2017/5/31

『北海道新聞』文化欄で丸木美術館開館50年特集  掲載雑誌・新聞

痛みの記憶を受け継ぐ 埼玉・丸木美術館 開館50年
 ―2017年5月31日付『北海道新聞』朝刊文化欄

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『北海道新聞』文化欄で、丸木美術館開館50年の大きな特集記事が組まれました。
記事は「平和とは問う《原爆の図》」、「寄付募り保管施設建設」、「生前の夫妻追った写真展開催」の3本立てです。

「平和とは問う」記事では、丸木ひさ子さんによる「『戦争を経験してないから分からない』と聞いてきた子どもに、『自分で想像力を働かせて考えてごらん』と諭していた」、「俊は『平和は与えられるものではない』と言っていた。今だからこそみんなで平和について考えてほしい」とのコメントが紹介されています。

写真展開催の記事では、本橋成一さんの「俊先生が人物とか風景をスケッチしたあと、位里先生がそれを墨でばーっとつぶしていく。でも、俊先生は『自分のスケッチをより生かしてくれる』という信頼感があった」、「いちゃいちゃしているというわけではないが、2人は恋愛をし続けていたのだと思う」というコメントが載っています。

新館建設の記事では、岡村が「夫妻の一連の作品に共通しているのは『痛みを負った人々の目から見た世界』。市民の手で、この先50年も歴史をつないでいきたい」と語っています。

おかげさまで、北海道から寄付の問い合わせの電話が多くかかってきています。
取材をして下さった原田隆幸記者、どうもありがとうございました。
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2017/5/27

自由芸術大学講座「日本の社会派アート100年」  他館企画など

谷英美さんの朗読会の後は、急ぎ新宿御苑前駅に駆けつけて、IRA(イレギュラー・リズム・アライサム)で開催された自由芸術大学講座「日本の社会派アート100年」に参加しました。

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ビルの3階の一室の小さな会場は、30人ほどの参加者でほぼ満員。ちょうど花園神社の祭礼の日で、開け放した窓からは街の喧騒も聞こえてきました。
スピーカーは、視覚社会史研究者の足立元さん。

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著書の『前衛の遺伝子』の内容を、「アナキズム・アート論」と言うべき方向に発展させ、社会への抵抗の手段としてのアートの可能性と困難さを考える、興味深い講義でした。

「人はどこまで抵抗できるかを考えたい。しかし、私たちは抵抗するだけの独善性、愚かさも知っている」
「社会派であればアートとして優れているとは限らない。逆もまた然り」
「イデオロギーに乗っただけの作品をアートとして否定した上で、その社会史的な意味を考えたい」
「アートは裏切るもの」という足立さんですが、彼自身の発表にも、こうした語義矛盾のような言葉が、しばしば登場しました。

「プロト・アナキズム」としてのディオゲネスや傾奇者から、幸徳秋水、小川芋銭、日本アニメーションの始祖である幸内純一、黒曜会と望月桂、村山知義、柳瀬正夢、津田青楓、小野佐世男、そして戦後のシュルレアリスム、ルポルタージュ絵画、反芸術、美共闘、バブルと抑圧、ポスト9.11、ポスト3.11まで・・・。

「日本の社会派アートの作者は、多くの場合、挫折し、転向している。でも挫折してもいい。たとえ負けても、その仕事は誰かが引き継いで戦ってくれる。あるいは、今日の問題として語りなおすことで、敗れた者も時空を超えて甦る。それがアートであることの強み」

限られた時間の中での発表で、もう少しじっくり話を聞きたいところもありましたが、いずれは書籍にまとめたいとのこと。そのときを楽しみに待ちたいと思います。
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2017/5/27

谷英美朗読公演「『顔』―沖縄戦を生き抜いた女の半生」  イベント

午後2時から、谷英美さんの朗読公演「『顔』―沖縄戦を生き抜いた女の半生」。
来場者は57人、満席の大盛況でした。

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この作品は、埼玉在住の沖縄戦体験者・新垣文子さんの話がもとになっています。
谷さんと新垣さんが出会ったのは、2010年6月。場所は丸木美術館でした。企画展「OKINAWA―つなぎとめる記憶のために」の関連企画として行われた、絵本『おきなわ島のこえ』と『ウンジュよ』の谷さんの朗読に、新垣さんが足を運んで下さったのです。
そのときも大変な盛況で、会場がとても暑かったことを覚えています。
沖縄戦によって顔に穴が開くほどの大きな傷を受けた新垣さんの話を聞き、谷さんはその体験談を朗読として語り継ぐ決意をしました。

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朗読の内容は、若き日の新垣さんの戦争体験とともに、顔の傷に苦しみながら生き続けた戦後の日々についても大きな時間を割いています。
そして、戦争で死んでいった若者たちは決して無念ではなく、「本望」だったという新垣さんの思いも語られます。なぜなら、当時は徹底的に「戦陣訓」を植えつけられていたから。今でもまだ自分の心を縛られているほど、「戦陣訓」の影響は大きかった。教育というのは本当に怖い・・・というのです。

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朗読の後、会場に来られていた新垣さんも前に出て、谷さんと対談を行いました。明るく、笑いの絶えない対談でした。
「谷さんは私になりきっている、私が泣くところで谷さんも泣く」と語る新垣さん。二人の強い信頼関係は、きっと、逆境を明るく笑い飛ばして生きるバイタリティが共通しているからなのだろうと感じました。

谷さんはこの朗読公演を、6月16日に沖縄・摩文仁の平和祈念堂で行う予定です。
ヤマトゥンチュが沖縄戦の朗読を沖縄で行うことの難しさは、私にははかり知れません。困難であるほどあきらめない谷さんだからこそ、実現にこぎつけることができたのでしょう。

今回の丸木美術館、そして沖縄での公演は、NHK国際放送局が取材し、国外向けの英語放送として放映する予定です。

この日は、谷さんと親交のあった亡きジャーナリストで画家の近田洋一さんの作品《HENOKO―家族の肖像》の複製も壁面に飾られました。2010年には、佐喜眞美術館からこの作品が丸木美術館に運ばれて企画展で展示され、谷さんは絵の前で朗読公演を行っていたのです。

そして、会場には、2015年の沖縄全戦没者追悼式で平和の詩「みるく世がやゆら」を朗読した知念捷くん(当時与勝高校3年生)と、こんにゃく座代表・音楽監督の萩京子さんも駆けつけて下さいました。

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谷さんいわく「ご縁のふきだまり」という状態だったのですが、絵を展示する場というだけでなく、こうしたさまざまな出会いがあり、次につながる「何か」が生まれる場としての丸木美術館の可能性を、あらためて考える機会になりました。
谷さん、新垣さんはじめ、ご来場いただいた皆さまに、御礼を申し上げます。
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2017/5/26

丸木俊油彩画《レニングラードホテル》寄贈  作品・資料

本日、丸木美術館に寄贈された丸木俊の油彩画小品。

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タイトル、制作年とも未詳でしたが、俊の水彩スケッチの中に、まったく同じ構図の作品がありました。

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日付は1959年7月3日、「私たちの泊まったレニングラードスカヤホテル」と記されています。

今回寄贈された油彩画は、戦中に治安維持法容疑で捕まり獄死した野呂栄太郎の未婚の妻で、戦後は医者となった塩澤富美子の旧蔵品。
その知人の知人からの寄贈なので、詳しい経緯はわかりませんが、色彩のきれいな、とても良い作品です。

この頃、俊は油彩画の厚塗りを試みはじめていました。
油彩画の正確な制作年は不明ですが、おそらく帰国後、1959年からそれほど時間が経っていない頃だと推測されます。
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2017/5/25

位里作品《ゴッホの描いた赤いやねの小屋もある》寄贈  作品・資料

湯河原在住のOさんより、1976年に丸木位里が描いた水墨彩色《ゴッホの描いた赤いやねの小屋もある》をご寄贈頂きました。

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丸木夫妻がフランスをスケッチ旅行したときの作品です。
画面上部、やや左の地平線にうっすらと赤い屋根の小屋が見えます。

かなりシミが出てしまっているので、いずれきれいに修復してから展示したいと思います。
まずはご寄贈、どうもありがとうございました。
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2017/5/24

福沢一郎記念館 福沢一郎『秩父山塊』  他館企画など

午後、世田谷の福沢一郎記念館へ行き、本間岳史さんの講演「もうひとりの福沢一郎―画集『秩父山塊』にみる科学者の眼―」を聴きました。

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福沢一郎は、丸木位里を美術文化協会に誘うなど、深い親交のあった画家です。
日本へのシュルレアリスム絵画の紹介者であり、1941年4月には治安維持法違反容疑で瀧口修造と共に検挙されています。そして7ヵ月後に放免され、1942年から1943年にかけて、精力的に両神山周辺の奥秩父へ通い、特異な地形や人びとの暮らしの風景を写生しました。

1944年には、北原白秋の弟・北原義雄が経営していたアトリエ社から、画集『秩父山塊』を刊行。ドイツ文学者の池内紀さんが、その画集をもとに、1998年に五月書房から『池内紀のちいさな図書館 福沢一郎の秩父山塊』を刊行していて、私はその本で福沢一郎の秩父への関心を知りました。

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地質学者の本間岳史さんは、埼玉県立川の博物館館長、埼玉県立自然の博物館館長を歴任されました。そのため、福沢一郎の地質学的知識を解説するには最適な方なのですが、それだけでなく、実は御父君が美術評論家の本間正義氏。学生時代に福沢絵画研究所へ通い、後に美術評論家として埼玉県立近代美術館の館長などを務められ、やはり丸木位里と親交がありました。
https://fukuzmm.wordpress.com/2016/11/20/myfukuz_004_hommat/

『秩父山塊』は、本間さんによれば、地形や地質現象、地層名、年代などに関する記述は、高度な地質学的知識を示しているとのこと。
日ごろ熱心に上野の国立科学博物館に通い、専門的な論文を読んで身につけたようです。
現地踏査に当たっても、事前に仮説を立てて現地で確認するという科学的態度が見られ、自然科学者としての確かな目を持っていたことが読み取れるそうです。

「和銅呈瑞の地」(実際はほとんど銅が採れなかったらしい)や、平賀源内の「火浣布」(源内はその原料を両神山から採取したと書いているが、地質学的には誤りとのこと)、福沢が泊まった寿旅館(現小鹿野町観光交流館)に、近年、盛岡高等農林学校時代の宮沢賢治も宿泊していた資料が見つかったことなどの話が、個人的には面白かったです。

また、福沢が特に白亜紀や恐竜に関心があったという話には、親近感が湧きました。『秩父山塊』にも、ティラノサウルスとステゴザウルスの攻防を「今日の戦車戦」に見立てる記述があり、興味深かったです。こうした関心も、絵画制作に大いに生かされていたことでしょう。
講演の情報を教えて下さった学芸員のIさん、どうもありがとうございました。
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2017/5/21

『朝日新聞』埼玉版に《大逆事件》紹介  掲載雑誌・新聞

「権力」問い丸木夫妻の「大逆事件」6年ぶり公開
 ―2017年5月21日付『朝日新聞』埼玉版

『朝日新聞』埼玉版に、特別展示の《大逆事件》が全体画像とともに紹介されました。
取材は西堀岳路記者です。

WEBサイトで記事全文をご覧いただけます(会員登録が必要)。
http://www.asahi.com/articles/ASK5L5SV5K5LUTNB01G.html

以下、記事から一部抜粋。

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 丸木夫妻は1989年、「前々から何とか描かねばならぬと思っていた」と「大逆事件」を制作した。縦約1・8メートル、横約7・2メートル。死刑になった12人の肖像それぞれの背後に絞首刑用のロープの輪が描かれ、一人ひとりの絶命時間と享年が記入されている。位里は絵を発表した際、「大逆事件だけは今日の問題として一遍も二遍も登場してもらって、皆さんと考えてゆこうではありませんか」と訴えた。

学芸員の岡村幸宣さん(42)は「社会の不平等や不合理に声を上げた人たちを権力者が抹殺した事件であり、描かれている不気味さ、怖さを記憶することが大切」と話している。


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西堀記者、どうもありがとうございました。
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2017/5/20

本橋成一さん映画上映+ベラルーシ再訪報告  イベント

原爆文学研究会との共催で、本橋成一さん監督の映画『ナージャの村』(1997年)と、映像報告「ベラルーシ再訪2017」+アフタートークを開催しました。

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『ナージャの村』は、チェルノブイリ原発事故で汚染されたベラルーシの小村ドゥジチに暮らす人びとの慎ましい生活を、四季折々の美しい映像とともに淡々と記録した作品。
主人公の少女ナージャの近所に住む初老の男ニコライが、セルゲイ・エセーニンの詩の一節「天国はいらない、故郷が欲しい」と暗唱するシーンが印象に残ります。
この映画を観るのはおそらく8年ぶりで、本当に久しぶりでした。「3.11」後の視線から見ると、どうしても福島の現状が重なってしまい、複雑な思いが湧いてきます。

「ベラルーシ再訪」映像は、『ナージャの村』のドゥジチ村や、やはり本橋さん監督の映画『アレクセイと泉』(2002年)の舞台であるブジシチェ村などを今年の春に本橋さんが訪れて撮影した最新報告。
人の手を丹念にかける暮らしを営んでいた村が、人影も見えず、荒れ果てて廃村寸前であるという現実に、「復興」の困難さを思い知りました。

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アフタートークの聞き手は、原爆文学研究会会員の柿木伸之さん(広島市立大学)。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの記録文学『チェルノブイリの祈り』を参照しつつ、歴史の記録には残らない人間関係の中から聞こえる声にいかに共感できるか、と指摘しながら、映画に対する本橋さんの思いを丁寧に引き出して下さいました。

   *   *   *

そして原爆文学研究会の醍醐味は、予定調和的でない活発な質疑応答による議論の展開です。
残念ながら今回は、あまり質疑の時間がとれなかったものの、それでも真っ先に手を挙げた詩人のTさんは「美しすぎるほどの映像に、この村は実は汚染されていないのではないかと、誤って見たくなる誘惑に駆られる」といつもながら鋭く問題提起。
本橋さんは「美しいからこそ怖ろしい。その現実は映像の中に写り込んでいる」と答えましたが、東松山駅近くの焼きとり店に場所を移した懇親会の席でも、この話題は続きました。

「3.11」を体験してしまった現在は、現地の人が口にするキノコやウオツカなどの安全性の問題が気になるし、去る者と残る者が存在する村の人間関係が複雑に分断されることも容易に想像できる。そのあたりをどう考えるか。『ナージャの村』は、後日談の「ベラルーシ再訪」映像とともに観るべきなのではないか……。

残念ながら本橋さんは都合により懇親会は欠席だったので、代わって、というわけではありませんが、90年代にはチェルノブイリ原発事故による健康被害の報道写真にも注目が集まり、本橋さんの映像が「美しすぎる」という議論は当時もあったこと、本橋さんの写真家としての出発点は筑豊の炭鉱であり、坑夫たちとともに生活してその現実を記録した上野英信の影響が大きいことなどの情報を紹介しました。

原爆文学研究会は九州の関係者や1950年代記録文学を専門とされる方が多いので、炭坑へのまなざしとチェルノブイリ原発事故をつなげながら、本橋さんに話を聞く機会があってもよかったのかもしれません。

「本橋さんの関心は故郷の喪失のようだが、それほど故郷は大事だろうか」という問題提起もありました。
ううむ、なるほど、人は、どこにいても生きていける……と思う一方で、九州の山間部出身の若い研究者が、「批判的に見なくてはいけないと思いつつ、映画に登場する老婆の姿が自分の故郷の祖母にそっくりで、恥ずかしながら心を動かされた」と打ち明けてくれたことに、はっとさせられたりもしました。

当初は原発事故の実態を撮るためにベラルーシを訪れたという本橋さんですが、そこで見出したものは、炭鉱や魚河岸、屠場、旅芸人の一座など、本橋さんが一貫して関心を寄せ続けている、(消えゆくかもしれない)ささやかな「共同体」の在り方だったのかもしれません。
その問題意識には、自由学園や共働学舎、あるいは上野英信の筑豊文庫と関わってきた本橋さん自身の人生が反映されているようにも思います。

「共同体」と言うと、思想性が前に出てきてしまうようですが、本橋さんの場合は、地縁も含めたゆるやかな存在。
昨年IZU PHOTO MUSEUMで開催された個展の題名「在り処」が、「故郷」でも「共同体」でもない絶妙なニュアンスを表現していて、とても感心したことを思い出します。

1980年代に本橋さんが丸木美術館に通っていたのも、丸木夫妻への関心だけでなく、二人のまわりに成立していた「共同体」のような人間関係が、本橋さんの関心につながっていたのかもしれないと、思い当たりました。

本橋さんの一連の写真や映像作品は、センチメンタルなノスタルジーと紙一重かもしれませんが、社会から虐げられ、あるいは少数派の立場として、忘れ去られそうになりながら肩を寄せ合って生きる人たちにも「幸福な物語」が確かにあるのだと伝え、記憶するという点で、重要な意味を持つように思います。

今回、沖縄から来られた研究者のMさんが、「ベラルーシ再訪映像の中で、『あなたの送ってくれた写真集を何度も見ている』とナージャのお母さんが語る場面があった。村が失われていく中で、本橋さんの仕事は、現地の人たちの心の支えになっていたのではないか」と最後に話していたことが、心に強く残りました。
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2017/5/19

『週刊金曜日』小室等さんコラムに《原爆の図》紹介  掲載雑誌・新聞

『週刊金曜日』2017年5月19日(1136号)の小室等さんのコラム「なまくらのれん」のテーマは「「原爆の図」と僕」でした。

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5月5日の開館記念日に丸木美術館を訪れたことを書いて下さっています。

以下は、一部の抜粋です。

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・・・おふたりが描かれた目をそむけたくなる光景の、久しぶりの「原爆の図」は、同時にすごく美しくもあった。愛などという言葉を安直に使うことを避けたいと思っているけれど、おふたりの描かれた「原爆の図」は愛に溢れていた。

 あの日、広島、長崎で起きたことを持ち運ぶことはできないけれど、「原爆の図」は持ち運びが、たやすいことではないが可能だ。持ち運び可能な広島、長崎をおふたりは芸術作品として残してくださった。完成される新館で大切に収蔵していただき、ときどき、日本の優れた運搬技術で世界へも訪れ、その悲惨と美と愛を、とくに子どもたちに見てもらえたらどんなにいいだろう。そして、世界の要人たちにも見せたい。駆け付け警護より、百万倍も平和のためになる。


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小室さん、どうもありがとうございました。
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2017/5/17

『毎日新聞』夕刊に原爆の図保存寄金記事掲載  掲載雑誌・新聞

丸木美術館開館50年 先の50年も市民の手で 新施設建設に寄付呼びかけ
 ―2017年5月17日付『毎日新聞』夕刊

毎日新聞夕刊文化欄に、開館50年と原爆の図保存寄金についての記事が掲載されました。
取材は高橋咲子記者。
WEBサイトから記事全文をご覧いただけます。

https://mainichi.jp/articles/20170517/dde/018/040/017000c

以下に、記事の一部を抜粋します。高橋記者、どうもありがとうございました。

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 当初は建て替え案もあったが、同館と付き合いが深い神奈川県立近代美術館の水沢勉館長の意見を取り入れ、美術館そのものにも歴史が宿ると考えるに至った。水沢館長には、坂倉準三が設計し、日本初の公立近代美術館として知られた同館鎌倉館がやむなく閉館した経験があり、「丸木夫妻が生きた記憶を含め残すべきだ」とアドバイスしたという。

 併せて、関連資料を整理・保存するアーカイブを整備し、作品受容の歴史や制作背景などの資料を残す。引き続き、電力は太陽光でまかなう。

 同館は行政や大企業の支援を受けていないという特徴を持つ。入館料や友の会の会費などで支えられており、実際の運営にもボランティアが大きく関わっているという。作品の成り立ちも、そもそも、被爆者らから聞き取った体験を基にした市井の人々との「共同制作」だった。岡村学芸員は「『私立』というより『民立』でやってきた50年だった。この先の50年も市民の手で歴史をつなぎたい」と話す。


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2017/5/17

ワタリウム美術館「坂本龍一展」/ちひろ美術館・東京40周年展  他館企画など

都内に出て、まずはワタリウム美術館の「坂本龍一|設置音楽展」へ。
音楽を美術館でどう見せるのか、と興味がありましたが、狭い空間が縦に伸びているワタリウム美術館の特徴をうまく生かした展示で、音と映像の組み合わせが効果的でした。
観客の世代も幅広く、かつ国際的で、さすがは世界を舞台に活躍する表現者です。

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続いて、ちひろ美術館・東京へ行き、開館40周年記念企画展「奈良美智がつくる茂田井武展」「高畑勲がつくるちひろ展」のオープニング・レセプションに出席。
どちらも、作家の視線から作品を見せる、という点で、とても興味深い企画でした。

アニメ映画『火垂るの墓』制作時に、ちひろの絵本『戦火のなかの子どもたち』を繰り返し読み、スタッフにも読ませたという高畑監督。
自身の戦争体験と重なるために特に思い入れの強い「焼け跡の姉弟」の一点だけを、黒壁の狭い空間に拡大して配置した大胆な展示は、まるで映画だ、と思いました。ちひろの絵が『かぐや姫の物語』のワンシーンのように見えました。展示によって絵がまったく違って見える、凄い例です。

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そして、「一本の線に責任を持って」人体を描き、墨の表現では大胆な実験を見せるちひろの絵には、やはり丸木夫妻の両方の絵が流れ込んでいる、とあらためて思いました。

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残念ながら高畑監督は急に都合がつかなくなったそうで、レセプションは欠席。
奈良美智さんおひとりで記者会見を行い、その後、松本猛さんら美術館スタッフの計らいで、個人的に奈良さんにご挨拶する機会を頂きました。直接お会いするのは初めてでしたが、本橋成一さんの写真集『位里と俊』にご寄稿頂くなど、これまでにもお世話になっていたのです。

今回は、茂田井武の絵をすべて見られるなら、と企画を承諾されたとのこと。自分が好きな絵をすべてならべた、もうどれも代えられない、とのことで、壁面だけでなく、スケッチ帖や子どもの絵まで、小さな空間に茂田井ワールドを凝縮した濃厚な展示になっていました。
茂田井作品は撮影不可ですが、ちひろ作品(複製)だけは撮影可能とのことで、写真はちひろ展のみアップしています。
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2017/5/16

特別公開《大逆事件》  特別企画

特別公開《大逆事件》のお知らせです。

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1911年1月18日、明治天皇暗殺謀議があったという理由で、幸徳秋水ら24名に死刑判決が下されました。いわゆる「大逆事件」あるいは「幸徳事件」と呼ばれるこの事件は、1週間後の1月24日に幸徳秋水、大石誠之助、内山愚童ら11名、翌25日に管野スガが処刑されるという、当時としても異例の早さで幕が下ろされました。

丸木夫妻は1989年に、足尾鉱毒事件の連作とともに、「前々から何とか描かねばならぬと思っていた」《大逆事件》を共同制作で描いています。幸徳秋水は名文家として知られ、足尾鉱毒問題を田中正造が明治天皇に直訴した際には、その直訴状を起草しました。《大逆事件》が《足尾鉱毒の図》に関連して描かれたことには、こうした連想もあったようです。

丸木位里は、『丸木美術館ニュース』(第31号、1989年3月)に、次のように記しています。

 たいしたことでもなかったのに、大げさに云い考えてやった事件であるということは、その後色々なものに書かれ、云われている事です。今はかなりのことを云っても考えても、それでどうこうということはありません。それだけ多くの人が色々な事を考え、云っています。それだけ人民が力を持ったということです。とにかくこの作品については、どういうふうに見てもらえるか全然わかりませんが、この幸徳秋水の大逆事件だけは今日の問題として一遍も二遍も登場してもらって、皆さんと考えてゆこうではありませんか。

多くの問題を抱える「共謀罪」法案の審議が強引に進められる現在、社会の不平等や不合理に気づいて声をあげた人びとを権力者たちが抹殺した歴史の原点に立ち返るため、本日より《大逆事件》の絵画を6年ぶりに特別公開しました。公開期間は7月末までを予定しています。
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2017/5/15

武蔵野美術大学「《原爆の図》という絵画実験」  講演・発表

武蔵野美術大学日本画科研究室で、課外講座「《原爆の図》という絵画実験」を行いました。

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課外講座の前には、内田あぐり先生の案内で、4年生の授業で挨拶をしたり、大学院生の制作の現場を見てまわったり、まあ、私に何が言えるわけでもないのですが、若い学生たちの創作のエネルギーを久しぶりに感じて、楽しい時間になりました。

課外講座では、《原爆の図》以前の丸木位里・赤松俊子の個々の作品を簡単に紹介してから、1953年の映画『原爆の図』と1986年の映画『劫火』の中の共同制作の映像を見てもらい、異なる画家同士が互いの表現をぶつけあう共同制作の実験性について考え、全国巡回展など《原爆の図》がその後にたどっていく道のりにも触れました。

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(撮影:後藤秀聖さん)

膠の研究をしている内田先生と後藤秀聖さんの関心もあり、今回は、丸木夫妻が使った画材について、俊の姪で養子となった丸木ひさ子さんの協力を得て調査した内容を発表しました。

現存する画材は丸木夫妻が晩年に使っていたものですが、それでも《原爆の図》について考える上で、手がかりになりそうです。

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まずは妻屋の鹿膠。
膠は絵具を画面に定着させるための定着剤として使われます。丸木夫妻はこの鹿膠を愛用していたようで、使いかけのものや封が開いていないものなど、袋がいくつも残っていました。このほか、ゼラチンパウダーなども併用して使っていたようです。

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続いてミョウバン。
紙の滲み止めなどに使用する礬水(どうさ)は、膠とミョウバンを混合した水溶液で、こちらも丸木夫妻の制作には欠かせないものでした。袋を見ると、地元・東松山の工業団地で製造されたものを入手していたようです。

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こちらは中国製の墨。
1970年5月5日の日付で「中國プロレタリア文化大革命勃発以前に製造された現代墨(徽州胡開文製)ですが再入手できません」とのメモもありました。
丸木夫妻は中国と深い交流があり、紙と墨は中国から取り寄せることが多かったと聞いていますが、もう少しじっくり調べてみたいところです。

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クサカベのピグメント(顔料)もありました。
ヴァーミリオンをはじめ、プルシャンブルー、カドレットオレンジ、ウルトラマリンライト、カドイエローミドルなどと記された袋が残っています。ひさ子さんによれば、この絵具はよく使っていたそうです。《原爆の図》の彩色もおそらくこれでしょう。

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それから、ナカガワの水干絵具。
こちらはそれほど使っていなかったようですが、内田先生によれば、どちらも一般的なもので、決して高価な絵具ではないそうです。

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このほか、朱墨液も残されていましたが、ひさ子さんによれば、朱墨を使うことは多かった、とのこと。炎の色が何種類か見られるのは、朱墨とピグメントのヴァーミリオンを使い分けていたのでしょうか。

講義の後は、先生や学生たちとともに鷹の台駅前の居酒屋で打ち上げ。
高校生の頃に「日本画の前衛」展を観て影響を受けた、という広島出身の大学院生もいて、何だか嬉しくなりました。
日本画科の内田先生、西田俊英先生、そして後藤さんはじめ、お世話になった皆さま、どうもありがとうございました。
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2017/5/13

『日本経済新聞』 交友抄  掲載雑誌・新聞

【交友抄】芸術の先端で 新井卓
 ―2017年5月13日付『日本経済新聞』

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写真家・新井卓さんが、書いて下さいました。
「学芸員はガン」発言へのカウンターでもあるそうです。

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 美術館ただ一人の学芸員・岡村幸宣さんに出会ったのは2010年、初めて館を訪れた時のことだった。翌年、震災後の福島で制作した私の作品を見て、すぐに企画展を計画してくれた。彼はこれまで、限られた資金と人員をやりくりしながら、Chim↑Pomや風間サチコ、安藤栄作といった、現在注目される美術家たちの作品を、他館に先んじて紹介してきた。野球少年だったという岡村さんは、物静かな佇まいの奥に、底知れない情熱と意志を秘めた人物である。
 丸木美術館を訪れるたび、芸術とはそもそも何のためにあったのか、そう問われる気がして自然に背筋が伸びる。表現の先端を拓き、時代の精神とわたしたちの日常をつなぐ美術館という場所には、いつも優れた学芸員がいる。


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記事全文はこちらのWEBサイトから。会員登録が必要です。
http://www.nikkei.com/article/DGKKZO16290270S7A510C1BC8000/
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2017/5/13

豊田直巳映画『奪われた村』上映会  イベント

午後から、豊田直巳さんの映画『奪われた村 避難5年目の飯館村民』の上映会と、監督トークが行われました。

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あいにくの強い雨でしたが、参加者は33人。ご来場くださった皆さま、ありがとうございました。

福島第一原発事故後、5年の歳月が経過した中で、飯館村の村民たちがどのような生活を過ごしてきたのか。豊田さんの映像は、ひたすら当事者たちの言葉を伝え、村という生活の拠点、故郷を奪われた苦しみが、観る者に重く響きます。

印象に残ったのは、トークの後、会場からの被ばくの人的被害についての質問に対し、「わかりません」ときっぱり答える豊田さんの姿でした。
被害を科学的に実証できるわけではない。公表されていないデータも多い。とはいえ、もちろん、被害がないと言いきれるはずがない。自分の発言の責任の重さを思うと、軽々しく「被ばくの影響」を語ることはできない。

慎重に、わからないことは率直に「わからない」と伝えながら、こういうことが起きている、こういう思いを抱えている人がいる、と現実を追いかけ、伝え続けていく姿勢は、とても信頼できるように思えました。

原発事故後、いち早く福島に駆けつけて以来、丹念に取材を重ね続けている豊田さんの今後の報告に、大いに注目していきたいところです。
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