2016/2/27

こたつde映画祭『ある精肉店のはなし』上映2回目  イベント

こたつde映画祭『ある精肉店のはなし』上映第2回目。
なんと今日は、上映後のこたつトークに、不在の纐纈監督に代わって、製作デスクの中植きさらさんが駆けつけてくれました。

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「本橋組」の層の厚さを感じさせる面白トーク。屠場見学経験のある方、屠場で働きたいという方、精肉業者の方、部落差別問題を学ぼうとしている方など、さまざまな意味で映画に関心を持つ方が参加して下さって、たいへん盛り上がりました。

すでに各地で上映会も行われているので、集客は少し心配だったのですが、「見逃していました!」と喜ばれる方も案外多く、つくづく企画者冥利に尽きました。

そして、「私戦と風景」展最終日でもあったこの日の有料入館者数は、2月のこの時期としては、例年の10倍近い数字を記録する信じられないほどの大盛況。
若い世代を中心に、大勢の人が見に来て下さいました。
個々の出品作家の作品を、「丸木美術館」という場所性とつなげて見てくれる感想もたびたび聞きました。

いままで丸木美術館を知りながら来るきっかけのなかった人たちには、「この美術館、案外面白い!」と思っていただけたのではないでしょうか。
来年以後も、冬場の(少々の実験が許される)時期に、若い世代の展覧会を試みていきたいと思っています。
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2016/2/18

青年劇場「あの夏の日」の皆さん来館  来客・取材

広島の高校生が原爆体験を聞いて油彩画に描くというプロジェクトを舞台化した「あの夏の絵」。
昨年末の公演では、私もアフタートークに参加しました。
そのとき出演された青年劇場の俳優の皆さんと、脚本の福山啓子さん、立教大学社会学部の小倉康嗣さん、そして文学座の山谷典子さんが来館して下さいました。

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高校生役を演じた若者たちも、寒いなか、時間をかけてとても丁寧に《原爆の図》を見て下さいました。わざわざ来て下さって、嬉しいですね。
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2016/2/14

IZU PHOTO MUSEUM 本橋成一写真展「在り処」  他館企画など

新幹線に乗って、IZU PHOTO MUSEUMではじまった本橋成一写真展「在り処」へ。

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初期の炭鉱からサーカス、上野駅、屠場、藝能東西、チェルノブイリ、アラヤシキへと続いてきた半世紀におよぶ写真家としての軌跡を紹介する見応えのある企画です。雄冬(1963年〜)、与論(1964年〜)といった初期の未発表作品も展示されていました。

「人々の生が息づく場をフィールドとし、社会の基底にある人間の営みの豊かさを写し出して」(企画展の紹介文より)きた本橋さんの姿勢は、出発点の筑豊で記録文学者・上野英信と出会い、影響を受けたことが大きいのでしょう。

展示室に紹介されていた、写真集『炭鉱』の上野英信の「まえがき」が、本橋さんの仕事の本質に迫っているようで心に残るものだったので、手もとにある初版写真集から抜き出します。

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私はいま、この写真集の主要な舞台の1つである筑豊のかたほとり、荒涼たる閉山部落の1棟に住んでいる。朽ちはてた無人の抗夫長屋を改造したばかりのその家に私をたずねて、はじめて本橋成一君があらわれたのは、1965年1月、はだら雪の凍てついた寒いゆうぐれどきであった。見るからにものほしげにカメラをかかえた人種が、まるで屍にたかるけだもののように、筑豊の廃鉱をくい荒らしてまわっているころのことだ。この未知の青年も、やはりそんな連中の1人にちがいない。どうせ二度とは縁のない人間だ。私はそう思って、ろくにかまいもしなかった。ところが、案に相違して、彼はねばりづよく筑豊に足を運びつづけた。そしてひどく無造作に極貧の炭鉱離職者の家庭に住みこんだり、山奥の盗掘の小ヤマにさがったり、かと思えばふらりと、離職者の吹きだまりである北九州工業地帯の労働下宿にもぐりこんだりした。やがてさらに、北海道の炭鉱まで足をのばすようになった。
こうして彼がこつこつと撮りためたヤマの記録を前にして、私はわれ知らず深い感慨に沈むのをどうすることもできない。


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こうした姿勢は、前日に上映した纐纈あや監督の映画にも受け継がれているのだろうと思います。

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関野吉晴さんと本橋さんのトークで印象に残ったのは、関野さんが「グレートジャーニー」でたどった人類の旅についての話でした。人類が世界各地に移り住んだのは、好奇心や冒険心によるものではなく、居場所を失い故郷を追われた立場の弱い「移民」の旅ではなかったかという話です。

本橋さんが「居心地が良い」と感じた場所でカメラを向けてきたのも、まさにそうした追われて移り住む立場の人びとの暮らしであったことを、あらためて考えました。

本橋さんは1980年代なかばに埼玉県東松山市に通い、撮りためた丸木夫妻の写真を『ふたりの画家』という写真集に発表しています。
丸木夫妻は「辛い、苦しい思いをした立場の人間を、美しく描きたい」と語っていますが、その思いは、本橋さんにも共感できるものだったのかもしれません。

展覧会は7月5日まで。
行きは暴風雨のち濃霧という悪天候でしたが、それでも行ってよかったと思える展覧会でした。
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2016/2/13

こたつde映画祭『ある精肉店のはなし』上映  イベント

午後2時より、丸木夫妻の旧アトリエ・小高文庫にて、こたつde映画祭『ある精肉店のはなし』上映。
小さな催しであるにもかかわらず、纐纈あや監督も来場して下さいました。

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命をいただいて生きるという重いテーマ、そこから切り離すことのできない差別の問題は、決して「新しい」題材ではないにもかかわらず、主人公家族の日常の豊かさが、新鮮な印象を残します。
思えば、前作『祝の島』も、原発問題を底流にしながら、島の人たちの生き生きとした姿を見つめる視線は共通していました。
どちらも、魅力的な人びと、そしてその場に溶け込んでいるであろう纐纈監督はじめスタッフの方々の信頼関係がなければ成立しない映画なのでしょう。

理不尽に翻弄され、怒り、抗し続けてきた人びとが、なぜこれほど豊かな日常を生きているのか。
北出精肉店の店主の新司さんが、映画の中で語る何気ない一言が心に残ります。
「(部落解放の運動は)まわりを変えることはもちろん大事なんだけど、それ以上に、自分を変えていくことが目的だったんだよね」
映画の奥に潜む、決して平坦ではない歳月が感じられるような言葉でした。
北出さん一家は、そのような姿勢で自分たちを作り変えてきたのだろう、と思います。

映画を見ながら、《原爆の図》の美術館で生きる者として、われわれの日常はどうだろうか、と考えさせられました。
大切なのは、何でもないような日々をどう生きるか、まずは自分を変えることができるのか、ということなのでしょう。

上映の後は、ざっくばらんなトークの時間を設けましたが、明るく質問に答える纐纈監督の言葉のひとつひとつが、すっかり鍛えられ、深い思想性をたたえていることに、少なからず驚きました。
纐纈監督もまた、映画を作り、各地で繰り返し語るという体験を通して、自分を作り変えているのだろうと思います。
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2016/2/8

《原爆の図》絵葉書2種  調査・旅行・出張

日曜日の研究会の日、大阪の国立民族学博物館に訪ねて来て下さった画家・四國五郎さんの息子のHさんに、お父さまの旧蔵の貴重な資料を見せて頂きました。

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ひとつは、1950年代前半と思われる《原爆の図》の写真絵葉書セット。
これは丸木美術館にも残っていないもので、初見です。
表紙に「国際平和文化賞受賞」とあるので、1952年の受賞記念で製作された可能性はありますが、製作年も発行元も明記されていません。

「丸木位里 赤松俊子 共作」とともに「詩 峠三吉」と併記してあるのは、この時期の丸木夫妻と峠三吉の親交の深さが伺えます。
1950年10月、峠三吉の主宰する詩サークル「われらの詩の会」は、丸木夫妻の広島での展覧会開催に尽力しました。それ以来、両者のあいだには深い友情が芽生えていたようです。

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同封された印刷物には、「原爆の図 詩 峠三吉」と記されていますが、そのほとんどは、赤松俊子(丸木俊)の文章のように見えます。
《原子野》は少し詩のようだけれども、この部分の作者が峠三吉ということでしょうか。
それとも、これまで丸木夫妻の作と思われていた《原爆の図》の絵解き文には、峠三吉も関わっているのでしょうか。これだけでは、よくわかりません。

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興味深いのは、裏面に記された筆記体の英文で、《原爆の図》をAtomic bombs pictureと訳していること。1953年の最初の世界巡回展のときには、すでにHiroshima Panelsという現在の訳になっていたはずですが、その以前の英訳は違っていたようです。
第2部《火》も現在はFireですが、このときはblazeになっています。

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肝心の絵葉書は全部で8枚。
《幽霊》、《火》、《水》の三部作が各2枚組で、《少年少女》の姉妹のクローズアップが1枚、そして何と、最後の1枚は「原爆1号」の吉川清の背中のケロイド写真です。

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吉川清も、1950年代の全国巡回展の際には、《原爆の図》の前で被爆証言をしていました。
原爆ドーム前にあった彼の店で売られていたという絵葉書は、このセットのことでしょうか。
その他に、峠三吉の「序」を日英文で印刷したカードも入っています。

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もうひと組の四國五郎旧蔵の原爆の図絵葉書は、1967年の丸木美術館開館記念に、地元東松山の文化拠点になっていた比企文化社が製作したもの。
丸木美術館にもどこかにあったはずです。

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まだ森林公園(1974年開園)ができる前なので、裏面の地図には「明治百年記念公園」(!)とあります。
当然、現在の最寄り駅の森林公園駅やつきのわ駅もできていません。
バイパス道路も通っていないので、旧道のみの地図になっています。

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比企文化社代表の大木友蔵氏の挨拶には、絵葉書の売上の一部が原爆被災者の見舞金になるとあり、文章の最後には“ささやかな「出版物」ですが、「全日本」に「全世界」に平和な「原子力」となりますよう「祈り」をこめて出版致します”とまとめられています。

後に「原子力の平和利用」すなわち原子力発電には反対する立場をとる丸木夫妻ですが、美術館開館当時は、まだ、「平和な原子力」が被爆者の「祈り」であるという、社会の雰囲気が残っていたのですね。
そのこともまた、忘れずにおかなければいけないと思います。
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2016/2/7

国立民族学博物館・共同研究会第2回  調査・旅行・出張

2月6日、7日と大阪の国立民族学博物館にて、共同研究会「放射線影響をめぐる「当事者性」に関する学際的研究」の第2回に参加しました。

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初日は、研究会の主宰者でもある中原聖乃さん(中京大学)「文化人類学が放射能汚染問題に果たす役割は何か?」という発表からはじまり、市田真理さん(東京都立第五福竜丸展示館)「第五福竜丸展示館の活動を通じた交流」聞間元さん(生協きたはま診療所)「ビキニ核実験被害の医学的考察――これまでの問題整理」という内容。

第五福竜丸の乗組員の「補償」をめぐる問題や、その他の漁船の乗組員の健康問題など、揺らぐ「当事者性」を博物館学芸員や医師の視点から浮き彫りにする興味深いプログラムでした。

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2日目は、午前中に西佳代さん(広島大学)「グアムの被ばく問題」の発表。太平洋核実験におけるグアムの研究はほとんどないそうで、貴重な先行研究とのこと。

そして午後からは、一般にもオープンの談話会で、中原聖乃さん(中京大学)「マーシャル諸島核実験被害地のいま」島明美さん(ふくみみラボ)「福島の生活と市民測定」青山道夫さん(福島大学環境放射能研究所)「海洋の人工放射能汚染の歴史――核実験および原子力発電所事故」という内容。

島さんは壷井明さんの絵画《無主物》の続編にも登場する伊達市の母親で、生活の中での放射能汚染の調査や問題点について報告して下さいました。

朝日新聞の連載「プロメテウスの罠」で注目を集めた青山さんの海洋放射能汚染のデータ収集分析は、やはり圧倒的に凄いものでした。
学会未発表の資料もあるので、外部秘を前提とする発表でしたが、地道な観測の蓄積が、いかに見えないものを可視化するかということが、とてもよく伝わってきました。

文化人類学を基軸にしながら、福島における市民との連携や科学的知見を織り込むという、共同研究会の意味が少しずつ見えてきた2日間。さて、自分はこの会で何ができるのか、これから考えていかなければなりません。

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研究会の後は、今夏の企画展に向けての打ち合わせを兼ねたお茶飲み会。
丸木夫妻と親交のあった広島の画家・四國五郎さんの息子のHさんや、アメリカ展でお世話になったA新聞の核問題担当T記者と情報交換をしながら、濃密な時を過ごしました。
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2016/2/6

『朝日新聞』にヨシダ・ヨシエ追悼記事掲載  掲載雑誌・新聞

惜別 ヨシダ・ヨシエさん 「原爆の図」背負って行脚
 ―2016年2月6日付『朝日新聞』夕刊

http://www.asahi.com/articles/DA3S12198201.html

1月4日に亡くなられた美術批評家のヨシダ・ヨシエさんの追悼記事が、朝日新聞に掲載されました。
執筆されたのは、さいたま局の清宮涼記者。
丸木俊の足跡をたどるなかで、昨秋、ヨシダさんに最後の取材をされた記者です。

朝日新聞社といえば、美術記者の田中三蔵さんがヨシダさんと親しく、「前衛バカ列伝」ではヨシダさんを大きく取り上げられていましたが、その田中さん亡き今、若い清宮さんが最後の取材にギリギリ間に合ったのも、何かの縁なのでしょう。

ヨシダさんが担った1950年代の《原爆の図》全国巡回展について、そのときの取材で聞いたコメントを「『おまえ、アカだろ』と何度も警察に呼び出された」と記しています。

70年代に『美術手帖』の編集長でヨシダさんに連載を依頼した福住治夫さんも、「正直でしかいられず、誤解されることもあったが、彼のように戦後の体験的な前衛史を書ける人は他にいなかった」とコメントをされています。
この連載で、ヨシダさんは若き日の全国巡回展の記憶を振り返ったのでした。

よくまとめられた良い記事でした。
あらためて、ヨシダさんへ追悼の念を。
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2016/2/5

『読売新聞』など、『「原爆の図」全国巡回』紹介記事掲載  掲載雑誌・新聞

1950年代初頭、「原爆の図」展覧会に170万人 丸木美術館学芸員が調査
 ―2016年2月5日付『読売新聞』夕刊

読売新聞広島支局の松本裕平記者が、年末に『「原爆の図」全国巡回』について取材して下さった記事が、西日本版に掲載されました。
(追記:2月8日朝刊には東日本版にも掲載)

http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20160205-OYO1T50014.html

美唄市の郷土史家・白戸仁康さんや、広島大学の川口隆行さんという調査協力をして下さった方々のコメントも掲載されているので、以下に後半部分を抜粋します。

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 中学3年だった52年1月、北海道美唄市で巡回展を見た同市の郷土史家・白戸仁康さん(79)は「原爆で多くの人が犠牲になったことは授業で知っていたが、具体的なことは当時よくわからなかった。人々がひしめく会場で皆が食い入るように絵を見た」と振り返る。

 巡回展は政治運動と結びつけて警戒され、GHQによる弾圧の危険もあった。

 51年4月に山形市で開かれた会場の責任者は占領軍当局から出頭を命じられ、開催の動機や見た人の感想などについて尋問を受けた。同11月の札幌市の会場では絵を見た人の「アメリカの民主主義を疑う」などと書かれた感想文のパネルが押収され、責任者が逮捕された。

 それでも全国で開催された点について、岡村さんは「思想や政治信条に関係なく、『原爆の図』を見て心動かされた一般の人々の熱意に支えられていたのだろう」と指摘。さらに「今は被爆者の高齢化や記憶の風化という新たな困難があるが、現在とまた違う困難があった時代に『伝えたい』と願った人々のエネルギーを感じ、思いをはせることは私たちの糧になるはずだ」と話す。

 原爆に関する作品や表現に詳しい川口隆行・広島大教育学部准教授は「巡回展が続いた50年代初頭は朝鮮戦争の時期。原爆使用の可能性も言われていた。新たな戦争が悲惨な記憶や関心を呼び起こしたという時代的背景もあっただろう。民衆の姿を浮かび上がらせる調査で、意義は大きい」とみる。


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丁寧に取材を重ねて下さった松本記者に感謝です。

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また、朝日新聞社のWEBサイト「三省堂書店×WEBRONZA 神保町の匠」では、大月書店の若手編集者・西浩孝さんが書評を執筆して下さっています。

http://webronza.asahi.com/culture/articles/2016010800004.html

編集者ならではの視点で、年表などを褒めて下さっています。
こちらも本当に嬉しいです。どうもありがとうございました。
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2016/2/3

手塚太加丸《土を掘って、土地を見て、場になる》  企画展

昨夜は、「私戦と風景」展の出品作家のひとりで、昨年末から丸木美術館の奥の竹林に小屋を建てて暮らしている手塚太加丸くんのところに泊めてもらいました。

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手塚くんは屋久島出身、沖縄在住のアーティスト。
小屋での暮らしは、手塚くんの《土を掘って、土地を見て、場になる》という作品の一環でもあります。
この作品、そして手塚くんのことをよく知るためには、一晩でもここで暮らさなければならないと、以前から思っていました。

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手塚くんのことを紹介するには、ご両親のことから書きはじめた方がよいでしょう。
彼のご両親は、美学校の最初期の生徒で、菊畑茂久馬さんに教えられていたそうです。
30年ほど前までは埼玉県の入間市に住んでいましたが、屋久島の白川山という廃村で里づくりをしていた、詩人の故・山尾三省さんの呼びかけを知り、移住。
彼は7人きょうだいの末っ子として屋久島で生まれました。

ガスもテレビもない、囲炉裏を囲んで暮らす生活の中で育った彼は、鹿児島の高校を卒業した後、沖縄県立芸術大学に進学します。
そして卒業後も沖縄に残り、那覇でシェアハウスやシェアアトリエを運営しながら、故郷の白川山で竹や木を使って人の集える場所を作り、夏のあいだそこで暮らすという「しらこがえり」というプロジェクトを行ってきました。
http://www.as-tetra.info/archives/2014/140531171735.html

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今回の企画で、丸木美術館のまわりで暮らしたい、と提案されたとき、はじめはよく意味が解らず、テントを張ってキャンプをするのかと思いました。
雪も降るかもしれないし、若者がこのあたりの冬の寒さを甘く見ているのであれば、ひどい目にあうだろうと思い、許可しつつも「何よりまず人命尊重」との約束をしたのです。

しかし、最初は正方形の小さな箱のようだった彼の小屋は、日を追うごとに“成長”し、大雪の後には屋根がつぶれないように三角形になり(彼が雪を見たのはほとんど初めてだったようです)、入口の前に床が張り出してドラム缶の囲炉裏ができ・・・といった具合に、いつのまにかすっかり家らしくなっていったのです。
もちろん、彼のそうした仕事には、屋久島育ちで培った無形の財産が生かされているに違いありません。

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彼は寡黙なので、美術館スタッフもどのように接していいかわからないまま、しばらくはただ遠巻きにしていました。
「気配があるから、今日は小屋にいるらしい」と、まるで野生の生き物を見ているように。

ひとつの転機になったのは、12月末の大掃除でした。
「手伝います」と自分から言い出した彼に、この後の忘年会も良かったら一緒にどうかと誘ったところ、嬉しそうについてきました。
ボランティアたちと初めて交流した彼は、やがて地元の材木屋を紹介され、小屋から働きに通って、結局、展示用の木材もほとんど無料で提供してもらったようです。
そして、地元ボランティアが焼酎を差し入れに持って来たり、全国から“救援物資”が次々と届いたり、彼の“場所”は少しずつ、不思議な磁力を持ちはじめたのです。

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実は彼が選んだ場所には、かつて丸木夫妻が竪穴式住居を建てていました。
しかし、長い間風雨にさらされ、ほとんど朽ち果てていたのです。
小屋を建てるために、彼はまず、朽ちた木材を片づけるところからはじめました。
土を掘ったら、丸木夫妻が焼いた土器の破片も出てきました。
そうした歴史の痕跡をたどりながら、彼はこの場所に再び命を吹き込んだのかもしれません。

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今回、彼は小屋で暮らすだけでなく、展示室に床を張り、部屋の中央に巨木を立てています。
一本柱のような巨木は、正面から見るとただの巨木ですが、横から見ると実は隙間だらけになっています。手塚くんによれば、これは床と外の小屋を結びつける存在であると同時に、協力してくれた製材所の置かれている(バブル崩壊後に多額の借金を背負った)窮状、日本の林業の現状を表しているそうです。

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いわゆる“展示”を作ったのは、彼にとって初体験とのこと。
もっとも、巨木はともかく、床を張るのが果たして“作品”なのかはよくわからないのですが、「床を張るの好きなんです。いいですよね、床・・・」とつぶやく彼に、「うん、いいよ、床・・・」と思わずうなずいてしまいました。
黙々と床を張り続ける彼の姿は、理屈抜きで見る人の心を打つものがあり、この間、多くの丸木美術館関係者を惹きつけているのです。

釘などをほとんど使わず、隙間なく並べられただけの床は、歩くと程よく揺らいで、その感触が心地よいです。部屋全体から漂ってくる木の香りにも、穏やかな気持ちにさせられます。
やはり手塚くんは、この室内の空間でも、みんなが展示をすることのできる場所づくりをしたのかもしれません。

その土地に場所をつくり、暮らし、人とかかわってみる、という彼のプロジェクトは、非常に興味深く、心を惹かれるものがあります。
これからも、あちこちの場所に、こうした家をつくって暮らしていくのでしょうか。
「問題なのは、これを作品と言っていいのか、よくわからないんですね。それが自分の課題です」
鍋をつつき、酒を飲み、そんな話をゆっくりしながら、深々と夜は更けていきました。
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