2013/6/15

立命館大学国際平和ミュージアム「ミリキタニ+スマ展」  館外展・関連企画

現在、立命館大学国際平和ミュージアムで開催中(7月20日まで)の「ジミー・ツトム・ミリキタニ回顧展」と同時開催の「丸木スマ展」を見るため、日帰りで京都へ行ってきました。

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奇しくもこの日は、(企画担当のK学芸員によれば、まったくの偶然だったそうですが)昨年10月に逝去したジミー・ツトム・ミリキタニの誕生日。
ドキュメンタリ映画『ミリキタニの猫』(2006年、リンダ・ハッテンドーフ監督)の上映会とカフェ企画が開催されたのです。

   *   *   *

ジミー・ツトム・ミリキタニ(日本名:三力谷勤)は、1920年に米国カリフォルニア州サクラメントに生まれ、生後すぐに日本に戻り、広島県佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区)で育ちました。
ジミーが徴兵の年齢に達する頃に日中戦争が近づき、父は兵学校への進学を勧めますが、幼い頃から絵が好きで「日本画」を学んでいた彼は、1938年、(映画のなかの彼の言葉によれば)「東洋と西洋を融合する新しい絵画」を確立するために、市民権を持つ米国に渡ります。
広島で「日本画」を学び、30年代後半に「東洋と西洋の融合」を志す、というと、丸木位里や船田玉樹らと何らかの接点があったのではないかと想像してしまうのですが、彼がどのように絵を学んでいたのかはわかっていません。
後年の彼の絵には、「東京上野芸大卒」「山水川合玉堂 仏画木村武山門下」と記されているのですが、今回の企画展のための調査では、東京芸大に在籍の記録はなく、玉堂門下であるという事実は判明されなかったそうです(広島出身の玉堂門下といえば、児玉希望を連想しますが、やはり関係性は不明)。
ただし、彼が日系人強制収容所時代に描いたキャッスルロックを描いた「日本画」(「尊厳と芸術」展出品作)に記された雅号「三力谷萬信」は、木村武山による命名だという情報はweb上に見られます。
http://www.avantipress.jp/2012/11/20121114_1.html

英語の不得手な「帰米二世」としてオークランドやシアトルの親戚を頼り、洗濯屋などで働いていた彼の運命は、1941年12月の日米開戦のために一変します。
西海岸一帯の日本人と日系米国人に出された強制立ち退き命令(行政命令9066号)によってカリフォルニア州のツール・レイク収容所に送られたのです。
そこでは米国への忠誠と従軍の意志を問う「忠誠登録」を求められましたが、ジミーはこれを拒否。市民権放棄にも応じました。そのため、戦後も別の収容所に送られ、拘留されました。
1948年にようやく自由を得た彼は、ニューヨークのレストランで働きながら絵を描き、ジャクソン・ポロックや国吉康雄とも接点があったそうです。しかし、当時の作品は現存せず、どのような制作活動をしていたのかはわかりません。
晩年に彼が絵に記し続けた「雪山」という雅号は、この時期に、コロンビア大学で日本学を教えていた(ドナルド・キーンの師でもある)角田柳作によって命名されたそうです。K学芸員によれば、この情報は信憑性があるのではないか、とのこと。

その後、裕福な老人宅で長年住み込みで働きますが、彼の死で仕事と住居を失い、80年代末頃からニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジのワシントン・スクエア・パークの店先や路上で寝起きし、クレヨンやボールペンで描いた猫や花の絵を売る生活をはじめました。
そして映画監督のリンダ・ハッテンドーフと知り合い、2011年9月11日の「同時多発テロ」後の混乱のなか、彼女の家に同居することを勧められ、ドキュメンタリ映画『ミリキタニの猫』が製作されたというわけです。



映画上映会の後、会場にならぶ30点の絵画を観ました。
「平和ミュージアム」らしく、ジミーの絵画作品だけではなく、在米日本人・日系米国人強制収容所の展示コーナーも非常に充実していて、日本人の血を引く住民はすべて出頭するよう求めるポスター(!)や、収容所生活についての一問一答形式の手引書、収容所の生活空間の再現展示など、当時の状況がとてもよくわかる構成になっていました。
収容所を描いたジミーの4点の絵画は、いずれもキャッスル・ロックなどを中心とする風景画で、(墓地が描かれた絵もありましたが)「忠誠登録」を拒否した心情や怒りがストレートに反映されているというものではありません。

個人的に興味を惹かれたのは、原爆や「同時多発テロ」を主題にした作品群でした。
黒煙と炎に包まれた旧産業奨励館を描いた《原爆ドーム》という絵画。その構図と黒煙、炎の描写は、《ワールド・トレード・センター》と題された3点の絵画と酷似しています。
原爆というより、「9.11」の光景を原爆ドームに置き替えたような内容です(ただし、《原爆ドーム》には仏画がコラージュされているものの、《ワールド・トレード・センター》にはそれがなく、3点のうち1点にはビン・ラディンの写真がコラージュされていました)。
映画のなかでも、「9.11」の後、米国内でのアラブ人への取り締まりが強化される報道をテレビで観たジミーが「Same story!」と吐き捨てる場面がありましたが、彼にとって「9.11」後の米国社会の反応は、かつて自らが体験した日米戦争/強制収容の記憶と重なるものだったのでしょう。

彼の作品は、絵画だけではなくコラージュが非常に面白いのですが(もっとも、売り絵である猫や花の絵にはコラージュは見られず、自身の過去や戦争を主題にした作品に頻繁にフォト・コラージュが登場するようです)、中でも《ヒロシマ》と題するコラージュ作品は、自らが描いた原爆ドームの絵の写真を中心に、興味深い構成となっています。
左上部には広島の焼野原の航空写真、右上部に旭日旗と日章旗、右下部にミッドウェイ海戦を伝える記事の切り抜き、左下部に鯉の絵(鯉は広島の象徴で、ジミーは映画のなかで「原爆で全滅した広島の街で巨大な鯉だけが生きていた」と語っています)が配置され、そして左中央部には、イラク戦争当時の日米の首脳、小泉純一郎とジョージ・W・ブッシュが笑顔でならぶ写真も見られます。
そこには、日米戦争と「9.11」というふたつの歴史的事件を米国社会で体験したマイノリティとしての、複雑でシニカルな視線が潜んでいるようにも思えます。

今回展示されている作品は、すべて、ジミーと親交のあった日系人画家ロジャー・シモムラの企画によってウィング・ルーク博物館(シアトル)で開催された2006年の「ジミー・ツトム・ミリキタニ」展の出品作。
現在、相続人のいないジミーの遺品はニューヨーク市が管理しており、ジミーの作品をまとめてみることができるのは、このコレクションしかないようです。
晩年の路上生活時代に制作された作品のみなので、「尊厳と芸術」展出品作や、若い頃の写真に写された仏画(たしかに、木村武山の「慈母観音」を思わせる)からの表現の連続性(というより、ほとんど別人の絵のように見えるので、断絶というべきか)を知ることはできません。
会場には、はつかいち美術ギャラリー学芸員のYさん、Uさんの姿も見られ、たいへん興味を持たれていたので、広島でもほとんど知られていないという彼の画業や生い立ちについて、今後、調査研究が期待されるところです。
まずは数年越しの粘り強い企画で貴重な作品鑑賞の機会をつくってくれたK学芸員はじめ、立命館大学国際平和ミュージアムの皆さんに深く感謝。

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また、2階の1室では特別企画展示として「丸木スマ展」も開催中。
当初のK学芸員の構想では、「ミリキタニとスマ」の表現を比較する企画だったそうです。
たしかに、「アウトサイダー・アート」的な猫の表現や、原爆という主題を描いている点(今回のスマ展では、《ピカのとき》をはじめ3点の原爆を描いた作品を展示)、そしてスマの夫の金助も広島から出稼ぎ移民として1890年代末にハワイで働いた経験があるなど、いくつかの共通項があるので、そのあたりをもう少し近づけて提示できればよかったのですが……
ともあれ、関西方面で丸木スマの絵を観ることができるのは貴重な機会。
ミリキタニ作品とともに、ぜひ、スマの絵画もご覧下さい。
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