2018/8/25

福島ギャラリー・オフグリッド「山内若菜展」トーク  講演・発表

福島市のギャラリー・オフグリッドにて、山内若菜展トークイベント。
3.11後、被曝した牛や馬を殺処分にせず育て続ける「牧場」の絵画に包みこまれるように、参加者みんなで車座になって座り、画家の話を聞きました。

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福島のことを知りたいという思いに突き動かされて現地に通い、さまざまな人の話を聞き、絵を見た岡山の中学生の率直な感想にも耳を傾け・・・彼女の語る制作動機を、しかし目の前の絵画は、どこか軽々と飛び越えていくような印象を受けます。
考えを整理するより先に、描きたいという欲求が彼女の手を動かし、絵筆の先から濃厚で強靭なイメージがあふれ出てくるのです。

その作品世界を、来場者にどのように伝えられるのか。
福島の核被害をテーマにしていることもあって、事前の不安は決して小さくなかったのですが、真摯に語るべき言葉を探し続ける画家の姿に、周囲の人たちが次第に引き寄せられていく気配を感じて、安心しました。

きっとこの空間は、福島ではマイノリティに属するのだろうと思いますし、私たちは「境界」の外側から来た越境者に過ぎないのですが、しかし、この日会場に流れていた空気感は、決して悪くなかったと思います。

地元福島の方がたはもちろん、東京から駆けつけてくださった方が何人もいて、本当に心強い限りでした。忘れがたい夜になりました。
ご来場くださった皆さま、どうもありがとうございました。
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2018/8/20

東京藝術大学 芸術と憲法を考える連続講座クロストーク  講演・発表

東京藝術大学にて、芸術と憲法を考える連続講座(主催:音楽学部楽理科、共催:自由と平和のための東京藝術大学有志の会、後援:日本ペンクラブ)の第9回「イメージする。表現する。行動する。−核兵器のない世界へ−」。
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員でピースボート共同代表の川崎哲さんとクロストークを行いました。

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川崎さんには、昨年12月16日、オスロでのノーベル平和賞授賞式から帰国した翌日に丸木美術館で講演をして頂きました。
今回は、そのとき以来の再会。川崎さんはあれから全国で90回以上の講演をされてこられたそうです。

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川崎さんのお話で印象に残ったのは、核兵器禁止条約の締結のためにもっとも努力したのがメキシコ、オーストリア、コスタリカの3国だったということ。
いずれも核被害の直接的な“当事国”でないにもかかわらず、自分たちの文脈にひきよせて、その非人道性/不条理を考えていたという話を聞いて、世代を超えて核被害の記憶を継承するためのヒントを得たような気がしました。

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丸木夫妻をはじめ、私の発表で紹介した「空想非核芸術美術館」の美術家の多くも、直接的な“当事者”ではありません。
忘れたくても忘れることのできない“当事者”の〈記憶〉だけでなく、“非当事者”のもたらす〈想像力〉が、これからの世界を変えていくための重要な鍵となっていくのでしょう。

川崎さんには、「原爆の図保存基金」への応援メッセージもいただきました。

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川崎哲
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員、ピースボート共同代表

核兵器の非人道性に対して世界の国々が明確な認識をもったことが、2017年7月の核兵器禁止条約成立を導きました。同年末、ノーベル委員会は、核兵器の非人道性に注目を集め核兵器の禁止に貢献した市民の運動に対してノーベル平和賞を授与しました。この法規範に真の実効性を与えていくのは、私たち市民の力です。《原爆の図》を今こそ世界に広げ、一人でも多くの世界の人たちに見てもらいましょう。

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川崎さん、力強いメッセージをありがとうございます。
そして、ご来場くださった大勢の方々、お世話になった有志の会の皆さま、本当にありがとうございました。
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2018/8/17

【北海道出張A】秩父別・善性寺  調査・旅行・出張

北海道出張2日目は、N学芸員やギャラリー北のモンパルナスのSさんらとともに、赤松俊子(丸木俊)の生家である秩父別町・善性寺を10年ぶりに訪問。

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目的のひとつは、俊が10代の頃、東京の女子美術専門学校(現女子美術大学)に通うため、資金援助の意味を込めて郷里の人びとに依頼されて描いた絵画を撮影することでした。

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まずはベニヤ板に油彩で描かれた《赤松清潤の像》と《出淵虎治の像》。
どちらも親戚を描いた肖像画で、赤松清潤が着ているのは屯田兵の軍服とのこと。1930年(俊18歳)頃の制作と思われます。北海道の気候のせいか、保存状態は非常に良好でした。

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そして同じ頃に俊の父親を描いた《二世淳良法師の像》。この作品は以前にも見ていましたが、あらためて記録撮影。

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絵の中で着用されている極楽鳥文様の七条袈裟も現存するとのことで、俊の甥にあたる現住職が、わざわざ見せて下さいました。

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さらに、俊の母校である秩父別小学校に展示されていた《パラオ島》も、1年ほど前に善性寺へ戻っていました。
この油彩画は、俊が当時日本の統治下にあった「南洋群島」を訪れた1940年の作。
伝統的な集会所ア・バイに腰をかけてこちらを見ている二人の子どもの照れ笑いをしているような表情が印象的です。画家とモデルの親密な関係が伝わってきました。

   *   *   *   *   *

今回の善性寺訪問のもうひとつの目的は、日本画を専門とするN学芸員とともに、丸木位里の《龍虎之図》を調査することでした。

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この大作は、丸木夫妻が結婚の報告のために1941年末に秩父別を訪れた際に描かれ、翌1942年の第3回美術文化協会展に出品された記録が残っています。
その後、善性寺の本堂の襖絵として使われて、1992年に屏風に表装しなおされた際に、傷んでボロボロになった部分に新たに紙を貼り、位里自身が加筆したとのこと。

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加筆によって1941年の発表時からどの程度改変されたのかが気がかりだったのですが、今回あらためて調査して、主要な部分はほとんど変わってないことがわかりました。

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伝統を踏まえた図像でありながら、位里独特の絵画感覚が、虎の量感や龍と雲の構成の大らかさなどに散見されます。
彼の画業をたどる上で重要な意味を持つ作品であると再確認できたのは、大きな収穫でした。

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秩父別は見渡す限り広大な平野が広がるスケールの大きな土地。雨上がりの青い空には、「赤松の名にちなんだ」本堂の赤い屋根がよく映えていました。
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2018/8/16

【北海道出張@】札幌・ギャラリー北のモンパルナス  調査・旅行・出張

久しぶりの北海道出張。
雨のせいもありますが、気温は18度と、熱風の埼玉とは別の国のようです。

午前中に北海道立近代美術館と三岸好太郎美術館を観て、午後は広島の奥田元宋・小由女美術館のN学芸員とともに、札幌のギャラリー北のモンパルナスで丸木位里作品の調査を行いました。
きっかけは、今年7月に同ギャラリーで開催された「丸木位里展」の出品作に、1943年夏制作の水墨画《昇仙峡》が含まれていたことでした。

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現在、市場に出てくる丸木位里の作品は、もっぱら1970年代から80年代にかけての国内外の旅行の際に描いた風景画が中心。1940年代前半の水墨画が出てくるのは、たいへん珍しいです。

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1943年といえば、美術団体の統制が進められ、展覧会の開催が激減していった時期ですから、位里の《昇仙峡》は描かれはしたものの、発表されなかったかもしれません。

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位里は1939年頃から水墨の実験を繰り返しており、《昇仙峡》の画面に見られる細かい点描は、当時の彼の関心の方向性をよく伝えています。
地味な小品ではあるけれど、あまり活動の記録が残っていない時期の作例を伝える貴重な一点です。
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2018/8/15

『信濃毎日新聞』社説「戦争の記憶」  掲載雑誌・新聞

ひろしま忌とその翌日に、時間をかけて取材してくださった信濃毎日新聞のN論説委員による社説が掲載されました。

戦争の記憶 「分かりたい」思いを胸に
 ―2018年8月15日『信濃毎日新聞』社説
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20180815/KT180811ETI090002000.php

以下、信毎webより一部抜粋です。

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 位里さんと俊さんの作品群は完結していない。私たちの生きる社会に続編はある。

 「平和利用」のかけ声の結果、福島は核の惨禍にさらされた。沖縄県民は「安全保障」の名目で今も主権を奪われている。
 過労死や自殺が後を絶たず、人と人との関係は薄れて孤立感が深まっている。戦争とは質の異なる暴力に追い詰められ、身近な命が悲鳴を上げている。

 東京や広島、長崎、沖縄で、曽祖父母や祖父母世代の体験を語り継ごうと、3世、4世に当たる若者が多様なアイデアで活動を始めている。心強くはあるものの、戦争の記憶はそうした一部の人たちだけが担い、受け継いでいくものではないはずだ。

 原爆の図をいかに「自分の絵」として見てもらうかが、これからの美術館の課題だという。丸木夫妻の願いをたぐり寄せようとする国内外の人たちの支えで、館は半世紀存続してきた。
 戦時に生きた人々の苦難を共有することはできない。知ったつもりに、寄り添えた気になるより、目の前にある命の問題と交錯させながら、「分かりたい」との思いを持ち続けたい。


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Nさんの強い気持ちの伝わってくる良い記事です。どうもありがとうございました。
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2018/8/13

徳応寺版《原爆の図》模写調査  調査・旅行・出張

愛知県岡崎市・徳応寺へ、《原爆の図》模写調査に行ってきました。
偶然にも近所で生まれ育ったという、大学の同期生で東京文化財研究所のK研究員に案内していただきました。

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名鉄・美合駅に近い浄土真宗のお寺の本堂には、子どもたちの手による13点の《原爆の図》が、毎年8月に、鎮魂と継承の思いを込めて15日まで公開されているそうです。
第1部《幽霊》、第2部《火》、第5部《少年少女》をもとにしながらも、「模写」を逸脱していくような絵の奔放さと迫力に、圧倒されました。

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寺に残る箱書きによれば、1956年5月、岡崎市立男川小学校の教師だった宇野房生(正一)が5年生に戦争の話をしたところ、「原爆はすごく景気が良い」との反応があり、戦慄した彼は翌日に《原爆の図》を見せたそうです。その結果、子どもたちの心に原爆の恐ろしさが沁み、模写の制作にとりかかったとのこと。

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当時の新聞記事には、30点ほどの模写を制作する構想だったと記されています。
部分描写で、絵によって拡大の比率が異なること、30点という作品数の多さから、この模写は青木文庫版『画集 原爆の図』(1952年発行、第1部〜第5部所収)の口絵をもとにしていると推測されます。

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画集はモノクロ写真でしたが、第2部《火》の炎は彩色されていて、1952年6月に愛知大学岡崎会の主催により「原爆の図展」が岡崎市のタカハシ百貨店(現岡崎信用金庫本町支店)で開催されたのを宇野が見ていた可能性があります。

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炎に包まれた赤ちゃんの模写が2枚描かれているのも気になりました。「終戦子」であった彼らにとって、生まれたばかりの赤ちゃんの像はとりわけ思い入れが強かったのかもしれません。
(2枚目の赤ちゃんの方には、「本作」にはない猫?の玩具が・・・)

もちろん丸木夫妻にも手紙で模写の許可を取ったそうで、俊は1985年7月25日の『中日新聞』で「そのころ、男川小学校の生徒の平和への意識の高さに感銘を受けた」と回想しています。

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子どもたちは、シジミを拾って売るなどして墨や紙などの画材を買い、6年生になっても模写を続け、映画「毎日国際ニュース」で取り上げられるなど次第に話題になっていったそうですが、やがて教育委員会から「思想的」との批判があり、制作は中断。焼却されるところを徳応寺の住職だった故・都路精哲が引き取り、軸装して木箱に入れ保管したおかげで、模写は残されることになりました。
そして1985年に約30年ぶりに公開され、以後、住職は代替わりしながらも、毎夏の公開を続けているとのことです。

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「描く」という身体的な体験で、非体験の「記憶」を継承する、貴重な1950年代の実践例。
今秋、広島市現代美術館では《原爆の図》の「本作」と作者の手による模写である「再制作版」が比較されますが、丸木美術館の方では、この機会に徳応寺版《原爆の図》をお借りして、「模写」の豊かな可能性を提示したいと思っています。
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2018/8/11

ギャラリーOGU MAG「吉國元展」  他館企画など

田端のギャラリーOGU MAGで開催中の吉國元展「アフリカ都市経験:1981年植民地期以降のジンバブウェ・ハラレの物語」を観ました。
https://www.motoyoshikuni.com/

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ジンバブウェ近代歴史研究者の吉國恒夫を父に持ち、1986年にジンバブウェ・ハラレで生まれた吉國元の初個展。
彼は10歳で日本に来ているのですが、今でも記憶の中のジンバブウェを描き続けています。
カンヴァスに油彩で描かれた作品だけでなく、段ボールやスケッチブックに色鉛筆などの素材も用いた大小さまざまな絵を組み合わせた展示構成が、「記憶の断片」としてのアフリカを立ち上げます。
イギリスの植民地支配からの独立を導いたムガベ大統領の独裁下という複雑な社会の中で、幼い彼と出会った人びとの肖像。そして日常生活のありふれた風景。

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作者が展覧会に寄せたテキストの一部を抜粋します。

私は子供の頃に始めた絵だけは続けていて、今でも描く事でアフリカで出会った人たちを記憶しようとしている。アフリカの光の中でほんの短い時間だったのだが、彼らの生と私の生が交差する瞬間があったのだ。この展覧会はひとつのドキュメントであり、私にとってのクロニクルなのかもしれない。

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例えば、アイロンをかける女性像の右上隅には、どこの家でも掲げているというムガベ大統領の肖像が、画面の外へはみ出すように切断されて描かれ、新しい世代への変化を象徴する少年の姿が赤い絵具で描写されています。

その絵の左隣の鳥打帽の男性像は、彼が10歳のときに描いた、つまり出品作唯一の、記憶の再現ではない「リアル」な肖像。男はムビラ(アフリカ伝統の親指ピアノ)の奏者で、彼に演奏を教えてくれていたそうです。

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絵は現実を論理的に説明するものではありませんが、しかし、彼の展示からは、一度も訪れたことのない、それどころかほとんど知識さえもないジンバブウェの人たちの輪郭が、少しずつ見えてきます。

彼の仕事は、まだ始まったばかりだという予感がしています。
ジンバブウェからの越境者という立ち位置から、どんな視界を構築していくのか、期待しながら見ていきたいです。
展覧会は8月12日まで。
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2018/8/10

【福島出張】ギャラリー・オフグリッド「山内若菜展」など  調査・旅行・出張

午前中に丸木美術館で教員免許更新講習のための館内説明と討議を行い、超満席の東北新幹線で移動して、福島で「いのちと暮らし」に文化的に向き合う新しい連携プロジェクトの実行委員会に参加。
委員として何ができるかはまだわかりませんが、これまで試行錯誤してきたことの整理や、これからやっていくべきことを考える機会になり、点が線につながっていくような感覚を覚えはじめています。何より、福島とかかわり続ける場に誘って下さった福島県立博物館の皆さんに感謝です。

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会議の後は、ギャラリー・オフグリッドで開催中の山内若菜展「牧場 ペガサス―日食月食編―」へ。
3.11後の福島の状況に文化的な力で向き合うために、2015年12月に飯館電力株式会社の文化事業の一環としてはじまり、2017年3月からは一般財団法人ふくしま自然エネルギー基金の文化事業として運営されているギャラリー。今の福島にこうした場があることは、(決して多数の人に注目されないかもしれないけれど)重要な意味を持つと思います。
被曝した牛を飼い続ける牧場の絵を、当の福島で展示するのは、作者の山内若菜さんにとって大きな試練でしょう。それでも彼女は彼女らしく、いつもと変わらない全力注入の展示を作り上げていました。
8月25日(土)午後6時からは対談を予定しているので、絵に込められた彼女の強い思いを丁寧に聞きとっていきたいと考えています。

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折しも、ヤノベケンジさんの《サン・チャイルド》が福島市に寄贈されて、1週間ほど前に福島駅前の教育文化複合施設「こむこむ」に設置されたばかり。
これまでの経緯から、福島の「復興」の象徴になる現代アートがあるとすれば《サン・チャイルド》なのだろうと感じていたのですが、ネット上で批判されて作者が声明を出す状況になっているとのこと。
丸木美術館での展示をお願いしたことはありませんが、都立第五福竜丸展示館で《サン・チャイルド》が展示されたときには観に行ったので、少々複雑な心境です。
夜は行きがかりで、《サン・チャイルド》の設置にかかわった地元の方々のミーティングに参加。
作品そのものの抱える問題や感情的な意見が混在する複雑な状況なので、もっぱら皆さんの話を聞くばかりでしたが、事前に市民レベルで十分な議論がなされなかったことも一因であったのかもしれません。
福島の複雑さの一端を垣間見ると同時に、アートやモニュメントのもつ難しさ/暴力性を感じ、悶々としています。
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2018/8/7

広島市現代美術館「丸木位里・俊―《原爆の図》をよむ」展のお知らせ  館外展・関連企画

2018年9月8日(土)から11月25日(日)まで広島市現代美術館で「丸木位里・俊―《原爆の図》をよむ」展が開催されます。
特設ウェブサイトが開設されました。

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https://www.hiroshima-moca.jp/maruki/

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水墨による独自の表現を探究していた広島出身の丸木位里(1901-95)と、女子美術専門学校で油彩画を学んだ北海道出身の俊(赤松俊子・1912-2000)は、1941年に結婚します。ふたりは1945年8月に原爆投下後の広島を訪れたのち、自らの体験と家族などから聞いた話をもとに《原爆の図》初期三部作である《第1部 幽霊》、《第2部 火》、《第3部 水》を制作しました。これらは報道規制が敷かれた1950年代初頭に日本全国を巡回し、いち早く人々に被爆の惨状を伝えたことで反核反戦の象徴となっていきます。《原爆の図》は、作品が担った社会的役割の大きさだけでなく、洋画家の俊による繊細な人体描写と、日本画家の位里による大胆な水墨技法が融合した表現である点においても希有な作品といえるでしょう。
本展では《原爆の図》より、初期三部作に加え、《第4部 虹》、《第5部 少年少女》とともに、《原爆の図》の需要が高まる全国巡回展中につくられた初期三部作の「再制作版」を同時にご覧いただきます。丸木位里と俊、それぞれがこれらの作品の前後に単独で制作した作品もあわせて紹介し、ふたりの画業の連続性のなかで、《原爆の図》にみられる絵画的表現の試みを読み解きます。


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9月8日の開幕日は、午前10時30分から、岡村がギャラリートークを行います。
広島での本格的な《原爆の図》の展覧会、楽しみにしています。
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2018/8/6

NHK首都圏ニュースで「ひろしま忌」紹介  TV・ラジオ放送

美術館で平和祈る灯ろう流し
 ―2018年8月6日 NHK首都圏ニュース

https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20180806/0016200.html

以下はWEBサイトからの引用です。

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広島に原爆が投下されてから73年となった6日、原爆投下直後の様子などを描いた「原爆の図」を展示する埼玉県東松山市の丸木美術館では、平和を祈る催しが開かれました。

東松山市の「原爆の図 丸木美術館」は画家の丸木位里・俊 夫妻が、原爆が投下された直後の広島や長崎の様子を描いた連作の絵画「原爆の図」を展示しています。
毎年、追悼の催しが開かれ、6日はおよそ100人が美術館に集まり全員で黙とうをして原爆で亡くなった人たちを追悼しました。
このあと近くの川に移動し、「平和」などと書かれたおよそ80の灯ろうを川に浮かべて、静かに手を合わせて平和を祈っていました。
東京から参加した女性は「歴史をきちんと踏まえながら、平和の大切さを次の世代に伝えていかなくてはいけないと思いました」と話していました。


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2018/8/6

丸木美術館ひろしま忌  イベント

8月6日は丸木美術館ひろしま忌。
今年も暑いなか、大勢の方が来館してくださいました。

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NHK「ごごラジ」キャスター石垣真帆さんとは、さいたま局や名古屋局のラジオ番組で何度もお世話になり、もう10年ほどのおつきあいになるでしょうか。さすがに本職、安定感のあるトークと、絵本『おきなわ島のこえ』、『とうろうながし』の美しい朗読で、若者たちを中心に人気を集めていました。

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司修さんの講演「戦争と芸術」は、寺田政明や井上長三郎ら新人画会の画家たちの肉声を録音したインタビューを紹介しながら、戦争の時代を生きた画家たちの思いを語る内容でした。最後の質問で、藤田嗣治再評価のはらむ危険性について語ってくださったことも印象に残りました。

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西日本ツアー中にもかかわらず大移動で出演してくれた太鼓集団響の演奏も素晴らしかったです。彼らの母校である浦和商業高校定時制の記録映画『月あかりの下で』を撮影した太田直子監督も駆けつけて、「ひろしま忌の集い」でご挨拶をしてくださいました。

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そして、昨年は夕立のため中止になったとうろう流しは、今年も雷雨の予報で危ぶまれましたが、何とか無事に行うことができました。幅広い世代の方々が、手作りのとうろうを都幾川の流れに浮かべ、平和への祈りを捧げました。

ご来場された方々、ボランティアの皆さま、どうもありがとうございました。
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2018/8/5

ひろしま忌準備  イベント

明日は丸木美術館ひろしま忌
午後に雷雨の予報も出ていますが、ボランティア部隊はとうろう流しの準備を整えました。
どうか好天に恵まれますように。

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【スケジュール】
●午前中〜 とうろう作り
●13:00〜 丸木美術館クラブ・工作教室
 案内人:万年山えつ子(画家)&石塚悦子(画家)
● 14:30〜15:00 石垣真帆さん 絵本朗読
 NHKラジオ第1放送の番組「ごごラジ!」でパーソナリティをつとめている石垣真帆さんが、沖縄と広島を舞台にした戦争絵本の朗読を行います。
●15:15〜16:30 司修さん(画家・小説家) 講演「戦争と芸術」
 『戦争と美術』(岩波新書)などの著書によって、芸術家と戦争の問題を深く考察し続けてきた司修さんに、お話を伺います。
※講演を予定していた窪島誠一郎さん(無言館館主・作家)が体調不良で入院されたため予定変更となりました。
●16:45〜17:15 太鼓集団 響 公演
 2008年に廃校になった埼玉県立浦和商業高校定時制の太鼓部を前身に、現在、本庄市を拠点に国内外で活動を続ける太鼓集団響の公演です。
●17:30〜17:45 ひろしま忌の集い
●17:45〜 とうろう流し

・入館料800円 高校生以下無料
・朗読・講演(14:30〜16:30)は丸木美術館1階新館ホールにて。
・参加費1000円(入館料別途)となります。
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2018/8/4

沖縄県立博物館・美術館「儀間比呂志の世界」展ギャラリートーク  講演・発表

沖縄県立博物館・美術館にて「儀間比呂志の世界」展ギャラリートーク。
佐喜眞美術館の「本橋成一展」のトークと完全に日程が重なってしまって、「どちらに行こうか迷った・・・」と何人かのお客さんに言われ、申し訳ない限りでした。それでもご来場下さった皆さま、本当にありがとうございました。

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学芸員の豊見山さんにお会いしたのも、沖縄県立博物館・美術館を訪れたのも、2008年の「美術家たちの「南洋群島」」展がきっかけでした。
それから10年の歳月が流れ、その間、何度沖縄を訪れたか覚えてはいませんが、私はもっぱら豊見山さんの眼を通じて、沖縄の美術を近しく感じ、学んできました。
今回、儀間比呂志について、豊見山さんとクロストークをさせていただいたことは、ひとつの節目のような気がしています。
「南洋群島展」の調査で行われた儀間さんの貴重なインタビュー映像(2007年撮影)を見たことも、その思いを強くさせました。

インタビューの中で、儀間さんは、戦後、郷里の沖縄に帰ることができず、大阪で油彩画を学んだ後、東京の上野誠の家を訪ねて影響を受け、木版画に取り組んでいったと語っています。
やがて儀間さんは木版画一本に絞っていくのですが、「高価な油彩画より安価で複数刷れる木版画の方が多くの人に見てもらえる」という彼の言葉は、中国の木刻運動の影響を受けた戦後の版画運動の発想に重なります(「原爆の図」を描く前の赤松俊子=丸木俊も前衛美術会で木版画に取り組んだ時期がありました)。
また、初期油彩画の力強い線描や造形的な特徴は、メキシコの壁画運動の影響も感じさせます。豊見山さんの解説によれば、1955年に「メキシコ美術展」が大阪を巡回しており、儀間さんも見ていたかもしれません。
1950年代は儀間さんにとって画家としての自己形成期。民族の歴史と誇り、抑圧する者への抵抗の精神を、自身のルーツである沖縄に重ねながら、強固な表現に練り上げていったと思われます。

しかし、1956年に初めて沖縄で開催した個展は、必ずしも郷里の美術界に受け入れられなかったようです。
当時の沖縄美術の主流は、「ニシムイ美術村」の美術家たち。つまり、戦前に東京美術学校で学び、アカデミックな表現やシュルレアリスムの影響を受けたエリート層が中心となって、戦後の沖縄画壇を形成していたのです。
戦争の破壊とその後の過酷な米軍統治は沖縄を孤立させ、儀間さんが影響を受けた1950年代の文化運動も、沖縄には生まれていなかったようです。
その意味では、儀間さんは「沖縄の画家」ではなかった。1950年代における沖縄の「外側」の方法論によって、沖縄の抱えている問題を立ち上げ、日本の人びとに、そして沖縄に対しても突きつけていったのではないか。
そして、そんな儀間さんの作品に、当時の沖縄の先鋭派である『琉大文学』の新川明さんが共鳴し、歓迎したというのも、また興味深いところです。
儀間比呂志、もう少し続けて考えたい作家です。
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2018/8/3

【沖縄への旅】平敷兼七ギャラリー/佐喜眞美術館  調査・旅行・出張

ひろしま忌が近づいていますが、沖縄に来ています。
最終日を迎えた平敷兼七ギャラリーの平敷兼七・小原佐和子写真展「渚」、開幕したばかりの佐喜眞美術館の本橋成一写真展「在り家」。そして夕食は本橋さん、小原さん、平敷さんの娘さんたちとともに写真家のタイラジュンさんのお店rat&sheepへ行くという、写真づいた一日。
小原さんの写真集『神の真庭』と、平敷兼七写真集『山羊の肺』(復刻版)を入手しました。

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久高島を撮影している小原さんの写真展は、数年前に東京でやっていたのを見逃していて、今回も、まさか沖縄で見られるとは思っていなかったのですが、絶妙なタイミングで沖縄に来ることができて本当に良かったです。
写真展では、生前の平敷さんと小原さんの交流の一端が垣間見えたのも印象的でした。若い作家にとって、写真を撮り続けること、そして生きていくことは真底たいへんだと思うけれども、世代を超えて受け継がれていくものが確かにあることを感じて、心を打たれました。

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佐喜眞美術館の本橋成一展は、限られた展示空間いっぱいに、炭鉱からチェルノブイリ、アラヤシキまで、本橋さんのこれまでの仕事が凝縮された見応えのある内容。とりわけ、丸木夫妻が沖縄で絵を描く姿の先に《沖縄戦の図》が屹立する空間構成は、佐喜眞美術館ならではのクライマックスです。会期は9月3日まで。
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2018/8/1

『歴史地理教育』特集「核の戦後」に寄稿  執筆原稿

歴史教育者協議会(歴教協)発行の『歴史地理教育』第883号(2018年8月号)の特集「核の戦後」に、「見えない核の脅威をあばき出す─原爆の図丸木美術館の今日的意義」を寄稿しました。

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最近はなかなか新しいことが書けるわけではないのですが、今回、1970年代なかばに山陽新幹線開通という条件が整い、葛飾区の中学教師・江口保の提案によって、広島へ修学旅行に行き、被爆者の体験談を聞く学校が増加、事前学習として丸木美術館に来る学校も多くなった、と書いたところ、同じ特集内で詩人の石川逸子さんがやはり江口保について書かれていたので、連続性があって良かったな、と思いました。

歴教協の担当の方には、来年8月に埼玉県内で開催予定の歴教協全国大会の分科会で講演を、との依頼もいただいています。
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