2016/6/30

『琉球新報』の「落ち穂」連載のお知らせ  掲載雑誌・新聞

2016年7月より半年間、『琉球新報』のエッセイ「落ち穂」の執筆陣に加わることになりました。
総勢10人なので、2週間に1回、全14回の連載となります。

ほとんど沖縄在住の方ばかりの中で、本土の人間が何を書けばいいのか、少々不安な点もあるのですが、担当のY記者が「沖縄のことでなくてもいい、丸木美術館の話を書いてもいい」とおっしゃって下さったので、思い切って引き受けることにしました。

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とはいえ、「戦争と美術」というテーマから大きく離れることはないでしょう。
7月1日掲載予定の第1回は、四國五郎について書きました。
今後は宮良瑛子や丸木夫妻のことなども書いていきたいと思っています。
沖縄の皆さん、半年間、どうぞよろしくお願いいたします。
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2016/6/25

「四國五郎展」開幕  企画展

いよいよ「四國五郎展」がはじまりました。

今回の展覧会は、第1章「シベリア抑留体験」、第2章「辻詩と『われらの詩』」、第3章「平和のために」、第4章「絵本『おこりじぞう』など」という4つの章からなり、約80点の作品で四國五郎の画業を紹介しています。

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その中でも、1950年頃から1953年にかけて、四國が峠三吉とともに制作した「辻詩」は、ひとつの展示の軸になっています。

「辻詩」とは、二人が即興的にアイディアをぶつけあい、詩と絵を一体化させて一般にわかりやすく反戦を訴えるポスターの構想を練って、それを四國が手書きの作品に仕上げたもの。
広島の街角に貼り出して発表し、二人は仏教の「辻説法」にならい、「辻詩」(または「壁詩」)と呼びました。

警察が来るとすぐに剥がして逃げたそうですが、没収・紛失されたものも多く、当時100枚ほどを作ったもののうち、現存するのはわずか8枚のみです。今回は、その8枚をすべて額装して展示しています。

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言葉と絵が一体化した表現、共同制作であること、占領下・朝鮮戦争への抵抗、ゲリラ的な発表など、「辻詩」には丸木夫妻の《原爆の図》との類似点をいくつも見出すことができます。

シベリア抑留経験のある四國も、外交官の家庭教師としてモスクワに2度赴任している俊も、当時、ソ連の影響を強く受け、プロレタリア芸術運動の方法論を意識していました。
にもかかわらず、理念以上に圧倒的な個人的体験から出発している「思い」が、型通りの「社会主義リアリズム」から逸脱していく点を、とても興味深く感じています。

1950年10月、原爆ドームの南隣・五流荘で行われた、全国巡回のスタートとなる原爆の図三部作展に、「われらの詩の会」は大きな協力をしています。そのとき、俊が「辻詩」に強い関心を示していたことを、四國は日記に書き留めています。
そうした交流をはじめとする丸木夫妻と峠・四國らとの双方向的な影響関係については、あらためて調査・考察を進めていく必要がありそうです。

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午後2時からは、「四國五郎展」オープニングトーク。
ゆかりの方や出版関係者、学芸員、新聞記者、美術館友の会会員など、40名ほどが集まって下さいました。ご来場の皆さま、本当にありがとうございました。

トークでは、武蔵大学の永田浩三さんが展示の順に沿って作品を紹介して下さり、ご子息の四國光さんが家族ならではの視点で画家・四國五郎の人生を語って下さいました。
丁寧かつわかりやすい内容で、初めて四國五郎の作品を見る来場者の方にも好評でした。

広島ではたびたび展覧会が開かれていますが、関東圏でこれだけ本格的な回顧展は初めてなので、多くのご方に来場ただきいたいですね。会期は9月24日まで。
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2016/6/21

【広島出張】原爆の図など作品返却/峠三吉詩碑  調査・旅行・出張

今日もまた早朝の飛行機で広島出張。
「原爆の図はふたつあるのか」借用作品を、無事に広島市現代美術館、広島市立中央図書館、広島平和記念資料館に返却しました。
これでようやく、ひと安心。これからは「四國五郎展」準備に集中です。

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日帰りなので、あまり時間がなかったのですが、平和記念公園内の峠三吉詩碑を見てきました。
シンプルな碑石と設置台は、四國五郎のデザインによるものです。
この詩碑が建立されたのは1963年8月6日。除幕式には丸木夫妻も出席していたようです。

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2016/6/19

東京新聞サンデー版「絵で見る沖縄戦」/市民意見広告  掲載雑誌・新聞

2016年6月19日付『東京新聞』サンデー版の特集は「絵で見る沖縄戦」。
2面見開きカラーで丸木夫妻の《沖縄戦の図》をはじめ、宮良瑛子さん、儀間比呂志さんの作品が並びます(ほかに「体験者が描く沖縄戦の絵」も紹介)。
また、沖縄県立博物館・美術館の豊見山愛さんが、丁寧なテキストを書いて下さっています。レイアウトも見やすく、教材に使える内容です。

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制作はサンデー版編集部の石井友恵記者。
以前に、「丸木俊特集」も組んで下さった勉強熱心な記者さんです。
私も企画立ち上げの段階で、画家の選定や豊見山さんの紹介など、少しばかり協力をしました。
その関係で、丸木美術館も300部ほど頂いています。
しばらくは美術館内で無料配布していますので、ご来館の方はどうぞお持ちください(なくなり次第配布は終了します)。

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また、同日付『朝日新聞』には全面を使って市民意見広告が掲載されました。
紙面デザインは、新宿書房の『《原爆の図》全国巡回』を手がけて下さった鈴木一誌さんで、《水》の母子像部分は、本の内扉のために撮影した写真です。

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市民意見広告は、この後、読売新聞、毎日新聞にも連日掲載されるとのことです。
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2016/6/19

「四國五郎展」展示作業  企画展

一日がかりで怒濤の展示替え作業。
長時間お手伝い下さったボランティアの皆さま、どうもありがとうございました。

「原爆の図はふたつあるのか」展の撤去が終わり、代わって「四國五郎展」の作品の位置を大まかに決めました。

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過酷なシベリア抑留を体験し、郷里の広島を原爆で焼かれ、最愛の弟を失った一人の画家が、生涯をかけて描き続けた絵画から約80点を展示します。

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新しい表現の形式が次々と登場する20世紀において、流行の最先端の芸術として評価されるよりも、変わらず「誰にでもわかる」表現を選び取ることは、きっと大きな苦悩と葛藤があったことでしょう。

それでもなお描かずにはいられないほどの強い「平和」への思いを、なぜこの画家は持ち得たのか。
そして、その残された作品を、なぜ今、私たちが見るべきなのか。
ぜひ、丸木美術館に足を運んで、常設展示の《原爆の図》と合わせて、この機会に四國五郎の作品を実際に見て下さい。

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今見る、ということが大事な意味を持つ展覧会になると思います。
芸術には、脈々と受け継がれてきた、社会的主題の絵画の系譜があります。その歴史に光を当て、今を生きる私たちの時代につなげていくのも、美術館の重要な役割のひとつです。

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シベリア、広島、そして占領下の日本と現代を往還するような空間ができつつあります。
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2016/6/17

【広島出張2日目】 広島市現代美術館「東松照明展」  調査・旅行・出張

広島出張2日目は、広島平和記念資料館で用事を済ませ、広島市現代美術館で「東松照明ー長崎ー展」を観て、最後にギャラリーGにちょっとだけ顔を出してから、帰京。

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「東松照明展」は、長崎のみの写真展としては過去最大級の規模という約350点の展示。
生前のH元館長が、「丸木美術館で東松の長崎の写真展をやるべきだ」と提案したことがあるのを思い出しながら、ひとつひとつじっくり観ました。
そのせいもあってか、展示を見ながら、なぜ「今」、「広島」で、「東松の長崎の写真展」を企画するのか、その意味をもう少し掘り下げて考えたいという気もしました。

もちろん、広島で「東松の長崎の写真」を見るということは、興味深い試みです。
むしろ広島から長崎を見る、あるいは長崎から広島を見るという視線は、互いにもっとあってもいい。
そして、広島と長崎が共同で原爆を主題にした表現を検証していくという試みも、行っていかなければいけないと思います。
今回の「東松展」が、その端緒となると良いのですが。

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1961年に原水協の仕事で初めて長崎を訪れたことを機に、その後は個人的に何度も現地に足を運び、やがて移り住んだ東松は、1945年8月9日11時2分の長崎を起点にしながら、文化や自然、歴史性へと写真の視界を拡げ、撮り続けていきました。
決して癒されない「傷」を抱えながら、なお生き続ける人や土地が重ねてきた歳月の「深み」と美しさ」が、心に沁みる展覧会です。
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2016/6/16

【広島出張初日】四國五郎展作品集荷  調査・旅行・出張

朝一番の飛行機で広島に飛び、「四國五郎展」にむけての作品集荷。
四國五郎アトリエでは長女Mさんご夫婦と長男Hさんに加えて、広島大Kさんと2人の学生の強力な助っ人も加勢して下さって、作品の梱包作業を行いました。

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予定通り午後2時に業者の車に積み込み、その後、平和記念資料館と市立中央図書館もまわって、合計80点ほどの作品や資料を借用。
心配していた雨も、なんとか本降りにならずにすみ、ひと安心でした。
25日からはじまる展覧会に向けて、いよいよ準備が本格化してきました。

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企画展「四國五郎展 シベリア抑留から『おこりじぞう』まで」
2016年6月25日(土)〜9月24日(土)

峠三吉のガリ版『原爆詩集』(1951年)の表紙絵や絵本『おこりじぞう』(1979年)の挿絵を手がけるなど、広島で生涯をかけて「反戦平和」を見つめながら表現活動を続けた画家・四國五郎(1924〜2014)。
1944年に徴兵されてシベリア抑留を体験し、1948年の帰還後は峠三吉らとともにサークル誌『われらの詩』の刊行や、反戦詩と絵を一枚の紙に描いて街頭に貼ってまわる「辻詩」の活動を展開。1950年10月、丸木夫妻の《原爆の図》全国巡回の出発点となった広島での展覧会を支えたのも、峠や四國ら「われらの詩の会」の仲間でした。その後も「広島平和美術展」を組織・運営しながら、原爆や母子像をテーマにした絵画や絵本を描き続けるなど、生涯をかけて「平和」への思いを貫きました。
今展では、シベリア抑留時代のスケッチから、被爆死した弟の日記、峠三吉や丸木夫妻との交流を示す資料、辻詩、絵画、絵本原画などを紹介し、四國五郎の遺した幅広い表現とその意味を振り返ります。

●オープニング・トーク 「四國五郎という画家がいた」
6月25日(土)午後2時 出演:四國光(四國五郎長男)、永田浩三(武蔵大学教授)
ご長男である四國光さん、今夏に『ヒロシマを伝える 〜詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち〜』(WAVE出版)を刊行予定の永田浩三さんをお迎えして、生涯をかけて原爆・平和を描き続けた四國五郎の人となりや仕事についてお話し頂きます。

WEBページはこちら
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2016/2016shikoku.html
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2016/6/12

富山県水墨美術館/フォルツァ総曲輪  調査・旅行・出張

大阪の研究会の帰りに、北陸新幹線に乗って富山に立ち寄りました。

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午前中は神通川の橋を渡って富山県水墨美術館へ。
広々とした庭園がとても気持ちのよい美術館でした。

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開催中の企画展は「美人画の四季 松園、恒富、清方から麦僊まで」
この日が最終日ということもあってか、館内は賑わっていました。
水墨美術館とはいっても、必ずしも水墨画専門の美術館というわけではないようです。

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展覧会を見た後は、路面電車に乗って市の中心部へ。昼食に海鮮丼を食べました。

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午後は、9月で閉館になってしまうという映画館、フォルツァ総曲輪を訪ねました。

近くに新しいシネコンができたからという理由で、「役割を終えた」という行政判断なのだそうですが、たんなる映画館ではなく、市民の集う“場”としての存在感もあるスペースなので、閉館してしまうのはたいへん残念です。

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受付には、丸木美術館のイベントなどをサポートして下さっているY子さんがいらっしゃいました。
この日は、映画専門のシアターホールではなく、イベントホールで上映された『わたしの自由について SEALDs 2015』を観ました。
SEALDsの疾走感を鮮やかに捉えた記録映画で、3時間という上映時間もまったく長く感じません。
監督は地元の富山出身の西原孝至さん。ふだんは「情熱大陸」などのテレビ番組を撮っていると聞いて、納得でした。
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2016/6/11

兵庫県立美術館「1945年±5年」展/みんぱく共同研究  館外展・関連企画

朝一番の飛行機で神戸に飛んで、兵庫県立美術館で開催中の「1945年±5年 激動と復興の時代 時代を生き抜いた作品」展を観ました。

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1945年を中心軸に、1940年から1950年までの激動の時代を、約70名の作家、約200点の作品で振り返る企画です。
丸木美術館からは原爆の図第1部《幽霊》を貸出、そのほか、未完作の原爆の図《夜》や、丸木俊の《裸婦(解放されゆく人間性)》、丸木夫妻のメーデースケッチも出品しています。

松本竣介の《街(自転車)》や小磯良平の《斉唱》などモダンな生活風景からはじまり、満州・朝鮮・台湾など植民地の風景、従軍した兵士たちの見た風景、銃後の生活と続いていく1940年代前半。
筥崎宮から約30年ぶりに外部貸出されたという女流美術家奉公隊の共同制作《大東亜戦皇国婦女皆働之図(春夏の部)》は、吉良智子さんの好著『女性画家たちの戦争』とあわせて観ることをお勧めします。
そして廃墟の風景からはじまる1940年代後半は、立ち直る人びと、とりわけ女性たちの姿が印象的に描かれ、最後は《原爆の図》と浜田知明の《聖馬》の空間で幕を閉じます。
近年の潮流ではありますが、タブローばかりでなく、スケッチも数多く紹介されています。
前田藤四郎の琉球を主題にした版画原画や満州スケッチ、山下菊二の台湾スケッチ、吉田博の造船所スケッチ、水木しげるのトーマスケッチなどなど。

展覧会の特徴としては、従軍画家による「作戦記録画」の数が少なく、全体的に風景と暮らしに主題をおいた作品が多い印象を受けました。
図録に収録された担当学芸員の出原均さんの論考によれば、「私と公の関係」を問題として1940年代を読み解こうという狙いがあるようです。

戦争画を否定することによって、戦争画にまつわる多くのことが過度に否定されてしまった」と出原さんは述べています。戦時中、上からの強制的な「公」があまりにも巨大だったため、戦後は「個人の立場を取り戻す」ことが正当化されるあまり、下からの「公」を作る動きがあっても、公ということ自体に対する忌避にさらされてしまったというのです。

それは、「大衆が描かせた絵画」と丸木夫妻自身が語った《原爆の図》と全国巡回展の評価をめぐる問題に関わります。
一見、戦時中の「聖戦美術展」と類似している全国巡回展について、出原さんは次のように述べています。

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占領下、実態の知られていない被爆者を描くという、夫妻の発案から出発し、様々な市民組織に支えられて巡回(左翼系の協力はあったが)した点で、主に国が主導した作戦記録画の制作・巡回とは真逆である。当時の《原爆の図》の圧倒的な大衆性は、その大衆性が連作において様々に反映するという点も含めて、戦後における公をどう捉えるかの試金石であり、それはまた、戦時中における公との違いをどう捉えるかによっても明らかになるだろう。

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さらに出原さんは、「《原爆の図》とは逆に、私的なものをより徹底することで、戦争を振り返ったのが浜田知明である」と述べています。大画面の戦争画や《原爆の図》が追求したのとはまったく逆の方向性である小さな版画の画面に描かれた「私性」。

異なる方法で上からの巨大な「公」に対峙した丸木夫妻の《原爆の図》と浜田知明の《初年兵哀歌》の「大きな幅こそ、戦後美術の豊かさを示すものかもしれない」というのが、最後の展示室に込められた、展覧会の意図のようでした。

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広島市現代美術館で原爆の絵画について深く研究されていた出原さん(1992年の丸木位里展の担当学芸員でもありました)が、原爆をどのように見せるか、という点にも関心がありました。
福井芳郎《ヒロシマ原爆》(1948年)、古沢岩美《憑曲》(1948年)、山本敬輔《ヒロシマ》(1948年)といった作品は、かつて出原さんが紹介されたこともある、原爆を描いた絵画としては欠かせない作品ばかりですが、今回興味深かったのは、原爆投下後の最初期のスケッチとして、高増径草の墨とパステルによるスケッチを取り上げていることです。

論考の中で、出原さんは、軍機保護法などの制約があった時代、画家が描いた廃墟のスケッチはおおむね「戦後に描かれたもの」ではないかと推測されています。
広島が被爆した8月6日と翌日にその惨状をスケッチしたとの画家の発言もあるが、それを示す確実な資料があるわけではない」という鋭い指摘には、はっとさせられました。

今回、高増のスケッチが紹介されているのも、彼が原爆投下から1か月後の広島でスケッチをしている姿が、残留放射能の有無を調べるために広島入りした米軍の戦略爆撃調査団が撮影した写真に収められているという「証拠」があるからなのでしょう。

出原さんの論考とは無関係なのですが、赤松俊子(丸木俊)も8月下旬に広島入りして2点の丹念な焼け跡スケッチを残しているので、もしかすると原爆投下後の広島を描いた画家としては、彼女も「最初期」に加えていいのではないかと、ふとそんなことを思ったりもしました。

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午後からは大阪・国立民族学博物館にて共同研究会「放射線影響をめぐる「当事者性」に関する学際的研究」の第3回研究会に参加。
今後の研究会の進め方を討議した後、桑原牧子さんの「フランス領ポリネシアの核実験被ばく問題」、小杉世さんの「ニュージーランドから見た太平洋核実験―キリバス、仏領ポリネシアを中心に」の二つの発表を聞きました。
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2016/6/9

『中国新聞』に“若き位里作 幻の絵馬”紹介  掲載雑誌・新聞

若き位里作 幻の絵馬 広島県安芸太田の神社に2点 初期画業伝える人物画
―2016年6月7日付『中国新聞』
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=60408

4月18日に調査した丸木位里が若き日に手がけたという絵馬についての記事が、中国新聞に掲載されました。執筆は、取材に同行して下さった西村文記者です。
当日の取材の様子は、丸木美術館学芸員日誌にも記しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2711.html

2点の絵馬は、いずれも「昭和4年」の制作。日本武尊と楠木正成・正行親子が描かれています。

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以下は、記事からの一部抜粋。

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 4月18日、奥田元宋・小由女美術館(三次市)の永井明生学芸員と、原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)の岡村幸宣学芸員が同神社を訪れて調査し、位里さんの作と確認した。
 位里さんは現在の広島市安佐北区安佐町飯室の出身。東京で日本画の修業をした後、23年の関東大震災を機に帰郷。絵馬は29年、友人が副住職を務めていた安芸太田町の光明寺滞在中に制作したとみられる。当時は左翼思想の影響を受け、詩や短編を芸備日日新聞(後に中国新聞と合併)に投稿していたが、画家としての活動については不明な点が多かった。
 岡村学芸員は「当時の思想信条とは別に、親しい人からの依頼に応じたのだろう」と推測。後に再び上京し、水墨画家として活動を始めてからは人物を描いておらず、「初期の人物画は興味深い」と絵馬に見入っていた。
 調査に立ち会った同町郷土史研究会会長斎藤泰行さん(82)は「地元でも絵馬の存在を知っている人は少ない。郷土の宝として大事に守っていきたい」と話していた。


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地域で大切に守って頂きたい絵馬ですね。
絵馬の存在を教えて下さった斎藤会長に感謝です。
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2016/6/8

「原爆の図はふたつあるのか」新聞紹介多数!  掲載雑誌・新聞

現在開催中の企画展「原爆の図はふたつあるのか」についての新聞記事が、この一週間で4回掲載されました。
おかげさまで、電話での問い合わせや来館者が増え、美術館は嬉しい悲鳴をあげています。
以下に、記事をまとめてご紹介いたします。取材して下さった記者の皆さま、どうもありがとうございました。

   *   *   *

「原爆の図」2枚目の葛藤
―2016年5月31日付『朝日新聞』夕刊文化欄
http://www.asahi.com/articles/DA3S12386173.html

(以下は一部抜粋)
 再制作版は50年ごろ、米国での展示(実現せず)に備えた「控え」として描かれた。当時「原爆の図」は平和運動の高まりとともに草の根で全国を巡回しており、展示要請が増えると再制作版も各地を巡るようになった。ただ、その公開に葛藤もあったようだ。俊は「冷汗(ひやあせ)を流し」「恥ずかしく」などと後に記している。封印した時期もあった。夫妻は70年代に3作とも加筆し別の美術館へ収めた。並べてみると、背景の描き込みや朱を用いた人物の輪郭線などの違いが明らかだ。(小川雪記者)

   *   *   *

ふたつの原爆の図「再制作版にも力」
―2016年6月1日付『毎日新聞』朝刊埼玉版
http://mainichi.jp/articles/20160601/ddl/k11/040/190000c

(以下は一部抜粋)
 今回の企画展は、同美術館の協力で初めてオリジナルと再制作版を並べて展示している(「幽霊」のオリジナルだけは、兵庫県立美術館に貸し出し中のため複製を展示)。「ふたつの原爆の図」を見比べると、全体の構図や大きさはほぼ同じだが、「水」の再制作版の背景にオリジナルにはない墨が流され、折り重なって倒れた人々の体にも彩色されているなど、表現が大きく異なる点もある。
 丸木美術館の岡村幸宣学芸員(41)は「再制作版は見る人へのインパクトを、オリジナルより強めているように見える。オリジナルとは別の、力がある作品という意見も多く、評価を見直していきたい」と話している。
(中山信支局長)

   *   *   *

二つの「原爆の図」同時展示
―2016年6月3日付『朝日新聞』朝刊埼玉版
http://www.asahi.com/articles/photo/AS20160601000879.html

(以下は一部抜粋)
 同館学芸員の岡村幸宣さん(41)によると、丸木夫妻は1950年に三部作を発表。このとき、米国での展覧会の依頼を受けた夫妻は紛失を恐れ、画家仲間とともに本作を模写した再制作版を描いた。岡村さんは「単なる模写ではなく、『本作』とは独立した別の作品」と評価する。
 このときの米国での出展は実現しなかったが、複数の展示の依頼があり、再制作版は北海道、四国、九州などを巡回。本作と同様に各地で関心を集めた。
 ただ、作者には苦悩もあった。再制作版は本作に劣ると感じていた俊さんは、両作品を並べて展示した際のことを自著で振り返り「あとから描いた絵の前で冷汗を流しながら、言葉だけはだんだんはげしくなっていく(中略)恥ずかしくなって、疲れ果てて帰路につく」と吐露している。
 一時は門外不出となった再制作版は74年、丸木美術館栃木館の開館にあわせて夫妻が加筆し、再び世に出た。しかし96年に栃木館の閉館に伴って広島市現代美術館に寄贈された後は、ここ20年近く公開されていなかったという。
 二つの絵の構図は同じだが、再制作版は色彩が加えられ、白地の余白に墨が流れるなど、細部に違いが表れている。岡村さんは「制作過程で揺れ動く作者の葛藤が読み取れる。原爆の本質を伝えるため、加筆するなどして表現し続けたのではないか」と話す。
(平良孝陽記者)

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「原爆の図」二つあった 幻の米国展へ再制作
―2016年6月8日付『埼玉新聞』朝刊

(以下は一部抜粋)
 丸木美術館の学芸員岡村幸宣さんによると、再制作版は輪郭や色の使い方がはっきりしているなど「被爆の惨状を明確に伝えたいという意図が込められていた可能性がある」という。
 再制作した「原爆の図」の展示を巡っては、俊さんが「絵の前で冷や汗を流しながら、言葉だけはだんだん激しくなっていくのです」と苦悩を回想記に記している。理由として、俊さんは原爆の悲惨な実相を伝えるためとはいえ、再制作版を展示することにためらいがあったのではないかと推測されている。
 再制作版は74年、丸木美術館栃木館に展示され、96年の閉館に伴い、広島市現代美術館に寄贈された。今回は同美術館の協力を得て、模写した3部作を東松山の丸木美術館に展示している。
 岡村さんは「二つの作品を通じて、丸木夫妻の深い思いを知り、原爆被害を伝えるために再制作した意味とは何か、芸術表現の根源に迫る機会になる」と話している。
(保坂直人記者)

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2016/6/3

富田牧子さんチェロコンサート  イベント

午後2時から1階奥の新館ホールで、富田牧子さんのチェロコンサートが行われました。
富田さんは、2012年に一宮市立三岸節子記念美術館で「生誕100年丸木俊展」が開催された際、コンサートをして下さった方です。
いつか丸木美術館で、という話を頂いていたのですが、ようやく実現することができました。
出演は、富田さんと、パーカッション奏者のコスマス・カピッツァさん。

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丸木夫妻の描いた戦争や公害の暴力の絵画が並ぶ空間に、チェロの伸びやかな音色が溶け合い、窓の外からは鳥の鳴き声が聞こえてくる演奏会でした。

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この日の曲目は以下の通り。

鳥の歌(カタロニア民謡)
G.B.ヴィターリ:パッサ・ガッリ *
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調〜プレリュード、アルマンド、クーラント
B.バルトークの「農民の歌」による即興
 *
G.リゲティ:無伴奏ソナタ
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調〜サラバンド、メヌエット、ジーグ

休憩
パーカッションソロ
ブルガリアの踊り *
Z.コダーイ:無伴奏チェロソナタより 第1楽章
B.バルトーク:ルーマニア民俗舞曲
 *
鳥の歌 *
[*チェロ+パーカッション] 

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とりわけ、「鳥の歌」は、丸木美術館の空間だからこそ、心に沁みて聞こえました。
丸木美術館のホトトギスは、ふだんはゲンコウカケタカと鳴くのですが、この日ばかりはピース、ピースと鳴いていました。

素晴らしい演奏を聞かせて下さった富田さん、コスマスさん、そしてご来場くださった皆様に、心から御礼を申し上げます。
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