2019/1/11

【塩竈出張】塩竈市杉村惇美術館/ビルド・スペース/浦霞など  調査・旅行・出張

塩竈の由来は、海水を煮て塩をつくるかまど(竈)。
駅名などは「塩釜」ですが、市民アンケートでは、正式名称は「塩竈」のままでよいという意見が多かったのだそうです。「鹽竈」となるともはや書けないのですが、こうした旧字もいまだ混在しています。
古くからの地名は大切にしたいものです。

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昨日は塩竈市杉村惇美術館でライフミュージアムネットワークのオープンディスカッション。
講師は同館統括・ビルドフルーガスの高田彩さんと、大原美術館の柳沢秀行さん。塩竈市と倉敷市、さらに会場に多くの関係者が駆けつけた喜多方市も含めて、ミュージアムを通した連携、地域間交流について詳しく聴きました。

丸木美術館は地域との連携は弱いところで、というか求められる役割が必ずしも「地域」ではないのかもしれませんが、ディスカッションで話せることはないし、コメントを求められたら困るな、と出来の悪い生徒のように下を向いて司会の福島県立博物館Kさんの視界から隠れて気配を消していたのに、やっぱり当てられてしまいました。でもそのおかげで、柳沢さんが丸木美術館の近くのご出身で、《原爆の図》をとても大切に思ってくださっていることを知ることができました。

   *   *   *

今日は塩竈市内のリサーチで、高田さんの運営するビルド・スペースへ。かつて、彼女のお祖父さんが洋画専門の映画館をやっていた場所だそうです。

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港町の洋画館なんて、それだけで物語が立ち上がってくるようです。高田さんはカナダのバンクーバーで美術を学び、現在は塩竈という土地に異なる文化を迎え入れる役割を担っています。

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続いて「浦霞」の醸造蔵・佐浦酒造店を訪ね、震災からの復興と、酒造りの歴史文化の継承について教えていただきました。

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歴史的建造物の旧ゑびや旅館、鹽竈神社近くの旧亀井邸、そして味噌醤油醸造元の太田與八郎商店などをまわり、昼食に美味しい寿司をいただいたところで、リサーチを続ける皆さんと別れて帰京。

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夕方は、丸木美術館ボランティアSくんの紹介で、パリで活動されている広島出身の写真作家・菊田真奈さんにお会いし、作品を丁寧に見せていただきました。
http://manakikuta.com/
これからの活動に注目していきたい作家が、またひとり増えました。
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2018/12/26

【長岡出張2日目】長岡オープンディスカッション  調査・旅行・出張

長岡震災アーカイブセンターきおくみらいにて、オープンディスカッション「中越から福島へ 福島から中越へ」。

ふくしま連携復興支援センターの天野和彦さんの基調講演「被災地の学びを全国へ」に続いて、長岡造形大学の平井邦彦さんと山の暮らし再生機構の山口壽道さんから、中越大震災の復興ビジョンや災害メモリアル拠点構想の形成過程について詳しく報告を伺いました。

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その後、天野さんがモデレーターを務めて、全体でディスカッション。
天野さんは、以前、富岡町の生活復興支援センター(おだがいさまセンター)の責任者をされており、2013年4月に原爆文学研究会で福島フィールドワークをしたとき、郡山でお話を伺っていたのでした。思わぬところで、思わぬ再会です。

そのときも天野さんは話術の巧みな方だと思ったのですが、モデレーターとして、まったく遠慮も妥協もせずに、問題の本質に深く切り込む発言を促しつつ、全体のバランスをとって議論を進めていく力量に驚かされました。

私は中越でも福島でもない立場なので、静かに話を聞かせていただこうと思って座っていたのに、天野さんにそそのかされて、何度か発言をしてしまいました。それがどれだけ役に立てたのかはわかりませんが、緊張感のある刺激的なディスカッションであったと思います。

「人災」と「天災」、体験者と非体験者の語り、そもそもミュージアムの存在意義や使命とは何か、ミュージアムは人を変えることができるか、変えられるとしたら、どういう人に育ってほしいか、どんな価値をもって欲しいか。
さまざまな考える材料をもらいつつ、議論は場所や日を変えながら、まだまだ続いていくことになりそうです。

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昼食でいただいた多菜田の山古志弁当が、とても美味でした。ごちそうさまでした。
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2018/12/25

【長岡出張初日】中越メモリアル回廊・旧山古志村  調査・旅行・出張

一昨日は福島ライフミュージアムネットワークのリサーチ。
2004年10月23日の新潟中越地震で大きな被害を受けた旧山古志村の「復興」を学びに、新潟県長岡市へ。

まずは、長岡駅近くの長岡震災アーカイブセンター「きおくみらい」で、福島の方々と合流。
この施設は、中越地震の記憶と復興を語り継ぐための4施設、3公園を結ぶ「中越メモリアル回廊」の起点になっています。
http://c-marugoto.jp/index.html

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これらの立ち上げにかかわり、現在は福島県立博物館学芸員の筑波さんに、震源や被害を受けた地域、復興住宅などの位置を教えていただきました。
床全体が鳥瞰写真になっているので、山や川の地形と道路の関係が把握できます。
大規模な土砂崩れによるライフラインの寸断や、河道閉塞といった中越地震の特徴を教えていただきました。

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旧山古志村といっても、種苧原(たなすはら)、虫亀、竹沢といった集落に分かれていて、地元住民は集落への帰属意識の方が強いとのこと。
全村避難をした後は、年配の方ほど「山古志へ帰りたい」ではなく、「自分の集落へ帰りたい」という思いがあったそうです。
そのつながりを分断しなかったことが、「復興」に向けた力になったようです。

被害の概要を聞いたあとは、長岡市の防災拠点や、市街へ移住した人たちの家や養鯉場が多い地域を見ながら、信濃川沿いの県道を車で走り、小千谷市との境界の道路崩落現場に向かいました。新しい道が整備された脇には、土砂崩れによって川に落ちこんだ道路やガードレールの残骸が、今も残されています。

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この土砂崩れによって走行中の車両4台が巻き込まれ、92時間後に発見された車中では、母親と4歳の女児が死亡、2歳の男児が救出されて大きなニュースとなりました。
その慰霊と災害の記憶を伝える場として整備されたのが、妙見メモリアルパーク。

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崩落現場の方向を示す「祈りの軸線」と、10月23日の日沈方向を示す「風景・記憶・再生の軸線」、同じく日昇方向を示す「未来と希望の軸線」が交わるモニュメントは、強烈なリアリティのある現場に寄り添うように配置されていて、過剰な存在感がないのがとても良かったです。

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車は旧山古志村へ入り、次に訪れたのはやまこし復興交流館おらたる。
「おらたる」とは、山古志の言葉で「私たちの場所」という意味。
言葉とモノで震災と復興の記憶を振り返る展示スペース、プロジェクションマッピングを有効に使った地形模型シアター、地場産商品などを販売しているコーナーや多目的スペース、さらに地域住民のための診療所やカフェも併設されています。

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記憶の伝承と地域の活性化というふたつの任務を担う施設で、筑波さんや職員の井上さんの話を聞きました。お話の中で、山古志の復興が、一貫して「住民がどうしたいか」という方向を向いて進んできたことが、よくわかりました。

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震災当初、県や被災市町村は国に特別立法を求めましたが、中越地震は特別な災害ではないというのが国の見解。金は用意するが復興は地元でやれ、と言われたことが、結果的には良かったそうです。
もちろん震災前に比べて人口は当然ながら減っていますが、それでも観光客が大幅に増加したり、山古志の人たちから「震災のおかげ」で良くなった、コミュニティが強くなった、という言葉を聞けることが、復興の成功を示しているようでした。

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山古志は闘牛と錦鯉、棚田で知られる地域。さらに車で棚田(養鯉のための棚池も多い)の見える風景の中を走っていきます。
豪雪地帯の山古志では、12月にこれだけ雪がないのは珍しいとのこと。震災のときにも、雪の降る季節まで2か月というタイムリミットの中で、さまざまな決断を迫られたのでした。そんな噂の豪雪を見られず、ちょっとほっとしたような、残念なような。
土砂崩落で寸断された道路の一部はそのまま残り、そのとき放置された軽トラックも遠くから見ることができました。

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やがて、震災のときに土砂崩落で河道閉塞が起き、集落ごと水没したという木籠(こごめ)メモリアルパークへ到着。

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ここには、水没した家が2軒残されています。被災した家の向こうには、高台に建設された公営住宅が見えます。山古志木籠ふるさと会の方たちが開設した「郷見庵」で、美味しいおでんもいただきました。

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妙見も木籠も、中山間地直下型地震の事例を伝える貴重な存在ですが、法的には「保存」が難しく、会議を重ねて「存置」という扱いにこぎつけたとのこと。「何もしない努力」と筑波さんは言われていたが、貴重な「モノ」をしっかりと残していることに感心しました。

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もっとも、朽ちていく建物をどうするのか、2年前に補修工事がされたようですが、それが良かったのかどうか(原爆ドームを思い起こします)、悩ましい問題もあるようでした。

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帰り道には、震災のあとに集落ごと移住した十二平(じゅんでら)地区に残る石碑や養鯉場の跡を見て、長岡へ戻りました。

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2018/12/23

【福岡出張2日目・3日目】第57回原爆文学研究会  調査・旅行・出張

2日間にわたって九州大学西新プラザにて、第57回原爆文学研究会。
夏の研究会の2日目が台風予報で中止になったため、中尾麻伊香さんの発表「被ばくと奇形をめぐる科学と表象― 1950年代の原爆映画を中心に」と、「原爆文学」再読6― 吉本隆明『「反核」異論』 (坂口博、村上克尚、加島正浩)が今回に繰り越されました。

さらに初日はセッション「『原爆に生きて』から『この世界の片隅で』へ:山代巴を中心に」(報告:キアラ・コマストリ、宇野田尚哉)、2日目は韓国から来られた文学研究者の金文柱さんの発表「東アジアの桎梏の歴史と原爆の文明史的な意味:韓国の原爆文学を中心に」と、ワークショップ「歴史修正主義と1990年代」 (報告:山本昭宏・倉橋耕平、コメント:中谷いずみ)という盛りだくさんの内容。

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狭義の「文学」にとどまらず、科学から歴史、政治、サブカルチャーへ領域を横断していくのがこの研究会らしいところです。しかも一見つながりがないようなそれぞれの議論が、往還しているように聞こえてくるのです。福岡アジア美術館で2日間にわたって観た、「アジアの木版画運動」展までよみがえってきます。
中尾さんの発表では亀井文夫監督の映画『世界は恐怖するー死の灰の正体』、キアラさんの山代巴についての報告では『原爆に生きて』が取り上げられ、どちらも丸木夫妻の絵が使われているから、自分の仕事にもつながってきました。

参加者は両日とも50人ほど、いつのまにか発表者も参加者も、年下の若い研究者が増えていて、この研究会に入ってから10年が過ぎたことに気づかされます。
懇親会で、初参加の若者が「この研究会は熱いと聞いてきました」と挨拶していましたが、たしかに今回も、両日ともに熱かったです。

とはいえ、研究会の規模が大きくなれば、運営面での新たな課題も生じます。世話人会の片隅で、会の行く末をじっと見守る身としては、考えることも多かったです。

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『原爆文学研究』第17号、自分の原稿は冴えないのですが、「炭鉱と原爆の記憶」ワークショップの趣意文を執筆した楠田剛士さんがすくい取ってくださり、ありがたく思いました。
楠田さんは「なんだか岡村論みたいになってしまいました」と言っていましたが、これまで書いたものや日常の仕事まで丁寧に目配りして書かれています。
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2018/12/21

【福岡出張初日】北九州市立美術館・福岡アジア美術館など  調査・旅行・出張

早朝の飛行機に乗って福岡へ。
午前中は北九州市立美術館分館で「1968年 激動の時代の芸術」展を観ました。

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その後、若戸渡船で若松へ、と目論んでいたのですが、残念ながら桟橋工事で運休中だったので、無料化されたばかりの若戸大橋をバスで渡り、火野葦平記念館「山福康政と裏山書房40年」展を観ました。
北九州の文化を支えた山福印刷・裏山書房の山福康政さんの残した仕事を総覧する展覧会。

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さらに若松駅で筑豊本線に乗り、折尾駅で乗り換えて教育大前駅へ。上野英信の息子の上野朱さんが経営している古本アクスを訪れました。朱さんには久しぶりのご挨拶。

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最後は福岡アジア美術館「闇に刻む光 アジアの木版画運動 1930-2010s」に駆けつけ、閉館時間まで粘りました。

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中国の木刻運動と日本の30年代、50年代、韓国の80年代の民衆美術だけでも濃密なのに、東南アジア、さらには南アジアまで広域の活動を一堂に集めて「共振」させるという企てに圧倒されました。

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上野英信の言うところの、「変革のエネルギーのルツボ」的な一日でした。
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2018/12/9

福島オープンディスカッション「ふるさと、奄美に帰る」をめぐって」  調査・旅行・出張

早朝の東北新幹線で、福島へ向かいました。
郡山に近づくと、窓の外は雪景色でした。

ライフミュージアムネットワーク実行委員の方々と福島駅前で待ち合わせ、富岡街道を車で走ります。
最近まで避難区域だった川俣町の山木屋地区を通り、浪江町へ。
街道以外の道は依然封鎖されていました。

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表土の剥がされた地面を、うっすらと雪が覆っています。
汚染土を詰め込んだフレコンバッグの山が見えました。
福島駅前で0.05μSv/hだった線量計の数値は、浪江町内津島地区では車内で0.4μSv/h、窓の外のモニタリングポストの数値は5μSv/hを超えていました。

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帰りは飯舘村を経由して福島市へ戻りました。
「日本でもっとも美しい村」のひとつと言われた面影は残っていますが、ここでもフレコンバッグの山を見てしまいました。

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午後は福島大学で、ライフミュージアムネットワークの連続オープンディスカッション「時を語るミュージアム」第3回「「ふるさと、奄美に帰る」をめぐって」に参加。

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熊本にあるハンセン病の国立療養所・菊池恵楓園の絵画クラブ「金陽会」の方々が描いた油絵を(2人の入所者の故郷である)奄美で展示する企画を行った藏座江美さんの報告。

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続いて『障害者の芸術表現ー共生的なまちづくりにむけて』の著者である鳥取大学の川井田祥子さんの発表を聴きました。司会は、はじまりの美術館の岡部兼芳さん。
ハンセン病の隔離政策によって故郷を追われた方々の思いを、絵は観る者に「自分ごと」にひきつけて伝えます。
川井田さんは、故・南嶌宏さんの、「障害者」は「幻想としての健常者」と対になっている、という言葉を引きました。

民俗学者で、ライフミュージアムネットワーク実行委員長の赤坂憲雄さんは、「ふるさと、奄美へ帰る」というタイトルには、福島にも変奏できる普遍性を感じる、と語りました。
クリエイティブサポート レッツの久保田翠さんは、表現より背景の方が大事なこともある、と挑発めいた発言をしていまた。
福島県立美術館の荒木康子さんは、3.11の後は自分が「差別」をしていないか自問している、と繰り返しました。
港千尋さんは「健常者」が幻想であるように「美術」の型もまた幻想であると指摘しました。
福島県立博物館の川延安直さんも「幻想としての被災地」「幻想としての福島」という言葉を使っていました。

午前中に見てまわった風景を、いつのまにか「被災地」という「幻想」に押し込めてはいなかったか。
福島から離れ、「日常」へと帰還する新幹線の中で、そんなことを考えていました。

本当は地続きの「自分ごと」であるはずの世界に、橋を架ける。
「外」から福島に向けて。福島から「外」に向けて。
ライフミュージアムネットワークとは、どうやら、そうした往還の中で考え続けていく「場」のようです。
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2018/11/24

【大阪出張】ココルーム/済州四・三犠牲者慰霊碑/大阪人権博物館講演  調査・旅行・出張

昨夜は済州から関西空港へ飛び、お世話になった大阪大学のKさんとお別れして、釜ヶ崎へ。
あちこちの店からカラオケが鳴り響く飛田本通商店街のアーケードを歩いて、ココルーム(釜ヶ崎芸術大学)に到着。

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李仲燮の西帰浦の家みたいな、1坪ちょっとの空間の「俳人の部屋」に泊まりました。

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壁には、チラシの裏に書かれた秋葉忠太郎さんの俳句がいくつも貼られていました。

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秋葉忠太郎さんは旭川の小作農の生まれ。絵は好きで画家になりたかったが学校の月謝も払えず、美術の先生の家に世話になったものの、美術学校の受験には落ちたそうです。
やがて東京の大学へ行き、反戦運動に参加。治安維持法容疑で捕まり、仕事はなく、結婚したばかりの妻といっしょに満州へ行きました。満州での暮らしは良かったのですが、ソ連参戦により状況が一変。何千という日本人の死体を山に埋めて、やっとの思いで日本に引き上げます。そして、大阪の山王町にある妻の実家に身を寄せましたが、生きる熱を失いました。
「わたしは歴史からこぼれおちた わたしは人生をおいてきてしまった」(『こころのたねとして2011 釜ヶ崎・飛田・山王』より)

2011年の時点で99歳だったというから、丸木俊と同い年になります。生まれた場所もすぐ近く。旭川のどこかですれ違っていたかもしれません。
丸木夫妻と同じ時代を生きた、もうひとつの別の人生が釜ヶ崎にありました。

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朝は朝がゆ定食とコーヒーをいただいて、カフェスペースに立ち寄った「釜ヶ崎のおっちゃん」のひとりと世間話をしたりして、なかなか快適に過ごしました。

昨日、済州空港へ向かった際のタクシーの運転手は、親戚が大阪市生野区の御幸通にいるとのことで、日本語がとても上手でした。
生野区周辺(もとの地名は猪飼野)には日本最大のコリアタウンがあり、その大半は済州島の出身。1922年(23年説も)の大阪ー済州島間の定期直行便「君が代丸」就航によって、多くの移民が大阪に入り、戦後になっても済州島4.3事件、朝鮮戦争からの避難する人びとが大阪へ向かったそうです。今回、済州島へ行くにあたって、明石書店『済州島を知るための55章』(2018)を読んで、あらためて大阪と済州島のつながりの深さを学びました。

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ココルームをチェックアウトして、午前中は天王寺区茶臼山の統国寺へ。
つい一週間ほど前、「済州四・三犠牲者慰霊碑」の除幕式があり、ニュースになっていたのです。

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慰霊碑には、当時、済州島内にあった村の数と同じ178の済州島の石が並べられていました。『済州島を知るための55章』によれば、政府の苛烈な「焦土化作戦」によって、108の村が消滅したといいます。
済州島のシンポジウムでお世話になった済州大学のK先生は、「慰霊碑の石は、私が頼まれて日本に送ったんですよ。法律では禁止されているので、許可を取るのにとても時間がかかって、大変でした」と言っていました。

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統国寺の境内は無人でじっくりと慰霊碑を見ることができましたが、週末の天王寺公園周辺は、動物園や阿倍野ハルカスなどに出かける家族連れで、とても賑やかでした。

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午後は大阪人権博物館にて、原爆の図《高張提灯》(1986)特別展示のギャラリートーク。

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昨日まで済州島でご一緒していたKさんがご夫妻で来られ、Sさん、Oさんら関西方面の顔なじみの方々が駆けつけてくださり、本当にありがたかったです。
というのも、トークを前に、人権博物館から、ある新聞記者の方が書かれた「「原爆の図 高張提灯」の題材となった史実の真偽」という未発表の論考が突然送られてきて、「被差別部落では原爆のとき軍隊に見張られてどこにも逃げ出せなかった」という《高張提灯》の主題と、記者の検証する「客観的事実」とのズレについて、自分なりに応答しなければならないと気を張っていたのです。

ところが、来場されると聞いていた新聞記者の方は、別の用事で来られなくなってしまったとのこと。それでは何のために発表を準備したのか、聞き手の方たちの意識と発表内容とのズレが気になり、旅の疲れも手伝って、少々散漫なトークになってしまいました。

しかも、《高張提灯》は専門家の批判を受けて常設展示を外されたと伝え聞いていたのですが、A館長によれば必ずしもそうではなく、「事実と違うのではないか」との指摘は確かにあったものの、1995年のリニューアルに際して展示の見直しを行ったことが直接の理由であったそうです。
それはそれで、ほぼ時期を同じくして広島平和記念資料館でも《原爆ーひろしまの図》が、やはり広島市現代美術館の開館に伴う所蔵先の移管やリニューアルによる展示見直しを理由に常設展示を外れているので、70-80年代の市民運動と90年代の変化、あるいは実物中心に切り替わっていく博物館の展示の問題など、気になることはいろいろあります。

ともあれ課題は課題としつつ、忘れたいことはなるべく忘れて、両手に土産物と図録・書籍を抱えて、久しぶりのわが家に帰りました。
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2018/11/23

【済州島出張4日目】李仲燮美術館  調査・旅行・出張

済州島最終日はバスで西帰浦へ移動して李仲燮(イ・ジュンソプ)美術館へ。

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海を見下ろす高台に建つ美術館は2002年の開館。
すぐ隣に公園が整備されていて、彼と妻の李南徳(山本方子)と2人の子どもたちが1951年1月から12月まで暮らした茅葺の家が当時の状態に復元されています。

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土間の台所が奥に長く6.39u(1.9坪)、部屋が4.70u(1.4坪)。建物の隅の小さな空間に一家4人が暮らしていました。

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朝鮮半島の動乱に翻弄され、やがて妻と子どもを日本に帰し、別離のまま1956年に死去した彼にとって、済州島で暮らしたわずか11ヶ月は、貧しいながらもっとも幸福な時期であったようです。それがこの地に美術館が建った理由なのだと、館内を案内してくれたJ学芸員が強調されていたのが印象的でした。

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韓国の「国民的画家」と言われるだけあって、決して広くはない美術館(敷地面積60坪程度)の年間入館者は20万人を超えるそうです。

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美術館の前の道は、韓国で初めて画家の名がついた「李仲燮通り」。洒落た土産物店が並び、李仲燮の絵をモチーフにした微笑ましいオブジェやタイルが設置されていました。マンホールや排水溝まで彼の作品を模しています。

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数億円の高額で取引される彼の代表作を揃えるのは簡単ではなく、油彩画の展示は小品が中心。J学芸員によれば、比較的値段の安い(それでも数千万円)銀紙画(タバコやチョコレートの包み紙に突起物で引っ掻いて描いた絵)や、家族へ宛てた絵手紙を狙って収集しているとのことでした。

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それでも屋上にのぼると、画家が絵に描いた海の景色を一望できるのは嬉しく思いました。
昨日は済州島に冷たい強風が吹き、今朝は漢拏山の山頂が薄っすらと白くなっていましたが、南海に面した西帰浦の風は暖かく、李仲燮が束の間の幸福を過ごした日々が想われます。

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代表作はよそにあっても、この場所でしか見えないものがあるのです。
最後に良い場所を訪れたことに満足して、夕方の飛行機で済州島を後にしました。
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2018/11/22

【済州島出張3日目】済州4.3記念館シンポジウム  調査・旅行・出張

済州島3日目は、済州4.3記念館へ。

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済州4.3記念財団と済州大学平和研究所の主催で、1981年に沖縄創価学会が募集した体験者による沖縄戦の絵123点を展示する企画があり、開幕シンポジウム「沖縄戦の記憶と絵」に、O大学K先生とともに招待されたのでした。

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基調講演は、沖縄戦の絵の展覧会を企画した済州大学のC先生。済州における創価学会の研究もされていて、そのつながりを生かして、今回は原画の貸出を実現させています。

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その後、K先生が「市民が描いた原爆の絵」や、基町高校の生徒が体験者の証言を聞きながら描いた「原爆の絵」、山城知佳子の映像《あなたの声は私の喉を通った》を紹介し、私は《原爆の図》を中心に丸木夫妻の仕事を紹介。
事前に打ち合わせたわけではありませんが、K先生は「史実かフィクションか」の二分法を迫る議論がもたらす問題点を指摘し、私も丸木夫妻が「記録」からこぼれ落ちる立場の人たちの「記憶」を描いたとしつつ、「記憶」は曖昧で変化するため、絶対化は危険であり、「事実」と「記憶」をどう整理して読み解いていくかは受け取る側の課題だと話しました。

午後に行われた韓国側の発表は、どちらも4.3事件を主題にした美術について。一方は体験者が自身の記憶を描いた絵画、一方は芸術家による表現の紹介でした。
続いてディスカッションも行われましたが、われわれが提起した「記憶」をめぐる問題にはほとんど触れられず、被害者の「記憶」がいかに「真実」を伝えるか、という方向で話が進んだので、少し拍子抜けではありました。
後で打ち上げの席でK先生の知人に聞いたところ、韓国ではまだそこまで自由な議論はできない、とのこと。被害者の「記憶」も政府公認のものが真実として扱われる傾向にあるようです。政権が変わり、ようやくこうした企画ができるようになっただけでも前進なのだとのこと。

ちょうどテレビでは、4.3事件の犠牲者の遺骨がDNA鑑定によって遺族のもとに返された(シンポジウム会場の隣の建物でセレモニーが行われていた)とニュースが流れていましたが、こうした事業も前政権のときには予算化されず、まったく進まなかったそうです。
日本には日本の問題があるが、韓国には韓国の問題があると感じた一日。しかし、葛藤を抱えつつ、限られた条件のもとで自分のできることをやろうしている人たちがいることも知りました。

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「沖縄戦の絵」は、第1部「避難」(疎開、亀甲墓への避難、ガマへの避難、集団自決、爆撃、避難)、第2部「虐殺」(日本兵、米兵、戦後)という2部構成、9つのテーマに分かれて展示されていました。
1980年代という早い時期に集められたこともあって、特に第2部の絵は非常に詳しく生々しい。C先生が、今の創価学会は原画の貸出に積極的ではない、と言うのもわかる気がします。

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また、同時開催として「沖縄と済州交流美術展」も開催され、沖縄から石垣克子、比嘉豊光、与那覇大智ら、韓国側は前日に個展を観たばかりの高吉千の作品も展示されていて、こちらも興味深く見ることができました。
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2018/11/21

【済州島出張2日目】掩体壕、「済州島4.3事件」の碑など  調査・旅行・出張

済州島出張2日目。
町の向こうに漢拏山がよく見えます。

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午前中は旧市街の市場を散策。

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午後、島の南西端へ済州大学C先生のお連れ合いKさんの車で向かう途中、コンクリート造の旧日本軍の通信基地の跡を見かけました。

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人がひとりやっと通れるような地下通路が2本。1945年の解放後は、韓国軍の弾薬庫にも使われたとのこと。
戦争末期の日本軍は、沖縄陥落後、この済州島で連合国軍を迎え撃とうとしていたそうです。
車で案内してくださったKさんによれば、「広島がなければ済州も沖縄のようになっていた」とのこと。

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島の南西端にある松岳山の海沿いの絶壁には、小型の特攻艇「震洋」を隠すため、地元住民が動員されて掘られた岩穴がいくつも見られます。
韓国ドラマ「チャングムの誓い」のロケ地になったことでも知られるそうで、観光客で賑わい、大型バス駐車場や土産物屋も建っていました。
もっとも、ぼくは韓国ドラマを全然見ていないので、同行の大阪大学Kさんに「あんなに流行ったのに、何で見てないんですか!」と叱られてしまいました。

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松岳山の近くにあるアルトゥル飛行場は、旧日本軍によって整備され、長崎の大村海軍航空隊に替えて、南京など中国大陸空爆の拠点となった飛行場。
現在、滑走路は農地となっていますが、零戦を格納するコンクリート造りの掩体壕〔bunker)は20カ所が現存し、点在しています。一度にこれほど多くの掩体壕を見るとは思っていなかったので、とても驚きました。

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壕内には、2015年に設置されたという現代美術の展示もいくつかありましたが、あまり効果的とは思えず、むしろ何もないままの方が良かったかもしれません。

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この地は、「済州島4.3事件」の現場でもあります。
共産主義の容疑をかけられて「予備拘束」されていた罪のない地元住民252人が、1950年8月に旧日本軍弾薬庫で集団虐殺され、証拠隠滅のため遺品も焼かれ、遺骨の区別もないまま秘密裏に埋葬されました。
1956年に遺骨は発掘されましたが、識別できない132の遺体は「百祖一孫」(犠牲者の遺族は皆同じ子孫)として集められ、慰霊碑が建てられたそうです。

しかし、1961年に軍事クーデターが起こると、慰霊碑は破壊され、墓も奪われました。そのため遺族は沈黙を強いられ、真相究明・名誉回復は2015年まで待たなければならなかったとのこと。現在は虐殺の跡地に、犠牲者の名を刻んだモニュメントが建てられ、遺骨が埋められた二ヶ所の穴が復元されています。

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アジア・太平洋戦争から朝鮮戦争へ。日本にも深く関わりのある不条理の歴史に翻弄された済州島の傷跡を見てまわり、明日はいよいよ済州大学にてシンポジウム。
場所の力に圧倒されつつ、でも発表の前に見ておいて良かったと思いました。

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帰りに立ち寄った済州現代美術館は高吉千(コ・ギルチョン)展を開催中。
済州島を拠点に、政治や歴史、環境などの社会問題を継続的に美術で表現してきた作家の回顧展です。

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彼の重要な主題である「4.3事件」はもちろん、トランプ政権に対する風刺や、渡り鳥の飛来地を調査して環境問題を考える作品などが、3つのフロアにわたって展示されていて、とても見応えがありました。とはいえハングルが読めないので情報が限られ、社会的な文脈もよくわからないので、現代美術を理解するのはなかなか難しかったです。
高吉千展の図録がなかったのは残念でした。
帰ったら韓国美術研究者の古川美佳さんにいろいろ聞いてみようと思います。
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2018/11/20

【済州島出張初日】済州道立美術館・山地川ギャラリー  調査・旅行・出張

済州島出張初日。
大阪大学のKさんとともに、迎えに来て下さった済州大学C先生のお連れ合いKさんに案内されて、済州道立美術館と山地川(サンジチョン)ギャラリーをまわりました。

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9年前に開館したという新しくて立派な道立美術館は、コレクション展を開催中。
ミュージアムショップで宋英玉生誕100年展の図録を見つけて購入しようとしたら「この図録は無料で差し上げます」と言われました。ありがたいことです。


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済州島の中心部、港の近くにある山地川ギャラリーは、写真家Hong Jeong Pyoによる、かつての済州島の農村や漁村の人びとの暮らしを記録した写真展。Kさんは農村部の出身なので、昔の済州の様子を詳しく話してくださいました。漁村の写真には、海女が写っているものがいくつもありました。ここでも写真集を無料でいただいてしまいました。
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2018/10/8

【会津出張おまけ】瀧神社・三石神社  調査・旅行・出張

奥会津フィールドワーク報告おまけ。
只見町に泊まった朝は、早起きをしたので一人で旅館を抜け出し、只見駅近くの瀧神社から三石神社へ。

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只見川の反乱に苦しんだ享保年間の熊野神社の神職が、熊野の戦神スサノオでは水害に効き目がないと水神・瀬織津姫命を祀ったのが瀧神社とのこと。ダムだらけの今を瀬織津姫はどう思っているのでしょう。

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瀧神社の裏の細い散策路を歩いて行くと、次第に山へ入っていき、三石神社へ。

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山中にある三つの巨岩が磐座というのがいいですね。
平安末期、奥州藤原氏討伐の功によりこの地を源頼朝から授かった山内経俊が、夢枕に立った神霊のお告げを受けてこの地に導かれたという。五穀豊穰、家内安全、生業繁栄、開運招福。

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山の上から見渡す町の風景がとても良かったです。

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道なりに山を下りると只見スキー場の方へ抜けていき、朝食の時間に遅刻してしまいました。
ご心配をおかけしました。

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2018/10/8

【会津出張2日目】金山町・上田ダム/昭和村「渡し舟」  調査・旅行・出張

ライフミュージアムネットワークのフィールドワークは、只見駅前の旅館で一泊し、さらに続きます。
午前中は金山(かねやま)町で、「村の肖像」プロジェクトに取り組んでいる写真家の榎本千賀子さんのお話を聞きました。
https://sites.google.com/site/chikakoenomoto/home/project/kaneyama_project

高齢化と人口減の続く地域で、暮らしや労働、民俗行事、そしてダム建設をはじめとした社会の変化を地元の人びとが撮影した写真・映像を収集し、撮影者や年代、場所などの基礎データを整理し、貴重な文化遺産として保管・活用していこうという試みです。
それは、町民自身の視点によって町の歴史を伝える資料であり、文字化されていない記憶を探る手がかりにもなる、と榎本さんは言います。
もちろん、限られた場面の、地域の人が「残したい」と思った記録である(見せたくない、見せられないものは出てこない、と言っていたのが印象的でした)ことには注意が必要ですが、多くの目で歴史を語り伝える手段として、とても興味深い活動です。
それらの写真を地域の人たちで見ながら、呼び起こされた記憶の聞き取りをするワークショップも行っているとのこと。
個人的には《原爆の図》など惨禍の記憶を伝える絵画や、失われゆく炭鉱の家族アルバムを収集した上野英信の『写真万葉録 筑豊』といった事例も想起しながら、「自己表現」の芸術や目に見えやすい町おこしの「アートイベント」だけではない表現の可能性を考えていました。
榎本さんがこうしたプロジェクトに取り組むことになったきっかけは、角田勝之助という金山町の人びとを撮り続けた地元のアマチュア写真家の存在が大きかったそうです。参考までに、こちらが榎本さんの論文。
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/27836/1/nab_4_13-16.pdf

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榎本さんのお話を聞いた後は、1952-54年建設の上田(うわだ)ダムへ。
榎本さんによれば、敗戦直後にダム建設用地の視察のためアメリカ軍が訪れ(1945年のうちに来たと語る人もいるとのこと)、子どもたちは歓迎のために動員されたそうです。占領下、米兵の姿を目の当たりにした大人たちは、ダム建設反対どころではなかったかもしれません。

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白洲次郎が東北電力初代会長としてダム建設に関わったため、右岸には「建設に盡力したみなさん これは諸君の熱と力の 永遠の記念碑だ」と白洲が記した石碑が建っています。

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ダムを渡った左岸には、建設工事で命を落とした10名の名が刻まれた慰霊碑もありました。
榎本さんによれば、その10名に地元住民の名はないとのこと。ダム建設に際しては、男女を問わず地元の人たちが優先的に雇用されましたが、危険な労働にはまわされなかったそうです。地元の人が亡くなることで、反対運動が激しくなることを恐れたのでしょう。

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また、集落の水没・移住だけではなく、外部から稼ぎに来た人との結婚や、現金収入を得た経験が若者の流出を加速させるなど、ダム完成後の人口減といった問題も生じたようです。
ダム建設には、軽犯罪・保釈間際の囚人たちも動員されており、1941-46年建設の宮下ダム(三島町)には朝鮮人徴用工が働き、1952-54年建設の本名(ほんな)ダム(金山町)竣工後には、日本人妻も含めた朝鮮人労働者の家族の多くが帰国事業で北朝鮮へ渡っていった話なども、時代を反映しているようで興味深く聞きました。

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写真は、上田ダムを撮影する榎本さん。自身も地域の写真を撮り続けています。

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午後は昭和村へ移動し、地域の伝統工芸からむし織の後継者を育成する「織姫制度」を体験して村に定住した渡辺悦子さんと舟木由貴子さんの、不定期オープンの店「渡し舟ーわたしふねー」でお話を伺いました。

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からむし、と呼ばれる植物から生まれる織物は、武士の裃などの材料に使われ、古くから雪深い昭和村の貴重な生産品として、山向こうの新潟に出荷されていました。
しかし、やはり高齢化と人口減によって、からむし織も廃れ、20数年前に技術継承のための「織姫」と呼ばれる体験生制度がはじまったそうです。

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外部から村にやってきた体験生の存在は、当初は決して村の人たちに理解されたわけではなかったようですが、からむし織に真摯に取り組む「織姫」たちの姿勢が少しずつ認知され、「織姫」たちも畑や織仕事を通して村の暮らしの良さを学び、やがて村の人と結婚して定住する「織姫」も現れるようになったとのこと。
渡辺さんと舟木さんも子どもを育てながら、からむし布を使った小物の生産販売や裁縫ワークショップ、昭和村の今を伝えるお話会を村の内外で開催しているそうです。
とはいえ、からむし織だけで生計を立てることは難しい、と二人は言います。その現実は「織姫」の後輩たちにも必ず伝えています、と。

今回のライフミュージアムネットワークのフィールドワークでは、(私は参加できませんでしたが)土曜日の初日に三島町の生活工芸館も訪れていました。
宮下ダム建設中の大好況と完成後の人口減に翻弄された過去を持つ三島町は、外部の力による町おこしに頼らず、古くから伝わる編み組細工などの生活工芸に力を入れるようになった、という報告を聞きました。ダム建設と無縁だった昭和村の取り組みも、そんな三島町の選択と似ているのかもしれません。
だからといって現実は厳しく、決して人口減が解消されるわけではありません。地域の緩やかな衰退が止まるわけでもありません。
それでも、この地域でしかできないことを継承し、記憶を伝え続けるという真っ当な姿勢の意味を、考えずにはいられませんでした。
そして、これから日本全体が人口減に向かっていく中で、大幅な入館者増が見込めるわけではない丸木美術館が、どのような道を歩むべきかということも、考えずにはいられませんでした。

昭和村の帰り道には、柳津町の斎藤清美術館にも立ち寄りました。
https://www.town.yanaizu.fukushima.jp/bijutsu/
現代的な木版画で国際的に評価された斎藤清の個人美術館で、かつては斎藤清の作品のみを展示していましたが、入館者減に悩み、現在は美術大学とのコラボレーションなどの企画も行なっているそうです。
こちらも少し丸木美術館の状況に似ていますが、歴史を継承しつつ、何ができるかを考え続けることが必要なのですね。

決して馴染みがあるわけではない、というより、正直に言えば、地名を聞いても位置関係さえよくわからないほど不慣れであるにもかかわらず、丁寧に説明しながら多くの場所を案内し、人を紹介してくださった福島県立博物館の皆さんには、本当に感謝。とても考えることの多いフィールドワークでした。
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2018/10/7

【会津出張初日】田子倉ダム・ふるさと館田子倉など  調査・旅行・出張

広島市現代美術館で足立さんの講演を聴いた後は、台風の進路と重なるように福島へ移動。
広島では強風で新幹線が止まっていると聞いたので、駅まで行って動かなかったら諦めよう・・・と思っていたのですが、広島始発の臨時列車にうまく乗れ、それでもダイヤは大幅に乱れていたので、東京駅で東北新幹線の最終列車に間に合わなければ家に帰ろう・・・と覚悟していたところ、辛うじて間に合い、郡山で一泊。
今朝は磐越西線で会津へ向かったものの、途中強風で列車が停まり、ようやく動き出したと思ったら、架線に枝が引っかかって撤去作業。今度こそ半分諦めて、会津若松で待つライフミュージアムネットワークの皆さんには、先にフィールドワークへ行っていただくようお願いしたのですが、結局、2時間遅れで列車は会津若松駅に到着しました。
駅ではネットワークの事務局をつとめる福島県立博物館の学芸員の二人が待っていてくださり、只見町の田子倉ダムでその他のメンバーと合流すべく、車で急ぎました。

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学芸員の皆さんの尽力にもかかわらず、残念ながら最後はわずか10分ほど間に合わず、発電所内部の見学ツアーに参加することはできなかったものの、全国屈指の規模を持つダムのスケールを体感し、その後は、田子倉ダムの直下流で放流水量を調節する只見ダムと、J-POWER(電源開発株式会社)の只見展示館を見学。

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さらに、田子倉ダム建設の際に湖底に沈んだ旧田子倉集落の記憶を伝える資料館「ふるさと館田子倉」や、「ただみ・ブナと川のミュージアム」も見て回りました。

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只見町は、冬には4-5mを超える積雪量となる厳しい環境でありながら、ブナを中心にした豊かな自然が残り、古くから農林業や採取、狩猟、漁撈(ツキノワグマやサクラマスなどが獲物だったそうです)をなりわいとする暮らしが営まれていました。
しかし、1959年に首都圏に電力を供給する水力発電ダム建設のため、旧田子倉集落は湖の底に沈みました。当時の集落には50戸290人が暮らしており、移転交渉の難航や反対運動が社会問題として注目されたそうです。
「ふるさと館田子倉」には、皆川文弥・弥親子が個人で収集展示していた、ダム水没前の暮らしを伝える狩猟や漁撈の用具を中心とした資料が残されています。

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ダム建設反対運動を記録した写真には、「金は一時 土は万年の宝」「魚は水に生き 農民は土によって生きる」といった貼紙も見られました。
つい先ほど見たばかりの静かな湖面の底に存在していた集落の全景写真には、しばらく目を奪われました。1950年代はじめの撮影とのこと、すでにダム計画が決まっていて、空撮をしたのでしょう。写真からは、そこに暮らしがあったという生々しい空気感が立ち上がってきます。

田子倉ダムは、総工費約348億円、建設に携わった人員延べ約300万人という大事業。絶景で知られるJR只見線も、もとは田子倉ダム建設のために敷設されたそうです。
田子倉発電所は、一般水力発電所として日本有数の規模となる(建設当時は日本最大だった)認可出力38万kWを有しています。
その送電線(只見幹線)が、現在私が住んでいる埼玉県川越市や生まれ育った東京の多摩地域を経由して、町田市まで繋がっているということを、恥ずかしながら初めて知りました。宮崎駿監督のアニメ映画『となりのトトロ』で猫バスが疾走する送電線も、只見幹線のようです。
自分が生まれてから現在にいたるまでずっと使い続けてきた電力が、この場所から送られていたとは。原発事故だけではなく、福島のエネルギー供給と自分たちの生活が密接に関わっていることを、あらためて考えました。
この機会に、小山いと子『ダム・サイト』や城山三郎『黄金郷』、曽野綾子『無名碑』など、田子倉ダムを舞台にした文学作品も読んでみようと思います(『ダム・サイト』はかなり入手困難のようですが)。
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2018/10/6

広島市現代美術館・新しい骨董  調査・旅行・出張

少し前のことになりますが、広島市現代美術館「丸木位里・俊ー《原爆の図》をよむ」展の初日に、ファッションブランド「途中でやめる」主宰の山下陽光くんに、彼らの企画である「新しい骨董」の展示の案内をしていただいたのでした。
「“新しい骨董”とでもいうべき何か」を探求する実験企画を体感するためには、展示を見るだけではなく、一見無価値と思われる〈モノ〉に、〈意味〉をつけることで価格がついた(それもチープな)ミュージアムグッズを購入し、「コレクター」になるべきだろうと思ったのですが、初日の慌ただしさの中で機会を逸してしまったことが心残りでした。

ところが今回、すでに展示は終了していたにもかかわらず、なぜかミュージアムショップでは「新しい骨董」の販売が続いていたので、一見きれいな、しかし何に使うのかよくわからないガラスの装飾具?を、赤と緑の2種類購入しました。
店員さんに声をかけると、立派な陳列ケースから恭しく商品を取り出し、「新しい骨董 NEW ANTIQUE」と手書きされた(それもチープな)袋に、丁寧に入れて下さいました。
これで、自分もささやかながら「新しい骨董」のムーヴメントに参加したような気分になったのです。

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すると、近くで一部始終を見ていた欧米系と思われる外国人観光客の女性が興味を持ったようで、店員さんに英語で「あれは何か?」と質問したようでした。
一見きれいだし、ちょっと〈価値〉がありそうに見えなくもないし(本当は無価値だけど)。
振り返ると、店員さんがうまく説明できずに困っていたので、何だか、いい光景を見てしまったな、と思いました。
一瞬の出来事で、観光客の方もすぐに「ああ、いいわ」というふうに引き下がってしまったのですが、やっぱり自分も説明責任を果たすべきではなかったかと、少しばかり後悔しました。
しかし時すでに遅し。きっとこれからも、「新しい骨董」のコレクションを見るたびに、この日のエピソードとも言えないような中途半端な記憶が、ほろ苦さとともに蘇ることになるのでしょう。
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