2016/12/28

『中国新聞』に富山妙子展紹介  掲載雑誌・新聞

未来への伝言 95歳の筆 富山妙子さん特別展示
 ―2016年12月28日付『中国新聞』
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=67968

中国新聞社文化部森田裕美記者の記事。
先日、峠三吉100周年企画記事のために来館されたのですが、「憧れの人」という富山さんの特別展示も紹介して下さいました。
以下、記事からの抜粋です。

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「富山妙子 終わりの始まり 始まりの終わり」展。出品は30点と小規模ながら、「芸術とは何か、何のために描くのか」と自問を重ねてきた画家の、未来への伝言のような空間になっている。

 神戸市に生まれ、少女時代を旧満州(中国東北部)で送った。本展のために制作した「始まりの風景」は、赤く染まる広大な大地。「私にとって旧満州の風景は、戦争の始まりであり、私の人生の始まり」と話す。

 その行き着いた先にある現在。同じく新作の「終わりの風景 崩れゆくもの」=写真=も赤が鮮烈だが、奥には深い闇が広がっていて、暗く重苦しい。経済大国へ突き進んだ社会の末路を表したといい、遠景のきのこ雲や崩壊した建物が、中央に配した異様な塊への想像をかき立てる。

 福島第1原発後に描いた「フクシマ―春、セシウム137」なども出展。富山さんは「ひとたび戦争をすると、苦しみは世代や世紀を超えても癒えない。原発事故も同じ」と語った。


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富山妙子さんの特別展示は1月14日までです。
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2016/12/26

『琉球新報』連載「落ち穂」最終回 「命」の絵画  執筆原稿

2016年12月26日付『琉球新報』連載「落ち穂」最終回 「命」の絵画

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14回にわたった連載コラムもこれで終了です。ご愛読ありがとうございました。
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2016/12/24

第51回原爆文学研究会/坂口博『校書掃塵』  調査・旅行・出張

クリスマス・イヴにもかかわらず、神戸センタープラザで開催された第51回原爆文学研究会に参加。いつものように濃密な内容で、6時間半にわたって白熱した発表・質疑が続きました。

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研究発表1 林京子:核と帝国と日本人娼婦 山崎信子(リーハイ大学・アメリカ)
研究発表2 音楽における原爆の表象──原爆詩の扱いとその変遷に着目して── 能登原由美(「ヒロシマと音楽」委員会委員長)
研究発表3 台湾現代文学における「核」の表象 李文茹(淡江大学・台湾)
原爆文学「古典」再読4──峠三吉『原爆詩集』 発題者:川口隆行(広島大学)/野坂昭雄(山口大学)


山崎さんの発表は、林京子の作品に登場する日本人娼婦(具体的には『黄砂』の「お清さん」)に焦点を当てながら、上海租界の日本人コミュニティから「国辱もの」と阻害される彼女に対する作者の共感を、「3.11」後の脱原発行動に結びつけて考える内容でした。

能登原さんの発表は、原爆音楽に取り上げられた被爆詩人による原爆詩を分析するもの。詩を中心に見ていくので、音楽といっても合唱曲が中心になります。
もっとも多く取り上げられていた詩人は峠三吉(25作品35曲)で、『原爆詩集』の「序」つまり「にんげんをかえせ」の知名度とインパクトは大きいのですが、その多くは50〜60年代で、2000年代以後は1曲も作られていないとのこと。
逆に2位の原民喜(23作品24曲)は、60年代まではほとんど取り上げられていなかったものの、70年代以後に増え続け、2000年代にも林光の「原爆小景完結編」(2001年)や信長貴富の「無伴奏混声合唱のために「廃墟から」より」などの曲が生まれています。
ちなみに3位は栗原貞子(20作品25曲)で「生ましめんかな」「ヒロシマというとき」といった特定の曲が多く取り上げられ、以下、米田栄作(13作品30曲)、橋爪文(9作品14曲)、大平(山田)数子(8作品15曲)と続いていきます。

もっとも多く取り上げられた詩篇は峠三吉『原爆詩集』より「序」の12作品ということですが(2位は原民喜『原爆小景』より「永遠のみどり」8作品、3位大平(山田)数子「慟哭」7作品、4位原民喜『原爆小景』より「コレガ人間ナノデス」と峠三吉『原爆詩集』より「八月六日」ともに5作品)、その中に、岡田和夫の「峠三吉の詩による混声合唱のための主題と変奏」(1959年)が入っていることが目に留まりました。
岡田は1967年に宮島義勇が監督となり製作された映画『原爆の圖』(映画『原爆の圖』製作委員会)で音楽を担当し、クライマックスのシーンで「ちちをかえせ ははをかえせ」の混声合唱が歌われているのです。
映画のために作られた合唱曲かと漠然と考えていましたが、同一の曲であれば1959年にすでに作られていた曲を映画で使用したということになります。能登原さんに確認したところ、岡田はまだ存命で活躍中とのこと。機会があれば、ぜひ一度当時のお話を伺いたいところです。

李さんの発表は、原爆投下が植民地支配からの解放を意味する歴史的シンボルである台湾における「核」の表象について。
中国の核保有や原爆の被害についての報道がほとんどない中、1980年代に「抑圧されている人びと」、原発労働者や少数民族の電力会社に対する抗議運動を紹介した雑誌『人間』には、日本の原発報道の草分け的存在である樋口健二の写真が多く使われていたそうです。
この雑誌は反政府(つまり反国民党、親中国)的な立場の雑誌で、公害問題や社会問題を追及することで国民党政府を批判し、中国本土の日本に対する戦争責任への追及や反帝国主義の動きと連動しているという指摘も興味深く聞きました。

峠三吉『原爆詩集』の再読では、岩波文庫版に収められたアーサー・ビナードの解説で、「朝」で繰り返される「ゆめみる」のフレーズについて「一種の諷刺性にも聞こえる気がする」と述べている個所に、「当時の峠は米国の“原子力の平和利用”とは関係なく、ソビエトの綱領に即して“ゆめ”見ていたのでは?」という批判と、「それでもなお、3.11後の私たちには、その読み替えが意味を持つ」という意見がたたかわれたのがスリリングで印象的でした。
作品が作られた当時の社会の文脈を解読しつつ、今の時代にどう読み直し、意味を見出していくのか。その問題は、丸木夫妻の《原爆の図》にもつながっていくことでしょう。

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今回の研究会に参加した目的のひとつは、原爆文学研究会創設以来、会の中心となって活動をしてこられた坂口博さん(火野葦平資料館館長)の『校書掃塵 ―坂口博の仕事T―』(花書院)を入手することでした。
坂口さんが長年書き重ねてこられた、火野葦平や「サークル村」などに関する論考50本と、書誌篇の22誌の総目次解題をまとめた600頁を超える著作です。

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坂口さんには、2009年に初めて原爆文学研究会に参加したときから、たびたび貴重な情報やアドヴァイスを頂いてきました。とはいえ、これまで坂口さんがどのような仕事をされてきたのか、私はほとんど知らなかったのです。
これだけのヴォリュームになると、すべての文章に目を通すのもたいへんですが、興味を惹かれた部分を拾い読みしていくと、筑豊の地に根を下ろして、地を這うように文学の原点を掘り進めてきた坂口さんの姿が少しずつ見えてくるような気がします。

あとがきに書かれた次の一節は、坂口さんの著書、そして原爆文学研究会の空気を象徴しているように思いました。

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 第1部から第6部まで、長短五十本の論考を集めたが、その大半を火野葦平関連が占めることとなった。この傾向は、その後も続いているが、ほかのパートに関しても、やり残している課題はまだ多い。また、ここ十数年は自らの嗜好による仕事よりも、依頼されたものが多く、もともと取り組みたい問題に向かう余裕がなかった。もちろん、さまざまな関係性のなかで、多くは数人の協働作業による仕事は、それはそれで新たな知見を得る、いい機会となっている。二十代、三十代をほとんど孤独に進み、そのまま進むことを想定していた私にとって、考えられない事態である。

 そうしたなかで、私の文学に対する考えも、次第に変容したに違いない。

 個人的営為としての文学表現から、集団創造への力点の移動はもとより、文化運動・文学活動における「下から」の方向性は、けっして譲れないものとなっている。文学に限らない現在の閉塞状況を打ち破るためにも、その裾野からの拡がりに期待したい。トップダウンではなく、ボトムアップ方式こそが、新たな地平を拓く。

 そのような意図を強めながら、これらの仕事を進めてきたのだった。著名な詩人・小説家といった表現者を産み出す背後に、数多くの〈無名〉の表現者がいる。彼/彼女らを視野に入れてこそ、ひとりの表現者の世界も見えてくる。そして、この作業に終わりはない。ただ、本書でもって、その方向性だけは指し示すことができただろう。第7部書誌篇(ここの内容については、その扉裏に説明している)の人名索引には、千名を超える名前が並ぶ。その全員の来歴を明らかにしたいという、私の欲望は消えない。現実には、その二割もわかっていないに違いない。


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著名な表現者を生み出す背後に、数多くの〈無名〉の表現者がいる――その言葉は、《原爆の図》を手がかりにして、未知の1950年代の人びとの姿を追い続けてきた自分には、実感を持って響くものでした。

《原爆の図》全国巡回展の動向を調べはじめたばかりの頃、丸木美術館の関係者も含めてほとんど反響がなく、「孤独」のままに調査を進めていた私にとって、原爆文学研究会との出会いは、(褒められるにせよ、厳しい意見を頂くにせよ)初めてきちんと仕事に向き合ってくれる人たちとの出会いでもあったのです。
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2016/12/21

『思想運動』にタトリンの記事執筆  執筆原稿

機関誌『思想運動』12月15日号の、ロシア革命100周年記念連載「革命の芸術と芸術の革命」欄に、ウラジーミル・タトリンの記事を書きました。

ロシア・アヴァンギャルド関連の展覧会は、これまで何度か観に行ってはいるものの、まったくの専門外なので、「タトリンなんて、大学の授業で習った程度ですから、無理ですよ!」と断ったのですが・・・結局、断り切れず、慌てて本を読んだりしながら、何とか原稿を書き上げました。

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とりあえず概要に徹したつもりの記事ではあるのですが、編集部の方からは「あらためて岡村さんの文章から生まれるタトリンは、わたしたちに新しい芸術の可能性を示していると,わたしには思われます。かつてのタトリンをはじめとする芸術のアヴァンギャルドたちが、歴史の門口に立って新たな芸術を生んだように、現在を歴史の門口と自覚した新しい人々が、芸術を刷新するのだという思いがします」という感想メールを届いたので、一応の役目を果たした、と思うことにしましょう。

まあ、「芸術を刷新」するほどの野心的な記事ではないつもりなのですが、ともあれ、この件につきましては、書き逃げごめん、ということで。
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2016/12/20

坂戸高校にて講演会  講演・発表

今日は午前中に県立坂戸高校で講演会「《原爆の図》から見つめる現在・未来」。
東上線沿線の学校に呼んで頂くことが、ここ数年で本当に増えてきました。

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教頭先生が最寄り駅まで車で迎えに来て下さって、書家の先生が垂れ幕を書き、放送部員がDVDの映写を手際よく担ってくれて、生徒たちは体育館に1000脚を超える椅子を並べ、事前学習の行き届いた全校生徒が静かに話を聞いてくれるという(まあ、滅多にないような)恵まれた講演会でした。
最後は生徒会長(女子)の御礼の挨拶があり、副会長(男子)から花束も贈呈されました。

校長先生が丸木美術館のすぐ近くで生まれ育って、50年前に都幾川で遊びまくっていたという方だったので(実家は今も丸木美術館カレンダーを使ってくださっているとのこと)、そうした思い入れも影響しているのでしょうか。
ともあれ、地元の若者に丸木美術館を知ってもらえる機会はありがたいことです。

午後は東中野のポレポレタイムス社にて、丸木美術館開館50周年記念展に向けての打ち合わせ。
こちらの方も、少しずつ準備が進んでいます。
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2016/12/19

研究・資料室  その他

子どもたちが大きくなってきたので、ここ10日ほど小さな借家の中を抜本的に片づけて、当面必要なさそうな本や雑誌も大量に処分しました。
これまで本の置き場になっていた3階の屋根裏は息子の個室に、2階の洋室の机は娘が使うことになって、私は「難民」状態に(とはいえ、一番家にいない人が一番場所をとるわけにはいきません)。

それでも、いろいろな方から貴重な原爆・戦争関連書籍のコレクションを頂いたり、美術関係の図録や書籍を頂くなど、資料は増え続ける一方なので、思い切って美術館の2階の一室を整理して、研究・資料室として使わせてもらうことにしました。

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この日は休館日でしたが、たまたま仕事が休みだった妻に手伝ってもらって、一日がかりで床材の張り替えと新しい机・椅子の組み立て、棚の掃除と整理。部屋は別空間のようになりました。

もちろん、これまで通り1階の事務室には机を残しているので、通常業務は事務室で行いますが、集中したい原稿書きや調べもののときは2階で仕事をすることになります。応接室も兼ねているので、取材や来訪された方とお話しするのも、これからは2階が多くなるでしょう。
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2016/12/17

ディスカッション「核×戦争のアートアクティビズム」  イベント

午後1時より小高文庫にて、「今日の反核反戦展」の企画としてディスカッション「核×戦争のアートアクティビズム」が開催されました。

企画はA3BC:反戦・反核・版画コレクティブの一員で、アートアクティヴィズム研究者の狩野愛さん。
ゲスト出演者には批評家の小倉利丸さんが来て下さって、岡村を交えて3人で発表を行いました。

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岡村の発表はアート・アクティヴィズムの先駆としての《原爆の図》の1950年代、1980年代の動向と、現在の状況の報告。
さらに狩野さんが現在のアート・アクティヴィズムの実践例としてA3BCの活動を報告し、小倉さんがふたつの報告をつなぐように、現実における問題点を整理して下さいました。

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その後、会場(25人ほどが参加して下さいました)からの質疑も含めて討論となりましたが、「反核反戦展」の方法論や丸木美術館の課題などに話題が偏ってしまい、狩野さんの設定した「アートを触媒にした対抗文化は、今日の社会制度、美術制度が敷かれた空間で、いかにラディカルさを確保し、力を発揮できるか」という問題について話を深められなかったのは少々心残りでした。

小倉さんの指摘された「作品の力は作家だけが作るものではないが、私たちは《原爆の図》の後に続くアートを持てずにいる。丸木美術館はここにしかない重要な場所だが、そうした場所が他にも広がっていくかというと、そこまではできていない」という問題は、今後も考え続けていきたいところです。

社会を変えるには集団の力が必要で、そもそも「文化」とは集団的な力でもあるのだけれど、芸術は個人からはじまるもの。その矛盾は、丸木美術館で働きながら常に実感していることではあります。
それでも、若い狩野さんの新鮮な報告、そして小倉さんの「今は過渡期である」という言葉に、小さな希望を見出したような思いもしました。
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2016/12/11

高瀬企画朗読+演奏公演『マクベス』  イベント

真冬の恒例となった高瀬伸也さんの自主企画による朗読+演奏公演。
今年は、「いくつもの死や死の影に満ちたシェイクスピアの『マクベス』を、丸木美術館の中の作品に描かれた多くの『死』の中に置いてみる」との試みで、坪内逍遥訳『マクベス』(1930年)の朗読です。

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演奏は高瀬さん。朗読は、『ラジオ深夜便』でおなじみの映画評論家の青柳秀侑さん(マクベス役)、そして彼の朗読の教え子である辻愛美さん(マクベス夫人役)に加えて、初参加の3人の若い女性たち(3人の魔女役)です。

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いつもより出演者が多く、会場の別々の隅に立った「3人の魔女」役の朗読者がこだまのように台詞の掛け合いをするので、迫力もあって、とても面白く聞きました。

劇中の「死」が丸木夫妻の作品の中の「死」にどのように接続し共鳴するのかはなかなか理解が難しいのですが、「きれいはきたない、きたないはきれい」(Fair is foul, and foul is fair)という有名な魔女の台詞を丸木夫妻の絵に囲まれて聴く体験は、なかなか新鮮なものでした。
この台詞、私たちの生きる現代社会になぞらえて考えることもできそうです。
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2016/12/10

平和・協同ジャーナリスト基金賞贈呈式/「幻の響写真館」展  館外展・関連企画

午後、日本プレスセンターで平和・協同ジャーナリスト基金の贈呈式がありました。
代表運営委員の岩垂弘さんが1995年に創設され、今年で22回を数えるという、市民の寄金で運営されている賞です。

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「日本版ピュリッツァー賞、市民版ノーベル平和賞の気構えでやっている」という岩垂さんの挨拶は、熱く、ときおりユーモアのにじむ、心を動かされるものでした。
賞贈呈の後のスピーチは少々緊張したものの、記念撮影やパーティでは、多くの方とお話しすることができ、楽しい時間となりました。

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丸木夫妻は《原爆の図》を「大衆が描かせた絵画」と語っていましたが、《原爆の図》にかかわった人びとに焦点を当てた拙著『《原爆の図》全国巡回』が、高木仁三郎市民科学基金の助成を頂いて出版され、「市民版ノーベル平和賞」に導かれていったのも、何か運命的なものがあったのかもしれません。

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写真は左から『新聞と憲法9条』で奨励賞を受賞された朝日新聞編集委員の上丸洋一さん、原発問題に関する情報発信で奨励賞を受賞されたよしもと所属の漫才師おしどりケンさんと、岡村を挟んでマコさん、お祝いに駆けつけて下さった作家の関千枝子さん、小寺美和さん、『米騒動とジャーナリズム』で奨励賞を受賞された細川嘉六ふるさと研究会代表の金澤敏子さん、そして丸木美術館の小寺隆幸理事長。

はじめはおしどりのお二人と撮影をしていたのですが、途中からどんどん人が入って来て、このように賑やかな嬉しい記念写真になりました。

二次会では、推薦者の山村茂雄さんや岩垂さんから、いかに選考委員が作品を読み込んで、真剣に議論して受賞者を選んでいるかをじっくりお聞きしました。

「本当に良い賞なのだから、受賞された方は、かならず略歴に書いてください」と何度も言われたので、これからはこの小さいけれども清々しい賞のことを、少しでも世の中に広めていきたいと思います。

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平和・協同ジャーナリスト基金賞の贈呈式と二次会の後は、馬喰町のKanzan Galleryで開催中(12月27日まで)の「幻の響写真館 井手傳次郎」展のレセプションに駆けつけました。

亡き針生一郎館長のパートナー夏木さんのお父様・井手傳次郎が長崎市片淵で開いていた響写真館のガラス乾板から焼き付けた写真、実物のガラス乾板、当時の写真集の展示です。

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響写真館は1943年に閉館するまで17年間営業を続けましたが、傳次郎が戦地に向かう若者の写真を撮ることを拒み、店を畳みました。
彼は若い頃に上京して太平洋画会研究所に通い、平福百穂に師事していたので、後に写真に生かされる美的感覚も、体制に迎合しない反骨の気質も、影響を受けていたのでしょう。

残された写真の多くは、モダンで文化的な家庭で育った子どもたちの生き生きとした様子を撮影しています。
1928年頃の浦上教会の礼拝を写したものもあって、その写真が本当に良かったです。

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手もとにある画像は傳次郎自身が焼き付けたバージョンですが、今回新たに銀遊堂が焼き付けた写真は、黒と白の対をなす信徒の一群の上にふわりと光が降り注いでいて、信仰の根源を見るような、厳かな気持ちにさせられました。

今夏に『長崎・幻の響写真館―井手傳次郎と八人兄妹物語―』を刊行された根本千絵さん(傳次郎のお孫さん、つまり針生館長・夏木さん夫妻の娘さん)ご家族をはじめ、キュレーターの菊田樹子さん、そしてデザイナーの山崎加代子さんら長崎から来られた方々とご挨拶できたのも、とても嬉しく思いました。
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2016/12/10

『琉球新報』連載「落ち穂」第13回 まつろわぬ者たち  執筆原稿

2016年12月10日付『琉球新報』連載「落ち穂」第13回 まつろわぬ者たち

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来年に開催される「美しければ美しいほど」展、楽しみです。
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2016/12/9

ボルタンスキー展/「遠い日|山の終戦」  他館企画など

午前中は青山学院女子短大でアーサー・ビナードさんの特別講義を聞き、その後慌ただしくもろもろの打ち合わせ。

午後は東京都庭園美術館のクリスチャン・ボルタンスキー「アニミタス_さざめく亡霊たち」展へ。

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旧朝香宮邸の空間に、ささやく声、踊る影、遠くの場所の風鈴の音と映像、人びとのまなざし、衣類の山などを配して、「亡霊たち」をひそませる展示です。

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ユダヤ人のホロコーストの歴史と深く結びつく作品は、日本では3.11と関連づけて観られるかもしれないというインタビューの中での問いに、彼は「芸術の美しさは、作品を私たちが自らの過去やバックグラウンドを通して理解するところにある」と答えていました。「芸術家は作品で観る者に刺激を与え、観た人が芸術家となってその作品を完成させる」と。

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それはきっと、原爆の「幽霊たち」を描いた丸木夫妻の《原爆の図》にも共通するのだろう、と自分の立場に引きつけて考えていました。

ボルタンスキーの作品を観て震災を思い起こす人がいるかもしれないように、《原爆の図》を観て津波や原発事故を想起する人、あるいは内戦や奴隷・差別の歴史を思う人もいることを、ぼくは絵の近くで何度も見てきました。親しかった死者の存在を感じる人もいました。

作品の歴史的役割を見きわめつつ、その役割をゆるやかに解きほぐして、今、目の前にいる人たちへと開いていくことはできないだろうか、と思うこの頃です。

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ボルタンスキー展のあとは、水道橋駅近くの小さなギャラリースペース「路地と人」へ立ち寄り、小森はるか+瀬尾夏美の「遠い火|山の終戦」展を覗きました。

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「3.11」後、被災した陸前高田に移り住み、そこに根を下ろして生き続ける2人の若い女性が、親しくなった現地の老人たちから聞いた幼い日の戦争の記憶をそっと受け取り、絵と詩、映像という手段で次に手わたしていくような試みです。

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彼らは「遠い火」(戦火)へと旅立っていく兵士の姿を見送り、また同じ場所で遺骨を迎えました。そしてその記憶を長い時間をかけて、繰り返し思い出し、語り、再び記憶するのです。

「彼らが更新して来た語りが孕むズレのようなものにこそ、他者が過去を想起し得る余白がある、とも思う」という展覧会のステートメントの言葉を思い起こしながら、山村に残る71年前の「民話」に触れる体験でした。

路地の食堂の裏の小さな階段を上がった2階、という会場もよかったです。
この日は2人の作家と東京大空襲・戦災資料センター主任研究員の山本唯人さんのトークが予定されていたのですが、妻が仕事で遅くなり、家に帰って子どもたちと過ごす日だったので、参加できなかったのが残念でした。

彼女たちの活動には、これからも引き続き注目していきたいと思います。
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2016/12/8

神奈川県立近代美術館葉山/小金井市公民館東分館  調査・旅行・出張

午前中は「陽光礼讃」に神奈川県立近代美術館葉山へ。
鎌倉から移ってきたイサム・ノグチのこけしも、温かい日の光を浴びて新居を楽しんでいるようでした。

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それにしても、寒風吹きすさぶ北関東から来た身には、別世界のような葉山の陽光が身に沁みます。風は穏やかで波の音が聞こえ、空は果てしなく青く、海の向こうには真白い富士の嶺が輝いています。美術館に向かうバスに乗りながら、天国に向かっているのではないかと思うほど。

伊豆高原のアトリエで描かれたという谷川晃一・宮脇千鶴の鮮やかな色彩の愉し気な絵画も、温かい気候と無縁ではないとつくづく思いました。
もっとも、展覧会を観た後、昼食をごいっしょしたM館長からは「同じ夫婦の絵でも(丸木夫妻と)ずいぶん違うでしょう。でも、特に谷川さんの絵は、穏やかなようで根底にある厳しさは共通しているかもしれない」と伺い、ああなるほど、そうかもしれない、とも思ったのでした。

窓のブラインドが少し上がっていて、珍しく隙間から海が見える展示になっていたことも気になっていたのですが、そんな話の流れの中で、M館長から美術館の未来構想に関するとても重要な助言を伺うこともできました。そのお話が聞けただけでも、葉山まで足を延ばした甲斐がありました。

M館長とお別れした後、調べものをしようと図書室に下りて行ったら、大御所のA先生がいらっしゃって、なにやらまごついておられたので、お声がけをするべきか、いやまたの機会にすべきかと逡巡しながら横目でちらちら見ていたら、N学芸員があらわれてお孫さんのように付き添われたので、ちょっと安心しました。
表向きではない、この美術館の日常を少しだけ垣間見たようで、心に残る光景でした。

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その後はポレポレタイムス社経由で、午後6時から小金井市公民館東分館にて「日米開戦の日にヒロシマを考える」というお題の講演会。
無理に12月8日にあわせて平日の夜にいったい誰が来るのかと心配しましたが、なんと会場には1950年3月の丸善画廊での「原爆の図展」(「原爆の図」という題名が使われた最初の個展)を観たという当時の麹町中学生だった方がわざわざ千葉県から来場され、途中、公開聞き取り調査のようなことになって、非常に面白い体験でした。

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中央線沿線は「地元」のつもりでいたものの、武蔵境駅から西武多摩川線に乗るのも、新小金井駅で下車するのも初めて。

「新小金井」と言いつつ、1917年開業で市内最古の駅とのこと(ちなみに武蔵小金井駅の開業は1924年、東小金井駅は1964年。すでに東北本線の小金井駅があったので「新小金井」駅となったそうです)で、何だかパリのポン・ヌフのようですね。

今どき珍しい跨線橋のない駅(今の駅舎は1988年使用開始)で、線路を歩いて渡って向かいのホームの改札口を出る構造が昭和ぽくて懐かしかったです。
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2016/12/5

『毎日新聞』「余禄」  掲載雑誌・新聞

2016年12月5日付『毎日新聞』の「余禄」欄に、丸木夫妻の原爆の図第13部《米兵捕虜の死》が紹介されました。
http://mainichi.jp/articles/20161205/ddm/001/070/148000c

以下は、記事からの一部抜粋です。

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 広島出身の画家、丸木位里さんは故郷への原爆投下を知った数日後、妻の俊さんと現地へ駆けつけた。2人はそこで目にしたものや証言を基に絵画制作に取りかかる。全15部に及ぶ連作「原爆の図」だ。完成に30年以上の歳月を要した▲連作の中に「米兵捕虜の死」という作品がある。太平洋戦争末期、旧日本軍の捕虜になった米兵12人が被爆し、亡くなったとみられている。この作品は今も原爆の一断面を伝え続ける▲その米兵はなぜ広島にいたのだろうか。どんな人たちだったのか。自身も被爆者の森重昭さんは埋もれた事実を40年にわたって調べてきた。「原爆の犠牲者に国籍は関係ない」と思ったのだ。死没者を特定し、遺族らと交流を重ねた。今年5月にオバマ米大統領が広島を訪問した時、森さんは長年の苦労を大統領にねぎらわれ、抱き合って涙を流した▲日米の真の和解とは−−。

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原爆と真珠湾が奇妙に接続しつつある今日ですが、71年前の戦争が「日米の真の和解」だけで精算されるわけではもちろんありません。

12月8日に小金井市で行う講演「日米開戦の日にヒロシマを考える〜丸木位里、丸木俊の《原爆の図》を通して見えてくる「戦争」〜」では、そのあたりのところも考えていけたらと思っています。
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2016/12/4

「美しければ美しいほど The more beautiful it becomes」展のお知らせ  企画展

このところ、丸木美術館では冬に若者企画の展覧会を行っていますが、年明け2月からは、沖縄戦をテーマにした企画展がはじまります。

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タイトルは「美しければ美しいほど The more beautiful it becomes」となりました。
企画は沖縄出身の若いキュレーター居原田遥。
参加作家も1980年代生まれの嘉手苅史朗、川田淳という若手の映像作家です。

WEBページを立ち上げましたので、詳しくはこちらをご覧ください。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2017/okinawa.html

丸木美術館に不在の《沖縄戦の図》(佐喜眞美術館蔵)を意識した仕掛けや、さまざまなイベントも準備を進めているようなので、詳細が決まり次第、お知らせしていきます。
以下は、展覧会に向けての居原田さんのステートメントです。

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展覧会によせて

はじめて丸木夫妻の絵を目にしたのは、私がまだ小学生の頃でした。
それは、沖縄県の佐喜眞美術館にある《沖縄戦の図》という絵です。そこに描かれているのは、沖縄戦。美しかったはずの沖縄が血と泥にまみれ、死体と暴力で埋め尽くされた様子です。実際の戦争を経験せずともこの《沖縄戦の図》を目にすると、恐怖を抱かずにはいられない。それは、あの戦争から遠く離れた現在でも覚える恐怖なのだと感じます。

沖縄では今でも、戦争を忘れないための様々な取り組みが行われています。とりわけ学校などの教育機関では平和学習が徹底されています。例えば、戦争経験者の体験を直接聞く機会を設けたり、慰霊の歌を歌ったりと、多様な手段をもって、平和教育がなされています。私が通っていた小学校でも《沖縄戦の図》をもとに描かれた絵本、『おきなわしまのこえ』は課題図書に指定されていて、毎年かかさず手にとり、目にしていました。沖縄で育つとこの『おきなわしまのこえ』を繰り返し目にし、戦争を語る声を幾度となく耳にする。そうやって繰り返し沖縄戦のイメージを見てきたからこそ、知らないはずの戦争に強い恐怖を抱くのです。

1984年、丸木夫妻は広島の原爆を描いたのちに、はじめて沖縄を訪れました。当時、復帰直後の沖縄は、「本土並み」を目指した急速な社会成長の最中にあり、すでに戦争は過ぎ去った歴史となっていました。しかしそのなかで彼らは、数多くの場所を訪れながら沖縄の風景をその目で見て、多くの戦争経験者の声に耳をかたむけ、連作となる《沖縄戦の図》を描いたのです。

それからさらに時が過ぎた今日。現在の沖縄のなにを見て、何を聞いているのでしょうか。
沖縄県北部に位置する高江ではヘリパッド基地の建設が強行され、辺野古では海上基地の建設が進行しています。
反対の声をあげる人々に対し、国は暴力をふるい、排除を強います。また、その状況が全国報道で映し出されることは殆どありません。

沖縄の風景はいまでも、あるいは現在だからこそ優しく、そして美しく見えるのだと私は思います。
それはかつての丸木夫妻が目にし、耳にした沖縄から、どのように変容したのでしょうか。
今日ここから、私たちは沖縄のなにを見て、なにを聞くことができるのでしょうか。

                                居原田遥

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【参加作家略歴】

嘉手苅志朗 Shiro KADEKARU
1985年沖縄県生まれ。2014年沖縄県立芸術大学大学院絵画専修卒業。近年では歌や既存の小説をモチーフにして、自身の出身地でもある沖縄を背景に虚構的な映像を制作。主に、「直感のジオラマ展」 (2014年 福岡市立美術館特別展示室B)、「群馬青年ビエンナーレ2015」(群馬県立近代美術館 2015年)、「社会と芸術」(浦添市美術館 2015年)「VOCA展2016」(上野の森美術館 2016年)、the 5th Taiwan International Video Art Exhibition(鳳甲美術館 2016年)などに参加。

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画像 左:《interlude》 右:《彼らの声》

川田淳 Jun KAWADA
1983年埼玉県生まれ。2007年武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。IKEAでゲリラ的に作品を制作し発表するものや、マクドナルドで何も注文せずに店員をただ60秒間見つめる作品等、自身の行為を記録したものを主に映像作品として発表。主な個展に「終わらない過去」(東京都、2015年)「ケンナイ」(広島芸術センター、広島県、2013年)、「まなざしの忘却」(22:00画廊、東京都、2012年)。近年では他に「DMZ Pilgrimage」(South Korea DMZ Piece-Life Hill、韓国、2015年)、「When the Wind Blows / 風が吹くとき」(Millennium Court Arts Centre、北アイルランド、2015年)、「Screen」(HIGURE 17-15cas、東京都、2014年)などに参加。

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画像 左:《終わらない過去》 右:《生き残る》


【企画者略歴】

居原田遥 Haruka IHARADA
1991年沖縄県生まれ。2014年東京芸術大学音楽文化学専攻修了。沖縄をはじめ、アジア圏の芸術運動、オルタナティブ・カルチャーを関心の主軸とし、企画や展覧会などを行う。またスペース「特火点-tochka」を運営。主な活動に、「doubles2 間(のめ)」(WAITINGROOM、東京都、2016年)キュレーション、「寄り道キャラバンプロジェクト」(アジア7都市、2015年)ディレクション、ドキュメンタリー映画《Constellation》(中森圭二郎監督、2016年)共同制作。川田淳個展「終わらない過去」(東京都、2015年)企画など。
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2016/12/3

富山妙子展イベント「何も信じられない時代に何を語る?」  特別企画

富山妙子展「終わりの始まり 始まりの終わり」の関連イベント「―絵と音楽と詩が出会って時代を解く― 何も信じられない時代に何を語る?」は、約70人の方が参加する盛況となりました。
出演は富山さんに加えて、音楽家の高橋悠治さん、詩人の藤井貞和さん。

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自然光の中でのスライド上映が非常に見にくかったり、音響が聞こえづらいという問題もありましたが、95歳の富山さんが終始お元気で、明晰かつエネルギッシュに困難な時代に向き合い続ける様子は、胸を打たれるものがありました。

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丸木美術館のこの種の企画としては、比較的、多様な世代の方たちが足を運んで下さったのも、富山さんの表現の力が、世代を超えて広がる強靭なものであるためなのでしょう(富山さんは「ノンセクト・ラジカル・オールドばかり」とおっしゃって会場の笑いを誘っていましたが、ぼくから見れば決してそうではなかったし、観客の国籍の多様さも富山さんのこれまでのお仕事を反映しているように思いました)。

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年明け1月14日まで開催中の特別展示の会場には、富山さんの新作油彩画2点を含んだ濃密な30点の作品が並んでいます。

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「傀儡国家」満州から「3.11」へと続く歴史の破綻、そして暴力性を暴き出す油彩画やコラージュ作品は、そのテーマ性もさることながら、絵画としての質の高さ、表現の強さで見る者を圧倒し、隣接する展示室にならぶ《原爆の図》と共鳴しながら、多くのことを語りかけてきます。

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安易な言葉に流されず厳しく世界を見続けること、粘り強く思考を鍛え続けること、決して希望を捨てず前を向くこと。この展覧会を通じて、富山さんからはとても大切なことを教えて頂いている気がします。
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