2017/1/16

熊谷守一宛赤松俊子書簡資料  作品・資料

愛知県美術館のI学芸員から、岐阜県歴史資料館が所蔵している熊谷守一書簡資料の中に、赤松俊子(丸木俊)から熊谷宛の1940年代の書簡があるという貴重な情報を頂きました。
以下、その4通の葉書・書簡を書き起こします。

最初の書簡は、1940年に俊が単身旅行した「南洋群島」からの葉書。

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熊谷守一先生宛葉書
昭和15年2月2日消印
南洋ヤップ島コロニー南拓吉田方
赤松俊子

先生。奥様は如何ですか。
こゝは汗を流し。眞黒になつて
描いてゐます。人間はみんな南に
発生して、動いてゐるうちにもゝ色の
や、黄色のや黒いのが、その土地、土地
で出来上ったのだらうと考へてよろ
こんでゐます。不便ですから遠い遠い
所だと思つてゐます。虫がないてゐます。


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住所が「ヤップ島」とありますが、2月にはまだパラオ諸島にいたのではないかという疑問はあります。
「南拓」とは南洋拓殖株式会社の略で、大日本帝国の南洋進出のための国策会社。本社はパラオ諸島コロール島にあり、燐鉱探掘や海運、拓殖・移民事業への支援を行っていました。

2通目は3月3日の消印で、こちらは「パラオ島」から。
「かやちゃん」とあるのは、現在、豊島区立熊谷守一美術館を守っている娘さんの熊谷榧さんですね。

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熊谷守一先生・奥様、かやちゃん・まんちゃん・ぼーっちゃん宛葉書
昭和15年3月3日消印
パラオ島 赤松俊子

よく先生のおうちのことを思い出します。
この間は七十とん位の船で小さな島に行きまし
た。荒海をサンブサンブと走りました。デツキで勇
ましい人のやうに唄ってゐましたが、大波にザブリと
顔を洗はれてしまひ、すっかりしよげて船室に入り
ました。そしたらすつかり船よひをして赤公は蒼白
になりました。まはりを一丈近い白波にかこまれた小さな
島に、島民(土人のことを言います)も日本人も一しよになつ
一つぱい住んでゐました。地球といふところは誠に、人の住
むべく出来た所よと感たんいたしました。描くより遊ぶ
方が多い毎日で、孤独といふことや放浪といふことなど考へてゐます。


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3通目は、翌1941年、丸木位里と結婚して広島・三滝町の位里の実家に挨拶に行ったときの書簡。

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熊谷守一先生宛書簡
昭和16年8月21日消印
広島市三瀧町
丸木位里内
赤松俊子

(前欠)
何かをと考へてゐましたが、これがこちらの
名物ださうです。
大根おろしに醤油かけて召上つて下さい。(ほかに
どんな調理法があるか私はよくしりませんが。)

暑いけれどもカラリとした夏です。こゝは乾燥
してゐるからかと思います。

今年は日本画の材料で描きました。おかしいで
せうか。御批評下さいませ。持って東京へ
行くの止めました。あんまり家中が大さわぎて手
傳つて横着よめさんごはんたきもしなかつたので気
がひけるので。

田舎にでもこんなやさしい人はないだらうと思ふ程両親
はやさしい人です。びっくりしてゐます。
けんくわ腰で生きてゐた私は、こんどは腰ぬけ武士
みたいになるかと思っておかしがつてゐます。ヒョウシヌケ
のやうですから。
これでもまだ強情っぱりでそんなゑを描いて行ったら、よ
つぽどのガンコ者だと思ってゐます。
 赤松俊子
熊谷先生
奥様
オムコサンの位里は、先生の所へ伺ったことよろこんで時々先生がして下さった話しを
言ひ合つてゐます。


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前半部分が欠落しているので、話が途中からになっているのですが、「大根おろしに醤油をかけて」食べる「名物」というのが気になります。
「今年は日本画の材料で描きました」とあるのは、《アンガウル島へ向かう》《休み場》《踊り場》というこの時期に手がけた実験的な南洋の三部作を指すのでしょう。
位里の影響を受けたと思われる墨の滲みやかすれを生かした、後の《原爆の図》の前触れとも思える作品ですが、先日来館された画家・研究者のGさんによれば、「この時期の熊谷も日本画作品を手がけていて、油絵具が入手しにくくなっていた時期に洋画家が日本画素材を使うようになっていたかもしれない」とのこと。
こうした時代背景の検証も必要なようです。

最後は、やはり広島からの葉書。
書きかけて中途でそのままになっていたものを、あらためて加筆して出したもののようです。

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熊谷守一先生宛葉書
昭和16年8月28日消印
廣島市三瀧町
丸木位里方
赤松俊子

暑うございます。
御げんきでゐらつしやいますか。
私は
こちらへ参りました、こちらでゑを
作らうと考へてゐります。
今日は山へ行つて瀧を浴びてきました。

コレハヅツトマヘニカイテソレナリニナツテヰタハガキデシタ、先生から
のおたよりをとてもよろこびました。


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俊が熊谷守一を師として慕っていたことが伝わってくる、貴重な書簡資料。
2012年に一宮市三岸節子記念美術館で開催された「生誕100年 丸木俊展」では、南洋の三部作がそろって公開されていたので、こうした書簡も紹介できれば良かったのですが、資料の存在を知らなかったことが返す返すも残念です。
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