2013/3/31

【パラオ旅行3日目】南洋神社・海軍墓地そして赤松俊子の南洋随筆  調査・旅行・出張

3日目は、早朝に一人でホテルを抜け出してコロールの町をジョギング。
目的地は、町外れにある南洋神社跡と海軍墓地です。
コロールの中心部から見ると東の方向で、日の出に向かって走ることになりました。
パラオには放し飼いの犬が多く、某学芸員さんは南洋神社で犬に咬まれてしまったという話も聞いていたので、細心の注意を払ってのジョギングです。

走りはじめてすぐに、道路沿いに天理教の「殉教碑」があるのを見つけました。

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碑文によれば、1929年に布教と調査の目的で単身パラオに渡ってきて志半ばに倒れた清水芳雄という方の碑であるようです。

坂道を上りきった高台には、町を見下ろすように大きな石灯籠が道の両脇に遺されていました。

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元は南洋神社の参道の石灯籠だったのでしょう。
石灯籠を過ぎてしばらくしてから、南に向かう細い道が分かれています。
その道を進んでいくと、道の右側にまた小さな石灯籠が。よく見ると、もうひとつの灯籠の土台と、奥には太鼓橋の跡がありました。

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南洋神社は、1940年に紀元二千六百年記念事業の一環として創建されたとのこと。
終戦後に廃止となったものの、この先の参道をさらに進んで行けば、1997年に再建された新しい神社があるそうなのですが、私有地でもあり、あまり時間に余裕もなかったので、かつての遺構を見たところで引き返すことにしました。

一旦大きな石灯籠の方までもどって、今度は北に向かって下りていく細い坂道に向かうと、港を見下ろすように小さな海軍墓地があります。

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墓地の中には、個人の墓とともに、さまざまな慰霊碑が建てられています。

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「パラオ島ニ於ケル(旧)日本陸海軍戦没者鎮魂ノ碑」や「白蝶貝取扱業殉職者慰霊碑」、「長野県パラオ諸島戦没者慰霊碑」など。

もっとも古いと思われる碑は、1938年8月10日の飛行艇事故で亡くなった南洋航空の7名の職員の殉教碑で、もとはパラオ公園に建立されていたものが、米軍の攻撃で破壊され、1973年に博物館に放置されていたものを発見し移設したのだそうです。

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そうしたなかに、1977年8月に南洋群島帰還者会とパラオ帰還者有志によって「パラオ諸島沖縄県人物故者を偲び霊の冥福を祈り」建立されたという「沖縄の塔」がありました。

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前日に訪れたペリリュー島の墓地にも「沖縄の塔」がありましたが、いかにパラオに沖縄の移住者が多かったかと感じます。
また、墓地の一角には、個人の墓のようでしたが、ハングルが刻まれた碑もありました。

   *   *   *

日本統治時代のパラオでは、日本人を頂点とする、沖縄、朝鮮、パラオ現地住民という順の階級が存在していたといいます。
ベラウ国立博物館のHPに掲載された当時のコロールの写真を見ると、とてもきれいに整備された街並みで、日本が相当インフラに力を入れていたことがわかります。
http://www.belaunationalmuseum.org/exhibits/indoor/japan/photoarchive.htm

そうした歴史のせいか、今もパラオは親日的な国であるようです。
それでも植民地支配という仕組みが、複雑な差別の構造を生んでいたことは見逃せません。

「南洋群島」を訪れた若き日の俊は、そうした状況をどのように見つめていたのでしょうか。
東京に戻った俊は、南洋帰りの画家として次々と絵画を発表し、絵本や随筆の仕事を手がけていきます。それは、当時の日本の植民地政策に合致した仕事でもあり、ずっと後になって“戦争協力”を咎められる要因にもなります。
しかし、注意深く彼女の記した文章を読んでいくと、必ずしも当時の国策に従うだけではない、俊独自の視点が伝わってくるのが興味深いです。

たとえば、1940年7月発行の雑誌『東海堂月報』に掲載された俊の「南洋處々」という随筆。

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俊は「貴女が内地へおかへりになつたら是非文化南洋も宣傳していたゞかなくては困ります」と南洋文化協会から依頼されたと冒頭で記し、「事實、この南洋の都パラオは文化地でした」と、デパートや学校、ホテルなどの「誠に美しく活々とした殖民地の文化的な風景」を描写しているのですが、現地の島民が「一體何處にどんな家に居るのかしらと考へた。一體そして何を考へ、何をよろこんでゐるのかしら」という疑問を抱き、最後に以下のような文章を記しています。

=====

「はいわかりました。文化南洋を宣傳いたしませう、はいはい」
とうなづいてゐた私が、横目でちょいちょい島民の女や男をながめながめ如何してもこの人たちの顔や目や口や動作から來る匂ひや空氣に對する好奇心を捨てさることは出來なかつた。ここの所へ描かれたカツトもついつい島民の女の生活をのせてしまつた。如何してこんなにこの人々のことが、面白いと思ふのだらうかと考へた。そしたら、私たち内地人の顔は、皆變哲もない顔に思へて來た、じつとしてゐて嬉しいことも悲しいこともみんなおさへて、おさへおさへてがまんしたため何にも言へない顔になつたのではないかと考へた、そして隣のおかみさんも、隣の奥様も鏡にうつつた同一人の二つの像のやうに、つんとすました、硬い顔になつてしまつたのかもしれない、こうなつた原因がどこにあるかなんどゝ考へは次々と湧いて來て困る。
それは兎に角私は文化南洋の文化方面の姿にみちた島へと入り込んで行つた。私は叱られてゐるかもしれない。
「ゑかきなんかに南洋に來てもらつては困る島民ばかり面白がつて」と。


=====

また、雑誌『新女苑』1940年11月号に掲載された「南洋を描く 二つの風景」という随筆には、現地で親しくなったメカルという少女の日本人観と、アンガウル島へ燐鉱の仕事に行く太郎という少年の姿が記されています。

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いずれも、さりげない描写のなかに、日本の植民地支配の不条理をとらえる印象的な文章です(以下は一部抜粋)。

=====

T
……メカルと二人で集會所(アバイ)を見物に來た東京風の旅行者をながめてゐた。
「東京へ行きたい?」
「觀光團に入つて死ぬまでには一度行きたいです。」
「今貯金してゐる。中村さんの奥さんの洗濯したり、洋裁してゐるよ。」
ていねいな日本語がこゝでとたんにくづれた。
「横濱についたらね。島がズーッと大きくて、どこ迄も續いてゐるつて。それから、雪が、もう寒い、わたが冷たいとおなじと言つてゐた。雪がみたい。」
メカルが銀の腕輪をいぢりながら大きな白眼と、大きな黒眼のくつきりした彫刻的な目をふせたり、とぢたり、又は、じつと私の目にそゝいだりして話してゐた。
「さうを。」
私は大きな息を一つはきだして手についたゑのぐをこすつた。
「南洋の娘は早くお嫁になるんでしよ、メカルはどうしてならない?」
「先生が、ニジユツサイまで行かない方がよいと言つた。」
「ニジユツサイになつたら、どんな人の所へおよめに行くの?」
「働く人。」
「働く人つて?」
「役所へ行つたり、會社へ行つたりしてお金をもつて來る人。」
「それぢゃ内地の人は。」
メカルはニコッと笑つて、内地の人のお嫁になつた人が、とてもゐばつてゐると言つた。
私はまるで訊問する人のやうに問を續けてゐる。メカルは誠に見事に私の問に答へていつた。
「女の子が一ばんしてはいけないと言はれてゐること何?」
メカルはこの問に即座に答へた。
「男。」
丁度すつかり暗記してゐるやうに、すばやくて、聲もはつきりしてゐた。男。私は驚いた。この言葉のもつ意味は何だらうかと。
「誰がいけないつて?」
「先生も、それから家でも。」
「何故?」
メカルは少しもたじろかずに、
「遊ぶことは、わるいことだつて!」
「さう!」
メカルのお答はみんな大層立派であつた。
丁度生徒が暗記してゐるやうに立派であつた。たじろがずに瞬きもせずにはつきりとお答をした。
さう言つたといふ先生は、公學校の先生であらう。反射的に答が出來る程、彼等の習慣、古い長い習慣を、變へなければならぬ、と説かれてゐるのであらう。
南洋の都、都會の島民の娘は、アッパッパに下駄をはいて、パーマネントを短く切つて、東京風の洋裁を習ひ、遊ぶことをつゝしんで、一度内地を見物して、それから働く人に嫁入り、内地人にならう、とするのが望のやうであつた。

 U
太郎はゑを描いてゐました。私の眞似して。徽章のとれた學生帽をかぶつて、手ぬぐひを首に巻いて、前でむすんでたらしてゐました。
赤ふんどしの太郎。
刺青をした太郎。日の丸と軍艦旗の交差した刺青。
太郎はゑを描いてゐました。私の眞似して、ボール箱の片方に、私が太郎をスケツチするから太郎は私を描いてゐるのです。
毛がもさもさと生えた私の顔を。首からすぐ手の生えた私の顔を。
太郎は混血児でした。
「うまいうまい。上手に描けた。」私は出來たゑをほめました。

……(中略)……
青い透明な波に何度も眞赤なつばきをはきました。太郎と並んでつばきをはきました。
赤いつばきが、波の上でぱつと廣がつて、すつと流れて行きました。
太郎のお父さんは日本人だと言ひました。
太郎のお母さんはカナカ娘。太郎は今出稼ぎに行くのです。他の島へ行くのです。燐鉱の出る島へ。
太郎のお母さんは太郎の歸りを待つてゐるのです。だが、太郎のお父さんは居ないのです。唯、日本人だといふことが分つてゐるだけなのです。太郎は白い顔をしてゐました。日の丸と軍艦旗の刺青をして、とり膚たてゝ檳榔樹(びんろうじゅ)を噛んでゐました。そして眞赤なつばきを、
「ペッ。」
「ペッ。」
とはき出してゐました。


=====

帰りは、宿泊していたホテルの裏通り、通称「ゲイシャ通り」を走ってみました。
何となく、日本統治時代の色街の雰囲気が残っているような通りです。

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前日にガイドのDさんから教えられた、旧日本軍の高射砲を探してみたのです。
民家の庭先にあると教えられた通り、本当に物置のようなところに紛れていましたが、すぐに見つかりました。

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Dさんの話では、ときに洗濯物がかけられていたりもして、生活に溶け込んでいるとのこと。パラオにおける日本統治時代の遺物は、そんな大らかな環境で現在まで遺されているのです。

   *   *   *

ホテルに戻り、この日は、家族でシュノーケリングを体験しました。
空港のあるバベルダオブ島の橋の近くにある桟橋から、今日もスピードボートに乗って珊瑚礁の海に飛び出します。

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ガイドさんがついてくれて、幼い娘も海中を覗ける眼鏡をつかって、シュノーケルや足ひれなしで、海を泳ぐ色鮮やかな熱帯魚たちをたくさん見ることができたようです。
深い海に向かってゆっくりと泳いでいくウミガメも見ました。

子どもたちが少し疲れて来てからは、ゲリル島という無人島に案内され、小さなビーチで遊んだり、ハンモックに寝転んだり、カヌーに乗せてもらったり、とれたての椰子の実のジュースを飲んだりして南国気分を満喫しました。

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「また遊びに来たいね。今度は無人島に泊まりたいね」と妻子たち。
「南洋群島」を訪れた俊もまた、アンガウル島の北にある、干潮時には歩いて渡れる無人島を買いたい、と考えながら東京に帰りました(南洋庁が5万円くらいで払い下げてくれるだろうと言われたそうです)。
1941年2月発行の雑誌『美之國』第17巻第2号には、俊が島にアトリエを建てる夢を綴った「南洋の獨言」という文章が残されています(以下、一部抜粋)。

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遠く東京を離れたこの島。十五日に二日たして十七日、そう十七日も離れたこの島。
この島の、あうベラボーなでつかいたまなの木で。
大きな大きな仕事場を建てたい。
それはこの島の中央に。長いひさしのある仕事場。
ベランダの三間も巾のあるのを建てたい。
床は段々がたくさんついてゐて高いのを。
台所。机のある部屋と。ベットは中二階にしようか。
仕事場の周りには椰子の木が一つぱいある筈だし。
屋根には、アンテナを置いて、ラヂオをつけたいぞ。
そうそう。天水を蓄える水槽はベランダの下にコンクリートで大きい奴を作らにやならぬ。毎日陽は東より出で西に入るか。
空は高くて飛行機鳥が眞白い尾を引いてとんでゐる。
スコールが來る。
椰子の葉をゆさぶり、地ひゞき立てゝ。
でもラヂオはなつてゐる。
世界の事が手に取るやうに見える。
そうだ、この仕事場は開放しなければなるまい。東京の、日本のゑかきさんに。疲れた私の友人を呼ばう。この空氣を吸いなさい。
貧乏した友人を呼ばう。


=====

しかし、帰国後は丸木位里と出会ったり、時局が変化したりという事情もあって、次にパラオを訪れたのは38年後の1978年11月のことでした(そのときは国立博物館で個展を開催しています)。

私たちが次に再びパラオを訪れるのは、いつの日になることでしょうか。
今度は、俊が夢を抱いた小さな離島も訪れてみたいものです。
本当に名残り惜しく思いながら、翌日未明の飛行機でパラオを後にしました。
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