2015/6/19

【米国出張12日目】アメリカより帰国  調査・旅行・出張

いよいよニューヨークのJFK国際空港より、帰国です。
今回のアメリカン大学展で印象に残ったことをひとつだけ書きとめておきます。

展覧会初日に姿を見せた退役軍人のことです。
オープニングレセプションの後、歩行器に支えられながら原爆の図第13部《米兵捕虜の死》の前に立った彼は、倒れこむように絵の台座に座ってしまいました。

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近くにいた私とラスムセン館長がとっさに支え、絵に触れることはなかったのですが、94歳の彼に「立て」とは言えず、目を押さえてへたり込むのを見守るより仕方ありませんでした。
格好の取材対象を記者たちが放っておくはずもなく、やがて彼の口から原爆投下の正当性を主張する発言を引き出そうと質問が集中しました。

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「私がこの絵のようになるかもしれなかった。日本は中国でなにをしたのか」という彼の返答は、誤解を恐れずに言えば、理解できる部分もありました。
一般の市民さえ捕虜を虐殺する日本だからこそ、原爆を落とすしかなかったんだ……という捉え方を、この絵は促すかも知れない。この“問題作”をどう見ればいいのか、正直なところ私には本当に難しく、今も考えはまとまっていません。

ただ、今回の展覧会に関するさまざまな言説の中で、ともすれば「原爆の被害だけでなく加害の視点を提示することに意味がある」と強調されることについては、ずっと引っかかるものがありました。
この作品が、その後の第14部《からす》や《沖縄戦の図》につながっていったことは間違いありません。しかし、この丸木夫妻の米国に対する応答は45年前に行われたもので、その後の3度に及ぶ米国開催の展覧会で必ず展示され続け、ある意味では《原爆の図》と米国との関係を象徴するステレオタイプの語りになりつつあります。

加害であれ、被害であれ、そこにわざわざ国境線を引いて見る者の立場を分かつのは、ボーダレス化の加速する21世紀にどういう意味を持つのだろう。いや、もちろん意味があるのも理解はできますが、NPT再検討会議が国際政治に翻弄されて決裂した直後にあって、せめて《原爆の図》は、芸術のもたらす力で、言葉や民族、習慣、政治の壁を越えて、人の心から人の心へ、大切な何かを届けることができないだろうか。

その日、憔悴して帰宅したであろう老人は、意外にも翌日の午前中にも再び会場に姿を見せ、今度は記者に囲まれることなく、じっくりと絵を見ていました。
彼は何を見ていたのでしょうか。彼の心にも、命とは何かを問う想像力は届いたでしょうか。
彼の後ろ姿からは、少なくとも「見るに値しない絵」とは思っていないであろうことは、伝わってきました。

《原爆の図》について自分の言葉を伝える機会がなかったアメリカン大学の展覧会を体験して、私にはアメリカの人たちに知ってほしいこと、ともに考えたいことがたくさんあることに、今さらながら気がつきました。
幸い、次のボストン展では、絵について話をする機会をもらえそうです。原爆投下の悲惨さを伝え、その是非を問うことには、もちろんまったく異存はありません。けれども、この原爆を表現した芸術が、なぜ生まれ、何を描き、どう読み解かれてきたかをまずはきちんと伝えること、そこからすべてをはじめることが、今回のアメリカ巡回展で自分の果たすべき役割なのだろうと、あらためて思うのです。
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