2010/6/9

『遥かなる屯田兵 もう一つの北海道民衆史』  1950年代原爆の図展調査

この頃のハードスケジュールがたたったのか、昨日は突然熱が出て寝込んでしまいました。
そのおかげで、ネットで購入したばかりの書籍『遥かなる屯田兵 もう一つの北海道民衆史』(1992年、高文研)をじっくり読むことができました。

著者の金倉義慧(かなくら・ぎけい)氏は、『画家 大月源二 ―あるプロレタリア画家の生涯―』(2000年、創風社)の著作で名前を知っていましたが、実は丸木俊さんと同じ北海道の秩父別の出身。しかも、俊さんの著作『ちび筆』(1954年、室町書房)や『幽霊』(1972年、朝日新聞社)に登場する、原爆の図秩父別展に尽力した町内の“高徳寺の住職”(『ちび筆』には“東の寺の住職金倉さん”と名前が出ています)の息子さんだったのです。

『遥かなる屯田兵』の序章には、「秩父別と『原爆の図』」と題して、1951年11月10日から12日に行われた秩父別原爆の図展の様子が、著者の回想と俊さんの文章の引用によって描かれています。
その回想からは、当時の原爆の図展が、いかに大きな出来事だったのか、金倉氏というひとりの少年に、人生を変えてしまうほどの衝撃を与えたのかが、感動的に伝わってきます。
以下に、金倉氏の文章の一部を引用します。

 もう五十年近くも前のことになる。私がまだ小学生の頃のことだった。寺の住職であった父は法要や布教で出かけるごとに、よく私に童話や絵本を買ってきてくれたが、それが楽しみで私は一キロほどある駅まで父を出迎えにいったものだった。
 そんな父が、ある日私に買ってきてくれた童話の絵本の表紙に、あかまつ・としこ絵、とあった。
 そして、そのときに限って、その絵本を開いてみせながらにこにこ顔で父の解説が入った。
 これは、ほら、一丁目の善性寺さんの、あの赤松さんの人で、函館の叔母さんと同級生だ、旭川の女学校を出てから東京の絵の学校に行って、それから外国にも絵の勉強に行って、こんな絵本を描くまでになったんだ――そう父は得意げに教えてくれた。
 それが、子どもの私にも印象深かったのであろう、今になってもおぼろながらそう話す父の姿や口調までも思い浮かべることができる。
 その後も何度か、父が赤松俊子さんの絵本を買ってきてくれたように記憶しているのだが、絵本を描くような偉い人があの善性寺さんの人なのかと、どことなくエキゾチックな表情の絵のなかの少女の印象とともに、赤松俊子さんの名は、私の胸の中に棲みついた。
 かつては赤松俊子さんであり、今では丸木俊さんであるその人は、父にとってはもっとも身近な有名人であった。父の部屋には「俊子さん」の絵があったし、何冊かの丸木俊さんの本も居間の書棚に大事に飾られていた。父にとって秩父別出身の、しかも同じお寺生まれの丸木俊さんは大きな誇りでもあったのである。


(略)

 生前、私の父が「生涯で自分をかけたことが三度ある、一度目は郷里の詩人、吉田迪男の詩歌集をガリ版刷りで出したとき、二度目は丸木俊さんの『原爆の図』のとき、そして三度目は学力テスト問題のときだ」と話していたことがあった。
 父にとって、丸木俊さんはいつまでたっても赤松俊子さんであったが、さすがにこのときはそうした素朴な感情を越えていたようだった。しかし、怒りをぶつけるにしてもどこにそれを持っていけばいいのか、それすらわからない、ほんとうに突然の、でありながらウムを言わせない中止指令であった。
 たしか、そのとき父は村長をはじめ村の主だったところからほとんど寄付を集めてきていたように思う。


(略)

 私はこの「原爆の図」展のとき三度、善性寺に通った。実際に自分の目で見ての衝撃の大きさからであった。とくに「少年少女」になってくると、絵巻を前にしてからだのなかから何かが湧き立ってきて、もうからだ全体がどうしようもなく金しばりにあってしまった。
 だから、もう一度行った。今度はすこし冷静に見ることができた。最後は「原爆の死者追悼法要」であった。父に気づかれないように寺に入り、終わるとそっと寺を出た。
 平和を守る、ということが、私にとって終生の生き方にまでなるほどの衝撃、決定的といえる影響を与えたのは、このときの「原爆の図」展であった。父は恐らく、そのことには気づいていなかったであろう。しかし若さもあって私が、自分の生を、日本の歴史にかかわって生きていきたいと思うようになったのはこの時点からであった。


   *   *   *

金倉氏の著作『遥かなる屯田兵』は、秩父別をはじめとする屯田兵村の歩みが非常によくわかる興味深い一冊です。屯田兵とアイヌ民族の問題や、日露戦争との関わり、開拓から水田立村への転換などの歴史が、丁寧に検証されています。
次号の『丸木美術館ニュース』(7月発行)に執筆する「丸木位里・丸木俊の時代」の俊さんの少女時代、そして背景としての秩父別の描写に、大いに参考にさせてもらおうと思っています。
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2010/5/28

【岡山出張1日目】吉崎二郎さん聞き取り調査  1950年代原爆の図展調査

今日は出張で岡山に来ています。
午前中は岡山市立オリエント美術館と岡山県立美術館、竹久夢二郷土美術館を鑑賞。
竹久夢二郷土美術館へ行く途中では、岡山出身の画家・国吉康雄(1889-1953)の生家跡の記念碑を見つけました。

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   *   *   *

午後には岡山駅前で、1951年から52年にかけての原爆の図北海道巡回展を担った吉崎二郎さんと待ち合わせ、当時の聞き取り調査を行いました。

吉崎二郎さんは現在83歳、北海道の深川市出身。兄君は日本美術会や主体美術で活躍した画家の與志崎朗(よしざき・ろう)さんです。そのため、この日誌にも今まで二郎さんのことを「與志崎」二郎さんと紹介していましたが、本名は「吉崎」で、兄君は筆名として「與志崎」を名乗っていたとのこと。以後は「吉崎」二郎さんと記すことにします。

吉崎さんはもともと国鉄職員でしたが、レッドパージにより職を追われ、当時は平和委員会に所属して平和運動に関わっていました。
原爆の図北海道巡回展は、北大文化団体連合会と平和委員会が集まって計画したそうです。北海道から丸木夫妻に「原爆展」開催を申し入れ、その年の夏に開催された京都の「綜合原爆展」を模して、北大の学生が模型や解説パネルを制作。
当初は動員を期待できる大都市のみで開催しようという計画で、〈第一次〉では室蘭、旭川、札幌、函館という街が舞台になりましたが、札幌での開催の後、《原爆の図》以外のパネルを学園祭に展示した際に、「この展示を全道に巡回させよう」と学生たちが盛り上がり、年明けから再び《原爆の図》を借りて学生たちの手によって〈第二次〉がはじまったそうです。
そうした経緯から、吉崎さんは〈第一次〉から丸木夫妻について巡回展に帯同。〈第二次〉では丸木夫妻のもとから派遣された画家の濱田善秀とともに北大の学生を引率し、《原爆の図》を管理する立場になったようです。つまり、〈第1期〉〈第2期〉を通じて、北海道の巡回展すべてに帯同した唯一の人物というわけです。

3時間に及んだ聞き取り調査は非常に興味深いものでしたが、内容が多岐にわたるため、以下に箇条書きで印象に残った箇所を書き出します。

・室蘭では被爆者の女性が絵をじっと見て、「こんなもんではなかったが、現実と同じところもある」と絵の前で皆に話をしてくれた。それから、解説が必要だろうということになったので、“絵解き”は室蘭からはじまったのではないか。賽銭箱を置いて、運営の足しにしたらいいというアイディアもこのときにはじまった。その後の巡回展では、学生が解説を担当した。

・室蘭展の際に、位里が「どうしても登別温泉に行きたいので、展覧会を頼む」と言って1日休んだことがあった。そのとき無事に展覧会を取り仕切ることができたので、丸木夫妻は〈第2期〉巡回を吉崎さんに頼んだのではないか。

・秩父別へ向かう際、深川駅で汽車を待つ間に、吉崎家と関わりの深い医者/画家の鬼川俊蔵の家へ丸木夫妻を案内した。その際、位里が硯を使わず、アルマイトの弁当箱の蓋で墨をするのを見た鬼川氏が驚くと、位里は「硯はどうでも関係ない。大事なのは墨なんだ。アルマイトは持ち運ぶのに軽くて硬いから良いんだ」と言った。《原爆の図》を携帯しやすいように軸装にしたことと合わせて、合理的な考え方の人だと印象に残った。

・札幌展の際に逮捕された関係者は、吉崎さんの知人。彼が逮捕されたため、その後の原爆展は吉崎さんが1人で担当することになった。

・函館の展覧会は冬休み前で時期が良かったため、北大生が多数手伝いに来てくれた。会場の棒二森屋デパートは大盛況となり、後に丸木夫妻のところにデパートから御礼のカズノコとシャケが送られてきたという。

・〈第1期〉のときは濱田善秀は来ていない。〈第2期〉のときに絵を持ってきた。無愛想な人で、位里からは「偏屈で苦労するかもしれないがよろしく頼む」と言われた。

・濱田善秀はその後、北海道で妻をもらい、定住することになった。大月源次らの北海道生活派美術集団にも参加し、北海道と中央の美術会をつなぐ役割を果たした。

・〈第2次〉の最初の会場となった夕張は、一番大きな炭鉱町だった。北大OBも数多く入っており、組合活動も活発で観客の動員も期待できる上、その後の全道の組合への影響も大きいという期待があった。

・炭鉱町は長屋が多く、一ヵ所に大勢の人が住んでいるので宣伝の効率が良かった。組合活動も活発で、「どうしてこんなに集まるのか」というほど来場者があった。開催費用の条件は、1日8000円を主催社が負担するというものだったが、炭鉱の組合は「安いものじゃないか」とすぐに承諾して宿や食事も手配してくれた。そのため、炭鉱町を中心に巡回することになった。

・当時は道内各地で労働会館がブームのように建てられていた。展覧会の会場を無料で借りられるので、労働会館のある街を狙って訪れた。

・赤平、豊里、茂尻など、1つの駅で2、3の組合がある地域もあった。そこで全体で1度に開催するか、別々に開催するかは交渉の際にかけひきが必要だった。1度に開催するより、別々に開催した方が原爆展の収入は大きくなった。美唄も三井と三菱の両方で開催した記憶がある。三菱美唄は美術サークルがしっかりしていて、活動が活発だった。

・留萌はニシン漁の時期を狙って展覧会を行った。ニシン漁には東北からたくさんの出稼ぎ労働者が来るので、その時期にあてれば多くの動員を期待できる。

・根室の展覧会では米軍の補充兵部隊が会場を訪れ、似顔絵を頼まれたので、濱田善秀が描いた。米兵の名は「ジンスケ」という日本人のような不思議な名だった。

・苫小牧では毛ガニを買ってきて食べた。

・当時、十勝の足寄に兵隊帰りの共産党員が新聞を発行していた。吉崎さんはその人に興味があり、足寄で展覧会を企画して訪ねてみた。すると彼が地元の子どもたちの兄貴分として慕われていていたので、新聞が続いている理由が納得できた。そんな個人的興味で展覧会の場所を選ぶこともあった。

・5月1日に巡回展を終えた後、円山に花火を観に行って学生たちと別れた。


吉崎さんは、「原爆展は一種の蜂起/一揆だったと思う。当時は、前進座事件、イールズ事件、白鳥事件と理不尽な事件が相次いでいた。室蘭ではそれほど宣伝しなくても日鋼室蘭の職工が熱心に見て行った。原爆展の後、全道的な平和運動や署名運動が広がっていった。その火つけ役となった原爆展の意義・役割は大きかった」と振り返ります。

当時の活動がどういう背景から生まれ、どのように皆が取り組んできたのか。もう一度考え直し、評価していかなければならない。必ずまた、あのときの活動が評価される時代が来るはず」という吉崎さんの言葉には、強い力が込められていました。

吉崎さんには、三菱美唄の原爆展で撮影された記念写真を見せて頂きました。
前列左から濱田善秀氏、三菱美唄炭鉱労組文化部長・本間務氏、吉崎さんが写っている貴重な写真です。

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また、函館展の際に撮影された記念写真も見せて頂きました。
前列中央には丸木夫妻の姿も見えます。

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巡回展の回想と言っても、なにしろ60年も前の出来事。
吉崎さんの記憶の細かさには、ただただ驚かされます。
それだけ心に残る大きな思い出だったのでしょう。
貴重な証言を聞かせて下さった吉崎さんには、心から御礼を申し上げます。
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2010/5/27

美唄市S氏の北海道展調査  1950年代原爆の図展調査

OKINAWA展や5月5日開館記念日などで慌ただしくしているうちに、美唄市のSさんが北海道各地の原爆の図巡回展について、非常に詳しく調査を進めて下さいました。

その調査によって、1951年11月の旭川展の詳細が判明するなど、各地の巡回展の様子が次々と明らかになってきました。Sさんは炭鉱や労働組合の歴史について長年研究を重ねられている方なので、そうした社会背景についても詳しくまとめて下さっています。
以下に、Sさんの調査をもとに原爆の図北海道巡回展の軌跡を簡潔にまとめてみます。

   *   *   *

@1951年10月-12月 第1期原爆の図北海道巡回展
 丸木夫妻が帯同(原爆の図5部作出品)

10月28日-10月30日 室蘭市・室蘭労働会館2階
 新日本文学室蘭支部・日鋼室蘭製作所職員・文芸誌『ひろば』の文学関係者・室蘭地協書記長・北電元職員らによる実行委員主催。責任者:室蘭市立中央図書館長。室蘭工大生・地協書記らも会場設営や運営に参加。入場者数:約5,000人。

11月3日-11月7日 旭川市・丸勝松村百貨店3階
 旭川純生美術会・道アンデパンダン美術会・平和問題懇談会主催。北海日日新聞社後援。大人10円、学生子供5円。『北海日日新聞』1951年11月3日広告掲載。

11月10日-11月12日 空知管内秩父別村・善性寺
 善性寺は赤松俊子の生家。入場者数:約3,000人。最終日に「原爆死者追悼法要」開催。

11月20日-11月21日 札幌市・第1会場=丸井百貨店5階、第2会場=富貴堂2階
11月22日-11月25日 札幌市・北海道大学中央講堂

 北大文化団体連合会主催。道学連・北大全学中央委員会後援。協賛団体は労働組合・婦人団体など30以上。第1会場には《原爆の図》とデッサンを展示、第2会場には民科北大各学部制作の模型やパネル80点を展示。第2会場に掲示した感想文が政令325号違反とされ、責任者の1人を札幌市警が逮捕。『北海道大學新聞』1951年11月20日、同12月5日などに関連記事掲載。入場者数:約2万人。

11月29日-12月2日 函館市・棒二森屋百貨店2階
 北大水産学部・道学芸大函館分校自治会主催。百貨店側がウィンドウ・広告費を提供。学芸大教授や学生、北大水産学部・パネル運搬の北大理学部学生8人らも会場整理や説明を担当。12月1日午後、チェロ奏者井上頼豊が追悼演奏。入場者数:約1万人。

   *   *   *

A1952年1月-5月 第2期原爆の図北海道巡回展
 濱田善秀・吉崎二郎が帯同(原爆の図3部作出品)

1月10日-1月14日 夕張市・夕張市民会館2階集会室
 民科夕張支部主催。地元教員・宗教者・女子高生も協力。民科札幌支部『大会報告要旨』(1952年5月22日)によれば、11日より10日間、民科札幌支部が「高校生のための冬期講座」(物理化学・生物・地学・社会)を開催し、毎回50〜60人が出席。
 ※松井愈『朝鮮戦争下の科学運動』p.10によれば、1月10日-1月17日に夕張市で開催とある。

1月 岩見沢市
 日時会場不明。『北海道新聞』空知地方版等には開催記事なし。岩見沢地区労協の主力は国鉄、電産・全電通・北教組。

1月 空知管内栗沢町美流渡地区
 日時会場不明。『北海道新聞』空知地方版等には開催記事なし。北炭幌内鉱業所万字炭鉱の一部。労組は美流渡炭鉱労組と職組。

1月 空知管内三笠町幌内地区
 日時会場不明。『北海道新聞』空知地方版等には開催記事なし。北炭幌内鉱業所内の主力鉱地区。労組は幌内炭鉱労組と職組。

1月27日-1月28日 美唄市三菱美唄地区・三菱美唄炭鉱労働組合本部2階
 三菱美唄炭鉱労組主催。原爆の図3部作と原爆解説パネルを展示し「綜合原爆展」として開催。山内全小中学生参観。三菱美唄文学会『炭炎』に来場者の感想掲載。

1月-2月? 空知管内砂川町
 日時会場不明。『北海道新聞』空知地方版等には開催記事なし。砂川地区労協の主力は、三井東洋高圧労組・全日通・電産。

2月 空知管内上砂川町
 日時会場不明。『北海道新聞』空知地方版等には開催記事なし。三井鉱山道内主力の砂川炭鉱所在地。労組は砂川炭鉱労組。

2月 空知管内赤平町赤間地区・赤間炭鉱労働組合講堂
 民科札幌支部『北海道原爆展ニュース』(1952年2月25日)には会場は「赤間中学」とあるが、赤間中学は存在せず、見学者の証言によれば北炭赤間炭鉱労組事務所講堂の可能性が高い。北炭赤間礦は北炭空知鉱業所管轄の炭鉱で、赤平町の東海豊里・住友(井華)赤平炭鉱に隣接。組合は赤間炭鉱労組と職組。

2月 空知管内赤平町豊里地区
 日時会場不明。豊里労組若手組合員らによる主催か。組合は豊里炭鉱労組と職組。

2月 空知管内赤平町茂尻地区・茂尻中学校集会室
2月 空知管内赤平町井華赤平地区・住友赤平炭鉱労働組合会議室

 日時不明。主催不明。元北大理学部自治会員の証言によれば、入場料は2会場ともに無料。井華赤平地区では住友赤平炭鉱労組主催の可能性がある。会期は茂尻・赤平とも各1日で移動日1日。労働組合が積極的に受け入れた印象はないという。茂尻地区は国鉄茂尻駅に近い雄別炭鉱鉄道茂尻炭鉱所所在地。組合は茂尻炭鉱労組と職組。井華赤平炭鉱は国鉄赤平駅をはさんで展開する住友鉱業系炭鉱。組合は住友赤平炭鉱労働組合と職組。

2月16日-2月19日 帯広市・藤丸百貨店4階
 帯広地区労働組合協議会主催。1952年2月15日『北海道新聞』十勝帯広版などに関連記事掲載。入場者数は1万人を突破。元北大理学部自治会委員の証言によれば、帯広では見学に来た学生のなかに興味を持って次の開催地以降もついて回った者もいた。帯広地区労協の主力は全日通、国鉄、北教組、全電通など。
 
2月21日-2月22日 根室町松ヶ枝町2丁目梅谷会館
 平和擁護委員会根室準備会主催。「綜合原爆展」として《原爆の図》3部作のほか、デッサンや「広島に捧げるの図」及びパネル類展示。入場料大人20円・学生10円・子供4円99銭。入場者数約3,000人。1952年2月19日『根室新聞』夕刊に関連記事掲載。根室地区労は未結成。

2月24日-2月26日 釧路市・釧路市立労働会館
 日本平和推進国民会議釧路地区主催。釧路市・同国支庁・同教育委員会釧路事務局・東北海道新聞社など後援。入場料4円99銭。入場者数2万5,000人。釧路地方労組協議会の主力は太平洋労組・国鉄・北教組など。「綜合原爆展」として《原爆の図》3部作と模型、デッサン、解説スチールを展示。1952年2月20日『北海道新聞』釧路版、同年2月23日『東北海道新聞』に関連記事掲載。

2月28日-3月2日 網走市桂ヶ丘・網走市立網走小学校体育館
 入場者数:約6,000人。見学者の証言によれば、一般参観のほか、小学校も引率で見学し、解説を聞いた。網走市労組協議会の主力は国鉄・北教組・全日通。

3月6日-3月9日 北見市・第1会場=北見商工会議所大会議室、第2会場=ビルディング百貨店3階
 北見新聞社が創刊40周年記念事業として主催。『北見新聞』に詳報。当時高校生で展覧会を観た地方史研究家I氏の調査によれば、美術・文学・演劇など市内文化団体関係者が実行委員会を結成、青年層が実務を担当した。「綜合原爆展」として開催し、《原爆の図》3部作のほか、模型・パネルも展示。帯同した画家・濱田善秀や北大生ら4人が4日に来北し準備や解説にあたった。入場料200円。入場者数:約2万人。北見地区労協の主力は国労、北教組、電産など。

3月 上川管内名寄町
 日時会場不明。国鉄深名線などの鉄道分岐点。入場料3,500人。『名寄新聞』には関連記事なし。名寄地区協の主力は国鉄、電産、全電通など。

3月 稚内市
 日時会場不明。入場者数:約3,000人。『日刊宗谷』には関連記事なし。稚内地区労協の主力は全日通、全電通、全逓など。

3月 留萌市
 日時会場不明。入場者数:約2,900人。『留萌タイムス』には関連記事なし。留萌地方労協の主力は全道庁、大和田炭鉱労組、国鉄。

3月 空知管内沼田町浅野雨龍地区
 日時会場不明。浅野雨龍炭鉱は中小炭鉱。入場者数:約2,500人。労組は浅野雨龍炭鉱労組、職組。

小樽市
 日時会場不明。小樽は後志地方最大の港湾都市。入場者数:約8,000人。『北海タイムス』にも旧『小樽タイムス』にも関連記事なし。小樽地区労協の主力は全電。

後志管内余市町
 日時会場不明。余市町の主産業は漁業と果樹栽培で、住友金属工業余市鉱山もある。入場者数:約2,000人。労組は全日通、北教組、余市鉱業労組、全逓。


4月4日(予定) 留萌市大和田地区
 予定日は1952年4月5日『民科支部ニュース』による。中小炭鉱の寿大和田炭鉱所在地区。労組は大和田炭鉱労組。

4月8日-4月10日 苫小牧市・苫小牧製紙労働会館
 苫小牧地区労働組合協議会主催、苫小牧民報社後援。「赤松俊子・丸木位里両氏共同制作の総合原爆展」として、原爆の図3部作のほか、北大学生制作のパネルも公開。初日に約800人参観。9日午後6時より労働会館で「原爆懇談会」開催。1952年4月10日『苫小牧民報』に記事掲載。苫小牧は苫小牧製紙(旧王子製紙)の企業城下町。苫小牧地区労協の主力は王子製紙労組・国策パルプ・北教組など。

4月10日-4月20日(予定) 日高管内浦河町・日高管内静内町
 予定日は1952年4月5日『民科支部ニュース』による。『北海道新聞』には関連記事なし。浦河は日高支庁所在地で、浦河町労組協議会の主力は全道庁、北教組、全畜産、全電通など官公労。静内の基幹産業は酪農、競走馬生産、漁業、林業などで、静内街労働組合協議会の主力は北教組、国鉄、全畜産など。

4月21日-4月24日(予定) 空知管内深川町・上川管内富良野町
 予定日は1952年4月5日『民科支部ニュース』による。『北海道新聞』には関連記事なし。深川は吉崎二郎の出身地。基幹産業は農業と林業で、深川地区労協の主力は全日通、国鉄、北教組など。富良野町の主産業は農林業と小規模工場。労組は国鉄、全日通、北教組ほか小規模労組が主体。

5月1日 十勝管内中川幕別町・幕別町立町民会館
 道内巡回展の最終開催地。真区別平和の会準備会主催。元新田ベニヤ労組書記長の呼びかけでメーデーの日に町民会館で開催。元新田労組書記長の証言によれば、《原爆の図》のほかパネルも展示し、同行の画家や学生が解説を行った。入場者数は数百人。1952年5月5日『北海道大学新聞』によれば、「一大カンパニア原爆展」は「一日の北見幕別を最後に多大の成果を収めて終了し、赤松丸木両氏との共同製作者浜田氏をはじめ一行元気で帰札」した。 
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2010/3/19

1952年「第二次」北海道原爆展の動き  1950年代原爆の図展調査

北海道立図書館から取り寄せた松井愈氏資料「朝鮮戦争下の科学運動―民科札幌支部自然科学諸部会の活動を中心に―」をもとに、1952年の「第二次」原爆の図巡回展の動きを北海道の地図に落とし込んでみました。

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1.夕張 2.岩見沢 3.美唄 4.美流渡 5.砂川 6.上砂川 7.赤平 8.茂尻 9.幌内
10.赤間 11.豊里 12.帯広 13.根室 14.釧路 15.網走 16.北見 17.名寄 18.稚内
19.留萌 20.雨龍 21.小樽 22.余市 23.大和田 24.苫小牧 25.浦河 26.静内
27.深川 28.富良野 29.名寄 30.幕別


「第二次」巡回展というのは、丸木夫妻自身が1951年10月から12月にかけて室蘭、旭川、秩父別、札幌、函館を巡回した展覧会を「第一次」として、便宜上つけている呼び方です。
この巡回展には丸木夫妻が帯同していませんでした。
つまり作家の手を離れて、初めて「原爆の図展」がひとつのMovementとして運営された画期的な巡回展と言えるのかも知れません。
この「第二次展」が、目黒区美術館の「炭鉱展」によって、そして三菱美唄炭鉱の一枚の写真を契機に掘り起こされたのも、決して偶然ではなく、当時最盛期を迎えていた北海道の炭鉱文化ネットワークが、このMovementに大きな役割を果たしていたようです。

「第二次展」の掘り起こしについては、美唄市のSさんが大きな役割を果たして下さっています。
先日、三菱美唄労働組合本部の内部写真を公開しましたが、Sさんによれば「内部写真は、階上ではなく階下事務所のようで、階上もおおむね同じ構造になっていました。大会議室もさほど広くはなく、5部作すべての展示は無理だったかも知れません」とのこと。
ご丁寧に、建物内部の図面まで送って下さいました。

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また、「大会議室奥の小会議室には、パネルのようなものがびっしり張られていたように記憶しています。短期間で多数の会場を次々と移動し、何より広い会場を確保するのも大変でしたので、小学生の感想文や<釧路>展からも推察されるように、「第二次」は、初期3部作と解説パネル(カートン紙)による「綜合原爆展」だったのかも知れませんね」とご教示頂きました。

長年、郷土史家として炭鉱の歴史を調査されてこられたSさんは、ほかにも多くの情報や示唆を与えて下さっています。
その内容を、以下にまとめて書き出すことにします。

・夕張(1月10日〜)から始まる「第二次」は、岩見沢・砂川を除いてまず空知地方の炭鉱地域で主に開催し、2月中旬以降に道東地方(〜北見市3月9日まで)、3月中旬は道北地方(沼田町浅野雨龍炭鉱まで)、4月頃から小樽ほかを転々とし、5月1日の幕別で終了した様相が見えて来る。

・『北海道大學新聞』1952年5月5日付の「全道原爆展終る 平和の意志を大きく育てよう」という記事の冒頭に「全道三十八ヶ所をまわり観客三十五万人を動員した一大カンパニア原爆展は一日の北見幕別を最後に多大の成果を収めて終了」とある。「北見幕別」とあるが、新田ベニヤの工場があった中川郡幕別町と思われる。

・夕張・赤平では、複数の炭鉱企業・鉱業所内ごとに開催されたのは明らかである。

・1月10日−14日「夕張展」の会場は「夕張市民会館」で、女子高生も手伝い。

・3月6日−9日の「北見展」は、北見商工会議所大会議室で開催。実行委員となった美術団体関係者情報のほか、「入場者数約2万人」といった記録もある。

・「上砂川」は町ぐるみ三井砂川炭鉱地域だったが、当時の三井砂川労組新聞『砂労』にも記事は皆無。ところが、サンフランシスコ講和条約発効(1952年4月28日)後の1952年8月になってから、労組として「平和運動月間」を設定している。労組事務所前に『アサヒグラフ』同年8月6日号に掲載された原爆被害写真を展示し、労働組合報『砂労』に、おそらく『原爆の図 画集普及版』(青木書店)からとったと思われる原爆の図の一枚(少年少女)やアサヒグラフの被害写真(広島)、長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』(1951、岩波書店)の一節を紹介して、「反戦平和文芸作品」を募集。後日、「反戦平和文芸作品発表特集号」も発行している(三井砂川労組機関紙『砂労』1952年8月20日付・同年11月7日付)。

・松井愈氏資料「朝鮮戦争下科学運動」pp9-10に、室蘭・旭川・秩父別・札幌・函館各展の後、民科札幌支部として「『全道くまなく原爆展をやろう、われわれの力でこれを実現させよう!!』各地の民主団体に呼びかけ、依頼がだされた。さらに多くの学生・若手研究者が、一地域ごとに数名の組織解説グループがつくられた。原爆の図とパネルを各地の会場にリレーしてゆくためにも多くの工夫が必要だった」とある。その結果が、30カ所の巡回展につながった。三菱美唄展は労組文化部主催だが、必ずしも幹部たちの指導方針に基づくものでもなかったように、実際に受け入れた側には、組合幹部の意向に限らず、受け入れ側の多様な文化状況や人々の思い、人間関係なども深く関与していたと思われる。


Sさんの綿密な調査力には本当に驚かされ、勉強になることばかりです。
何より、60年前の展覧会の調査を続けていく上で、大きな励ましと勇気をもらっています。
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2010/3/12

三菱美唄炭鉱文化部長宅調査  1950年代原爆の図展調査

今日は目黒区美術館のMさんに同行して、千葉県君津市の故本間務氏のお宅へ伺いました。
本間務氏は、三菱美唄炭鉱労働組合常任執行委員で文化部長をされていた方で、昨年夏にお亡くなりになりました。
「原爆の図展の写真があるかもしれないよ」とMさんに誘われたのですが、残念ながら、本間さんの遺された膨大な資料のほとんどは、一足違いで北海道の方へ送られた後でした。
しかし、いくつか残っていたアルバムのなかから、1952年1月27日、28日に開催された美唄「原爆展」の貴重な未見写真が出てきました。

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署名を行う女性の背後に写っているのは、原爆の図第3部《水》です。
現在の屏風状ではなく、軸装されていることが写真からわかります。
ここ数日のうちに届いたさまざまな証言から、どうやら、丸木夫妻が5部作を持って室蘭、旭川、秩父別、札幌、函館を巡回した1951年秋の「第一次」北海道巡回展と、美唄など約30ヶ所を巡回した1952年「第二次」巡回は別なものと考えた方が良い、ということがわかってきました。
そして「第二次」巡回に展示されたのは、初期3部作であった可能性が高まっています。

会場となった三菱美唄炭鉱労働組合本部の外観写真も見ることができました。

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大勢の人が雪の中を会場に向かっているのがわかります。
看板の部分を拡大してみます。

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戦争反対!平和と自由を守れ!!
原爆展 27日、28日
三菱美唄炭鉱労働組合


という文字が読めます。

三菱美唄の原爆展では、「全山小中学生」が参観したと記録されています。
美唄市教育委員長のS氏のご教示によれば、三菱美唄鉱業所区域の学校のうち、距離的なことや見学に行ったという体験者の話などからみて、対象となるのは、少なくとも次の学校と推察されます。括弧内は1950年度の在籍児童生徒数。
○常盤小学校(1,379人)
○沼東小学校(1,384人)
○旭小学校(689人)
○我路小学校(339人)
○常盤中学校(588人)
○沼東中学校(968人)
これだけでざっと5300人が展覧会を観た計算になります。
本間さんの奥さんの記憶によれば、三菱美唄炭鉱は約6,000人の鉱員が働いていたそうです。
「原爆展」は全山的に動員をかけたというので、いったい、2日間の展覧会でどれほどの人が来場したのでしょうか。

会場となった三菱美唄労働組合本部は、前年の1951年11月に新築されたばかりでした。
その外観と内部の写真も紹介いたします。

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目黒区美術館のMさんが担当された企画「‘文化’資源としての〈炭鉱〉」展でも、三菱美唄の美術サークル活動が詳しく取り上げられていました。全国的に炭鉱文化活動が活発だった当時においても、この美唄の美術サークル活動は注目すべき存在だったようです。
美術サークルは子どものための美術教室も開催していて、以前、サークル仲間の平山康勝さんと鷲見哲彦さんが子どもたちを引率して原爆展を訪れている集合写真を紹介しましたが、今回の調査では、鷲見さんが子どもたちを指導している場面の写真を見ることもできました。

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「炭鉱展」に出品された三菱美唄美術サークルの共同制作《人民裁判事件記録画》(1950年)の、加筆前の貴重な写真も発見され、Mさんにとっても収穫の大きい調査だったようです。

   *   *   *

本間さんは三菱美唄の閉山とともに親会社の斡旋で千葉県君津市の会社に再就職し、亡くなるまで君津に暮らしました。
美唄での文化サークル活動を生きがいにしていた本間さんは、晩年、その活動の様子などを記録した写真をビデオで撮影し、音楽をつけた『炭鉱のうたごえ:語り部ビデオ』という資料映像の作成に力を注ぎました。
遺された分厚い住所録には、全国に散り散りになったサークル関係者のその後の連絡先や、死亡年月日が丹念に記入され、本間さんの几帳面な性格と、人間関係のつながりを大切にする姿が垣間見られました。
Mさんは「これほど膨大な資料を集め、記録にまとめた人は、全国の炭鉱を見ても他にいないでしょう」とおっしゃっていました。
残念ながら、Mさんの調査の直前に本間さんは亡くなってしまい、「炭鉱展」のことはご存知なかったようです。
「本当に、もう少し早ければ、夫もどんなに喜んだかと思うと……」と奥さんも繰り返し話されていましたが、本間さんの遺した貴重な資料は、今後美唄で大切に保管されることになりそうで、何よりだと思いました。

これまでの美術史では、ほとんど顧みられることのなかった炭鉱の美術文化サークル活動。
しかし、時代の熱気と内発的な動機に突き動かされた若者たちが結集して生み出したエネルギーの軌跡は、時代を超えた普遍的なものを内包していると思われます。
Mさんの企画した「炭鉱展」が、美術館連絡協議会の2009年の大賞を受賞したことも、帰りのバスのなかでお聞きしました。
炭鉱の文化サークル活動に焦点をあてた企画展が開かれ、それが高く評価されることは、当時の活動に関わった多くの“忘れられかけていた”人たちにとって、本当に喜ばしいことでしょう。
そして、その活動のなかに《原爆の図》の巡回展も含まれているわけです。

原爆の図展をたどる旅は、さまざまな人の熱い思いを集めていく旅でもある。
あらためて、そんなことを考えさせられる、収穫の多い調査でした。

(なお、写真は故本間務氏所蔵の『創立十周年記念アルバム』(発行=三菱美唄炭鉱労働組合/編纂=三菱美唄炭鉱労働組合文化部/製作=同/発行年月日=1955年10月1日/非売品)よりご提供頂きました。撮影者が不明ですので、ご存知の方はご連絡をお願いいたします)
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2010/3/10

原爆の図室蘭展の新証言!  1950年代原爆の図展調査

連日のように、1951-52年の「原爆の図北海道巡回展」の情報が飛び込んできています。

今日お電話を下さったのは、室蘭市在住のHさん。
当時の室蘭の文学サークル誌『広場』に関わっていた方で、1951年10月26日から28日にかけて室蘭労働会館で行われた室蘭展についての証言をして下さいました。
展覧会の開催に尽力したのは、やはり新日本文学室蘭支部や日本製鋼所室蘭製作所の方々だそうです。
中心になって活動したのは、サークル誌『広場』主宰のK氏や室蘭地協書記長I氏、北海道電力元職員で文学者のY氏ら。元職員、というのは、つまり、当時のレッドパージで職場を追放されたという意味です。

展覧会の実行委員長は、以前に登別市のSさんの証言で伺った通り、室蘭市立中央図書館の高内智海館長。
高内館長に委員長をお願いしに行ったのは、室蘭工業大学の学生自治会のI氏と富士鉄室蘭元職員のT氏だったそうです。
「原爆の図展は、道学連の線で話が来た。室蘭の後に行った札幌展の人たちはイールズ事件の後だっただけに、とても協力的に展覧会に関わった」(イールズ事件とは、GHQ民間情報教育局顧問のウォルター・イールズが新潟大学などで「共産党員の教授は大学を去るのが適当」と演説し、小・中・高校の教職員約2000人が解雇された事件。1950年5月には東北大学と北海道大学で学生たちがイールズの講演会を阻止した)という話もされていましたが、昨日の日誌でお伝えした図書資料の存在を教えて下さったWさんは、まさに北大イールズ事件の関係者でした。
「原爆といっても、『アサヒグラフ』に写真が掲載されたのは翌年だから、それまで写真も見たことない。原爆とはすげえもんらしいというだけで、本を読んでも漠然とした知識しかなかった」と振り返るHさん。
そのHさんも、翌年の8月には、室蘭労働会館で朝鮮戦争休戦を要求する会合を開き、自ら中心となって活動されたそうです。

そして、Hさんが紹介して下さったのは、岡山市にお住まいの與志崎二郎さん(83歳)。
與志崎さんは俊さんの故郷の隣の深川市出身。兄君が主体美術などで活躍した與志崎朗という俊さんの画家仲間だったことから、室蘭展に関わった後、《原爆の図》を託されて「第二次」北海道巡回(1952年1月〜4月)に帯同したというのです。
さっそく、岡山のご自宅にお電話をしてみると……
「私は父が国鉄職員で絵も描いていたから、掛け軸の扱いにも慣れていて、丸木夫妻に感心された。丸木夫妻のもとから来た画家の濱田善秀といっしょに、1月10日の夕張をはじめに、メーデーが終わるまでの実質5ヶ月間、北海道じゅうを駆け回った。各地の“平和の会”の人たちや北大の学生と連携しながら、私が会場や日程を決めて、飾りつけもやった」
まさに、原爆の図北海道巡回展を担った本人だったのです。
「当時の巡回展の日程や道中のできごとは、濱田善秀が詳細に記録していたはず。彼は丸木夫妻に報告しなければならなかったからね。私は記憶しか残っていないけど、思い出す限りのことを手紙に書いて送ります」と、おっしゃって下さいました。

濱田氏はすでに亡くなっていて、原爆の図展の記録が現存するかどうかは不明ですが、ご遺族にもあたってみようと思っています。
そして、與志崎さんとも連絡をとりつつ、一度、きちんと聞き取り調査をしておきたいと思います。
「あの展覧会のことは、記録に残さなければならない。そろそろ、そういう話が来る時期だと思っていた」とおっしゃる與志崎さん。

もとをただせば、きっかけは目黒区美術館でM学芸員から見せていただいた1枚の写真でした。
そこから、さまざまな人の思いがつながって、ようやく、60年近く眠り続けていた巡回展の姿が明らかになりつつあります。
米軍の占領下という時代に、原爆被害の実情を伝えることが、どれほどたいへんだったか。
《原爆の図》という、奇跡のような作品が、どれほど多くの人を動かしてきたか。
そして、長い歳月のあいだ、忘れられずに、人の心に残り続けてきたか。
それらのことを、あらためて深く考えさせられます。
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2010/3/9

「原爆の図北海道巡回」調査の新展開!  1950年代原爆の図展調査

2月28日に『北海道新聞』に掲載された記事「故丸木夫妻の「原爆の図」 占領下の巡回展どう開催 調査進める美術館」(http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1334.html)をご覧になった札幌市在住のW氏から、先日、北海道立図書館所蔵の「松井愈氏資料」のなかに、当時の原爆展に関する記述が含まれた資料があるとの連絡をいただきました。

さっそく、北海道立図書館に複製申込を行い、本日、以下の資料が到着しました。
『民科ニュース』 号外 原爆展特輯号(民科札幌支部、1951年11月10日)
『北海道原爆展ニュース』(民主主義科学者協会札幌支部、1952年2月25日)
『北大、あのとき・あのころ――』より、「ストックホルム・アピールから原爆展へ 民主主義科学者協会(民科)札幌支部の活動を中心に」(松井愈文、1992年1月)

「民科ニュース」と「北海道原爆展ニュース」は、手書き文字の紙面が時代の熱気を感じさせ、原爆展の様子を同時進行で報じているため、新たにわかることがずいぶんありました。
たとえば、こんな具合です。

   *   *   *

各地におこる平和の歌声 原爆展全道で盛況

 丸木・赤松両画伯の筆になる「原爆の図」が始めて北海道に紹介されたのは昨秋室蘭に於てであって、両画伯や北大宮原教授の説明によって五千人余の人々に多大な感銘を与えたのであった。其後旭川丸勝デパートに於ても平日の五倍の人が集ると云う盛況を示し、更に札幌では、北大文化団体連合会の手になる八十余枚のパネルが加えられ、文字通り綜合原爆展として札幌市の人々の注目を浴びた。
 本年に入って、一月十日夕張を皮切りに空知地方から道東にかけて既に十ヶ所余に於て開かれ、いずれも盛況で、各階層の延四万以上の人々が集っている。
 原爆の偉大な力、これを戦争に使うか、平和のために使うか、原爆の図を見、パネルを見た人々はすべてが政治的反感情を越え、ヒューマニズムの立場から、再び原爆を戦争には使うまい、使わせまいと平和への決意を新たにし、或人は感想文を綴り、或人は平和投票に応ずるのであった。

原爆展日程

 全国的に原爆展は既に六十数ヶ所に於て行われている。
 北海道では昨秋室蘭で行われて以来、旭川、チップベツ、札幌、函館、今年に入って一月十日より殆んど休む間もなく夕張、岩見沢、美唄、美流渡、砂川、上砂川、赤平(茂尻、井華)、幌内、赤平(赤間、豊里、赤間中学)、帯広、根室と道東へ延び、現在釧路市(二十日〜二十六日)に於て開催中である
 今后の予定は
・網走市(28日〜3月2日)
・北見市(3月6日〜9日)
尚名寄、留萌等が計画されて居り、更に四月末〜五月始に札幌で再び開催する計画が立てられている。

                             (『北海道原爆展ニュース』1952年2月25日)

   *   *   *

赤字部分が、今回あらたにわかった情報です。
1951年から52年にかけての北海道巡回展は、予想していたよりはるかに大規模なものだったようです。
また、「北大、あのとき・あのころ――」からの抜粋文は、1992年になって松井愈氏が回想して記した文章ですが、当時の状況を非常に詳細に分析しています。少々長くなりますが、原爆の図展に関連する箇所を以下に抜き出します。

   *   *   *

 民科を中心とする北大の研究者・学生の手によって「原爆展」が全道に展開されたのはこのような時代、背景のもとであった。彼らは、丸木・赤松夫妻の原爆の図五部作を展示してまわっただけではない。全紙大のケント紙八〇枚に色彩も鮮やかに、原爆の原理、その威力、人体に及ぼす影響、平和利用の方向と条件、そして原爆完全禁止の運動の呼びかけなどを、図や絵、写真づきの解説をパネルとして、原爆の図とあわせて、この展示を一そう内容豊かなわかり易いものにした。弾圧は最初からだった。札幌では展示したパネルの中の「市民の声」の一文が、占領政策誹謗(政令三二五号違反)とされて逮捕者を出したが、一九五一年秋の第一期、旭川・室蘭・札幌・函館の四都市で三万五千名の市民を集めた。彼らはこの経験によってパネルを豊富かつさらにわかり易く書き改め、解説者グループを組織し、一九五二年一月から四月まで、夕張市をはじめ一ヵ所数日ずつの原爆展を、岩見沢、美唄、美流渡、砂川、上砂川、赤平、茂尻、幌内、赤間、豊里、帯広、根室、釧路、網走、北見、名寄、稚内、留萌、雨龍、小樽、余市、大和田、苫小牧、浦河、静内、深川、富良野、幕別、の早計三十四の市町村で展開し、参加者は十五万人を越した。どの市町村でも空前の多数の老若男女が原爆展に押しかけ、涙を流し、いきどおりを、平和への決意を感想として書き残した。そしてほとんどの地域で、彼らは、原爆反対はアカだという自治体当局、労働組合幹部の偏見にぶつかった。ある時は私服警官が、炭鉱の労務係が、原爆展を訴え強力と参加を呼びかける彼らのうしろから離れなかった。炭鉱の住宅で、直接労働者や主婦たちに話しかけ、スチール写真や、小パネルを展示し宣伝することさえ、炭鉱当局と労働組合に激しく妨害された。このような状況の中では地域に住む人にとっては、この原爆展、原爆の図を見る、多くの人に見せるということに協力することさえ、勇気のいることであった。キリスト教の牧師さんや、教育団体、一人ひとりの市民や労働者の平和への意志がその障害を乗りこえて、原爆展の大きな世論を生み出していった。
 こうして、北大の若い力は文字どおり原爆展に反対し平和を守ろうという全道の運動の灯に火を点じたのであり、最初のけん引車であった。白鳥事件がおこされ(一九五二・一・二一)そして太田嘉四夫氏の逮捕事件(同年四・七)ひきつづく弾圧が北大の教職員学生に加えられたのはこのようなたたかいのうねりのまさにその頂点をねらった策謀であったことはその後の経緯に照らしても明らかであろう。


   *   *   *

W氏の教示によれば、この文章は1965年の北海道大学理学部総合雑誌『底流』第7号に掲載された松井愈氏の文章「朝鮮戦争下の科学運動」がもとになっているとのことですので、こちらの方も詳しく調べてみなければなりません。

ともあれ、北海道の原爆の図展が、丸木夫妻を中心にして行われた「第1期」(1951年10月の室蘭展から12月の函館展まで)と、民科札幌支部を中心に再組織された「第2期」(1952年1月から4月)に分かれることがはっきりしました。
丸木俊さんの回想に登場するのは「第1期」の展覧会だけなので、夫妻が絵を残して帰京し、地元の組織が絵を受け継いで道内各地の巡回を続けたのだろうという、これまでの推測が裏付けられた結果と言えるでしょう。

また、W氏は自らも巡回展示にかかわったとのことで、「第2期」の《原爆の図》の展示には、丸木夫妻側の関係者として濱田善秀氏が帯同していたという貴重な証言も頂きました。
濱田善秀氏は、美術批評家のヨシダ・ヨシエ氏の証言によれば、《原爆の図》初期三部作の複製画を制作した画家とのこと。ヨシダ氏は、当時丸木夫妻のアトリエに居候をしており、濱田氏も同じように居候していた仲間のひとりだったようです。
《原爆の図》の巡回展といえば、1952年3月からヨシダ氏と野々下徹氏が「丸木夫妻から絵を託されて」新潟を皮切りに全国をまわった巡回展が有名ですが、その直前に濱田氏が北海道を巡回していたという話は初めて知りました。
北海道展は1952年4月まで、ヨシダ・野々下コンビの新潟展は1952年3月から、と開催時期が重複してしまうので、その整合性も今後の課題として浮かび上がってきます。どちらかの展示が複製画だった可能性もあるかもしれません。

ちなみに民主主義科学者協会(民科)とは、民主主義科学の発展をはかることを目的に1946年に創立された自然科学者・社会科学者・人文学者の左派系協会で、《原爆の図》の巡回展が行われた1950年代は協会の活動も最盛期を迎えていました。
ヨシダ氏がはじめて執筆した『原爆の図について』も、1953年3月14日付で民主主義科学者協会鹿児島支部よりガリ版刷りパンフレットで発行されています。

   *   *   *

今週の金曜日には、目黒区美術館のM学芸員とともに美唄で行われた展覧会の資料調査のため、当時の三菱美唄労組文化部長のご遺族のお宅にお伺いする予定です。

今後も新たな調査を行い次第、その結果を報告していきたいと思います。
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2010/3/3

「原爆の図展」旭川会場判明!  1950年代原爆の図展調査

先日『北海道新聞』に掲載された記事の反響が、少しずつ集まってきています。
小学5年生のときに三菱美唄の「綜合原爆展」をご覧になったという美唄市在住の方からの電話に続き、今日は旭川の展覧会を覚えているという方から電話がありました。
1951年当時、「原爆の図展」が開催された旭川のデパートに勤務されていたというKさん(80歳)です。
証言によれば、そのデパートは旭川駅前にあったという「丸勝(丸に勝の字)松村百貨店」。
木造建築3階建ての3階催場で開催されたそうです。
画文集『ちび筆』に記された俊さんの回想にも、「会場のデパートは木造三階の床がぬけたら一大事だ、というのでさくをめぐらすやら、延々と入場の人が続きました」とあるので、Kさんの証言と一致します。
残念ながら具体的な開催期間までは覚えていないとのことでしたが、会場が判明しただけでも大収穫です。

ちなみに旭川の前の室蘭展が1951年10月26日から28日、旭川の後の秩父別展が同年11月10日から12日に開催されたことがわかっているので、旭川展は1951年11月初旬に開催されたと推測されます。

   *   *   *

今日は天候が良かったせいか、3月の平日にも関わらず一日じゅう来館者が絶えませんでした。
じわじわと、「丸木俊展」が浸透している気がします。
今日は沖縄や山形など遠くから来られた方が目立ちました。

昨年夏の広島の「原爆文学研究会」でご一緒した、九州大学大学院生のKさん、Cさん、イタリア人のTさんもわざわざ来館して下さいました。3人は日曜日に神戸で開かれた「われらの詩研究会」(私は残念ながら参加できませんでしたが)に参加された後、東京に来て昨日は第五福竜丸展示館に行かれたそうです。
若い方々が《原爆の図》に関心を持ってくれるのは、本当に嬉しいことです。
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2010/2/19

北海道新聞取材など  1950年代原爆の図展調査

昨年12月に、この学芸員日誌でも報告しているのですが、1951年から52年にかけて北海道を巡回した「原爆の図展」についての情報を、現在、発掘しようと動いて下さっている方々がいます。
GHQ占領下において検閲の厳しかった時代、新聞などでもほとんど報道されなかった「原爆の図展」を、記憶している人がいるうちに明らかにしておこうという試みです。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1281.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1295.html

今日は午前中に、登別市にお住まいの画家Sさんからお電話がありました。
Sさんのお兄さんは、1951年10月26日から28日まで室蘭労働会館1階で行われた「原爆の図展」の実行委員の一人だったとのことです。
Sさんも展覧会に行き、「俊子さんに声もかけられずに、2時間も立ち尽くしていた……」とのこと。
展覧会は日本製鋼の労働組合や新日本文学の仲間が中心になって動いたとのことですが、当時はレッドパージが吹き荒れていたため、実行責任者は室蘭市立中央図書館の高内智海館長が務められたそうです。
Sさんの証言によれば、駅前で大規模なデモを行い、デモのどさくさにまぎれて「原爆の図展」を開催したとか。それだけたいへんな時代だったのでしょう。

今月末の『北海道新聞』に、当時の北海道における「原爆の図展」の動きを取材した記事が掲載される予定です。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1307.html
また、美唄市教育委員会のS委員長が、次号の『丸木美術館ニュース』(2010年4月10日発行予定)に、三菱美唄「綜合原爆展」の記憶/記録が発掘されるまでの流れを詳しく紹介して下さいます。

三菱美唄での「綜合原爆展」については、元労組文化部長H氏がご自身のアルバムを撮影して制作されたDVD映像『炭鉱のうたごえ:語り部ビデオ』のなかの“最終編18(一)「ヤマとの別れ・回想」=ダイジェストその1”に、展覧会場へ向かう学生たちの行列(山内全小中学生=約5,300人が参観したそうです)や、主催者たちの記念写真など4点の写真が収められています。

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ちなみにこのDVDは“最終編18(一)”とあるように、当時の美唄炭鉱に関する膨大な資料が納められた貴重かつ恐るべき資料です。
また、三菱美唄炭礦文学会文芸誌『炭炎』第5巻第8号(1952年9月1日発行)にも、「原爆展をみて<感想文集>」が特集されているそうなので、興味深いところです。
S氏のご教示によれば、小学生の感想文の一節に「そんなことを考えながら最後の三部作(水)の所を見た。」との記述があるそうで、美唄展には三部作が展示されていたことが推測されます。

   *   *   *

午後には『北海道新聞』文化部のB記者が「没後10年丸木俊展」の取材のため来館して下さいました。
こちらの記事は、1950年代「原爆の図展」とは別に、3月のはじめに掲載されるとのこと。
丸木俊さんは北海道の出身なので、没後10年の今年は、『北海道新聞』としても継続的に丸木夫妻を取り上げていきたい、と心強い言葉を頂きました。
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2009/12/26

原爆の図室蘭展の新情報  1950年代原爆の図展調査

目黒区美術館で開催中の「‘文化’資源としての〈炭鉱〉」展の評判が高まっているこの頃。
まわりからも、「行ってきた!」「すごかった!」という評判が次々と聞えてきます。
会期は明日までなので(すでに図録は完売とのこと)まだ未見の方はぜひ駆け込んでください。

今日は午前中に「炭鉱展」の企画を担当されたM学芸員からお電話があり、午後には夏に広島の研究会でお会いした山代巴研究家の千葉工大のTさん、北海道大のMさんが来館して下さいました(作家として女性解放や平和運動に尽力した山代巴は、女子美術で俊さんの同級生であり、いつか丸木美術館でも彼女を取り上げた講演会など企画をしてみたいと思っています)。Tさん、Mさんとも「炭鉱展」の話題でひとしきり盛り上がりました。やはり専門の研究者には評価の高い企画のようです。

そんななか、「炭鉱展」を縁に、北海道で精力的に1951−52年の「原爆展」を調査して下さっている美唄のSさんから、またも貴重なメールが届きました。

室蘭のK氏より、これまで具体的な会場や日時が判明していなかった1951年秋の室蘭展についての情報が寄せられたというのです。
それによれば、日時は1951年10月26日から28日。場所は室蘭労働会館1階。室蘭地協の関係者と新日本文学系の文学者によって開催されたそうです。情報提供者は、当時の地協の会長の妹さんとのこと。

先日、三菱美唄炭鉱の原爆の図展が判明したときには、原爆文学研究会のKさんに「今から資料を修正しましょう」と連絡を頂いて、12月に刊行される『原爆文学研究』第8号の原稿を急きょ手直したのですが、ここにきて北海道展の情報が次々と更新されていきます。
精力的に調べて下さっているSさんのおかげです。

現時点でわかっている1951年から52年にかけての《原爆の図》北海道巡回展の足取りを、再度整理しておきます。

@10月26日−28日 室蘭労働会館1階(俊の回想によれば3日間で6,000人来場)
A11月?日−?日 旭川(会場不明、俊の回想によれば木造3階デパートの床が抜けそうなほど来場者あり)
B11月10日−12日 秩父別(俊の生家・善性寺にて3日間で3,000人来場、最終日には原爆死者追悼法要を行う)
C11月20日−21日 札幌(北大文化団体連合会主催「綜合原爆展」、丸井百貨店5階と富貴堂2階にて開催、北大中央講堂に会場を移して24日まで延長)
D11月28日−12月2日 函館(北大水産学部・学芸大函館分校自治会主催、棒二森屋百貨店2階にて開催)
E1月28日−?日 美唄(三菱美唄労働組合文化部主催、三菱美唄労働組合本部2階にて開催)
F2月24日−26日 釧路(日本平和推進国民会議釧路地区主催、釧路市立労働会館にて開催)


Sさんの調査、まだまだ新しい情報が判明しそうな勢いです。
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2009/12/4

1952年美唄炭鉱「総合原爆展」  1950年代原爆の図展調査

先日、目黒区美術館の「‘文化’資源としての〈炭鉱〉展」を訪れた際、M学芸員から一枚の写真を見せて頂きました。

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雪の積もる建物の玄関先で、2人の青年に引率されて並ぶ30数人の子どもたち。入口扉には「綜合原……」という貼り紙も見えます。
この写真は、今回の炭鉱展に出品されている《習作 人民裁判事件記録画》(1950年、193.9×130.3cm、油彩・キャンバス、美唄市教育委員会蔵)を共同制作した三菱美唄美術サークルのメンバーの一員、平山康勝さんが所蔵されているもの(三菱美唄美術サークルについては、ジャスティン・ジェスティー氏が「炭鉱展」図録に興味深い文章を寄せています)。1950年代に美唄炭鉱で開催されたという「綜合原爆展」の貴重な証拠写真です。
平山さんの証言によれば、三菱美唄美術サークルの活動の一環として、絵画教室の子どもたちを原爆展に連れてきたときの写真で、2人の青年のうち、向かって左側に写っているのが平山さん。右側はサークルのメンバーの一人・鷲見(わしみ)哲彦さんだそうです。偶然のようですが、鷲見さんは現在も丸木美術館の「反核反戦展」に毎年出品して下さっている画家さんです。

《原爆の図》の展覧会は、当時「原爆展」と呼ばれることが多く、1951年7月の京都大学同学会の主催による大規模な展覧会では、医学、物理、化学、政治、経済などの多角的な視点から原爆に関する展示物が制作され、初めて「綜合原爆展」という名称が使われました。
この展覧会はその後の「原爆展」の基盤となり、同年11月の札幌展も、北海道大学の学生が京都展に倣うかたちで多角的な原爆資料を展示し「綜合原爆展」として行いました。
1951年11月の札幌「綜合原爆展」については、以前にも紹介しています。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/949.html

丸木俊さんが自伝で回想している北海道の「原爆展」は、室蘭、旭川、秩父別、札幌、函館の5会場(最初に予定していた岩見沢は手違いで中止)ですが、翌1952年2月に釧路に巡回していたこともわかっています。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1140.html

しかし、美唄炭鉱で「原爆展」が行われたことは初めて知りました。
「綜合原爆展」という名称から、おそらくは札幌展の展示が巡回してきたものと思われます。
その後、美唄市教育委員会委員長S氏のご協力により、会場が新築の三菱美唄労働組合本部2階大会議室であったこと、地元の常盤中学校、沼東中学校の生徒が見学に行っていたことなどが判りました。さらに、美唄市議会議員Y氏が沼東小学校6年生のときに展覧会を見に行った記憶があるとのことで、S氏が沼東小学校の沿革史をたどったところ、「雑」記録の1952年1月28日に「原爆展見学」という小さな記述が一行だけ出てきたそうです。

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1枚の写真をきっかけに、埋もれていた原爆展の記憶と記録がつながってくるのは本当に感動的です。

   *   *   *

現在判明している1951年から52年にかけての《原爆の図》北海道巡回展の足取りを、ここで少し整理してみます。

@11月?日−?日 室蘭(会場不明、俊の回想によれば3日間で6,000人来場)
A11月?日−?日 旭川(会場不明、俊の回想によれば木造3階デパートの床が抜けそうなほど来場者あり)
B11月10日−12日 秩父別(俊の生家・善性寺にて3日間で3,000人来場、最終日には原爆死者追悼法要を行う)
C11月20日−21日 札幌(北大文化団体連合会主催「綜合原爆展」、丸井百貨店5階と富貴堂2階にて開催、北大中央講堂に会場を移して24日まで延長)
D11月28日−12月2日 函館(北大水産学部・学芸大函館分校自治会主催、棒二森屋百貨店2階にて開催)
E1月28日−?日 美唄(三菱美唄労働組合文化部主催、三菱美唄労働組合本部2階にて開催)
F2月24日−26日 釧路(日本平和推進国民会議釧路地区主催、釧路市立労働会館にて開催)


俊さんの回想のなかに、函館までの5会場しか登場していないのは、おそらく函館展を終えた後に、丸木夫妻が《原爆の図》を残して帰京したからではないかと推測されます。
その後は《原爆の図》などの展示物だけが道内各地を巡回したと思われますが、美唄や釧路のように“埋もれている”「原爆展」は、ほかにもまだあるのではないでしょうか。
今後も継続して調査を進めていきたいと思います。
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2009/2/13

1952年2月釧路原爆展  1950年代原爆の図展調査

昨日、北海道釧路市にお住まいのMさんから、1952年2月24日から3日間釧路市立労働会館にて開催された「原爆美術展」に関する新聞記事が届きました。
Mさんは釧路展を鑑賞した記憶があり、現在、その当時のことを記録に残すために京都の原爆展からはじまった全国巡回の全体像について調査中とのこと。数日前に丸木美術館に問い合わせのお電話を頂いたのです。
1951年暮れに北海道を巡回した原爆展については、昨年4月の日誌に報告しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/949.html
しかし、翌52年になっても原爆展が釧路で開催されていたことは、今回のMさんの証言で初めて知りました。
今回お送り頂いた新聞記事は2点。いずれも小さな記事ですが、貴重なものです。

ひとつは1952年2月20日付『北海道新聞』に掲載された「原爆絵画展」の記事。以下、全文書き写します。

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原爆美術展
日本平和推進国民会議釧路地区主催、釧路市、同国支庁、同教委釧路国事務局など後援、原爆美術展は二十四日から二十六日まで釧路市労働会館で開かれる。入場料四円九十九銭。
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もうひとつは1952年2月23日付『東北海道新聞』に掲載された広告。
こちらは原爆の図第5部《少年少女》の部分図版も掲載されています。

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原爆美術展

原爆出展
◎原爆の圖 三部
◎原子爐模型
◎ピカドン及デツサン
◎廣島に捧げるの圖
◎スチール
 原爆製造工程について
 原爆の建築物に与える影響
 原子力の平和的利用
 原爆の人体に与える影響
 原爆の植物に与える影響
 原爆の国際憲章について
 原爆に関する文芸作品
 札幌に原爆が落ちたら

會期 二月二四・二五・二六日
會場 釧路市立労働會館
入場料 四圓九十九銭
 主催 日本平和推進國民會議釧路地區
 後援 東北海道新聞社
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展示された「スチール」は、おそらく京都展で京都大学の学生が制作したものをもとに、北大の学生が札幌展の際に制作したものでしょう。
気になるのは、「原爆の圖 三部」の展示内容。通常、三部が展示される場合は、第1部《幽霊》、第2部《火》、第3部《水》のセットになるだろうと思われるのですが、新聞に掲載されているのは第5部の《少年少女》。いったい、どの作品が釧路で展示されたのか、そして本物か、あるいは複製だったかもよくわかりません。
Mさんの記憶では、丸木夫妻は来場せず、作品のみの展示だったとのことです。

1950年代前半には、こうした小規模の原爆展が、全国各地で無数に開催されていたようです。そして、そのほとんどは記録に残されていません。今回のように、展覧会を観たという人の記憶と、それを裏付ける地方紙の小さな記事のひとつひとつが、その存在の貴重な証になるのです。
さまざまな人によって支えられた《原爆の図》巡回展。こうした小さな発見の積み重ねから、その全体像が少しずつ見えてくるのも興味深いです。
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2008/4/17

1951年11月札幌原爆展  1950年代原爆の図展調査

昨日の日誌にご紹介しましたが、札幌市にお住まいの友の会会員Hさんから、1951年11月に開催された札幌原爆展の資料が届きました。
Hさんは当時札幌南高校の1年生で、生徒会室でチケットを買い展覧会を観に行ったことを日記に記していたそうです。
今回、原爆展について調べて下さった際、『北海道新聞』を検索してもさっぱり記事がなく、『北海道大學新聞』や『札幌西高新聞』の方が詳しく報じていたそうですが、当時の教員や学生の社会的関心の高さが感じられ、興味深く思われました。
とりわけ『北海道大學新聞』は、(北大文化団体連合会らが中心になって活動していたこともあって)札幌原爆展を準備段階から報じています。

   *   *   *

1951年10月5日『北海道大學新聞』には、「近く札幌で原爆展 赤松とし子 原爆の図も来道」との見出しで、展覧会の準備段階の記事が掲載されています。
それによると、札幌では北大中央委員会が中心となり、市内の宗教団体、民科、職組などと提携して10月下旬から11月上旬にかけて原爆展を市内百貨店で開催する準備を進めたようです。
展覧会に先立って、道学連が京都大学同学会が中心になって行った原爆展の経験を伝える小冊子『平和の誓いに結ばれて―原爆展のできるまで―』(1部10円、発売元各自治体)を発行したことも紹介されています。

札幌原爆展が開催されたのは1951年11月20日、21日の2日間でした。
第1会場の札幌丸井5階では《原爆の図》5部作が展示され、第2会場の富貴堂2階では北大理学部教授の監修のもと、各学部出品の原爆に関するパネルパノラマ模型が展示されました。
主催は北大文化団体連合会、後援は道学連、北大全学中央委員会です。

1951年11月10日『北海道大學新聞』には、「原爆展にもりあがる熱意 文連主催 20・21両日札幌で公開」との見出しで、原爆展を成功させるために各種生活協同組合、勤労者医療協会、婦人団体、労組、教育関係など市内諸団体に呼びかけ、会場の丸井に会期延長を交渉するなど、主催団体の熱意が報じられています。
また、札幌に先立って開催された室蘭では4日間で延べ4,000人が、旭川丸井では「平日の5倍」(正確な人数は記載なし)の人が訪れたと紹介されています。

展覧会の初日、1951年11月20日『北海道大學新聞』には「生き残った人々の願い 総合原爆展 平和への意欲を結集 三十余団体の支援 遂に公開なる」と、1面に原爆展の記事が大きく掲載されました。
紙面には、理学部、工学部、医学部、農学部、法経・文学部、教養部の学生が制作した「原子核の構造、分裂」「火傷の人体への影響」「札幌に原爆が落ちたら」などパネルのテーマが紹介されています。

同月10日、11日の両日に雨竜郡秩父別村筑紫で開かれた原爆図展の様子も報じられ、「山深い村民約三千名に多くの感銘を与え、翌十二日には赤松さんの生家善性寺で盛大な原爆法要が行われた」と記されています。
俊が『北海道大學新聞』編集部にあてた便りも原文のまま掲載されています。
筑紫ではこの善性寺で開らきました。村の坊さん、五ヵ寺から集つてもらつて原爆法要を営みました。アミダ仏像と並んで盛大でした。よく似合いました。
この善性寺での展覧会と原爆法要については、俊も後に画文集『ちび筆』(1954年、室町書房)などで回想し、当時のデッサンも現存しています。

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同日『北海道大學新聞』2面には、原爆の図第1部《幽霊》の部分写真とともに、「原爆の図」と題する丸木夫妻の文章も掲載されました。原爆投下直後の広島の惨状の描写から《原爆の図》制作を決意した時の心境、そして巡回展にいたるまでの説明の基本形と言える内容(これは大部分が原爆の図丸木美術館の展示にも受け継がれています)が、この時期にほぼ完成していたことがわかります。

札幌原爆展は市民・学生などを中心に、約1万人を動員する盛り上がりを見せました。
主催者は会期の延長を札幌丸井に申し込みましたが、「先約がある」との理由で断られたため、《原爆の図》展の会場を北大中央講堂に移し、22日から3日間延長して公開しました。
しかし、22日には展覧会の主催者の1人が逮捕されるという事件が起きました。

1951年11月23日『北海道新聞』2面に、「原爆展の責任者逮捕」との小さな記事が掲載されています。
札幌市警では22日、市内南143富貴堂2階ギャラリーで開催中の北大文化団体連合会主催原爆展会場に張付けてあった反米内容のパネル3枚を押収するとともに張付責任者の札幌市南9西18日共道地方委員青柳清(42)を政令325号違反容疑で逮捕した。

1951年12月5日『北海道大學新聞』1面には、「『市民の声』押収さる 圧迫の下で原爆展好評なす」との詳細な記事が掲載されました。
その記事によると、逮捕された開催責任者の青柳氏は、実際は責任者ではなく会場の交渉をしたのみであり、主催者の北大文連側が「原爆展にたいする圧力とみて」再三釈放の要求を出した結果、30日に釈放されたそうです。「占領目的阻害行為処則例」に違反したとされるパネル3枚は、結局返還されませんでした。
しかし展覧会は無事終了し、最終日には、「赤松丸木両氏を囲んで座談会を開催、なごやかなふんいきで5日間の成果をかえり見た」と記されています。「さまざまな困難もありましたが平和を求められる人々とともに原爆展が成功したことを喜びたいと思います、私はこの絵を画いて、いままでもつていた劣等感をぬけ出し自尊心を持てるようになりました、私は平和を求め戦争をにくみ原爆使用に反対される人々とこんご手をにぎり平和への意志を高めて行きたいと思います」という、俊の談話も掲載されました。

この札幌展については、俊が自伝『生々流転』(1958年、実業之日本社)でかなり詳しく回想しています。
展覧会の最初にC.I.E(連合国軍総司令部の民間情報教育局 Civil Information and Education Section) が来て会場の写真を撮り、サインをして帰って行ったこと。
北大の講堂では展覧会を妨害するレコードコンサートとダンスパーティが会場の真ん中で開催されたこと。
新聞社が取材に来て、青柳氏逮捕と、作者の逮捕状が作成中であると知らせてくれたこと。
事件を担当した白鳥警部補が翌年1月に射殺され、容疑者として札幌展の関係者が多く逮捕されたこと(この事件については不可解なことが多いようです)。
結局丸木夫妻は逮捕されず、開催が心配された次会場の函館では、新聞報道の影響もあって人止めをしなければならないほど多くの観客が訪れたことなど……

丸木夫妻はGHQ占領下の原爆展について、後に「危ない目にあったことは何度もある」と回想していますが、この札幌原爆展は、その代表的な例と言えるでしょう。
また同時に、展覧会の準備に携わった人びとにとっても、いかに困難で危険を伴う活動であったかも、これらの記事からは読み取れます。

   *   *   *

札幌展の後、11月29日から4日間開催された函館原爆展では、チェロ奏者の井上頼豊氏が会場で演奏を行ったことが注目されます。
昨年5月5日の開館記念日に丸木美術館で演奏をして下さったキーボード奏者の井上鑑さんのお父さんです。
さきの1951年12月5日『北海道大學新聞』には、演奏会のため訪函中の井上氏が12月1日午後に展覧会会場を訪れ、約300名の観衆を前に「原爆が落とされると私の拙い演奏はもちろん、大音楽家の演奏も、また聴く人もこの世からはいなくなる。音楽家も平和のための演奏を行つてこそ真の音楽家といえる」と語り、荒城の月、シューベルトの子守唄、トロイメライ、メヌエットなどの追悼演奏を行ったと記されています。
この記事を読みながら、井上鑑さんが「音楽と平和は双子の兄弟」という頼豊氏の言葉を紹介されていたことを思い出しました。

50年という歳月を越えて、《原爆の図》の前にひと組の素晴しい音楽家父子の演奏が流れていたことには、今さらながら感動の思いがあります。
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2008/4/16

原爆の図札幌展資料  1950年代原爆の図展調査

しばらく都内の小学校や美術館を巡ったり、息子の幼稚園の入園式に出たりしていたので、昨日は約1週間ぶりに丸木美術館に出勤。山積みになっていた雑務を片づけているところです。
M子さんには、東武鉄道各駅に配布する美術館ポスターの制作を手伝ってもらいました。
昨日は小高文庫の整理のためにM園さんもボランティアに来て下さいました。

今週末には、丸木美術館クラブ工作教室があり、26日(土)から開催される川口市アートギャラリーでの「マイ・アートフルライフ展」のスマ作品の搬出作業もあります。

ぼくが丸木美術館を留守にしている最中に、札幌市にお住まいの女性の方から、1951年に開催された原爆の図札幌展の資料が届いていました。
美術館ニュースをお読みいただいている方だと思うのですが、丁寧に『北海道大学新聞』や『北海道新聞』、『札幌西高新聞』に掲載された貴重な展覧会記事をコピーして下さったのです。
その内容については、また後ほどお知らせします。

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2008/1/31

1950年10月広島五流荘展  1950年代原爆の図展調査

ここ数日、1950年10月5日から9日に広島市内の五流荘で行われた「原爆の図展」について調べています。《原爆の図》三部作が初めて広島市内で公開された重要な展覧会です。
中国新聞のK崎記者の協力により、いくつかのことがわかってきたので、以下にまとめます。

   *   *   *

まず、会場となった五流荘について。
資料によっては、「爆心地の原爆会館」(1950年10月21日付『婦人民主新聞』)「爆心地文化会館」(「原爆の図三部作展覧会記録」)などとも記されていますが、五流荘、または五流荘ホールという呼び方で良さそうです。
五流荘については、1993年2月8日付『中国新聞』に「建造者不明・資料なし…幻のホール」という記事が出ていました。
終戦直後から1951年頃までの数年間、原爆ドーム南隣にあった簡易木造建築で、当時の広島県労働組合協議会会長の松江澄さんの回想によると、「だれが、何のために造ったのか今なお分からない。個人で造れるような大きさではなく、管理する人もいなかった。中は体育館のようにがらんどうだった」そうです。
五流荘は、原爆反対などを叫ぶと連合国軍総司令部(GHQ)ににらまれた時代の平和運動を支えた建物ですが、資料はほとんど残っていないとのこと。
1950年10月の「原爆の図三部作展」に関わり、翌年8月1日には被爆者のための慰霊音楽会を開いたという松江さんは、「平和運動にはなかなか会場を貸してくれない時に、自由に使えてありがたかった」と話しています。

ヒロシマ平和メディアセンターのWEBサイトの今年1月18日の記事には、被爆から2年後の広島中心部のパノラマ写真(撮影:菊池俊吉氏)が掲載され、五流荘の姿も確認できます。
原爆ドームの奥の、三角屋根の倉庫のような建物です。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/jp/news/n080118/n080118.html

   *   *   *

「原爆の図展」に協力したのは、『われらの詩(うた)』という詩誌を発行していた青年詩人集団「われらの詩の会」(代表・峠三吉)。
1975年7月25日付『中国新聞』の記事「《原爆の図》にかける 丸木位里・俊の30年〈4〉」によると、峠三吉・和子夫妻、深川宗俊、望月久、増岡敏和、林幸子、四国五郎らのメンバーでした。
展覧会前日には丸木夫妻と壺井繁治の座談会が行われ、『われらの詩』第10号(1950年12月発行)には「壺井・丸木・赤松諸氏を囲む座談会」という要約記事が掲載されています。

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俊は座談会で、以下のような発言をしています。
 原爆といえば雲がむくむくでているとか、焼跡だとか、「長崎の鐘」でもお祈りするだけだ。それより人が死んだということがつらいし、癪にさわるという氣持ちもあつて、どうしても人間のみを描きたいとおもつた。
 アトリエが狭いので丸めて描き部分部分を細かく描いたので、ルネツサンスにおけるリアリズムの原則の透視圖が成立しない。即ちミケランヂェロ等とちがつて繪全体に焦点がなく一つ一つの部分にそれがあるのだ。そういう傳統は東洋畫のなかにある。リアルでないといわれるけれど描く本人にとつて肉体的に感覺したもののなかにそうしたものがあるのではないかと思つている。


壺井氏はそれに対し、こう答えます。
 モチーフは失われた人間の生命に對する愛情、そういう破壊に對する憎しみ、その愛と憎しみがつよくでているとおもう。現實には木や瓦があるのだがモチーフが人間にあるからモチーフを追求した方がボリユームがあるとおもう。材木など觀る者が想像すればよい。

丸木夫妻は《原爆の図》の連作(その後の南京やアウシュビッツ、水俣、沖縄なども)を通じて、徹底的に人間の身体を描くことで主題に迫っているのですが、それが1950年という初期の段階から相当強く意識されていたことが、あらためて感じられる資料です。

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1950年10月6日付『中国新聞』には「書きつづく原爆畫」という見出しで、第3部《水》の右半双の写真とともに展覧会の様子が報道されています。
この記事には、丸木夫妻の談話(おそらく俊の言葉でしょう)が紹介されています。
 映画でも絵画でも雲がモクモクと出ているのが原爆であるというような軽々しいあつかいをしているのが気に入りません、原爆直後の広島市をこの目でみてスケッチした私たちも爆弾は受けなかったのでこの展覧会を機として体験者の話をもきいて四部作、五部作と続けたいと思います、アメリカで画集を発行する計画もありますが、私たちはこの作品をもっともっと充実したものにしてゆきたいと思います。
広島での初公開を機に、「体験者の話をもきいて」後続作を描く構想が最初からあったこと、当時「アメリカで画集を発行する計画」もあったこと(どれほど現実的だったかはわかりませんが)などがわかります。

   *   *   *

1950年10月21日付『婦人民主新聞』には、展覧会の総括が掲載されています。
それによると、「宣伝が十分できにくかつたことと、繁華街でないため、東京展にくらべ入場者はすくなかつたが、会場での平和投票は2,668票に達し、これは広島の婦民クラブの票に加えられた」とのこと。
紙面に紹介された俊の便りには、絵の前に次々と語り手が増え、丸木夫妻は聞き手にまわりながら、「もうこれで完成と思つていた原爆之図は四部作五部作へと前進せねばならなくなりました」と思ったことが記されています。

《原爆の図》をあくまで前向きにとらえる俊に対し、位里は別の考えを書き記しています。
1950年10月5日付『中国新聞』に掲載された、位里の絵と文による「陳列館跡」。
興味深く、かつ短い文章なので、全文引用します。

見まい、思い出すまい、思い出すのはたまらない。見まいとしても見なければならない陳列館跡。わたしはこの陳列館をどうしたらいいかと広島へ来たたびに考えさせられている。原爆の図は広島へは持って来てくれるな。広島で展覧会をするのはやめてくれ、と妹はしんけんな顔をしていった。ある主催者はいまさら凄惨な思いを再現するのはどうかというてきました。わたしはこの原爆の日を描いて考えさせられております。描かなければならない。絵かきとしていま、描かなければならないものはこれだと思って、すべてをなげうって描きあげたこの絵が、人を嘆きかなしませる絵であってはならない。

広島では決して《原爆の図》展示は歓迎されたわけではなかったことを感じ取り、「絵かきとして描かなければならない」との決意の一方で、「すべてをなげうって描きあげたこの絵が、人を嘆きかなしませる絵であってはならない」との思いを抱いた位里。
原爆という未曾有の地獄図を描きながら、しかし芸術としての美しさをたたえている《原爆の図》の複雑さ、多面性は、こうした二人の感情の交錯から生まれてきたのではないかと思います。

ちなみに「陳列館」とは、現在「原爆ドーム」の名称で知られる広島県物産陳列館(1915年8月5日開館、1933年広島県産業奨励館に改称)のことです。
戦前は盛んに美術展が開催され、広島での美術普及に大きく貢献した建物で、位里も1936年に靉光らと開催した第1回藝州美術協会展をはじめ、何度も作品を展示していました。
《原爆の図》連作には「原爆ドーム」などの建物は一度も描かれていないだけに、『中国新聞』に掲載された位里の筆による「陳列館跡」のスケッチは、なかなか興味深いものがあります。

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