて読み返したいと思いました。。

   *   *   *

研究会の後は、近くの居酒屋で恒例の懇親会、場所を移して2次会。原文研の方々は相変わらず賑やかでしたが、カープの地元優勝の可能性が遠のいた広島の街は、心なしか静かでした。
台風の近づく夜は更け、さらに3次会へと向かうコアなメンバーと別れて、ホテルに戻ったのは日付の変わる直前でした。
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2017/8/25

吉川英治記念館にて丸木スマ作品集荷  調査・旅行・出張

9月9日からはじまる「丸木スマ展 おばあちゃん画家の夢」の集荷作業。

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JR青梅線に乗って二俣尾駅下車、多摩川を渡って、吉川英治記念館へ。
戦時中、青梅の吉野村に疎開した吉川英治の旧居が記念館になっています。

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その吉川英治記念館のK学芸員から、秘書の業務日誌に「赤松俊子氏来訪 原爆紀念堂建立の発起人依頼の件に付き御来宅あり 其の折丸木スマ女史筆のカニの図贈らる」(1955年11月4日)という記述があると連絡を頂いたのは、2007年1月のことでした。

「原爆紀念堂」とは、白井晟一の幻の「原爆堂計画」を指しています。俊の自伝『生々流転』(実業之日本社1958年発行)によると、丸木夫妻は原爆堂ができたら全作品を寄附するつもりで、そればかりではなく、ピカソら各国の美術家に作品を寄贈してもらい、庭には彫刻を配置し、図書館には長田新、大田洋子、峠三吉、原民喜らの原爆文学を置き、映画や芝居の小講堂など、総合的な文化施設を作ろうと思い描いていたようです。
計画の発起人には、湯川秀樹や朝倉文夫らとともに、吉川英治の名前もありました。

そのときはスマの絵の存在が確認できず、流出した可能性もあると言われていたのですが、2014年6月、ついに旧居の屋根裏から《カニの図》が発見されたのです。
吉川英治記念館学芸員日誌にも、その発見が報告されています。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/116801/104645/79923843

こうした経緯があって、今回の「丸木スマ展」を機に、吉川英治旧蔵の《カニの図》をお借りして、初公開することにしました。

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スマさんらしい、生々しい手触りが感じられるような3匹の赤いカニの絵に、筆先で緑の絵具を躍らせたリズミカルな背景。小品ですが、見ていて楽しくなるような良い作品です。
ぜひ丸木美術館で、実際にご覧になって下さい。
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2017/6/24

【広島出張】中国軍管区司令部後/みんぱく共同研究会  調査・旅行・出張

午前中は広島城内の中国軍管区司令部跡へ。
石垣の近くにひっそりと残る、半地下式鉄筋コンクリート平屋造の建造物。
先月亡くなられた岡ヨシエさんが、原爆投下の第一報を伝えた場所です。

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爆心地から790m離れていて、しかも小窓は反対方向にあったのですが、中の人は爆風の衝撃で吹き飛ばされたそうです。
岡さんは交換機の下敷きになり、必死に外へ脱出しましたが、再び壕の中に戻り、広島壊滅の第一報を福山の部隊へ電話で伝えました。

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昨年、広島県立福山工業高校電子機械科計算技術研究部が、岡さんの証言をもとに広島城内にあった大本営や中国軍管区司令部をCGで復元、岡さんに当時の行動を再現してもらってモーションキャプチャで映像化しています。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=63192
その映像が、鞆の津ミュージアムの「原子の現場」展に出品されていました。被爆体験継承の現場にも、進化したテクノロジーが入りこんでいるようです。

司令部跡は今年4月まで内部見学ができましたが、残念ながら老朽化によってコンクリートの剥離がひどく、現在は見学中止になっているとのこと。

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二の丸跡に残る被爆樹木のユーカリは、中沢啓治の『ユーカリの木の下で』の題材になった樹。
平井鉄太郎の「言論の自由なき世はうばたまの心の闇の牢獄とぞ思う」などの歌が引用されている作品です。

   *   *   *

午後は国立民族学博物館共同研究会の皆さんといっしょに、楊小平さんの案内で原爆ドーム、動員学徒慰霊塔、原爆供養塔、韓国人原爆犠牲者慰霊碑などを回り、その後、広島平和記念資料館の東館を見学しました。

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すでに何度も見ている場所ばかりでしたが、ふだんは一人で見て歩くことが多いので、修学旅行生になったように新鮮な気分でまわりました。

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ありがたかったのは、レストハウス(旧大正屋呉服店)の地下室をまだ見たことがないと言ったら、楊さんがすぐに手続きをして、見学させてくれたこと。
爆心地から170mしか離れていなかったのに、被爆時にたまたま書類を取りに地下室に入っていた人は、ここで命拾いをしたそうです。
ヘルメットを着用して地下室に入ると、案外きれいに整理されていて、見学に訪れた修学旅行生の折鶴もいくつか納められていました。

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リニューアルされた広島平和記念資料館東館の展示は、格段に情報量が増えたものの、結果的に「今、ここで、自分の頭の上に原爆が落とされた」という錯覚、共感を遠ざけるという問題を抱えているように見えました。
そのあたりのバランスは、なかなか難しいのでしょう。

楊さんに「新しい展示になって、ボランティアガイドの方々の感想はどうですか?」と聞いたところ、「微妙。全体的に微妙。これだけ情報ばかりになると、ボランティアガイドのやることがなくなってしまう」と言っていたことが印象に残りました。

確かに、気をつけて見ていると、来館者は「読む」「触る」あるいは「音声ガイドを聞く」という行為が中心になって、目の前にいるガイドの方は、それをぽつんと立って眺めているようでした。
最新の科学技術の導入、あるいは「モノ(実物)に語らせる」という方針は、逆に言えば「ヒトに語らせない」ということにもつながるのかもしれません。

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資料館の方針に沿わなければならない公認ガイドから離れて、平和公園の中で独自に「流し」のガイドをする方もいるという話も含めて、考えさせられます。

見学の後、2時間にわたって、楊さんが調査に取り組んでいる中国の報道や教科書における「ヒロシマ」観や、中国人被爆者についての話を聞きました。
「ヒロシマ」が「国際化」するとはどういうことか。
「唯一の被爆国」という内的な視点で世界に向かうのでなく、内側にある多層的な他者の存在を再発見することが道を開くのだと、再認識させられました。
丁寧にガイドをして下さった楊さん、どうもありがとうございました。
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2017/5/11

山城知佳子《土の人》/小泉明郎《帝国は今日も歌う》  調査・旅行・出張

京都の堀川御池ギャラリーの山城知佳子展「土の唄」で、ようやく昨年のあいちトリエンナーレで評判となった映像作品《土の人》を観ることができました。
京都国際写真展のプログラムの一環で、キュレーションは小原真史。

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1階展示室には他者の戦争体験の継承をテーマにした《あなたの声は私の喉を通った》(2009年)や《回想法》(2008年)、《バーチャル継承》(2008年)、2階には《コロスの唄》(2010年)、《黙認のからだ》(2017年)といった作品も展示され、山城が「声」も含めた「身体」によって沖縄の記憶を表現し続けてきたことが、あらためて実感できます。

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《土の人》は《肉屋の女》(2012年)以来の3面スクリーン映像による作品で、韓国の済州島で撮影を行ったそうです。
済州島と沖縄の歴史の類似が、国や民族といった境界を解きほぐし、過去と現在、生者と死者の交錯を想起させる神話的な物語へと誘います。

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2012年に記された作者の文章に、「あの日聞いた戦争の話は私の中で何度も反芻され、その度に経験できない他者の記憶を繰り返し想像し、さらにはまだ想像し得ていない他者の記憶と自分との距離に痛みを感じ続けながらそれ自体が私の、戦争にまつわる経験として生き始めている気がする」という印象的な部分があります。
そうした「経験」の反芻の先に、これらの新しい世界が生み出されているのでしょうか。
個人的には、彼女の表現したいことはもっと先にあって、《肉屋の女》も《土の人》もその途上ではないかという予感を強くしました。

国際的に活躍の場を広げる作家に相応しく、会場には若い世代の観客が多く、外国人の姿も目につきました。

   *   *   *

その後は、東京に帰って、原宿のVACANTで開催された小泉明郎展「帝国は今日も歌う」の最終日に駆け込みました。無人島プロダクションと小泉明郎スタジオの共同企画です。

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新作《夢の儀礼─帝国は今日も歌う─》は、2016年にオランダのデ・ハーレン・ハーレム美術館で発表された映像作品で、作者が幼少期に見た父親が目の前で連れ去られるという「夢」と、現実に東京で行われている排外的なヘイトデモの映像が融合します。

やはり3面スクリーンということもあって、直前に観た《土の人》と対比してしまうのですが、山城作品には抑圧の悲しみを知る辺境人を祝福するかのような高揚感が残るのに対し、小泉作品は、中央で起きている深刻な亀裂の不気味さに、薄ら寒い思いがしました。
悪夢のような現実か、現実のような悪夢なのか。

一瞬、救いのように路上で歌われる讃美歌(「主よ御許に近づかん」)が、戦前の聖歌集(『譜附基督教聖歌集』、メソジスト出版舎、1895年)に収められた「国歌 護国を祈る」の歌詞「日の本なる大君を 千代に八千代に ことぶき……」であることがわかったとき、絶望感はさらに増します。

資料によれば、小泉の父は敬虔なプロテスタントの信者であり、日常は天皇を否定的に語っていましたが、小泉が制作していた天皇のコラージュ作品を観て不快に感じ、75歳にして自分の心の奥底に天皇が潜んでいたことに気づいたそうです。大浦信行の天皇コラージュ作品を想起させるような話です。

今回の映像作品は、そうした作者自身の個人史・自画像なのですが、同時にますます不穏さが加速する現実社会への警鐘でもあるのでしょう。
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2017/5/10

大阪人権博物館にて作品調査  調査・旅行・出張

大阪人権博物館(リバティおおさか)へ、作品調査に行ってきました。

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大阪人権博物館は、1985年12月に大阪市立栄小学校の跡地に開館しました。当時の名称は大阪人権歴史資料館。館銘板の書は丸木位里が手がけました。
1995年に現在の名称に改めた際、水上勉の書による新たな銘板に変わりましたが、中庭には今もかつての銘板が大切に保存されています。

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縦の直線が印象的な旧栄小学校の建築模型を見ていたら、ボランティアガイドの方が小学校の歴史を丁寧に教えて下さいました。
大阪市立栄小学校は、1872年、大阪で2番目に古い小学校として開校しました。当時はお寺を仮教室にしていましたが、2回目の移転先として現在の人権博物館の地に移り、1928年に第3期校舎として、当時としてはとても珍しい鉄筋コンクリート3階建ての校舎が建てられたのです。

設計は、「たしか朝鮮総督府を手がけたドイツ人建築家・・・」とのことで、調べてみるとゲオルグ・デ・ラランデなのですが、彼は1914年に死去しているので、正確なところはよくわかりません。
校舎は旧渡辺村、江戸時代から差別を受けていた西浜部落の人たちの出資によって建てられ、土地も小学校建設のために大阪市に寄付したのだそうです。皮革産業などで栄えた地域だからこそ、それだけ立派な小学校建設が可能だったのでしょう。
博物館の建物は戦火をくぐり抜けて耐久性に問題があったため、小学校の校舎そのままではなく、同じデザインで再建されたものとのこと。正面玄関のアプローチと門だけが当時のままだそうです。

1871年の「解放令」の翌年に早くも開校したという歴史からは、差別からの解放、克服のために、学校教育が欠かせないという強い思いがあったことも感じられます。
人権博物館は、そうした地域の強い思いのシンボルのような存在だったようです。

   *   *   *

今回は、15日に課外講座を行う武蔵野美術大学日本画学科研究室のU先生とGさんらに同行しての調査でした。

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画家の目から見る丸木夫妻の仕事はやはり新鮮で、絵具や紙などの素材調査の必要性を改めて感じました。
人体のみで画面構成を行うことの難しさや空間とのバランスの工夫、墨のたらし込みの効果などの話も面白く、しばらく大画面の前で意見交換。伝統を踏まえつつ新しいことを試みていく丸木夫妻の姿勢を再確認しました。

15日の課外講座は、こちらの情報をできるだけ提供しながら、双方向的な議論で新たな発見の場にしていきたいと思っていますが、さて、どうなることか。

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1970年代から2000年代はじめまで大阪府内の公立小学校全生徒に配布された解放教育読本『にんげん』の表紙原画全11点(未使用含む、丸木俊画、2年生から中学生向けまで1975年、1年生向けのみ1976年)もすべて確認し、1年生向けに収録された読み物「だれのパンか」の挿絵原画7点も撮影しました。

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「だれのパンか」はソビエト民話をもとに国語教育者・児童文学者の今井誉次郎が文を書いたもので、動物たちを主人公にしたかわいらしい俊の絵は、『でてきておひさま』など同時期の絵本を思い起こさせます。

調査に協力して下さったのは、長年、人権博物館に関わってこられたOさんとAさん。
そして、夜に奈良から駆けつけて、ガード下の居酒屋で『にんげん』と丸木夫妻のかかわりについて熱く語って下さったIさん。
皆さま、どうもありがとうございました。
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