2018/10/6

峠三吉資料・丸木夫妻書簡調査  調査・旅行・出張

昨日の夜に広島へ移動し、午前中は広島市中央図書館で、峠三吉資料に入っている丸木夫妻の書簡調査。
峠資料については、広島市現代美術館のS学芸員が、峠や四國五郎との交流の一端を示す書簡を「丸木位里・俊ー《原爆の図》をよむ」展でいくつか紹介してくださっていますが、実際には1950年秋から1953年3月の峠の死後の和子夫人宛なども含めると16通の書簡が現存しています。

その中で最初に書かれたと思われる書簡(資料番号832)は、峠資料のリストには1951年とありますが、内容から1950年(消印は9月11日)で間違いないでしょう。
お手紙ありがとうございました。原爆の詩当地でずっとよましてもらってございます。廣島に峠さんのような人のあることをうれしく力強く思って居ります」という書き出しからはじまる書簡は位里の文字。
15日には広島に入ること、一度三滝の家を訪ねてほしいことなどが記され、「廣島でこの展らん会がうまく出来ればとも思って作品だけは持って行くつもりです」「今はこのことについては何もぐたいてきにははこんで居りません」と記されているので、全国巡回どころか、広島で本当に展覧会が開催できるのか、不安を抱えていたことがわかります。もちろん展覧会は、峠ら「われらの詩の会」の協力により、1950年10月5-9日の会期で実現するのですが。

その後も書簡のやりとりは続き、翌1951年に峠がガリ版『原爆詩集』を自費出版すると、丸木夫妻に巡回展で売ってほしいと依頼したようで、丸木夫妻は単価が高いので売れないだろう、近頃は巡回展も圧力が強まってやりにくくなっている、と返信しています。このあたりの書簡は、今回の広島現美展で紹介されています。

1952年4月に連合国軍の占領が終わり、原爆報道が解禁されると、青木書店からいち早く文庫版画集『原爆の図』が発行されますが、その際、丸木夫妻が峠の詩を青木書店社長の青木春雄に紹介し、『原爆詩集』出版(青木文庫版は1952年6月発行)の橋渡しをしていたことが、資料番号267の青木から峠宛の書簡(1952年3月7日消印)であらためて確認できました。

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写真は、「われらの詩の会」に宛てた、丸木夫妻からの画集『原爆の図』刊行のお知らせ。当時、全国でお世話になった巡回展関係者に送られたのでしょう。
峠から丸木夫妻に宛てた書簡の方は行方がわからないのが残念ですが、峠資料の丸木夫妻書簡については、そのうちにきちんと整理してまとめておきたいと考えています。
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2018/9/28

【大阪出張】釜ヶ崎ココルーム見学  調査・旅行・出張

今日も、やはり「ライフミュージアムネットワーク」のリサーチとして、大阪・釜ヶ崎の「ゲストハウスとカフェと庭・ココルーム」を訪ね、NPO法人「こえとことばとこころの部屋」の代表で詩人の上田假奈代さんの話を聞きました。

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“寄せ場”と呼ばれる日雇い労働者の町としての歴史を持つ釜ヶ崎。上田さんはそこで居場所のない人たちが立ち寄れる「場」をつくり、ともに学ぶことのできる「釜ヶ崎芸術大学」を立ち上げています。

お昼時になると、庭に面したテラスでスタッフや滞在者、ふらりと来た人?たちといっしょにカレーライスを食べました。

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ちょうど7か月も長期滞在していた若者が就職のために旅立つ日だったり、数日前に急死したおじさん(身寄りのない人をみんなで送る「見送りの会」という活動に惹かれて堺市から釜ヶ崎へ移り住んできた方だという)の葬式に見ず知らずの私たちまで参列することになったり、単身高齢生活保護受給者の社会的つながり事業の拠点である「ひと花センター」で上田さんの担当する合作俳句の会に参加したり、この「場」の日常の一端を、側から覗き見るような時間を過ごしました。

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来る者拒まずという「場」の空気感からは、私が初めて丸木美術館を訪れたときの印象がよみがえってきました。
誰がスタッフで、誰がボランティアで、誰がお客さんだかわからない混沌かつ対等な人間関係。世間では生きづらさを感じている人が、ここでは自分らしく振る舞うことができるという「場」。
もちろんそうした思いには個人差があるし、時間とともに変質していく部分もあるけれども、肩書きや年齢ではなく、お互いひとつの命として向き合うという「場」でありたいという思いは、今も丸木美術館に流れているはずです。

もちろん、釜ヶ崎には釜ヶ崎の必然があり、丸木美術館の「場」とは意味が大きく異なるところもあります。
それでも、この「場」をもう少し見てみたい、ここから丸木美術館に持ち帰れるものを考えてみたい、と思って、11月の大阪出張に合わせて宿泊予約をしました。
釜ヶ崎に泊まって人権博物館(リバティおおさか)で講演をするというのは、何だか真っ当な気がしたのです。
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2018/9/27

【静岡出張】クリエイティブサポートレッツ見学  調査・旅行・出張

「ライフミュージアムネットワーク」のリサーチとして、浜松市で活動するクリエイティブサポートレッツの活動を視察。

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運営拠点となっている障害者福祉サービス事業所アルス・ノヴァ と、のヴぁ公民館を見せていただきました。

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「障害」のある方の特別な作品に注目するというアートの現場がある一方で、レッツの活動は、誰かに評価されるわけでもないのに、その人が熱心に取り組んでいることを、「表現未満、」の個人の文化活動と捉えて、最大限に尊重しているといいます。
高みを目指して表現するだけではない、一見「無意味」に思える行為を繰り返したり、何も作り出さないことさえも、他者に哲学的な思考を促すという点で、彼らの「シゴト」であるとする視点の転換が、この施設の重要な核となっています。

そうした多様な生き方を体感し、思考する機会を、施設の外側にいる人たちとも共有するために、レッツでは、これらの施設を開放し、泊まりがけで彼らとともに過ごす時間と空間を提供する「観光事業」を行なっています。

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私たち一行はわずか数時間の滞在でしたが、スタッフの説明を受けつつ、途中からはほぼ放置され、濃密な時間を過ごしました。
クレヨンを塗ったときにできるカスを丸めて小さな玉を作り、5列×5列均等に並べる人を観察したり、異質な訪問者である私たちに仲間たちの動向を延々と説明し続ける人の話を聞いたり。
ひたすら音を出し続ける人、飛び上がる人、お菓子を食べる人、テレビゲームに熱中する人、何もせずに横になっている人・・・ここで起きていることを見逃すまいと、次第に目と耳の感覚が研ぎ澄まされていくのを感じました。

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その体験は、私にとっては、赤松俊子(丸木俊)の「絵は誰でも描ける」という1950年代の大衆芸術論や、それをさらに先鋭的にした「あらゆる人間は社会を彫刻しうる」というヨゼフ・ボイスの「社会彫刻」を想起させる「アート論」のようにも感じられました。

施設の利用者が帰った後は、代表の久保田翠さんをはじめ、スタッフの方々とディスカッション。
久保田さんの息子さんが「障害」を持って生まれたことがきっかけではじまったというレッツの歴史や、現場の人たちのレッツとの出会いの話を聞き、福島で立ち上がった「ライフミュージアムネットワーク」とは何か、何ができるのかという展望について、さまざまな意見の交換を行いました。

「現場」は当事者のいるところ。悲惨さがクローズアップされるだけでは快くない、という声があり。
しかし悲惨を乗り越え、繰り返さないためには怒りのエネルギーが必要という意見があり。
現実を主体的に生きる「現場」に対し、「ミュージアム」は思考を促す(解きほぐす)ための編集装置ではないかという話が出てきたり。

決して明確な答えを見つけるためのディスカッションではないのですが、丸木美術館にもかかわるような多くの問いをいただいてきた気がします。
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2018/9/13

【京都出張】儀間作品返却/ギャラリーヒルゲート  調査・旅行・出張

儀間比呂志展の作品返却のため、京都の立命館大学国際平和ミュージアムへ。
午前中のうちに、無事に作品点検と返却が終わりました。お預かりした分の図録も、最終日の2日前に完売。ご来場いただいた皆さま、ありがとうございました。ちなみに図録は、立命館大学国際平和ミュージアムに直接連絡すれば、まだ購入することができます。

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午後は京都国立近代美術館で特集展示「バウハウスへの応答」を観た後、寺町通りのギャラリー・ヒルゲートへ立ち寄り、画廊主のHさんにご挨拶。
8月6日ひろしま忌の窪島誠一郎さんの講演がキャンセルになった際、代役の相談に乗っていただいたのです。そのとき代役を務めてくださった司修さんの個展が、ちょうどタイミング良く開催中。古事記と宮沢賢治の世界を描いた緻密なスクラッチのシリーズでした。

ギャラリーの2階で珈琲を飲んでいると、亡き針生一郎館長が、ふらりと入ってくるような錯覚を覚えました。
特に待ち合わせをしたわけではないのに、偶然同じ時間にヒルゲートに立ち寄り、まるでそれが当然であるかのように打ち合わせがはじまったのは、もう何年前のことになるでしょうか。
Hさんとそんな昔話や近況報告をして、つい長居をしてしまいました。
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2018/9/9

【沖縄出張】平和博物館・市民ネット/ひめゆり戦跡ツアー  調査・旅行・出張

昨夜のうちに広島から福岡経由で沖縄へ移動し、今日は初の沖縄開催となった「平和のための博物館・市民ネットワーク全国交流会」の第2日目に合流。

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午前中はひめゆり平和祈念資料館で、説明員Oさんの講話を聞きました。
以前に体験者のお話を聞いたことはあるものの、若い世代の説明員に代わってから講話を聞くのは初めて。途中、体験者の証言映像を交えつつ、当事者とは異なる視点からの解説がよく練られていて、語りの継承をいち早く実践してきた館ならではの蓄積の厚みを感じました。

昼食のときには、ひめゆり説明員の先駆者で旧知のNさんと、互いの館を取り巻く現状について情報交換。年に一度の交流会ですが、他館の話は大いに刺激になります。

午後はひめゆり戦跡をめぐるフィールドワーク。伊原第三外科壕・ひめゆりの塔から出発し、貸切バスに乗って山城本部壕、荒崎海岸をまわりました。

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ひめゆり平和祈念資料館の前にある伊原第三外科壕は、南風原町にあった陸軍第三外科が南部に撤退して入った壕。6月18日に突然の「解散命令」があった翌19日朝の米軍の攻撃で、中にいた100人のうち81人(うち、ひめゆり学徒・教師は42人)が亡くなっています。

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壕の近くには、1946年に建てられた小さな塔と、1957年に建てられた(2009年改修)大きな慰霊碑がありますが、慰霊碑の百合の彫刻の作者が玉那覇正吉であることに初めて気づきました。玉那覇は、ニシムイ美術村の芸術家の一人で、対馬丸記念館の近くにある沖縄戦戦没学童慰霊碑「小桜の塔」の彫刻も手がけています。

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ひめゆりの塔から海に向かう途中にある山城本部壕は、沖縄陸軍病院の本部が置かれた場所。壕の近くに「沖縄陸軍病院之塔」が立っています。

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滑りやすい足もとに気をつけながら壕の中に降りていくと、空間は案外広く、奥には泉もあったのですが、奥の方は院長室として使われ、ひめゆり学徒の居場所は入口付近だったとのこと。

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6月14日に壕入口を砲弾が直撃すると、学徒2名を含む病院関係者十数名が死傷。その後、学徒と教師は壕から移動するよう命じられ、ふた手に分かれたものの、ジャンケンに勝って伊原第三外科壕に移動した7名は全員が死亡しました。

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荒崎海岸は、6月21日、日本兵を追ってきた米兵の銃撃を受け、岩場に隠れていたひめゆり学徒7名と教師1名を含む10名が、手榴弾で自決した場所です。
ゴツゴツした岩肌に、「ひめゆり学徒散華の跡」という碑が埋め込まれています。

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1949年に遺族によって碑が建てられ、一度倒壊した後、1972年に再度作られたとのこと。
遠く摩文仁の丘を見渡せる美しい海岸ですが、当時は波打ち際まで米軍艦が押し寄せ、逃げる場所はなかったそうです。

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荒崎海岸からバスまで歩いて戻る途中で雨が降り始めたものの、辛うじて予定通りにフィールドワークを行うことができました。
細心の気配りで案内してくださった、ひめゆり平和祈念資料館の皆さんに感謝。
「かつて、ひめゆりの証言者の方々は、死んでいった仲間たちが守ってくれるから、雨に降られずにすんだ、と言うことがあったけれど、今日は私たちもそんな思いです」という言葉が印象的でした。

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最後にバスの車窓から魂魄の塔を見て、F新館長の解説を聞き、その後に解散。
1946年、戦後の沖縄で最初に建てられた慰霊碑である魂魄の塔は、10年ぶりの再訪。ひめゆり平和祈念資料館は4度目、山城本部壕と荒崎海岸は、今回初めて訪れました。
仕事で沖縄へ行くことは多いのですが、南部戦跡をまわる機会はなかなかないので、貴重な体験でした。
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2018/9/7

【広島出張A】広島市現代美術館「《原爆の図》をよむ」開幕前日  調査・旅行・出張

午前中はO市まで、歌手の二階堂和美さんを訪ねて行きました。
ローカル線に揺られて、車窓から宮島を眺める小旅行のような時間。

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落ち着いた雰囲気の古い宿場町の小さなお寺で、11月の企画のこと、丸木夫妻ゆかりの飯室のお寺の住職のこと、そして亡くなってしまった高畑勲さんのことなど、小一時間お話ししました。

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午後は広島市現代美術館で、明日から開幕する「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展を拝見。
会場をまわりながら、解説員の皆さんに作品解説も行いました。皆さんしっかりメモをとりながら聞いてくださり、気がつけば解説は2時間を超えていました。

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展覧会は、《原爆の図》以前の位里と俊の作品紹介からはじまり、《原爆の図》三部作の「本作」と「再制作版」を比較して並べているのが見どころです。「再制作版」のための下図や、展覧会の印刷物などの関連資料も紹介されています。

担当学芸員のSさんは、今回、広島市立中央図書館にある峠三吉資料から、丸木位里・俊の書簡を見つけてくださいました。そこには、『原爆詩集』(1951)の装幀を褒める二人の言葉が記され、「原爆の図展」に「われらの詩の会」の詩を送ってほしいと依頼していたこともわかりました。
副館長のTさんは、私が見逃していた山陰地方の新聞から、再制作版のきっかけとなった幻の「原爆の図」米国展について、賀川豊彦や桜沢如一らが協力していたという新たな情報を補完し、図録の論考にまとめてくださっています。

明日、午前10時半からのギャラリートークでは、こうした新たな知見も取り入れながら、《原爆の図》と広島とのかかわりを中心に、お話しできればと思っています。
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2018/9/6

【広島出張@】「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展に向けて  調査・旅行・出張

関西と札幌行きの便が欠航となり、混乱していた羽田空港を後にして、広島に来ています。
広島もまた、空港から市内に向かう途中のところどころに豪雨災害の跡が残っていました。

そんな中で、8日から広島市現代美術館ではじまる「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展。
https://www.hiroshima-moca.jp/maruki/

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広島駅に開通した南北自由通路のデジタルサイネージの動画に、展覧会の案内が流れていました。

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他にも、広島駅南口地下広場のショーウィンドウや、八丁堀福屋の隣の金座街アーケードの懸垂幕、街なかのあちこちにポスターが掲示されています。

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広報担当の方によると、8日午前10時半から行うギャラリートークへの関心も高く、当日は盛況と思われるとのこと。

昨日はいくつかの場所へ挨拶まわり。エディオンプレイガイド(サンモール1階)へ、11月18日の奈良美智さんらが出演される丸木美術館主催イベントの前売券も納品してきました。広島市内で直接チケットを購入できる拠点ができたので、本格的に告知を進めていきたいと思っています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2018/hiroshima.html

ギャラリーGでは、昨年亡くなられた美術家のいさじ章子さんの追悼展を観ました。直接お会いする機会はなかったものの、ご著書をお送りいただいたことがあり、一方的に近しく感じていました。若き日の抽象的な油彩画と、死の間際にも表現し続けた言葉の作品による、静謐な展示でした。
http://gallery-g.jp/exhibition/isajisyouko/

夜は2015年の米国展でお世話になった広島テレビのWさんと待ち合わせ。小鰯の刺身や鯒の煮付け、穴子の茶碗蒸しなどの美味しい料理を楽しみつつ、しかしカウンターで飲んでいる別のお客さんの「今年の災害の多さは異常。広島の豪雨災害がもう過去のことみたいになっとる」という言葉が聞こえてきて、胸に刺さりました。

この困難な時代に、《原爆の図》どのように読みなおしていけるのか。なかなかうまくは話せないかもしれませんが、そんなことを考えながら、トークに臨みたいと思っています。
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2018/8/17

【北海道出張A】秩父別・善性寺  調査・旅行・出張

北海道出張2日目は、N学芸員やギャラリー北のモンパルナスのSさんらとともに、赤松俊子(丸木俊)の生家である秩父別町・善性寺を10年ぶりに訪問。

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目的のひとつは、俊が10代の頃、東京の女子美術専門学校(現女子美術大学)に通うため、資金援助の意味を込めて郷里の人びとに依頼されて描いた絵画を撮影することでした。

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まずはベニヤ板に油彩で描かれた《赤松清潤の像》と《出淵虎治の像》。
どちらも親戚を描いた肖像画で、赤松清潤が着ているのは屯田兵の軍服とのこと。1930年(俊18歳)頃の制作と思われます。北海道の気候のせいか、保存状態は非常に良好でした。

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そして同じ頃に俊の父親を描いた《二世淳良法師の像》。この作品は以前にも見ていましたが、あらためて記録撮影。

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絵の中で着用されている極楽鳥文様の七条袈裟も現存するとのことで、俊の甥にあたる現住職が、わざわざ見せて下さいました。

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さらに、俊の母校である秩父別小学校に展示されていた《パラオ島》も、1年ほど前に善性寺へ戻っていました。
この油彩画は、俊が当時日本の統治下にあった「南洋群島」を訪れた1940年の作。
伝統的な集会所ア・バイに腰をかけてこちらを見ている二人の子どもの照れ笑いをしているような表情が印象的です。画家とモデルの親密な関係が伝わってきました。

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今回の善性寺訪問のもうひとつの目的は、日本画を専門とするN学芸員とともに、丸木位里の《龍虎之図》を調査することでした。

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この大作は、丸木夫妻が結婚の報告のために1941年末に秩父別を訪れた際に描かれ、翌1942年の第3回美術文化協会展に出品された記録が残っています。
その後、善性寺の本堂の襖絵として使われて、1992年に屏風に表装しなおされた際に、傷んでボロボロになった部分に新たに紙を貼り、位里自身が加筆したとのこと。

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加筆によって1941年の発表時からどの程度改変されたのかが気がかりだったのですが、今回あらためて調査して、主要な部分はほとんど変わってないことがわかりました。

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伝統を踏まえた図像でありながら、位里独特の絵画感覚が、虎の量感や龍と雲の構成の大らかさなどに散見されます。
彼の画業をたどる上で重要な意味を持つ作品であると再確認できたのは、大きな収穫でした。

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秩父別は見渡す限り広大な平野が広がるスケールの大きな土地。雨上がりの青い空には、「赤松の名にちなんだ」本堂の赤い屋根がよく映えていました。
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2018/8/16

【北海道出張@】札幌・ギャラリー北のモンパルナス  調査・旅行・出張

久しぶりの北海道出張。
雨のせいもありますが、気温は18度と、熱風の埼玉とは別の国のようです。

午前中に北海道立近代美術館と三岸好太郎美術館を観て、午後は広島の奥田元宋・小由女美術館のN学芸員とともに、札幌のギャラリー北のモンパルナスで丸木位里作品の調査を行いました。
きっかけは、今年7月に同ギャラリーで開催された「丸木位里展」の出品作に、1943年夏制作の水墨画《昇仙峡》が含まれていたことでした。

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現在、市場に出てくる丸木位里の作品は、もっぱら1970年代から80年代にかけての国内外の旅行の際に描いた風景画が中心。1940年代前半の水墨画が出てくるのは、たいへん珍しいです。

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1943年といえば、美術団体の統制が進められ、展覧会の開催が激減していった時期ですから、位里の《昇仙峡》は描かれはしたものの、発表されなかったかもしれません。

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位里は1939年頃から水墨の実験を繰り返しており、《昇仙峡》の画面に見られる細かい点描は、当時の彼の関心の方向性をよく伝えています。
地味な小品ではあるけれど、あまり活動の記録が残っていない時期の作例を伝える貴重な一点です。
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2018/8/13

徳応寺版《原爆の図》模写調査  調査・旅行・出張

愛知県岡崎市・徳応寺へ、《原爆の図》模写調査に行ってきました。
偶然にも近所で生まれ育ったという、大学の同期生で東京文化財研究所のK研究員に案内していただきました。

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名鉄・美合駅に近い浄土真宗のお寺の本堂には、子どもたちの手による13点の《原爆の図》が、毎年8月に、鎮魂と継承の思いを込めて15日まで公開されているそうです。
第1部《幽霊》、第2部《火》、第5部《少年少女》をもとにしながらも、「模写」を逸脱していくような絵の奔放さと迫力に、圧倒されました。

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寺に残る箱書きによれば、1956年5月、岡崎市立男川小学校の教師だった宇野房生(正一)が5年生に戦争の話をしたところ、「原爆はすごく景気が良い」との反応があり、戦慄した彼は翌日に《原爆の図》を見せたそうです。その結果、子どもたちの心に原爆の恐ろしさが沁み、模写の制作にとりかかったとのこと。

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当時の新聞記事には、30点ほどの模写を制作する構想だったと記されています。
部分描写で、絵によって拡大の比率が異なること、30点という作品数の多さから、この模写は青木文庫版『画集 原爆の図』(1952年発行、第1部〜第5部所収)の口絵をもとにしていると推測されます。

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画集はモノクロ写真でしたが、第2部《火》の炎は彩色されていて、1952年6月に愛知大学岡崎会の主催により「原爆の図展」が岡崎市のタカハシ百貨店(現岡崎信用金庫本町支店)で開催されたのを宇野が見ていた可能性があります。

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炎に包まれた赤ちゃんの模写が2枚描かれているのも気になりました。「終戦子」であった彼らにとって、生まれたばかりの赤ちゃんの像はとりわけ思い入れが強かったのかもしれません。
(2枚目の赤ちゃんの方には、「本作」にはない猫?の玩具が・・・)

もちろん丸木夫妻にも手紙で模写の許可を取ったそうで、俊は1985年7月25日の『中日新聞』で「そのころ、男川小学校の生徒の平和への意識の高さに感銘を受けた」と回想しています。

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子どもたちは、シジミを拾って売るなどして墨や紙などの画材を買い、6年生になっても模写を続け、映画「毎日国際ニュース」で取り上げられるなど次第に話題になっていったそうですが、やがて教育委員会から「思想的」との批判があり、制作は中断。焼却されるところを徳応寺の住職だった故・都路精哲が引き取り、軸装して木箱に入れ保管したおかげで、模写は残されることになりました。
そして1985年に約30年ぶりに公開され、以後、住職は代替わりしながらも、毎夏の公開を続けているとのことです。

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「描く」という身体的な体験で、非体験の「記憶」を継承する、貴重な1950年代の実践例。
今秋、広島市現代美術館では《原爆の図》の「本作」と作者の手による模写である「再制作版」が比較されますが、丸木美術館の方では、この機会に徳応寺版《原爆の図》をお借りして、「模写」の豊かな可能性を提示したいと思っています。
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2018/8/10

【福島出張】ギャラリー・オフグリッド「山内若菜展」など  調査・旅行・出張

午前中に丸木美術館で教員免許更新講習のための館内説明と討議を行い、超満席の東北新幹線で移動して、福島で「いのちと暮らし」に文化的に向き合う新しい連携プロジェクトの実行委員会に参加。
委員として何ができるかはまだわかりませんが、これまで試行錯誤してきたことの整理や、これからやっていくべきことを考える機会になり、点が線につながっていくような感覚を覚えはじめています。何より、福島とかかわり続ける場に誘って下さった福島県立博物館の皆さんに感謝です。

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会議の後は、ギャラリー・オフグリッドで開催中の山内若菜展「牧場 ペガサス―日食月食編―」へ。
3.11後の福島の状況に文化的な力で向き合うために、2015年12月に飯館電力株式会社の文化事業の一環としてはじまり、2017年3月からは一般財団法人ふくしま自然エネルギー基金の文化事業として運営されているギャラリー。今の福島にこうした場があることは、(決して多数の人に注目されないかもしれないけれど)重要な意味を持つと思います。
被曝した牛を飼い続ける牧場の絵を、当の福島で展示するのは、作者の山内若菜さんにとって大きな試練でしょう。それでも彼女は彼女らしく、いつもと変わらない全力注入の展示を作り上げていました。
8月25日(土)午後6時からは対談を予定しているので、絵に込められた彼女の強い思いを丁寧に聞きとっていきたいと考えています。

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折しも、ヤノベケンジさんの《サン・チャイルド》が福島市に寄贈されて、1週間ほど前に福島駅前の教育文化複合施設「こむこむ」に設置されたばかり。
これまでの経緯から、福島の「復興」の象徴になる現代アートがあるとすれば《サン・チャイルド》なのだろうと感じていたのですが、ネット上で批判されて作者が声明を出す状況になっているとのこと。
丸木美術館での展示をお願いしたことはありませんが、都立第五福竜丸展示館で《サン・チャイルド》が展示されたときには観に行ったので、少々複雑な心境です。
夜は行きがかりで、《サン・チャイルド》の設置にかかわった地元の方々のミーティングに参加。
作品そのものの抱える問題や感情的な意見が混在する複雑な状況なので、もっぱら皆さんの話を聞くばかりでしたが、事前に市民レベルで十分な議論がなされなかったことも一因であったのかもしれません。
福島の複雑さの一端を垣間見ると同時に、アートやモニュメントのもつ難しさ/暴力性を感じ、悶々としています。
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2018/8/3

【沖縄への旅】平敷兼七ギャラリー/佐喜眞美術館  調査・旅行・出張

ひろしま忌が近づいていますが、沖縄に来ています。
最終日を迎えた平敷兼七ギャラリーの平敷兼七・小原佐和子写真展「渚」、開幕したばかりの佐喜眞美術館の本橋成一写真展「在り家」。そして夕食は本橋さん、小原さん、平敷さんの娘さんたちとともに写真家のタイラジュンさんのお店rat&sheepへ行くという、写真づいた一日。
小原さんの写真集『神の真庭』と、平敷兼七写真集『山羊の肺』(復刻版)を入手しました。

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久高島を撮影している小原さんの写真展は、数年前に東京でやっていたのを見逃していて、今回も、まさか沖縄で見られるとは思っていなかったのですが、絶妙なタイミングで沖縄に来ることができて本当に良かったです。
写真展では、生前の平敷さんと小原さんの交流の一端が垣間見えたのも印象的でした。若い作家にとって、写真を撮り続けること、そして生きていくことは真底たいへんだと思うけれども、世代を超えて受け継がれていくものが確かにあることを感じて、心を打たれました。

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佐喜眞美術館の本橋成一展は、限られた展示空間いっぱいに、炭鉱からチェルノブイリ、アラヤシキまで、本橋さんのこれまでの仕事が凝縮された見応えのある内容。とりわけ、丸木夫妻が沖縄で絵を描く姿の先に《沖縄戦の図》が屹立する空間構成は、佐喜眞美術館ならではのクライマックスです。会期は9月3日まで。
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2018/3/25

【長崎出張3日目】原爆文学研究会/長崎平山家調査  調査・旅行・出張

長崎大学環境科学部大会議室にて、第55回原爆文学研究会の2日目。

午前中のみの開催で、発表者は2人。
新木武志さんは、1950年代前半の長崎における平和運動と被爆者運動の歴史を丁寧に解説してくださいました。
この発表でも、丸木夫妻の1953年1月に長崎労働会館で開催された「原爆の図」展が紹介され、被爆者の救済運動のための募金の宣伝として「原爆の図」が大歓迎を受けたという指摘がありました。

山口響さんの発表は、被爆者の証言を、あえて原爆が「大日本帝国」に投じられたという「固有の文脈」に埋め戻すことで、当時の軍の倫理や秩序の存在を浮かび上がらせるという「読み解き」の可能性の一例を提示する内容。体験者の「証言」を次の世代がどのように生かしていくか、という問題を考える上で、興味深く聞きました。

今回もまた、濃密な発表と白熱した質疑に、さまざまな考える材料をもらい、研究会は終了。
次回は7月28日、29日に神戸で開催予定です。

* * *

原爆文学研究会の後は、1984年12月から翌1985年1月にかけて丸木夫妻が約40日間滞在して《地獄の図》を描いた平山惠昭さんのお宅に伺い、聞き取りをしました。
ジャン・ユンカーマン監督の映画『HELLFIRE 劫火ーヒロシマからの旅』の冒頭のシーンを撮影したアトリエも、映画の印象そのままでした。稲佐山の急傾斜に立つ家の高低差を、撮影に生かしていたことがよくわかります。

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アトリエの写真は、1985年に同じ角度から本橋成一さんが撮影した写真(2017年カレンダーより)を、参考として右下にいっしょに写しています。

平山さんご夫婦と、わざわざ来てくださった当時20歳だった上の娘さんにとって、丸木夫妻の滞在していた日々は幸せな記憶であり、とりわけ妻の千枝子さんは「とにかく楽しい毎日だった、あんなに楽しいことはなかった」と繰り返し語っていました。

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丸木夫妻の長崎滞在の相談は、当初、長崎銀屋町教会の牧師のもとに寄せられ、ともに同和教育に取り組んでいた縁で、春陽会に出品していた平山さんが紹介されたそうです。平山さんはよろこび、ふたつ返事で承諾して、アトリエを提供することにしました。
絵画の制作に専念するため、丸木夫妻が滞在していることは極秘でしたが、ユンカーマンさんや本橋さんの撮影のほか、石牟礼道子さんや松谷みよ子さんが来訪するなど、賑やかな日々であったとのこと。

1985年は丑年だったので、位里は世話になった御礼に、牛の絵を2点、平山さんに贈りました。俊は平山さん夫婦と下の娘さんの肖像を描きました。
大切に保管されたそれらの絵を見せていただくと、丸木夫妻と平山さん一家の心のつながりが伝わってきます。

平山さんはその後、丸木夫妻のように絵にはメッセージがなければいけないと思うあまり、しばらく絵の制作ができなくなったそうですが、やがてフラメンコを踊るロマというテーマに取り組むようになりました。
そして、ふたりの娘さんも丸木夫妻の影響を強く受け、それぞれ中学校、小学校の先生になって、今も平和教育に熱心に取り組んでいるそうです。
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2018/3/24

【長崎出張2日目】第55回原爆文学研究会  調査・旅行・出張

長崎大学環境科学部大会議室で行われた第55回原爆文学研究会に参加。

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会場は三菱長崎兵器製作所大橋工場の跡地、つまり作家の林京子さんが女学生で学徒動員され被爆した場所です。

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丸木夫妻も1953年に長崎原爆之図《三菱兵器工場》(長崎市原爆資料館蔵)を描いています。

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キャンパス内には旧長崎師範学校の「原爆慰霊碑」もありました。

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以下は原爆文学研究会の内容を、簡単な備忘として。

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初日の発表者は3名。
四條知恵さんは、長崎における聞こえない人々(ろう者)をめぐる原爆被害の語りの問題を取り上げました。はじめは、マイノリティの集団的な語りの「挫折」についての発表と思いながら聴いていたのですが、質疑が進むうちに、実は原爆被害を「語る」ことそのものの意味を問い直すテーマであることが浮かび上がってくる、研究会ならではの展開が刺激的でした。

永川とも子さんの発表は、被爆者のライフ・ストーリーを取材したスーザン・サザードの『ナガサキ』(2015)を、原爆投下直後の被爆者の様子を伝えるジョン・ハーシーの古典『ヒロシマ』(1946)と比較しつつ、米国において原爆を語り直すことの意味を考える内容。
被爆者のライフストーリーが、原爆投下の是非に関する論争になりがちな米国の核言説の限界を乗り越える可能性を持つ一方、脱政治化の危険も伴うといった議論や、物語の作者という「神」の視点と、米国の建国にかかわる「神」、長崎の祈りの対象としての「神」のそれぞれの「神」の捉え方を区別する必要があるといった議論など、こちらも質疑応答は白熱しました。

安ミンファさんは『倭奴(イエノム)へ 在韓被爆者 無告の二十六年』(布川徹郎、1971年)と『もうひとつのヒロシマ アリランのうた』(朴壽南、1986年)の2本の映画を取り上げ、社会に排除されていく韓国人被爆者の身体と、冷戦下/軍国主義下の風景のイメージを比較する発表。
研究会の後、『もうひとつのヒロシマ』の題字が丸木位里であったことを数人の方から指摘されましたが(映画の前に刊行されていた同名書籍の題字がすでに位里の筆だったと記憶しています)、実は『倭奴へ』も丸木夫妻が原爆の図第14部《からす》制作の参考にするため、布川監督が来て上映したと回想されているので、どちらの映画も丸木夫妻との「距離」は近いのでした。
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2018/3/23

【長崎出張初日】長崎原爆の図《母子像》調査  調査・旅行・出張

丸木夫妻の作品調査のため、長崎出張。
午前中は丸木夫妻とゆかりの深い場所を訪ね、貴重な作品を拝見しました。所有者の意向で情報公開はできませんが、今も良好な状態で作品が保存されていることを嬉しく思いました。

その後、長崎県美術館へ行き、収蔵庫で、かつて長崎県教育文化会館が所蔵していた長崎原爆の図《母子像》を確認。
作品の制作過程は、ジャン・ユンカーマン監督の映画『HELLFIRE 劫火ーヒロシマからの旅』にも記録されています。
こちらも絵の状態は非常に良好。

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作品が描かれた経緯は、2000年3月20日付『ながさき教育新聞』に、平山惠昭さんが詳しく記しています。
平山さんは当時公立中学校の先生で、長崎市同和教育研究会の事務局長を兼務。春陽会に所属する画家でもありました。
記事によれば、1984年8月8日から12日まで「原爆の図」長崎展が市民会館で開かれ、このときに第15部《長崎》を長崎市国際文化会館(現・長崎原爆資料館)に寄贈するという話が持ち上がったそうです。
実際、《長崎》は半年後の1985年2月1日に正式に寄贈されるのですが、長崎でもう一枚絵を描きたいという丸木夫妻の意向と、ぜひ描いてほしいという「長崎展」実行委員の思いが重なり、同年12月に丸木夫妻は長崎を再訪。40日余りを平山さんの家で過ごし、大作を描きました。それが、現在はブルガリア国立美術館に所蔵されている《地獄の図》です。映画『劫火』の冒頭には、平山家で制作をする丸木夫妻の姿が映し出されています。
この《地獄の図》制作中に、当時の県教組委員長の近藤禮司氏が丸木夫妻のもとを訪ね、県教組のために一枚《原爆の図》を描いてほしいと依頼したそうで、埼玉の東松山に帰宅してから描いたのが、長崎原爆の図《母子像》というわけです。画面には1985年夏の制作と記されています。

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作品調査の後は、県美術館で開催中の「田川憲展」を観ました。田川憲(1906-67)は長崎における創作版画の草分けで、戦中は従軍画家として中国に渡り、上海で創作版画の会を創設して個人誌を発行していました。
上の画像(絵葉書より)は、田川が長崎に帰郷後の1951年に制作したという木版画《長崎原爆遺跡(浦上天主堂)》。
また、菊畑茂久馬の1990年代の「海」をテーマにした特集展示も見ることができて良かったです。

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長崎は昼頃から気温が上がり、稲佐山の国際墓地(唐人/中国人はじめ、ロシア人、ポルトガル人、オランダ人、ユダヤ人などの墓がならぶ)では、すっかり桜が満開でした。
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