2018/9/30

いわさきちひろ生誕100年記念 松本猛講演会  イベント

台風の迫る中、何とか無事に、いわさきちひろ生誕100年記念 松本猛さん講演会「母、いわさきちひろの生涯と丸木夫妻との交流」を開催。
集まった方は30人弱と当初の想定を大きく下回りましたが、皆さんとても熱心に聴いてくださり、猛さんのご著書『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』は仕入れた15冊がすべて完売しました。

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講演は、前半はできるだけ客観的な視点で「知らない画家を発掘する」ように書かれたという著書の内容に沿いつつ、後半は「ちひろが画家になるために重要であった」丸木夫妻との関係をメインにしたものでした。

ちひろは1946年5月に長野から単身上京した際、人民新聞社の編集長だった江森盛弥に連れられて丸木夫妻のアトリエを訪れ、その後、夫妻の主宰する早朝デッサン会に通って絵の勉強をすることになります(その様子は、今秋上演される前進座の舞台「ちひろ」でも演じられます)。
http://www.zenshinza.com/stage_guide4/chihiro/

「一本の線に責任を持ちなさい」「千枚描きをすれば絵は変わる」という俊の教えを受けた当時のちひろのデッサンは、陰影のつけ方などの特徴が、俊の絵によく似ている、と猛さんは指摘します。

師弟というより姉妹のようだったという二人は、いっしょに温泉に出かけたり、俊が挿絵の仕事をちひろに世話したりと親しく付き合い、ちひろが俊からケーテ・コルヴィッツを、俊がちひろから宮沢賢治を知るなど、互いに影響を与えあっていたようです。

しかし猛さんは、ちひろはむしろ位里の水墨画の影響を強く受けていた、と言います。
「丸木さんの絵はすごい、自由だ」
「丸木さんの梅のようには、なかなかいかない」
と、本人もたびたび話していたとのことで、具体的に作品を比較しながら、にじみやかすれ、たらし込みなどの偶然性を生かす技法に位里の影響があることを指摘していました。
こうした分析は、2006年の富山県水墨美術館「いわさきちひろ展」あたりから行われるようになったと記憶しています。

とはいえ、「ちひろは形にこだわるからデッサンを崩せない、だから位里の形がなくなるような絵に憧れたのでは」という猛さんの話を聞きながら、その感覚(と、自らを作りかえようとする資質)は、やはり俊に似ているのでは、とも思いました。俊もまた、初期の力強いデッサンから、位里の影響を受けて、後年は水墨のにじみを生かした柔らかな線に移行していくのです。

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丸木夫妻が中心となって1947年に創立し、ちひろも参加していた前衛美術会は、やがて方向性を巡って会員が離脱し、後には桂川寛や勅使河原宏、山下菊二らが小河内村の山村工作隊に参加していきますが、早々に退会した丸木夫妻に続いて、ちひろも退会し、紙芝居や絵本などの「童画」の世界に進みます。

東京ステーションギャラリー「いわさきちひろ展」図録で足立元さんは、そうした彼女の“転向”について論じていましたが、そもそも初期の前衛美術会の活動には(俊の主導により)「童画」も含まれていたのではないかということが、個人的には気になっています。

俊やちひろにとって、「童画」と「前衛」は必ずしも相反するものではなかったのではないか。
近く二人について書く機会があるので、このことについてはもう少し調べて、まとめておきたいと思います。
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2018/9/28

【大阪出張】釜ヶ崎ココルーム見学  調査・旅行・出張

今日も、やはり「ライフミュージアムネットワーク」のリサーチとして、大阪・釜ヶ崎の「ゲストハウスとカフェと庭・ココルーム」を訪ね、NPO法人「こえとことばとこころの部屋」の代表で詩人の上田假奈代さんの話を聞きました。

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“寄せ場”と呼ばれる日雇い労働者の町としての歴史を持つ釜ヶ崎。上田さんはそこで居場所のない人たちが立ち寄れる「場」をつくり、ともに学ぶことのできる「釜ヶ崎芸術大学」を立ち上げています。

お昼時になると、庭に面したテラスでスタッフや滞在者、ふらりと来た人?たちといっしょにカレーライスを食べました。

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ちょうど7か月も長期滞在していた若者が就職のために旅立つ日だったり、数日前に急死したおじさん(身寄りのない人をみんなで送る「見送りの会」という活動に惹かれて堺市から釜ヶ崎へ移り住んできた方だという)の葬式に見ず知らずの私たちまで参列することになったり、単身高齢生活保護受給者の社会的つながり事業の拠点である「ひと花センター」で上田さんの担当する合作俳句の会に参加したり、この「場」の日常の一端を、側から覗き見るような時間を過ごしました。

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来る者拒まずという「場」の空気感からは、私が初めて丸木美術館を訪れたときの印象がよみがえってきました。
誰がスタッフで、誰がボランティアで、誰がお客さんだかわからない混沌かつ対等な人間関係。世間では生きづらさを感じている人が、ここでは自分らしく振る舞うことができるという「場」。
もちろんそうした思いには個人差があるし、時間とともに変質していく部分もあるけれども、肩書きや年齢ではなく、お互いひとつの命として向き合うという「場」でありたいという思いは、今も丸木美術館に流れているはずです。

もちろん、釜ヶ崎には釜ヶ崎の必然があり、丸木美術館の「場」とは意味が大きく異なるところもあります。
それでも、この「場」をもう少し見てみたい、ここから丸木美術館に持ち帰れるものを考えてみたい、と思って、11月の大阪出張に合わせて宿泊予約をしました。
釜ヶ崎に泊まって人権博物館(リバティおおさか)で講演をするというのは、何だか真っ当な気がしたのです。
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2018/9/27

【静岡出張】クリエイティブサポートレッツ見学  調査・旅行・出張

「ライフミュージアムネットワーク」のリサーチとして、浜松市で活動するクリエイティブサポートレッツの活動を視察。

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運営拠点となっている障害者福祉サービス事業所アルス・ノヴァ と、のヴぁ公民館を見せていただきました。

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「障害」のある方の特別な作品に注目するというアートの現場がある一方で、レッツの活動は、誰かに評価されるわけでもないのに、その人が熱心に取り組んでいることを、「表現未満、」の個人の文化活動と捉えて、最大限に尊重しているといいます。
高みを目指して表現するだけではない、一見「無意味」に思える行為を繰り返したり、何も作り出さないことさえも、他者に哲学的な思考を促すという点で、彼らの「シゴト」であるとする視点の転換が、この施設の重要な核となっています。

そうした多様な生き方を体感し、思考する機会を、施設の外側にいる人たちとも共有するために、レッツでは、これらの施設を開放し、泊まりがけで彼らとともに過ごす時間と空間を提供する「観光事業」を行なっています。

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私たち一行はわずか数時間の滞在でしたが、スタッフの説明を受けつつ、途中からはほぼ放置され、濃密な時間を過ごしました。
クレヨンを塗ったときにできるカスを丸めて小さな玉を作り、5列×5列均等に並べる人を観察したり、異質な訪問者である私たちに仲間たちの動向を延々と説明し続ける人の話を聞いたり。
ひたすら音を出し続ける人、飛び上がる人、お菓子を食べる人、テレビゲームに熱中する人、何もせずに横になっている人・・・ここで起きていることを見逃すまいと、次第に目と耳の感覚が研ぎ澄まされていくのを感じました。

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その体験は、私にとっては、赤松俊子(丸木俊)の「絵は誰でも描ける」という1950年代の大衆芸術論や、それをさらに先鋭的にした「あらゆる人間は社会を彫刻しうる」というヨゼフ・ボイスの「社会彫刻」を想起させる「アート論」のようにも感じられました。

施設の利用者が帰った後は、代表の久保田翠さんをはじめ、スタッフの方々とディスカッション。
久保田さんの息子さんが「障害」を持って生まれたことがきっかけではじまったというレッツの歴史や、現場の人たちのレッツとの出会いの話を聞き、福島で立ち上がった「ライフミュージアムネットワーク」とは何か、何ができるのかという展望について、さまざまな意見の交換を行いました。

「現場」は当事者のいるところ。悲惨さがクローズアップされるだけでは快くない、という声があり。
しかし悲惨を乗り越え、繰り返さないためには怒りのエネルギーが必要という意見があり。
現実を主体的に生きる「現場」に対し、「ミュージアム」は思考を促す(解きほぐす)ための編集装置ではないかという話が出てきたり。

決して明確な答えを見つけるためのディスカッションではないのですが、丸木美術館にもかかわるような多くの問いをいただいてきた気がします。
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2018/9/22

『朝日新聞』に徳応寺版「原爆の図」模写紹介  掲載雑誌・新聞

現在、丸木美術館2階の小展示室では、1956-7年に愛知県岡崎市の小学生が手がけた「原爆の図」模写が展示されています。
岡崎市の徳応寺が所蔵している11点の掛軸で、「模写」を通り越して、独自の世界へ突き進んでいくようなエネルギーあふれる作品です。

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その展示を、朝日新聞の西堀岳路記者が紹介して下さいました。

60年前の小学生「原爆の図」模写 東松山で展示
 ―2018年9月22日『朝日新聞』朝刊埼玉版

https://digital.asahi.com/articles/ASL9N52HKL9NUTNB00K.html

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以下、記事より一部抜粋です。

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1956年、市立小の教師が平和教育の一環で5年生たちに原爆の図の画集を見せたところ、恐ろしさに心を動かされた子どもたちが模写に取り組み始めたという。
 自分たちでシジミを売るなどして紙や画材を買い、30点を目標に6年生になっても描き続けたが、市教育委員会から「思想的だ」と批判されたため、11枚目が未完成のまま制作を中止。焼却されるところを地元の徳応寺が引き取った。1985年から毎夏、寺で公開しており、今回初めて寺の外に貸し出されたという。


 (中略)

 子どもたちの模写は1メートル〜1・8メートル四方で、画集を基にしたためか原画の一部分を拡大して描いている。原画のようなリアルさはないが、苦しむ人々の目や口など、子どもたちが強い印象を受けた部位が大きく描かれ、線も太い。原画にはある余白もなく、そのぶん人物が大きいため迫力がある。

 学芸員の岡村幸宣さんは「そっくりに描かせず、素直な感性に任せた指導がすばらしい。模写とはいえ違う絵のような個性と勢いがある」と評価する。


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展覧会は10月8日まで。ぜひ皆さま、加茂昂展と合わせて、ご覧ください。
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2018/9/19

中国放送「原爆の図を紙芝居に」  TV・ラジオ放送

2018年9月18日にRCC中国放送でオンエアされたアーサー・ビナードさんの番組「イマなまっ! アーサーと潜水の広島モグリ」の期間限定(11月25日まで)無料動画配信です。

http://play.rcc.jp/selection/imanama_180918.html

テーマは「原爆の図を紙芝居に」。
広島市現代美術館「丸木位里・俊―《原爆の図》をよむ」展の初日の盛況ぶりも紹介されています。
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2018/9/16

「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展と峠宛て書簡について  館外展・関連企画

広島市現代美術館で開催中の「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展は、丸木美術館が所蔵する《原爆の図》初期三部作と、広島市現代美術館が所蔵する再制作版の《原爆の図》を比較展示することを目的としてはじまりました。

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また、《原爆の図》に注ぎこまれた丸木夫妻の戦前から続く絵画の実験や、峠三吉との交流をはじめとする広島とのかかわりも紹介され、見ごたえのある内容になっています。

丸木美術館の企画としては、これまでにも「原爆の図をめぐる絵画表現」(2004)や「原爆の図はふたつあるのか」(2016)などを開催していますが、今回のように他館――それも広島で、《原爆の図》の成立過程と展開の一端を紹介していただけるのは本当にありがたいことです。

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もっとも、今回新たに公開された赤松俊子(丸木俊)から峠三吉宛ての書簡のひとつ(展示番号4-13)の翻刻には、明らかな誤りが見つかりました。
展示パネル・図録に掲載された書簡の翻刻の内容は次の通りです。

京都同学会主催の原爆展であなたの影の詩は日に三十回も朗読されたでしょう。丁度わたしたちの第五部作少年少女の向いにあったのです。‟影がある”‟影がある”と、くりかえしくりかえし京大の文学部の人人が朗読しては感想をのべていたのです。そうして十日間は無事に終わりました。四国五郎さんの弟より又申出ありました。わたしはこれでわたしの責任を果たしたような気持ちです。

四國五郎の弟・直登は1945年8月に被爆死していますから、「申出」があるはずがないと、展覧会初日からお気づきになった方もいることでしょう。

確かに難読箇所ではあるのですが、正確には「四国五郎さんの弟よも見事でありました」と読みます(私もすぐに誤りに気づいて担当学芸員に指摘したものの、結局読み解けず、歌人の相原由美さん、俊の弟の赤松淳さんにご教示いただきました)。

実際、1951年7月、京大同学会主催により京都の丸物百貨店で開催された綜合原爆展には、峠の詩「影」とともに、四國の詩「心に喰い込め」が掲示されていました。その詩の中で、「弟よ」という言葉が印象的に使われているのです。俊が「見事」と褒めているのは、「心に喰い込め」で間違いないでしょう。

この件は広島市現代美術館にもお伝えしたので、近日中に修正が入る予定です。すでに展示をご覧になり、図録を手もとにお持ちの方は、修正をお願いいたします。
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2018/9/15

加茂昂展「追体験の光景」オープニングトーク  企画展

加茂昂展「追体験の光景」オープニングトーク。
あいにく雨模様となりましたが、集まってくださった参加者に対し、1時間にわたって作家自身による作品解説が行われました。

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1982年生まれの加茂さんは、「震災の後ぐらいから、自分が絵を描くことで社会に対して何ができるかということを考えるようになった」と言い、2017年に知人から広島で展覧会を開催する話をもらったことをきっかけに、市民が描いた「原爆の絵」の模写に取り組みました。

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本人や遺族から模写制作の許可をとり、線の一本一本や、筆の動きを想像して「描きながら見る」という行為。それは体を動かし、頭を使い、目で見るというかたちの「追体験」であったと加茂さんは考えます。

一方で、描いた方たちと出会うことで、「追体験」はあくまで「直接体験」とは違う、わかったような気持ちになっても、常に「ずれ」があり、その「ずれ」を考えていくことが重要だ、とも気づいたそうです。

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加茂さんは、みずからの作品に、市民が描いた原爆の絵の中から印象深かった要素を取り入れ、再構成して《追体験の風景》として制作していきます。

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そうした経験を通して、「原爆という大きな出来事も、実は個人の記憶の総体として存在しているのかもしれない」と考えた彼は、体験者らの肖像と原爆の記憶の二重像を描きました。

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その手法は、福島第一原発事故の帰宅困難区域に自宅のある大学時代の友人家族の一時帰宅に同行して制作した絵画にも用いられています。

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水俣の隣にある津奈木町で滞在制作をした際には、汚染された水俣湾を埋め立てて造られた公園・エコパーク水俣に、この場所で起こったことを記憶するために水俣病患者らが設置した石彫をスケッチしました。

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不知火海の朝夕の光景と石彫を描いた絵画をならべて設置し、遥かな過去と未来を想像し、つなぎあわせていく「祈り」をテーマにしたインスタレーションも発表しています。

このとき加茂さんは、熊本の方言である「のさり」という言葉に出会い、衝撃を受けました。
「のさり」とは授かりものという意味で、水俣病患者の漁師が「水俣病も、のさり」と受け止めていることを知り、「祈り」と「のさり」という言葉を抱えて、再び福島へ向かうのです。

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今回の展覧会の最後に設置された作品は、福島の帰宅困難区域の境界に設置されているフェンスを描いた絵画です。
フェンスの内側を見つめる加茂さんの想像力は、いつの間にか境界を反転させ、自分自身の姿をフェンスの向こうに描いています。加茂さんによれば「人為的なものを超えた超人為的な」空気や時間や光が、その人影を包み込んでいます。

一見、明るく色鮮やかなグラフィック・デザインのような絵画ですが、加茂さんの「追体験の光景」は、痛みをいかに分有できるか、という姿勢で丸木夫妻の共同制作につながります。
また、2016年に丸木美術館で回顧展として取りあげた広島の画家・四國五郎は、加茂さんが模写した市民の描いた原爆の絵の募集の呼びかけにかかわっています。
同時開催として展示中の岡崎市の小学生が描いた徳応寺版「原爆の図」模写も、模写による追体験という点で、加茂さんの作品とつなげることができそうです。
そんな、さまざまなことを考えながら、作品解説を興味深く聞きました。

10月20日(土)午後2時15分からは、福島県立博物館の川延安直さんと加茂さんのトーク「広島と水俣と絵画を通して福島を考える」を行います。
展覧会の会期は10月21日(日)まで。
見応えあり、です。
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2018/9/13

【京都出張】儀間作品返却/ギャラリーヒルゲート  調査・旅行・出張

儀間比呂志展の作品返却のため、京都の立命館大学国際平和ミュージアムへ。
午前中のうちに、無事に作品点検と返却が終わりました。お預かりした分の図録も、最終日の2日前に完売。ご来場いただいた皆さま、ありがとうございました。ちなみに図録は、立命館大学国際平和ミュージアムに直接連絡すれば、まだ購入することができます。

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午後は京都国立近代美術館で特集展示「バウハウスへの応答」を観た後、寺町通りのギャラリー・ヒルゲートへ立ち寄り、画廊主のHさんにご挨拶。
8月6日ひろしま忌の窪島誠一郎さんの講演がキャンセルになった際、代役の相談に乗っていただいたのです。そのとき代役を務めてくださった司修さんの個展が、ちょうどタイミング良く開催中。古事記と宮沢賢治の世界を描いた緻密なスクラッチのシリーズでした。

ギャラリーの2階で珈琲を飲んでいると、亡き針生一郎館長が、ふらりと入ってくるような錯覚を覚えました。
特に待ち合わせをしたわけではないのに、偶然同じ時間にヒルゲートに立ち寄り、まるでそれが当然であるかのように打ち合わせがはじまったのは、もう何年前のことになるでしょうか。
Hさんとそんな昔話や近況報告をして、つい長居をしてしまいました。
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2018/9/11

加茂昴展展示作業  企画展

9月15日に開幕する「加茂昴展 追体験の光景」。

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今日からはじまった展示作業には、作家の加茂さんとともに、「戦争画STUDIES」のバーバラ・ダーリンさんが手伝いに来てくれました。聞けば学生時代の同期だそうです。
写真は、水俣を描いた絵画群を展示する二人の様子。今回の展示は広島・水俣・福島における追体験がテーマです。

少し前のことになりますが、10月から特別展示(テーマはチェルノブイリの予定)を行う気鋭の写真家・小原一真さんとの打ち合わせには、アフリカ・ジンバブウェの記憶を描いた初個展を終えたばかりの吉國元さんが同行してくれました。やはり以前からの友人同士だそうです。

それぞれの活動を興味深く見ていた若い世代の表現者たちがつながっていて、互いに誘い合って丸木美術館に来てくれるのは、とても嬉しいです。
こちらも彼らの活動をしっかりサポートしていかなければと思います。
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2018/9/9

【沖縄出張】平和博物館・市民ネット/ひめゆり戦跡ツアー  調査・旅行・出張

昨夜のうちに広島から福岡経由で沖縄へ移動し、今日は初の沖縄開催となった「平和のための博物館・市民ネットワーク全国交流会」の第2日目に合流。

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午前中はひめゆり平和祈念資料館で、説明員Oさんの講話を聞きました。
以前に体験者のお話を聞いたことはあるものの、若い世代の説明員に代わってから講話を聞くのは初めて。途中、体験者の証言映像を交えつつ、当事者とは異なる視点からの解説がよく練られていて、語りの継承をいち早く実践してきた館ならではの蓄積の厚みを感じました。

昼食のときには、ひめゆり説明員の先駆者で旧知のNさんと、互いの館を取り巻く現状について情報交換。年に一度の交流会ですが、他館の話は大いに刺激になります。

午後はひめゆり戦跡をめぐるフィールドワーク。伊原第三外科壕・ひめゆりの塔から出発し、貸切バスに乗って山城本部壕、荒崎海岸をまわりました。

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ひめゆり平和祈念資料館の前にある伊原第三外科壕は、南風原町にあった陸軍第三外科が南部に撤退して入った壕。6月18日に突然の「解散命令」があった翌19日朝の米軍の攻撃で、中にいた100人のうち81人(うち、ひめゆり学徒・教師は42人)が亡くなっています。

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壕の近くには、1946年に建てられた小さな塔と、1957年に建てられた(2009年改修)大きな慰霊碑がありますが、慰霊碑の百合の彫刻の作者が玉那覇正吉であることに初めて気づきました。玉那覇は、ニシムイ美術村の芸術家の一人で、対馬丸記念館の近くにある沖縄戦戦没学童慰霊碑「小桜の塔」の彫刻も手がけています。

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ひめゆりの塔から海に向かう途中にある山城本部壕は、沖縄陸軍病院の本部が置かれた場所。壕の近くに「沖縄陸軍病院之塔」が立っています。

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滑りやすい足もとに気をつけながら壕の中に降りていくと、空間は案外広く、奥には泉もあったのですが、奥の方は院長室として使われ、ひめゆり学徒の居場所は入口付近だったとのこと。

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6月14日に壕入口を砲弾が直撃すると、学徒2名を含む病院関係者十数名が死傷。その後、学徒と教師は壕から移動するよう命じられ、ふた手に分かれたものの、ジャンケンに勝って伊原第三外科壕に移動した7名は全員が死亡しました。

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荒崎海岸は、6月21日、日本兵を追ってきた米兵の銃撃を受け、岩場に隠れていたひめゆり学徒7名と教師1名を含む10名が、手榴弾で自決した場所です。
ゴツゴツした岩肌に、「ひめゆり学徒散華の跡」という碑が埋め込まれています。

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1949年に遺族によって碑が建てられ、一度倒壊した後、1972年に再度作られたとのこと。
遠く摩文仁の丘を見渡せる美しい海岸ですが、当時は波打ち際まで米軍艦が押し寄せ、逃げる場所はなかったそうです。

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荒崎海岸からバスまで歩いて戻る途中で雨が降り始めたものの、辛うじて予定通りにフィールドワークを行うことができました。
細心の気配りで案内してくださった、ひめゆり平和祈念資料館の皆さんに感謝。
「かつて、ひめゆりの証言者の方々は、死んでいった仲間たちが守ってくれるから、雨に降られずにすんだ、と言うことがあったけれど、今日は私たちもそんな思いです」という言葉が印象的でした。

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最後にバスの車窓から魂魄の塔を見て、F新館長の解説を聞き、その後に解散。
1946年、戦後の沖縄で最初に建てられた慰霊碑である魂魄の塔は、10年ぶりの再訪。ひめゆり平和祈念資料館は4度目、山城本部壕と荒崎海岸は、今回初めて訪れました。
仕事で沖縄へ行くことは多いのですが、南部戦跡をまわる機会はなかなかないので、貴重な体験でした。
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2018/9/8

【広島出張B】広島市現代美術館「《原爆の図》をよむ」開幕  館外展・関連企画

広島市現代美術館「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展が開幕しました。

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レセプションには、位里の母校である広島市立飯室小学校の全校児童が貸切バス2台で駆けつけて参加。福永館長と丸木ひさ子さんの挨拶に続いて、この日のための学習の成果を、代表の児童が立派に発表していました。

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そしてギャラリートークには、あいにくの雨にもかかわらず、本当に大勢の方にご来場いただき、感謝しています。会場をいっぱいに埋めた来場者の中には、被爆者の証言をもとに「原爆の絵」に取り組む基町高校の生徒たちの姿もありました。

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当初はひとつひとつの絵を見て歩き、関係者の方々(親族、研究者などなど)をご紹介しながらまわれればと考えていたのですが、この人数ではとても無理だと判断し、展示室ごとに移動しながら概説をするという方法に切り替えました。

1時間にわたるトーク、《原爆の図》三部作(本作/再制作版)の前では特に時間を割いて話したものの、それでも語りきれないのが《原爆の図》。トークの後もたくさんのご質問をいただきました。

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これから2か月半にわたって広島の方々に観ていただきながら、新しい出会い、新しい発見があることを願っています。
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2018/9/7

【広島出張A】広島市現代美術館「《原爆の図》をよむ」開幕前日  調査・旅行・出張

午前中はO市まで、歌手の二階堂和美さんを訪ねて行きました。
ローカル線に揺られて、車窓から宮島を眺める小旅行のような時間。

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落ち着いた雰囲気の古い宿場町の小さなお寺で、11月の企画のこと、丸木夫妻ゆかりの飯室のお寺の住職のこと、そして亡くなってしまった高畑勲さんのことなど、小一時間お話ししました。

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午後は広島市現代美術館で、明日から開幕する「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展を拝見。
会場をまわりながら、解説員の皆さんに作品解説も行いました。皆さんしっかりメモをとりながら聞いてくださり、気がつけば解説は2時間を超えていました。

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展覧会は、《原爆の図》以前の位里と俊の作品紹介からはじまり、《原爆の図》三部作の「本作」と「再制作版」を比較して並べているのが見どころです。「再制作版」のための下図や、展覧会の印刷物などの関連資料も紹介されています。

担当学芸員のSさんは、今回、広島市立中央図書館にある峠三吉資料から、丸木位里・俊の書簡を見つけてくださいました。そこには、『原爆詩集』(1951)の装幀を褒める二人の言葉が記され、「原爆の図展」に「われらの詩の会」の詩を送ってほしいと依頼していたこともわかりました。
副館長のTさんは、私が見逃していた山陰地方の新聞から、再制作版のきっかけとなった幻の「原爆の図」米国展について、賀川豊彦や桜沢如一らが協力していたという新たな情報を補完し、図録の論考にまとめてくださっています。

明日、午前10時半からのギャラリートークでは、こうした新たな知見も取り入れながら、《原爆の図》と広島とのかかわりを中心に、お話しできればと思っています。
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2018/9/6

【広島出張@】「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展に向けて  調査・旅行・出張

関西と札幌行きの便が欠航となり、混乱していた羽田空港を後にして、広島に来ています。
広島もまた、空港から市内に向かう途中のところどころに豪雨災害の跡が残っていました。

そんな中で、8日から広島市現代美術館ではじまる「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展。
https://www.hiroshima-moca.jp/maruki/

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広島駅に開通した南北自由通路のデジタルサイネージの動画に、展覧会の案内が流れていました。

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他にも、広島駅南口地下広場のショーウィンドウや、八丁堀福屋の隣の金座街アーケードの懸垂幕、街なかのあちこちにポスターが掲示されています。

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広報担当の方によると、8日午前10時半から行うギャラリートークへの関心も高く、当日は盛況と思われるとのこと。

昨日はいくつかの場所へ挨拶まわり。エディオンプレイガイド(サンモール1階)へ、11月18日の奈良美智さんらが出演される丸木美術館主催イベントの前売券も納品してきました。広島市内で直接チケットを購入できる拠点ができたので、本格的に告知を進めていきたいと思っています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2018/hiroshima.html

ギャラリーGでは、昨年亡くなられた美術家のいさじ章子さんの追悼展を観ました。直接お会いする機会はなかったものの、ご著書をお送りいただいたことがあり、一方的に近しく感じていました。若き日の抽象的な油彩画と、死の間際にも表現し続けた言葉の作品による、静謐な展示でした。
http://gallery-g.jp/exhibition/isajisyouko/

夜は2015年の米国展でお世話になった広島テレビのWさんと待ち合わせ。小鰯の刺身や鯒の煮付け、穴子の茶碗蒸しなどの美味しい料理を楽しみつつ、しかしカウンターで飲んでいる別のお客さんの「今年の災害の多さは異常。広島の豪雨災害がもう過去のことみたいになっとる」という言葉が聞こえてきて、胸に刺さりました。

この困難な時代に、《原爆の図》どのように読みなおしていけるのか。なかなかうまくは話せないかもしれませんが、そんなことを考えながら、トークに臨みたいと思っています。
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2018/9/1

シンポジウム〈「戦争/暴力」と人間ー美術と音楽が伝えるもの〉  イベント

午後1時半からシンポジウム〈「戦争/暴力」と人間ー美術と音楽が伝えるもの〉。
あいにくの天候にもかかわらず、大勢の方にご来場いただきました。

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共催の音筆舎は、広島の原爆を扱った音楽を研究されている能登原由美さんの立ち上げた団体。能登原さんとはこれまで、日本平和学会や広島大学、米国の日本文学研究会などで一緒に発表する機会が多かったのですが、今回は「美術」と「音楽」の領域を横断しながら、「戦争/暴力」と表現の問題をさらに深めて考えることができないかという提案をいただき、シンポジウムが実現しました。

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はじめに映画『原爆の図』(1953年、今井正・青山通春監督、音楽を担当した大木正夫は、その後交響曲第5番「ヒロシマ」、第6番「ベトナム」を作曲)を上映。
「戦争画」をはじめ現代美術における戦争表現の紹介を続けている飯田高誉さんと、現在ベトナムで音楽研究を行っている加納遥香さんにも発表していただき、何より、全体を俯瞰しながら的確に議論を導く柿木伸之さんのコメントが、シンポジウムを引き締めてくださいました。

この企画は一回限りでなく継続して行っていく予定で、いずれ記録として残していくことも検討中です。
出演者の皆さま、そしてご来場くださった皆さま、どうもありがとうございました。
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