2016/3/31

富山妙子さんアトリエ訪問  調査・旅行・出張

ブルガリア出身の美術評論家・落合ゾーヤさんといっしょに、画家の富山妙子さんのアトリエを訪れました。

クリックすると元のサイズで表示します

94歳とは思えないほど、しっかりとお話し下さる富山さん。
長年、絵筆と言葉と行動で積み上げてきた知の厚みが迫ってくるようで、深く感銘を受けました。

クリックすると元のサイズで表示します

昨年4月には、ベルリンのnGbK「禁止とイメージ」展に作品が招待されたそうです。日本でほとんど紹介されなかったことが、とても残念だったとおっしゃっていました。

クリックすると元のサイズで表示します

こちらは、ゾーヤさんが撮って下さった富山さんとの記念写真。貴重な写真なのに、残念ながらブレていますね。
0

2016/3/26

「希望の牧場」吉沢正巳さん講演会  イベント

午後2時から、山内若菜展の関連企画として、福島県浪江町の「希望の牧場」吉沢正巳さんの講演会。
残念ながら来客多数のため、会場と事務所を行ったり来たりしながら、断片的にしかお話は聞けませんでした。

クリックすると元のサイズで表示します

13年前、私が丸木美術館に常勤で働きはじめてから、月ごとの入館者数の統計をとりはじめたのですが、今年3月の個人有料入館者数は、その間では最多記録。すでに記録を更新しているので、あと1週間でどこまで伸ばすか。
「牧場」展、「POST3.11」展ともに、出品作家の皆さんが広く宣伝して下さっているおかげです。おかげで日々受付や電話対応に追われ、事務所は嬉しい悲鳴をあげています。
企画としては大成功・・・と言いたいのですが、《原爆の図》も含めてそれぞれの展示が互いに調和をなしているかというと、やや飽和状態、ハレーションを起こしているようにも感じられるのが正直なところ。
とはいえ、この美術館で働く歳月の中で体感的に学んだのは、「平和」とは、誰もが同じ方向を向いて調和を目ざすのでは決してなく、むしろ混沌状態に対する理解と寛容なのではないか、ということ。
決して意図したわけではなく、なりゆきの中で期せずして、ですが、その意味では丸木美術館らしいような、さまざまな視線や思いが交錯する「3.11」から5年目の春です。
0

2016/3/25

森美術館「六本木クロッシング2016」  他館企画など

夕方、森美術館「六本木クロッシング2016:僕の身体、あなたの声」展のオープニング・レセプションへ。
20組のアーティストたちのまなざしを通して、歴史や身体、性、風景についての他者との関係性を描き出すという展覧会。

クリックすると元のサイズで表示します

展覧会のテーマを象徴しているのは、iPS細胞によって「将来可能になるかもしれない」という同性の遺伝子によって誕生する子どもをシュミレートした長谷川愛の作品かもしれません。
個人的に関心を引かれたのは、東日本大震災の記憶を、モノによって寓話風に語らせた山城大督のインスタレーション作品や、東アジアに横たわる植民地問題を過去の映像と新たなワークショップによって見つめなおす藤井光の映像作品、ジュン・ヤンによる『ヒロシマ・モナムール』へのオマージュなど、戦争などの歴史的記憶を呼び起こす作品が多く紹介されていたことでした。

内覧会では、愛知県美術館のS館長、東京造形大のK先生、O先生、東京藝術大学のM先生、それに作家の会田誠さんや岡田裕子さん、風間サチコさん、写真家の菊地智子さんら多くの方にお会いしました。
東京藝術大学のM先生が、「少し前では考えられなかったことだが、今の若い作家は、アートで政治的な問題を取り上げることに抵抗感が少ない。それだけ時代への危機感が大きいのだろう」とおっしゃっていましたが、まったく同感。
それが幸か不幸かはわかりませんが、現代の一断面を映し出している興味深い展覧会です。
0

2016/3/25

『中国新聞』コラム「緑地帯」に「「原爆の図」の旅」連載  執筆原稿

2016年3月24日より、『中国新聞』文化欄のコラム「緑地帯」に、「「原爆の図」の旅」と題する連載がはじまりました。
昨年のアメリカ展、そして1950年代の全国巡回展など、時代を往還しながら、《原爆の図》の長い旅路をたどります。

あまり新しいことは盛り込んでいませんが、広島でも決して《原爆の図》の認知度が高いわけではないので、ありがたい機会と思い、読み物風に書きました。

さっそく、広島の読者の方が記事を送って下さいました。

クリックすると元のサイズで表示します

連載は全8回続きます。
ヒロシマ平和メディアセンターのWEBサイトには、記事全文がアップされています。
第1回(3月24日) http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=58218
第2回(3月25日) http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=57585
第3回(3月26日) http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=57600
第4回(3月29日) http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=57693
第5回(3月30日) http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=57714
第6回(3月31日) http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=57740
第7回(4月1日) http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=57804
第8回(4月2日) http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=57842
0

2016/3/25

『週刊金曜日』に「光明の種 POST3.11」紹介  掲載雑誌・新聞

今週の『週刊金曜日』は、映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』公開にあわせて、バンクシー特集。

クリックすると元のサイズで表示します

そして、「美術」欄コラムには、フォトグラファーの薄井崇友さんが、丸木美術館で開催中の企画展「光明の種 POST 3.11」を紹介して下さっています。

 3.11から5年、この間多く見うけられた、被災地に向きあい苦しみや悲しみを癒すアートには一定の意味があったろう。しかし、この展覧会はそれらとは質を異にしている。

 震災・原発事故を時代の大きな分水嶺として捉え、私たちの生き方や世界の在り方に変化を求めている。それは未来に向け不可欠だ。その第一歩が、私たち一人ひとりの感性の変容であり、ここはその覚醒の場〈光明の種〉だと言えよう。


13年前、私が丸木美術館に常勤で働きはじめてから月ごとの入館者数の統計をとりはじめたのですが、今年の3月の個人有料入館者数は、その間では最多記録。
すでに記録を更新しているので、あと1週間でどこまで伸ばすか。

「光明の種 POST3.11」展、そして山内若菜展「牧場」ともに、出品作家の皆さんが広く宣伝して下さっているおかげです。
おかげで日々受付や電話対応に追われ、事務所は嬉しい悲鳴をあげています。
展覧会は4月9日(土)まで。
0

2016/3/24

『埼玉新聞』に「光明の種POST 3.11」展紹介  掲載雑誌・新聞

未来へ光 見つけて 芸術家5人 震災考える契機に
――2016年3月24日付『埼玉新聞』朝刊

クリックすると元のサイズで表示します

「直接被災したり震災と遠かったり、それぞれアプローチが違う5人が集まることで、五重奏のように奏でるものがある」
0

2016/3/20

ピースあいち「原爆の図展」ギャラリートーク  講演・発表

日曜日は日帰りで名古屋へ行き、ピースあいち「原爆の図展」ギャラリートーク。
展示中の第4部《虹》、第8部《救出》の作品解説と、去年のアメリカ展報告を合わせて1時間半ほど。

クリックすると元のサイズで表示します
(写真提供:ピースあいち)

ピースあいちは、10年前に名古屋の市民有志の力で開館した民設の平和博物館で、大勢のボランティアが関わりながら、充実した活動を続けています。

クリックすると元のサイズで表示します

野間美喜子館長や宮原大輔事務局長ら主力スタッフは、1986年に愛知県美術館で「原爆の図展」を開催した方々。
当時は新たな反核運動が世界的に隆盛し、市民による実行委員会形式で、全国各地で「原爆の図展」が開かれていたのです。

名古屋では、京都で「原爆の図展」開催した経験を持つ方が転居して来られたことをきっかけに、そのノウハウを生かして企画が立ち上がったそうです。
最大の難関は、愛知県美術館を借りることだったとか。素人の怖いもの知らずで、あの手この手の人脈を駆使して、何とか10日間借りることができたというのですが・・・現在の美術館の仕組みでは難しいかもしれないと思いながらも、楽しく思い出話を聞きました。
そうした歴史のひとつひとつの積み重ねが、今の《原爆の図》を支えているのですね。

クリックすると元のサイズで表示します

「なぜ3月に原爆の図展をやるのですか?」というメディアの問いに、野間館長は「3.11の後、私は真っ先に原爆の図を思い浮かべた。この絵を今の時代につなげるには、3月こそ相応しい」と答えたそうです。
そうした思いが生かされるのもまた、民設ならでは。
運営には苦労が絶えないようですが、「その代わりに自由がある!」との言葉に、こちらも励まされる思いがしました。

お世話になった丸山さんご夫妻、司会の乳井さんはじめ、スタッフの皆様に心から御礼を申し上げます。

追記:ピースあいちのメールマガジンに、丸山さんがレポートを書いて下さいました。
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201603/vol_76-14.html
1

2016/3/19

特別公開「原爆の図はふたつあるのか」  企画展

広島市現代美術館のご協力を得て、「原爆の図はふたつあるのか」と題する特別公開がはじまりました。
一見、いつもと同じような2階の常設展示室。
しかし、よく見ると第1部《幽霊》、第2部《火》、第3部《水》がそれぞれ「ふたつ」並んでいます。
ちょっと不自然な光景です。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

丸木夫妻は、1950年末頃に米国で《原爆の図》を展示したいとの依頼を受け、作品が紛失したときのためにと、当時アトリエに寄宿していた濱田善秀や若い画家とともに三部作を「模写」(再制作)しました。

結局、渡米直前に不安を感じて断りましたが、それらの作品(仮に「再制作版」と呼ぶことにします)はその後、《原爆の図》の全国巡回展が盛況になり、同時に複数の場所から依頼が来るようになると、「本作」と同様に各地で頻繁に展示されます。

《原爆の図》巡回展を手伝った大学生によると、作品がオリジナル(仮に「本作」と呼びます)と異なることに気づいた学生たちの間で、「再制作版」を展示することに対して、ちょっとした議論が起きていたそうです。「小説と違って画家は絵を印刷できないのが悩みだ」「ピカソが《ゲルニカ》を模写して展示するなんてありえない……」。
丸木俊も、「絵の前で冷汗を流しながら、言葉だけはだんだんはげしくなっていくのです。絵で感じられない感動を言葉で伝えようとするのでしょうか」と苦悩を記しています。

一時は、作者自身が「門外不出」にした時期もありましたが、1974年に丸木美術館栃木館(栃木県岩舟町)が開館すると、丸木夫妻は加筆し、「本作」と異なる独自の表現の《原爆の図》として栃木に送り出します。そして1996年の栃木館閉館にともない、「再制作版」は広島市現代美術館に寄贈されました。

従来知られる「本作」とともに《原爆の図》として扱われながらも、やがて異なる数奇な道を歩んだ「再制作版」。
もちろん巡回先では、「模写」や「再制作版」と断って展示したわけではありません。
当然、絵を観る人たちの反応も、「本作」とは変わりませんでした。

今回は、この「ふたつの原爆の図」をならべて比較するという、これまで試みられたことのない展示を行っています。
「本作」と同様の役割を果たした「再制作版」は、ただの“影武者”だったのでしょうか。
それとも「本作」とは別の、独立した作品なのでしょうか。

「原爆被害を伝える」という社会的使命を担った作品における「再制作」の意味とは何か。
「模写」を「加筆」した作品の、オリジナリティはどのように考えるべきなのか。
こうした問題は、たんに《原爆の図》だけにとどまらず、芸術表現の根源に迫る機会になるのかもしれません。

さらに、4月16日(土)からは第2部「原爆の図の周辺と1950年代」として、初期《原爆の図》制作の前後に描かれた丸木夫妻の人体デッサン(原爆の図丸木美術館と広島平和記念資料館所蔵)を展示します。また、当時の巡回展にかかわった峠三吉やヨシダ・ヨシエを描いた丸木俊の肖像スケッチをはじめ、峠三吉の『原爆詩集』のために俊が描いた未使用装幀原画(広島市中央図書館蔵)などの関連資料を紹介します。

また、第2部会期中を通して、1950年代はじめの《原爆の図》制作と全国巡回展の様子を記録した映画『原爆の図』(1953年公開、新星映画社、岩崎昶製作、今井正・青山通春監督、モノクロ17分)を上映します。

※5月中旬より、兵庫県立美術館への貸出のため、「本作」(丸木美術館蔵)の第1部《幽霊》は複製展示となります。どうぞご了承ください。
1

2016/3/18

NHKさいたま局FMラジオ「日刊さいたま〜ず」出演のお知らせ  TV・ラジオ放送

かれこれ6年ほど、3ヵ月に1回くらいのペースでゲスト出演しているNHKさいたま局のFMラジオ放送「日刊さいたま〜ず」

3月23日(水)午後6時からの放送で、内藤裕子アナウンサーとご一緒させて頂きます。
実は内藤アナウンサーとは2013年10月にお話しする予定があったのですが、わざわざ事前取材に来館して下さったにもかかわらず、放送前日の台風で彼女が徹夜勤務になり、急きょ担当キャスターが変更になってしまったのです。
それ以来、2年半ぶりの機会なので、今回は内藤アナウンサーにも《原爆の図》の印象をお聞きしようと思っています。
もちろん、メインの話題は企画展の「POST3.11」とアートスペース企画の「山内若菜展」の紹介。昨日、打ち合わせも終えました。

埼玉県内のみのFM放送なのでリスナーは限られているのですが、定期的に美術館の近況を話すことができる番組を、もう6年も続けて下さっていることは、本当にありがたいです。
番組立ち上げのときのキャスターは、もちろん、すでに全員が代替わりしています。それでも引き継いで声をかけて下さるというのは、このご時世に、なかなかないことだと思います。

あらためて、歴代のNHKさいたま局の皆さんに、心から感謝。
今回もまた、お世話になります。
0

2016/3/17

1956年12月原爆の図会津若松展資料  作品・資料

本日、ある方から、1956年12月8日−10日に行われた原爆の図会津若松展の資料が届きました。

クリックすると元のサイズで表示します

当時小学生だったという女性のスクラップで、展覧会の入場券とともに原爆の図の絵葉書も数点保存されています。
入場券には、「ヒロシマ・ナガサキの被爆者救援」の文字が。
そして第5部《少年少女》の姉妹像の木版画がデザインされています。版画の作者は不明です。
会場は若松女子高講堂。主催が記されていないのが不思議ですが、共催は会津若松市・同教育委員会事務局・同公民館・同小中高校長会・同PTA連合会・同婦人団体連絡協議会・教組北会支部・会津地区労・市青年団連絡協議会。

この時期、すでに《原爆の図》10部作は世界巡回に出発しており、国内展の資料はほとんど見つかっていないので、非常に貴重です。
実際には再制作版の三部作のみの展示だったと推測されますが、それも記録が残っているわけではありません。

大切な資料を保存し、そして提供して下さったことに、心から御礼を申し上げます。
1

2016/3/17

ピースあいち原爆の図展開幕  館外展・関連企画

愛知県名古屋市名東区のピースあいちにて、「原爆の図展」がはじまりました。
第4部《虹》、第8部《救出》を貸し出しています。
さっそく、地元の新聞社も記事にして下さっているようです。

「原爆の図」4年ぶり展示 核の脅威、愚かさ訴え
 ――2016年3月16日『読売新聞』愛知県版

クリックすると元のサイズで表示します

記事全文はこちらからご覧いただけます。
http://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20160315-OYTNT50167.html

また、ピースあいちのメールマガジン第75号には、熊本亮子さんが「「原爆の図」展を前に丸木美術館を訪ねて」という報告を書いて下さっています。

名古屋では4年ぶりの展示になります。多くの方にご来場いただけると良いですね。
20日(日)午後1からは、岡村がギャラリートークに出演します。
0

2016/3/16

第41回木村伊兵衛写真賞に新井卓さん!  分類なし

朝から、とても嬉しいニュースが飛び込んできました。

写真家の新井卓さんが、第41回木村伊兵衛写真賞を受賞されたというのです。
木村伊兵衛写真賞は、「写真界の芥川賞」とも呼ばれ、気鋭の若手写真家の優れた仕事を評価する日本の写真界を代表する賞です。

新井さんは、「3.11」を機に、福島や第五福竜丸、そして広島、長崎へと核被害の歴史をたどる取材を続け、昨年写真集『MONUMENTS』を刊行しました。
2012年夏には、丸木美術館で個展「福島からひろがる視線 MIRRORS HALF ASLEEP」も開催しています。

最初期の写真技法「ダゲレオタイプ」(銀板写真)で撮影を続ける彼の仕事は、時代に逆行しているようで、時代の流れに左右されない普遍的な問題を浮かび上がらせます。
そして、磨き上げられた銀板に写し出されるイメージの儚さ(自然光のもとでは、ほとんど鏡面にしか見えない)は、現実をなかば仮想世界の物語のように昇華させ、記憶に刻みこみます。

震災直後に三軒茶屋のKENで初めて彼の写真を見たときから、その優れた力量に惹かれてきた身としては、彼の仕事が高く評価されたことは、自分のことのように嬉しいです。
下の銀板写真は2013年1月16日、丸木美術館にて。向かって左が新井卓さんです。

クリックすると元のサイズで表示します
With Yukinori Okamura (curator), Maruki Gallery of Hiroshima Panels, Saitama,
00:05, 2013/01/16


2016年3月16日付『朝日新聞』朝刊「ひと」欄でも、新井さんの受賞が紹介されています。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12259494.html

本当に、おめでとうございます。
これからもますますのご活躍を、期待しています。
1

2016/3/12

「POST3.11」「山内若菜展」ギャラリートーク  イベント

午後2時より、現在開催中の企画展「POST3.11 光明の種」とアートスペースの山内若菜展「牧場」の合同ギャラリートークを行いました。
寒いなか、会場には60人を超える方々が集まって下さって、本当に嬉しいことでした。

クリックすると元のサイズで表示します

「3.11」後の世界に「光明」はあるのか、芸術家にできることは何か……
それぞれの作家の視点から、興味深い発言が続きました。

クリックすると元のサイズで表示します

お互いの作品を褒め合ったり、この場で何かしらの結論を出すというより、それぞれに持ち帰ってもらえるようなトークにしよう、と事前に白濱さんと話してはいたのですが、うまくできたかどうか。

クリックすると元のサイズで表示します

個人的には、「3.11」後には明らかに人と出会う機会が増えたし、丸木美術館が注目されることも多くなり、展覧会を希望する芸術家も後を絶たず、それは嬉しい変化だと思っています。
「芸術は社会性を持つものではない」という偏見から、少しは「自由」になれたかもしれない。

その一方で、社会全体を見ると、箍が外れたように「本音」の牙をむき出し、他者排斥、自己本位な経済優先に突き進む動きも激しく起きています。福島をはじめ、いたるところで亀裂が見える。これもまた「3.11」後の変化です。

いったい世界はどこに向かうのかと、希望と不安の交錯する「3.11」から5年後の現在地。
今回の企画展は、そうした問題を考えるための、ひとつの手がかりになるでしょうか。
毎朝、誰もいない静かな展覧会場をめぐりながら、私自身が考え続けています。
0

2016/3/8

【広島出張A】平和記念資料館見学、NHK名古屋局ラジオ出演  調査・旅行・出張

午前中は広島平和記念資料館へ行き、S館長のご厚意で、リニューアル中の新展示を案内して頂きました。
最新設備による映像が大幅に増えていて、単純に凄いと圧倒されます。
おそらく、これが世界の博物館の潮流なのでしょう。
一方で、それがどこまで人間的なリアリティにつながるのかは、慎重に見なければいけない、とも感じました。

クリックすると元のサイズで表示します

S館長に御礼を言って別れた後は、館内の展示を久しぶりに見て歩きました。
被爆人形のジオラマ展示は、このリニューアルを機に姿を消すことがすでに決まっています。
さまざまな意見はありますが、結果的に人間不在の流れが加速していくことは、少々寂しい気もします。

クリックすると元のサイズで表示します

本館下では発掘調査が行われており、被爆当時の地表部分から焼け焦げた生活用品などがまとまって出土したそうです。
今朝の『中国新聞』によれば、この地層を切り取り、樹脂で固めて保存展示することも決まったようです。
裏を返せば、何もかも覆い隠すように盛土をして「復興」を急いだということでもあります。
平和記念資料館は、その上に建設されました。人間不在は決して今はじまったことではないとも言えます。

* * *

広島出張の帰りに、NHK名古屋局に立ち寄って、ラジオ番組「夕刊ゴジらじ」に出演しました。
キャスターの石垣真帆さんは、同じスイミングスクールの出身で、さいたま局時代からたいへんお世話になっている友人です。

クリックすると元のサイズで表示します

写真は、前任地が広島局、その前が沖縄局だったという飯田アナウンサーと3人で。
来週15日からはじまるピースあいちの「原爆の図展」、しっかり宣伝させて頂きました。
0

2016/3/7

【広島出張@】四國五郎作品調査  調査・旅行・出張

朝一番の飛行機に乗って、広島で四國五郎の作品調査。
ご子息のHさん、武蔵大学のNさんにお話を伺いながら、ご自宅に残る絵を見せて頂きました。
なにしろ膨大な量の絵画やスケッチ類があるので、とてもすべてを見ることはできませんが、それでもいろいろと新しい発見があります。

みずからの作家性を証明するためでなく、記録し、伝え、周囲の人たちがそこに参加できるための場を整える。
四國の仕事は多岐にわたりますが、そこにひとすじの姿勢が貫かれていることに気づきました。
画家の仕事とは何か、と考えさせられます。

クリックすると元のサイズで表示します

写真は、シベリア抑留の際に、極秘に記録し続け、軍靴の中に隠し入れて日本に持ち帰った豆日記。

クリックすると元のサイズで表示します

帰国後の四國は、こうした記録をもとに、『わが青春の記録』として、手製本の絵入り日記をまとめています。

クリックすると元のサイズで表示します

朝鮮戦争下に、峠三吉とともに構想し、広島の街に貼って歩いた「辻詩」の貴重な現存物もありました。

クリックすると元のサイズで表示します

四國は後に「辻詩」の前でのストックホルム・アピールの署名の光景を回想して描いています。
彼らは「辻詩」を誰もが参加し、意思表示できる媒体として構想しましたが、占領下では現実には難しかったようです。しかし、この絵と文を一体にして伝えるというスタイルは、後に四國が指導して広げていく「市民が描いた原爆の絵」などの被爆の記憶継承活動へとつながります。

クリックすると元のサイズで表示します

弟の直登さんの日記も貴重なものです。写真は被爆体験を記した1945年8月7日の項。
彼は20日後に死亡するのですが、最後の力を振り絞って前日まで日記を記しています。
1948年にシベリアから帰国した四國は、泣きながら弟の肖像を描きます。そして1950年10月、丸木夫妻が広島・五流荘で原爆の図展を開催し、峠ら「われらの詩の会」の仲間とともに展覧会を手伝った際に、弟の日記を清書し、「4部、5部の参考にしてほしい」と丸木夫妻に手渡すのです。
日記には米兵捕虜を裸にして棒で殴る人びとの様子を目撃したことも記されており、(その証言だけを参考にしたわけではないかもしれませんが)丸木夫妻は第4部に米兵捕虜の姿を描いています。
そして後には、第13部に米兵捕虜の虐殺問題を描いていくことになるのです。

クリックすると元のサイズで表示します

ご自宅の庭には、大きな椿の花が咲いていました。絵や文章も多作ですが、大工仕事や玩具づくり、庭仕事など、あらゆるものをみずから作り出すことができる方だったそうです。
この花もまた、四國五郎の作品のひとつなのでしょう。

* * *

夜は中国新聞のD記者と待ち合わせて、横川シネマ近くのお好み焼き屋に行きました。
そこのおばちゃんがかつて、原爆ドーム南隣の五流荘に居住し、「ドブや」(濁酒を飲ませる店)をしていたというのです。

クリックすると元のサイズで表示します

古風で素朴な味のお好み焼きを食べながら、当時の話を聞きました。辻褄が合いそうで合わず、事実関係はもう少し検証が必要ですが、85歳の彼女は確かに「丸木夫妻の原爆の図展」を記憶していました。
五流荘は原爆ドームの南隣、現在、動員学徒慰霊塔が立っているあたりから元安川の間くらいに、戦後わずかな期間存在していましたが、資料が少なく、謎の多い建物です。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

聞き取りの後は、D記者とともに、武蔵大学のNさん、峠三吉や四國五郎の資料調査・保存活動を行っているIさんと居酒屋で合流し、夜更けまでたくさんの話を伺いました。
1



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ