2018/9/30

いわさきちひろ生誕100年記念 松本猛講演会  イベント

台風の迫る中、何とか無事に、いわさきちひろ生誕100年記念 松本猛さん講演会「母、いわさきちひろの生涯と丸木夫妻との交流」を開催。
集まった方は30人弱と当初の想定を大きく下回りましたが、皆さんとても熱心に聴いてくださり、猛さんのご著書『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』は仕入れた15冊がすべて完売しました。

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講演は、前半はできるだけ客観的な視点で「知らない画家を発掘する」ように書かれたという著書の内容に沿いつつ、後半は「ちひろが画家になるために重要であった」丸木夫妻との関係をメインにしたものでした。

ちひろは1946年5月に長野から単身上京した際、人民新聞社の編集長だった江森盛弥に連れられて丸木夫妻のアトリエを訪れ、その後、夫妻の主宰する早朝デッサン会に通って絵の勉強をすることになります(その様子は、今秋上演される前進座の舞台「ちひろ」でも演じられます)。
http://www.zenshinza.com/stage_guide4/chihiro/

「一本の線に責任を持ちなさい」「千枚描きをすれば絵は変わる」という俊の教えを受けた当時のちひろのデッサンは、陰影のつけ方などの特徴が、俊の絵によく似ている、と猛さんは指摘します。

師弟というより姉妹のようだったという二人は、いっしょに温泉に出かけたり、俊が挿絵の仕事をちひろに世話したりと親しく付き合い、ちひろが俊からケーテ・コルヴィッツを、俊がちひろから宮沢賢治を知るなど、互いに影響を与えあっていたようです。

しかし猛さんは、ちひろはむしろ位里の水墨画の影響を強く受けていた、と言います。
「丸木さんの絵はすごい、自由だ」
「丸木さんの梅のようには、なかなかいかない」
と、本人もたびたび話していたとのことで、具体的に作品を比較しながら、にじみやかすれ、たらし込みなどの偶然性を生かす技法に位里の影響があることを指摘していました。
こうした分析は、2006年の富山県水墨美術館「いわさきちひろ展」あたりから行われるようになったと記憶しています。

とはいえ、「ちひろは形にこだわるからデッサンを崩せない、だから位里の形がなくなるような絵に憧れたのでは」という猛さんの話を聞きながら、その感覚(と、自らを作りかえようとする資質)は、やはり俊に似ているのでは、とも思いました。俊もまた、初期の力強いデッサンから、位里の影響を受けて、後年は水墨のにじみを生かした柔らかな線に移行していくのです。

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丸木夫妻が中心となって1947年に創立し、ちひろも参加していた前衛美術会は、やがて方向性を巡って会員が離脱し、後には桂川寛や勅使河原宏、山下菊二らが小河内村の山村工作隊に参加していきますが、早々に退会した丸木夫妻に続いて、ちひろも退会し、紙芝居や絵本などの「童画」の世界に進みます。

東京ステーションギャラリー「いわさきちひろ展」図録で足立元さんは、そうした彼女の“転向”について論じていましたが、そもそも初期の前衛美術会の活動には(俊の主導により)「童画」も含まれていたのではないかということが、個人的には気になっています。

俊やちひろにとって、「童画」と「前衛」は必ずしも相反するものではなかったのではないか。
近く二人について書く機会があるので、このことについてはもう少し調べて、まとめておきたいと思います。
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