2016/4/30

【沖縄旅行初日】沖縄県立博物館・美術館「宮良瑛子展」シンポジウム  講演・発表

沖縄県立博物館・美術館にて開催中のニューコレクション・シリーズ1「宮良瑛子展―いのち」の関連シンポジウムに参加しました。

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第1部「宮良瑛子をめぐる二つの場所から」では、はじめに宮良さんと、「最初に絵を認めてくれた」という画廊沖縄の上原誠勇さんが対談。
続いて、岡村が2014年に丸木美術館で開催した「宮良瑛子展 沖縄―愛と平和と―」についての報告を行いました。

第2部のパネルディスカッションでは、「宮良瑛子と沖縄」と題して、宮良さん、上原さん、岡村とともに、沖縄女流美術家協会の後輩画家である山川さやかさんが加わり、担当学芸員の豊見山愛さんがコーディネーターを務めて下さいました。

「沖縄の男性美術家たちが中央の美術団体に流れ込み、モダニズム一辺倒だった時代に、宮良さんはまわりの動きに惑わされずに女性としての自分の目で社会の動きの全体像をとらえていた」と語る上原さん。沖縄美術界の現場に長年立ち会い続けてこられた上原さんの言葉には重みがあります。

そうした状況のなかで、東京から来た宮良さんが、沖縄発の美術のプラットホームを整備しようと苦闘してきたというのも不思議なようですが、「越境者」だからこそ見えたものもあるのでしょう。
外からの目で沖縄を見つめながら、沖縄に根を下ろして外の世界を見つめる視線も育んだ宮良さん。
めまぐるしく変化する20世紀の美術の動向のなかで、「自分はこうするより仕方がない」とみずから選びとった主題と表現を粘り強く深めてこられた仕事が、こうしてまとまって公立の美術館に収蔵され、県民の財産として残されていくことは、激動の時代の記録という点でも、沖縄にとって重要な意味を持つことでしょう。
豊見山さんをはじめ、尽力された美術館の方々の見識に敬意を表します。

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新収蔵品をふくむ約30点の作品と年譜で宮良さんの画業の軌跡をふりかえる展示は、とても見応えのある素晴らしいものです。
宮良さんは「会場が立派過ぎて私の絵が落ち着かない。丸木美術館の展示の方がよく見えた」と何度もおっしゃっていましたが・・・これには苦笑するしかありませんでした。
展覧会は10月16日まで。
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2016/4/27

一橋大学「平和と文化」講義  講演・発表

午前中に国立市の一橋大学へ。

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鵜飼哲先生の授業「平和と文化」で、1950年代の《原爆の図》巡回展についての講義をしました。
去年のアメリカ展の報告も最後に少しばかり。
この授業は、350人ほどの受講生のいる人気授業らしく、今日は、もちろん全員が出席していないにもかかわらず、椅子に座りきれずに立ち見が出るほど。授業の後に感想カードをひと通り読ませてもらいましたが「教室変えて欲しい」と書いている学生がいて、それはそうだなと、ちょっと笑ってしまいました。

少し意外だったのは、「原爆については知っているつもりだったが、絵があるというのは知らなかった」という感想が案外多かったこと。
講義の前に「原爆の図を知っていますか?」と質問したところ、挙手したのはわずか数人でした。
昨年のアメリカ展などで、あれほどメディアに取り上げてもらったのに、若い世代には、その情報がほとんど届いていなかったという事実に、軽い衝撃を受けました。
それは、私たちの呼びかけが、いかに本来《原爆の図》に理解のある世代などに偏っていたかを示しているのかもしれません。

学生たちは講義や映像には強い関心を寄せてくれたようで、「丸木美術館に行ってみたい」という感想もかなりありました。
国立からはそんなに遠くないので、みなさん、本当に絵を見に来て下さいね。
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2016/4/24

『毎日新聞』兵庫版にて寺沢京子さんが丸木美術館紹介  掲載雑誌・新聞

Fメール「丸木美術館を訪れて」寺沢京子さん
 ―2016年4月24日『毎日新聞』兵庫版

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神戸YWCAの寺沢京子さんが、コラムを書いて下さいました。
寺沢さんは詩人で、原爆文学研究会の会員でもあります。
実は、初めて館外で講演に呼んで頂いたのが神戸YWCAで、2007年1月のことでした。
http://www.kobe.ywca.or.jp/katudou/heiwa/kibanwokannaeru-houkoku.htm

寺沢さんとはそれ以来のお付き合いになりますが、いつも本当にお世話になっています。
ご紹介くださって、本当にありがとうございました。
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2016/4/23

第2回「1950年代 幻灯上映会」  イベント

午後2時から、「1950年代 幻灯上映会」。昨年の好評を受けて、今年もまた企画しました。
映画より安価で比較的容易に製作・上映できるメディアとして、1950年代文化運動を牽引した幻灯。たんに上映を楽しむばかりではなく、貴重な歴史的資料を掘り起こすという意味でも非常に興味深い企画です。

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おかげさまで会場は今年もほぼ満席。
上映作品は、『ピカドン 広島原爆物語』、『ゆるがぬ平和を―8.6原水爆禁止世界大会記録―』、『せんぷりせんじが笑った!』の3本だて。活動弁士の片岡一郎さんの口演という豪華版でした。

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『ピカドン 広島原爆物語』は、絵本をもとにしながら、モノトーンの原画に手彩色でカラー化したもの。丸木夫妻の絵のカラー化としては、もちろんもっとも早い映像です。安価でカラー化できるというのも幻灯の特徴だったのです。

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『ゆるがぬ平和を―8.6原水爆禁止世界大会記録―』は、記録映画が製作されなかった第1回大会の様子を伝える貴重な映像。当時の原水禁運動の熱気の高まりを伝えます。

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そしてメイン作品の『せんぷりせんじが笑った!』は、美術担当の勢満雄、撮影担当の菊池利夫が、ともに満州映画協会に技術者として入社し、後にその設備と人材を引き継いで設立された東北電影公司で働いたという経歴をもっているそうです。独特のリアリティを感じさせる隆々とした肉体美の人形には、新中国のリアリズムが流れ込んでいるのですね。

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この日は、勢さん、菊池さんのお子さんが来場されたほか、満映に勤務されていたという90代の女性もおいでになり、貴重な証言や写真も披露して下さいました。
旧満州国から1950年代の文化運動の連続性を考えるという意味でも、意義の大きな企画であったと思いました。

本来、幻灯はふつうの市民が上映を行い、素朴な語りのもとで行われることが多かったのですが、『せんぷりせんじ』のようなドラマ性のある作品は、プロの活動弁士の卓越した話芸が、物語に生き生きとした活気をもたらすのだということも実感しました。

毎回充実した企画を考えて下さる鷲谷花さんはじめ、ご協力下さった皆さまに感謝。
今回もたいへん好評だったので、また企画していきたいと思います。
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2016/4/22

第41回木村伊兵衛写真賞授賞式  館外展・関連企画

午後6時から、如水会館にて行われた新井卓さんの第41回木村伊兵衛写真賞式に出席しました。

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「写真界の芥川賞」とも呼ばれる、たいへん栄誉ある賞です。
新井さんは2012年夏に、丸木美術館で個展を開催して下さっていますが、今回は、そのときの出品作も収録されている写真集『MONUMENTS』が認められての受賞となりました。

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審査員の石内都さんが、「最初から、今年の受賞者は新井さんしかいない、と強く推していた」とおっしゃっていましたが、それは本当に無敵の援護射撃だったことでしょう。

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新井さん、石内さんを囲んだ第五福竜丸展示館の山村さん、安田さんも歓喜の笑顔です。

実は数日前に、新井さんから授賞式の祝辞を頼まれました。
正直なところ、去年の原爆の図アメリカ展のボストンやニューヨークの講演よりも、ずっと緊張していたので、無事に務め終えてほっとしています。
以下、その全文を掲載しておきます。
新井さん、本当におめでとうございます。今後のさらなる活躍を期待しています。

   *   *   *

新井卓さん、このたびは、木村伊兵衛写真賞受賞、本当におめでとうございます。

わたしがはじめて新井さんの作品を見たのは、三軒茶屋のKENという小さな地下のスペースでした。シャーレの中の「死の灰」、つまり第五福竜丸に降り注いだ放射性降下物を、ダゲレオタイプで撮影した作品です。

この写真を撮影したのは、2011年3月11日の午後だったと聞きました。
東日本大震災が起きたその時間に、ちょうど撮影に取り組んでいたということです。
その震災が福島第一原発事故を引き起こし、新井さんは核と人間の問題を追い続けることになるのですから、今思えば重要かつ運命的なエピソードでした。

デジタル技術が進化を極める時代にあって、あえて銀板を磨き上げて、手間のかかる作業をみずからに課していることにも共感しました。
何より、その丹念な手わざから生み出された映像の神秘的な輝きに、強く心を惹かれました。
目を凝らして見ようと近づけば儚く消えてしまう、現実でありながら幻想のような、鏡の中の淡い影。
それがわたしには錬金術師の秘術のようにも思われて、その後も新井さんの展覧会を追い続け、丸木美術館でも個展を開催しました。

あれから5年の歳月が過ぎました。
第五福竜丸、福島、そして広島、長崎、米国トリニティ・サイト。
新井さんは、人間と核の歴史に出会い直し、記憶する旅を続けています。

芸術には、究極の美や先鋭的な表現を拓くだけでなく、目の前の現実の奥にひそむ「芸術的真実」を探求し、人びとの前に示す役割があります。

飯館村の野に咲いた白いヤマユリ、あまりにきっかりと11時2分を指したままの長崎の時計、広島市上空の高度570メートルに輝く太陽。そして多焦点のつらなりから浮かび上がる第五福竜丸、原爆ドーム……
昨年秋に刊行された写真集『MONUMENTS』には、新井さんが旅の先々で拾い集めた、秘儀の啓示が収められています。
時間の経過による忘却や、消滅にあらがうための「極小のモニュメント」です。

古来より、人は、大切な記憶をつなぎとめ、世代を超えて伝え残すために、さまざまな工夫を凝らしてきました。
それは壁画や絵巻であったり、口承の叙事詩や民潭であったりしました。

残念なことに、70年前、人類は禁断の扉を開いてしまいました。
その結果、地球上のあらゆる生き物が、否応なく、核の脅威と隣り合わせに生きる時代が到来しました。

この痛みと悲しみを、私たちは、記憶に刻みこまなければなりません。
なぜなら、過去の記憶は、未来の予兆となるからです。
だからこそ、忘却をいざなう力もまた、根強く、手ごわい。
忘却にあらがうための「モニュメント」は、美しく、したたかでなければなりません。

例えをあげれば、丸木位里・丸木俊夫妻の《原爆の図》。
ベン・シャーンの《ラッキードラゴン・シリーズ》。
そして林光の紡ぎ出した巧みな旋律に乗って歌われる、原民喜の詩のように。
新井さんのダゲレオタイプも、そうした美しくしたたかな表現の系譜に連なります。

彼が選び取った道は、険しく、長く、果てしなく続いていくことでしょう。
必ずしも、報われることの多い仕事ではないかもしれません。
だからこそ今は、この木村伊兵衛写真賞という最高峰の栄誉が授けられたことを、心から喜びたいと思います。

ダゲレオタイピストに祝福を。
真実を求める者に、幸いあれ。
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2016/4/22

座・高円寺RingBong公演・ナオナカムラ「笹久保伸展」  他館企画など

午後2時から、座・高円寺にてRing Bong第6回公演「名も知らぬ遠き島より」を観ました。

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脚本は文学座の山谷典子さん。2012年以来の再演ですが、日本劇作家協会プログラムに選ばれたそうで、会場が大きくなりました。

現代の東京の病院と敗戦後の中国牡丹江の旧日本軍病院を、行きつ戻りつしながら進んでいく物語。
劇中ではふたつの異なる時代を対比していますが、決して「戦争」と「平和」の対比ではありません。
むしろ両者の共通項を抽出しつつ、国家に翻弄される理不尽や生きることの罪深さを描き出しています。だからこそ、命をつなぐよろこびを実感するラストシーンが胸に深く響きます。
2012年の公演のとき、初めて山谷さんの作品を観て感銘を受けたことを思い出しました。以後、毎年、RingBongの公演には注目しています。
昨年の公演は、丸木美術館をモデルにした作品「闇のうつつに 我は我かは」でした。
来年はまた、描き下ろしの戯曲のようなので、楽しみですね。

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座・高円寺の後は、同じ高円寺のナオナカムラへ。
26日まで笹久保伸の個展「秩父前衛派」を開催中です。

ギタリストである笹久保伸は、近年、武甲山を中心に秩父の複雑かつ根源的な歴史を掘り起こしながら、映画や写真を撮影しています。
瀬戸内国際芸術祭にも作品を発表するなど、その活動は現代美術界からも注目を集めています。

今回の展示は、瀬戸内のドキュメント映像、秩父の写真に加え、図形楽譜のシリーズなど視覚表現ばかりですが、個人的には秩父に伝わる仕事歌を掘り起こし、ラジカルに命を吹き込んだ2014年のアルバム『秩父遥拝』に衝撃を受けました。
そのとき、丸木美術館でもコンサートをして下さっています。

縁のある若い表現者たちが活躍していくのは、とても嬉しいことですね。
これからも、どんどん活動の場を広げて下さい。
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2016/4/21

ギャラリー古藤「風しもの村原画展」トーク  講演・発表

午後7時から、ギャラリー古藤の「貝原浩 風しもの村原画展」でギャラリートークを行いました。

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前日のトークが講談師の神田香織さん、翌日が詩人のアーサー・ビナードさんという豪華ゲストだったので、あまり人も来ないだろうと思っていたのですが……雨の中、わざわざご来場下さった大勢の皆さまに、心から感謝です。

トークでは、3.11後に緊急企画として最初に行った展覧会が「風しもの村」で、5月の個人月間入場者数が、21世紀ではいまだにそのときが最多である、ということから話しはじめました。
その体験が、やがて「非核芸術案内」をまとめる契機になったこと。
絵と言葉の絶妙な構成による異時同図の絵巻の、風合いのある紙と丹念な写実描写が、最先端の科学技術の破綻と対局をなしていること。
そして、「抵抗の芸術」の系譜と核被害を民譚として記憶することの意味。
だいたい、そんな感じのことを話しました。

トークの前に、「丸木美術館に来たことがありますか?」と会場の皆さんに質問をしたことろ、ほぼ全員の方が手を上げて下さいました。そういう場所はなかなかないので、嬉しく思いました。
持参した『非核芸術案内』も完売に近い売り上げでした。

トークの後は、近くの中華料理店で打ち上げ。楽しい時間を過ごしました。
トーク後半に聞き手をつとめて下さった平井玄さんはじめ、お世話になったスタッフの皆様に、御礼を申し上げます。
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2016/4/20

原爆の図再制作版のための「下図」  企画展

先日、国立民族学博物館の「夷酋列像展」を見ていて、ふと、ずっと以前に収蔵庫の中で、丸木夫妻の遺族のH子さんに不思議な《原爆の図》をちらりと見せて頂いたことを思い出しました。
それは、無彩色の線描のみの《原爆の図》でした。

もしかすると、あのとき見せてもらったのは《原爆の図》の下図ではなかったか、と今さらながら思いいたり、今日はさっそくH子さんにお願いして、収蔵庫から出してきてもらいました。

すると……やはり、それは《原爆の図》の下図でした。

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あの頃はまだ、「模写」についてよく理解していなかったのかもしれません。
覚え書きがあったこともまったく記憶になかったのですが、今回よく見てみると、たしかに、三部作を模写する際に描いた下図であることを丸木俊が書き記していました。

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薄紙を原本の上に重ねて、墨でなぞったと思われる三部作の下図。
第一部《幽霊》の最初の妊婦像だけは、線描の上から墨も流されています。

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原本をなぞったにもかかわらず、やはり部分によって線の緊張感には違いがあって、「ここは俊さんが描いた」「こっちは別の人」と、H子さんといっしょに見比べました。

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きっと再制作版は、この下図の上にまた紙を重ねて、写しとっていったのでしょう。
もっと早くに気づいていれば、「原爆の図はふたつあるのか」展でも下図を紹介できたのに……と悔やみつつ、今からでも遅くはないと思い直して、急きょ、展示ケースの中に置くことにしました。

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というわけで、ごく一部だけの展示ですが、第3部《水》の母子像の部分を公開しています。
これは、間違いなく初公開となる、とても貴重な資料でしょう。
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2016/4/18

広島県北部にて丸木位里の絵馬調査  調査・旅行・出張

朝から、広島県安芸太田町の松原地区にて、県内の美術館学芸員Nさんと、地元新聞記者Nさんとともに、若き日の丸木位里の絵馬調査を行いました。

まずは地元郷土史研究会のS会長に案内されて、松原大歳神社へ。
そこには「昭和四年十一月」との日付のある、ヤマトタケル東征と楠木正成・正行父子の桜井の別れを描いた絵馬がありました。
大きさは絵馬が縦76.5cm、横153cm、額寸が縦106.5cm、横182cm。

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位里は円山四条派の画家・田中頼璋の画塾に学び、前年の1928年には景勝地・三段峡の黒淵を描いて県美展に初入選しています。
しかし、これらの絵馬は頼璋門下の画風と言うより、もっと通俗的な武者絵で、地元の支援者によろこばれる題材を選んで描いたのでしょう。

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使っている絵具は、岩絵具ではなく、もっぱら泥絵具か、ペンキのような合成樹脂系の絵具を使用しているとN学芸員。保存状態は非常に良く、色彩も驚くほどきれいです。

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この頃、位里は故郷の太田川流域で友人の家を転々と居候しており、この絵馬も、近くの光明寺の副住職であった浄謙哲信の世話で神社に奉納されています。
後年の位里はほとんど人間を描いていませんが、この絵馬では丁寧に人間を描いているのが新鮮に感じられます。
もっとも、細部の描写の大らかさには、後の位里の絵画の片りんも少しだけ感じられます。

実は、太田川流域の神社には、ほかにもスサノオノミコトや神功皇后、佐々木盛綱などを題材にした位里の絵馬が残っています。
まだ画家としての独自の表現を確立する前の絵画ですが、いずれまとめてじっくりと調査したいと思っています。

   *   *   *

その後、大歳神社の隣にある廃校になった2階建て木造校舎の旧松原小学校も見せてもらいました。位里が絵馬を描いたのと同じ、1929年建築の立派な校舎です。

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校舎は解体が取り沙汰されており、起死回生の策として、丸木位里の展示施設として再生させることはできないかと相談を受けましたが、なかなか簡単な話ではありません。

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最後に、位里が短期間暮らしていたという光明寺の庫裏の2階の部屋も見せて頂きました。
「位里さんはお金のない時代に、ここで勉強に励んで立派な画家に育っていった」とのこと。
この寺もまた、先代亡き後は住職不在なのです。

若き日の位里の足跡をたどりながら、噂には聞いていた中国地方山間部の過疎化の現実を目の当たりにする一日になってしまいました。
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2016/4/17

国立民族学博物館「夷酋列像展」  他館企画など

大阪の国立民族学博物館で「夷酋列像展」を見ました。
フランス・ブザンソン美術館蔵の原本の展示が19日までなので、たいへんな混雑を覚悟していたのですが、なぜか観客は数人で、落ち着いてじっくり見ることができました。

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この「夷酋列像」は、クナシリ・メナシの戦いというアイヌの反乱の鎮圧に協力した首長12人の肖像で、作者は松前藩家老で画家の蠣崎波響。
松前藩の搾取に耐えかねて蜂起したアイヌの首謀者を、和解のあとに捕まえて皆殺しにし、和解に尽力した首長を函館に呼び出そうとして拒まれるなど、収奪する側とされる側の複雑な関係も背景にあります。
松前藩がアイヌを制御していることを全国にPRするために描かれたという肖像画ですが、しかし、非常に丹念で美しく、独自性のある描写で、完成度は高いです。

首長たちが出頭しなかったため、「実写」というより、西洋画の影響や中国の関羽像など既存の表現を転用しながら創作したようだが、当時から高く評価され、画家自身も含めて、いくつもの粉本・模写が制作されました。
今回の展示は、原本11点(1点欠落)を軸に、模写版の系譜や関連する人物に加え、実物の衣服や道具、地図などの世界観を多角的に紹介する博物館ならではの内容。

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そしてこの博物館で見逃してはならないのが、レストランの「食」体験です。
特別メニューのオハウセット(「オハウ」とは汁物の意)は、鮭を使った煮込み料理と「コロコニ」(フキ)の煮物、「アマム」(きびご飯)というアイヌ料理をベースにした健康的なメニューでした。

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いまはちょうど《原爆の図》の原本と模写の関係性について考えているときだったので、《夷酋列像》の展示を見ながら、「芸術」が輸入される近代以前においては、作者自身も含めて、絵画を模写して複数制作することに何の抵抗もなかったのだという当然の事実に、あらためて目が開かれる思いがしました。

若き日の丸木位里は、江戸期の伝統を受け継ぐ円山四条派の田中頼璋の弟子で、散々師匠の絵の模写をしていたから、重要な絵の「写し」をとっておくという発想は、自然なものだったのでしょう。

再制作版の《原爆の図》三部作が展示された際に、「ピカソの《ゲルニカ》が傑作だからといって、模写して展示することがあるだろうか」と批判されたという話も伝わりますが、どうやら現在の芸術の文脈とはまったく別な問題として考えた方が良さそうです。
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2016/4/15

『毎日新聞』コラム「布施広の地球議」  掲載雑誌・新聞

2016年4月15日付『毎日新聞』朝刊コラム「布施広の地球議」に《原爆の図》が紹介されました。

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記事全文はこちらから読むことができます。
http://mainichi.jp/articles/20160415/ddm/007/070/039000c

広島で行われたG7外相会合にあわせて、広島平和記念資料館と《原爆の図》を結びつけて考えるコラムです。

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 丸木美術館の学芸員、岡村幸宣さん(41)の話が印象深かった。彼が会った米国人の映画監督はこう語ったという。広島や長崎の資料館などを見て回ったが、人間の顔が抜け落ちていると感じた。「原爆の図」を目にした時、初めて被爆者の顔を見たように思った、と。

 同感である。遺品などは確かに貴重だが、資料の羅列だけでは現実を語れない。丸木夫妻は、人間がしたことを人間として受け止め、人間の感性と知性を通して、惨状を芸術の域に昇華させた。だから絵の前に立つ人々は、画家の表現力と自分の想像力を両翼として、71年前の世界に羽ばたけるのだと思う。


=====

このように私の話を紹介して下さっていますが、その「米国人の映画監督」とは、ジャン・ユンカーマンさん。丸木夫妻の記録映画『劫火―ヒロシマからの旅』を製作・監督し、アカデミー賞にもノミネートされた監督です。

わざわざ美術館に足を運んで下さった編集委員の布施広さんに、心より御礼を申し上げます。
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2016/4/14

沖縄「宮良瑛子展―いのち」とシンポジウムのお知らせ  講演・発表

4月26日より10月16日まで沖縄県立博物館・美術館の美術館コレクションギャラリーにて、ニューコレクション・シリーズ「宮良瑛子展―いのち」が開催されます。

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沖縄の女性美術家の先達である久場とよ、山元文子、戦争をはじめとする社会的主題を描いた儀間比呂志の作品もあわせて紹介されるそうです。

関連企画として、4月30日(土)午後2時から、同館講堂にてシンポジウムが行われます。
宮良さんご本人が登壇されるほか、宮良さんの絵画活動を支えてこられた画廊経営者の上原誠勇さん、沖縄女流美術家協会の後輩である山川さやかさんとともに、岡村も2014年に丸木美術館で開催した「宮良瑛子展 沖縄―愛と平和と―」の報告を行います。定員200名、参加無料。

写真は、お送り頂いた展覧会カタログの表紙より。
本日、宮良瑛子さんからお電話いただき、たいへんお元気そうな様子で嬉しく思いました。
またお会いできるのが楽しみです。
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2016/4/10

企画展展示替え  企画展

たいへん好評だった「POST 3.11」、「牧場」が閉幕し、今日は展示替え作業日。
午前中は作家さんたちが撤去作業を行いました。

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ちょうど桜が散りはじめて、外の風景はとても幻想的。
「POST3.11」の作家さんたちに記念写真に収まってもらいました。
左から、白濱万亀さん、白濱雅也さん、安藤栄作さん、半谷学さん、横湯久美さん、石塚雅子さんです。

その後、夕方までは、ボランティアの皆さんにお手伝いいただき、平和記念資料館所蔵の12点を含め、丸木夫妻による「原爆の図のためのデッサン」98点の展示作業。
夕方の閉館時間過ぎにようやく展示が終わりましたが、とにかく圧巻です。
ボランティアの皆さん、本当にお疲れさまでした。

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丸木美術館所蔵のデッサン全点展示は、実は私も今回が初めてです。
四國五郎旧蔵のデッサン2点を広島のアトリエからお借りしてくれば、ちょうど100点だったと、今さらながら少し後悔しました。
会期は6月18日まで。
《原爆の図》の原点を知る展示。2階の再制作版の展示と合わせて、どうぞ、お見逃しなく。
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2016/4/9

東京新聞「戦後の地層」取材班編 『戦後の地層 もう戦争はないと思っていました』  書籍

東京新聞社会部デスクの早川由紀美さんよりご恵贈頂きました。

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新刊の『戦後の地層 もう戦争はないと思っていました』(東京新聞「戦後の地層」取材班編、現代思潮新社)。東京新聞の大型連載をまとめた書籍です。
どうもありがとうございます。

実は早川さんは、2012年に核をテーマにした芸術の新聞連載を提案して下さった、つまり『非核芸術案内』の生みの親でもあります。
「丸木だらけの本です」とのメモがついていましたが、確かに、ここ数年取材していただいた記事が収録されていて、懐かしい気持ちになりました。

書籍版は東京新聞の連載から大幅に加筆。漫才、国民服、生活図画、八紘一宇の搭、はだしのゲン、ハウステンボス、ちゃんぽん、タピオカ、キノコ、相馬野馬追など、ユニークな視点から「知られざる歴史の地下水脈」を掘り起こし、危うい時代への警鐘を鳴らす一冊です。
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2016/4/8

山代巴著『蕗のとう』寄贈  書籍

「大切にしてきた本ですが、そろそろ終活を考えるべき時になり、さまざま考えまして、お送りすることにいたしました」と、さる方からご寄贈頂いた一冊。

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山代巴著・赤松俊子装幀挿画『蕗のとう』(暁明社、1949年7月20日発行)。
実は丸木美術館にも蔵書がなかったので、たいへんありがたいものでした。

山代巴は俊さんの女子美術時代の同級生。
1987年8月6日『中国新聞』の富沢佐一記者の記事「ヒロシマ表現の軌跡」によれば、1947年頃に彼女が丸木夫妻のアトリエを訪れ、居合わせた雑誌編集者に紙切れに書いた小説を見てもらったことから作家としてデビューしたそうです。
「私は、刑務所での体験が絵で表現しにくかったことなどから、絵では挫折したけど、丸木さんはデッサンに熱心な努力家で、真っすぐな道を進んだんです」と当時のインタビューに答えています。
そのデビュー作が『蕗のとう』で、初出は1948年3月『大衆クラブ』第6号。
とはいえ、雑誌と単行本では文体もボリュームもずい分異なっているようです。

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俊さんの手がけた表紙、内扉の挿画もなかなか良いですね。

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