2018/10/8

【会津出張おまけ】瀧神社・三石神社  調査・旅行・出張

奥会津フィールドワーク報告おまけ。
只見町に泊まった朝は、早起きをしたので一人で旅館を抜け出し、只見駅近くの瀧神社から三石神社へ。

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只見川の反乱に苦しんだ享保年間の熊野神社の神職が、熊野の戦神スサノオでは水害に効き目がないと水神・瀬織津姫命を祀ったのが瀧神社とのこと。ダムだらけの今を瀬織津姫はどう思っているのでしょう。

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瀧神社の裏の細い散策路を歩いて行くと、次第に山へ入っていき、三石神社へ。

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山中にある三つの巨岩が磐座というのがいいですね。
平安末期、奥州藤原氏討伐の功によりこの地を源頼朝から授かった山内経俊が、夢枕に立った神霊のお告げを受けてこの地に導かれたという。五穀豊穰、家内安全、生業繁栄、開運招福。

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山の上から見渡す町の風景がとても良かったです。

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道なりに山を下りると只見スキー場の方へ抜けていき、朝食の時間に遅刻してしまいました。
ご心配をおかけしました。

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2018/10/8

【会津出張2日目】金山町・上田ダム/昭和村「渡し舟」  調査・旅行・出張

ライフミュージアムネットワークのフィールドワークは、只見駅前の旅館で一泊し、さらに続きます。
午前中は金山(かねやま)町で、「村の肖像」プロジェクトに取り組んでいる写真家の榎本千賀子さんのお話を聞きました。
https://sites.google.com/site/chikakoenomoto/home/project/kaneyama_project

高齢化と人口減の続く地域で、暮らしや労働、民俗行事、そしてダム建設をはじめとした社会の変化を地元の人びとが撮影した写真・映像を収集し、撮影者や年代、場所などの基礎データを整理し、貴重な文化遺産として保管・活用していこうという試みです。
それは、町民自身の視点によって町の歴史を伝える資料であり、文字化されていない記憶を探る手がかりにもなる、と榎本さんは言います。
もちろん、限られた場面の、地域の人が「残したい」と思った記録である(見せたくない、見せられないものは出てこない、と言っていたのが印象的でした)ことには注意が必要ですが、多くの目で歴史を語り伝える手段として、とても興味深い活動です。
それらの写真を地域の人たちで見ながら、呼び起こされた記憶の聞き取りをするワークショップも行っているとのこと。
個人的には《原爆の図》など惨禍の記憶を伝える絵画や、失われゆく炭鉱の家族アルバムを収集した上野英信の『写真万葉録 筑豊』といった事例も想起しながら、「自己表現」の芸術や目に見えやすい町おこしの「アートイベント」だけではない表現の可能性を考えていました。
榎本さんがこうしたプロジェクトに取り組むことになったきっかけは、角田勝之助という金山町の人びとを撮り続けた地元のアマチュア写真家の存在が大きかったそうです。参考までに、こちらが榎本さんの論文。
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/27836/1/nab_4_13-16.pdf

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榎本さんのお話を聞いた後は、1952-54年建設の上田(うわだ)ダムへ。
榎本さんによれば、敗戦直後にダム建設用地の視察のためアメリカ軍が訪れ(1945年のうちに来たと語る人もいるとのこと)、子どもたちは歓迎のために動員されたそうです。占領下、米兵の姿を目の当たりにした大人たちは、ダム建設反対どころではなかったかもしれません。

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白洲次郎が東北電力初代会長としてダム建設に関わったため、右岸には「建設に盡力したみなさん これは諸君の熱と力の 永遠の記念碑だ」と白洲が記した石碑が建っています。

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ダムを渡った左岸には、建設工事で命を落とした10名の名が刻まれた慰霊碑もありました。
榎本さんによれば、その10名に地元住民の名はないとのこと。ダム建設に際しては、男女を問わず地元の人たちが優先的に雇用されましたが、危険な労働にはまわされなかったそうです。地元の人が亡くなることで、反対運動が激しくなることを恐れたのでしょう。

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また、集落の水没・移住だけではなく、外部から稼ぎに来た人との結婚や、現金収入を得た経験が若者の流出を加速させるなど、ダム完成後の人口減といった問題も生じたようです。
ダム建設には、軽犯罪・保釈間際の囚人たちも動員されており、1941-46年建設の宮下ダム(三島町)には朝鮮人徴用工が働き、1952-54年建設の本名(ほんな)ダム(金山町)竣工後には、日本人妻も含めた朝鮮人労働者の家族の多くが帰国事業で北朝鮮へ渡っていった話なども、時代を反映しているようで興味深く聞きました。

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写真は、上田ダムを撮影する榎本さん。自身も地域の写真を撮り続けています。

* * * * *

午後は昭和村へ移動し、地域の伝統工芸からむし織の後継者を育成する「織姫制度」を体験して村に定住した渡辺悦子さんと舟木由貴子さんの、不定期オープンの店「渡し舟ーわたしふねー」でお話を伺いました。

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からむし、と呼ばれる植物から生まれる織物は、武士の裃などの材料に使われ、古くから雪深い昭和村の貴重な生産品として、山向こうの新潟に出荷されていました。
しかし、やはり高齢化と人口減によって、からむし織も廃れ、20数年前に技術継承のための「織姫」と呼ばれる体験生制度がはじまったそうです。

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外部から村にやってきた体験生の存在は、当初は決して村の人たちに理解されたわけではなかったようですが、からむし織に真摯に取り組む「織姫」たちの姿勢が少しずつ認知され、「織姫」たちも畑や織仕事を通して村の暮らしの良さを学び、やがて村の人と結婚して定住する「織姫」も現れるようになったとのこと。
渡辺さんと舟木さんも子どもを育てながら、からむし布を使った小物の生産販売や裁縫ワークショップ、昭和村の今を伝えるお話会を村の内外で開催しているそうです。
とはいえ、からむし織だけで生計を立てることは難しい、と二人は言います。その現実は「織姫」の後輩たちにも必ず伝えています、と。

今回のライフミュージアムネットワークのフィールドワークでは、(私は参加できませんでしたが)土曜日の初日に三島町の生活工芸館も訪れていました。
宮下ダム建設中の大好況と完成後の人口減に翻弄された過去を持つ三島町は、外部の力による町おこしに頼らず、古くから伝わる編み組細工などの生活工芸に力を入れるようになった、という報告を聞きました。ダム建設と無縁だった昭和村の取り組みも、そんな三島町の選択と似ているのかもしれません。
だからといって現実は厳しく、決して人口減が解消されるわけではありません。地域の緩やかな衰退が止まるわけでもありません。
それでも、この地域でしかできないことを継承し、記憶を伝え続けるという真っ当な姿勢の意味を、考えずにはいられませんでした。
そして、これから日本全体が人口減に向かっていく中で、大幅な入館者増が見込めるわけではない丸木美術館が、どのような道を歩むべきかということも、考えずにはいられませんでした。

昭和村の帰り道には、柳津町の斎藤清美術館にも立ち寄りました。
https://www.town.yanaizu.fukushima.jp/bijutsu/
現代的な木版画で国際的に評価された斎藤清の個人美術館で、かつては斎藤清の作品のみを展示していましたが、入館者減に悩み、現在は美術大学とのコラボレーションなどの企画も行なっているそうです。
こちらも少し丸木美術館の状況に似ていますが、歴史を継承しつつ、何ができるかを考え続けることが必要なのですね。

決して馴染みがあるわけではない、というより、正直に言えば、地名を聞いても位置関係さえよくわからないほど不慣れであるにもかかわらず、丁寧に説明しながら多くの場所を案内し、人を紹介してくださった福島県立博物館の皆さんには、本当に感謝。とても考えることの多いフィールドワークでした。
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2018/10/7

【会津出張初日】田子倉ダム・ふるさと館田子倉など  調査・旅行・出張

広島市現代美術館で足立さんの講演を聴いた後は、台風の進路と重なるように福島へ移動。
広島では強風で新幹線が止まっていると聞いたので、駅まで行って動かなかったら諦めよう・・・と思っていたのですが、広島始発の臨時列車にうまく乗れ、それでもダイヤは大幅に乱れていたので、東京駅で東北新幹線の最終列車に間に合わなければ家に帰ろう・・・と覚悟していたところ、辛うじて間に合い、郡山で一泊。
今朝は磐越西線で会津へ向かったものの、途中強風で列車が停まり、ようやく動き出したと思ったら、架線に枝が引っかかって撤去作業。今度こそ半分諦めて、会津若松で待つライフミュージアムネットワークの皆さんには、先にフィールドワークへ行っていただくようお願いしたのですが、結局、2時間遅れで列車は会津若松駅に到着しました。
駅ではネットワークの事務局をつとめる福島県立博物館の学芸員の二人が待っていてくださり、只見町の田子倉ダムでその他のメンバーと合流すべく、車で急ぎました。

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学芸員の皆さんの尽力にもかかわらず、残念ながら最後はわずか10分ほど間に合わず、発電所内部の見学ツアーに参加することはできなかったものの、全国屈指の規模を持つダムのスケールを体感し、その後は、田子倉ダムの直下流で放流水量を調節する只見ダムと、J-POWER(電源開発株式会社)の只見展示館を見学。

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さらに、田子倉ダム建設の際に湖底に沈んだ旧田子倉集落の記憶を伝える資料館「ふるさと館田子倉」や、「ただみ・ブナと川のミュージアム」も見て回りました。

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只見町は、冬には4-5mを超える積雪量となる厳しい環境でありながら、ブナを中心にした豊かな自然が残り、古くから農林業や採取、狩猟、漁撈(ツキノワグマやサクラマスなどが獲物だったそうです)をなりわいとする暮らしが営まれていました。
しかし、1959年に首都圏に電力を供給する水力発電ダム建設のため、旧田子倉集落は湖の底に沈みました。当時の集落には50戸290人が暮らしており、移転交渉の難航や反対運動が社会問題として注目されたそうです。
「ふるさと館田子倉」には、皆川文弥・弥親子が個人で収集展示していた、ダム水没前の暮らしを伝える狩猟や漁撈の用具を中心とした資料が残されています。

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ダム建設反対運動を記録した写真には、「金は一時 土は万年の宝」「魚は水に生き 農民は土によって生きる」といった貼紙も見られました。
つい先ほど見たばかりの静かな湖面の底に存在していた集落の全景写真には、しばらく目を奪われました。1950年代はじめの撮影とのこと、すでにダム計画が決まっていて、空撮をしたのでしょう。写真からは、そこに暮らしがあったという生々しい空気感が立ち上がってきます。

田子倉ダムは、総工費約348億円、建設に携わった人員延べ約300万人という大事業。絶景で知られるJR只見線も、もとは田子倉ダム建設のために敷設されたそうです。
田子倉発電所は、一般水力発電所として日本有数の規模となる(建設当時は日本最大だった)認可出力38万kWを有しています。
その送電線(只見幹線)が、現在私が住んでいる埼玉県川越市や生まれ育った東京の多摩地域を経由して、町田市まで繋がっているということを、恥ずかしながら初めて知りました。宮崎駿監督のアニメ映画『となりのトトロ』で猫バスが疾走する送電線も、只見幹線のようです。
自分が生まれてから現在にいたるまでずっと使い続けてきた電力が、この場所から送られていたとは。原発事故だけではなく、福島のエネルギー供給と自分たちの生活が密接に関わっていることを、あらためて考えました。
この機会に、小山いと子『ダム・サイト』や城山三郎『黄金郷』、曽野綾子『無名碑』など、田子倉ダムを舞台にした文学作品も読んでみようと思います(『ダム・サイト』はかなり入手困難のようですが)。
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2018/10/6

広島市現代美術館・新しい骨董  調査・旅行・出張

少し前のことになりますが、広島市現代美術館「丸木位里・俊ー《原爆の図》をよむ」展の初日に、ファッションブランド「途中でやめる」主宰の山下陽光くんに、彼らの企画である「新しい骨董」の展示の案内をしていただいたのでした。
「“新しい骨董”とでもいうべき何か」を探求する実験企画を体感するためには、展示を見るだけではなく、一見無価値と思われる〈モノ〉に、〈意味〉をつけることで価格がついた(それもチープな)ミュージアムグッズを購入し、「コレクター」になるべきだろうと思ったのですが、初日の慌ただしさの中で機会を逸してしまったことが心残りでした。

ところが今回、すでに展示は終了していたにもかかわらず、なぜかミュージアムショップでは「新しい骨董」の販売が続いていたので、一見きれいな、しかし何に使うのかよくわからないガラスの装飾具?を、赤と緑の2種類購入しました。
店員さんに声をかけると、立派な陳列ケースから恭しく商品を取り出し、「新しい骨董 NEW ANTIQUE」と手書きされた(それもチープな)袋に、丁寧に入れて下さいました。
これで、自分もささやかながら「新しい骨董」のムーヴメントに参加したような気分になったのです。

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すると、近くで一部始終を見ていた欧米系と思われる外国人観光客の女性が興味を持ったようで、店員さんに英語で「あれは何か?」と質問したようでした。
一見きれいだし、ちょっと〈価値〉がありそうに見えなくもないし(本当は無価値だけど)。
振り返ると、店員さんがうまく説明できずに困っていたので、何だか、いい光景を見てしまったな、と思いました。
一瞬の出来事で、観光客の方もすぐに「ああ、いいわ」というふうに引き下がってしまったのですが、やっぱり自分も説明責任を果たすべきではなかったかと、少しばかり後悔しました。
しかし時すでに遅し。きっとこれからも、「新しい骨董」のコレクションを見るたびに、この日のエピソードとも言えないような中途半端な記憶が、ほろ苦さとともに蘇ることになるのでしょう。
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2018/10/6

峠三吉資料・丸木夫妻書簡調査  調査・旅行・出張

昨日の夜に広島へ移動し、午前中は広島市中央図書館で、峠三吉資料に入っている丸木夫妻の書簡調査。
峠資料については、広島市現代美術館のS学芸員が、峠や四國五郎との交流の一端を示す書簡を「丸木位里・俊ー《原爆の図》をよむ」展でいくつか紹介してくださっていますが、実際には1950年秋から1953年3月の峠の死後の和子夫人宛なども含めると16通の書簡が現存しています。

その中で最初に書かれたと思われる書簡(資料番号832)は、峠資料のリストには1951年とありますが、内容から1950年(消印は9月11日)で間違いないでしょう。
お手紙ありがとうございました。原爆の詩当地でずっとよましてもらってございます。廣島に峠さんのような人のあることをうれしく力強く思って居ります」という書き出しからはじまる書簡は位里の文字。
15日には広島に入ること、一度三滝の家を訪ねてほしいことなどが記され、「廣島でこの展らん会がうまく出来ればとも思って作品だけは持って行くつもりです」「今はこのことについては何もぐたいてきにははこんで居りません」と記されているので、全国巡回どころか、広島で本当に展覧会が開催できるのか、不安を抱えていたことがわかります。もちろん展覧会は、峠ら「われらの詩の会」の協力により、1950年10月5-9日の会期で実現するのですが。

その後も書簡のやりとりは続き、翌1951年に峠がガリ版『原爆詩集』を自費出版すると、丸木夫妻に巡回展で売ってほしいと依頼したようで、丸木夫妻は単価が高いので売れないだろう、近頃は巡回展も圧力が強まってやりにくくなっている、と返信しています。このあたりの書簡は、今回の広島現美展で紹介されています。

1952年4月に連合国軍の占領が終わり、原爆報道が解禁されると、青木書店からいち早く文庫版画集『原爆の図』が発行されますが、その際、丸木夫妻が峠の詩を青木書店社長の青木春雄に紹介し、『原爆詩集』出版(青木文庫版は1952年6月発行)の橋渡しをしていたことが、資料番号267の青木から峠宛の書簡(1952年3月7日消印)であらためて確認できました。

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写真は、「われらの詩の会」に宛てた、丸木夫妻からの画集『原爆の図』刊行のお知らせ。当時、全国でお世話になった巡回展関係者に送られたのでしょう。
峠から丸木夫妻に宛てた書簡の方は行方がわからないのが残念ですが、峠資料の丸木夫妻書簡については、そのうちにきちんと整理してまとめておきたいと考えています。
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2018/9/28

【大阪出張】釜ヶ崎ココルーム見学  調査・旅行・出張

今日も、やはり「ライフミュージアムネットワーク」のリサーチとして、大阪・釜ヶ崎の「ゲストハウスとカフェと庭・ココルーム」を訪ね、NPO法人「こえとことばとこころの部屋」の代表で詩人の上田假奈代さんの話を聞きました。

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“寄せ場”と呼ばれる日雇い労働者の町としての歴史を持つ釜ヶ崎。上田さんはそこで居場所のない人たちが立ち寄れる「場」をつくり、ともに学ぶことのできる「釜ヶ崎芸術大学」を立ち上げています。

お昼時になると、庭に面したテラスでスタッフや滞在者、ふらりと来た人?たちといっしょにカレーライスを食べました。

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ちょうど7か月も長期滞在していた若者が就職のために旅立つ日だったり、数日前に急死したおじさん(身寄りのない人をみんなで送る「見送りの会」という活動に惹かれて堺市から釜ヶ崎へ移り住んできた方だという)の葬式に見ず知らずの私たちまで参列することになったり、単身高齢生活保護受給者の社会的つながり事業の拠点である「ひと花センター」で上田さんの担当する合作俳句の会に参加したり、この「場」の日常の一端を、側から覗き見るような時間を過ごしました。

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来る者拒まずという「場」の空気感からは、私が初めて丸木美術館を訪れたときの印象がよみがえってきました。
誰がスタッフで、誰がボランティアで、誰がお客さんだかわからない混沌かつ対等な人間関係。世間では生きづらさを感じている人が、ここでは自分らしく振る舞うことができるという「場」。
もちろんそうした思いには個人差があるし、時間とともに変質していく部分もあるけれども、肩書きや年齢ではなく、お互いひとつの命として向き合うという「場」でありたいという思いは、今も丸木美術館に流れているはずです。

もちろん、釜ヶ崎には釜ヶ崎の必然があり、丸木美術館の「場」とは意味が大きく異なるところもあります。
それでも、この「場」をもう少し見てみたい、ここから丸木美術館に持ち帰れるものを考えてみたい、と思って、11月の大阪出張に合わせて宿泊予約をしました。
釜ヶ崎に泊まって人権博物館(リバティおおさか)で講演をするというのは、何だか真っ当な気がしたのです。
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2018/9/27

【静岡出張】クリエイティブサポートレッツ見学  調査・旅行・出張

「ライフミュージアムネットワーク」のリサーチとして、浜松市で活動するクリエイティブサポートレッツの活動を視察。

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運営拠点となっている障害者福祉サービス事業所アルス・ノヴァ と、のヴぁ公民館を見せていただきました。

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「障害」のある方の特別な作品に注目するというアートの現場がある一方で、レッツの活動は、誰かに評価されるわけでもないのに、その人が熱心に取り組んでいることを、「表現未満、」の個人の文化活動と捉えて、最大限に尊重しているといいます。
高みを目指して表現するだけではない、一見「無意味」に思える行為を繰り返したり、何も作り出さないことさえも、他者に哲学的な思考を促すという点で、彼らの「シゴト」であるとする視点の転換が、この施設の重要な核となっています。

そうした多様な生き方を体感し、思考する機会を、施設の外側にいる人たちとも共有するために、レッツでは、これらの施設を開放し、泊まりがけで彼らとともに過ごす時間と空間を提供する「観光事業」を行なっています。

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私たち一行はわずか数時間の滞在でしたが、スタッフの説明を受けつつ、途中からはほぼ放置され、濃密な時間を過ごしました。
クレヨンを塗ったときにできるカスを丸めて小さな玉を作り、5列×5列均等に並べる人を観察したり、異質な訪問者である私たちに仲間たちの動向を延々と説明し続ける人の話を聞いたり。
ひたすら音を出し続ける人、飛び上がる人、お菓子を食べる人、テレビゲームに熱中する人、何もせずに横になっている人・・・ここで起きていることを見逃すまいと、次第に目と耳の感覚が研ぎ澄まされていくのを感じました。

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その体験は、私にとっては、赤松俊子(丸木俊)の「絵は誰でも描ける」という1950年代の大衆芸術論や、それをさらに先鋭的にした「あらゆる人間は社会を彫刻しうる」というヨゼフ・ボイスの「社会彫刻」を想起させる「アート論」のようにも感じられました。

施設の利用者が帰った後は、代表の久保田翠さんをはじめ、スタッフの方々とディスカッション。
久保田さんの息子さんが「障害」を持って生まれたことがきっかけではじまったというレッツの歴史や、現場の人たちのレッツとの出会いの話を聞き、福島で立ち上がった「ライフミュージアムネットワーク」とは何か、何ができるのかという展望について、さまざまな意見の交換を行いました。

「現場」は当事者のいるところ。悲惨さがクローズアップされるだけでは快くない、という声があり。
しかし悲惨を乗り越え、繰り返さないためには怒りのエネルギーが必要という意見があり。
現実を主体的に生きる「現場」に対し、「ミュージアム」は思考を促す(解きほぐす)ための編集装置ではないかという話が出てきたり。

決して明確な答えを見つけるためのディスカッションではないのですが、丸木美術館にもかかわるような多くの問いをいただいてきた気がします。
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2018/9/13

【京都出張】儀間作品返却/ギャラリーヒルゲート  調査・旅行・出張

儀間比呂志展の作品返却のため、京都の立命館大学国際平和ミュージアムへ。
午前中のうちに、無事に作品点検と返却が終わりました。お預かりした分の図録も、最終日の2日前に完売。ご来場いただいた皆さま、ありがとうございました。ちなみに図録は、立命館大学国際平和ミュージアムに直接連絡すれば、まだ購入することができます。

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午後は京都国立近代美術館で特集展示「バウハウスへの応答」を観た後、寺町通りのギャラリー・ヒルゲートへ立ち寄り、画廊主のHさんにご挨拶。
8月6日ひろしま忌の窪島誠一郎さんの講演がキャンセルになった際、代役の相談に乗っていただいたのです。そのとき代役を務めてくださった司修さんの個展が、ちょうどタイミング良く開催中。古事記と宮沢賢治の世界を描いた緻密なスクラッチのシリーズでした。

ギャラリーの2階で珈琲を飲んでいると、亡き針生一郎館長が、ふらりと入ってくるような錯覚を覚えました。
特に待ち合わせをしたわけではないのに、偶然同じ時間にヒルゲートに立ち寄り、まるでそれが当然であるかのように打ち合わせがはじまったのは、もう何年前のことになるでしょうか。
Hさんとそんな昔話や近況報告をして、つい長居をしてしまいました。
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2018/9/9

【沖縄出張】平和博物館・市民ネット/ひめゆり戦跡ツアー  調査・旅行・出張

昨夜のうちに広島から福岡経由で沖縄へ移動し、今日は初の沖縄開催となった「平和のための博物館・市民ネットワーク全国交流会」の第2日目に合流。

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午前中はひめゆり平和祈念資料館で、説明員Oさんの講話を聞きました。
以前に体験者のお話を聞いたことはあるものの、若い世代の説明員に代わってから講話を聞くのは初めて。途中、体験者の証言映像を交えつつ、当事者とは異なる視点からの解説がよく練られていて、語りの継承をいち早く実践してきた館ならではの蓄積の厚みを感じました。

昼食のときには、ひめゆり説明員の先駆者で旧知のNさんと、互いの館を取り巻く現状について情報交換。年に一度の交流会ですが、他館の話は大いに刺激になります。

午後はひめゆり戦跡をめぐるフィールドワーク。伊原第三外科壕・ひめゆりの塔から出発し、貸切バスに乗って山城本部壕、荒崎海岸をまわりました。

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ひめゆり平和祈念資料館の前にある伊原第三外科壕は、南風原町にあった陸軍第三外科が南部に撤退して入った壕。6月18日に突然の「解散命令」があった翌19日朝の米軍の攻撃で、中にいた100人のうち81人(うち、ひめゆり学徒・教師は42人)が亡くなっています。

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壕の近くには、1946年に建てられた小さな塔と、1957年に建てられた(2009年改修)大きな慰霊碑がありますが、慰霊碑の百合の彫刻の作者が玉那覇正吉であることに初めて気づきました。玉那覇は、ニシムイ美術村の芸術家の一人で、対馬丸記念館の近くにある沖縄戦戦没学童慰霊碑「小桜の塔」の彫刻も手がけています。

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ひめゆりの塔から海に向かう途中にある山城本部壕は、沖縄陸軍病院の本部が置かれた場所。壕の近くに「沖縄陸軍病院之塔」が立っています。

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滑りやすい足もとに気をつけながら壕の中に降りていくと、空間は案外広く、奥には泉もあったのですが、奥の方は院長室として使われ、ひめゆり学徒の居場所は入口付近だったとのこと。

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6月14日に壕入口を砲弾が直撃すると、学徒2名を含む病院関係者十数名が死傷。その後、学徒と教師は壕から移動するよう命じられ、ふた手に分かれたものの、ジャンケンに勝って伊原第三外科壕に移動した7名は全員が死亡しました。

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荒崎海岸は、6月21日、日本兵を追ってきた米兵の銃撃を受け、岩場に隠れていたひめゆり学徒7名と教師1名を含む10名が、手榴弾で自決した場所です。
ゴツゴツした岩肌に、「ひめゆり学徒散華の跡」という碑が埋め込まれています。

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1949年に遺族によって碑が建てられ、一度倒壊した後、1972年に再度作られたとのこと。
遠く摩文仁の丘を見渡せる美しい海岸ですが、当時は波打ち際まで米軍艦が押し寄せ、逃げる場所はなかったそうです。

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荒崎海岸からバスまで歩いて戻る途中で雨が降り始めたものの、辛うじて予定通りにフィールドワークを行うことができました。
細心の気配りで案内してくださった、ひめゆり平和祈念資料館の皆さんに感謝。
「かつて、ひめゆりの証言者の方々は、死んでいった仲間たちが守ってくれるから、雨に降られずにすんだ、と言うことがあったけれど、今日は私たちもそんな思いです」という言葉が印象的でした。

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最後にバスの車窓から魂魄の塔を見て、F新館長の解説を聞き、その後に解散。
1946年、戦後の沖縄で最初に建てられた慰霊碑である魂魄の塔は、10年ぶりの再訪。ひめゆり平和祈念資料館は4度目、山城本部壕と荒崎海岸は、今回初めて訪れました。
仕事で沖縄へ行くことは多いのですが、南部戦跡をまわる機会はなかなかないので、貴重な体験でした。
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2018/9/7

【広島出張A】広島市現代美術館「《原爆の図》をよむ」開幕前日  調査・旅行・出張

午前中はO市まで、歌手の二階堂和美さんを訪ねて行きました。
ローカル線に揺られて、車窓から宮島を眺める小旅行のような時間。

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落ち着いた雰囲気の古い宿場町の小さなお寺で、11月の企画のこと、丸木夫妻ゆかりの飯室のお寺の住職のこと、そして亡くなってしまった高畑勲さんのことなど、小一時間お話ししました。

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午後は広島市現代美術館で、明日から開幕する「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展を拝見。
会場をまわりながら、解説員の皆さんに作品解説も行いました。皆さんしっかりメモをとりながら聞いてくださり、気がつけば解説は2時間を超えていました。

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展覧会は、《原爆の図》以前の位里と俊の作品紹介からはじまり、《原爆の図》三部作の「本作」と「再制作版」を比較して並べているのが見どころです。「再制作版」のための下図や、展覧会の印刷物などの関連資料も紹介されています。

担当学芸員のSさんは、今回、広島市立中央図書館にある峠三吉資料から、丸木位里・俊の書簡を見つけてくださいました。そこには、『原爆詩集』(1951)の装幀を褒める二人の言葉が記され、「原爆の図展」に「われらの詩の会」の詩を送ってほしいと依頼していたこともわかりました。
副館長のTさんは、私が見逃していた山陰地方の新聞から、再制作版のきっかけとなった幻の「原爆の図」米国展について、賀川豊彦や桜沢如一らが協力していたという新たな情報を補完し、図録の論考にまとめてくださっています。

明日、午前10時半からのギャラリートークでは、こうした新たな知見も取り入れながら、《原爆の図》と広島とのかかわりを中心に、お話しできればと思っています。
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2018/9/6

【広島出張@】「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展に向けて  調査・旅行・出張

関西と札幌行きの便が欠航となり、混乱していた羽田空港を後にして、広島に来ています。
広島もまた、空港から市内に向かう途中のところどころに豪雨災害の跡が残っていました。

そんな中で、8日から広島市現代美術館ではじまる「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展。
https://www.hiroshima-moca.jp/maruki/

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広島駅に開通した南北自由通路のデジタルサイネージの動画に、展覧会の案内が流れていました。

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他にも、広島駅南口地下広場のショーウィンドウや、八丁堀福屋の隣の金座街アーケードの懸垂幕、街なかのあちこちにポスターが掲示されています。

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広報担当の方によると、8日午前10時半から行うギャラリートークへの関心も高く、当日は盛況と思われるとのこと。

昨日はいくつかの場所へ挨拶まわり。エディオンプレイガイド(サンモール1階)へ、11月18日の奈良美智さんらが出演される丸木美術館主催イベントの前売券も納品してきました。広島市内で直接チケットを購入できる拠点ができたので、本格的に告知を進めていきたいと思っています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2018/hiroshima.html

ギャラリーGでは、昨年亡くなられた美術家のいさじ章子さんの追悼展を観ました。直接お会いする機会はなかったものの、ご著書をお送りいただいたことがあり、一方的に近しく感じていました。若き日の抽象的な油彩画と、死の間際にも表現し続けた言葉の作品による、静謐な展示でした。
http://gallery-g.jp/exhibition/isajisyouko/

夜は2015年の米国展でお世話になった広島テレビのWさんと待ち合わせ。小鰯の刺身や鯒の煮付け、穴子の茶碗蒸しなどの美味しい料理を楽しみつつ、しかしカウンターで飲んでいる別のお客さんの「今年の災害の多さは異常。広島の豪雨災害がもう過去のことみたいになっとる」という言葉が聞こえてきて、胸に刺さりました。

この困難な時代に、《原爆の図》どのように読みなおしていけるのか。なかなかうまくは話せないかもしれませんが、そんなことを考えながら、トークに臨みたいと思っています。
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2018/8/17

【北海道出張A】秩父別・善性寺  調査・旅行・出張

北海道出張2日目は、N学芸員やギャラリー北のモンパルナスのSさんらとともに、赤松俊子(丸木俊)の生家である秩父別町・善性寺を10年ぶりに訪問。

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目的のひとつは、俊が10代の頃、東京の女子美術専門学校(現女子美術大学)に通うため、資金援助の意味を込めて郷里の人びとに依頼されて描いた絵画を撮影することでした。

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まずはベニヤ板に油彩で描かれた《赤松清潤の像》と《出淵虎治の像》。
どちらも親戚を描いた肖像画で、赤松清潤が着ているのは屯田兵の軍服とのこと。1930年(俊18歳)頃の制作と思われます。北海道の気候のせいか、保存状態は非常に良好でした。

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そして同じ頃に俊の父親を描いた《二世淳良法師の像》。この作品は以前にも見ていましたが、あらためて記録撮影。

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絵の中で着用されている極楽鳥文様の七条袈裟も現存するとのことで、俊の甥にあたる現住職が、わざわざ見せて下さいました。

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さらに、俊の母校である秩父別小学校に展示されていた《パラオ島》も、1年ほど前に善性寺へ戻っていました。
この油彩画は、俊が当時日本の統治下にあった「南洋群島」を訪れた1940年の作。
伝統的な集会所ア・バイに腰をかけてこちらを見ている二人の子どもの照れ笑いをしているような表情が印象的です。画家とモデルの親密な関係が伝わってきました。

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今回の善性寺訪問のもうひとつの目的は、日本画を専門とするN学芸員とともに、丸木位里の《龍虎之図》を調査することでした。

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この大作は、丸木夫妻が結婚の報告のために1941年末に秩父別を訪れた際に描かれ、翌1942年の第3回美術文化協会展に出品された記録が残っています。
その後、善性寺の本堂の襖絵として使われて、1992年に屏風に表装しなおされた際に、傷んでボロボロになった部分に新たに紙を貼り、位里自身が加筆したとのこと。

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加筆によって1941年の発表時からどの程度改変されたのかが気がかりだったのですが、今回あらためて調査して、主要な部分はほとんど変わってないことがわかりました。

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伝統を踏まえた図像でありながら、位里独特の絵画感覚が、虎の量感や龍と雲の構成の大らかさなどに散見されます。
彼の画業をたどる上で重要な意味を持つ作品であると再確認できたのは、大きな収穫でした。

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秩父別は見渡す限り広大な平野が広がるスケールの大きな土地。雨上がりの青い空には、「赤松の名にちなんだ」本堂の赤い屋根がよく映えていました。
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2018/8/16

【北海道出張@】札幌・ギャラリー北のモンパルナス  調査・旅行・出張

久しぶりの北海道出張。
雨のせいもありますが、気温は18度と、熱風の埼玉とは別の国のようです。

午前中に北海道立近代美術館と三岸好太郎美術館を観て、午後は広島の奥田元宋・小由女美術館のN学芸員とともに、札幌のギャラリー北のモンパルナスで丸木位里作品の調査を行いました。
きっかけは、今年7月に同ギャラリーで開催された「丸木位里展」の出品作に、1943年夏制作の水墨画《昇仙峡》が含まれていたことでした。

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現在、市場に出てくる丸木位里の作品は、もっぱら1970年代から80年代にかけての国内外の旅行の際に描いた風景画が中心。1940年代前半の水墨画が出てくるのは、たいへん珍しいです。

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1943年といえば、美術団体の統制が進められ、展覧会の開催が激減していった時期ですから、位里の《昇仙峡》は描かれはしたものの、発表されなかったかもしれません。

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位里は1939年頃から水墨の実験を繰り返しており、《昇仙峡》の画面に見られる細かい点描は、当時の彼の関心の方向性をよく伝えています。
地味な小品ではあるけれど、あまり活動の記録が残っていない時期の作例を伝える貴重な一点です。
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2018/8/13

徳応寺版《原爆の図》模写調査  調査・旅行・出張

愛知県岡崎市・徳応寺へ、《原爆の図》模写調査に行ってきました。
偶然にも近所で生まれ育ったという、大学の同期生で東京文化財研究所のK研究員に案内していただきました。

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名鉄・美合駅に近い浄土真宗のお寺の本堂には、子どもたちの手による13点の《原爆の図》が、毎年8月に、鎮魂と継承の思いを込めて15日まで公開されているそうです。
第1部《幽霊》、第2部《火》、第5部《少年少女》をもとにしながらも、「模写」を逸脱していくような絵の奔放さと迫力に、圧倒されました。

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寺に残る箱書きによれば、1956年5月、岡崎市立男川小学校の教師だった宇野房生(正一)が5年生に戦争の話をしたところ、「原爆はすごく景気が良い」との反応があり、戦慄した彼は翌日に《原爆の図》を見せたそうです。その結果、子どもたちの心に原爆の恐ろしさが沁み、模写の制作にとりかかったとのこと。

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当時の新聞記事には、30点ほどの模写を制作する構想だったと記されています。
部分描写で、絵によって拡大の比率が異なること、30点という作品数の多さから、この模写は青木文庫版『画集 原爆の図』(1952年発行、第1部〜第5部所収)の口絵をもとにしていると推測されます。

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画集はモノクロ写真でしたが、第2部《火》の炎は彩色されていて、1952年6月に愛知大学岡崎会の主催により「原爆の図展」が岡崎市のタカハシ百貨店(現岡崎信用金庫本町支店)で開催されたのを宇野が見ていた可能性があります。

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炎に包まれた赤ちゃんの模写が2枚描かれているのも気になりました。「終戦子」であった彼らにとって、生まれたばかりの赤ちゃんの像はとりわけ思い入れが強かったのかもしれません。
(2枚目の赤ちゃんの方には、「本作」にはない猫?の玩具が・・・)

もちろん丸木夫妻にも手紙で模写の許可を取ったそうで、俊は1985年7月25日の『中日新聞』で「そのころ、男川小学校の生徒の平和への意識の高さに感銘を受けた」と回想しています。

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子どもたちは、シジミを拾って売るなどして墨や紙などの画材を買い、6年生になっても模写を続け、映画「毎日国際ニュース」で取り上げられるなど次第に話題になっていったそうですが、やがて教育委員会から「思想的」との批判があり、制作は中断。焼却されるところを徳応寺の住職だった故・都路精哲が引き取り、軸装して木箱に入れ保管したおかげで、模写は残されることになりました。
そして1985年に約30年ぶりに公開され、以後、住職は代替わりしながらも、毎夏の公開を続けているとのことです。

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「描く」という身体的な体験で、非体験の「記憶」を継承する、貴重な1950年代の実践例。
今秋、広島市現代美術館では《原爆の図》の「本作」と作者の手による模写である「再制作版」が比較されますが、丸木美術館の方では、この機会に徳応寺版《原爆の図》をお借りして、「模写」の豊かな可能性を提示したいと思っています。
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2018/8/10

【福島出張】ギャラリー・オフグリッド「山内若菜展」など  調査・旅行・出張

午前中に丸木美術館で教員免許更新講習のための館内説明と討議を行い、超満席の東北新幹線で移動して、福島で「いのちと暮らし」に文化的に向き合う新しい連携プロジェクトの実行委員会に参加。
委員として何ができるかはまだわかりませんが、これまで試行錯誤してきたことの整理や、これからやっていくべきことを考える機会になり、点が線につながっていくような感覚を覚えはじめています。何より、福島とかかわり続ける場に誘って下さった福島県立博物館の皆さんに感謝です。

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会議の後は、ギャラリー・オフグリッドで開催中の山内若菜展「牧場 ペガサス―日食月食編―」へ。
3.11後の福島の状況に文化的な力で向き合うために、2015年12月に飯館電力株式会社の文化事業の一環としてはじまり、2017年3月からは一般財団法人ふくしま自然エネルギー基金の文化事業として運営されているギャラリー。今の福島にこうした場があることは、(決して多数の人に注目されないかもしれないけれど)重要な意味を持つと思います。
被曝した牛を飼い続ける牧場の絵を、当の福島で展示するのは、作者の山内若菜さんにとって大きな試練でしょう。それでも彼女は彼女らしく、いつもと変わらない全力注入の展示を作り上げていました。
8月25日(土)午後6時からは対談を予定しているので、絵に込められた彼女の強い思いを丁寧に聞きとっていきたいと考えています。

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折しも、ヤノベケンジさんの《サン・チャイルド》が福島市に寄贈されて、1週間ほど前に福島駅前の教育文化複合施設「こむこむ」に設置されたばかり。
これまでの経緯から、福島の「復興」の象徴になる現代アートがあるとすれば《サン・チャイルド》なのだろうと感じていたのですが、ネット上で批判されて作者が声明を出す状況になっているとのこと。
丸木美術館での展示をお願いしたことはありませんが、都立第五福竜丸展示館で《サン・チャイルド》が展示されたときには観に行ったので、少々複雑な心境です。
夜は行きがかりで、《サン・チャイルド》の設置にかかわった地元の方々のミーティングに参加。
作品そのものの抱える問題や感情的な意見が混在する複雑な状況なので、もっぱら皆さんの話を聞くばかりでしたが、事前に市民レベルで十分な議論がなされなかったことも一因であったのかもしれません。
福島の複雑さの一端を垣間見ると同時に、アートやモニュメントのもつ難しさ/暴力性を感じ、悶々としています。
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