2014/12/22

【長崎出張】長崎原爆資料館《原爆長崎之図》など  調査・旅行・出張

出張2日目は、早朝の列車に乗って長崎へ。
午前中に長崎原爆資料館を訪れました。

原爆の図第15部《長崎》を常設展示している資料館ですが、その他にも、丸木夫妻が1954年に描いた《原爆長崎之図 浦上天主堂》《原爆長崎之図 三菱兵器工場》という、ほとんど知られていない2点の絵画を所蔵しているのです。

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こちらが《原爆長崎之図 浦上天主堂》。

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そしてこちらは《原爆長崎之図 三菱兵器工場》。

この2点の作品は、1954年2月21日から3月4日にかけて東京都美術館で開催された「第7回日本アンデパンダン展」に出品され、その後、長崎市に寄贈されたという記録があります。

なぜ、この時期に丸木夫妻は長崎をテーマにした作品を描いたのか。
1953年8月発行の『新しい世界』8月号の「平和月間によせて」という特集のなかに、「戦争はいやです」という丸木位里の文章が寄せられており、次のような興味深い記述があります。

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 あと四部を今年中に描き上げて、十部作完成させたいものと考えております。あと七部八部は長崎に取材します。

 前から長崎にには
〔原文ママ〕行かねばならぬと思いながら、とうとう今年の春までその機会がなく長崎の平和の会から「なぜ、長崎をかかないのか」と、しかられ、旅費まで送ってもらってまいりました。この長崎の旅のいんしょうが非常によかったので長崎になら、しばらく住んで見たいと今でも思っています。

 キリシタンバテレンの長崎、絵踏みの長崎、支那寺の長崎、お蝶夫人ゆかりの地の長崎、天主堂の長崎。浦上天主堂は、みる影もない。キリストは首が落ち、足がずれ、天使ははながかけ、額は大きなヒビが入り、この浦上天主堂にあったはずの沢山の天使が爆心地いたるところにちらばって、永井隆の如己堂にあり資料館にあり、くずれた石垣の中にまでつかわれていたり、私は、こんな事が気になるのでどこか一つに集めて保存したらと、ある人にたずねたら「あれは原爆の時に勝手に持っていったのがそのままになったので、今はその人の所有になっているから、どうにもならないだろう」と話してくれました。石垣につかわれた天使、首のないキリスト、生きながらゆうれいになって倒れた人間。原爆といえば広島。ひろしまといえば原爆。ひろしまだけがまず第一に大きく取り上げられていることを長崎の人は不満に思っています。この長崎を描かないで原爆の図を、かたるわけにはまいりません。私達は、なぜ早く長崎に行かなかったのかと思いました。


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この文章によれば、丸木夫妻が初めて長崎を訪れたのは、長崎の平和の会に招待された1953年の春ということです。
原爆の図の第7部と第8部は長崎を主題にする予定だったとありますが、実際には、引き続き広島を描いた《竹やぶ》と《救出》が1954年、1955年に相次いで完成しています。

作品の大きさが縦横ともに二間(約180cm)ということで、どうしても第1部と第2部のあいだに制作された未完作《夜》を思い起こしてしまうのですが、あるいはこの2点も、大作になりきれずに“番外”の扱いに留まってしまったのかもしれません。
(そう思って見ると、これらの絵の先には、まだ続きがあるようにも見えてきます)
とはいえ、初めて間近に見る作品は、それぞれ見応えのある中身の濃いものでした。

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《浦上天主堂》に描かれた石造りの聖像や、その周辺の手の込んだ点描は、「日本画の前衛」を探求していた戦前の位里の実験的な作品を思い起こさせます。

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背景の墨の表現も、シュルレアリスムの影響を受け、水墨によるオートマティズムを試みた戦前の表現を連想します。

もうひとつの《三菱兵器工場》は、背後に描かれた熱で曲がった鉄骨の描写が非常に印象的です。この「一本の線」の描写の美しさは、俊の手によるものでしょう。

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丸木夫妻の《原爆の図》は、キノコ雲や原爆ドームを一切描かず、人間の肉体に焦点を当てたという特徴がたびたび言及されますが、それは広島の場合。
長崎を主題にした作品は、第15部《長崎》も含めて、広島との差別化をはかるためでしょうか、人間以外の背景もかなり描かれています。

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画面の右側、仰向けの女性の背後に小さく描かれた建築物も気になります。
焼け残った3階建ての建築物は、何をモデルにしているのでしょうか。
もう少し詳しく調べてみたいところです。

   *   *   *

2点の作品調査を済ませた後は、長崎原爆資料館のなかを見学。
まずは入口の券売所のとなりにアクリル板で守られて展示されている第15部《長崎》です。

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実はこの作品を実際に目にする機会は初めてのこと。
画集などでは目にしているのですが、やはり、実際に見ると、細部に発見があります。
猫やニワトリが描かれていたり、浦上天主堂の被爆後の風景が小さく描き込まれていたり。
背景のなかに、第3部《水》のような小さな「幽霊の行列」も見ることができました。

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この作品は1982年制作で、その2年前の1980年には絵本『ひろしまのピカ』を出版しているのですが、この第15部《長崎》に描かれた「幽霊の行列」は、まるで『ひろしまのピカ』を思わせる描法です。
よく見ると、羽根を焼かれたツバメもいます。

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館内に入っていくと、廃墟となった浦上天主堂の巨大な復元模型に圧倒されます。
来館者自身が焼け跡の長崎を歩いて行くようなイメージです。
もちろん、実際に被爆した遺品の実物も展示しているのですが、模型などの再現展示もバランスよく配置されている印象です。
また、入口の原爆の図第15部《長崎》のほかにも、深水経孝の《崎陽のあらし》や山田栄二のスケッチなど、原爆を描いた絵画作品も展示されていました。

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深水経孝は被爆当時、長崎要塞司令部に勤務しており、原爆投下3時間後に救援活動のため爆心地に入りました。
そして翌年の初夏、郷里の熊本県人吉市で、自身の記憶が薄れないうちに原爆の惨禍を描き残しておきたいと考え、使い残しの障子紙と水彩絵具を集めて、1週間ほどで絵巻《崎陽のあらし》を描き上げたのです。
しかし当時は米軍占領下。この絵巻も発表されることはなく、深水は1951年7月に被爆の後遺症に苦しみながら31歳でみずから命を絶ちました。
そのいわれも含めて、個人的には原爆の絵を語る上では忘れがたい、重要な意味を持つ作品だと思います。

また、原爆の図第14部《からす》(原爆の図丸木美術館蔵)の複製パネルや説明文も印象的に紹介されていました。

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展示室を見てまわりながら、遺品などの「実物」展示はもちろん重要ですが、それだけでなく、絵画や物語という人間の作り出す想像力が、「実物」との相乗効果によって、過去を近づけ、世界に奥行きをもたらすのではないかと思いました。

そうした物語性の活用の重要さを、あらためて考えさせられます。

   *   *   *

原爆資料館を出た後は、少し周辺を歩いてまわりました。
長崎の平和公園は、原爆資料館のある「原爆資料地区(学びのゾーン)」と、「原爆落下中心地区(祈りのゾーン)」、「祈念像地区(願いのゾーン)」の三つに分かれています。

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そのひとつ、「原爆落下中心地区(祈りのゾーン)」には、1956年3月建立の原子爆弾落下中心地を示すモニュメントと、原爆受難者名奉安の箱が設置されています。
この塔の上空500mで、1945年8月9日午前11時2分に原爆が炸裂し、約2.5kmに及ぶ地域は壊滅。同年12月末までに約75,000人の方が負傷し、約74,000人の方が亡くなったと言われています。

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そのすぐ近くには、爆心地から北東500mの位置にあった浦上天主堂の遺壁(聖堂南側)の一部が移築されています。

また、このゾーンの一角には、被爆50年記念事業費として、巨大な母子像も建っています。
北村西望の弟子の彫刻家・富永直樹の作品であり、当初は原爆投下中心地に、従来の塔を撤去して建てられる予定でしたが、市民の反対運動と訴訟によって中止になったという経緯のある彫刻です。この訴訟には、丸木美術館前館長の針生一郎もかかわっていました。

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「祈念像地区(願いのゾーン)」には、世界じゅうに呼びかけて、さまざまな国から寄贈された平和の像のモニュメントが点在し、かつての長崎刑務所浦上刑務支所の遺壁や基礎部分、中国人原爆犠牲者追悼碑なども見ることができます(刑務所の受刑者の多くは中国・朝鮮の出身者で、中には政治犯もいました)。
かつて迫害を受けた切支丹の地であり、植民地政策と深く結びついた刑務所があり、「原爆は長崎ではなく浦上に落ちた」という言葉を聞いたことがありますが、長崎の原爆は、こうした人間の差別とつながる複雑な問題であることを、あらためて考えさせられました。
原爆資料館に朝鮮人差別を主題にした丸木夫妻の原爆の図第14部《からす》の紹介があったのも、こうした問題とかかわりがあるのかもしれません。

ともあれ、その空間の中心にそびえ立つのは、北村西望作の巨大な平和祈念像(1955年作成)。

作者の北村西望は、長崎県南島原市出身。当時、日本芸術院会員で日展審査員も兼ねるという彫刻の大家でした。
もっとも、彼は戦前・戦中に数多くの力強い戦争彫刻を制作して名声を高めてきたという過去があり、その延長線上にある(というより力強い肉体美の表現はまったく変わらず、ただタイトルのみが180度異なる意味を持つ)彫刻を平和の象徴として建立することには、さまざまな批判も寄せられました。

たとえば、長崎市出身の詩人・山田かんは、次のような批判を記しています。

Sという人は彫刻界の重鎮といわれて
重鎮というのも不快なことばなのだが
ともかく権威なのであり
時勢とか時局とかの流れの
武張ったもの
暴力とでも表現したいものを
作風としてきたのではなかったか
政治のにおいもそこにからませて――

〔中略〕
昭和二九年六月、Sという人は申された
数万人の爆死者のうえで
大きなものは善であり力であり観光であり
それが平和を祈念するという錯覚が
今日も梅雨空のなかに蹲っている


(『山田かん全詩集』コールサック社、2011年より)

こうした戦前から戦後への文化的な連続性は、たとえば広島平和記念公園・平和祈念資料館建設における丹下健三の立場を想起させます。
このあたりの調査は、『引込線2013 essays』(引込線実行委員会、2013年発行)に掲載された石崎尚氏の論考「北村西望と平和祈念像」に詳しく記されています。

複雑な差別の歴史の中心に、戦前からの連続性を想起させる「力強い」モニュメントが、原爆の「象徴」として屹立しているというのは、何とも不思議な、しかし、これはこれで、ある意味を発しているのではないかとも考えさせられました。

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平和公園の後は、坂をのぼって高台にある浦上天主堂を訪れました。
浦上天主堂は、「東洋一」の規模と言われた赤レンガ造りの聖堂でしたが、原爆により壊滅。
信徒約12,000人のうち約8,500人が亡くなったそうです。
その後、保存問題も議論されましたが、最終的に教会側も当時の長崎市長もともに撤去を選択し、1958年に廃墟は撤去され、翌年、新しい天主堂が完成したのです。

残念ながら内部見学は不可という日だったので中に入ることはできませんでしたが、周辺には原爆による被害の跡を見ることができました。

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天主堂の前庭には、原爆で破壊された聖人の石像が並んでいます。
写真右は聖セシリア像、中央はイエスの聖心像、左の像は頭部の破壊で不明とのこと。

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また、天主堂入口向かって右側には、《原爆長崎之図 浦上天主堂》に印象的に描かれている「使徒聖ヨハネ像」を見ることができます。
原爆で鼻が欠けたものの、破壊されず残った像です。

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天主堂北側の崖下には、原爆で吹き飛ばされたという鐘楼(直径5.5m、重さ約50トン)が、崖下に崩落したままの状態で保存されています。
原爆の凄まじい威力が伝わってくる遺構です。

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浦上天主堂を出た後は、長崎大学医学部方面を歩きました。
道路沿いの目立たぬところにあった原爆殉難者慰霊碑を見ながら、山王神社へ向かいます。

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山王神社 二の鳥居は、原爆によって半分が倒壊した一本柱鳥居として知られています。

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鳥居の先には、倒壊した半分の鳥居の遺構が道路わきに保存されています。
「国威宣揚」と刻まれた石柱が、皮肉に感じられます。

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狭い参道を歩いていくと、被爆大クスノキで知られる山王神社。
原爆投下の際、社殿は炎上し、境内のクスノキも枯れかけましたが、2か月後に再生。
樹齢500年以上という老木は、今も立派に葉を繁らせています。
(ただし、そこかしこに修復の跡が見え、今や生きているのがやっとだということも、よくわかりました)

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神社の入り口には、倒壊した鳥居の柱を使った坂本町民原子爆弾殉難之碑も見られます。
原爆の被害によってこのあたりの地域もほぼ壊滅状態になっていたようです。

その後はいったん長崎駅前に出てNHK長崎局の方と待ち合わせ、喫茶店で雑談をした後、まだ列車の時間まで少し余裕があったので、最後に二十六聖人殉教地のある西坂の丘を訪ねました。

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豊臣秀吉の切支丹禁止令によって、1597年2月5日朝、26人のキリスト教信者が十字架にかけられました。最年少はわずか12歳の聖ルドビコ茨木。聖アントニオ13歳、聖トマス小崎14歳と年少者が3人いた様子は、1962年に建立された彫刻家の船越保武の作による日本二十六聖人殉教記念碑にも再現されています。

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ただ一人、両手を開いた姿は、布教活動を行っていた聖ペトロ・バプチスタ神父。十字架にかけられる際には、キリストのように釘で十字架に磔りつけて欲しいと頼んだそうですが、願いが聞き入れられることはありませんでした。

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日本二十六聖人殉教記念碑の裏面には、26聖人が京都で捕えられ、長崎に到着するまで26人が歩き続けた苦難の道のりを表現した今井兼次作の《長崎への道》というモニュメントがありました。
26粒の一房の葡萄、曲がりくねったツルは長崎への道をあわらしています。

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今井兼次は早稲田大学坪内博士記念演劇博物館や碌山美術館を設計した建築家で、この西坂の丘に建つ日本二十六聖人記念館とガウディ風の記念聖堂の設計も手がけています。

日本二十六聖人記念館は、当時の世界や日本の状況などを含めた豊富な資料で提示する充実した記念館でした。見学のあとは、すぐ近くにある岡まさはる記念長崎平和資料館にも足を運びました。

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残念ながら月曜休館でしたが、日本の戦争責任を市民の視点で追及し続けた故・岡正治の思いが込められた資料館。長崎を再訪する際には、ぜひ見学したい施設です。

前日の原爆文学研究会で手渡された『原爆文学研究13』10冊などの書籍を大量に抱えたまま(年末の研究会には空のトランクを持参するべきでした)長崎の街を歩きまわった一日。
来年は被爆70年にあたるので、できればもう一度長崎を訪れて、少し詳しく調査をしたいと思っています。
ともあれ、今回はこれまで。充実した成果を抱えて、夜の飛行機で東京に戻りました。
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