2007/1/31

原爆観音堂  その他

丸木美術館の前庭に建つ「原爆観音堂」が、急遽取り壊されることになりました。
丸木家の意向により、「流々庵(観音堂の奥に建つ茶室)を来館者に使ってもらうため」との理由です。

原爆観音堂は、1970年5月に丸木夫妻によって建立されました。
当時の丸木美術館ニュース第3号(1970年夏発行)には「爆心から三キロのところで被爆した家は畑の中でくずれおちて、たった一けんのこっていた家。それは父母と妹たちがすんでいた家でした。その家が今日までくずれたままでのこっていました。二十五年もたってようやくとりこわして新しい家をたてるというのでその材料(木と瓦)をトラック一台美術館まではこんできました。丸木につたわる観音像と、それにふずいする色々な物を持ってまいりました。これを原爆観音堂と名ずけることにしました」という、記名はないものの、おそらくは俊さんによる文章が掲載されています。
俊さんは自伝『女絵かきの誕生』(1977年朝日新聞社刊、1997年日本図書センターより再刊)のなかでも、「美術館のすぐ前が観音堂です。原爆でくずれた、ひろしまの丸木の家から古財をもってきて建てました。四角四面の屋根の上に、素焼きに油絵の具で絵つけした鳩が、西方浄土を向いています。「ピカは 人がおとさにゃ おちてこん」と言った、おばあちゃんの言葉を、位里が書いて、飾りました。千羽鶴と香の絶えることなく、八月六日には、ここで法要を行います」と記しています。
また、宇佐美承著『ルルの家の絵かきさん』(1978年8月偕成社刊、1985年に『原爆の図物語』として小峰書店より刊行)にも、「位里じいさんは、まもなく、広島から、やけのこったふるい材木と、かんのんさまをおくってもらって、美術館のまえに、かんのん堂をたてた。〈ピカは人がおとさにゃおちてこん〉とかいて、正面にかざった。これは、スマばあさんのことばだった。おぼうさんにお経をあげてもらって、みんなでお線香をあげた。子どもたちは、千羽ヅルをおって、川にながした」と紹介されています。

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(写真は昨年8月6日ひろしま忌=正面に見えるのが原爆観音堂)

わが家の息子Rは、この観音堂がお気に入りで、美術館に来るたびに必ず鐘を鳴らして「なむなむ」と小さな手を合わせていました。
これまでも、数えきれないほど多くの大人たち、子どもたちがこの観音堂に千羽鶴を供え、手を合わせて祈りを捧げたことでしょう。
丸木夫妻の残した貴重な痕跡が失われてしまうことは、本当に残念です。

原爆観音堂は駐車場奥の宋銭堂の隣に移り、新築されることになります。
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