2018/10/8

【会津出張おまけ】瀧神社・三石神社  調査・旅行・出張

奥会津フィールドワーク報告おまけ。
只見町に泊まった朝は、早起きをしたので一人で旅館を抜け出し、只見駅近くの瀧神社から三石神社へ。

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只見川の反乱に苦しんだ享保年間の熊野神社の神職が、熊野の戦神スサノオでは水害に効き目がないと水神・瀬織津姫命を祀ったのが瀧神社とのこと。ダムだらけの今を瀬織津姫はどう思っているのでしょう。

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瀧神社の裏の細い散策路を歩いて行くと、次第に山へ入っていき、三石神社へ。

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山中にある三つの巨岩が磐座というのがいいですね。
平安末期、奥州藤原氏討伐の功によりこの地を源頼朝から授かった山内経俊が、夢枕に立った神霊のお告げを受けてこの地に導かれたという。五穀豊穰、家内安全、生業繁栄、開運招福。

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山の上から見渡す町の風景がとても良かったです。

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道なりに山を下りると只見スキー場の方へ抜けていき、朝食の時間に遅刻してしまいました。
ご心配をおかけしました。

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2018/10/8

【会津出張2日目】金山町・上田ダム/昭和村「渡し舟」  調査・旅行・出張

ライフミュージアムネットワークのフィールドワークは、只見駅前の旅館で一泊し、さらに続きます。
午前中は金山(かねやま)町で、「村の肖像」プロジェクトに取り組んでいる写真家の榎本千賀子さんのお話を聞きました。
https://sites.google.com/site/chikakoenomoto/home/project/kaneyama_project

高齢化と人口減の続く地域で、暮らしや労働、民俗行事、そしてダム建設をはじめとした社会の変化を地元の人びとが撮影した写真・映像を収集し、撮影者や年代、場所などの基礎データを整理し、貴重な文化遺産として保管・活用していこうという試みです。
それは、町民自身の視点によって町の歴史を伝える資料であり、文字化されていない記憶を探る手がかりにもなる、と榎本さんは言います。
もちろん、限られた場面の、地域の人が「残したい」と思った記録である(見せたくない、見せられないものは出てこない、と言っていたのが印象的でした)ことには注意が必要ですが、多くの目で歴史を語り伝える手段として、とても興味深い活動です。
それらの写真を地域の人たちで見ながら、呼び起こされた記憶の聞き取りをするワークショップも行っているとのこと。
個人的には《原爆の図》など惨禍の記憶を伝える絵画や、失われゆく炭鉱の家族アルバムを収集した上野英信の『写真万葉録 筑豊』といった事例も想起しながら、「自己表現」の芸術や目に見えやすい町おこしの「アートイベント」だけではない表現の可能性を考えていました。
榎本さんがこうしたプロジェクトに取り組むことになったきっかけは、角田勝之助という金山町の人びとを撮り続けた地元のアマチュア写真家の存在が大きかったそうです。参考までに、こちらが榎本さんの論文。
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/27836/1/nab_4_13-16.pdf

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榎本さんのお話を聞いた後は、1952-54年建設の上田(うわだ)ダムへ。
榎本さんによれば、敗戦直後にダム建設用地の視察のためアメリカ軍が訪れ(1945年のうちに来たと語る人もいるとのこと)、子どもたちは歓迎のために動員されたそうです。占領下、米兵の姿を目の当たりにした大人たちは、ダム建設反対どころではなかったかもしれません。

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白洲次郎が東北電力初代会長としてダム建設に関わったため、右岸には「建設に盡力したみなさん これは諸君の熱と力の 永遠の記念碑だ」と白洲が記した石碑が建っています。

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ダムを渡った左岸には、建設工事で命を落とした10名の名が刻まれた慰霊碑もありました。
榎本さんによれば、その10名に地元住民の名はないとのこと。ダム建設に際しては、男女を問わず地元の人たちが優先的に雇用されましたが、危険な労働にはまわされなかったそうです。地元の人が亡くなることで、反対運動が激しくなることを恐れたのでしょう。

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また、集落の水没・移住だけではなく、外部から稼ぎに来た人との結婚や、現金収入を得た経験が若者の流出を加速させるなど、ダム完成後の人口減といった問題も生じたようです。
ダム建設には、軽犯罪・保釈間際の囚人たちも動員されており、1941-46年建設の宮下ダム(三島町)には朝鮮人徴用工が働き、1952-54年建設の本名(ほんな)ダム(金山町)竣工後には、日本人妻も含めた朝鮮人労働者の家族の多くが帰国事業で北朝鮮へ渡っていった話なども、時代を反映しているようで興味深く聞きました。

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写真は、上田ダムを撮影する榎本さん。自身も地域の写真を撮り続けています。

* * * * *

午後は昭和村へ移動し、地域の伝統工芸からむし織の後継者を育成する「織姫制度」を体験して村に定住した渡辺悦子さんと舟木由貴子さんの、不定期オープンの店「渡し舟ーわたしふねー」でお話を伺いました。

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からむし、と呼ばれる植物から生まれる織物は、武士の裃などの材料に使われ、古くから雪深い昭和村の貴重な生産品として、山向こうの新潟に出荷されていました。
しかし、やはり高齢化と人口減によって、からむし織も廃れ、20数年前に技術継承のための「織姫」と呼ばれる体験生制度がはじまったそうです。

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外部から村にやってきた体験生の存在は、当初は決して村の人たちに理解されたわけではなかったようですが、からむし織に真摯に取り組む「織姫」たちの姿勢が少しずつ認知され、「織姫」たちも畑や織仕事を通して村の暮らしの良さを学び、やがて村の人と結婚して定住する「織姫」も現れるようになったとのこと。
渡辺さんと舟木さんも子どもを育てながら、からむし布を使った小物の生産販売や裁縫ワークショップ、昭和村の今を伝えるお話会を村の内外で開催しているそうです。
とはいえ、からむし織だけで生計を立てることは難しい、と二人は言います。その現実は「織姫」の後輩たちにも必ず伝えています、と。

今回のライフミュージアムネットワークのフィールドワークでは、(私は参加できませんでしたが)土曜日の初日に三島町の生活工芸館も訪れていました。
宮下ダム建設中の大好況と完成後の人口減に翻弄された過去を持つ三島町は、外部の力による町おこしに頼らず、古くから伝わる編み組細工などの生活工芸に力を入れるようになった、という報告を聞きました。ダム建設と無縁だった昭和村の取り組みも、そんな三島町の選択と似ているのかもしれません。
だからといって現実は厳しく、決して人口減が解消されるわけではありません。地域の緩やかな衰退が止まるわけでもありません。
それでも、この地域でしかできないことを継承し、記憶を伝え続けるという真っ当な姿勢の意味を、考えずにはいられませんでした。
そして、これから日本全体が人口減に向かっていく中で、大幅な入館者増が見込めるわけではない丸木美術館が、どのような道を歩むべきかということも、考えずにはいられませんでした。

昭和村の帰り道には、柳津町の斎藤清美術館にも立ち寄りました。
https://www.town.yanaizu.fukushima.jp/bijutsu/
現代的な木版画で国際的に評価された斎藤清の個人美術館で、かつては斎藤清の作品のみを展示していましたが、入館者減に悩み、現在は美術大学とのコラボレーションなどの企画も行なっているそうです。
こちらも少し丸木美術館の状況に似ていますが、歴史を継承しつつ、何ができるかを考え続けることが必要なのですね。

決して馴染みがあるわけではない、というより、正直に言えば、地名を聞いても位置関係さえよくわからないほど不慣れであるにもかかわらず、丁寧に説明しながら多くの場所を案内し、人を紹介してくださった福島県立博物館の皆さんには、本当に感謝。とても考えることの多いフィールドワークでした。
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