2018/10/6

広島市現代美術館・足立元講演「「原爆の図」の片隅に」  館外展・関連企画

広島市現代美術館の地下ホールで、足立元さんの講演「「原爆の図」の片隅に」を聴講。
モノ(絵画)としての《原爆の図》と、メディア(運動)としての「原爆の図」という表記の区分けを提唱した上で、メディアとしての「原爆の図」を、@プロレタリア芸術運動史の視点から、A同時代のアヴァンギャルド(主に日本美術会、前衛美術会)との対比によって、再考するものでした。

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「モニュメント」「複製芸術」「共同制作」「移動展」「メディアミックス」といったプロレタリア芸術運動の(多くの場合、果たせずに挫折していく)「夢」を、「たった二人の画家」がことごとく成功させてしまった理由を、足立さんは《原爆の図》という絵の強度を前提にしつつ、「革命へのファンタジー」か「無数の死者への想像力」か――つまり「イデオロギーよりアイデンティティ」――という言葉を使って、現在と結びつけながら考えます。

そして、もっぱら俊の平易な文章と多弁の力が大きかったのですが、「原爆の図」は言葉を重視する展示・鑑賞・教育の新しい社会運動のシステムを構築し、「同時代の他のアヴァンギャルド芸術を吹っ飛ばした」というのです。

いち早く「美術」の枠を脱していく活動は、前衛美術会の仲間から(やっかみとも思えるような)批判を受けたこともあり、丸木夫妻は《原爆の図》発表後、早々に前衛美術会を退会します。しかし、結果的には批判した画家たちも「原爆の図」を追いかけるような形で、「美術」という枠を超えていくことになるのです。

もちろん、「原爆の図」の勢いも決して長続きするものではありませんでした(占領下〜占領集結・原爆表現解禁の1950年代前半がひとつのピークと言えます)が、その後も「美術」を逸脱するがゆえに何度も否定され、そのたびに「呼び戻されてきた」状況について、足立さんは「モノ」としての強さ以上に、周囲のすべてを社会化する特別な価値が「原爆の図」にある、と結論づけていました。

絵画として《原爆の図》を読みなおす今回の広島市現代美術館の企画展も、「原爆の図」の運動の一部であることを逃れられないのではないか。私たちは《原爆の図》を見ているようで、すでに「原爆の図」の歴史の一部になっているーーつまり、私たちひとりひとりが「原爆の図」の片隅にいる、というのが、某漫画を引用した講演タイトルの種明かしでした。

それは、「原爆の図」の片隅で日々を過ごしている学芸員にとっては、納得のできる話でした。
《原爆の図》という絵画の「受容史」を調査していたはずの仕事が、いつのまにか「社会運動史」として評価される(足立さんにもそう紹介されました)宿命を、実感してきたからです。

ほかにも私の未見だった資料(1952年12月『海員』の「誌上封切映画物語」ー映画『原爆の図』記事、1950年6月『三田文学』八代修次「原爆の図を見て」、1951年9月『交替詩派』原啓「原爆の図展覧会を見て」など)の紹介や、岡本太郎・敏子との対比など、興味深い部分はいくつもありました。

今回の講演の内容は、次回1月発行の『丸木美術館ニュース』で、あらためて足立さんに報告していただきたいと考えています。
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