2016/5/30

川越スカラ座『無音の叫び声』  川越スカラ座

久しぶりの川越スカラ座で、原村政樹監督の『無音の叫び声』を観ました。

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山形県上山市牧野の農民詩人・木村迪夫にスポットを当てたドキュメンタリ映画です。
1935年に生まれ、戦争で父や親戚を亡くした木村は、農民詩人の先達である真壁仁らと出会い、農業に従事しながら60年にわたって詩を書き続けました。

映画には登場しませんが、1951年4月に山形市美術ホールに丸木夫妻の《原爆の図》が巡回してきた際には、真壁が4月22日付『山形新聞』に「原爆の図三部作展について」という評論を寄稿しています。
もしかすると、木村さんも展覧会をご覧になっていたかもしれません。

戦争の記憶を忘れ、高度経済成長をひた走ってきた戦後の日本の、もうひとつの物語。
変わりゆく東北の農村で、畑を耕し、詩を書き、出稼ぎに出て、ゴミ屋を開業し、記録映画製作にも関わり、戦没者の遺骨を拾いに南洋の島を訪れ、地を這うような視線で時代の流れに抗し続けてきた一人の人間の生き方を、原村監督が丁寧に描写しています。

残念ながら私は仕事で都合がつきませんでしたが、週末の土曜日には田中泯さん、日曜日には澤地久枝さんが来館され、トークを行ったとのこと。豪華ゲストに会場も大盛況だったようです。
原村監督は川越在住で、毎日のように川越スカラ座にも来場され、私が観た月曜日の午前中の回でも、急きょアフタートークをして下さいました。

映画にあわせて、農文協より『無音の叫び声 農民詩人・木村迪夫は語る』を刊行されており、こちらもお勧めです。
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2016/5/29

NHK日曜美術館アートシーンにて「原爆の図はふたつあるのか」紹介  TV・ラジオ放送

NHK Eテレの日曜美術館アートシーンで、現在開催中の企画展「原爆の図はふたつあるのか」が紹介されました。
とてもよくまとまった内容で、大きな反響が続いています。取材して下さったSさんに感謝。
以下、番組の内容を書き出します。

   *   *   *

―原爆の図第3部《水》のアップから全体像へ

ナレーション 1945年、広島に落とされた原子爆弾。その被害を今に伝える絵があります。原爆の図。

―映画『原爆の図』(1953年)より、丸木夫妻の制作の様子。

ナレーション 描いたのは、丸木位里と俊夫妻。原爆投下直後の惨状を目にしたふたりは、その状況を伝えようと描きはじめました。

―古い原爆の図展の会場写真(1952年1月三菱美唄展会場)。

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ナレーション 作品を撮影した写真。不思議なものが写っていました。黒く塗られた空です。

―古い写真から現在の原爆の図第3部《水》へ画面転換、本作と再制作版の《水》を比較。

ナレーション しかし、作品を見ると、空は黒くありません。実は、同じタイトルの作品が、もうひとつ存在するのです。

―会場風景。キャプション「原爆の図はふたつあるのか 原爆の図丸木美術館(埼玉・東松山)」

ナレーション ふたつの原爆の図をならべて展示する、初めての展覧会です。

―原爆の図第1部《幽霊》の本作から再制作版へ画面転換。

ナレーション 焼け出され、さまよう人びと。もうひとつの原爆の図は、まったく同じサイズ。同じ構図。なぜ描かれたのでしょうか。

―ふたつの《水》の絵を背景に、岡村インタビュー。

岡村 1950年の暮れに、アメリカ人が丸木夫妻のところに来て、原爆の図をもっていきたいというので、当時占領下の時代で、原爆の図がどういうふうにアメリカに行くのか、そして、無事帰ってくるのかどうかというのが一番心配だったんだと思うんですね。それで、模写をするんですね。

―画面転換による原爆の図第2部《火》の本作と再制作版の比較。

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ナレーション 二つの原爆の図は、実はまったく同じではありません。再制作した方の絵では、人びとを包む火の輪郭が、よりくっきりと描かれています。夫妻は1970年代、再制作版の原爆の図に、さらに筆を加えていました。

―画面転換による原爆の図第3部《水》の本作と再制作版の比較。

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ナレーション 水を求めて川に向かった人びと。夫妻は、再制作版の背景を黒く塗り、さらに、人びとの肌に生々しい色を加えました。年月とともに遠ざかる戦争の記憶。加筆することで、よりリアルにその悲劇を伝えようとしたのでしょうか。

―再制作版《水》の母子像部分のアップ。ふたたびキャプション「原爆の図はふたつあるのか 原爆の図丸木美術館(埼玉・東松山)」

ナレーション 埼玉県東松山市の丸木美術館で、6月18日まで。

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2016/5/29

「いま、被災地から」展/第五福竜丸展示館40周年記念レセプション  他館企画など

午前中、ピースあいちのM事務局長と都内で打ち合わせ。
その後、東京藝術大学大学美術館で開催中の「いま、被災地から―岩手・宮城・福島の美術と震災復興―」展を観てきました。

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第1部は岩手・宮城・福島の美術を紹介することで、「東北美術」の特質や精神性を浮かび上がらせる内容。そして第2部は、被災した作品の修復の成果を紹介する内容でした。
挨拶文の中に、「美術の中心は首都圏にしかないのではありません。さまざまな地域にさまざまな核があり、それらが相互に連関しながらそれぞれの美術をつくっています」という文章があったことに、共感しました。

岩手なら橋本八百二の《津軽石川一月八日の川開》、佐々木一郎の《帰り路、松尾鉱山(長屋)の夕暮》。宮城なら金子吉彌の《失業者》、大沼かねよの《野良》、狭間二郎の《東北の野》、菅野廉の《亜炭鉱の人々》。福島なら酒井三良の《雪に埋もれつつ正月はゆく》、若松光一郎の《ズリ山雪景》、吉井忠の《百姓祭文》・・・。
それぞれの土地の匂いが漂ってくるような作品の数々を、これだけまとめて観る機会も、なかなかないように思います。
丸木美術館とかかわりのある作家では、佐藤忠良さんや高山登さん、安藤栄作さんの作品も出品されていました。
来場者に無料配布しているパンフレットが充実していて、お勧めです。

   *   *   *

午後は学士会館で第五福竜丸展示館40周年記念レセプションに出席。

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歴史の厚みと知の蓄積、加えて文化の豊かさを感じさせる、素晴らしい式典でした。
この日に向けて周到な準備を進めて来られた職員・関係者の皆さまに敬意を表します。
原爆の図丸木美術館と第五福竜丸展示館の共通点は、どちらも施設の名前に、展示物が入っていること。
つまり、建物が建てられてから中身を探すのでなく、はじめに芯になるものがあって、それを守るために建物がつくられたということです。そのことは、とても重要な意味を持つのだと、正面に掲げられた船影を見ながら、つくづく思いました。
これからも末永く、ともに協力しながら歩んで行きたい大切な施設です。
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2016/5/28

「キセイノセイキ」展/高木仁三郎市民科学基金成果発表会  講演・発表

午前中、東京都現代美術館の企画展「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展を観ました。

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表現と規制の問題を扱った点は意欲的な展覧会でしたが、「現代美術」という文脈の範囲内で行っている限界も感じてしまう内容でした。

その中で、1999年に計画が凍結された東京都平和祈念館の膨大な死蔵資料の存在を引き出そうと試みた藤井光の「爆撃の記録」には興味を惹かれました。

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とはいえ、展示品が存在しない空白にキャプションのみがつけられた異様な空間からは、「忘却に抗する」想像力が、モノを頼りにしないといかに心細いものになるかを再認識させられるばかりで、展示として有効な手段であるかどうかは、にわかには判断ができません。

東京都によって閉じ込められた問題を引きずり出して「可視化」した点は良かったですが、一方で、そうした問題の先に隠されているモノの存在そのものを可視化しようと試みる「野蛮な」アプローチはなかっただろうか、とも考えてしまいました。
理不尽な「規制」に対峙する文化的な「暴力」の必要性を思うと、少々洗練され過ぎてしまったのかもしれません。

   *   *   *

午後1時からは、東京・中央区の日本橋社会教育会館ホールで行われた高木仁三郎市民科学基金「市民科学 研究成果発表会 2016(その1・東京)」に参加しました。
2015年度の助成金を頂いたおかげで、新宿書房『《原爆の図》全国巡回』の刊行をはじめ充実した研究活動ができたので、その成果を報告しました。

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この日の発表は以下の7名でした。

◆深草亜悠美さん
『29年の歴史と記憶:ベラルーシの社会におけるチェルノブイリ事故の受容』

◆岡村幸宣さん
『米軍占領下の原爆の図全国巡回展―被爆体験の国民的共有を目ざした最初の試みの実態調査研究―』
 
◆モザンビーク開発を考える市民グループ 渡辺直子さん
『アグリビジネスによる土地収奪に関するアフリカ小農主体の国際共同調査研究 −モザンビーク北部を中心事例として−』

◆もっかい事故調 田中三彦さん
『福島第一原子力発電所の事故原因と推移過程に関する、運転データと客観的事実にもとづく詳細検討(その2)』

◆原子力資料情報室  澤井正子さん
『高レベル放射性廃棄物処分場選定手続きにおける社会的合意形成手法と安全性確認に関する研究』

◆原子力規制を監視する市民の会  阪上 武さん
『市民による原子力規制行政の監視活動』
   
◆福島老朽原発を考える会(フクロウの会) 青木一政さん
『福島原発事故に伴う生活環境の放射能汚染実態調査と住民の被ばく最小限化』

こうして見ると、私の研究は明らかに異質なのですが、その点について参加者の一人Sさんが、以下の感想を書かれていたので、関連個所のみ抜粋して紹介させて頂きます。

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高木基金のなかでは、異色ともいえる研究であるが、わたしは大変意味のある研究と感じた。

わたしたちの世代を含む多くの日本人が、丸木位里・俊夫妻が制作した「原爆の図」を知っている。原爆によって焼かれた人間の肉体が生々しく描かれたその絵は、被爆体験のないわたしたちに、原爆の恐ろしさを伝える。

今回の研究では、まだ日本が連合国軍の占領下にあった1950年に原爆の図が誕生し、全国で巡回展が開催された背景について、映像や証言、資料の調査から考察している。

研究を行った岡村幸宣さんは、占領下の原爆報道への圧力に抵抗し、核の脅威をいち早く知らせたいと願った人びとの動きが明確に浮かび上がる一方で、原爆の図を巡って、丸木夫妻や他の芸術家も含め日本国民や社会に「ゆらぎ」や「葛藤」が見られたという。

「ゆらぎ」や「葛藤」はとても大切なことのように思う。オバマ大統領が広島を訪問すると聞いたとき、わたしはなんとも言い難いものを感じていた。メディアを通じてさまざまな意見に接したが、どれもわたしの中に落ちるものはなかった。むしろ、わたし自身のなかにはっきりと「矛盾」したものが存在することを自覚した。オバマのスピーチを聞いたとき、オバマ自身が「ゆらぎ」「葛藤」「矛盾」を自覚し、優秀なスタッフからの助言もあったであろうが、それでもなお、オバマが自分の言葉として表現しこだわったように感じた。オバマ自身の言葉では無いところもたくさんあっただろう。その分析は専門家に委ね、参考としたい。わたしはオバマのスピーチを聞き、わたしは、日本人は、何にゆらぎ、何に葛藤し、どんな矛盾を抱えているのかを自覚的であらねばなならいと感じた。そして、丸木夫妻や全国巡回展を企画した市民のように、何を問題とし、どう表現するか、どう行動するかを自ら決定することがとても大切なことだと感じた。

今回の研究の成果は、『《原爆の図》全国巡回 占領下、100万人が見た!』(2015年11月、新宿書房)にまとめられている。一人でも多くのひとの目に触れてほしいと思う。


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そのように感じて頂けたことを、本当に嬉しく思います。

私にとっては、福島原発事故の科学的な調査分析をはじめ、ふだんなかなか聞く機会のないベラルーシの原発事故後の状況や、モザンビーク開発の問題などの報告もたいへん興味深く、大いに学びの種を得た一日でした。

発表会後の打ち上げ飲み会にも参加し、これで助成金に関する責務をすべて無事に果たすことができたので、ひと安心です。
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2016/5/28

『埼玉新聞』、『東京新聞』などオバマ訪問記事  掲載雑誌・新聞

オバマ大統領来広の余韻の残る翌朝。
スピーチを観た後に取材を受けた新聞の記事が掲載されました。
以下は関連個所のみの抜粋です。

まずは『毎日新聞』朝刊埼玉版。取材は中山信支局長でした。

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「これから意味あることに」

 丸木位里(1901〜95年)、俊(1912〜2000年)夫妻が原爆投下直後の広島などを描いた「原爆の図」を展示する丸木美術館(東松山市)は被爆70年の昨年、首都ワシントンなど米国内の3都市で巡回展示を実施した。会場では「原爆の図」の連作全15作品のうち6作品を展示し、“核超大国”の市民に向け「原爆が人間に何をもたらしたのか」を訴えた。

 また、同美術館の学芸員を務める岡村幸宣さん(41)は昨年、原爆被害の報道が禁じられていた占領期に既に始められていた原爆の図の全国巡回展の全貌を初めて明らかにした著書「《原爆の図》全国巡回」(新宿書房)を出版した。

 戦後71年でようやく実現した米大統領の広島訪問について、岡村さんは「現職大統領が広島に来て、核兵器廃絶を進め、戦争をなくしていこうと述べたことは、非常に意味があったと思う」と評価したうえ、「だが、これで終わるのではなく、これから意味のあることにしていかなければいけない」と訴えた。

 さらに、丸木美術館の役割について「過去の人たちの痛みを自らに近づけるための場所という意味で、ここは『過去に開かれた窓』。ここを現在に生かしていかなければいけないという責任も感じた」と語った。


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続いて『東京新聞』の社会面記事より。

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「被爆者の声聞いて」

 「ちょっと複雑ですね」。丸木美術館(埼玉県東松山市)の学芸員岡村幸宣さん(41)は館内に展示された原爆の図の前のモニターでオバマ大統領の様子を見守り、感想を語った。

 オバマ大統領のスピーチについて「あんなに長く話すより、被爆者の話をもっと聞いたり、原爆資料館を長く見てほしかった。広島を訪れる意味は原爆の被害を知ることにある」と話した。一方で、広島から米大統領が核廃絶のメッセージを発したことは「オバマさんだからこそできた」と評価した。

 「大事なのはオバマさんがこれから何をするか」と話す岡村さん。「今日一日で広島訪問を評価すべきではない。十年、二十年先に今日を振り返った時に、重要な意味を持つ一日だったと言えるようにする必要がある」。それはオバマ大統領だけでなく、すべての人々の課題だと考える。


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なかなかすぐには考えがまとまらず、テレビカメラの前ではしばらく沈黙した後、ようやく言葉を絞り出したのですが、新聞取材のときには少しずつ頭が整理されてきて、話ができるようになっていました。

とはいえ、その後もさまざまな方の賛否の意見を聞く機会が続いているので、もう少し時間をかけて自分の考えをまとめていきたい気もしています。
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2016/5/27

NHKニュース「大統領訪問 原爆の図美術館は」  TV・ラジオ放送

オバマ米大統領が広島を訪問するという一日。
事前にさまざまなお問い合わせを頂きましたが、現場のスタッフのあいだでは、できるだけ静かに、普段と同じ仕事をしようと話をしていました。

そのため、昨日は朝からいつも通りの丸木美術館。団体のお客さんに《原爆の図》の前で解説をしたり、年度決算の事務作業をしたり、淡々と過ごしました。
K理事長からは、朝から広島に入っているとの連絡を受けました。
きっと広島方面の方々は、たいへんな一日を過ごしていたのだろうと思います。
夕方、閉館時間後にNHKさいたま局、テレビ埼玉の中継撮影が入り、《原爆の図》の前でオバマ大統領の広島入りをモニターで観ました。

オバマ大統領は壮大な理想を語っていたし、彼でなければ現職大統領が広島に来ることはなかったとは思います。
ただ、少々壮大すぎるようにも感じられました。頭のどこかでは、『ヒロシマ・モナムール』の有名な台詞、「君は何も見ていない」という言葉を思い出したりもしていました。
オバマ大統領のスピーチが終わった途端に、テレビや新聞の取材が立て続けにはじまったので、その後のことは見ていません。こちらが落ち着いたときには、もうオバマ大統領は広島から去っていたようです。

消化不良のまま臨んだインタビューではうまく話せず、いくつか取材を受けながら少しずつ頭の中が落ち着いていったのですが、どちらにしても、テレビに流れる段階では、なかなか肝心な部分は使われないこともわかっているので、同じだったかもしれません。

ともあれ、これで何かが終わるわけでもなく、終わらせてもいけないので、今まで通り、《原爆の図》という「過去に開かれた窓」に前に向き合い、思い悩み続けるより仕方ないのですが。
NHKの「首都圏ネットワーク」では、短い時間でしたが、中継放送されました。
以下のWEBサイトで、期間限定ですが動画を見ることができます。

http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20160527/5631061.html
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2016/5/26

『埼玉新聞』“核なき世界の道筋を”  掲載雑誌・新聞

“核なき世界の道筋を オバマ大統領広島へ”
 ―2016年5月26日付『埼玉新聞』朝刊

保坂直人記者が取材して下さいました。どうもありがとうございます。
以下は、冒頭部分の一部抜粋です。

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 画家の故丸木位里、俊夫妻が原爆投下直後の広島を描いた「原爆の図」。所蔵する「原爆の図丸木美術館」(東松山市下唐子)の学芸員岡村幸宣さんは、オバマ大統領の広島訪問を評価しながらも「広島を訪れるのであれば、被爆者の声を聞き、原爆資料館(広島平和記念資料館)を見て、謙虚に学ぶべきだ。核なき世界の現実化への道筋を立ててほしい」と訴える。

 オバマ大統領の広島訪問について、岡村さんは「核廃絶に向けた一歩。被爆者が原爆の恐ろしさを長年訴えてきた成果だ」としながら、「セレモニーで終わってはいけない」と強調する。「重要なことは、核廃絶に向けて、訪問した後に何をするかだ」


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2016/5/25

『読売新聞』広島版にインタビュー記事掲載  掲載雑誌・新聞

2016年5月25日付『読売新聞』広島県版に、“被爆者の痛み 想像を”との見出しで、インタビュー記事が掲載されました。

先日、広島に出張した際に、偶然、以前取材していただいたことのある松本裕平記者から電話をいただき、広島総局にうかがってインタビューをしたものです。

以下は、記事からの一部抜粋。

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 オバマ大統領には、被爆者の痛みを想像してほしい。原爆ドーム、慰霊碑、資料館に並ぶ遺品……広島という場所には想像させる力があります。核兵器は国と国のパワーバランスのための道具ではなく、人間の命の問題だと考え方を変えてもらいたい。原爆を落とされた人々の視線で核兵器に向き合うことが、自身で掲げた「核なき世界」を実現するための第一歩になるはずです。

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丁寧に記事をまとめて下さった松本記者に感謝です。どうもありがとうございました。
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2016/5/22

長崎県教育文化会館所蔵の原爆の図《母子像》  作品・資料

すっかり遅くなってしまいましたが、4月に俳優の岡崎弥保さんから御教示頂いた、長崎にあるもうひとつの《原爆の図》についての報告です。

昨夏の「知られざる原爆の図展」で紹介できなかったのが本当に残念なのですが、長崎県教育文化会館の2階ロビーに、原爆の図《母子像》が常設展示されているそうです。
丸木美術館関連の画集や資料には一切掲載されていなかったため、これまでまったく気づきませんでした。

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制作は1985年夏。大きさは縦横2メートルほど。
丸木夫妻の画業の中でこの絵がどのような意味を持つのかと言われると、すぐには位置づけられないのですが、実はジャン・ユンカーマン監督の映画『劫火―ヒロシマからの旅』の中に、この絵の制作風景が何度も登場しているのです。

画面右にうずくまっている男性は丸木位里さん。パンツ一枚でモデルになる姿が、映画に収められています。
画面左端の中央で地面に丸くなって寝ころびながらこちらを見ている少年は、俊さんが囲炉裏で服を焼いて、手でもみほぐし、黒焦げになった服を着せるという印象的なシーンで登場します。
画面上部でお尻を出してうつぶせに寝そべる若者は、90年代なかばから丸木美術館の事務局長を務めたSさんの息子のJさん。今も丸木美術館にかかわってくれています。
この作品が描かれた経緯を、2000年3月20日付『ながさき教育新聞』に、平山惠昭さんが詳しく記しています。
平山さんは当時公立中学校教諭で、長崎市同和教育研究会の事務局長を兼務。春陽会に所属していた画家でもあるようです。

記事によれば、まず、1984年8月8日から12日まで「原爆の図」長崎展が市民会館で開かれ、このときに第15部《長崎》を長崎市国際文化会館(現・長崎原爆資料館)に寄贈するという話が持ち上がったそうです。
実際、《長崎》は半年後の1985年2月1日に正式に寄贈されるのですが、長崎でもう一枚絵を描きたいという丸木夫妻の意向と、ぜひ描いてほしいという「長崎展」実行委員の思いが重なり、同年12月に丸木夫妻は長崎を再訪。40日余りを稲佐町の平山さんの家で過ごし、大作を描くことになりました。それが、現在はブルガリア国立美術館に所蔵されている《地獄の図》です。
映画『劫火』のオープニングには、平山家で制作をする丸木夫妻の姿が映し出されています。
完成した《地獄の図》は、1985年1月29日に長崎の悟真寺で披露。記者会見の様子も映画に収められました。
この《地獄の図》制作中に、当時の県教組委員長の近藤禮司氏が丸木夫妻のもとを訪ね、県教組のために一枚《原爆の図》を描いてほしいと依頼したそうで、埼玉の東松山に帰宅してから描いたのが、今回の《母子像》というわけです。

丸木夫妻が晩年に手がけた外伝的な《原爆の図》のいくつかは、公式の画集や刊行物に掲載されていないので、これからもどこかに収められている絵が掘り起こされることがあるかもしれません。
次回長崎に足を運んだときには、この《母子像》を訪ねてみたいと思っています。
ご教示くださった岡崎さんをはじめ、資料を提供してくださった長崎の関係者の皆さまに、心から御礼を申し上げます。
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2016/5/21

アーサー・ビナードさん紙芝居打ち合わせ  来客・取材

朝から詩人のアーサー・ビナードさん、童心社編集部のNさんとカメラマンが来館され、《原爆の図》をもとにした紙芝居の打ち合わせと追加の作品写真撮影などを行いました。
写真は、打ち合わせの後で、某テレビ局の取材を受けるアーサーさん。

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刊行が遅れている紙芝居のタイトルは、『やわらかい はだ』から『ちっちゃな こえ』に変更になったようです。
今回は紙芝居にするため、《原爆の図》に大幅な修正を施しているのですが、その状況を確かめるということもあって、アーサーさんみずから実演して下さいました。
個人的な感想としては、以前に見たよりずっと良くなっているものの、できればもう少し粘って、さらに練り上げていった方が良いかなという感じです。
せっかくアーサーさんが《原爆の図》に挑むのだから、もっと高く飛び上がって、思わぬ方向にひっくり返ってから、着地してほしい……。
いえ、言うのは簡単ですし、自分も書き上げなければならない仕事をまとめきれずにいるのですが。
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2016/5/20

ポレポレ座「水はみどろの宮」原画展  他館企画など

午後から渋谷のNHK放送センターで行われたさいたま局視聴者委員の会議に出席し、帰りに東中野のポレポレ坐で開催中の山福朱実さん『水はみどろの宮』挿絵原画展に立ち寄ってきました。

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石牟礼道子さんの紡ぎ出した人間と自然の魂の交感の物語に、「親子二代の縁」でつながる山福朱実さんの幻想的な版画が命を吹き込んでいます。
土や水の匂いが漂ってくるような世界の中に、ぽつりと一艘の舟が浮かんでいる版画があって、丸木夫妻が《水俣の図》を描くときに石牟礼さんが水俣を案内されたことを思い出し、きっと三人は、こんな舟に乗って、生者と死者の世界を自在に往来しているのだろうなと幻想を抱いて、とても気に入りました。

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気がつくと、7階から本橋成一さんとスタッフのOさん、Nさんがドヤドヤと下りて来られて、この日納品されたばかりという立派なIZU PHOTO MUSEUMの「本橋成一展」図録を手渡され、なんだか自分までが「サークル村に片足を突っ込んだような」嬉しい気分になるのでした。
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2016/5/17

【広島・山口出張4日目】四國五郎アトリエ調査  調査・旅行・出張

近現代史研究者Kさん、広島大学Kさんとともに、一日がかりで四國五郎アトリエ調査を行いました。
6月25日から9月24日まで予定している「四國五郎展」のための調査です。

峠三吉の私家版『原爆詩集』(1951年)の表紙絵や絵本『おこりじぞう』(1979年)の挿絵を手がけるなど、広島で生涯をかけて「反戦平和」を見つめながら表現活動を続けた画家・四國五郎(1924〜2014)。

昨年は旧日本銀行広島支店で市民の手によって大規模な回顧展が開催されました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2492.html

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画像は、四國五郎の自画像(1967年)。

1944年に徴兵されてシベリア抑留を体験し、1948年の帰還後は峠三吉らとともにサークル誌『われらの詩』の刊行や、反戦詩と絵を一枚の紙に描いて街頭に貼ってまわる「辻詩」の活動を展開。
1950年10月、丸木夫妻の《原爆の図》全国巡回の出発点となった広島での展覧会を支えたのも、峠三吉や四國五郎ら「われらの詩の会」の仲間でした。
その後も「広島平和美術展」を組織・運営しながら、原爆や母子像をテーマにした絵画や絵本を描き続けるなど、生涯をかけて「平和」への思いを貫きました。

夏の展覧会では、シベリア抑留時代のスケッチから、被爆死した弟の日記、峠三吉や丸木夫妻との交流を示す資料、辻詩、絵画、絵本原画などを紹介し、四國五郎の遺した幅広い表現とその意味を振り返ります。

四國五郎のご子息のHさんの尽力により、展覧会開催に向けて、米国の歴史学者ジョン・ダワーさんからのメッセージも届きました。

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When Hiroshima and Nagasaki were bombed in August 1945,
the United States was the only country that possessed nuclear weapons.
Now there are nine "nuclear-weapons nations," and soon there may be more.
Japan could even be among them--a terrible thought,
but no longer impossible to contemplate.

We must never forget the militarism that led to Hiroshima,
the tragedy of those who were killed, the suffering and grief of those who survived.
And the passionate antiwar artwork of Shikoku Goro is a brilliant--indeed,
indispensable--way of remembering.

Shikoku Goro's great contribution lies in his ability to convey,
at one and the same time, not just nuclear horror, but also the opposite of this.
His art sets life against death, love against hate, hope against fear.

Ten years ago, on the 60th anniversary of the end of the war,
I was moved to present some of Shikoku Goro's work in an online project at my university,
Massachusetts Institute of Technology.
Today, he speaks to me--and to all of us--more powerfully and urgently than ever.


「原爆の図丸木美術館」に常設されている丸木位里・赤松俊夫妻の「原爆の図」と一緒に四國五郎の作品が展示されるのは、なんともすばらしい機会である。

この三人の作品は、単に1945年8月に日本に投下された原爆の恐ろしさを思い起こさせるだけではない。戦争と平和がいかに絡み合っているかということを作品を観る者の心にうったえてくるし、創造性豊かな三人の作品から私が個人的に受ける忘れがたい印象は、美と創造性と平和、さらには人間の命の大切さの深淵な確認ということである。

私は、1980年代に、丸木美術館を幾度も訪ねたが、それが丸木夫妻に関する英語の本とドキュメンタリー映画製作へとつながった。広島・長崎原爆投下60周年にあたる2005年には、四國五郎の見事な絵で描かれた被爆者証言を、当時私が勤めていたマサチューセッツ工科大学の援助で運営するネットサイトに載せることができた。日本の丸木夫妻と四國五郎の作品には、他には類がない密接な関連性が見られる。三人の作品は、核戦争というものがいったいどんなものなのかを世界中の人々に思い起こさせる上で、特別な力強さを持っている。

私の祖国である米国でも、また日本でも、軍国主義が再び台頭しつつある今、四國五郎と丸木夫妻の芸術作品は、今まで以上に緊迫性をもって私たち一人一人に語りかけてくる。
 2016年3月21日
 ジョン・ダワー(マサチューセッツ工科大学名誉教授)
 翻訳:田中利幸(歴史学者)


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丸木夫妻の仕事と共通点も多く、また、実際に深い交流もあった四國五郎の残した仕事を紹介できる貴重な機会を、今から本当に楽しみにしています。
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2016/5/16

【山口・広島出張3日目】平安堂梅坪にて浜崎左髪子作品調査  調査・旅行・出張

午前中に広島へ移動して、午後は取材を一本受けた後、近現代史研究者Kさんと老舗和菓子店・平安堂梅坪本社へ、浜崎左髪子(さはつし)の絵を見に伺いました。

浜崎左髪子は、丸木位里の友人だった日本画家。生まれは1912年2月15日というので、丸木俊とわずか4日違い。位里とは11歳差になります。
ハワイ・ヒロ市の生まれというので、当時広島では珍しくなかったハワイ移民の息子(位里の父も一時期ハワイに行っていました)なのでしょう。

丸木夫妻との関わりで言えば、1949年の戦後最初の広島県美展の審査員をつとめ、丸木スマの絵を出品して入選させたそうですし、1950年10月の広島での「原爆の図展」の際には、当初繁華街で開きたいと言った丸木夫妻の希望を受けて、中国新聞社や福屋に掛け合ったようです。戦前は南画風の絵を描いており、反骨精神のある人だったというので、位里とは気があったのだと思います。

左髪子は平安堂梅坪の先代の会長と同郷の大河(広島市南区)出身という縁もあり、女学校の美術教師を務めた後に、社員のような扱いを受けて平安堂梅坪のロゴや包装紙のデザインなどを手がけました。そのため、本社には絵画やスケッチ類、絵馬、絵付け皿などが大量に残されています。
今回は、平安堂梅坪の従業員でブログ「浜崎左髪子と広島」を運営されているSさんからお誘いを頂き、丸木俊が描いた先代会長夫人のデッサンもあるというので、出張のついでに足を運んだのでした。

戦前の作品はもっぱら焼けてしまったようですが、繊細な描写のデッサンは残されていました。
戦後は厚塗りの油彩のような作風を積極的に取り入れ、シュルレアリスムやキュビズムの影響を受けたと思われる作品もあります。

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本社2階の廊下に展示されていたシュルレアリスム風の《蝶》や、1階玄関わきに展示されていた金箔の下地の上に厚塗りの顔料を重ねた《朝の海》などは、西洋の表現を取り入れた戦後の新しい日本画の流れを感じさせるものでした。

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本人が残したスクラップ帖も残されていて、それを見ると林武の絵の切り抜きがあり、同行のKさんは「ああ、やはりこの厚塗りの花の絵は林武の影響なのね」と納得の様子。
今回の調査では見られませんでしたが、左髪子は原爆スラムを描いた《スラム街》(広島県立美術館蔵)や、原爆ドームを題材にした作品も残しています。
作品のほとんどに制作年が記されていないのが残念ですが、新しい日本画を模索した実験的な表現や、ユーモラスな世相批判など、見どころの多い画家でした。
丸木位里と同時代の広島には興味深い画家が多いですが、一部を除いて、なかなか画業が紹介されていないのが残念なところ。
限定500部とはいえ、左髪子は画集が存在しているだけ恵まれているのかもしれません。

当初、われわれの訪問に戸惑い気味だった会長さんからは、最後には原爆投下当日に風邪で休んで生き残った広島一中の生徒だったという体験談を聞かせて頂いた上に、お土産まで頂戴してしまいました。
会長さん、そして、お誘いいただいたSさんに、心から御礼を申し上げます。
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2016/5/15

【山口・広島出張2日目】原爆文学研究会/中原中也記念館/YCAMシネマ  調査・旅行・出張

午前中は山口大学にて原爆文学研究会総会。
会員アンケートをもとに、今後の研究会の方向性を話し合いました。
一部の会員の方からは、学会としてより方向性を明確にした方がいいという意見が出ていたようです。その一方で、古くからの会員のなかには、初期の大らかさが失われつつあるという懸念もあるということを知りました。
個人的には、研究者のみの学会になるのではなく、幅広い関心・立場の人びとが参加できる会の方針に惹かれているので、今後も適度にオープンな居心地のよい会であって欲しいと思いました。

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午後は、研究会の世話人でもあるN館長のいる中原中也記念館へ。
企画展は「DADA ツァラそして中也 1916→1923」
今年はダダイズム誕生から100年ということで、中也が受けた影響から、ウルトラマンの怪獣ダダまで、幅広く紹介されている内容でした。

さらに山口県立美術館へ行こうと思ったのですが、途中で山口情報芸術センターを見つけて、予定を変更。YCAMシネマにて映画を観ることにしました。
贋作画家マーク・ランディスの素顔に迫る『美術館を手玉にとった男』と、2013年10月のバンクシーのニューヨーク滞在を記録した『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』の2本です。

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『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』は期待通りの作品でしたが、それ以上に『美術館を手玉にとった男』が予想外の面白さでした。
邦題は内容とズレがあり、「手玉にとった」というよりは、大真面目に贋作絵画を全米20州46館の美術館に寄贈し続けた統合失調症の男性のドキュメンタリ。
もちろん寄贈時には虚偽の来歴を語るのですが、本人には悪意がなく、自らの行為を「慈善活動」と呼びます。金銭を騙し取っていたわけではないから、当初はFBIまで捜査に乗り出したものの、結局、罪には問われなかったようです。

ホームセンターで入手できる素材やカラーコピーなどを駆使して、古今の多様なアート作品を、美術館学芸員も気がつかないほど精巧に作り込みます。
制作過程から発表方法までの独創的な行為はアートと呼べそうな気もしますが、肝心の作品だけがオリジナリティを持っていません。
映画の中でも、「あなた自身の絵を描きなさい」と良心的に忠告する人が現れます。しかし、仮にオリジナルの絵を描いたとすれば、その途端に、彼は平凡なアーティストの一人になってしまうでしょう。

何より彼は、模写にこそ創作意欲を感じているようです。だから事実が発覚した後も贋作を続けます。それが経済的、芸術的価値を持とうが持つまいが、どうやらあまり関係がありません。その意味では、彼の作品はアール・ブリュットのようでもあります。

「これはアートではない」と言われてしまいそうな、アートとそうでないものの境界にある営みに惹かれる自分にとっては、触るものすべてを黄金にしてしまうようなバンクシーの活躍とあわせて観たせいか、何とも心に沁みる切ない映画なのでした。
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2016/5/14

【山口・広島出張初日】第50回原爆文学研究会  調査・旅行・出張

朝一番の飛行機に乗って、山口宇部空港へ。
山口大学で開催される第50回原爆文学研究会に参加するため、新山口駅から“貴婦人”の異名をとるC57形蒸気機関車1号機「SLやまぐち号」に乗って、湯田温泉駅へ。

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山口大学大学会館にて行われた研究会では、昨年11月に新宿書房より刊行した『《原爆の図》全国巡回』の書評会をやって頂きました。

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評者は東村岳史さん。丁寧に読み込んで頂いて、本当にありがたい限りです。
提示された論点は、大まかに整理をすると、以下の4点でした。

@巡回展の「祝祭性を帯びた」不思議な魅力と観客の反応について・・・ヨシダ・ヨシエが多くの観客のなかに見出したという「恥じらい」とは何か。
A時期と場所、観客の多様性による反応の違い・・・丸木夫妻はタイプの異なる〈他者〉といかに向き合い交信することができたのか。
B同時代における意味の再考と今日的意義・・・巡回展の盛衰を文化運動として内在的に説明することは可能か。観衆参加型の巡回展に、今日的意義は見出せないか。
C巡回展が果たした社会的機能・・・「精神安定装置」として戦争の記憶を枠にはめ、思考停止に導いたという批判は成立するのか。

さらに「同時代であれ今日であれ、“精神不安定装置”として機能しなければ、《原爆の図》の存在意義はないのではないか」というTさんの発言をはじめに、さまざまな質問が時間いっぱいまで続きました。
たしかに1950年代の巡回展には、戦争を悲劇的に記憶する「精神安定装置」という一面が表れていたように思いますし、それは今も続いているのかもしれません。

丸木夫妻の画業を全体的に見れば、1970年以後の共同制作は、それまでの視点の反省から「精神不安定装置」としての性格を強めていくのですが、それらの作品の評価は、初期作品には及びません。それが絵画的な問題なのか、思想的な問題で評価に結びつかないのかは、少し丁寧に考えたいところです。
また、それでは初期作品は「精神安定装置」的な性格しかないのかといえば、もちろんそうではなく、そこに、ヨシダさんの見た「恥じらい」の意味の解釈がかかわってくるのかもしれません。
Kさんによる、本来見るべきものではないものを見るという狼狽こそが「恥じらい」の意味であり、それを呼び覚ます点において「精神不安定装置」たりえたという指摘には、考える道すじを示された思いがしました。
ともあれ、《原爆の図》については、すでに神話化され、定まっていると思われがちな枠組みを疑い、問い直しつつ再構築する作業を常に続けていくことが重要なのでしょう。

もうひとつの書評は村上陽子さんの『出来事の残照ー原爆文学と沖縄文学』
広島・長崎の原爆と沖縄戦という、これまでつなげて論じられることがありそうでなかった領域を、バランスのよい構成から共通の問題意識を浮かび上がらせる素晴らしい一冊なのですが、そこに容赦なく切り込んで批評していくスリリングな応酬に、文学研究という枠を超えて、大きな示唆を受けました。

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新緑の美しい季節。川の流れも穏やかで、山口はとても景色の良いところでした。
夜は湯田温泉の居酒屋で研究会の皆さんと懇親会。
午前3時起きだった私は、1次会のみで失礼しました。
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