2008/1/22

1950年代《原爆の図》川之江展の情報  1950年代原爆の図展調査

来館者の応対や展覧会の準備は比較的少ない冬場ですが、新しく出てきた資料の整理やデータ入力などで毎日それなりに仕事はあります。
今日は来年度に丸木スマ展を開催される予定の川口市アートギャラリーと埼玉県立近代美術館の担当の方に電話で連絡をとり、展覧会の会期や諸条件についての打ち合わせを行いました。

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先日発行した美術館ニュースで1950年代巡回展の情報を募集したところ、友の会維持会員のMさんから、「1950年代初頭に愛媛県宇摩郡川之江町(現四国中央市川之江町)で巡回展を観ました」とのご連絡を頂きました。
当時新制中学3年だったMさんの記憶によると、下校途中に路上の仮設会場で第1部《幽霊》をご覧になったとのこと。
「ただし、1点という印象ではなく、連続した墨一色のシーンとして記憶しています。仮設会場はテントだったのか、帆布かなにかを回廊のように張り巡らしたものだったか、とにかく白い布の壁をめぐらした通路にそって、片側の手で触れそうな距離に墨絵が続いていた印象です」と回想されています。

この川之江での展覧会については美術館にも符合する記録がなく、時期が特定できないのですが、Mさんは、「おそらく1950年の5−7月、もしくは秋頃」、「海岸沿いに予讃線沿線のめぼしい町を回ったのではないでしょうか」と推測されています。
小学4年生で東京から父母の郷里である川之江に疎開し、そのまま終戦を迎え中学3年まで残ったというMさん。
当時の川之江には「文化協会」といった組織もあり、「東京から名人といわれた桜間金太郎(弓川)師を招いて、女学校の仮設舞台で演能したり、町の劇場にさりげなく吉田文五郎の文楽が来たり」といった雰囲気だったそうです。
また、Mさんの中学1年の時の担任の先生は、広島出身でご両親を原爆で失い、2人の妹さんを引き取り、伝手を頼って川之江に来ていた方で、アララギの歌人でもあったので、《原爆の図》招致に関連があったかも知れないとのこと。

こうした周辺の記憶もたいへん興味深いです。
Mさんの当時の担任教師や同級生の方々は川之江に健在なので、また新たな情報を探して下さるというのが楽しみです。
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2008/1/18

17歳の池田満寿夫と《原爆の図》展  1950年代原爆の図展調査

池田満寿夫美術館の元館長さんから、《原爆の図》展を見た池田満寿夫の17歳のときの日記のコピーを送って頂きました。
この日記は2003年に池田満寿夫の遺族宅で発見された「芸術家として知られる以前の様子が分かる貴重な資料」とのことです。

1月12日の学芸員日誌にも記しましたが、今回発見された《原爆の図》巡回展の記録によって、池田満寿夫の見た展覧会は、1951年5月27日から31日まで長野市・城山公園大会場で開催されたものだということがわかっています。

以下はその日記の抜粋です。

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5月27日[日]来信―吉兼賢次
 遂に、あのことを母に打ち明けた。あまりに痛く、病状が悪化しても困るので、病院に行ってみる気になった。母も心配して直ぐ行くように言ってくれた。早速、行ったが、生憎、休みだった。で、展覧会を見に行くために城山まで行ってみたが、まだ準備中で見られなかった。それに、みんな野球を見に行くので、つい見る気になってグランドへ行った。本校は松商に勝って決勝を長姫とすることに決まった。今日の応援は上出来で、みんな亢奮し、熱中した。ブラス・バンドも大会の気分を出すのに充分なほど上手くいった。応援席を開けてもらうのに、応援団にいくら頼んでも聞いてくれないが、悠然と座っている大人が随分いた。中には反って文句を言い、他の者の非難を蒙った者もいたが、やはり退いてくれなかった。こんな時は実に不愉快で腹が立つ。
自分は、どうしても彼女を忘れることが出来ない。いくら冷静を保とうと心掛けても、彼女を見ると、異様に胸が踊ってくる。そして、自分自身、諦めることが不可能であるということを知り過ぎるくらいに解っている。一体、彼女のどこがそんなに良いのだ。そして何故、彼女でなければならないのか。彼女の方では自分など眼中にないのに。自分だけが亢奮し、やきもきしている。自分は本当に冷静になって心を落ち着けて考えることが出来ない。彼女の前で、わざと他の店員から本を買った。自分の方をちょっと見て強い目つきをみせたが、好い気味だと思った。勿論、内心は逆だが。
《原爆の図》は野球の帰りに見た。黒白で描かれたもので、日本画か洋画か、ちょっとまごついた。が、何しろ大作で、特に百枚ものデッサンには感服した。幽霊・火・水の三部作からなり、その意図するものは戦争への激しい反抗であり、人間のおののき、叫ぶ赤裸々な姿である。

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個人的には、「日本画か洋画か、ちょっとまごついた」という箇所が興味を惹きました。
《原爆の図》は水墨画家の丸木位里と油彩画家の赤松俊子(丸木俊)の共同制作。特に第2部《火》では、西洋的なリアルな人物像と東洋的な様式化された炎の描写が溶けあい、不思議な効果を発揮しています。
昨年5月の講演で神奈川県立近代美術館の水沢勉さんが話されていた、「西洋の前衛表現の要素と日本の伝統が融合した1930年代後半の到達点から、戦争をくぐり抜けて《原爆の図》という従来の日本画と洋画という区分けがほとんど意味を成さない、新しい表現が生まれてきた」という言葉も想起します。
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2008/1/12

《原爆の図》展―1951年の軌跡  1950年代原爆の図展調査

引き続き新発見資料による1951年の巡回展について気づいた点を記します。

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大阪市大劇地下劇場展(1951.1.27-2.28)
「大劇」とは大阪市南区(現・中央区)千日前にあった大阪劇場(1967年廃座)の通称。
この展覧会のことは初めて知りました。1ヵ月という会期の長さは当時としては異例で、そのため、後に《原爆の図》三部作の模写作成の必要が生じてきます。

日本橋三越「選抜秀作美術展」(1951.1.20-31)
朝日新聞社主催の選抜秀作美術展は、国内で開催された各種美術団体展、個展、グループ展の出品作から、「優秀作と認められるものまたは構想、技法に何かしら新境地を開拓しようと試みたと認められる作品」を、作家、鑑賞家、批評家などから推薦を受け、朝日新聞社内に設けた選定委員会で選抜した「年度美術界の鳥瞰とも思われる」展覧会。(1950年3月『第1回選抜秀作美術展覧会図録』より)
「あまりに画面が大きいため陳列できず」とのこと、実際に展示されなかった事実は初めて知りました。

前橋市麻屋デパート展(1951.2.14-18)
麻屋は1934年創業の前橋初の本格的百貨店。現在は国登録有形文化財になっています。
この展覧会の情報でもっとも注目するのは、《原爆の図》三部作が大阪劇場に出品中であるため、「三部作の模写を完成して陳列」したという記述があることです。
現在、この模写作品は広島市現代美術館に所蔵されています。どのような経緯でいつ頃描かれたのかについては、これまで不明とされていましたが、今回の新資料で明らかになりました。この模写は丸木夫妻自身の手によるものではなく、アトリエに出入りしていた若い画家たちによって制作されたとの説もあります。
この前橋展は(模写の展示であるにもかかわらず)、新資料によるとかなりの盛り上がりを見せたようですので、いずれ群馬の地元紙を中心に当時の記録を調べてみたいと思いました。

桐生市モリマサ百貨店展(1951.2.22-25)
前橋、桐生ともに展覧会の存在を初めて知りました。模写をはじめ前橋展のために準備した展示物が桐生に巡回したものと思われます。

横須賀市民会館別館展(1951.3.27-31)
鎌倉市由比ヶ浜青年会館展(1951.4.5-7)

どちらの展覧会も存在を初めて知りました。
当時、藤沢市片瀬に居住していた丸木夫妻にとっては地元開催となる展覧会で、どちらも日本美術会神奈川支部が関わっています。
興味深いのは鎌倉展の賛同発起人で、大佛次郎(小説家)、小牧近江(翻訳家)、川端康成(小説家)、田辺至(画家)、吉野秀雄(歌人)ら多彩な顔ぶれが名を連ねています。久留米展の際の坂本繁二郎とともに、この時期の《原爆の図》展に、多くの芸術家・文化人が関わっていたことがわかります。
ヨシダ・ヨシエは、「当時稲村ヶ崎に住んでいた仏文学者の小牧近江に紹介されて」丸木夫妻のアトリエに出入りするようになったと回想しています。

仙台市マルエス・ストア展(1951.4.16-18)
俊は1951年4月16日の日付入りで展覧会のスケッチを残しています。

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山形市美術ホール展(1951.4.22-24)
秋田市教育会館展(1951.4.27-29)

どちらも初めて存在を知った展覧会です。
山形新聞に農民運動家・詩人の真壁仁による批評記事が掲載されたというのが興味深いところで、いずれ調査をしたいと思っています。

大阪市生野町大瀬天理教会展(1951.5.8)
大阪市生野町御幸森朝鮮小学校展(1951.5.9)
大阪市生野町田島朝鮮小学校展(1951.5.10)

この生野の《原爆の図》展では、小沢節子著『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(2002年岩波書店)で詳しく言及されている「焼け死んだややこ」のエピソードが生まれました。このエピソードは俊にとって、繰り返し回想するほど印象に残るものとなりました。
「大阪の生野で原爆展を開いた時の話です。(中略)さっきからその絵の前にしゃがみこんでじっと動かない、二人の子供づれの中年の婦人がありました。見れば彼女はそっと手をのばして、画面の赤ん坊をなでさすっているのです。そして、子供たちにささやくように言っておりました。『このヤヤコが死んだんやぜ、このヤヤコが死んだんやぜ』と。二人の子供はびっくりしたような顔でじっと火につつまれた赤ん坊を見つめていました。私は、この親子達の絵の見方といって何一つ知らない、しかし、それだけに素朴な態度に、力強い感動を受けました」(1952年10月『新世界』より)
「『このややこ(赤ん坊)が焼けて死んだんやで』大阪の天理教の御堂に陳列した原爆之図、二部の火の中の赤ん坊をおばさんはなでながら子供に話して聞かせています。『あ、絵にさわらないで』と、口から出そうになる言葉を抑えて、わたしは、その素直・素朴な鑑賞の態度に胸を打たれました。」(1952年12月『美術批評』より)
このエピソードの意味するところについては、小沢前掲書pp.166-171をお読みいただくとして、この展覧会がいつ、どこで行われた展覧会だったのかという疑問が、新資料によって決着したようです。
「大阪の生野」の「天理教の御堂」で開催された展覧会ですので、5月8日に開催された大瀬天理教会での展覧会と考えるのが妥当でしょう。
また、俊は1951年5月9日の日付入りで展覧会のスケッチを残していますが、こちらも会場が御幸森朝鮮小学校と判明しました。

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大阪市天王寺駅展(1951.5.11-13)
奈良市椿井町社会館展(1951.5.15-17)

これらの展覧会も初めて知りました。
主催はどちらも国鉄労組(南近畿地方本部と奈良支部)。天王寺駅は阪和線2階が会場になったというので、どういう構造の駅なのか気になります。

松本市第一公民館展(1951.5.20-25)
長野市城山公園大会場(1951.5.27-31)

近畿地方から長野に移動して2会場で展覧会を開催。
以前に池田満寿夫美術館の元館長さんから、当時17歳で長野高校に通っていた池田満寿夫が1951年5月27日に長野市内で《原爆の図》展を観て大変感動したと日記帳(未刊行)に記しているとご教示いただきましたが、その展覧会の会期と会場が今回の新資料で判明しています。

弘前市かくはデパート展(1951.6.16-18)
□(四角)の内側にひらがなの「は」と表記される弘前市の「かくはデパート」(1923年に東北地方初めてのデパートとして開業した「かくは宮川」デパート、現在は閉店)で行われた展覧会。
俊は1951年6月16日の日付入りで展覧会の会場スケッチを残しています。

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盛岡市川徳デパート画廊展(1951.6.20-22)
福島市福ビル展(1951.6.24-26)

これらの展覧会の存在は知っていましたが、会期・会場は初めて特定されました。
4月に宮城、秋田、山形を巡回しているので、青森、岩手、福島とこの年に東北地方全県を巡ったことになります。

京都丸物百貨店「総合原爆展」(1951.7.14-24)
会場となった丸物百貨店は1920年創業の老舗店で、その後京都近鉄百貨店となりました(現在は閉鎖)。
原爆の図第4部《虹》、第5部《少年少女》が初公開され、新資料に「最も完成された総合展」と記されているように、医学、物理、化学、政治、経済の各部門からの展示が充実し、その後の展覧会の基礎となった重要な展覧会であったようです。10日間の会期で入場者はおよそ3万人。
当時展覧会を手伝った方の証言によると、丸木夫妻は智積院に宿泊していたそうです。

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以上、ざっと気づいた点を書き記しましたが、個々の展覧会については、これからもう少し資料を探して深く掘り下げてみたいと思っています。
それにしても、「京都展までの展覧会総日数158日 総入場者約50万人」・・・一日平均3,000人強とは想像を絶する数字です。
巡回展の足跡をたどりながら当時の熱気を追体験し、《原爆の図》の受容に新たな展開を見つけ出していきたいものですね。
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2008/1/11

《原爆の図》展―1950年の軌跡  1950年代原爆の図展調査

昨日発見した「原爆の図三部作展覧会記録」について。

昨日も記しましたが、これほど詳細な《原爆の図》巡回展の資料は、今までに例がありません。
いつ頃、何のためにまとめられたのかが気になるところです。
ひとつの可能性として考えられるのは、1952年1月に平和擁護日本委員会代表の大山郁夫が、パリにおける世界平和文化賞審査委員会委員長ピエトロ・ネンニに宛てた「世界平和文化賞出品《原爆の図》推薦の言葉」のために、記録をまとめたのではないか、ということです。
『画集普及版 原爆の図』(1952年4月青木文庫)に収められた大山の文章には、1950年2月から1951年11月までの期間に行われた展覧会の回数や日数、入場者数などが具体的に記されています。この文章が、現在判明している限りではもっとも古い《原爆の図》巡回展の記録なのです。

それでは、以下に順を追って気づいたことを記していきます。

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東京上野美術館 日本アンデパンダン展(1950.2.8-17)
新資料には「1950年2月8日から18日まで」とありますが、日本美術会の記録によると2月17日まで。原爆の図第1部《幽霊》が《八月六日》の題で発表された展覧会です。日本美術会機関紙『BBBB』などに詳しい記事が出ています。1950年2月24日の『婦人民主新聞』には、初めて《原爆の図》という題で作品が紹介されました。

東京丸善画廊「原爆之図展」(1950.3.21-24)
新資料には記されていませんが、第1部《幽霊》のほかに未完成作《夜》も発表。主催の桃季会は日本美術会のグループのようです。6名の発起人については初めて知りました。

東京渋谷東横デパート「水爆原爆展」(1950.7.末)
この展覧会に出品されていたことは初めて知りました。

東京丸善画廊「原爆之図三部作完成展覧会」(1950.8.7-13)
東京銀座三越「原爆之図三部作完成展覧会」(1950.8.15-20)

従来の資料では会場が併記され会期も8月7日から20日までとされていたが、新資料で7日から13日までが丸善画廊、15日から20日までが銀座三越と判明。
俊は画文集『ちび筆』(1954年室町書房)で、三部作完成展を8月6日に三越本店で開催したいと考えて新聞社から紹介状をもらったが、“原爆”と聞いて三越側が慌てて断ったため、丸善画廊と二股で交渉しながら今度は銀座三越へ何度も足を運んで実現にこぎつけたと回想しています。
絵本『ピカドン』の原画が出品されていたことや、主催が「平和を守る会」、後援が「ポツダム書店」(絵本『ピカドン』の発行元)だったことは初めて知りました。三部作完成と同時に絵本『ピカドン』出版記念の意味があったのでしょう。

東京日本交通協会「原爆之図三部作完成記念会」(1950.8.18)
丸木夫妻が後に、「鉄道会館」で記念集会が開催されて《原爆の図》全国巡回の決議がなされたと回想している(『日中』1975年11月号)集会。1950年8月26日の『婦人民主新聞』に詳細が報じられています。

広島県山県郡加計町「原爆之図三部作表装完成展覧会」(1950.9.26)
巡回展のため位里の弟の宜三に頼んで軸物に仕立て直したところ、絵の噂が町じゅうに広がって寺のお堂で完成披露を行ったと、画文集『ちび筆』に回想されている展覧会。
新資料によって会期が特定されました。

広島市爆心地文化会館展(1950.10.5-9)
この展覧会を手伝った「われらの詩の会」は峠三吉を代表とする青年詩人集団。
展覧会前日に五流荘で丸木夫妻と壺井繁治の座談会が行われ、その様子は『われらの詩』第10号(1950年12月号)に掲載されました。
後年の資料では会場が「五流荘ホール」であったり、会期が10月9日から16日であったりするものもありますが、1950年10月21日の『婦人民主新聞』には、10月5日から9日まで「爆心地の原爆会館」で開催されたと報じられており、新資料の記録を裏付けています。

九州志免炭坑展(1950.10.19)
八幡市大谷会館展(1950.10.21-24)
福岡市新天会館展(1950.10.25-27)
久留米市金文堂展(1950.10.28-30)

従来の資料では、丸木夫妻も同行した《原爆の図》展が九州から山陰地方にかけて行われたとされていましたが、具体的な会場と日程は初めて知りました。
主催・後援団体を見ると労働組合(国鉄労組、八幡製鉄労組)が目につきます。この頃から組合系の団体が主導して全国巡回展が組織されたと考えていいのでしょうか。
久留米展のところで坂本繁二郎の名が登場(坂本繁二郎を訪問し原爆使用禁止署名の賛同を得て家族一同署名、とあります)したのは意外でした。故郷の久留米で俗世間を離れて静謐な絵を描き続けた画家との印象があったためです。

松江市公会堂展(1950.11.12-15)
後にヨシダ・ヨシエとともに《原爆の図》巡回展の担い手となる野々下徹(当時松江の中学校の美術教師)が、この展覧会を見たのを機に上京し、丸木夫妻のもとで居候をしながら絵の勉強をすることになったと回想する展覧会。
1994年7月の『丸木美術館ニュース』第50号には、「先生たちとの出会いは、島根県松江市の原爆の展覧会会場でお会いしたんですよ。市の公会堂でしたね。先生たちのデッサンをずーっと見てね、それから、《原爆の図》を見て、ああこれはただごとではないわ、こんな所でまごまごしていると何も出来ないなあ、と思ってね、一つ刺激をあたえられたんですね。私はもっぱら油絵というかデッサンの方に固執していました。俊さんが、私の24、5歳の肖像をコンテで描いて下さったのは、今も大事にしています」という野々下の回想が紹介されています。

米子市明道校講堂展(1950.11.18-20)
野々下徹とともに翌年から丸木夫妻のアトリエに居候をした画家の吉留要(当時米子市の中学校の美術教師)が1997年8月24日の公開講座で《原爆の図》を見たと回想した展覧会です。
回想によると、吉留と親しい画家仲間の野々下と大森が米子展の手伝いをして、「まだ見てないのか、早く見に行け!」とはっぱをかけられて会場になっていた小学校の講堂に行ったそうです。
「終戦後いくらも経っていない頃で壁はよごれ、窓ガラスはこわれ、床はざらざらで裸電球がぶら下がったうす暗い会場でした。そしてあの大画面に囲まれていると文字通り息を呑むような異様な緊張を強いられ、見るというより、何ていうんでしょうね、得体の知れない力に捉えられているという感じだったことをはっきりと覚えています。そしてその感覚は――つまり《原爆の図》はいまも私の中にしっかりと存在しているといっていいと思います」(『丸木美術館ブックレット2 「原爆の図」を論ず』より)

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また長くなりましたので、1951年の巡回展については後日記します。
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2008/1/10

「原爆の図三部作展覧会記録」を発掘  1950年代原爆の図展調査

先日発送した丸木美術館ニュース第92号の紙上で「1950年代《原爆の図》巡回展の資料を探しています!」と呼びかけたばかりですが、今日、小高文庫の洋間を片づけていたら、今まで見たことのない桐の箱を発掘しました。
開けてみると、昔の展覧会の案内状などといっしょに、茶色に変色した一枚の紙が・・・
ガリ版で印刷された「原爆の図三部作展覧会記録」という資料でした。
欄外には俊さんが手書きで以下のように記しています。
「これは1950年−51年までの間の展覧会の記録です。その後のものはまだ、まとまっていませんので資料をバラバラのままお送り致しました。」

1950年代の《原爆の図》巡回展の資料はほとんど残っていないと言われ、その全体像は謎に包まれていました。
しかし、今回発掘した資料は、それぞれの展覧会の内容が克明に記録されており、かなり早い時期に整理されたものと推測されます。
いつ、どのような目的でまとめられたのかは不明ですが、初期《原爆の図》巡回展の研究には大いに役立つ資料です。

これまでに刊行された画集や関連書籍には記されていない事項も数多く掲載されている貴重な記録ですので、少々長くなりますが全文書き写すことにしました。

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原爆の図三部作展覧会記録

東京上野美術館 日本アンデパンダン展に1部作“幽霊”を出品、当時は“八月六日”と題す。
1950年2月8日から18日まで
主催 日本美術会


東京丸善画廊“原爆之図展”
1部作“幽霊”デッサン100点出品
1950年3月21日から24日まで
主催 桃季会
発起人 村雲大撲子、内田巌、後藤貞二、別府貫一郎、椎名剛美、水沢澄夫


東京渋谷東横デパート“水爆原爆展”に1部作“幽霊”デッサン20点出品
1950年7月末10日間
主催 東横デパートに於ける展覧会に特別出品として展観


東京丸善画廊“原爆之図三部作完成展覧会”
1部作“幽霊”2部作“火”3部作“水”デッサン100点出品 ピカドン絵物語64枚出品
1950年8月7日から13日まで
主催 平和を守る会
後援 ポツダム書店


東京銀座三越“原爆之図三部作完成展覧会”
1部作“幽霊”2部作“火”3部作“水”デッサン250点出品
1950年8月15日から20日まで
主催 平和を守る会
後援 ポツダム書店


東京東日本交通協会に於て“原爆之図三部作完成記念会”
1950年8月18日
主催 平和を守る会、日本美術会、婦人民主クラブ、日本戦没学生記念会
講師 淡徳三郎、大田洋子、武谷三男、内田巌、八田元夫、丸木赤松


広島県山県郡加計町“原爆之図三部作表装完成展覧会”
かけ張りからはずして三尺に六尺の軸物とし24本の軸物完成
1950年9月26日
主催 加計町美術同好会
後援 中国新聞社加計支局


広島市爆心地文化会館
1950年10月5日から9日まで
主催・広島美術観賞会
われ等の詩の会同人の原爆の詩を展覧し、会場に於いて朗読会を催す
五流荘に於いて座談会


九州志免炭坑
1950年10月19日
主催 国鉄労働組合志免支部、青年婦人部平和実行委員会
後援 国鉄労働組合志免支部文化部美術サークル、旭映画劇場
座談会1回


八幡市大谷会館
1950年10月21日から24日
主催 八幡製鉄文化サークル協議会
後援 八幡製鉄労働組合
座談会 朝日新聞西日本労組が主催して小倉にて座談会 会場其他にて3回


福岡市新天会館
1950年10月25日から27日まで
主催 丸木位里、赤松俊子後援会
後援 新天町商店会、西日本新聞
座談会 職場美術協議会主催、婦人民主クラブ福岡支部主催


久留米市金文堂3階
1950年10月28日から30日まで
主催 丸木赤松後援会
後援 久留米美術鑑賞会
座談会 2回
久留米市平和問題懇談会へ出席
坂本繁次郎氏を訪問 原爆使用禁止署名の賛同を得家族一同署名


松江市公会堂
1950年11月12日から15日まで
芸術祭特別参加
主催 日本美術会山陰支部
島根新聞社夕刊山陰両社は前後3回にわたって写真入りの大報道し積極的な好意ある協力をした


米子市明道校講堂
1950年11月18日から20日まで
主催 米子市、米子市文化協議会、自由大学米子教室
後援 西部労協、米子美術家協会、日農西部地区連、高中小各教組
18日明道校に於いて講演と座談会
米子市長野坂寛治氏は推薦状を各方面へ発送した


大阪市大劇地下
1951年1月27日から2月28日までの1ヵ月間
主催 婦人新聞社、関西主婦連合会
後援 大阪府、広島市
吹田にて講演会を開催、座談会2回


選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)に原爆之図三部作選抜される
1951年1月20日から31日まで日本橋三越にて開催、あまり画面が大きいため陳列出来ず、そのむね会場へ展示した。


前橋市麻屋デパート
1951年2月14日から18日まで1部作2部作3部作ならびにデッサン100点は大阪大劇地下劇場へ出品中であるため、3部作の模写を完成して陳列。デッサンは未発表のものを出品した。
主催 群馬美術鑑賞会
賛同発起人 市川為雄(評論家)関口志行(市長俳人)等46人の推薦を得て開催。
群馬県教育長小畠軍造の推薦挨拶状を得て各学校長に発送。各高・中・小学校(4年以上)団体にて参観、前橋市民の4分の1入場
講演会 前橋公会堂に於て
座談会 3回


桐生市モリマサ百貨店
1951年2月22日から25日まで
主催 群馬美術鑑賞会
賛同発起人 前橋と同じ
飾りつけを終えて一日滞在し大阪会場のあとかたづけに行く。


横須賀市市民会館別館
1951年3月27日から31日まで
主催 三浦文化協会
後援 日本美術協会神奈川県支部
賛助員 菊池田次氏はじめ藤森成吉氏市会議員県会議員等11名を得て開催
座談会 市民会館別館に於て


鎌倉市由比ヶ浜青年会館
1951年4月5日から7日まで
主催 日本美術会神奈川支部
後援 丸木位里、赤松俊子後援会
賛同発起人 大仏次郎、小牧近江、畑中政春、川端康成、田辺至、吉野秀雄、中村塚二、婦人民主クラブ鎌倉支部、青婦人連絡協議会、文学会カマクラ


仙台市マルエス・ストア
1951年4月16日から18日まで
主催 宮城県労組職場懇談会、宮城県青婦人協議会


山形市美術ホール
1951年4月22日から24日まで
主催 山形市美術ホール
山形県文教課、山形県教育組合の全面的な支持を得て開催
山形新聞夕刊山形は連続写真入りで大きく報道する。真壁仁氏の批評掲載
座談会各方面の人々と懇談。
地方青年団体で参観 かけつけた時は25日であった。


秋田市教育会館
1951年4月27日から29日まで
主催 黎明洞洋画研究会
後援 秋田県綜合美術職盟、秋田営林局美術サークル、北日本美術院
座談会 地方文化人連絡より参集


大阪生野町大瀬天理教会
1951年5月8日
主催 平和を守る会生野支部
特に婦人宣伝隊の活動がめざましい
座談会 会場に於いて


大阪市生野町御幸森朝鮮小学校
1951年5月9日
主催 平和を守る会生野支部
朝鮮の青年と少女の活動、それと日本の中年婦人の活動
講演会 会場に於いて


大阪市生野町田島朝鮮小学校
1951年5月10日
主催 平和を守る会生野支部
朝飾りつけて夜とりかたづけ朝飾りつけて夜はずすという非常に困難な展覧会であったがそれぞれに成果をあげつつ会場を異動し田島小学校へは見落していたという人々がかけつけ夜おそくまで観覧者が続いた。


大阪市天王寺駅阪和線2階
1951年5月11日から13日まで
主催 天王寺鉄道管理局、国鉄労組南近畿地方本部
委員長三好氏は連日作品の解説にあたり書記長も世話役となって活動
座談会 会場に於いて行う


奈良市椿井町社会館
1951年5月15日から17日まで
主催 国鉄労組奈良支部
後援 奈良日日新聞社
奈良日日は紙面をさいて原爆展を支持
天王寺から文化部員が出張して活動、奈良支部長も連日活動した。


松本市第一公民館
1951年5月20日から25日まで
主催 ロゼ
後援 松本市
講演会 松本大学寮に於いて


長野市城山公園大会場
1951年5月27日から31日まで
主催 世界連邦建設同盟長野支部
後援 長野市、北信美術会
座談会 ふじやに於いて医師、画家、其他文化人多数参集
町内婦人会団体で参観した。この事は長野としては珍しい事だと主催者が語っていた。


弘前市[は]デパート5階
1951年6月16日から18日まで
主催 弘前市婦人会、エレガンス美術学院、ルンビニ学苑
後援 弘前市、弘前市医師会、民主主義科学者協会、津軽文化協会、国立弘前病院患者自治会、東奥日報社弘前支社、陸奥新報社、弘前新聞社
弘大の学生が主になって活躍
黒石町婦人会主催の座談会に出席 小原爆展を開く
大鰐町にて座談会をひらく、学校の先生方集る
デッサン写真を展観
エレガンス美術学院に於いて講演会開催
座談会2回


盛岡市川徳デパート画廊
1951年6月20日から22日まで
主催 日本美術会岩手支部
後援 岩手県教育委員会
講演会 中学校講堂にて
座談会 高中小学校の先生方参集
記念祝賀会 文化人、盛岡美術学校校長、世話人等参集
座談会 青年画家参集


福島市・福ビル3階ホール
1951年6月24日から26日まで
共同主催 福島県教員組合、福島市役所職員労働組合、福島県職員労働組合本庁支部、福島市婦人団体協議会、彩心会
後援 福島市、福島民報社、福島民友社、福島時事新聞社、国鉄労組福島支部、福島映画サークル協議会
座談会 5回


京都丸物百貨店5階
1951年7月14日より24日まで
主催 京都大学同学会
後援 京都府、京都市、全官公、京教組、民科、宗教人懇談会、広島・長崎県人会(同大)
1部作“幽霊”2部作“火”3部作“水”4部作“虹”5部作“少年少女”デッサン50点、ピカドン絵物語64枚出品
京都同学会製作のパノラマ、医学部門、物理、化学、政治、経済の原爆に関する展示150点
長崎、広島の被害物陳列、文学作品の展示など、原爆展の綜合的な形体がここに初めて完成。
200名の学生が連日活動に当り会場では一せいに各部門の説明に入り、街々で十数ヶ所のスチール展を行い、市民、学生、婦人、労組など綜合され組織された有機的な活動の中に開催された点でも最も完成された綜合展といえる。
座談会 4回
青年学生平和問題懇談会に出席
京都展までの展覧会総日数158日、総入場者約50万人


東京丸善画廊
1951年8月6日から11日まで
4部作“虹”5部作“少年少女”出品
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