2015/11/29

栃木県立美術館「もうひとつの1940年代美術」  館外展・関連企画

栃木県立美術館で開催中の「戦後70年:もうひとつの1940年代美術」展へ。

クリックすると元のサイズで表示します

2013年の神奈川県立近代美術館「戦争/美術1940-50 モダニズムの連鎖と変容」展に幕を開けて、来年夏の兵庫県美術館の展覧会でほぼ一段落すると思われる各地の「1940年代展」は、70年の歳月を経過して初めて可能になってきたということもあり、美術史的にも重要な意味を持つのでしょう。

これが「決定版!」という1940年代の代表作を集約した巡回展ではなく、各開催館の特色やコレクションを生かした展覧会を、それぞれの場所に足を運んで見て歩くことになりましたが、長年美術界が抱えていた「戦争と美術」の問題を多角的な視点でとらえる、壮大な全国規模の展覧会のようにも思えて、非常に良い勉強の機会になっています(と言いつつ、三重県立美術館と名古屋市美術館の展覧会を実見し損ねたのは本当に残念。IZU PHOTOの「戦争と平和」展も見なくてはいけないのですが、行けるかどうか・・・)。

そのなかで、栃木県美の展覧会の特徴をあげるとするならば、何よりまず、企画学芸員の小勝さんが長年取り組んでこられた女性画家の充実ぶりが傑出していたことでしょう。

とりわけ赤松俊子(丸木俊)の、今では代表作のひとつと呼んでも良い《裸婦(解放されゆく人間性)》は、作者の没後間もない2001年に小勝さんが企画された「奔る女たち 女性画家の戦前・戦後 1930-1950年」展で掘り起こされた因縁の油彩画なので、再びこの機会で栃木県美に展示されたことには、感慨を覚えました。

その他にも、今年はじめに丸木美術館で展示していた「赤松俊子と南洋群島」展の絵画・スケッチ群がならび、2012年に企画した「発掘:戦時下に描かれた絵画」展に紹介した作者不詳の《弾痕光華門外》、長谷川春子の《小婦国防》(この2点は栃木県美の所蔵に入りました)、吉田博の《急降下爆撃》(今回の展覧会の看板にも使われています)などの油彩画や戦場スケッチ・写真もその後の研究成果とともに展示されていて、これまた個人的には感慨深いものでした。

これらの作品が展示されることになった奇妙な縁をとりもって下さったのは、《原爆の図》などの修復をお願いしている修復家のOさんでしたが、丸木美術館で紹介した作品が他所の公立美術館で展示されることは珍しいのです。

そもそも丸木美術館では、ひとつの時代を俯瞰し総括するような大規模な展覧会はできないし、また求められてもいないのだけど、ある視点や作家に特化して時代を掘り起こしていくことが、何らかの意味をもたらすのではないかと、あらためて思った次第です。

クリックすると元のサイズで表示します

栃木の「1940年代展」のもうひとつの特徴は、北関東の地元作家の絵画や彫刻・版画、そして着物や工芸、印刷物などの展示が多かったことでした。
1940年代の芸術というと、いわゆる「作戦記録画」の問題を想起しがちですが、広義の「戦争画」として「銃後」の表現(「銃後」と「前線」の境界が無化されるのが20世紀以後の戦争の特徴でもあるのですが)も着目されるようになった近年の傾向を反映しています。

「総力戦」とはいかなるものであったかを実感するには、たとえば藤田嗣治の描いた「戦争画」を見る以上に、《東郷乃木肖像柄一つ身》やら《海軍柄一つ身(産着)》やら《大観飛行機献納柄一つ身》やらのぶっ飛んだデザインの着物(誰が着るのか、と思いましたが、男児のお宮参りなどの正装として人気があったようです)を見たり、もんぺや防空頭巾が描かれた川上澄夫の版画《着せ替え人形》を見る方が、直に迫ってくるようにも思います。

板橋区立美術館でも見た新海覚雄の《貯蓄報国》はあらためて1943年という差し迫った時代の市井の空気を見事にとらえた絵画だと感じましたし、朝倉摂の《歓び》や小畠鼎子の《増産》は、端正な画面とはうらはらに、芋掘りが重要な画題になる時代の哀しみを、ある種の滑稽さとともに受け止めました。

こうした会場だからこそ、《大東亜戦皇国婦女皆働之図》二部作(春夏の部・筥崎宮蔵、秋冬の部・靖国神社遊就館蔵)をならべて見てみたい(実はどちらも未見なので)とも思いましたが、それは言うまでもなく企画学芸員の小勝さんもお考えになっていたでしょうし、諸事情により実現できなかったのだろうと推察します。

   *   *   *

この日は、午後からシンポジウム「戦争と表現―文学、美術、漫画の交差」が開催されました。
発表は、近現代史研究者の小沢節子さん「「もうひとつの」への問いかけ―「抑圧」と「解放」のはざまで」、フェリス女学院大学教授の島村輝さん「津田青楓「犠牲者」と開戦期の太宰治―小林多喜二を媒介として」、京都精華大学国際マンガ研究センター研究員の伊藤遊さん「マンガは〈戦後〉文化か?」。
司会は企画学芸員の小勝禮子さん、ディスカッサントは大阪大学大学院教員の北原恵さんでした。

小林多喜二の虐殺を題材にした津田青楓の《犠牲者》は、東京国立近代美術館のリニューアル後に初めて見て、こういう絵が残っているのかと驚きました。島村さんの発表は、彼が太宰と隣の家に住んでいたことや、二人の戦時中の転向の問題について触れるもので、とても興味深く聞きました。

また、伊藤さんの発表は、戦後文化と認識されることの多いマンガを、「学習マンガ」や「傷つく身体」という表現形式から戦時中の表現と連続しているということを実証的に伝える内容で、「総力戦」の意味をあらためて考えさせるものでした。

自身の研究課題とつながる部分でもっとも印象に残ったのは、小沢さんによる「戦時期美術の研究と1950年代文化運動論のはざまにある1940年代後半の空白」という指摘でした。
たしかに、1940年代後半の美術界の動向はいまだに不明・未整理の部分が多く、とりわけ1944年頃から1947年頃までは紙媒体の資料が決定的に少ないので、掘り起こすことは容易ではありません。
この時期、男性画家が敗戦のショックから立ち直れずに活動の再開が遅れたのに対し、「でも女性画家は元気でした」と小勝さんが胸を張って語られていたことも印象的でした。

戦後、日本を占領下に置いた連合国軍の方針によって女性が解放され、美術界も空前と言ってよいほど女性画家の活動の場が開かれます。
当時数少なかった「モスクワ帰り」の肩書が輝きをもって注目された赤松俊子(丸木俊)も、大活躍した女性画家のひとりでした。
敗戦後ほどなく、1945年末頃からの彼女の絵本、雑誌、新聞、ラジオ、展覧会などにおける八面六臂とも言える活躍ぶりは、(残されたスクラップに、雑誌名や掲載日不明のものが多いこともあり)今となっては到底たどりきれません。

被曝の後遺症の療養のために片瀬に転居したという、本人たちも語っているわかりやすい「物語」は、(私もつい引用してしまいますが)あの猛烈な、そして生き生きとした仕事ぶりを追っていくと、信じがたいところもあります。転居は別の理由だったのかもしれないと思うほどです。

今回の展覧会には、彼女が池袋界隈で描いた労働者、メーデーの行進のスケッチも展示され、北関東の版画運動を担ったことで知られる鈴木賢二や飯野農夫也らの作品と興味深い対比が見られましたが、この時期、俊もまた版画運動に参加しています。

1948年のメーデーには、労働者に記念スタンプと版画を贈ろうという計画が、丸木夫妻らが創設した前衛美術会で進められ、同人たちの絵の二色刷り版画が1枚10円(組合などで申し込めば8円)で販売されました(1948年4月25日付『アカハタ』参照)。

同年5月3日付『アカハタ』には、メーデーの会場でデッサンを行う俊の姿が、次のように目撃されています。

 未曾有の人出、色とりどりのプラカードやかざりもの旗の波、歌姫…内外の新聞記者、カメラマン、いつたいどこへ焦点をおいたらよいかととまどいしているどよめきの中でただひとり、演壇に近い砂利のうえに根がはえたようにすわりこみ、朝からせつせと絵ふでを動かしている婦人があつた、ぐるりとかこんだ見物の人垣も目に入らぬ様子で繪筆をふるつている、見おぼえのあるベレー帽は前衛美術会の画家赤松俊子さんだつた、会の文化斗争募金カンパに自作の版画を売りながら、目のさめるような色で青空の下になびく旗の波をかいている、赤松さんはこのメーデー大衆の中から何をつかんだか――

クリックすると元のサイズで表示します

当時の貴重な写真も残されています。
前衛美術会の版画即売会の看板の前で、夢中になって絵を描く俊さんのまわりを、大勢の人が取り囲んでいる写真です。
栃木県立美術館に展示されたスケッチは、このときに描かれたものでしょう。

記事には、「画家のみたメーデー」という俊の手記も紹介されています。

 ▽…「去年にくらべると全体として色彩が非常に豊富になりましたが、画家としてとくに気がつくことは赤旗の色が目立つてきれいになつたことです、去年は旗の生地がもつと悪く、染めもよくありませんでした、こんなことからも労働者がどんなに今日のメーデーに熱意をもつていたかがわかります

プラカードのかき方も上手になつたし、花輪や花かざりがたくさんつかわれてずつと明るく文化的になりました、革命後卅年のモスクワのメーデーとくらべるのはむりですが一昨年よりも去年、去年よりも今年と毎年成長しています、民主革命が完成されたらもつともつと美しく明るいメーデーになることでしよう

▽…斗いが進化しているとき労働者の努力の集中的なあらわれとして、このように文化的にも成長したメーデーをもつたことは日本の労働階級のためにまことに喜ばしい、これは日本の労働者が斗いに勝利の確信が生れてきたからだと思います、しかしまた、参加した人たちが、ただお祭り気分で喜んでばかりいるのでないことは顔をみるとわかります
どのひとも解決しなければならないものを解決しようとする気持、斗争をつらぬいて行こうという決意が顔にひそんでいます

▽…これは今日のメーデーとしては“明るくないもの”といわれる人もあるでしようが、ほんとは“明るくないもの”を明るくして行こうというりつぱなたくましい顔なのです


「明るくないもの」云々の話は、「解放された」戦後社会という認識から、その後の占領への抵抗(《原爆の図》制作)に向けての方向転換を予感させるところもあります。
この直後の7月に、丸木夫妻は片瀬に転居して前衛美術会から遠ざかっていき、やがて退会するのでした。

こうした複雑な政治的意識を背景を持つ彼女のスケッチを、どのように位置づけて紹介するかは決して簡単な問題ではなく、これまで丸木美術館で展示していなかったのですが、あらためて見ると、その力強さは決して見逃せない、時代を反映したものだとも感じました。

ともあれ1940年代後半は、丸木夫妻の画業の変化をたどる上でも、重要な今後の研究課題となっていくのだと思われます。
0



トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ