2017/3/22

『沖縄タイムス』に福住廉さんの「美しければ美しいほど」展評  掲載雑誌・新聞

沖縄と本土 非対称な現実 「美しければ美しいほど」展
 ―2017年3月22日付『沖縄タイムス』

先日の椹木野衣さんに続いて、美術評論家の福住廉さんが「美しければ美しいほど」展の展評を書いて下さいました。
以下は、記事からの抜粋です。

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 本展のねらいは、沖縄の立場から沖縄と本土の非対称性を告発することではない。それは、沖縄の人間であれ本土の人間であれ、ともに共有しているはずの人間の想像力に強く働きかける点にある。

 嘉手苅の作品「interlude」は、沖縄で活躍するジャズシンガー、与世山澄子の顔だけを映し出したもの。航空自衛隊那覇基地の周囲を走行する車内で、ジューン・クリスティによる同名曲を口ずさんでいるが、口元はフレームから外されているので、私たちの視線はおのずと彼女の眼に注がれる。その鋭い眼を時折染めるオレンジ色は、おそらく基地の照明だろう。そこはかつて米軍の空軍基地だったから、彼女のまなざしには米軍に占領され、返還後は日本本土に支配されている沖縄の哀しい歴史が映っているのかもしれない。

 感覚の分断と再構成。あるいは視覚と聴覚の分裂から想像力への統合。本展に通底しているのは、そのような想像力の働かせ方である。

 川田の「終わらない過去」が見せているのは、沖縄で戦没者の遺留品を捜索している国吉勇が発見した定規を、川田が遺族の元に届けようとした過程。音声の内容は映像とは無関係だが、だからこそ私たちは見えない現実を想像することを余儀なくされる。戦争の記憶を内包した定規をあくまでも直接手渡すことにこだわる国吉と川田の思いは、着払いで済まそうとする遺族のもとには、ついに届かない。双方を取り次ぐ役人の鈍感さにも怒りが募る。「定規」が象徴しているように、戦争という過去との埋めがたい距離感を目の当たりにするのである。

 もろん両者の作品は沖縄と日本本土の非対称的な関係を打ち砕くわけではない。だが少なくともそれを自明視して疑わない者に、感覚の裂け目の只中で、非対称な現実を想像させることはできる。来るべき未来は、その先に現れるのではないか。


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写真は、紙面に紹介された嘉手苅志朗作品《interlude》。
企画の趣旨を的確にとらえて、現実とつなげてくれる批評は、本当にありがたいです。

再び告知ですが、今週末の3月26日(日)午後3時からは、シンポジウム「沖縄の情報は本当に伝えられていないのか」(共催:早稲田大学メディアシティズンシップ研究所)を開催します(予約不要、無料=要展覧会チケット)。

登壇者は伊藤守さん(メディア研究/早稲田大学教授)、津田大介さん(ジャーナリスト/メディア・アクティビスト)、毛利嘉孝さん(社会学/東京芸術大学教授)、新垣毅さん(琉球新報社東京報道部長)の4名。モデレーターは木村奈緒さん(フリーライター)です。

興味深いシンポジウムになると思います。
ぜひ、シンポジウムと合わせて展覧会もご覧ください。
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