2016/9/30

『週刊読書人』に『炭鉱の絵師 山本作兵衛』書評掲載  執筆原稿

『週刊読書人』2016年9月30日号に、宮田昭著『炭坑の絵師 山本作兵衛』(書肆侃侃房)の書評を書きました。

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生前の作兵衛のもとに通って酒を酌み交わし、会話を重ねた元朝日新聞筑豊支局長による、初の評伝です。
前半は坑夫・作兵衛の生い立ち、後半は絵師・作兵衛の炭坑記録画制作と世界記憶遺産に登録されるまでをたどる一冊。
今後も「世界遺産」という枕詞とともに受容されていくであろう画家だからこそ、そこに至る以前の経緯と、絵を広めた人たちの思いは、記憶しておきたいところです。

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2016/9/27

【ミュンヘン出張C】NSドキュメンテーションセンター・ミュンヘン  調査・旅行・出張

ミュンヘン出張最終日は、昨年5月にオープンしたばかりのNSドキュメンテーションセンター・ミュンヘン(NS-Dokumentationszentrum München)へ。

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かつてナチスの党本部が置かれていたブラウン・ハウスがあった場所に建てられた資料館です。
(左隣の建物は元総統官邸=現ミュンヘン音楽大学)。

昨年の米国巡回の際には、ワシントンD.C.のホロコースト博物館やニューヨークのユダヤ博物館を訪れました。それらは迫害された側からの展示でしたが、ミュンヘンはナチスの結党の町。ナチスをいかに生み出したかという重い歴史を見つめるという立場からの展示になります。

5階建ての施設には、ナチス台頭前史から、人種差別と独裁政治の時代を経て、戦後ナチスとどう向き合ってきたのかをたどる内容が、映像を中心に展示されています。

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若い学生と思しきグループがいくつも訪れて、解説を聞いている様子が印象的でした。

個人的には、今回の出張に関連する「ドイツ芸術の首都―モダニズムの焼却」のコーナーを興味深く見ました。「大ドイツ美術展」(1937年7月18日〜10月31日)と「退廃美術展」(1937年7月19日から11月30日)に関する写真と映像の紹介です。

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「大ドイツ美術展」の会場は、昨日まで展示のために通っていたハウス・デア・クンスト(開館時の名称はハウス・デア・ドイチェン・クンスト)。
当時の会場写真を見ると、内装がほとんどそのまま残されていることがわかります。

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映像では、展覧会初日に行われたハウス・デア・クンスト落成記念パレードの様子も紹介されていました。

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会場写真には、先日、ピナコテーク・デア・モデルネ(現代絵画館)で見たばかりのアドルフ・ツィーグラーの《四大元素》も見えます。

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一方、「退廃美術展」の会場は、考古学研究所の2階という劣悪な環境。ルートヴィヒ・ギースの彫刻《磔刑図》や、キルヒナー、クレー、シュヴィッターズ、モンドリアン、ノルデら錚々たる画家たちの絵が展示されていて、来場者が押し寄せている光景が記録されています。

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本来、9月末に終了予定だった展覧会は、あまりに観客が多かったため11月末まで延長されたのでした。

ミュンヘン滞在の最後には、カンディンスキーはじめ「青騎士」などのコレクションで知られる市立レーンバッハギャラリーを駆け足で見ましたが、あまりに時間が足りませんでした。

限られた日程ではありましたが、「大ドイツ美術展」と「退廃美術展」が二つでセットになっていたことを、あらためて実感する今回の出張。
そうした歴史性を踏まえた土地で、「Post War」展がどのような反響を呼ぶか、楽しみに思いつつ、夕方の飛行機で帰国しました。
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2016/9/26

【ミュンヘン出張B】原爆の図展示完了  調査・旅行・出張

午前中からハウス・デア・クンストで展示作業の続きです。
昨日の2mを超える高さでの展示作業に比べれば、今日の展示はまったく問題なし。

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無事に展示が終わってから、作品の状態チェック票へのサインの記入や、絵に観客が近づかないための注意喚起の方法、帰りの梱包についての打ち合わせを行いました。

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天井の高い空間なので、《原爆の図》を二段掛けしてもそれほど窮屈ではありません。
ただ、上の作品は細部が見えないので、絵の力が強い第2部《火》を上にしたのは正解でした。
下の第6部《原子野》は、一見地味ですが細部を作り込んだ作品なので、そのあたりをじっくり見て欲しいところです。

隣の壁はイサム・ノグチの展示スペース。
これから核を題材にした彫刻などが配置されるようです。

ハウス・デア・クンストの展示作業はまだまだ続きますが、私の仕事はこれで終了。
迷路のように壁面を増設した会場を歩きましたが、まだ展示されていない作品がほとんどで、全体像はよくわかりませんでした。

できれば会期中にミュンヘンを再訪して、じっくりと展覧会を見ながら考えたいところです。

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今回の展示では、ミュンヘン在住18年の日本人女性画家に、たいへんお世話になりました。
展示スタッフみんなでコーヒーを飲んだり、昼食をとったりしているときは、なかなか2人で話す機会はなかったのですが、最後の昼食で初めて2人になって、日本語でゆっくり話すことができました。
以下は、そのときの会話の内容の書き起こしです。

   *   *   *   *   *

ミュンヘンから見る今の日本は、他国の人たちと協調していくためには絶対にあり得ない論理を、国内だけで語っているように感じる。近代の歴史認識にしても、原発事故にしても。

ドイツだっていろいろ問題はあるが、70年前の戦争の反省を、まわりの国や民族といっしょに考えてきたという点は、日本と大きく違う。

多チャンネルになったテレビは、毎日、どこかで必ず1本はナチスの番組をやっているくらい、ドキュメンタリが多い。近代史の反省を、メディアが牽引して進めている。

日本は隠蔽しかしないというイメージがある。原爆だって被害の強調ばかりで、そのことで戦争全体の責任を隠蔽している。

ハウス・デア・クンストのような、ナチスの遺産的建物を、今も美術館として活用することには批判がないわけではない。けれども、外壁にはクリスチャン・ボルタンスキの《レジスタンス》という作品が展示されている。
これはナチスに抵抗した地下組織のメンバーの顔写真をもとにしたプロジェクト。
日本でこうした作品が展示されるだろうか?

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芸術において政治性は重要な要素のひとつ。もちろん、ユーモアや皮肉を使って表現を直接的でないものにすることもある。
私は東京の美大に通って、こちらに来るまでは政治的な問題をまったく教わらなかったし関心もなかったけど、今は日本に戻るたびに違和感を覚える……

   *   *   *   *   *

個人的に共感する意見は多く、私も丸木美術館ではそうした現状を何とか変えていこうという想いを持って仕事をしているけれども、一般に広がっているとは言い難いので、これからも頑張ります、と答えました。
これからも、ずっとこの会話を抱えながら、仕事をしていくことになりそうです。

仕事を無事に終えたので、夕方は、オクトーバー・フェストの会場であるテレージエンヴィーゼに行ってみました。
ビアツェルト(ビールテント)の中は、数千人の酔っ払いがビールを飲む凄い光景。

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お酒をあまり飲まない私には、異教の集会に潜入したような、すごい迫力と緊張感でした。
せっかくなので、ビールも注文してみました。人生初のビアガーデンが、まさかミュンヘンになろうとは、まったく予想もしていませんでしたが。
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2016/9/25

NHK「ちきゅうラジオ」原爆の図が60年ぶりにドイツへ  TV・ラジオ放送

2016年9月25日のNHKのラジオ番組「ちきゅうラジオ」の「ちきゅうズームアップ」のコーナーに、「原爆の図が60年ぶりにドイツへ」というテーマで、ドイツ・ミュンヘンの美術館ハウス・デア・クンストから電話出演しました。
出演は、ちょうど《原爆の図》を開梱して、休憩時間に入ったタイミングでした。
約12分間の放送の内容を、以下に抄録でお伝えします。

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柿沼郭キャスター 「ちきゅうズームアップ」です。
芸術の秋。今日は、ドイツ・ミュンヘンで来月から開催される美術展の話題を紹介します。この美術展は、第二次世界大戦後の世界の様々な分野の変化をテーマにしたもので、世界中から350点以上の作品が集まります。
日本からは、《原爆の図》が展示されることになりました。ここであらためて《原爆の図》を紹介します。《原爆の図》とは、広島出身の水墨画家・丸木位里と油彩画家の丸木俊夫妻が原爆投下後の広島の惨状を描いた絵画作品です。キノコ雲や原爆ドームなどの背景ではなく、人間の生身の肉体そのものの痛みを生々しく描いて原爆の恐ろしさを表現しています。全部で15部作あって、1950年から1982年まで、32年かけて制作されました。作品は、縦1.8m×横7.2mの大きさの屏風で、和紙の画面に水墨を用いて描かれています。今回はその中から2つの作品が展示されます。

柴原紅キャスター 今日は、美術展の準備で、ミュンヘンに行っている原爆の図丸木美術館学芸員の岡村幸宣さんと電話がつながっています。日本との時差はマイナス7時間、現地は午前11時半を過ぎたところです。岡村さん、こんにちは!

岡村 こんにちは!

柴原 さっそくですが、今回の美術展は、どんな美術展なんですか?

岡村 来月から始まる美術展は「Postwar: Art Between the Pacific and the Atlantic, 1945–1965」。第二次大戦後の20年というのは、東西冷戦など政治体制が大きく変わり、経済のシステムや科学技術、世界全体の見方が私たちの生きる現在に近づいてくる重要な時期です。その20年のあいだに生まれた芸術作品で、時代の意味を捉え直そうという、とても重要な企画展です。50カ国から180人の芸術家、350点の作品が集まる大展覧会です。

柿沼 準備の様子はどうですか?

岡村 会場になっているのは、ミュンヘンのハウス・デア・クンストという美術館です。日本語に訳すと芸術の家なんですけれども、実は1930年代に、ヒトラーの強い後押しで建てられたという歴史を持っています。古代ギリシャのパルテノン神殿のように正面に柱が並んでいる、大きく立派な美術館です。当時は「大ドイツ芸術展」などナチスが公認した芸術の宣伝のような展覧会が開かれていましたが、そうした複雑な過去を持つ場所で「戦後」をとらえなおす美術展が開かれるのも興味深いところですね。
今、ちょうど《原爆の図》の展示作業が行われているところです。日本から運んできた木箱を開いて、作品の点検をしていて、作業員は休憩時間になっています。これから壁に上下二段掛けで《原爆の図》を展示する予定です。

柴原 今回展示されるのは、どんな作品ですか?

岡村 第2部《火》と第6部《原子野》が展示されます。《火》は、原爆が爆発した瞬間、6000度に到達したとも言われる炎に焼かれて悶える人びとの群像です。炎の朱色がひと際鮮やかな、躍動的な作品です。
一方、《原子野》は、焼け野原になった広島の街の静寂を、墨を何度も重ねてモノトーンで表現しています。炎と闇、動と静の対比が特徴的な展示になります。

柴原 ミュンヘンの美術館の方の受け止められ方はどうですか?

岡村 今は展示でみんなピリピリしているので、「この絵を見て、どう思う?」と聞いても、「うん、これは軽いから展示は大丈夫だ」と、展示の技術的な問題についての答えが返ってきてしまうんです。でも昨日、美術館のスタッフに聞いてみたところ、「戦後の美術を考える上で、《原爆の図》は外せない作品だ」と言われました。

柿沼 《原爆の図》が今回どうしてドイツでの美術展に展示されることになったんですか?

岡村 私も最初は驚いたのですが、戦後美術史上重要な作品だということが大きいのですね。
そして、今回の美術展は8つのテーマに分かれているのですが、最初のテーマが「核の時代」なのですね。原爆の図はその部屋の正面に飾られます。つまり、核の脅威とともに人類が生きることを余儀なくされる時代、その象徴として《原爆の図》が選ばれているわけです。

柿沼 ドイツでは初めて展示されるのですか?

岡村 初めてではありませんが、60年ぶりです。1950年代、《原爆の図》は、原爆の悲惨さを伝えるために、丸木夫妻が多くの人に支えられながら日本全国を巡回し、その後アジアやヨーロッパを中心とする世界巡回も行っています。けれども、その記憶も今はほとんど忘れ去られているでしょう。しかもミュンヘンは今回が初めての展示になります。
60年前と比べて、現在、核の脅威がさらに世界的に広がっていますから、再び《原爆の図》の問題意識に時代を超えて焦点を当てられる貴重な機会になります。ドイツは「戦後」の歩みについてし日本ともよく比較される国です。多層的な歴史の文脈の中で、《原爆の図》がどのように観客に受け止められるか、非常に楽しみです。

柴原 来月から始まる美術展は、来年3月までと開催期間が長いそうですね。他にはどんな作品が見られますか?

岡村 美術展は、来月14日〜3月26日まで、半年間も開かれます。
「核の時代」の展示室には、海外の芸術家が原爆に触発されて描いている作品がならびます。たとえば、日系米国人のイサム・ノグチの核をテーマにした彫刻やデッサン、ドイツを代表する芸術家ヨーゼフ・ボイスが原爆を表現した作品もあります。原爆のドキュメントフィルムも投影されるようです。
また、美術館の玄関ホールには、日本の芸術家・元永定正さんが1950年代に具体美術協会という前衛的な芸術運動に参加したときに試みた、ポリ袋に赤や黄色や緑の色水を入れて両端を天井から吊るすという作品が、すでに設置されています。
昨年、日本では戦後70年として日本の戦争や戦後を問う美術展が数多く開催されましたが、今回はその世界版。世界規模の視点で「戦後の時代」を考え直すことで、今の私たちの生きる社会につながる問題意識を発見できるのではないかと期待しています。

柿沼 二つの作品が展示されるのは、核の時代ということで、上下に並べて展示するんですね? どーんと目の前にあると、結構な迫力ですね。

岡村 見る人は圧倒されると思います。そして画面に描かれた等身大の群像を見ることで、人間の痛みが伝わると思います。

柿沼 ありがとうございました。「ちきゅうズームアップ」は、ドイツ・ミュンヘンから《原爆の図》の話題を、原爆の図丸木美術館学芸員の岡村幸宣さんに伝えてもらいました。

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番組でお話下さった柿沼郭キャスター、柴原紅キャスター、そして企画を準備して下さった内藤裕子ディレクター、本当にお世話になりました。どうもありがとうございました。
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2016/9/25

【ミュンヘン出張A】原爆の図展示作業その1  調査・旅行・出張

ハウス・デア・クンストにて《原爆の図》展示作業。
屏風画の上下二段掛けは初体験で、しかも昨日会場に来るまでそんな展示プランは聞かされていなかったのですが、何とか1日がかりで上段の展示を終えました。

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多国籍の展示スタッフによる、ドイツ語、英語、のみならず、ときにスペイン語、もちろん日本語も入り混じる議論の時間が長く、たいへん疲れました。
(展示スタッフに日本人の女性画家が一人いて、細かい相談をドイツ語に通訳してくれたのはとても助かりました)

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それだけ慎重に、万一の事故のないように作品を扱ってくれたわけです。
明日の下段の展示はもっと簡単に、短時間で終わることでしょう。

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思い起こすのは2011年の目黒区美術館の幻の「原爆を視る」展。
もし、あのとき実現していたら、前代未聞の《原爆の図》4段掛け計画があったのですが、果たして本当に展示できていたかどうか・・・。
地上8mの高所で4曲の屏風をフラットの状態にして壁に固定するのは、至難の技だったかもしれません。

日本の美術館では多くの場合、展示作業まで一括で輸送業者が行いますが、昨年の米国展も今回のミュンヘンも、若いアーティストなどのパートタイムのスタッフが、美術館のコーディネートのもとに集まって展示を行っています。
美術館に愛着を持つスタッフが、力を結集して展示作業を行うあたりは、丸木美術館に似ていますね。日本では丸木美術館が展示替えの日に当たっていたので、少しだけ懐かしく思い出しました。

午前中、ちょうど、スタッフのみんながコーヒー休憩をしている間、ぼくは携帯電話で日本のNHKのラジオ番組「ちきゅうラジオ」にインタビュー出演していました。
おかげでコーヒーは飲み過ごしてしまいましたが、臨場感はお伝えできたのではないかと思います。

http://www.nhk.or.jp/gr/ondemand/index.html

こちらのサイトで1週間ほどラジオ放送の内容が聞けるようです。
(インタビューは25分頃から。携帯電話のせいか、ちょっと音質が悪いですが)

今日は、イサム・ノグチの彫刻や山端庸介の写真、カレル・アペルの絵《広島の子供》も展示されることが分かってきました。
誰に聞いても出品作品の全体像をなかなか教えてもらえず、全体を把握している人間は果たしているのかと不安もありますが、少しずつ展覧会は開催に向けて前に進んでいるようです。
(ちなみに図録は、開幕後にできる予定だそうです)

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2016/9/24

【ミュンヘン出張@】ハウス・デア・クンストへ  調査・旅行・出張

昨日から、ドイツのミュンヘンに来ています。
10月14日より開幕するハウス・デア・クンスト(芸術の家)の「Post War : Art Between the Pacific and the Atlantic, 1945-1965」に《原爆の図》が2点展示されるため、展示作業に立ち会うのです。

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ハウス・デア・クンストは、1930年代にアドルフ・ヒトラーの強力な後押しで建てられた、古代ギリシャのパルテノン神殿風の柱が正面に並ぶ立派な美術館。
1937年には、ナチス公認芸術を推奨する「大ドイツ芸術展」が、別会場の「退廃芸術展」とともに同時開催されています。

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そんな複雑な過去を持つ美術館で、「戦後美術展」が開催されます。
50ヵ国180人の芸術家による350点の作品を展示する大規模な展覧会。
全体は8つのセクションに分けられていて、最初のセクションが「核の時代」です。

今日、美術館に行って分かったのは、最初の展示室の正面に、《原爆の図》が二段掛けで展示されるということ。第2部《火》と第6部《原子野》の展示だから、朱色の炎と墨の暗闇の対比が鮮やかになるでしょう。
同じ部屋には、海外の芸術家が原爆に触発されて描いた作品がならびます。ヨーゼフ・ボイスが原爆を描いた作品も出品され、原爆のドキュメントフィルムも投影されるそうです。
《原爆の図》はすでに届いていましたが、開梱と展示作業は明日の朝から行う予定になっていました。
玄関ホールには、元永定正の具体美術協会時代のビニールに色水を入れて吊るす作品が、すでに設置されていました。

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キュレーターとスケジュールを確認して、作業員の皆さんと顔合わせの挨拶をしたところで、今日はやることがなくなってしまったので、午後はアルテ・ピナコテーク(旧絵画館)、ノイエ・ピナコテーク(新絵画館)、ピナコテーク・デア・モデルネ(現代絵画館)を見てまわりました。
そんな機会だったので、ピナコテーク・デア・モデルネの「国家社会主義下の芸術家」の展示室は、とりわけ興味深く見ました。
展示されていた画家はアドルフ・ツィーグラー、ゲオルグ・コルベなど。
ヒトラーに称賛された画家たちの作品です。

明日はいよいよ展示作業。日本時間25日午後6時半より、NHKラジオ第1/NHKワールド・ラジオ日本「ちきゅうラジオ」のコーナー「ちきゅうズームアップ」に現地から電話出演して、展覧会の様子をお伝えいたします。
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2016/9/21

『琉球新報』「落ち穂」連載第7回 自分の目  掲載雑誌・新聞

2016年9月21日『琉球新報』連載コラム「落ち穂」第7回。

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四國五郎展の仕事をしながら、2年前の宮良瑛子さんの展覧会を思い起こしました。
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2016/9/19

NHK(中国地方限定)「もうひとつの原爆の図」放映のお知らせ  TV・ラジオ放送

中国地方限定のテレビ番組紹介です。
今のところ、全国放送の予定はありませんが、中国地方の方はぜひご覧ください。

http://www4.nhk.or.jp/P2936/x/2016-09-23/21/40730/8240361/

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2016年9月23日(金)午後7時30分〜8時
NHK総合 フェイス “もうひとつ”の「原爆の図」

1950年に発表された丸木位里・俊夫妻の代表作「原爆の図」。実は、作者自身が描いたもうひとつの作品があることが分かった。なぜ作者は2つを残したのかその謎に迫る。

広島出身の画家・丸木位里と俊夫妻の代表作で、被爆の実相を伝えた「原爆の図」は、実は“もうひとつ”あることが分かった。全15部のうち初期の3部がオリジナルと同じ1950年に作者自身の手によって描かれていたのだ。なぜ「原爆の図」は2つ作られたのか。この謎を読み解き原爆報道が禁じられていたGHQ占領下での制作秘話や、4年間で170万人もの人々を動員した、知られざる「原爆の図」全国巡回展の旅を掘り起こす。


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2016/9/17

平塚市美術館「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」展開幕  館外展・関連企画

平塚市美術館の「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」展のオープニングに行ってきました。

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今夏の「四國五郎展」はシベリア抑留が大きなテーマになっていますが、展覧会はあと1週間で閉幕。入れ替わるように《原爆の図》は平塚に行き、香月泰男の「シベリア・シリーズ」とともに展示されています。

油彩画でシベリアを表現した香月泰男、日本画で原爆を表現した丸木夫妻、そして写真で広島を表現した川田喜久治。
この三様の作品によって、「平和を願う」気持ちを、開館25周年を迎えた美術館から伝えたいという企画です。

ちなみに平塚では、ちょうど60年前に「原爆の図展」が開かれており、オープニングパーティに出席された落合市長や草薙館長も、挨拶の中でその歴史について触れられていました。

1950年代の全国巡回展の記録の掘り起こしが、こうしたかたちで現在の「原爆の図展」の力になっていることも、私にとっては非常に嬉しいことです。
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2016/9/17

『美術手帖』に「四國五郎展」展評  掲載雑誌・新聞

本日発売の『美術手帖』に、美術史家の足立元さんによる「四國五郎展」評が掲載されています。

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 この端倪すべきアーティストについて、公立の美術館はいっさいコレクションに加えず、近年まで無視してきた。たしかに、かつては反戦反核のメッセージがアナクロニズムとして疎まれたかもしれない。しかし、ここ10年ほどで社会とアートの状況は大きく変わった。世界的な格差問題や排他主義の潮流に面して、社会関与型アートが際立つようになり、そのなかで既存の美術史に名を残さなかったものも脚光を浴びつつある。加えて、この回顧展では、四國が丸木位里・俊夫妻との関わりのなかで捉えられたことで、社会運動史の視覚表象――それは戦後美術史を再構築するだろう――の地下茎のごとき隠れた強い広がりが浮かび上がった。

『前衛の遺伝子』の著者である足立さんは、四國五郎と峠三吉の「辻詩」の“前史”として、望月桂と大杉栄の表現活動を取り上げています。
また、ナホトカ時代の文化活動や魯迅の木刻運動に学んだことに着目して、「戦争を挟んで、日本・中国・ソ連の間で三角形の文化往来があった」と指摘。
さらに、四國五郎が山路商に抱いていた敬意について「戦後における四國の活動に、山路の弔いという意識もあったならば、それはヒロシマ・シュルレアリスムの復讐・復権でもあったのだろう」と結んでいます。
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2016/9/15

WAITING ROOM 『間(のめ)』展  他館企画など

恵比寿のWAITINGROOMで開催中のdoubles2『間(のめ)』展を見ました。

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居原田遥 x 手塚太加丸、大下裕司 x 結城幸司という二組のキュレーターとアーティストによる企画。屋久島生まれ沖縄在住の手塚太加丸は、故郷の白川山の自然の中で《石を動かして積む》。あるいは会場の空間に《木を切って並べる》―こちらは今冬に丸木美術館で用いた手法を発展させたものです。杉や檜の濃厚な香りが、都会のビルの一室を満たしています。

同じ空間には、アイヌ民族をルーツとする結城幸司の版画が並んでいました。布に刷った大作《オホーツク間》の熊の額の円環状の模様は神話からの引用で「たましい」を表しているそうです。

小さな企画ですが、両者の時間軸のスケールは大きい。
北の大地と南の島という辺境の「間」。
受け継いだ過去と伝え残す未来の「間」。

それぞれの作品はもちろん、その鮮明な対比を試みたキュレーションの妙が光る展示です。
10月9日(日)まで。
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2016/9/14

道場親信さんの訃報  その他

道場親信さんの訃報が届きました。とても辛いニュースです。

http://www.asahi.com/articles/ASJ9G519ZJ9GUCVL00X.html

広島の研究会で、原爆の図全国巡回展について最初に発表をしたとき、親身になって励まして下さったことを忘れません。
昨年4月の丸木美術館の幻灯上映会でも脚本を読み、シンポジウムに参加して下さって、ユーモアたっぷりに1950年代の文化運動について語られていました。
7月の早稲田大学の研究会でお会いしたときにも笑顔を絶やさず、「かならず復活する」とおっしゃっていたので、本当に残念でなりません。
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2016/9/14

ハウス・デア・クンスト「POST WAR」展のため《原爆の図》搬出  館外展・関連企画

いよいよ今日、原爆の図第2部《火》と第6部《原子野》がドイツ・ミュンヘンに旅立ちました。
HAUS DER KUNSTという美術館で開催される、「POSTWAR — ART BETWEEN THE PACIFIC AND ATLANTIC, 1945 — 1965」に出品されるのです。
68か国から、218人のアーティストの350点以上の作品を集め、第2次世界大戦後の20年を振り返るというスケールの大きな展覧会です。

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木箱は昨年のアメリカ展のときのもの。
よくぞ取っておいてくれました、と美術運送業者さんに褒められました。

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展覧会は10月14日からはじまりますが、私は作品設置のために来週末からミュンヘン出張です。
と言っても、設置をしたらすぐに帰国してしまうのですが、9月25日(日)午後6時半からNHKラジオ第1/NHKワールド・ラジオ日本の番組「ちきゅうラジオ」の「ちきゅうズームアップ」のコーナーで、10分ほど現地から展覧会の準備の様子をリポートする予定になっています。
街の賑わいやビールについても話して下さいと無茶ぶりされているので、やや不安ではあります。
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2016/9/13

『朝日新聞』に「四國五郎展」紹介  掲載雑誌・新聞

四国五郎、反戦の絵筆 原画や抑留中の日記、丸木美術館で回顧展
―2016年9月13日『朝日新聞』夕刊文化欄
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12557155.html?rm=150

6月の四國五郎展のオープニング・トークに取材に来て下さった小川雪記者が、展覧会の紹介記事を書いて下さいました。
会期はまだ10日間ありますので、未見の方はぜひ、ご来館ください。
以下は、記事からの一部抜粋。

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 会場には油彩画や挿絵原画、抑留中の豆日記など約80点を展示。貴重な資料でもあるのが、50年代初頭、峠の詩に四国が画をつけて「辻詩(つじし)」と呼んだポスターだ。街頭に貼りだし、占領軍や警察が来るとはがして逃げた。さながらストリートアートで、100枚以上描いたが、今は8枚だけが残る。四隅に残る多数の画びょうの跡が生々しい。

 四国は常々、「自分の絵は壁に飾る絵ではなく、平和のために使ってもらう絵だ」と語ったという。共に画家を目指した弟を原爆で失った怒りと悲しみをばねに、終生、絵を売らずに描き続けた。70年代には地元テレビで被爆体験を絵で残そうと呼びかけ、多くの記録画が集まった。

 一方、平和運動と芸術の間で葛藤もあったようだ。自らの創作を、画に賛や句を合わせる日本の絵画の伝統につなげ、意気込みを記してもいる。同館の岡村幸宣学芸員は「四国は理念一辺倒ではなく、絵と言葉を組み合わせて絵画の可能性を深めた」と話す。


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小川記者、どうもありがとうございました。
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2016/9/8

永田浩三著『ヒロシマを伝える』の事実誤認について  書籍

今夏、刊行された永田浩三さんのご著書『ヒロシマを伝える−詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち』は、原爆投下後、占領下の時代に原爆被害を伝えた表現者たちの物語です。
永田さんの多方面にわたるご活躍には以前から敬意を頂いていますし、その問題意識にも共感しているのですが、一方、この書籍に事実誤認が少なくないことは、刊行当初から関係する研究者たちの間で話題になっていました。

私から指摘できることは丸木夫妻関係の記述に限られていますが、中には重要な誤認も含まれていたので、著者の永田さん、WAVE出版担当のSさんと相談の結果、明らかに事実と異なる個所に限って、WAVE出版のサイトに正誤表を公開して頂くことになりました。
念のため、学芸員日誌ブログにも、永田さんのお書きになった正誤表を公開しておきます。

もっぱら丸木夫妻に関する箇所は私が指摘しましたが、広島の地名や人名、施設名などの表記については(お名前は出せませんが)日常的に被爆者の証言に深くかかわっていらっしゃる方からの指摘が多くありました。その他、四國五郎のご遺族や他館施設の方からの指摘も含まれています。

丸木美術館での販売分につきましては、この正誤表を折りこむことにしますが、すでにお求めの方も、正誤表を照らし合わせながらお読みになることをお勧めします。
永田さんの精力的な活動には敬意を表しますが、重要な問題に多く触れているご著書だけに、誤った情報が流布することを危惧します。

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『ヒロシマを伝える』本文中の表現および誤植に関して

この度は弊社出版物をご購入頂きありがとうございます。本文中に適切でないと思われる 表現及び誤植がありましたので、ここにお詫びし訂正させていただきます。

 2016年8月25日
 著者・永田浩三
 株式会社WAVE出版

3頁15行目 (誤)猿猴川 →(正)京橋川
31頁13行目 (誤)掘立小屋だった →(正)削除
39頁5行目 (誤)白島町の逓信病院 →(正)東白島町の広島逓信病院
45頁13行目 (誤)猿猴川 →(正)京橋川
51頁15行目 (誤)平野川 →(正)京橋川
58頁15行目 (誤)紙屋町 →(正)中区大手町
58頁12行目 (誤)2016年 →(正)2015年
61頁11行目 (誤)広島中学 →(正)中学校(四國によれば、広島中学とある)
64頁3行目、8行目 (誤)広島産業奨励館 →(正)広島県産業奨励館
72頁7行目 (誤)二歳 →(正)11歳
78頁1行目 (誤)中島公園 →(正)中島町
79頁8行目 (誤)広島市 →(正)広島市立
81頁6行目 (誤)広島 → (正)広島県福山
83頁 図版のキャプション(誤)日鋼争議(赤松俊子・画 丸木美術館蔵)→(正)日鋼ストの門(赤松俊子・画 個人蔵)
88頁1行目  (誤)白いチマチョゴリの女性を中心に描いている。→(正)裸の女性の脇にチマチョゴリの女性を描いている。
94頁12行目 (誤)9月23日 →(正)8月29日
125頁13行目 (誤)広島県安佐郡飯室村 →(正)広島市三滝町
134頁4行目 (誤)松重重人 →(正)松重美人
136頁15行目 (誤)山田五十鈴 →(正)削除
136頁 図版のキャプション (誤)『みんなの詩』→(正)『われらの詩』
137頁2行目 (誤)およそ170万人 →(正)現在判明しているだけでおよそ170万人
161頁4行目  (誤)新たに赤松俊子が担当  →(正)赤松俊子が原画を描いた。(ただし、実際に使用されることはなかった。)
240頁5行目 (誤)森重明 →(正)森重昭
240頁10行目  (誤)真実が浮かび上がる  →(正)「市民が描く原爆の絵」とは、違った見解にたどり着いた。
15行目  (誤)それが暴行によって殺されたという物語の真相のようだ。→(正)これが森がたどりついた結論だ。米兵捕虜は民衆によって殺されたのか、すでに息絶えていたのか、それを判断する手立てをわたしは今持っていない。
17行目 (誤)米兵捕虜の死の話 →(正)米兵捕虜の虐待の話
17行目 (誤)日記をもとに →(正)削除
241頁2行目 (誤)まだ噂話が生き残っていた時代 →(正)削除
242頁 図版のキャプション (誤)米軍捕虜の死 →(正)米兵捕虜の死


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単純な表記の誤りはともかくとして、訂正箇所には解説が必要なところもあるので、以下、主に丸木夫妻の箇所にしぼって、解説を付記します。

88頁1行目  (誤)白いチマチョゴリの女性を中心に描いている。→(正)裸の女性の脇にチマチョゴリの女性を描いている。

永田さんが言及されているのは、俊が日鋼争議を描いた唯一の油彩画《広島日本製鋼事件によせて》(1949年)を指すと思いますが、以下の図版の通り、裸婦像を中心にした作品で、その左奥に桃色のチマチョゴリを着た女性像が描かれているものの、「白いチマチョゴリの女性を中心に」とは言い難い作品です。

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125頁13行目 (誤)広島県安佐郡飯室村 →(正)広島市三滝町

飯室村のルビ「いいむろ」は誤り、「いむろ」と読みます。
しかし、そもそも丸木家は1931年に広島市内三滝町に転居しています。1950年当時中学生だったという佐藤光雄氏の年齢から考えて、丸木スマの隣家に住み、防空壕を共有していたという回想は、広島市三滝町でのことと思われます。

136頁15行目 (誤)山田五十鈴 →(正)削除

「原爆の図三部作完成記念会」の告知ビラには、確かに山田五十鈴の名があります。
その告知ビラを紹介している刊行物は拙著『《原爆の図》全国巡回』(64頁)のみなので、永田さんはおそらく拙著を参考にして「山田五十鈴がかけつけた」と書かれたのでしょう。
しかし、後日報道された1950年8月26日付『婦人民主新聞』の記事には山田五十鈴のことは一切触れられていません。ビラに名前があっても、当日は来なかった可能性が高いです。少なくとも、私の知る限り、「かけつけた」と言いきる根拠を示す資料は存在しません。

137頁2行目 (誤)およそ170万人 →(正)現在判明しているだけでおよそ170万人

全国巡回展については不明な点が多く、拙著『《原爆の図》全国巡回』に記している通り、「現在判明しているだけで、少なくとも」という前置きが必要です。それは、永田さんが訂正されている「170万人」だけではなく、その直前の「全国170か所」という数字についても同様です。

161頁4行目  (誤)新たに赤松俊子が担当  →(正)赤松俊子が原画を描いた。(ただし、実際に使用されることはなかった。)

→青木文庫の『原爆詩集』は、昔の文庫本によくある画一的な表紙で、表紙原画を俊が担当したという事実はありません。広島市立中央図書館には、俊の描いた表紙原画が存在しますが、文庫用ではなく、単行本を想定したものでしょう。しかし、『原爆詩集』が文庫として刊行されることになった時点で、表紙画は没になったと思われます。今春、丸木美術館でも「未使用原画」として展示しました。

240頁10行目  (誤)真実が浮かび上がる  →(正)「市民が描く原爆の絵」とは、違った見解にたどり着いた。
15行目  (誤)それが暴行によって殺されたという物語の真相のようだ。→(正)これが森がたどりついた結論だ。米兵捕虜は民衆によって殺されたのか、すでに息絶えていたのか、それを判断する手立てをわたしは今持っていない。
17行目 (誤)米兵捕虜の死の話 →(正)米兵捕虜の虐待の話
17行目 (誤)日記をもとに →(正)削除
241頁2行目 (誤)まだ噂話が生き残っていた時代 →(正)削除


もっとも事実誤認を危惧するのは、この「米兵捕虜」の箇所です。
永田さんは、四國五郎の弟・直登の日記についても言及していますが、彼の8月7日の日記の中には、「元の野砲の所で一名の米兵を眞ぱだかにして手足をくくり棒切で通行人にうたしていた」という記述が存在します。
米兵捕虜の虐待についてはさまざまな議論があり、永田さんが言及されている森重昭氏のご著書でも、相生橋の米兵の虐待はなかったのではないかと推論が記されていますが、直登の日記に登場する西練兵場付近での虐待の記録は、おそらくもっともリアルタイムに近い状況で記された、極めて信憑性の高いものです。

そして、1950年10月の五流荘展の際、四國五郎は「4部、5部の資料のために」直登の日記を丸木夫妻に手渡したと自らの日記に回想しています。日記をもとに《原爆の図》を描いたと記すならば、1951年に発表した第4部《虹》でしょう。
1971年の《米兵捕虜の死》を描く際には、原爆資料館主査小堺吉光が同行し、当時陸軍中国憲兵隊司令部特別協力班長だった柳田博、陸軍歩兵第1補充隊第2部隊に勤務し米兵捕虜の世話に当たっていた増本春男から話を聞いたという記事が、1971年2月12日付『中国新聞』に紹介されています。
そうした資料からも、「(直登の)日記をもとに、1971年、丸木夫妻は、『原爆の図』第13部「米兵捕虜の死」を描いた。」というくだりは、明らかな誤りです。

参考までに、《米兵捕虜の死》制作の経緯については、丸木俊の著作『幽霊―原爆の図世界巡礼』(1972年、朝日新聞社)に詳しく記されています。
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