2018/11/25

小原一真展作家トーク  特別企画

午後2時から、特別展示「小原一真写真展 Exposure/ Everlasting」の作家トーク。
大阪から駆けつけた小原さんのトークは、「写真の力が揺らいだ時代の表現とは何か?」という刺激的な内容でした。

写真展は、「決定的瞬間」だけでは読み取れない問題の本質を、多層的な時間、記憶の中から可視化しようという試み。
忘却の闇の中にぽつりぽつりと浮かび上がる記憶の灯火のようなライトボックスを使った展示は、40uほどの小空間を見事に生かしたものでした。

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フォト・ジャーナリズムというジャンルに収まりきれない表現は、既存の枠を揺さぶり、逆説的に、フォト・ジャーナリズムの新しい可能性を感じさせます。
今後の活躍を、大いに期待したいと思います。
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2018/11/24

【大阪出張】ココルーム/済州四・三犠牲者慰霊碑/大阪人権博物館講演  調査・旅行・出張

昨夜は済州から関西空港へ飛び、お世話になった大阪大学のKさんとお別れして、釜ヶ崎へ。
あちこちの店からカラオケが鳴り響く飛田本通商店街のアーケードを歩いて、ココルーム(釜ヶ崎芸術大学)に到着。

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李仲燮の西帰浦の家みたいな、1坪ちょっとの空間の「俳人の部屋」に泊まりました。

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壁には、チラシの裏に書かれた秋葉忠太郎さんの俳句がいくつも貼られていました。

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秋葉忠太郎さんは旭川の小作農の生まれ。絵は好きで画家になりたかったが学校の月謝も払えず、美術の先生の家に世話になったものの、美術学校の受験には落ちたそうです。
やがて東京の大学へ行き、反戦運動に参加。治安維持法容疑で捕まり、仕事はなく、結婚したばかりの妻といっしょに満州へ行きました。満州での暮らしは良かったのですが、ソ連参戦により状況が一変。何千という日本人の死体を山に埋めて、やっとの思いで日本に引き上げます。そして、大阪の山王町にある妻の実家に身を寄せましたが、生きる熱を失いました。
「わたしは歴史からこぼれおちた わたしは人生をおいてきてしまった」(『こころのたねとして2011 釜ヶ崎・飛田・山王』より)

2011年の時点で99歳だったというから、丸木俊と同い年になります。生まれた場所もすぐ近く。旭川のどこかですれ違っていたかもしれません。
丸木夫妻と同じ時代を生きた、もうひとつの別の人生が釜ヶ崎にありました。

   *   *   *

朝は朝がゆ定食とコーヒーをいただいて、カフェスペースに立ち寄った「釜ヶ崎のおっちゃん」のひとりと世間話をしたりして、なかなか快適に過ごしました。

昨日、済州空港へ向かった際のタクシーの運転手は、親戚が大阪市生野区の御幸通にいるとのことで、日本語がとても上手でした。
生野区周辺(もとの地名は猪飼野)には日本最大のコリアタウンがあり、その大半は済州島の出身。1922年(23年説も)の大阪ー済州島間の定期直行便「君が代丸」就航によって、多くの移民が大阪に入り、戦後になっても済州島4.3事件、朝鮮戦争からの避難する人びとが大阪へ向かったそうです。今回、済州島へ行くにあたって、明石書店『済州島を知るための55章』(2018)を読んで、あらためて大阪と済州島のつながりの深さを学びました。

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ココルームをチェックアウトして、午前中は天王寺区茶臼山の統国寺へ。
つい一週間ほど前、「済州四・三犠牲者慰霊碑」の除幕式があり、ニュースになっていたのです。

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慰霊碑には、当時、済州島内にあった村の数と同じ178の済州島の石が並べられていました。『済州島を知るための55章』によれば、政府の苛烈な「焦土化作戦」によって、108の村が消滅したといいます。
済州島のシンポジウムでお世話になった済州大学のK先生は、「慰霊碑の石は、私が頼まれて日本に送ったんですよ。法律では禁止されているので、許可を取るのにとても時間がかかって、大変でした」と言っていました。

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統国寺の境内は無人でじっくりと慰霊碑を見ることができましたが、週末の天王寺公園周辺は、動物園や阿倍野ハルカスなどに出かける家族連れで、とても賑やかでした。

   *   *   *

午後は大阪人権博物館にて、原爆の図《高張提灯》(1986)特別展示のギャラリートーク。

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昨日まで済州島でご一緒していたKさんがご夫妻で来られ、Sさん、Oさんら関西方面の顔なじみの方々が駆けつけてくださり、本当にありがたかったです。
というのも、トークを前に、人権博物館から、ある新聞記者の方が書かれた「「原爆の図 高張提灯」の題材となった史実の真偽」という未発表の論考が突然送られてきて、「被差別部落では原爆のとき軍隊に見張られてどこにも逃げ出せなかった」という《高張提灯》の主題と、記者の検証する「客観的事実」とのズレについて、自分なりに応答しなければならないと気を張っていたのです。

ところが、来場されると聞いていた新聞記者の方は、別の用事で来られなくなってしまったとのこと。それでは何のために発表を準備したのか、聞き手の方たちの意識と発表内容とのズレが気になり、旅の疲れも手伝って、少々散漫なトークになってしまいました。

しかも、《高張提灯》は専門家の批判を受けて常設展示を外されたと伝え聞いていたのですが、A館長によれば必ずしもそうではなく、「事実と違うのではないか」との指摘は確かにあったものの、1995年のリニューアルに際して展示の見直しを行ったことが直接の理由であったそうです。
それはそれで、ほぼ時期を同じくして広島平和記念資料館でも《原爆ーひろしまの図》が、やはり広島市現代美術館の開館に伴う所蔵先の移管やリニューアルによる展示見直しを理由に常設展示を外れているので、70-80年代の市民運動と90年代の変化、あるいは実物中心に切り替わっていく博物館の展示の問題など、気になることはいろいろあります。

ともあれ課題は課題としつつ、忘れたいことはなるべく忘れて、両手に土産物と図録・書籍を抱えて、久しぶりのわが家に帰りました。
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2018/11/23

【済州島出張4日目】李仲燮美術館  調査・旅行・出張

済州島最終日はバスで西帰浦へ移動して李仲燮(イ・ジュンソプ)美術館へ。

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海を見下ろす高台に建つ美術館は2002年の開館。
すぐ隣に公園が整備されていて、彼と妻の李南徳(山本方子)と2人の子どもたちが1951年1月から12月まで暮らした茅葺の家が当時の状態に復元されています。

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土間の台所が奥に長く6.39u(1.9坪)、部屋が4.70u(1.4坪)。建物の隅の小さな空間に一家4人が暮らしていました。

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朝鮮半島の動乱に翻弄され、やがて妻と子どもを日本に帰し、別離のまま1956年に死去した彼にとって、済州島で暮らしたわずか11ヶ月は、貧しいながらもっとも幸福な時期であったようです。それがこの地に美術館が建った理由なのだと、館内を案内してくれたJ学芸員が強調されていたのが印象的でした。

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韓国の「国民的画家」と言われるだけあって、決して広くはない美術館(敷地面積60坪程度)の年間入館者は20万人を超えるそうです。

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美術館の前の道は、韓国で初めて画家の名がついた「李仲燮通り」。洒落た土産物店が並び、李仲燮の絵をモチーフにした微笑ましいオブジェやタイルが設置されていました。マンホールや排水溝まで彼の作品を模しています。

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数億円の高額で取引される彼の代表作を揃えるのは簡単ではなく、油彩画の展示は小品が中心。J学芸員によれば、比較的値段の安い(それでも数千万円)銀紙画(タバコやチョコレートの包み紙に突起物で引っ掻いて描いた絵)や、家族へ宛てた絵手紙を狙って収集しているとのことでした。

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それでも屋上にのぼると、画家が絵に描いた海の景色を一望できるのは嬉しく思いました。
昨日は済州島に冷たい強風が吹き、今朝は漢拏山の山頂が薄っすらと白くなっていましたが、南海に面した西帰浦の風は暖かく、李仲燮が束の間の幸福を過ごした日々が想われます。

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代表作はよそにあっても、この場所でしか見えないものがあるのです。
最後に良い場所を訪れたことに満足して、夕方の飛行機で済州島を後にしました。
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2018/11/22

【済州島出張3日目】済州4.3記念館シンポジウム  調査・旅行・出張

済州島3日目は、済州4.3記念館へ。

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済州4.3記念財団と済州大学平和研究所の主催で、1981年に沖縄創価学会が募集した体験者による沖縄戦の絵123点を展示する企画があり、開幕シンポジウム「沖縄戦の記憶と絵」に、O大学K先生とともに招待されたのでした。

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基調講演は、沖縄戦の絵の展覧会を企画した済州大学のC先生。済州における創価学会の研究もされていて、そのつながりを生かして、今回は原画の貸出を実現させています。

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その後、K先生が「市民が描いた原爆の絵」や、基町高校の生徒が体験者の証言を聞きながら描いた「原爆の絵」、山城知佳子の映像《あなたの声は私の喉を通った》を紹介し、私は《原爆の図》を中心に丸木夫妻の仕事を紹介。
事前に打ち合わせたわけではありませんが、K先生は「史実かフィクションか」の二分法を迫る議論がもたらす問題点を指摘し、私も丸木夫妻が「記録」からこぼれ落ちる立場の人たちの「記憶」を描いたとしつつ、「記憶」は曖昧で変化するため、絶対化は危険であり、「事実」と「記憶」をどう整理して読み解いていくかは受け取る側の課題だと話しました。

午後に行われた韓国側の発表は、どちらも4.3事件を主題にした美術について。一方は体験者が自身の記憶を描いた絵画、一方は芸術家による表現の紹介でした。
続いてディスカッションも行われましたが、われわれが提起した「記憶」をめぐる問題にはほとんど触れられず、被害者の「記憶」がいかに「真実」を伝えるか、という方向で話が進んだので、少し拍子抜けではありました。
後で打ち上げの席でK先生の知人に聞いたところ、韓国ではまだそこまで自由な議論はできない、とのこと。被害者の「記憶」も政府公認のものが真実として扱われる傾向にあるようです。政権が変わり、ようやくこうした企画ができるようになっただけでも前進なのだとのこと。

ちょうどテレビでは、4.3事件の犠牲者の遺骨がDNA鑑定によって遺族のもとに返された(シンポジウム会場の隣の建物でセレモニーが行われていた)とニュースが流れていましたが、こうした事業も前政権のときには予算化されず、まったく進まなかったそうです。
日本には日本の問題があるが、韓国には韓国の問題があると感じた一日。しかし、葛藤を抱えつつ、限られた条件のもとで自分のできることをやろうしている人たちがいることも知りました。

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「沖縄戦の絵」は、第1部「避難」(疎開、亀甲墓への避難、ガマへの避難、集団自決、爆撃、避難)、第2部「虐殺」(日本兵、米兵、戦後)という2部構成、9つのテーマに分かれて展示されていました。
1980年代という早い時期に集められたこともあって、特に第2部の絵は非常に詳しく生々しい。C先生が、今の創価学会は原画の貸出に積極的ではない、と言うのもわかる気がします。

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また、同時開催として「沖縄と済州交流美術展」も開催され、沖縄から石垣克子、比嘉豊光、与那覇大智ら、韓国側は前日に個展を観たばかりの高吉千の作品も展示されていて、こちらも興味深く見ることができました。
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2018/11/21

【済州島出張2日目】掩体壕、「済州島4.3事件」の碑など  調査・旅行・出張

済州島出張2日目。
町の向こうに漢拏山がよく見えます。

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午前中は旧市街の市場を散策。

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午後、島の南西端へ済州大学C先生のお連れ合いKさんの車で向かう途中、コンクリート造の旧日本軍の通信基地の跡を見かけました。

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人がひとりやっと通れるような地下通路が2本。1945年の解放後は、韓国軍の弾薬庫にも使われたとのこと。
戦争末期の日本軍は、沖縄陥落後、この済州島で連合国軍を迎え撃とうとしていたそうです。
車で案内してくださったKさんによれば、「広島がなければ済州も沖縄のようになっていた」とのこと。

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島の南西端にある松岳山の海沿いの絶壁には、小型の特攻艇「震洋」を隠すため、地元住民が動員されて掘られた岩穴がいくつも見られます。
韓国ドラマ「チャングムの誓い」のロケ地になったことでも知られるそうで、観光客で賑わい、大型バス駐車場や土産物屋も建っていました。
もっとも、ぼくは韓国ドラマを全然見ていないので、同行の大阪大学Kさんに「あんなに流行ったのに、何で見てないんですか!」と叱られてしまいました。

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松岳山の近くにあるアルトゥル飛行場は、旧日本軍によって整備され、長崎の大村海軍航空隊に替えて、南京など中国大陸空爆の拠点となった飛行場。
現在、滑走路は農地となっていますが、零戦を格納するコンクリート造りの掩体壕〔bunker)は20カ所が現存し、点在しています。一度にこれほど多くの掩体壕を見るとは思っていなかったので、とても驚きました。

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壕内には、2015年に設置されたという現代美術の展示もいくつかありましたが、あまり効果的とは思えず、むしろ何もないままの方が良かったかもしれません。

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この地は、「済州島4.3事件」の現場でもあります。
共産主義の容疑をかけられて「予備拘束」されていた罪のない地元住民252人が、1950年8月に旧日本軍弾薬庫で集団虐殺され、証拠隠滅のため遺品も焼かれ、遺骨の区別もないまま秘密裏に埋葬されました。
1956年に遺骨は発掘されましたが、識別できない132の遺体は「百祖一孫」(犠牲者の遺族は皆同じ子孫)として集められ、慰霊碑が建てられたそうです。

しかし、1961年に軍事クーデターが起こると、慰霊碑は破壊され、墓も奪われました。そのため遺族は沈黙を強いられ、真相究明・名誉回復は2015年まで待たなければならなかったとのこと。現在は虐殺の跡地に、犠牲者の名を刻んだモニュメントが建てられ、遺骨が埋められた二ヶ所の穴が復元されています。

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アジア・太平洋戦争から朝鮮戦争へ。日本にも深く関わりのある不条理の歴史に翻弄された済州島の傷跡を見てまわり、明日はいよいよ済州大学にてシンポジウム。
場所の力に圧倒されつつ、でも発表の前に見ておいて良かったと思いました。

     *     *     *

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帰りに立ち寄った済州現代美術館は高吉千(コ・ギルチョン)展を開催中。
済州島を拠点に、政治や歴史、環境などの社会問題を継続的に美術で表現してきた作家の回顧展です。

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彼の重要な主題である「4.3事件」はもちろん、トランプ政権に対する風刺や、渡り鳥の飛来地を調査して環境問題を考える作品などが、3つのフロアにわたって展示されていて、とても見応えがありました。とはいえハングルが読めないので情報が限られ、社会的な文脈もよくわからないので、現代美術を理解するのはなかなか難しかったです。
高吉千展の図録がなかったのは残念でした。
帰ったら韓国美術研究者の古川美佳さんにいろいろ聞いてみようと思います。
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2018/11/20

【済州島出張初日】済州道立美術館・山地川ギャラリー  調査・旅行・出張

済州島出張初日。
大阪大学のKさんとともに、迎えに来て下さった済州大学C先生のお連れ合いKさんに案内されて、済州道立美術館と山地川(サンジチョン)ギャラリーをまわりました。

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9年前に開館したという新しくて立派な道立美術館は、コレクション展を開催中。
ミュージアムショップで宋英玉生誕100年展の図録を見つけて購入しようとしたら「この図録は無料で差し上げます」と言われました。ありがたいことです。


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済州島の中心部、港の近くにある山地川ギャラリーは、写真家Hong Jeong Pyoによる、かつての済州島の農村や漁村の人びとの暮らしを記録した写真展。Kさんは農村部の出身なので、昔の済州の様子を詳しく話してくださいました。漁村の写真には、海女が写っているものがいくつもありました。ここでも写真集を無料でいただいてしまいました。
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2018/11/18

広島にて丸木美術館企画「いのちを観る いのちを歌う」開催報告  イベント

広島平和記念資料館東館地下メモリアルホールで開催した丸木美術館主催企画「いのちを観る いのちを歌う」。おかげさまで200人を超える盛況となりました。
ご来場下さった皆さま、どうもありがとうございました。

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昨年、埼玉会館で行った企画に引き続き、司会は俳優・語り手の岡崎弥保さん。
舞台の転換時に挿入される《原爆の図》の絵解きの朗読も担当してくださいました。

この企画は、昨年、映画監督の高畑勲さんが《原爆の図》について語ってくださったことをさらに広げ、深めていきたいと考えたところからはじまりました。
そのため、イベントは二階堂和美さんの歌からはじまる、というイメージをずっと持ち続けていたのです。

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「蝉にたくして」、「一本の鉛筆」、「伝える花」、そして「いのちの記憶」。
高畑監督の最後の作品「かぐや姫のものがたり」の主題歌になった「いのちの記憶」は、二階堂さんと高畑さんが作り上げた曲です。
広島の、それも平和記念資料館に響いたこの歌は、亡き高畑さんへの追悼であると同時に、《原爆の図》の世界にもつながっていくようにも感じられました。

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歌の余韻の残る中でスタートした奈良美智さんと蔵屋美香さんの対談は、直前にお二人が広島市現代美術館の展示をご覧になっていたこともあって、美術史的な蓄積を持った丸木位里、赤松俊子(丸木俊)という二人の芸術家が、原爆という重要な主題と出会い、絵画という手法を用いて、生々しい現実を普遍化させていったことの意味が語られました。

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はじめに奈良さんは、2000年頃に丸木美術館を訪れて、初めて《原爆の図》を観たときの感想を話してくださいました。
「絵画言語というか、どのように表現しようとしているかが怒濤のごとく襲ってきた。すごいドキュメンタリー映画を続けざまに見たような感じだった」
戦争の映画や手記は数多くありますが、《原爆の図》はそれとは違った、と奈良さんは感じられたそうです。
「《原爆の図》は、大きなテーマとは別に、美術としての取り組みが、極めて真摯に、情熱を持って行われていた。高畑さんが言ってたことは、たぶんそういうことじゃないか」

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印象的だったのは、奈良さんが《原爆の図》について、打ち合わせの段階から、たびたび「絵画なのに彫刻的」と表現し、「塊(マッス)」という言葉を使っていたこと。
「大きな赤や黒の塊と白い地で構成されている《原爆の図》が重さを感じないのは、地面が描かれていないからで、浮遊している。この絵画には、物理的な重さではなく、心の中にドンと来るような精神的な重さがある」というのです。
その話を受けて蔵屋さんは、「奈良さんも地平線のない作品が多いですね」と指摘されました。
丸木夫妻と奈良さんという、一見まったく異なる画家の思わぬ共通点が浮かび上がってくる、興味深いやりとりでした。

奈良さんは、「絵の持つ力が、原爆以前と以後ではまったく違う。以前はうまいな、という絵だったのが、原爆を経験した後では精神的な筆圧が変わって、大きなものが立ち上がっている」と語りました。
「ヤップ島の女の人たちを塊で捉える絵はうまいなと思いましたが、同時に、画家の、これ面白いでしょ、という意識も感じられた。そういう技術を十分磨いた人が《原爆の図》という最適なテーマを与えられて、ただうまいとか面白いとかとは別の方向の使命を見いだしていったんですね」と蔵屋さんも頷きます。

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「描くよろこびだけではない、苦しみながら大きなテーマを描くことで人間的にも成長していく。震災や津波や原爆や空襲に人が出会ったとき、その苦しみを違うものに変える力が引き出されることってあるんですね。画家も歌手も、被災地に行くボランティアも。それは大きい小さいじゃなくて……」
奈良さんは、遠藤ミチロウさんを例に挙げながら、そんなことも語りました。

「この絵を観ると、広島だけじゃなくて、東日本大震災とか、阪神大震災とか、自分が経験したいろいろな厄災を想うわけです。広島をストレートに、あるがままに表現していたら、それは難しかったと思います。この作品が“美術の言葉”を使って、より抽象的に普遍化しているので、想像を広げる余地がある。直接経験していない人に伝えるには、美術や音楽といった別のかたちに変換して、みんなが想像しやすい場所を作ることが重要なのかなと思います」と蔵屋さん。
広島の、それも平和記念資料館という場所で、このような問題提起が行われたことは、案外、重要ではないかと話を聞きながら思いました。

「いい小説や詩は、簡単に言えるような言葉を使わない。違う言葉でハッと伝わるような作り方をしている。《原爆の図》も、それと似ている」
対話の中で繰り返し語られた「塊(マッス)」や、抑制された色彩も、《原爆の図》の表現の工夫だと奈良さんは指摘します。
蔵屋さんも、色を白黒にするだけで、すでに違う世界へ一段階寄せている、と言い、「描かれている人たちが裸であることも、とても重要だと思いました。もちろん、衣服が焼かれた現実を反映していると思うのですが、裸にすると時代や場所が特定されず、人類普遍の姿として誰もが自分の経験を重ねられる」と付け加えました。

《原爆の図》を“美術の言葉”で語ることは、ともすると被爆体験の伝達の問題とは相容れないと思われてしまうのですが、そうではなくて、“芸術”という手段を用いたからこそ、個々の体験を普遍化させて伝えることができたのだと、あらためて考えさせられる対話でした。

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最後に奈良さんは、広島市現代美術館のコレクション展に展示中の自作《Missing in Action -Girl meets Boy-》についても、語って下さいました。

「無垢な子どもの片方の目が、赤地に白くなっているんです。それは、原爆がピカッと光った瞬間を見ているから。広島市現代美術館から、『広島に関する絵をお願いできませんか』って言われて、たいていそういう話は断るんです。無理して描こうと思わなきゃ描けないものは、断った方が気が楽だと思って。ところがそのときだけは、すごく描ける気がして、描いたのがその絵なんです。僕は原爆について、ほんとに少ししか知らない。ならば、爆発して、まだ体が焼ける前、まだ普段の生活がそのままだった一瞬を描こうと思って。だから、目には映っているけど、顔もきれいだし、体も焼けてない。それくらいしか、リアルにできないかなと。その後のことは僕はやっぱり、描けないという気がしました」

「今日、アメリカのアレックス・カッツとチャック・クロースの間に僕の絵が挟まれていて、いつもだったら、こんな有名人の間で恥ずかしいって思うんだけど、今日は、そこに自分の作品があることがすごく誇らしくて。あんまりそこにいたら飛び上がってしまいそうだったから、すぐ離れたんですけど。描いてよかったなと、心から思ったことってあんまりない。いつも、次、次、次、とやってきて。でも、今回広島に来て、丸木夫妻の展示を見てから、自分の絵を発見したときに、ここでこの流れを見るために俺は生きてきたのかな、ってちょっと思った(笑)」

見事な締めの言葉に、会場は大いに沸きました。
奈良さん、蔵屋さん、そして二階堂さん、本当にありがとうございました。皆さんからいただいた大切な言葉や歌を、また、次の企画につなげていきたいと思っています。

なお、この対談の内容は、2019年1月発行の『丸木美術館ニュース』に、抄録として掲載する予定です。
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2018/11/14

広島企画「いのちを観る、いのちを歌う」  イベント

先日、那須のN's YARDへ行き、奈良美智さんと対談の打ち合わせをしてきました。
11月18日に広島平和記念資料館東館地下メモリアルホールで開催する丸木美術館企画「いのちを観る、いのちを歌う」。いよいよ間近に迫ってきました。

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奈良美智さんと蔵屋美香さんの対談「いま、原爆の図をどう観るか」、そして二階堂和美さんのトークと歌。
とても楽しみで、夜更けに予習をして気持ちを高めています。

ここ数日、反響が広がっていますが、まだ前売予約は可能です。
お問い合わせは丸木美術館まで。エディオン広島本店プレイガイドでも発売中です。
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2018/11/12

前進座「ちひろ」公演  館外展・関連企画

練馬文化センターにて前進座の舞台「ちひろ―私、絵と結婚するの―」初日を鑑賞。
いわさきちひろ生誕100年企画で、ちひろが舞台化されるのは初めてとのこと。演出が鵜山仁さんということからも、その力の入れようが伝わってきます。

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敗戦翌年に松本から単身上京して新聞社を訪ね、画家夫妻(劇中では丸山夫妻)のもとに世話になり、やがて弁護士志望の青年(劇中では橋本善明)と出会って恋に落ち、紙芝居「お母さんの話」で文部大臣賞を受賞するまでの物語。
丸木俊が準主役級、というか、脚本を手がけた朱海青さんによれば「ちひろより台詞が多いくらいです」とのことで、事前に役者の方たちが丸木美術館に来てくださり、脚本も読ませていただきました。

丸木俊をモデルにした登場人物を舞台で観たことは、これまでにも何度かあるのですが、皆それぞれ違う役者さんなのに、俊の言葉を語ると、どこかリアリティが生まれて「丸木俊」に見えてくるのが面白いところ。
今回、浜名実貴さん演じる丸山俊子は、威勢が良くてアトリエ村の女親分のような存在。有田佳代さん演じる可憐なちひろに「一本の線に責任を持ちなさい」と時に厳しく叱咤しつつ、温かく見守る姿が格好良かったです。

前進座からお誘いを受けて、会場で販売しているパンフレットにも寄稿させていただきました。
「ちひろと俊と「前衛」の夢」と題して、二人の前衛美術会時代に焦点を当てた内容です。
初期の前衛美術会は、年1回の東京都美術館を会場に行う展覧会とは別に、銀座・天元画廊で「街頭展」を隔月開催していました。それを逐一報じていたのが『東京民報』で、おそらくは俊の主導でしょうが、素描や油彩、生活美術などの小品展が企画されていたことがわかります。そして、1947年11月の第3回街頭展では、後にちひろの出世作となる紙芝居「お母さんの話」が出品されているのです。

この紙芝居は、1950年に日本紙芝居幻灯株式会社(現在の童心社)から発行されたのですが、正確な制作年は特定されていなかったとのこと。
最近は忙しさにかまけて、なかなか新しいことが書けずにいたのですが、ささやかながら従来の資料を補完する仕事ができて、少し肩の荷が下りた思いです。

前衛美術展に紙芝居とは意外な気がするものの、社会変革の前衛を目指した会の目的・事業には、「児童美術研究」も含まれていました。試みは必ずしも成功したとは言えず、程なく俊もちひろも会を離れていくのですが、二人の中でその志は生き続けて、それぞれの豊かな仕事へと結実していったのでしょう。今回の舞台では、そんな未来の予兆も感じさせる、二人の画家の心の交流が印象的でした。

舞台はこれから、12月25日まで東日本各地を巡回するそうです。
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