2018/9/9

【沖縄出張】平和博物館・市民ネット/ひめゆり戦跡ツアー  調査・旅行・出張

昨夜のうちに広島から福岡経由で沖縄へ移動し、今日は初の沖縄開催となった「平和のための博物館・市民ネットワーク全国交流会」の第2日目に合流。

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午前中はひめゆり平和祈念資料館で、説明員Oさんの講話を聞きました。
以前に体験者のお話を聞いたことはあるものの、若い世代の説明員に代わってから講話を聞くのは初めて。途中、体験者の証言映像を交えつつ、当事者とは異なる視点からの解説がよく練られていて、語りの継承をいち早く実践してきた館ならではの蓄積の厚みを感じました。

昼食のときには、ひめゆり説明員の先駆者で旧知のNさんと、互いの館を取り巻く現状について情報交換。年に一度の交流会ですが、他館の話は大いに刺激になります。

午後はひめゆり戦跡をめぐるフィールドワーク。伊原第三外科壕・ひめゆりの塔から出発し、貸切バスに乗って山城本部壕、荒崎海岸をまわりました。

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ひめゆり平和祈念資料館の前にある伊原第三外科壕は、南風原町にあった陸軍第三外科が南部に撤退して入った壕。6月18日に突然の「解散命令」があった翌19日朝の米軍の攻撃で、中にいた100人のうち81人(うち、ひめゆり学徒・教師は42人)が亡くなっています。

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壕の近くには、1946年に建てられた小さな塔と、1957年に建てられた(2009年改修)大きな慰霊碑がありますが、慰霊碑の百合の彫刻の作者が玉那覇正吉であることに初めて気づきました。玉那覇は、ニシムイ美術村の芸術家の一人で、対馬丸記念館の近くにある沖縄戦戦没学童慰霊碑「小桜の塔」の彫刻も手がけています。

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ひめゆりの塔から海に向かう途中にある山城本部壕は、沖縄陸軍病院の本部が置かれた場所。壕の近くに「沖縄陸軍病院之塔」が立っています。

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滑りやすい足もとに気をつけながら壕の中に降りていくと、空間は案外広く、奥には泉もあったのですが、奥の方は院長室として使われ、ひめゆり学徒の居場所は入口付近だったとのこと。

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6月14日に壕入口を砲弾が直撃すると、学徒2名を含む病院関係者十数名が死傷。その後、学徒と教師は壕から移動するよう命じられ、ふた手に分かれたものの、ジャンケンに勝って伊原第三外科壕に移動した7名は全員が死亡しました。

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荒崎海岸は、6月21日、日本兵を追ってきた米兵の銃撃を受け、岩場に隠れていたひめゆり学徒7名と教師1名を含む10名が、手榴弾で自決した場所です。
ゴツゴツした岩肌に、「ひめゆり学徒散華の跡」という碑が埋め込まれています。

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1949年に遺族によって碑が建てられ、一度倒壊した後、1972年に再度作られたとのこと。
遠く摩文仁の丘を見渡せる美しい海岸ですが、当時は波打ち際まで米軍艦が押し寄せ、逃げる場所はなかったそうです。

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荒崎海岸からバスまで歩いて戻る途中で雨が降り始めたものの、辛うじて予定通りにフィールドワークを行うことができました。
細心の気配りで案内してくださった、ひめゆり平和祈念資料館の皆さんに感謝。
「かつて、ひめゆりの証言者の方々は、死んでいった仲間たちが守ってくれるから、雨に降られずにすんだ、と言うことがあったけれど、今日は私たちもそんな思いです」という言葉が印象的でした。

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最後にバスの車窓から魂魄の塔を見て、F新館長の解説を聞き、その後に解散。
1946年、戦後の沖縄で最初に建てられた慰霊碑である魂魄の塔は、10年ぶりの再訪。ひめゆり平和祈念資料館は4度目、山城本部壕と荒崎海岸は、今回初めて訪れました。
仕事で沖縄へ行くことは多いのですが、南部戦跡をまわる機会はなかなかないので、貴重な体験でした。
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2018/9/8

【広島出張B】広島市現代美術館「《原爆の図》をよむ」開幕  館外展・関連企画

広島市現代美術館「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展が開幕しました。

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レセプションには、位里の母校である広島市立飯室小学校の全校児童が貸切バス2台で駆けつけて参加。福永館長と丸木ひさ子さんの挨拶に続いて、この日のための学習の成果を、代表の児童が立派に発表していました。

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そしてギャラリートークには、あいにくの雨にもかかわらず、本当に大勢の方にご来場いただき、感謝しています。会場をいっぱいに埋めた来場者の中には、被爆者の証言をもとに「原爆の絵」に取り組む基町高校の生徒たちの姿もありました。

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当初はひとつひとつの絵を見て歩き、関係者の方々(親族、研究者などなど)をご紹介しながらまわれればと考えていたのですが、この人数ではとても無理だと判断し、展示室ごとに移動しながら概説をするという方法に切り替えました。

1時間にわたるトーク、《原爆の図》三部作(本作/再制作版)の前では特に時間を割いて話したものの、それでも語りきれないのが《原爆の図》。トークの後もたくさんのご質問をいただきました。

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これから2か月半にわたって広島の方々に観ていただきながら、新しい出会い、新しい発見があることを願っています。
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2018/9/7

【広島出張A】広島市現代美術館「《原爆の図》をよむ」開幕前日  調査・旅行・出張

午前中はO市まで、歌手の二階堂和美さんを訪ねて行きました。
ローカル線に揺られて、車窓から宮島を眺める小旅行のような時間。

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落ち着いた雰囲気の古い宿場町の小さなお寺で、11月の企画のこと、丸木夫妻ゆかりの飯室のお寺の住職のこと、そして亡くなってしまった高畑勲さんのことなど、小一時間お話ししました。

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午後は広島市現代美術館で、明日から開幕する「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展を拝見。
会場をまわりながら、解説員の皆さんに作品解説も行いました。皆さんしっかりメモをとりながら聞いてくださり、気がつけば解説は2時間を超えていました。

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展覧会は、《原爆の図》以前の位里と俊の作品紹介からはじまり、《原爆の図》三部作の「本作」と「再制作版」を比較して並べているのが見どころです。「再制作版」のための下図や、展覧会の印刷物などの関連資料も紹介されています。

担当学芸員のSさんは、今回、広島市立中央図書館にある峠三吉資料から、丸木位里・俊の書簡を見つけてくださいました。そこには、『原爆詩集』(1951)の装幀を褒める二人の言葉が記され、「原爆の図展」に「われらの詩の会」の詩を送ってほしいと依頼していたこともわかりました。
副館長のTさんは、私が見逃していた山陰地方の新聞から、再制作版のきっかけとなった幻の「原爆の図」米国展について、賀川豊彦や桜沢如一らが協力していたという新たな情報を補完し、図録の論考にまとめてくださっています。

明日、午前10時半からのギャラリートークでは、こうした新たな知見も取り入れながら、《原爆の図》と広島とのかかわりを中心に、お話しできればと思っています。
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2018/9/6

【広島出張@】「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展に向けて  調査・旅行・出張

関西と札幌行きの便が欠航となり、混乱していた羽田空港を後にして、広島に来ています。
広島もまた、空港から市内に向かう途中のところどころに豪雨災害の跡が残っていました。

そんな中で、8日から広島市現代美術館ではじまる「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展。
https://www.hiroshima-moca.jp/maruki/

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広島駅に開通した南北自由通路のデジタルサイネージの動画に、展覧会の案内が流れていました。

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他にも、広島駅南口地下広場のショーウィンドウや、八丁堀福屋の隣の金座街アーケードの懸垂幕、街なかのあちこちにポスターが掲示されています。

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広報担当の方によると、8日午前10時半から行うギャラリートークへの関心も高く、当日は盛況と思われるとのこと。

昨日はいくつかの場所へ挨拶まわり。エディオンプレイガイド(サンモール1階)へ、11月18日の奈良美智さんらが出演される丸木美術館主催イベントの前売券も納品してきました。広島市内で直接チケットを購入できる拠点ができたので、本格的に告知を進めていきたいと思っています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2018/hiroshima.html

ギャラリーGでは、昨年亡くなられた美術家のいさじ章子さんの追悼展を観ました。直接お会いする機会はなかったものの、ご著書をお送りいただいたことがあり、一方的に近しく感じていました。若き日の抽象的な油彩画と、死の間際にも表現し続けた言葉の作品による、静謐な展示でした。
http://gallery-g.jp/exhibition/isajisyouko/

夜は2015年の米国展でお世話になった広島テレビのWさんと待ち合わせ。小鰯の刺身や鯒の煮付け、穴子の茶碗蒸しなどの美味しい料理を楽しみつつ、しかしカウンターで飲んでいる別のお客さんの「今年の災害の多さは異常。広島の豪雨災害がもう過去のことみたいになっとる」という言葉が聞こえてきて、胸に刺さりました。

この困難な時代に、《原爆の図》どのように読みなおしていけるのか。なかなかうまくは話せないかもしれませんが、そんなことを考えながら、トークに臨みたいと思っています。
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2018/9/1

シンポジウム〈「戦争/暴力」と人間ー美術と音楽が伝えるもの〉  イベント

午後1時半からシンポジウム〈「戦争/暴力」と人間ー美術と音楽が伝えるもの〉。
あいにくの天候にもかかわらず、大勢の方にご来場いただきました。

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共催の音筆舎は、広島の原爆を扱った音楽を研究されている能登原由美さんの立ち上げた団体。能登原さんとはこれまで、日本平和学会や広島大学、米国の日本文学研究会などで一緒に発表する機会が多かったのですが、今回は「美術」と「音楽」の領域を横断しながら、「戦争/暴力」と表現の問題をさらに深めて考えることができないかという提案をいただき、シンポジウムが実現しました。

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はじめに映画『原爆の図』(1953年、今井正・青山通春監督、音楽を担当した大木正夫は、その後交響曲第5番「ヒロシマ」、第6番「ベトナム」を作曲)を上映。
「戦争画」をはじめ現代美術における戦争表現の紹介を続けている飯田高誉さんと、現在ベトナムで音楽研究を行っている加納遥香さんにも発表していただき、何より、全体を俯瞰しながら的確に議論を導く柿木伸之さんのコメントが、シンポジウムを引き締めてくださいました。

この企画は一回限りでなく継続して行っていく予定で、いずれ記録として残していくことも検討中です。
出演者の皆さま、そしてご来場くださった皆さま、どうもありがとうございました。
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2018/8/25

福島ギャラリー・オフグリッド「山内若菜展」トーク  講演・発表

福島市のギャラリー・オフグリッドにて、山内若菜展トークイベント。
3.11後、被曝した牛や馬を殺処分にせず育て続ける「牧場」の絵画に包みこまれるように、参加者みんなで車座になって座り、画家の話を聞きました。

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福島のことを知りたいという思いに突き動かされて現地に通い、さまざまな人の話を聞き、絵を見た岡山の中学生の率直な感想にも耳を傾け・・・彼女の語る制作動機を、しかし目の前の絵画は、どこか軽々と飛び越えていくような印象を受けます。
考えを整理するより先に、描きたいという欲求が彼女の手を動かし、絵筆の先から濃厚で強靭なイメージがあふれ出てくるのです。

その作品世界を、来場者にどのように伝えられるのか。
福島の核被害をテーマにしていることもあって、事前の不安は決して小さくなかったのですが、真摯に語るべき言葉を探し続ける画家の姿に、周囲の人たちが次第に引き寄せられていく気配を感じて、安心しました。

きっとこの空間は、福島ではマイノリティに属するのだろうと思いますし、私たちは「境界」の外側から来た越境者に過ぎないのですが、しかし、この日会場に流れていた空気感は、決して悪くなかったと思います。

地元福島の方がたはもちろん、東京から駆けつけてくださった方が何人もいて、本当に心強い限りでした。忘れがたい夜になりました。
ご来場くださった皆さま、どうもありがとうございました。
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2018/8/20

東京藝術大学 芸術と憲法を考える連続講座クロストーク  講演・発表

東京藝術大学にて、芸術と憲法を考える連続講座(主催:音楽学部楽理科、共催:自由と平和のための東京藝術大学有志の会、後援:日本ペンクラブ)の第9回「イメージする。表現する。行動する。−核兵器のない世界へ−」。
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員でピースボート共同代表の川崎哲さんとクロストークを行いました。

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川崎さんには、昨年12月16日、オスロでのノーベル平和賞授賞式から帰国した翌日に丸木美術館で講演をして頂きました。
今回は、そのとき以来の再会。川崎さんはあれから全国で90回以上の講演をされてこられたそうです。

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川崎さんのお話で印象に残ったのは、核兵器禁止条約の締結のためにもっとも努力したのがメキシコ、オーストリア、コスタリカの3国だったということ。
いずれも核被害の直接的な“当事国”でないにもかかわらず、自分たちの文脈にひきよせて、その非人道性/不条理を考えていたという話を聞いて、世代を超えて核被害の記憶を継承するためのヒントを得たような気がしました。

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丸木夫妻をはじめ、私の発表で紹介した「空想非核芸術美術館」の美術家の多くも、直接的な“当事者”ではありません。
忘れたくても忘れることのできない“当事者”の〈記憶〉だけでなく、“非当事者”のもたらす〈想像力〉が、これからの世界を変えていくための重要な鍵となっていくのでしょう。

川崎さんには、「原爆の図保存基金」への応援メッセージもいただきました。

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川崎哲
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員、ピースボート共同代表

核兵器の非人道性に対して世界の国々が明確な認識をもったことが、2017年7月の核兵器禁止条約成立を導きました。同年末、ノーベル委員会は、核兵器の非人道性に注目を集め核兵器の禁止に貢献した市民の運動に対してノーベル平和賞を授与しました。この法規範に真の実効性を与えていくのは、私たち市民の力です。《原爆の図》を今こそ世界に広げ、一人でも多くの世界の人たちに見てもらいましょう。

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川崎さん、力強いメッセージをありがとうございます。
そして、ご来場くださった大勢の方々、お世話になった有志の会の皆さま、本当にありがとうございました。
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2018/8/17

【北海道出張A】秩父別・善性寺  調査・旅行・出張

北海道出張2日目は、N学芸員やギャラリー北のモンパルナスのSさんらとともに、赤松俊子(丸木俊)の生家である秩父別町・善性寺を10年ぶりに訪問。

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目的のひとつは、俊が10代の頃、東京の女子美術専門学校(現女子美術大学)に通うため、資金援助の意味を込めて郷里の人びとに依頼されて描いた絵画を撮影することでした。

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まずはベニヤ板に油彩で描かれた《赤松清潤の像》と《出淵虎治の像》。
どちらも親戚を描いた肖像画で、赤松清潤が着ているのは屯田兵の軍服とのこと。1930年(俊18歳)頃の制作と思われます。北海道の気候のせいか、保存状態は非常に良好でした。

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そして同じ頃に俊の父親を描いた《二世淳良法師の像》。この作品は以前にも見ていましたが、あらためて記録撮影。

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絵の中で着用されている極楽鳥文様の七条袈裟も現存するとのことで、俊の甥にあたる現住職が、わざわざ見せて下さいました。

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さらに、俊の母校である秩父別小学校に展示されていた《パラオ島》も、1年ほど前に善性寺へ戻っていました。
この油彩画は、俊が当時日本の統治下にあった「南洋群島」を訪れた1940年の作。
伝統的な集会所ア・バイに腰をかけてこちらを見ている二人の子どもの照れ笑いをしているような表情が印象的です。画家とモデルの親密な関係が伝わってきました。

   *   *   *   *   *

今回の善性寺訪問のもうひとつの目的は、日本画を専門とするN学芸員とともに、丸木位里の《龍虎之図》を調査することでした。

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この大作は、丸木夫妻が結婚の報告のために1941年末に秩父別を訪れた際に描かれ、翌1942年の第3回美術文化協会展に出品された記録が残っています。
その後、善性寺の本堂の襖絵として使われて、1992年に屏風に表装しなおされた際に、傷んでボロボロになった部分に新たに紙を貼り、位里自身が加筆したとのこと。

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加筆によって1941年の発表時からどの程度改変されたのかが気がかりだったのですが、今回あらためて調査して、主要な部分はほとんど変わってないことがわかりました。

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伝統を踏まえた図像でありながら、位里独特の絵画感覚が、虎の量感や龍と雲の構成の大らかさなどに散見されます。
彼の画業をたどる上で重要な意味を持つ作品であると再確認できたのは、大きな収穫でした。

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秩父別は見渡す限り広大な平野が広がるスケールの大きな土地。雨上がりの青い空には、「赤松の名にちなんだ」本堂の赤い屋根がよく映えていました。
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2018/8/16

【北海道出張@】札幌・ギャラリー北のモンパルナス  調査・旅行・出張

久しぶりの北海道出張。
雨のせいもありますが、気温は18度と、熱風の埼玉とは別の国のようです。

午前中に北海道立近代美術館と三岸好太郎美術館を観て、午後は広島の奥田元宋・小由女美術館のN学芸員とともに、札幌のギャラリー北のモンパルナスで丸木位里作品の調査を行いました。
きっかけは、今年7月に同ギャラリーで開催された「丸木位里展」の出品作に、1943年夏制作の水墨画《昇仙峡》が含まれていたことでした。

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現在、市場に出てくる丸木位里の作品は、もっぱら1970年代から80年代にかけての国内外の旅行の際に描いた風景画が中心。1940年代前半の水墨画が出てくるのは、たいへん珍しいです。

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1943年といえば、美術団体の統制が進められ、展覧会の開催が激減していった時期ですから、位里の《昇仙峡》は描かれはしたものの、発表されなかったかもしれません。

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位里は1939年頃から水墨の実験を繰り返しており、《昇仙峡》の画面に見られる細かい点描は、当時の彼の関心の方向性をよく伝えています。
地味な小品ではあるけれど、あまり活動の記録が残っていない時期の作例を伝える貴重な一点です。
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2018/8/15

『信濃毎日新聞』社説「戦争の記憶」  掲載雑誌・新聞

ひろしま忌とその翌日に、時間をかけて取材してくださった信濃毎日新聞のN論説委員による社説が掲載されました。

戦争の記憶 「分かりたい」思いを胸に
 ―2018年8月15日『信濃毎日新聞』社説
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20180815/KT180811ETI090002000.php

以下、信毎webより一部抜粋です。

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 位里さんと俊さんの作品群は完結していない。私たちの生きる社会に続編はある。

 「平和利用」のかけ声の結果、福島は核の惨禍にさらされた。沖縄県民は「安全保障」の名目で今も主権を奪われている。
 過労死や自殺が後を絶たず、人と人との関係は薄れて孤立感が深まっている。戦争とは質の異なる暴力に追い詰められ、身近な命が悲鳴を上げている。

 東京や広島、長崎、沖縄で、曽祖父母や祖父母世代の体験を語り継ごうと、3世、4世に当たる若者が多様なアイデアで活動を始めている。心強くはあるものの、戦争の記憶はそうした一部の人たちだけが担い、受け継いでいくものではないはずだ。

 原爆の図をいかに「自分の絵」として見てもらうかが、これからの美術館の課題だという。丸木夫妻の願いをたぐり寄せようとする国内外の人たちの支えで、館は半世紀存続してきた。
 戦時に生きた人々の苦難を共有することはできない。知ったつもりに、寄り添えた気になるより、目の前にある命の問題と交錯させながら、「分かりたい」との思いを持ち続けたい。


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Nさんの強い気持ちの伝わってくる良い記事です。どうもありがとうございました。
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2018/8/13

徳応寺版《原爆の図》模写調査  調査・旅行・出張

愛知県岡崎市・徳応寺へ、《原爆の図》模写調査に行ってきました。
偶然にも近所で生まれ育ったという、大学の同期生で東京文化財研究所のK研究員に案内していただきました。

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名鉄・美合駅に近い浄土真宗のお寺の本堂には、子どもたちの手による13点の《原爆の図》が、毎年8月に、鎮魂と継承の思いを込めて15日まで公開されているそうです。
第1部《幽霊》、第2部《火》、第5部《少年少女》をもとにしながらも、「模写」を逸脱していくような絵の奔放さと迫力に、圧倒されました。

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寺に残る箱書きによれば、1956年5月、岡崎市立男川小学校の教師だった宇野房生(正一)が5年生に戦争の話をしたところ、「原爆はすごく景気が良い」との反応があり、戦慄した彼は翌日に《原爆の図》を見せたそうです。その結果、子どもたちの心に原爆の恐ろしさが沁み、模写の制作にとりかかったとのこと。

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当時の新聞記事には、30点ほどの模写を制作する構想だったと記されています。
部分描写で、絵によって拡大の比率が異なること、30点という作品数の多さから、この模写は青木文庫版『画集 原爆の図』(1952年発行、第1部〜第5部所収)の口絵をもとにしていると推測されます。

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画集はモノクロ写真でしたが、第2部《火》の炎は彩色されていて、1952年6月に愛知大学岡崎会の主催により「原爆の図展」が岡崎市のタカハシ百貨店(現岡崎信用金庫本町支店)で開催されたのを宇野が見ていた可能性があります。

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炎に包まれた赤ちゃんの模写が2枚描かれているのも気になりました。「終戦子」であった彼らにとって、生まれたばかりの赤ちゃんの像はとりわけ思い入れが強かったのかもしれません。
(2枚目の赤ちゃんの方には、「本作」にはない猫?の玩具が・・・)

もちろん丸木夫妻にも手紙で模写の許可を取ったそうで、俊は1985年7月25日の『中日新聞』で「そのころ、男川小学校の生徒の平和への意識の高さに感銘を受けた」と回想しています。

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子どもたちは、シジミを拾って売るなどして墨や紙などの画材を買い、6年生になっても模写を続け、映画「毎日国際ニュース」で取り上げられるなど次第に話題になっていったそうですが、やがて教育委員会から「思想的」との批判があり、制作は中断。焼却されるところを徳応寺の住職だった故・都路精哲が引き取り、軸装して木箱に入れ保管したおかげで、模写は残されることになりました。
そして1985年に約30年ぶりに公開され、以後、住職は代替わりしながらも、毎夏の公開を続けているとのことです。

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「描く」という身体的な体験で、非体験の「記憶」を継承する、貴重な1950年代の実践例。
今秋、広島市現代美術館では《原爆の図》の「本作」と作者の手による模写である「再制作版」が比較されますが、丸木美術館の方では、この機会に徳応寺版《原爆の図》をお借りして、「模写」の豊かな可能性を提示したいと思っています。
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2018/8/11

ギャラリーOGU MAG「吉國元展」  他館企画など

田端のギャラリーOGU MAGで開催中の吉國元展「アフリカ都市経験:1981年植民地期以降のジンバブウェ・ハラレの物語」を観ました。
https://www.motoyoshikuni.com/

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ジンバブウェ近代歴史研究者の吉國恒夫を父に持ち、1986年にジンバブウェ・ハラレで生まれた吉國元の初個展。
彼は10歳で日本に来ているのですが、今でも記憶の中のジンバブウェを描き続けています。
カンヴァスに油彩で描かれた作品だけでなく、段ボールやスケッチブックに色鉛筆などの素材も用いた大小さまざまな絵を組み合わせた展示構成が、「記憶の断片」としてのアフリカを立ち上げます。
イギリスの植民地支配からの独立を導いたムガベ大統領の独裁下という複雑な社会の中で、幼い彼と出会った人びとの肖像。そして日常生活のありふれた風景。

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作者が展覧会に寄せたテキストの一部を抜粋します。

私は子供の頃に始めた絵だけは続けていて、今でも描く事でアフリカで出会った人たちを記憶しようとしている。アフリカの光の中でほんの短い時間だったのだが、彼らの生と私の生が交差する瞬間があったのだ。この展覧会はひとつのドキュメントであり、私にとってのクロニクルなのかもしれない。

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例えば、アイロンをかける女性像の右上隅には、どこの家でも掲げているというムガベ大統領の肖像が、画面の外へはみ出すように切断されて描かれ、新しい世代への変化を象徴する少年の姿が赤い絵具で描写されています。

その絵の左隣の鳥打帽の男性像は、彼が10歳のときに描いた、つまり出品作唯一の、記憶の再現ではない「リアル」な肖像。男はムビラ(アフリカ伝統の親指ピアノ)の奏者で、彼に演奏を教えてくれていたそうです。

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絵は現実を論理的に説明するものではありませんが、しかし、彼の展示からは、一度も訪れたことのない、それどころかほとんど知識さえもないジンバブウェの人たちの輪郭が、少しずつ見えてきます。

彼の仕事は、まだ始まったばかりだという予感がしています。
ジンバブウェからの越境者という立ち位置から、どんな視界を構築していくのか、期待しながら見ていきたいです。
展覧会は8月12日まで。
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2018/8/10

【福島出張】ギャラリー・オフグリッド「山内若菜展」など  調査・旅行・出張

午前中に丸木美術館で教員免許更新講習のための館内説明と討議を行い、超満席の東北新幹線で移動して、福島で「いのちと暮らし」に文化的に向き合う新しい連携プロジェクトの実行委員会に参加。
委員として何ができるかはまだわかりませんが、これまで試行錯誤してきたことの整理や、これからやっていくべきことを考える機会になり、点が線につながっていくような感覚を覚えはじめています。何より、福島とかかわり続ける場に誘って下さった福島県立博物館の皆さんに感謝です。

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会議の後は、ギャラリー・オフグリッドで開催中の山内若菜展「牧場 ペガサス―日食月食編―」へ。
3.11後の福島の状況に文化的な力で向き合うために、2015年12月に飯館電力株式会社の文化事業の一環としてはじまり、2017年3月からは一般財団法人ふくしま自然エネルギー基金の文化事業として運営されているギャラリー。今の福島にこうした場があることは、(決して多数の人に注目されないかもしれないけれど)重要な意味を持つと思います。
被曝した牛を飼い続ける牧場の絵を、当の福島で展示するのは、作者の山内若菜さんにとって大きな試練でしょう。それでも彼女は彼女らしく、いつもと変わらない全力注入の展示を作り上げていました。
8月25日(土)午後6時からは対談を予定しているので、絵に込められた彼女の強い思いを丁寧に聞きとっていきたいと考えています。

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折しも、ヤノベケンジさんの《サン・チャイルド》が福島市に寄贈されて、1週間ほど前に福島駅前の教育文化複合施設「こむこむ」に設置されたばかり。
これまでの経緯から、福島の「復興」の象徴になる現代アートがあるとすれば《サン・チャイルド》なのだろうと感じていたのですが、ネット上で批判されて作者が声明を出す状況になっているとのこと。
丸木美術館での展示をお願いしたことはありませんが、都立第五福竜丸展示館で《サン・チャイルド》が展示されたときには観に行ったので、少々複雑な心境です。
夜は行きがかりで、《サン・チャイルド》の設置にかかわった地元の方々のミーティングに参加。
作品そのものの抱える問題や感情的な意見が混在する複雑な状況なので、もっぱら皆さんの話を聞くばかりでしたが、事前に市民レベルで十分な議論がなされなかったことも一因であったのかもしれません。
福島の複雑さの一端を垣間見ると同時に、アートやモニュメントのもつ難しさ/暴力性を感じ、悶々としています。
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2018/8/7

広島市現代美術館「丸木位里・俊―《原爆の図》をよむ」展のお知らせ  館外展・関連企画

2018年9月8日(土)から11月25日(日)まで広島市現代美術館で「丸木位里・俊―《原爆の図》をよむ」展が開催されます。
特設ウェブサイトが開設されました。

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https://www.hiroshima-moca.jp/maruki/

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水墨による独自の表現を探究していた広島出身の丸木位里(1901-95)と、女子美術専門学校で油彩画を学んだ北海道出身の俊(赤松俊子・1912-2000)は、1941年に結婚します。ふたりは1945年8月に原爆投下後の広島を訪れたのち、自らの体験と家族などから聞いた話をもとに《原爆の図》初期三部作である《第1部 幽霊》、《第2部 火》、《第3部 水》を制作しました。これらは報道規制が敷かれた1950年代初頭に日本全国を巡回し、いち早く人々に被爆の惨状を伝えたことで反核反戦の象徴となっていきます。《原爆の図》は、作品が担った社会的役割の大きさだけでなく、洋画家の俊による繊細な人体描写と、日本画家の位里による大胆な水墨技法が融合した表現である点においても希有な作品といえるでしょう。
本展では《原爆の図》より、初期三部作に加え、《第4部 虹》、《第5部 少年少女》とともに、《原爆の図》の需要が高まる全国巡回展中につくられた初期三部作の「再制作版」を同時にご覧いただきます。丸木位里と俊、それぞれがこれらの作品の前後に単独で制作した作品もあわせて紹介し、ふたりの画業の連続性のなかで、《原爆の図》にみられる絵画的表現の試みを読み解きます。


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9月8日の開幕日は、午前10時30分から、岡村がギャラリートークを行います。
広島での本格的な《原爆の図》の展覧会、楽しみにしています。
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2018/8/6

NHK首都圏ニュースで「ひろしま忌」紹介  TV・ラジオ放送

美術館で平和祈る灯ろう流し
 ―2018年8月6日 NHK首都圏ニュース

https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20180806/0016200.html

以下はWEBサイトからの引用です。

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広島に原爆が投下されてから73年となった6日、原爆投下直後の様子などを描いた「原爆の図」を展示する埼玉県東松山市の丸木美術館では、平和を祈る催しが開かれました。

東松山市の「原爆の図 丸木美術館」は画家の丸木位里・俊 夫妻が、原爆が投下された直後の広島や長崎の様子を描いた連作の絵画「原爆の図」を展示しています。
毎年、追悼の催しが開かれ、6日はおよそ100人が美術館に集まり全員で黙とうをして原爆で亡くなった人たちを追悼しました。
このあと近くの川に移動し、「平和」などと書かれたおよそ80の灯ろうを川に浮かべて、静かに手を合わせて平和を祈っていました。
東京から参加した女性は「歴史をきちんと踏まえながら、平和の大切さを次の世代に伝えていかなくてはいけないと思いました」と話していました。


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