2012/12/7

第1次琉大事件と“原爆の図”  1950年代原爆の図展調査

原爆展の開催など大学への届け出なしに平和運動を行ったことを理由に、4人の学生が退学処分になったことで知られる1953年4月の「第1次琉大事件」。
このとき、復帰前の沖縄で《原爆の図》が展示されていたという情報が以前から気になっていたのですが、先日、大阪大学大学院「日本学方法論の会」でお世話になったU先生や院生のYさんから資料を提供していただき、当時の状況がわかってきました。

1953年3月17日付『沖縄タイムス』朝刊に、次のような記事が掲載されています。

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“原爆図”で訴う 琉大生全島廻り平和運動

“再び原爆の悲劇を繰返すな”写真の“この子の「目」を見よ”“戦争はいやだ”
十六日、那覇市内の辻々で琉大生活擁護委員会の学生約十名が、プラカードをかざし、道ゆく人に呼びかけていた。十二日から春休みになつた琉大生らがアルバイトの暇をみて平和愛好者五十名で申合せ、一日十名ずつ、アサヒグラフから切抜いた“原爆の図”三十点をはり出して、かわるがわる説明に立ち「皆で協力すれば必ず平和になれる、この図を沖縄全島の人びとに見せたいのです。私たちの運動にお力ぞえを…」と訴え運動費を募っていた。
……(以下略)

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写真の説明にも、【写真は原爆の図に見入る人びと】と記されているのですが、記事を読めばはっきり書かれている通り、展示されていたのはアサヒグラフ(1952年8月6日号の原爆特集)から切り抜いた写真だったようです。

現存する唯一の「原爆展」写真という、『琉大事件とは何だったのか』(大学人九条の会沖縄 ブックレット編集委員会編、琉球大学大学院法務研究科発行、2010年)の表紙に使用されている浜田富誠氏所蔵の写真を見ても、はっきりとアサヒグラフだとわかります。

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1953年の沖縄に展示されたのは、どうやら(複製も含めて)《原爆の図》ではなかったようです。
もっとも、見逃せないのは『沖縄タイムス』が原爆写真を「原爆の図」と報じていること。
当時、原爆写真と《原爆の図》がいかに混同されて広がっていたかをあらわす「誤報」として、興味深い記事なのは間違いありません。
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2012/12/1

占領下の「原爆の図展」に対する調査書  1950年代原爆の図展調査

11月末は、原爆文学研究会『原爆文学研究』、アジア女性資料センター『女たちの21世紀』、日本の戦争責任資料センター『Let's』の3つの機関誌の原稿と、大阪大学大学院「日本学方法論の会」に提出する発表原稿などの〆切が集中してどうなることかと思いましたが、かなり綱渡りではあったものの、なんとか予定通りに収めることができました。

まあ、ひと安心するのも束の間のことで、12月にはまた別の原稿の〆切があり、年内にはあと数本仕上げなければ年を越せないのですが……。

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大阪大学に提出した発表原稿のなかで、占領下における「原爆の図展」の立場をあらわす資料として、1951年5月31日付で福島県の耶麻地方裁判所から管轄町村に向けて発せられた調査書を紹介しました。
「プレスコード」のような表現に対する検閲ではなく、政令325号「占領目的阻害行為処罰令」への抵触を示唆する内容が具体的に記されている興味深い行政文書です。
以下、全文の書き起こしです。

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昭和二十六年五月三十一日
耶麻地方事務所長
各町村長殿

丸木位里赤松俊子共同製作に係る「原爆の図」展覧會に関する調査について

標記の件に関し昨年八月頃より全國各地において展覧會を開催しこれと並行して催される平和懇談会等において反米反戰熱を煽っている模様であるが責町村内において過去における該展覧會の開催状況及び将来の開催予定を調査の上その結果を六月五日まで期日厳守報告願いたい。
なお過去の状況については(1)開催年月日及び場所(2)主催者名(3)入場者の数及び性別階層等(4)反響(5)会場における宣傳活動(資料等あれば添付のこと)(6)懇談會等の状況等を又爾今開催の場合は前記同様により調査され至急報告されたく申添える。


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この文書に対し、管轄内の慶徳村からは村長の名で以下の返答が出されています。

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丸木位里赤松俊子共同製作に係る「原爆の図」展覧調査報貢標のことについて照會ありましたが左記之通報告致ます。

      記
一、本村には過去に於ても予定等とも該当ありません

昭和二十六年六月二日 慶徳村長 長谷部新
耶麻地方事務所長殿


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この貴重な資料は、『喜多方市史3 近代・現代通史編V』(2002年発行)の編纂に携わった元高校教師M氏からご提供頂いたものです。

調査書は1951年5月31日付となっていますが、これは画文集『ちび筆』に出てくる俊の回想のなかの、空知支庁から秩父別村に届いた文書と時期も内容もほぼ一致しています。
つまり、福島県の耶麻地方だけではなく、広域的に(おそらくは全国規模で)調査が行われていたものと思われます。
1951年10月、俊の母校である秩父別の小学校は、「原爆の図展」開催直前に、この通達を理由に断っています。通達が、文面通りの単なる「調査」ではなく、無言の圧力となっていたことは容易に想像されます(結局秩父別では、俊の実家の善性寺で開催)。
また、秩父別展の直後に開催された札幌展では、「反米的」な感想文を会場に掲示したという理由から、展覧会場責任者が逮捕されるという事件も起きています。この事件も調査書の内容とつながっているように感じられます。

M氏のご教示によれば、この時期は「原爆の図展」だけではなく、ほかにもさまざまな労働・社会・文化運動の内偵的な調査が行われていました。メーデー関連の行事や、共産党指導下に展開されている各種平和運動、各種文化サークル活動(前進座や劇団プーク、楽団カチューシャなど)などの調査書も現存しているようです。

なお、当時の行政資料は当然ながら手書き文書。写しをいただいたものの、私の教養では解読できない略字や崩し字もあり、書き起こしには元美術館学芸員Mさんや書家のI先生にご協力を仰ぎました。心から御礼を申し上げます。
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2012/5/19

1950年「原爆の図展」新資料の発掘  1950年代原爆の図展調査

なかなか整理する余裕がなかったのですが、このところ、1950年代の国内外の原爆の図巡回展に関する新しい資料が出てきています。
大きな“発見”というわけではないのですが、これまでの調査を裏づけるような貴重な資料なので、少しずつご紹介していきます。

まずは、京都大学新聞社発行『學園新聞』1950年7月10日・17日号の特集「よみがえる傷痕」に掲載された水沢澄夫による“胸打つ戦争憎悪の響き”という評論。

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美術批評家の水沢澄夫(1905-1975)は、最初の《原爆の図》が発表された1950年当時、日本美術会の書記長を務めていたようです。
《原爆の図》に関する従来の記録や評論のなかには、この文章に言及しているものは、おそらくないのではないでしょうか。存在そのものが埋もれていた文章だと思います。

記事には、《八月六日》(現在の原爆の図 第1部《幽霊》)の全体写真が掲載されています。
《原爆の図》は三部作完成後に広島で軸装されるのですが、この写真は、軸装前の表装を記録した貴重な一枚。興味深いのは、作品が額装されているように見える点です。
丸木夫妻は、当初《原爆の図》は仮張りの状態であったと回想しています。
横幅720cmの大画面を分割せずに額装していたのでしょうか。持ち運びは相当大変そうです。

少し長くなりますが、以下に記事の内容を抜粋します。

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 四五日前の夜、彼女の勤め先の新聞社から、たのんであつた「八月六日」の複写写眞を持つてかえつたときの妻の話。
 いまね、市場の八百屋さんに寄つて買物をしたのよ。そのついでに八百屋の若い人たちに写眞を見せたらね、「うわあ、こりやすげえや」と大声をあげたので、お客さんやそこらの人たちまで集つて來て、「だけど、すこし大げさすぎるようだね」なんていう人もいたから、「この画かきさんはね、原爆三日後ヒロシマへ行つて、それから何百枚も写生して、それでこういう画ができあがつたんですつて。だからうそはちつともない、ほんとにこのとおりだつたつて」と説明したら、みんな、「やりきれねえな。戦争はまつぴらだね」とうめくように言うのよ」。


(中略)

 この作品はさる二月、東京都美術館で開かれた第三回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に出陳された。そしてさらに四月、これは私がすすめて敢えてふたたび、日本橋丸善画廊での「原爆の図」展に出してもらつた。上野の美術館へは行く人も限定され、こういう作品は街なかでできるだけ多くの人に見てもらわなければならぬと思つたからである。はたして丸善画廊はじまつていらいの連日満員、いつ行つても画廊いつぱいの人人人であつた。このときは「八月六日」とともに、百数十点の、この作品の土台となつたデッサン、およびさらに第二部作の「夜」の一部が出陳された。私は分量的に全「原爆の図」の約三分の一程度見ているわけである。そういう程度の立場に立つて、この作品についてものをいうべきであろう。

 ×   ×

 訂正されたにしても、素人評の一部にあつた「大げさすぎるようだ」という言葉、それはいわゆる玄人がわにもある。エロ・グロだというような言葉は批評以下としても「内容と表現とのあいだに問題がある」とか「レアリズムに徹していない」とか、そういつた批評である。構図にしまりがたりなかつたり、部分的には人体のデッサンがくるつていたりする点はたしかにある。それはたぶん、一言でいえば「伴大納言絵詞(えことば)」の構図や「病草紙(やまいそうし)」のレアリティには及ばないというような事であろう。けれども作者たちは、なぜ油画的表現をえらばないで、日本画的材料をえらんだのだろうか。私はここに、うちわにうちわにと表現することによつて逆にふくむところ多かろうとする、作者たちの一つの野心――彼らの世界観の上にたつ古くてしかも新しい美の創造――の片鱗を見るのである。

 彼らは第二部第三部へと精進をつづけている。そしてそれらはさらに何べんか描きあらためられるだろう。私は現在の『八月六日』にあらわれたもろもろの欠点をつくよりも、これが共同制作であること、二人の作者の成長によつて作品が着々と成長してゆくであろうこと、そこに期待をもつべきだと考える。何よりも、こういうテーマとつつくんだこと――他のどの作家がそれを成し得たか――、すでに五年のとしつきをこれについやしていること、それはわが國の美術界として稀有なことであり、そこに新しいものの創造を期待していいことではないだろうか。「五年経つた。わたしたちは何をしていたのだろう。戦争の痛手にまだ戸惑つていたのだろうか。そうして今原爆の悲しみをさえ忘れようとしている……」自らをそしてお互いにはげましあいながら、丸木・赤松の両氏は制作をつづけているのである。

 『きけ、わだつみのこえ』を見た観衆は、戦争の非人間性・惨忍さに胸つぶされる思いで映画館を出てしばらくは口もきかない。けれども翌日、またその翌日、だんだんとうすれてゆくものを感じ、ストーリーの手薄さや映画技術の安易さが氣になつてくる。『屍の街』を読んだ人は、豊富な素材が、これは作者みずから釈明しているところでもあるが、文学作品としては十分にまだ熟していず、生かされていないものを感じる。

 「八月六日」はその点、いろいろな欠陥をもちながら、私たちのうちにいつまでも一種のやりきれなさをのこす作品である。これは映画や文学と画とのちがいだけではなさそうだし、また、私がいわゆる美術批評家であるからでもなさそうだ。それはたぶん二人の作家の手を組んだうちこみの強さと可能性とに関するものなのであろう。この作品を思いおこすたびに、私も亦、八百屋の若い衆のことばで「やりきれねえな、戦争はまつぴら」と思わずにはいられないのである。


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文中には「四月」とありますが、実際に日本橋丸善画廊で「原爆の図展」が開催されたのは1950年3月22日から25日のことです。
現存するガリ版刷りのチラシによると、主催は桃季会(日本美術会)、発起人には村雲大撲子、内田巌、後藤貞二、別府貫一郎、椎名剛美、水沢澄夫という美術家たちが名を連ねています。
広島県立文書館所蔵の今堀誠二文書「丸木・赤松『原爆の図』についての調査メモ」には、当初はこのメンバーで展覧会を行う予定だったものの、村雲が「個展にした方がよい」と勧めたため、「原爆の図展」に変更されたと記されています。
細かい経緯はともあれ、丸木夫妻の最初の「原爆の図展」に、水沢らが大きく関わっていたことは確かなようです。

《八月六日》が発表された日本アンデパンダン展では、日本美術会の機関誌である『美術運動』と『BBBB』誌上で、この作品が大きな話題となり、水沢が指摘するようにさまざまな批評にさらされています。
それに対し、水沢が「作者たちは、なぜ油画的表現をえらばないで、日本画的材料をえらんだのだろうか。私はここに、うちわにうちわにと表現することによつて逆にふくむところ多かろうとする、作者たちの一つの野心――彼らの世界観の上にたつ古くてしかも新しい美の創造――の片鱗を見るのである」と作品のあり方を積極的に評価している点は興味深いところです。

とりわけ、「私は現在の『八月六日』にあらわれたもろもろの欠点をつくよりも、これが共同制作であること、二人の作者の成長によつて作品が着々と成長してゆくであろうこと、そこに期待をもつべきだと考える。何よりも、こういうテーマとつつくんだこと――他のどの作家がそれを成し得たか――、すでに五年のとしつきをこれについやしていること、それはわが國の美術界として稀有なことであり、そこに新しいものの創造を期待していいことではないだろうか」という箇所、そして「「八月六日」はその点、いろいろな欠陥をもちながら、私たちのうちにいつまでも一種のやりきれなさをのこす作品である。これは映画や文学と画とのちがいだけではなさそうだし、また、私がいわゆる美術批評家であるからでもなさそうだ。それはたぶん二人の作家の手を組んだうちこみの強さと可能性とに関するものなのであろう」という箇所を読むと、まるで現在の視点から《原爆の図》の持つ意味をとらえているようで、同時代にこれだけ作品を正当に評している批評家がいたのか、というのは本当に新鮮な驚きでした。

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そしてもう一点、重要な資料が発掘されたのでご紹介します。
1950年10月に広島市の爆心地・五流荘で開催された「原爆の図三部作展」のチラシです。

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丸木位里 赤松俊子 兩畫伯共同製作
原爆之圖三部作展覽會
日時 十月五日、六日、七日、八日
會場 爆心地 元五流荘 文化會館
主催 廣島美術鑑賞會

原爆から五年たちました。八月六日を中心に、東京の丸善畫廊と三越で開かれたこの原爆の圖展は、九万の入場者を迎えて、東都の人々の魂をゆさぶり泣かせました。
廣島の現實を傳えた歴史、悲しくも香り高いこの作品は、近くアメリカえ出版されることゝなり、ヨーロッパの展覽會にもまねかれている問題作であります。
製作過程は文化ニュースとして既に廣島でも上映されましたのでおなじみの方も多いと思います。
外國や東京、それよりも何よりも地元、廣島の皆様にみていたゞき、強くその御批判をいたゞきたいという兩氏の願いと鑑賞會の希望が一致して、開催のことゝなりました。
廣島の皆様お誘い合せておいで下さいませ。


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このチラシが現存するとは思っていませんでしたが、丸木夫妻が原爆の図海外巡回展の際に関係者に宛てた書簡を集めた袋のなかから出てきたのです。
五流荘展には、峠三吉らの詩人サークル「われらの詩の会」が深く関わっています。
詳しくは、以下の記事をご覧ください。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/904.html

五流荘は1947年頃、茶華道の発展を意図した建築主・梶尾健一によって建てられました。
当初は茶室や住まいが建てられましたが、やがて大きな集会場や客間が増築されました。
本来はそれらの集合が五流荘なのですが、一般には棟高5.5m、広さ40坪の三角屋根の大きな集会場を五流荘と読んでいたとのこと。
のちに小島辰一が居住し「広島爆心地文化研究所」と名付けて、平和運動などに極めて開放的に使われていたようです。
チラシに「元五流荘」とあるのは、「原爆の図展」の頃にはすでに「爆心地文化研究所」あるいは「爆心地文化会館」に名称が変わっていたことを示しているのでしょう。

チラシの内容で注目すべきは、「製作過程は文化ニュースとして既に廣島でも上映されましたのでおなじみの方も多いと思います」という箇所。
1950年の時点で、丸木夫妻の《原爆の図》製作過程を記録した映像があったようです。
現在知られているもっとも初期の映像は、1953年公開の今井正・青山通春監督の記録映画《原爆の図》ですが、チラシにある「文化ニュース」のフィルムは、どこかに残っているのでしょうか。
残っていれば、ぜひ実見してみたいのですが……
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2012/4/15

李徳全来日と赤松俊子の《鳩笛》  1950年代原爆の図展調査

少し前に、早稲田大学の幻灯研究プロジェクトのWさんから、神戸映画資料館での幻灯資料調査にあたっていたところ、1954年の紅十字会代表の李徳全の来日を記録した『平和のかけ橋—李徳全女史一行来訪記録』(おそらく1954年製作、日本幻灯文化社)という幻灯作品のなかに、赤松俊子(丸木俊)の登場する一枚があったとの報告を頂きました。

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(15)赤松俊子さんの鳩笛の絵
ふるさとの鳩よ、日本の婦人の平和の願いをこめて平和平和と鳴け・・・・・・
赤松俊子さんは、東北弘前地方に残る郷土芸術、鳩笛に日本女性の姿をたくして
喜びと感謝の真心こめてこの絵を送りました


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東京都日中友好協会のKさんのご教示によれば、1954年10月30日から11月12日にかけて、李徳全会長を団長、廖承志顧問を副団長とする中国紅十字会代表団が日本を訪問しました。
この代表団は、日本赤十字社・日中友好協会・平和連絡会の三団体の招請によって来日したもので、1949年中華人民共和国が建国されてから初めての正式訪日代表団だったそうです。

その年の9月には、中国文化学術視察代表団(安倍能成団長)が訪中して周恩来総理と面会し、10月には日中・日ソ国交回復国民会議(風見章理事長)が結成されるなど、日中国交回復に向けての機運が広がっていましたが、この中国紅十字会代表団の訪日によって日本各界との幅広い交流がはじまり、その後の民間レベル、政治・経済レベルでの日中関係の発展や、中国残留日本人・戦犯未帰還者の帰国が促進されるなどのきっかけとなりました。

 代表団一行のメンバーには、廖承志副団長をはじめ、肖向全、楊振亜、呉学文などの日中友好関係でその後大きな足跡を遺した要人が含まれていました。東京・京都・大阪など、各地で熱烈な歓迎を受け、なかでも11月6日に大阪市内の扇町公園で開かれた西日本歓迎大会では、会場内に3万人、場外に1万余人があふれ、各新聞はそれを“李徳全ブーム”と呼んだそうです。

私も当時の新聞を調べてみたのですが、たしかに大きく取り上げられていて、李徳全らの来日が社会的な現象を起こしたことが伝わってきます。しかし、彼女に赤松俊子が鳩笛の絵を送ったという記録は登場せず、丸木夫妻の回想にも出て来ないので、幻灯の記録が今のところ唯一の証拠のようです。

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丸木位里・赤松俊子画文集『ちび筆』(1954年3月1日、室町書房)のなかに、「鳩笛」と題する印象的な随筆が収められています。
1953年6月の第2回世界婦人大会に、俊子が日本代表の副団長として参加し、壇上で挨拶をする機会を与えられたときの体験を記したものです。

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 挨拶のあと何を贈りものにしたらよいのでしょう。あわてふためき、汗にまみれたまま出発したのです。なにもないのです。でも何か贈らねばなりません。わたしはトランクの中をひっくりかえしました。原爆の被害写真が出てきました。原爆の科学の本が出てきました。幻燈が出てきました。これ等一切を贈りましょう。日本の悲しい姿のはじまり、そうして、この原爆から今日の基地、パンパン、浮浪者、失業者が続いているのですから、それは必ず見てもらわねばなりません。
 だが、あの宝石のような、心温まる贈りものはないでしょうか。トランクの隅から鳩笛が出て来ました。可愛いい鳩笛です。土の香のある鳩笛です。これは、出発の前日、弘前の女の人がとどけて下さった玩具でした。そうだ、これにしよう、と私は壇上に登りました。わたしは日本語で話しました。五ヵ国語に訳されて同時に放送されていきます。そうして挨拶を終えると鳩笛を取り出しました。みんな何だろうと見ています。鳩笛の首に字が書いてあります。それを朗読いたしました。
 『平和のために倒れたリツ子と共に、世界婦人大会にこの鳩笛を贈ります。郷土の鳩笛よ、リツ子の魂こめて、平和平和と鳴け、世界の果てまで。息子の嫁、リツ子の母、山本梅子』
と書いてありました。そうしてわたしは鳩笛を吹いたのです。
 『ホーホー』
 二声です。
 会場は拍手、立ち上って。泣いている人もありました。会長マダム・コットンさんのところへ鳩笛と原爆の資料を持って行きました。
 『宝石はなかった。立派な品物はないのです。でも、日本の女性の気持をおくみとり下さい。日本の女は、嫁も姑も、もう争うことをやめ、心を合せて平和のために働きはじめました』と、まごころ込めて渡しました。
 マダム・コットンは、鳩笛といっしょにわたしを抱いて下さいました。泣けて泣けて仕方がありません。今抱かれているのは、わたし一人ではないのです。日本のすべての女性なのです。ぼう然としているわたしの頬へチュッ、チュッと、右と左へ接吻をして下さいました。わたしはのぼせてしまって、拍手してくれていることも忘れてしまっていました。こんどはデンマークの代表のルースハーマンさんです。ルースハーマンさんも鳩笛といっしょに抱いてキッスをして下さいました。こんな、接吻などというものは生れてはじめてです。おかえしの感謝接吻をしなければならないのに、わたしはつっ立っているばかりです。こんどは中国代表の李徳全さんです。李徳全さんも鳩笛とわたしをいっしょに抱いて下さいました。東洋人だから抱くだけだろうと思っていたら、チュッ、チュッとキッスです。わたしはびっくりしてしまいました。


(『ちび筆』pp.242-245)

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こうした関係があったために、翌年に李徳全が来日した際には、俊も再会し、自作の油彩画を贈るという運びになったのでしょう。

この随筆には、俊が鳩笛と出会った経緯についても記されています。
それによれば、俊が世界婦人大会に旅立つ直前に、山本梅子と名乗る中年の女性が訪ねて来て、ヨーロッパの土産にと鳩笛を託したのだそうです。
梅子は、「原爆の図展」が弘前で開催(1951年6月16日から18日まで、弘前市かくはデパート5階)されたときに、俊が慰労会で出会った若い夫婦の母親だといい、嫁のリツ子が、その後、貧しさのなかで病気で亡くなってしまったと知らせてくれたのです。

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 『覚えています、覚えています。真赤な頬、リンゴの頬の津軽美人だった……』
 『平和活動というのはなまやさしいことではなかった。貧しさと闘いながら、彼女は病を得て死んだ……。せめて、息子の嫁のためにと、鳩笛に姑の願いをこめて、コペンハーゲンへ持っていって頂いたのです』
 日本のあちこち、世界婦人大会の模様を話して歩きました。世界の女性は手を握り合いました。平和のためにつながりました。日本女性の願いも同じ、この鳩笛を吹きました、と。
 鳩笛を吹きながら、弘前へ行きました。弘前の人人がびっくりしました。
 『わたしたちの郷里にそんなものがありましたか』
 『全く良い声の鳩笛です。そんな立派な郷土芸術があったのか』
と、放送局がホーホーと鳩笛を吹いて放送してくれました。
 それから、東京に帰った或日、山本さんが訪ねてくれました。
 『弘前のリツちゃんのほんとうのお母さんが、泣いてあやまりに来ました。わたしが悪うございました。あなたがそんなにわたしの娘のことを思っていてくれたことは知りませんでした。こんど、はじめてわかりました、と』
 『わたしはこれで満足です。嬉しうございます。――リツちゃんは他へ嫁にいくことになっていたのです。リツちゃんの家は金持ですから、リツちゃんは美人でしたので、やっぱり弘前でも指折りの家へ決めたのです。その結婚式の前の日にリツちゃんはわたしの家へ逃げて来たのです。山本の息子が誘惑したと、怒り続けていました。そうしてリツちゃんが死んだので、それ山本の赤がわたしの娘をとうとう殺してしまったと言っていました。鏡もない二人。わたしは鏡台とたらいを買って送ってやりました。二人はその鏡台もたらいも使わずに、結婚の用意をする人に売ったというのです。売った金がまた手に入らない。きっとその人も金に困った人だったのでしょう。また、あなたはおなかがすいている。顔にかいてある、といってリツちゃんは、平和活動家の若い人たちに自分たちは食べずに食べさしていました。ほんとうにやさしい娘でした、嫁でした。生活に疲れ活動に疲れて死んだのです。
 せめてリツちゃんのお墓に地蔵さんでも建ててやりたい、と思っていたのです。貯金が六千円貯まりました。でも地蔵さんより鳩笛にしました。それだけみんな鳩笛を買いました。その鳩笛を、一軒一軒売って歩いています。平和の願いをこめて、民族のほこりをこめて』
 津軽弁のたどたどしい言葉です。わたしは鳩笛を吹いている山本さんの肖像を描くことにしました。日本の鳩笛、郷土の鳩笛を吹く日本の婦人を。


(『ちび筆』pp.248-250)

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おそらく、この山本梅子の肖像が、李徳全来日の際に俊が彼女に贈った油彩画だったのではないでしょうか。
俊はこの頃、他にも若い娘や外国の婦人をモデルにした《鳩笛》の作品を残しています。

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鳩笛(1956年、原爆の図丸木美術館蔵)

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鳩笛(1960年第13回日本アンデパンダン展出品、個人蔵)

この2点は今回の「生誕100年 丸木俊展」にも出品しているのですが、最初に描かれた《鳩笛》は、李徳全の手に渡って、中国へと運ばれていったことと思われます。
現在は所在がわかりません。

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李徳全(1896-1972)は、牧師の娘に生まれ、抗日戦争中から女性解放と託児所事業に従事し、女性の地位向上に尽力した方です。1949年4月には中華全国民主婦女連合会副主席となり、建国後は国務院衛生部長(衛生相)、中国紅十字会々長、中国人民救済総会副主任などを歴任しています。

また、フェリス女学院大学S教授のご教示によれば、位里と同じ田中頼璋門下で日本画を学び、俊と同じ女子美術学校を卒業している中国の女性画家・革命運動家の何香凝も、李徳全とはさまざまな因縁があり、ともに革命と内戦のただ中を生きながら、新中国建設に深く関わったということです。

幻灯に記録された一枚の油彩画から、激動の20世紀の歴史の一断面を見ることができました。
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2012/4/2

炭鉱展「夜の美術館大学」講義録  1950年代原爆の図展調査

先日、2009年11月4日から12月27日まで目黒区美術館で開催された「‘文化’資源としての〈炭鉱〉展」の関連企画として行われた「夜の美術館大学」の講義録を頂きました。
川俣正、本橋成一、野見山暁二、岡部昌生、菊畑茂久馬、石内都ら錚々たる顔ぶれの講師による非常に興味深い講義の記録に加えて、「補講」として、昨年中止になった「原爆を視る展」の図録に本来は掲載される予定だった北海道近現代史研究者・白戸仁康さんの論考「GHQ占領下の「原爆の図」北海道巡回展 1951年10月28日-1952年5月1日」が収録されています。

人々の記憶の中に埋もれかけていた1950年代はじめの北海道巡回展を調査された白戸さんの仕事ぶりは、この丸木美術館学芸員日誌ブログでもたびたび紹介していますが、今回、あらためて白戸さんの論考から「はじめに」の部分を抜粋してその経緯をご紹介します。

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 2009年12月、原爆の図丸木美術館学芸員・岡村幸宣の論考「『原爆の図』全国巡回展の軌跡」の中で、1952年の北海道巡回展の一部についてもはじめて紹介された。丸木位里・俊夫妻が「原爆の図」五部作を帯同した道内5カ所の1951年巡回展については、俊もたびたび回想しているが、引き続き行われた52年の道内巡回展については触れていない。
 1952年の道内巡回展調査のきっかけは、2009年11月4日から12月27日まで目黒区美術館で開催された、「'文化'資源としての<炭鉱>展」の調査・準備で来道した正木基学芸員が、三菱美唄美術サークル共同制作「人民裁判事件記録画」の制作者の一人で札幌市在住の画家・平山康勝に取材中、一枚の子どもたちの小さな集合写真を“発見”したことにある。丸木美術館の岡村幸宣学芸員が、それが美唄展会場前で撮られたものと確認し、その後の調査の発端となった。
 2010年2月27日付『北海道新聞』も、丸木美術館の調査や取り組みの意義について報道し、51年の巡回展でも不明だった期日や会場もふくめ、様々な情報が寄せられた。その幾つかは、ネットのブログ「丸木美術館学芸員日誌」及び『丸木美術館ニュース』101号(2010.4.10)ほかでも随時紹介されたが、52年の巡回展が予想を遙かに超える広がりを持っていたことがわかってきた。
 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により日本はようやく連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)、実質米軍の占領政策から脱し‘独立’した。丸木夫妻が「全五部作」を帯同し、1951年10月から道内5カ所で開かれた巡回展は、翌52年1月以降も別なかたちで継続され、日本独立から3日後の1952年5月1日までの間に、さらに30カ所の地域で開催されていたのだ。
未解明の地域も残っているが、本稿ではあらためて、1951年10月28日から実質6カ月に及んだ道内巡回展の経緯や背景、各地の状況などについて概観する。


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以下に論考の見出しを書き出します。
これだけでも圧倒的な調査の充実ぶりが伝わるのではないかと思います。

はじめに
1 丸木位里・俊夫妻による北海道巡回展(1951年10月28日-12月2日)
 【室蘭展】
 【旭川展】
 【秩父別展】
 【札幌展】
 【函館展】
2 「全道くまなく原爆展をやろう!」―第二期北海道巡回展
3 空知地方産炭地を中心に―夕張市より赤平町
 【夕張展】
 【岩見沢展】【美流渡展】【幌内展】
 【美唄展】
 【砂川展】【上砂川展】
 【赤間展】【赤平展】【茂尻展】【豊里展】
3 狩勝峠を越えて道東拠点都市へ―帯広市より北見市
 【帯広展】
 【根室展】
 【釧路展】
 【網走展】
 【北見展】
4 道東から日本海岸、そして山間部―名寄町より沼田町浅野雨龍
 【名寄展】
 【稚内展】
 【留萌展】
 【浅野雨龍展】
5 南へ北へ、太平洋岸から再び内陸部へ―小樽市より幕別展
 【小樽展】【余市展】【大和田展】
 【浦河展】【静内展】
 【深川展】
 【富良野展】【足寄展】
 【幕別展】
おわりに


北海道全域にわたるネットワークをお持ちで、炭鉱史、労働運動史にも精通された白戸さんでなければ到底まとめられなかったと思われる、ひとつひとつの原爆展を掘り起こした丹念な仕事を、ここですべてご紹介することはできません。
しかし、この論考をご覧になれば、「炭鉱展」から「原爆展」へとつながる連続性が、よく伝わってくるのではないかと思います。
この講義録は目黒区美術館でも販売される予定と聞いているので、興味のある方はぜひ問い合わせてみてください。
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2011/9/13

「原爆の圖世界行脚後援芳名帳」も発見  1950年代原爆の図展調査

「原爆堂設立の趣意書」と同時に小高文庫で見つけた資料をもうひとつ紹介いたします。
原爆の圖世界行脚後援芳名帳」と記された約1,000枚の資料です。

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芳名帳の表面には、原爆の図世界行脚後援会からの「おねがい」文が記され、裏面には後援者10団体と222人の名前が並んでいます。
そして、御芳志・御芳名・御住所の欄があり、1枚につき17人の名前が記入できるようになっています。約1,000枚の芳名帳が現存するということは、(原稿用紙などを芳名帳代わりにして名前を連ねている場合もあるので)およそ1万5,000人から2万人ほどの人が、1956年からはじまった原爆の図世界行脚に賛同し、資金の援助をしていたことを示しています。

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以下に、表紙の「おねがい」を全文紹介いたします。

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原爆の圖世界行脚後援芳名帳

おねがい

 丸木位里、赤松俊子夫妻が「原爆の図」を描きはじめてから八年、皆様方の御援助の下にこのほど十部作を完成いたしました。雨の日も風の日も日本国内行脚を助けて下さった方々、夫妻をはげまし図の完成のため蔭に陽にお力添え下さった方々に心から感謝を捧げます。
 原爆の図は一九五二年度国内では日本平和文化賞を、国際的には世界平和文化賞を受賞いたし、国内で六百数十回の展覧会、見て下さった方々は一千万人をこえております。この間皆様と共に語り共に泣いて原水爆禁止を誓いあった夫妻は、この年月の想いを胸に来る四月第四部から第十部までを携えて中国へ渡ることになりました。
 図の第三部まではさきに海外に渡り、すでにデンマークをふりだしにチェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、中国、イギリス、オランダを経て、今はイタリーで展覧会が催されています。数百回の展覧に何といっても表装がいたんでまいりましたので、東洋画の発祥地である中国に改装をお願いいたしましたところ、中国平和委員会でこころよくお引受け下さいました。これは日中文化交流の上からもまことに意義深いことと存じます。
 なお中国で全十部の統一した表装が完成した暁には、すでに展覧を申し込まれている西独、オーストリア、カナダ等の国々、さらに全世界の国々でみていただくため、夫妻は図とともに行脚をつづける決意でおります。
 今回の出発をまえに夫妻を励まし、この壮挙を援助するため、皆様の物心両面の御支援をいただくことを心からお願い申し上げます。

一九五六年三月

                         原爆の図世界行脚後援会
                         事務局責任者 福島要一・壬生照順


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後援に名を連ねた10団体は以下の通り。

原水爆禁止日本協議会/原水爆禁止広島協議会/原水爆禁止長崎協議会/原水爆禁止東京協議会/国民文化会議/日本文化人会議/日本美術会/女流画家協会/平和美術展

222人の個人後援者の顔ぶれもなかなか興味深いので、主な関係者を中心に紹介いたします。

青木春雄/青山通春/青柳潔/赤松淳/秋田雨雀/朝倉摂/朝倉文夫/石垣綾子/井上長三郎/井上頼豊/今井正/岩崎昶/岩崎ちひろ/岩間秋江/岩間正男/内山完造/植村鷹千代/江崎誠致/大木正夫/岡倉古志郎/小笠原貞子/小沢路子/小山田二郎/片山哲/神近市子/河北倫明/川田泰代/岸清次/貴司山治/吉川清/木下順二/草野信男/櫛田ふき/国分一太郎/小松原翠/佐竹新市/佐藤忠良/佐伯卓造/佐伯米子/四宮潤一/島あふひ/清水幾太郎/白井晟一/新海覚雄/末川博/杉浦茂/関鑑子/高津正道/滝沢修/滝口修造/武井武雄/淡徳三郎/壇一雄/壺井栄/鶴田吾郎/寺坂正三/峠和子/徳大寺公英/名井万亀/仲田好江/中谷泰/中谷みゆき/野々下徹/畑敏雄/八田元夫/初山滋/浜崎左髪子/林文雄/針生一郎/土方久功/火野葦平/平野義太郎/広田重道/藤川栄子/細川嘉六/本郷新/真壁仁/正木ひろし/まつやまふみお/松本善明/水沢澄夫/港野喜代子/村雲大撲子/森滝市郎/森田元子/安泰/安井郁/山下菊二/山本安英/湯川秀樹/吉井忠/吉川英治/吉崎二郎/ヨシダヨシエ/井槌義明

芸術・文学界の著名人や、平和運動関係者の名前が並ぶなかに、1950年代の全国巡回展を担った人たち―原爆の図を背負って全国を旅したことで知られるヨシダ・ヨシエや野々下徹をはじめ、1950年10月の福岡展の責任者・寺坂正三、1951年11月の札幌展の会場責任者・青柳潔、1952年1月からの北海道巡回展の責任者・吉崎二郎、同年8月の立川展の責任者・岸清次など―の名前も散見されます。
原爆の図世界巡回展が、このようなかたちで草の根的な支援を得て行われていたということを、あらためて芳名帳の量から実感することができました。
先日の「原爆堂設立の趣意書」と合わせて考えると、丸木夫妻にとって1950年代なかばは、原爆堂設立と原爆の図世界巡回展のふたつの大きなプロジェクトが同時に進行するたいへんな時期であったということに気づかされます。
世界巡回展の支援を全国的に呼びかけている時期に、原爆堂設立まで手が回らなかったというのも、頷けるような気がします。
原爆堂の計画は、広島市などの公的な援助の可能性が失われた時点で、実現の道のりもほぼ断たれていたのではないでしょうか。
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2011/8/12

1952年群馬県内原爆の図巡回展  1950年代原爆の図展調査

久しぶりに、1950年代はじめの原爆の図巡回展調査の話題です。
群馬県立図書館調査相談室のご協力により、1952年夏から冬にかけて開催された群馬県内の原爆の図展の調査が進みました。

1952年は、サンフランシスコ平和条約が発効となり、米軍の占領から解放された年です。
8月には『アサヒグラフ』で原爆特集が組まれ、《原爆の図》も、首都圏を中心とする学生たちの企画によって、同時多発的に各地で展示されていました。
群馬県内の展覧会としては、1952年8月11日から13日まで、高崎学生懇談会の主催により高崎市貿易会館で《原爆の図》第1部から第5部までを展示した「原爆展」が開催されており、『1952年夏 原爆展の記録』という記録集も刊行されたことが確認されています。

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高崎展の3日目、8月13日には俊さんも高崎を訪れ、学生たちの質問に答えています。
なかなか興味深い質疑なので、記録集よりその部分を抜粋します。

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『第五部“少年少女”を解説していると幾度も聞かれるのですが、着物はみな焼けているのに髪の毛だけなぜあゝいうふうに残っているのですか』

『何処でも聞かれるのですが、本当のことを云うと、丸坊主のまゝに書くのがかわいそうで、髪の毛をつけて上げたのです。又絵の藝術的効果という点からも考えたわけです』

『そうすると、先生が先刻おっしゃった暗いものを描きつくしてからでないと、本当の明るさが生れないということと矛盾しないのですか』

『これは非常に大きな創作上の問題ですね。第一部に可愛らしい赤ちゃんが何の傷もなくころがっているでしょう。そう云う赤ちゃんを描きたかったのです。この惨劇の中で、赤ちゃんだけは何時か起上って歩き出してくれたらという私のせっぱつまった願いがそうさせたのです。私だってこんな暗い惨め人間はほんとに書きたくないのです。一体だれがこのように多くの人間を、こんなにも醜い姿にしたのか私はこの絵を書きながらその鬼のような人達に腹の底から憎しみを感じました。こんな暗い絵は二度と書かれてはならないのです』


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今回の調査では、その高崎展のほかに、あらたに太田市と伊勢崎市の「原爆展」の記事が見つかりました。
まずは1952年8月28日付『上毛新聞』の記事から。

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太田で原爆展示会

太田学生懇談会(責任者岡田了三、石川昭夫両君)では廿八日から丗一日まで太田小学校で原爆展示会を開く。市をはじめ市内各種團体が後援している。


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また、1952年12月5日付『上毛新聞』には、伊勢崎市の原爆展の情報が出ています。

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伊勢崎市 学生懇談会主催の原爆展は五日から三日間毎日朝九時から夜八時まで北小学校体育館で開く。

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伊勢崎市の原爆展については、第4部《虹》の前で撮影した集合写真が現存しています。

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ただ、これまでは開催を裏付ける具体的な資料がなかったので、1952年12月5日から3日間、伊勢崎北小学校で開催されたという情報は、とても貴重なものでした。

太田、伊勢崎の原爆展については、当時展覧会の開催に関わった方々がいらっしゃるので、近いうちに聞き取り調査を行いたいと考えています。
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2011/6/12

1955年秩父原爆の図展調査  1950年代原爆の図展調査

午前中、埼玉県立浦和図書館に資料調査へ。
以前に地域資料室に調査を依頼していた1950年代の埼玉県内の原爆の図展について、新しい資料が出てきたのです。

1955年8月26日から29日まで秩父市産業館ホールで開催された「原爆の図展」です。
同年8月27日付『埼玉新聞』の記事を紹介します。

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異常な感激と戦りつ
秩父 話題の原爆図展開かる


○…丸木位里、赤松俊子両画伯の原爆図展は二十六日から四日間毎日午前九時から午後八時まで秩父市産業館ホールで開かれている。一部作だけでも縦六尺、横二十四尺の幽霊の図をはじめ死〔原文ママ、「火」の誤り〕、水、虹、少年少女の五部作の原画全部が掲げられ、二十年八月六日午前八時十五分一瞬にして大広島全市を灰塵に帰した姿が題名の角度から画かれ、雨中詰めかけた市民も異常な感激と戦慄をおぼえ、戦争は二度と繰返すまいという感情に支配された。
○…図展開会にあたり主催者の秩父地区原爆の図運営委員長大野孟子女史始め後援の婦人会、地区労協のほか丸木、赤松両画伯も前夜から来秩、徹夜で会場を準備した。この計画は七月はじめ話が持ち上り市公民館、教育委員会、一部婦人会が主催を引受けたが、中途で背後に思想的な動きがあるというデマのためにためらい、このため会場に予定した産業館ホールすら貸す貸さぬでもめ開会期も変更に変更を重ね、一時は計画もご破算という苦境に追い込まれたが、関係者の涙ぐましい努力が結実、漸く開会の運びとなった。
○…大野会長は開場にあたり「関係者の異常なお骨折でやっと開くことが出来こんな嬉しいことはありません。この図展が市民の関心を集め、戦争の恐ろしさを繰返すまいと誓うのに少しでもお役に立ったと信じています」と語った。


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「中途で背後に思想的な動きがあるというデマのためにためらい」という部分に、原爆の図展開催の苦労が感じられます。
1955年といえば、すでに原爆の図三部作(《幽霊》、《火》、《水》)はヨーロッパを巡回中の頃。
秩父展には、もうひと組再制作された三部作(現在は広島市現代美術館蔵)と、日本に残っていた第4部《虹》、第5部《少年少女》を組み合わせて展示していたのでしょう。
新聞に掲載された会場写真に写っているのは第3部《水》ですが、母子像の背後の被爆者の行列の特徴が、明らかに〈再制作版〉と判別できます。

〈オリジナル〉の三部作が海外に渡った1953年夏以後も、丸木夫妻の手もとに残る〈再制作版〉三部作や第4部以後の作品によって原爆の図展は継続されていたのですが、社会の注目度は次第に薄くなり、新聞などに取り上げられる機会も減っていたので、この秩父展は〈再制作版〉の展示状況を知ることができる貴重な資料です。

   *   *   *

午後は、宇都宮中央女子高校合唱部・吹奏楽部の震災復興祈念コンサートに招待されていたため、宇都宮へ移動。
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2011/2/13

原爆小文庫と立川展感想文集  1950年代原爆の図展調査

午前中、東京・西東京市のひばりが丘図書館を訪れました。
以前から訪れたいと思っていたのは、ここに旧保谷市在住だった故・長岡弘芳氏が収集した原爆関連資料をもとにした「原爆小文庫」が保存されているためです。

現在、4月からはじまる目黒区美術館「原爆を視る1945-1970」展の図録用の論考を書くため、全国の図書館などに調査依頼して1950年代はじめの「原爆の図展」資料を収集しています。
当時の「原爆の図展」は、日本全国を巡ったことが伝説的に知られているものの、いつどこで誰が開催したのか、という具体的な検証が行われたことはありませんでした。
もちろん、記録に残らない展覧会も数多くあるだろうと思われ、60年の歳月が流れた今となってはすべてを掘り起こすことは難しいのですが、今回の目黒展を機に、できる限りの調査をしておきたいと思っているのです。

その一環として、先日、立川市中央図書館に「原爆の図展」の調査協力を依頼しました。
すると、調査担当の方がたいへん親身になって協力して下さり、開催日時や主催団体などの情報を教示してくれた上に、ひばりが丘図書館に立川展の感想文集が所蔵されているということも突き止めて下さったのです。

長岡弘芳氏は、丸木美術館とも深いかかわりのある原爆文学研究者。
こうしたかたちで原爆小文庫とつながった以上、やはり直接ひばりが丘図書館に足を運んで、実際に原爆小文庫と感想文集を確かめてみたいと思いました。

原爆小文庫は、開架書棚のひとつのコーナーになっていましたが、感想文集のような古い資料は閉架書庫に保存されているので、係の方にお願いして閲覧させて頂きました。

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(写真が感想文集、編集後記によればカットは「丸木、赤松両先生」、おそらく俊の筆)

1952年8月15日-17日 立川南口公民館
立川平和懇談会主催「原爆美術展」
原爆の図5部作と東京都立大学学生有志の集めた写真資料を展示


当時の立川には米軍基地があり、朝鮮戦争の緊張状態がいまだ続く時代。
朝鮮半島に向かう飛行機が続々と立川基地から飛び立っていたときに行われた「原爆の図展」ということで、主催者側の苦労も並大抵でなかったことでしょう。
しかし、その分反響も大きく、成功した展覧会であったと思われます。
感想文集『平和のために』(1952年9月9日、立川平和懇談会発行)の序文には、岸清次氏による次のような文が記されていました。

この三日間、政治、宗教、或は物の見方は異つても戦争より平和を!二度と廣島の悲劇を繰り返すな!と集つた延一八七名の、それこそ何の報はれることをも求めない涙ぐましい程の青年達の献身的な奉仕と協力に依つて開かれたものであつて、然も立川市長初め隣接十一町村長と立川地区労協傘下の各労組並に各文化団体宗教家等の賛同の下に、特に十七日は赤松俊子画伯の来場講演を得て盛大に行はれ、三日間に九、九〇七名の入場者(子供を加えると一万二千以上)と平和に関係ある各種署名四千七百八十九票、並に多くのカンパと感想文も百六十余通に達し大成功の中に終つたものであつて、一部は映画に迄収められている。

感想文集には、子どもたちや母、若者、勤労青年などの項目にわかれて、たくさんの感想文が記録されています。
なかには、以下の2つの感想(ともに一部抜粋)のように自身の住む町と原爆を結びつけて考えるような内容も見られました。

原爆展を見
毎日、毎日、身近に鈍い飛行機の音をきく
今この会場で汗を忘れ息をたかならせて絵に見入るとき
この今も不気味な爆音は、私たちの人間の命をふるわせて頭上をとぶ

立川に原爆展開かる。私達の忘れられぬ八月十五日、終戦記念日、此の植民地化されつゝある国際都市立川に於て、あの惨酷な地獄図を見て、誰もが云う「あゝ戦争はいやだ」展覧会を見て出てくる人々の顔に暗いかげがさしている。


後に美術批評家となるヨシダ・ヨシエ氏の詩も、文集に収められていました。
そこにもやはり、基地の街という立川の特殊性がうたわれています。

こころゆくばかり哭きました
はげしい怒りにふるえました
そうして

今あらあらしい感情のゆらぎの底に
固い誓いを切ないくらいおもいながら
家路に向うのです

今日の涙を覚えていよう
このいきどおりを忘れまい
頭上には不吉な尾を引いて
今日も爆音がひゞきます
一機 二機 三機 五機
そうしてそれが
明日は世界をおおう
不気味な黒雲になりはしないか
ひそかにわたしはおそれます

(以下略)

こうした感想文集は、当時の巡回展の状況を知るうえで、たいへん貴重な資料となるのです。
立川市中央図書館をはじめ、たくさんの資料をご教示下さっている全国各地の図書館の調査担当の皆さまには、本当に心から感謝いたします。
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2011/1/26

1952年9月「原爆の図埼玉大学展」  1950年代原爆の図展調査

午前中は埼玉県立浦和図書館で1952年夏の『埼玉新聞』を調査。
昨年10月、1952年から翌年にかけて「原爆展」の巡回展に関わったという元都立大生のお話の聞きとりを行った際、「たしか埼玉県にも巡回した……」という証言があったので、その裏付けとなる新聞記事を探しに行ったのです。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1494.html

1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効後は「原爆展」も新聞報道されることが多くなっていたので、地元紙には記事が出ているのではないか。そして、学生主導の展覧会であるならば、開催時期は夏休みかその前後の可能性が高いのではないか……と推測して、1952年夏の『埼玉新聞』を読みこんでいったのですが、7月、8月と記事はなく、あきらめかけたとき、ようやく!
1952年9月20日の紙面の片すみに、“せい惨、目をおゝう きのう浦和で「原爆展」開く”という記事を発見しました。

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「ノーモア・ヒロシマ」総合原爆展は埼大学生自治会、同教職員組合、アジア太平洋地域平和会議推進埼玉平和会議共催、本社後援のもとに昨十九日より浦和市小松原学園講堂に写真グラフ、デッサンなど多数出品開催された。午後三時までの入場者は約三千名、ニューヨーク美術団体よりの招きで画いた丸木位里、赤松俊子共同制作の原爆の図は畳六枚、幽霊、火、水の三部より成る大作で原爆展の圧巻、見学者はそのむごたらしさに目をおゝいながらも原爆の怖しさをまざまざとみせられノーモアヒロシマの印象を強くした。
 なおこの原爆展はきょう廿日も同小松原学園で、廿一日から廿三日の三日間は埼大講堂で開催される。


以前にお電話で連絡を頂いた別の方の証言にも「埼玉大学で《原爆の図》を観た」という話があったので、その証言とも符合します。
主催には埼大学生自治会が名を連ねていますが、占領下における京都大学、北海道大学の展覧会からはじまり、1952年4月の主権回復後に東京教育大学、都立大学、愛知大学など学生たちによって大きく広がっていった流れのひとつに「埼玉大学展」も位置づけられるのでしょう。

問題は、このとき展示された「幽霊、火、水の三部」が“オリジナル”だったのか、“模写”だったのか、という点です。
“オリジナル”の巡回展を記録したと思われる野々下徹氏のメモにはこの「埼玉大学展」が含まれていないこと、先の元都立大生の回想でも「埼玉では模写を展示した」と語られていたこと、この時期にはすでに第6部《原子野》まで完成していたにもかかわらず、3部作しか展示されなかったことから、“模写”の可能性は高いと思われます。
しかし、その野々下メモでは、1952年9月に開催されたのは「増上寺 5日間」「青山学院 4日間」のみとなっており、“オリジナル”は比較的日程に余裕があるようにも思われます。
(もっとも、野々下メモでは1952年8月とされていた板橋の展覧会が実際は9月開催だったことが先日の調査でわかったので、そのまま鵜呑みにはできませんが)

埼玉大学で行われた「原爆展」が、他の埼玉県内の都市にも巡回していたのか(元都立大生の証言では川越などでも開催されたとのこと)。
増上寺や青山学院で行われたという展覧会の日程が埼玉大学展と重複していないか。
これから調査すべきことの方向性も徐々に見えてきたような気がします。
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2011/1/21

大原社会問題研究所にて資料調査  1950年代原爆の図展調査

朝一番に東京・町田市の法政大学大原社会問題研究所へ行き、一日じゅう資料調査。
1950年代の新聞をひたすら読み込む作業です。
NHKラジオ深夜便を聴いた翌日だったので、睡魔との戦い……それでも、いくつかの重要な収穫がありました。

   *   *   *

ひとつは、1952年に板橋区で開催された原爆展の日程と会場が判明したこと。
これは従来、ヨシダ・ヨシエ氏とともに原爆の図全国巡回を担った野々下徹氏のメモでは「1952年8月に4日間」と記されていましたが、1952年10月6日付『アカハタ』に掲載された小学5年生の女の子の「原爆展」感想文によれば、正確には「9月3日から4日まで」、場所は「板橋議事堂」で開催されたようです。
以下は、その女の子の感想文です。

 九月四日、板橋議事堂に原爆展を見にいった。議事堂ではお兄さんみたいな人が説明してくれた。廣島と長崎では四十万人の人たちが皮がはがれ、やけどをして死んだそうです。
 かいだんを上つてゆくうちに、たたみ八畳に書いたすごく大きな絵があつたが、それを見てもうぞうツとしました。手がとれていたり、火でかこまれてまつ黒こげになつて苦しんで、お母さんが赤ちやんを泣きながらだつこして立ちおくれて行くのや、死骸のおく場所がないので山につみかさねておいたのやら、それはひどかつた。それを見て感じた人に書いてもらおうとして机に紙がのつかつていた。どこかのおじさんは、すみでふでをまつすぐ立てて長く書いていました。
 この議事堂は三日から七日までだつたが、区長さんが三日から四日までと急にいつたので、まだ見ない人がたくさんいるから、日にちを作つて見せればよいなあ――と思つた。
 私の感じたこと。戦争をぜつたいにやらないで、平和にして行きたい。戦争をやらない國にしたい。原子爆弾をよいことにつかつてほしいと感じました。


この“板橋議事堂”というのが気になったのですが、どうやら当時板橋区にあったエスビー食品のカレー工場(現在は板橋スパイスセンター)の入口正面に、1947〜48年頃に国会議事堂を模した工場が建てられ、“板橋の国会議事堂”と呼ばれて親しまれていたそうなのです。
※S&Bエスビー食品株式会社HPを参照。
http://www.sbfoods.co.jp/sbsoken/tanbo/tenjikan/1floor.html

展覧会の主催者は不明ですが、エスビー食品の関係者が関わっていたのか、あるいは、女の子の感想には区長が介入して日程を縮めたと思われる箇所があるため、板橋区が“板橋議事堂”を借りて展覧会を開催したのかも知れません。

   *   *   *

また、原爆の図10部作が完成し、“世界行脚”に出発することになった1956年のはじめに、平塚と横須賀でも展覧会が開催されていたことがわかりました。

1956年5月1日付『アカハタ』の記事「“原爆の図”展の成果 =神奈川平塚地区委員会の総括=」によれば、1956年2月11日から3日間、会場は平塚市体育館で、平塚市原水爆禁止実行委員会と平塚市の主催、地区労、教育委員会をはじめ市内各種青年婦人団体、文化連盟、医師会、社会福祉協議会、仏教会、キリスト教協議会などの後援で開催されたそうです。
展示されたのは「八部の絵と、惨状をつたえる瓦や竹」、「三日間に延一万四千五百名(生徒七千七百余、一般六千七百余)の人びとが参観し、経費をひいて約十七万円の益金をあげ、会場での原水爆禁止署名三千七百五十票、カンパ千二百二十一円、感想文二百八十一通がよせられた。このほかに、一日夜体育館でおこなわれた原水爆禁止講演会に約千名の人びとが集まった」とのこと。

記事の中で俊は、この平塚展の運営について、次のように語っています。
全国で図展をひらいてきましたが、どこでやった時よりもすばらしい。市が後援になって開いたということはありますが、婦人団体が中心になると労組とうまくゆかないとか、労組がやれば婦人、青年団体はいっしょにやらない、というようなこともあり、みんなでというところはなかなかないのですが、ここでは市主催で、労組も婦人の方もいっしょ、共産党まで公然とお手伝いをしているなんて、こうして平和を守るためにやられているのをみるとほんとうにうれしい」。

1956年5月8日付『アカハタ』の記事「“聞けば聞くほど恐ろしい”横須賀で原爆展、被爆者座談会」では、横須賀市で1956年4月21日から3日間、横須賀・三浦原水爆禁止懇談会主催、横須賀市議会、神奈川新聞をはじめ市内の教育・青婦人・医師・漁業・商工関係の団体、地区労、官公労など50の団体後援で原爆展が開催されたと報じられています。
展示内容は、原爆の図10部作を中心に原爆関係写真もあわせて展示されたとのこと。
入場者数は1万人に近く、「会場での寄付一万二千円余、これとは別に横須賀市議会議長や市の主だった各種団体、個人から二万五千円の寄付があり、会場での感想文は五百通も集った」ようです。
「同懇談会では、この原爆展とあわせて広島から村上操さん(原水爆禁止広島協議会理事)他三名の被爆者を招き、四月二十日から三日間、横須賀、三浦両市あわせ十カ所で“被爆者を囲む座談会”を催した。座談会は地域の民生委、PTA、社共、青年団、婦人会、地元の有力者の協力をうけ、四十、五十人と集り、ペルリ上陸で有名な久里浜では七十人も集った」とも記されています。

同じ紙面の「『原爆の図』世界行脚へ 12日夜出発の丸木・赤松夫妻」も注目すべき記事でした。
「これまで『原爆の図』の一部から三部までの展覧会がオランダ、デンマーク、イギリス、イタリアの各都市でひらかれてきたが、それらの図とこんど夫妻がもっていく四部から十部までの図と合わせて、北京で表装しなおされ、それから一年以上の予定でアジアとヨーロッパの各地を廻る予定である」と“世界行脚”の行程が紹介されるとともに、「その間、日本では一部から三部までの別図と“夜”と題する図と、四部から十部までの大写真とで『原爆の図』展をひきつづきひらいていく」と、留守中の日本国内での巡回展の内容についても触れています。

1956年以後の「原爆の図 世界行脚」の間も日本国内で「原爆の図」巡回が続いていたことは、多くの方々の証言からわかっていたのですが、具体的にどの作品が巡回していたのかをはっきり記しているこの記事は、非常に興味深いです。
やはり“模写/再制作版”の原爆の図3部作は、従来考えられていた以上に重要な役割を担っていたのだと、あらためて感じています。
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2010/11/14

1952年原爆の図銚子展の証言  1950年代原爆の図展調査

午前中、かつて千葉県銚子市で原爆の図展を企画したというKさんが来館されました。
Kさんは早稲田大学在学時の1952年に、同じ銚子市から早稲田大学に進学したYさんとともに、市の公民館を借りて原爆の図の展覧会を行ったという体験をお持ちの方で、当時の証言をして下さいました。

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展覧会開催当時(1952年7月12日)の会場写真です。
最前列左から、Kさん、濱田善秀、赤松俊子(丸木俊)、Yさん。
濱田善秀とは当時丸木夫妻のアトリエに出入りしていた画家で、《原爆の図》の模写/再制作版を手伝った方です。
Kさんは市長にお願いして消防署の広報車を借り、市内から周辺市町までくまなく宣伝をしてまわったことや、俊といっしょに会場へ向かう途中、女学生と話しているような若く明るい話しぶりに胸が高鳴ったことなど、さまざまな思い出を話して下さいました。

また、利根川畔のアグリ船(イワシ漁船)を描いた俊のスケッチのコピーも見せてくださいました。

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Kさんによれば、展覧会そのものは友人のYさんが企画されたとのことで、詳しい状況はYさんに聞いて欲しいとのことでしたが、実はそのYさんからも以前にお手紙を頂いていました。

Yさんの手紙には、1952年5月に教育大学在学中の友人により大学際に招かれ、《原爆の図》の展示を見たことから、「この事実を銚子の市民に報らせなければと一途に思い立ち、その場で担当者に申入れ」たと記されていました。会期は1952年7月11日から3日間。4,000人を超える入場者となり、同じ年の冬に開催された大山郁夫講演会の影響も重なって、1953年には「銚子平和を守る会が超党派で結成され、原水爆禁止市民大会が開催されるなど、以後、銚子の平和と民主主義擁護運動の原動力となった」とのことです。

1952年7月といえば、先日証言をお聞きしたばかりの都立大学生による原爆の図巡回展と同じ時期です。
その前の6月には、愛知大学の学生主催による「原爆の図展」が岡崎でも行われています。
作曲家の林光さんが、東京藝術大学の藝術祭で展示された《原爆の図》の前で「原爆カンタータ」を作曲・演奏したと証言しているのも、この年の秋のことです(東京藝術大学に問い合わせたところ、展示されたという確かな記録はないが、藝術祭の日程は11月21日から23日とのこと)。

サンフランシスコ講話条約発効(1952年4月)後のこの時期、各地で大学生主導による「原爆の図展」が盛んに行われていたことを、あらためて考えさせられます。

   *   *   *

午後には、《原爆の図》研究で知られる近現代史研究者のKさんが、早稲田大学の学生数名を連れて来館して下さいました。

美術館の館内は、少しずつ冷え込む時期になっています。
これから冬にかけてご来館されるかたは、くれぐれも温かい服装でおいでください。
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2010/10/26

元都立大生・西岡洋氏聞き取り調査  1950年代原爆の図展調査

かつて都立大学在学時に《原爆の図》の巡回展に関わったという横浜在住の西岡洋氏が来館して当時の証言をして下さいました。

西岡氏が「原爆の図展」に関わったのは、1952年から53年にかけてのことです。
ご本人の話によれば、1952年5月に都立大学で学生たちによる資料パネルで構成された「原爆展」を開催したことがきっかけとなって、東京都平和委員会から「《原爆の図》とともに、原爆展の展示セットを巡回して欲しい」という依頼があったとのこと。
展示の候補としては、北海道大、都立大、京都大の3つの大学が作成した展示セットが挙がっていましたが、内容や輸送への適性などが吟味されて、最終的に選ばれたのが都立大学だったそうです。

西岡氏は原爆展の展示内容を丹念に記録しており、今回、そのノートを見せて下さいました。

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表紙の「原爆展」の文字は、後に野々下徹氏が記したとのことです。

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当時の「原爆展」の資料パネルの内容を知ることのできる、たいへん貴重な資料です。
西岡氏の回想では、都立大学では《原爆の図》は展示されていなかったとのことですが、ノートを見ると、「原子病」の解説部分には、丸木夫妻の絵本『ピカドン』の挿絵の一部が引用されていました(下の頁の2つのイラストは『ピカドン』の挿絵だとわかります)。

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   *   *   *

西岡氏ら都立大学の学生たちは、《原爆の図》を巡回していた野々下徹氏や吉田早苗氏(ヨシダ・ヨシエ)とともに東京周辺の会場を訪れ、資料を展示し、観客を呼び込みました。
実は西岡氏は長崎出身で被爆しており、巡回展ではヨシダ氏らの説明の様子を参考にしながら、みずからの体験を語ることもあったそうです。

野々下氏の遺した巡回展メモを見ながら、西岡氏の記憶を掘り起こして、主な巡回先をピックアップしてみました。1953年には山口県にも足をのばしたとのことです。

【1952年7月】
中野区江古田・東京療養所(野々下氏メモによれば5日間)
清瀬市・清瀬療養所(同4日間)
【1952年8月】
渋谷(同5日間、ヨシダ氏の記憶では回教寺院だが、西岡氏は公民館と回想)
立川市・南口公会堂(8月5日〜7日)
武蔵野市・井の頭公園平山博物館(8月6日〜10日)
田無町(同5日間)
板橋区(同4日間)
【1953年7月】
山口市・山口大学教養学部(7月10日〜12日)
厚狭町(同2日間、西岡さんのノートに地名記載)
小郡町(同1日間、同上)
小野田市(同2日間、同上)
下関市(同3日間、同上)
岩国市(同3日間、同上)


西岡氏の記憶では、この他に川越など埼玉県内各地を巡回したこともあるそうですが、野々下氏のメモには含まれていません。
もっとも野々下氏のメモは、もうひとつの《原爆の図》……模写(再制作)版の巡回の足跡はまったく記していないので、埼玉を巡回したのは、あるいは模写(再制作)版なのかも知れません。
西岡氏の記憶では、どこかの会場で模写が展示されることになったものの、オリジナルと比べて質が落ちるために、その是非をめぐって学生たちの間で議論が起きたとのこと。第2部《火》の炎の描写が異なるので、実際にオリジナルと模写をならべて比較したこともあったとか。

また、当時の写真も多数提供して頂きました。

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こちらは東京・井の頭公園の平山博物館で開催された「原爆美術展」の風景です。
平山博物館は昆虫学者の平山修次郎が収集した世界各国の珍しい蝶、昆虫類が展示されていた博物館でした(現存せず)。
京都大学や北海道大学の学生による展覧会は「綜合原爆展」の名称が使われていましたが、この会場では「原爆美術展」との看板が目に止まります。

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右の写真、右端にヨシダ・ヨシエ氏の姿を発見。

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こちらの写真は立川展のための街頭呼び込みの様子。
看板には「原爆美術展」との文字が見えます。
会期は8月5〜7日、会場は立川南口公会堂、主催は東京都平和委員会と読みとれます。
平山博物館の会期は8月6日〜10日と看板に記されているので、会期が2日間重なっているのが気になります。
あるいはどちらかの会場に模写(再制作)版が展示されたのでしょうか。

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《原爆の図》の前で説明をする俊さんの写真もありますが、会場を知る手がかりがありません。
ちなみに写真に写っている第3部《水》はオリジナルです。

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屋外で観客に囲まれている俊さんの写真もあります。平山博物館展の際の写真でしょうか。

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この写真は、以前にも見たことがあるものでした。
「原爆展」の宣伝用自動車も写っていて、とても良い写真なのですが、会場が判明できません。
背後に写っている建物は、平山博物館のようにも見えるのですが、窓枠のかたちなど細部が微妙に異なっているようにも見えます。

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最後は山口展での写真。画面中央のネクタイ姿は野々下氏。
向かって右隣が若き日の西岡氏です。

なお、今回西岡氏から提供いただいた写真は、いずれも撮影者が不明です。
もしご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ丸木美術館までご一報ください。
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2010/8/5

北海道展とふたつの《原爆の図》  1950年代原爆の図展調査

今年は《原爆の図》が誕生してから60年目の節目の年。
その8月6日「ひろしま忌」を前にして、少々長くなりますが、最近の調査で明らかになった“もうひとつの北海道巡回展”そして“もうひとつの原爆の図”について記したいと思います。
7月31日に九州大学西新プラザで行われた「第31回原爆文学研究会」の発表内容のダイジェスト版となります。

   *   *   *

昨年暮れ、目黒区美術館「‘文化’資源としての〈炭鉱〉展」を企画されたM学芸員に、1枚の写真の存在を教えて頂きました。

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雪の積もる建物の玄関先で、2人の青年に引率されて並ぶ33人の子どもたち。
入口の扉の看板は「綜合原……」と読めます。
この写真は、北海道の三菱美唄炭鉱で1952年1月に行われた「綜合原爆展」の貴重な記録だということがわかりました。
写真の2人の青年は、三菱美唄炭鉱美術サークルの平山康勝氏と鷲見哲彦氏。
絵画教室の子どもたちを連れて、《原爆の図》の展示を観に来ていたのです。

その後、美唄市教育委員長で郷土史家のS氏の精力的な調査によって、この展覧会が新築されたばかりの三菱美唄炭鉱労働組合本部2階で開催されたこと、主催は三菱美唄炭鉱労働組合文化部で、地域の全小中学生が参観したのをはじめ、2日間(1月27日、28日)で約1万人もの来場者があったことなどが次々と明らかになりました。
「綜合原爆展」という名称は、1951年7月に京都大学の学生らによって医学・物理・化学・政治・経済などの多角的な視点から模型やパネルで原爆を解説するという画期的な展覧会で使われていました。
この形式はその後各地に大きな影響を与え、同年11月に札幌で行われた展覧会も、北海道大学の学生が京都展に倣うかたちで解説資料を展示したので、三菱美唄の展覧会も、その流れとして開催されたものと推測されます。

ところが不思議なことに、丸木俊の自伝に詳しく記されている北海道の原爆展は、1951年秋に室蘭、旭川、秩父別、札幌、函館の5会場を巡回したという回想のみで、翌年はじめに開かれた美唄展についてはまったく触れていません。
丸木夫妻から《原爆の図》を託されて全国を巡回したというヨシダ・ヨシエ、野々下徹の巡回展の記録も1952年3月からはじまっているので、美唄展とは時期が一致しません。

約1万人も動員したという大規模な展覧会の記録が、なぜ残っていないのか。
美唄の他にも、北海道には忘れられた展覧会があるのではないか。

そうした疑問から、1950年はじめの原爆展に関する証言を全道的に呼びかける記事を、今年の2月に『北海道新聞』に掲載して頂きました。
約60年前の展覧会であるにもかかわらず、記事をご覧になった方々からは予想以上に多くの反響が寄せられました。
そして、北海道立図書館に所蔵されている元北大理学部教授の「松井愈(まさる)氏資料」のなかに、当時の原爆展に関する詳しい記述が存在することがわかったのです。
松井愈氏は、当時、理学部地質鉱物学科の若手研究者で、民主主義科学者協会(民科)の一員として原爆展開催に熱心に取り組んでいたようです。
とりわけ重要だったのは、1965年北海道大学理学部発行の『底流』第7号に掲載された「朝鮮戦争下の科学運動 ―民科札幌支部自然科学諸部会の活動を中心に―」という文章でした。そこには、1952年に、北大の学生を中心にして、北海道全域を巡る想像以上に大規模な巡回展が行われていたことが記されていたのです。

「全道くまなく原爆展をやろう、われわれの力でこれを実現させよう!!」各地の民主団体に呼びかけ、依頼がだされた。さらに多くの学生・若手研究者が、時間をさき合ってスケジュールを組み、一地域ごとに数名の組織解説グループがつくられた。原爆の図とパネルを各地の会場にリレーしてゆくためにも多くの工夫が必要だった。このようにして、1月10日〜17日の夕張市を皮切りに、岩見沢、美唄、美流渡、砂川、上砂川、赤平、茂尻、幌内、赤間、豊里、帯広、根室、釧路、網走、北見、名寄、稚内、留萌、雨龍、小樽、余市、大和田、苫小牧、浦河、静内、深川、富良野、幕別という順に1ヵ所ずつ数日の日程がとぎれることなく1月から4月までつづけられた。民科札幌支部に報告のあっただけでも原爆展にあつまった人数は15万人を越した。

また、他の証言から、この巡回展には、丸木夫妻側の関係者として画家の濱田善秀氏、北海道の受け入れ側として元国鉄職員の吉崎二郎氏が帯同していたこともわかりました。
濱田氏は、当時、藤沢市片瀬目白山の丸木夫妻のアトリエに居住していた画家志望の青年たちのなかの一人でした。
吉崎氏は俊の故郷・秩父別の隣の深川町出身で、レッドパージにより職を追われ、平和委員会に所属していました。兄君が丸木夫妻と同じ日本美術会の画家・與志崎朗(よしざき・ろう)氏だったこともあり、夫妻の信を得て巡回展の責任者となったようです。

   *   *   *

丸木夫妻自身の巡回展と、ヨシダ・野々下両氏の巡回展のあいだに、まったく別の人たちの手による巡回展が行われていたことは、新しい発見でした。
しかし、その一方で、新たな疑問も浮上してきました。

濱田・吉崎両氏の全道を巡る巡回展(丸木夫妻の“第1期”北海道巡回展と区別するため、“第2期”北海道巡回展と呼ぶことにします)は、1952年5月5日付『北海道大学新聞』の記事により1952年5月1日の幕別展で終了したことが判明しましたが、ヨシダ・野々下両氏の巡回展は、1952年3月に新潟方面ではじまっているのです。
つまり、1952年3月から4月にかけては、同時に二つの場所で原爆の図の巡回展が行われていたことになります。

その疑問は、当時三菱美唄炭鉱労組の文化部長を務めていた故本間務氏のお宅を訪問した際にアルバムから発見した1枚の写真によって解明されました。

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原爆展の会場で署名をする女性たち。
その背後に写りこんでいるのは、原爆の図第3部《水》です。
しかしよく見ると、この作品は、現在、原爆の図丸木美術館に所蔵されている《水》とは、少し違っているのです。

美唄展の写真に写っている《水》の中央部分を拡大してみます。

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参考に、丸木美術館蔵の《水》の中央部分の拡大図版も紹介します。

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母子像の背後に描かれた小さな被爆者の群像の列のかたちが、明らかに丸木美術館蔵の《水》とは異なっています。
また、背景には薄墨が流されていますが、丸木美術館蔵の《水》は余白のままです。

それでは、美唄に展示された原爆の図は何なのでしょうか。
実は、丸木夫妻が制作した原爆の図は、初期3部作に限って2組あるのです。
現在、広島市現代美術館の収蔵庫にあるもう1組の原爆の図第3部《水》の拡大図版を見てみましょう。

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実はこの《水》は後年に加筆されているのですが、被爆者の行列のかたちや薄墨の流れ具合が、美唄に展示された作品と見事に重なります。美唄をはじめ、“第2期”北海道巡回展に展示された作品は、“もう1組”の原爆の図だったのです。

“もう1組”の原爆の図について、俊は、1950年頃、ある米国人が原爆の図のアメリカ巡回展を持ちかけてきた際に制作したと回想しています。

 さあて、原爆の図がアメリカに渡る、何が待ちうけているだろう。もしもの時のために三部作のひかえを取っておかねばなりますまい、急げ急げ、というので、片瀬の山小屋の住人に手伝ってもらうことにしたのです。奥の三畳の住人、もう一人の住人とそれにわたしと夫の位里を加えて四人の画家は、「幽霊」「火」「水」の模写をはじめました。
 うすい紙に形をたどるもの、それをもとにして線を描くもの、線は、なるべく作者が描くように、と描きあげました。

  (丸木俊『幽霊 原爆の図世界巡礼』pp.18-19 朝日新聞社、1972年)

“奥の三畳の住人”というのは、濱田氏のことでしょう。
“もう一人の画家”が誰だったかは特定できませんが、丸木夫妻だけでなく、少なくとも濱田氏は制作にかかわりながら、俊の言葉を借りれば〈模写〉が描かれたことは確かなようです。

1952年5月5日付『北海道大学新聞』には「赤松丸木両氏との共同製作者浜田氏」という記述があるので、主催者側もオリジナル作品でないことは承知していたのでしょう。

結局、米国巡回展は丸木夫妻が最終的に依頼を断り、《原爆の図》が海を渡ることはありませんでした。
1950年8月に刊行した絵本『ピカドン』が、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)発売禁止・原画没収処分を受けたことも、夫妻を警戒させたのかも知れません。
おそらく、北海道から“第2期”巡回展の申し出が来た際も、2人は《原爆の図》が自らの手を離れて巡回することを不安に思い、3部作の〈模写〉に濱田氏を帯同させて、北海道に向かわせたのでしょう。

全道で15万人もの参観者を集めるという大成功を収めた“第2期”巡回展が、丸木夫妻の記録に残らず忘れ去られたようになってしまったのは、このような理由があったものと思われます。

しかし、この〈模写〉による実験的な巡回展がこれほどの成功を収めていなければ、あるいはヨシダ・野々下両氏によるオリジナル5部作の巡回展も実現していなかったかも知れません。
原爆の図が全国各地へ巡回し、多くの人の記憶に残ることもなかったかも知れません。
その意味では〈模写〉が果たした歴史的役割は、決して小さくないと言えるのではないでしょうか。

   *   *   *

北海道を巡回した原爆の図の〈模写〉は、その後どのような経緯をたどったのでしょうか。
最近寄せられた証言によると、1952年5月に都立大学で開催された「原爆展」を機に、夏休み期間に学生たちによって田無や立川、清瀬の療養所などで巡回展示された原爆の図は〈模写〉であったとのことです。
当時巡回展にかかわったという方は、「原爆の図が〈模写〉であったことは、学生たちの間で問題になった。原爆の惨状を伝えるためには本物も模写もないという肯定派、同時に各地で展覧会をするためには仕方ないという中立派、例えばゲルニカが傑作だからといってもう一点制作するのは芸術家の姿勢としてどうなのかという否定派に分かれて議論になった。その根底には、〈模写〉が明らかにオリジナルに比べて質が落ちるという問題があった」と語っています。
実は、俊も〈模写〉について、次のような文章を残しています。

 作者も描いたのですから、これもオリジナルと同じだと、いくら言いはっても、どうしてもはじめの絵のような迫力がないのです。はじめの絵も、傑作とは言いがたいし、いろいろ不備もあるのです。けれども、やっぱりはじめの方がいいのです。
 二枚同じものはできない、ということをつくずくと思い知らされました。

……(中略)……
 そのころから日本国内展がはげしくなり、あとから描いた原爆の図も並べたりしました。そんな会場へ行って、説明をしなければならない時のつらいこと、あとから描いた絵の前で冷汗を流しながら、言葉だけはだんだんはげしくなっていくのです。絵で感じられない感動を言葉で伝えようとするのでしょうか。われながら恥ずかしくなって、疲れ果てて帰路につくのでした。
 それからは、ずうっと、この一組は門外不出として、しまいこんであるのです。
 
 (丸木俊『幽霊 原爆の図世界巡礼』pp.19-21 朝日新聞社、1972年)

「門外不出」となった〈模写〉3部作ですが、1974年に栃木県岩船町に丸木美術館栃木館が開館すると、丸木夫妻によって加筆された後、栃木館で一般公開されました。
その後、1996年には栃木館の閉館にともない、広島市現代美術館に寄贈され、現在は収蔵庫に収められています。

複雑な経緯もあって、これまでほとんどかえりみられることのなかった“もうひとつの”原爆の図。
そもそも俊の言う〈模写〉との呼称が適切かどうか、正確には〈再制作・加筆版〉と呼ぶべきかも知れませんが、この作品とオリジナルの原爆の図を比較し、受容の歴史をもう一度たどりなおすことによって、原爆の図の歴史的な意義や、たびたび議論される“芸術性”と“記録性”の問題なども、新たな読み取り方が見えてくるように思えます。
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2010/7/24

1950年代「原爆の図展」の証言から  1950年代原爆の図展調査

先日の『朝日新聞』の記事のおかげで、連日電話やメールで1950年代に全国各地で行われた「原爆の図展」に関する証言が寄せられています。

その多くは、当時身近な場所で《原爆の図》を観た記憶があるという証言が中心で、具体的な日付や会場も曖昧な場合が多いのですが、驚かされるのは、連絡を下さった方々が皆熱のこもった口調で当時の記憶を語られることです。
60年近く前の記憶であるにもかかわらず、目の前に《原爆の図》があるかのように絵の印象を語り、受話器の向こうで涙を流す方もいらっしゃいました。
小学生のときに《原爆の図》を観て、高校の修学旅行で広島を訪れたときに絵を思い出して涙がとまらなかったという方や、満州から引き揚げて来て《原爆の図》を観たときに内地も悲惨な体験をしたのだと衝撃を受けたという方もいらっしゃいました。
《原爆の図》の印象がどれほど大きかったかを、あらためて考えさせられています。

   *   *   *

多くの証言を聞いているうちに、次第に興味深いことがわかってきました。
1951年7月に行われた京都大学同学会主催の「綜合原爆展」が、医学・物理・化学・政治・経済など各学部によって総合的な視点から原爆を研究した画期的な展覧会で、その後の原爆展に大きな影響を与えたことはすでに知られていましたが、各地の大学で行われた展覧会が核となり、展覧会を担った学生が出身地へ戻って再度「原爆展」を企画した形跡が見えてきたのです。

1951年11月に札幌で北海道大学主催の展覧会が開かれた後、翌52年1月から5月まで学生が主体となって北海道全域を巡回したのはその一例と言えるでしょう。
1951年7月の京都展の後の夏休み期間に、京都大学の学生が高槻市や茨木市で展覧会を行ったという証言は、初めて聞くものでした。
1952年5月の都立大学展の後に、学生たちが清瀬の結核療養所や渋谷公会堂、田無、立川などで展覧会を行ったという証言も寄せられました。
都立大学巡回展に関しては、《原爆の図》管理責任者として画家の野々下徹氏が展覧会に帯同し、学生の一人で長崎の被爆体験者が各会場で体験談を語り、時おり吉田早苗(後の美術批評家ヨシダ・ヨシエ)氏が会場に姿を見せて演説を行ったという回想も出てきています。

そうした証言を聞いた後で、野々下徹氏の遺した巡回展メモを見直してみると、愛知大学の学生が行った1952年の豊橋展・名古屋展の後には岡崎や浜松、碧南、磐田、1953年の山口大学の展覧会の後には小郡や下関、岩国、防府など、いずれも大学のある都市の周辺に展覧会が集中していることに気づきます。

昨年8月の原爆文学研究会で、私は、1950年代の巡回展を「丸木夫妻による巡回展」と「吉田・野々下による巡回展」の二つに大別して発表しましたが、実はそれだけでなく、京都大学「綜合原爆展」を受け継いで各地の学生が自発的に企画した展覧会の流れもあり、想像していたよりずっと多様性のある運動だったようです。

   *   *   *

7月31日(土)に行われる原爆文学研究会の発表では、1952年1月から5月に行われた北海道巡回展の報告を中心に、こうした巡回展の多様性についても触れていきたいと思っています。
当時の巡回展で展示されたという、《原爆の図》初期三部作の“セカンドバージョン”というべき広島市現代美術館に所蔵されている作品についても新たな報告材料があるのですが、こちらは原爆文学研究会での発表後に、学芸員日誌に紹介することにします。
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